蜂谷さんと蝶野さん
「は、蜂谷さんってさ、ここにはよく来るの?」
わたしには蜂谷さんが眩しすぎて、隣に立つとつい瞼をおろしそうになる。
夕立のあとに掛かるあの幻燈のアーチ。朱いっぱいに湛える天光が洄游する雫に反射して作りだす、七つのうちでも淡く短い菫色のしっとりした髪。彼女の何もかもが目の前の風景と重なり溶け合いながらわたしの地平をゆっくりと傾けていく。いつだって遠くから眺めることしかできなかった彼女が、いま、わたしの肩越しに髪をなびかせている。
教室でも体育館でも水泳場でも。制服でも運動着でも水着でも。何処にいて何をしてどんな服を着ていても映える人。その言動の一挙手一投足に周りの誰もが視線を注ぎこんでしまうような人。2枚の凹面のガラスの向こうに佇むその人の肩を見つめていて、わたしは瞬間、時が止まったのを確かに感じた。教室でもこんな距離で接したことはなかった。
そんな蜂谷さんと、美術室で鉢合わせるなんて。
虚ろにたゆたう夏の午後の湿った風が肌に吸いついて奇妙な汗をかいてしまう。
「蝶野さんは? ここの常連さん?」
「た、たま―に、ね。 美術部無いから誰も使ってないし…。 ここ、東館の3階の教室だから、よく風が入ってきて気持ちいいんだ。 雨上がりの午後には今日みたいに大きな虹が見えることもあるし、雲ひとつない澄んだ蒼空のときはあの山の山頂の“世界樹”も見えるんだって…」
「ふぅん。 “世界樹”かぁ」
“世界樹”というのは、わたしたちの中学の裏手にある神代市の霊山、蜂ヶ岳の山頂に自生している大きなトネリコの木のことだ。北欧神話に登場する世界樹《イグドラシル》も同じ種類の大木だそうだけど、「蜂ヶ岳の世界樹」よりももっとずっと巨大に違いない。なにしろ神々の世界を支えて全宇宙を貫きそびえ、世界の命運を背負っているような木だ。
「なんか、大袈裟だよね。 この辺鄙な山間の、ちょっと他のよりも大きな木を“世界樹”だなんて。 せいぜい注連縄を張った御神木ってところが関の山なのに」
蜂谷さんはほころばせた顔をわたしの方に向けて、少し意地悪そうにそう言った。
「ねぇ知ってる? 学校のすぐ近くにも“世界樹”があるって話」と、唐突に蜂谷さん。
「え? そうなの?」わたしは思わず聞き返した。
「うん。 下の東通用門を出てまっすぐ行くと「蜂巣ノ池」があるでしょ? その付近の湿地に小さいトネリコの木がいくつかあって、そこに私の“世界樹”があるんだよ」
「蜂谷さんの?」
「そ」
「え、っと、その木を育ててるってこと?」
「そゆこと―」
蜂谷さんは世界樹の守り神(育ての神?)だった。ということは、その世界樹がいずれ大木化してこの街を覆うような木に成長したら、この街の鎮守の神にでもなるのだろうか。
「今からさ、その“世界樹”見に行かない? 暇だったらだけど」
蜂谷さんはやや昂揚した様子でわたしの目を覗き込む。予想だにしなかった急な展開で返答に窮してしまい、ついついどもりながら言葉を紡ぐ。
「え、あ、うん、今日暇だし、行ける…よ?」
「やったっ。 じゃあ行こう! 今すぐ!!」
わたしの手を取って走り出した蜂谷さんは、菫の髪を風に揺らし、これまで一度も見たことがないような屈託のなさで包まれた笑みを浮かべて、颯爽と校内を駆け抜けていく。
こうして、或る夏の日の白雨のあとの晴れ渡った朱の空のもとで、蜂谷さんとわたしの小さな小さな物語の扉が静かにひらいた。
最終更新:2012年07月13日 22:51