蜂巣湿地に蜂谷さんの“世界樹”はある。ただ一言で湿地にあると言っても、その湿地が広い。そのうえ、地面がぬかるんでいたり腐葉土だったりで、蜂谷さんはともかく慣れないわたしでは歩くのもままならない。泥がローファーの中に入ったり、散在する木の枝で肌を切ったりで気分はあっという間にどん底まで落ち込んだ。ただ、そんなわたしを見て、蜂谷さんは微笑みながら手を貸してくれたのは嬉しかった。見るたび思うのだが……彼女の笑顔は同性ですら、虜にしかねないほどに蠱惑的で、少しアブナイ感じがした。まあ、そのおかげで進むことができたのだけれど……。
目的地に着く前にほとんど日が沈みかけてしまっていて、蜂谷さんに申し訳ない気持ちになる。
「いいのよ。一人でも大体これくらいかかるから」
蜂谷さんは気にも留めていない様子だが、言葉の中身は嘘だろう。気を遣わせていると思うとますます罪悪感が大きくなる。わたしみたいな平凡な女子は、やはりお荷物にしかならないのだろうか……。返す言葉も思いつかず、俯いてしまう。
「こら。そんなに落ち込まないの。あ、見えてきたよ。私の樹」
蜂谷さんの声に私は顔を上げる。
そこは、湿地にしては珍しく木が密生していて薄暗かった。
「わぁ……」
思わすため息がもれた。
うねる木々の中心。朱い木漏れ日が二メートルほどのみずみずしい世界樹を照らしだしていた。まだまだ若木で注連縄もなにもなかったが、すでに御神木として十分な風格を漂わせており、周りのトネリコの木々とは一線を画している。その証拠だろうか、後光のような木漏れ日は世界樹にしか差していない。
(ってあれ……?)
それだけだろうか。
蜂谷さんの世界樹が”違う”のは。最も根本的に……
ぬかるみに足を盗られないように気を付けながら、私は木に近づく。
「気付いた?」
後ろから蜂谷さんの声。
「それ、トネリコじゃないんだよ」
なるほど。わたしが感じた違和感はそれだ。これだけたくさんの木があるのだ。いくらトネリコが多いとはいえ、全てがトネリコのはずがない。
「何の木なんだろう……」
葉を手に取って観察してみるが、草木に別段詳しくもないわたしでは正体がわかるはずもなかった。
「さあ……でもなんか日本の木って感じがするよね。どれ、帰ったら調べてみようか」
蜂谷さんも世界樹に近づいていき、細い枝を掴み、力を込める。
「な、何を……」
「持って帰るのよ。そうしないと調べようがない」
「いいの?」
「大丈夫大丈夫。これくらい野生の木にはかすり傷にもならないよ」
うろたえるわたしを安心させるように、蜂谷さんは優しい笑みを浮かべる……。これじゃわたしの木が折られるみたいだ。
パキリ。
小気味のいい音を立てて、ついに枝は木から離れた。
「ああ……」
何も悪いことをしていないのに枝を折られるなんて……少しかわいそうに思う。わたしは心の中で世界樹に謝った。
「さて今日はもういい時間だし、帰ろ? 次は休みの日に、お昼くらいに集合して……」
だがそこで蜂谷さんの言葉が止まる。
陽が落ちたのか、雲に隠れたのか、すぅ……と一気に辺りが暗くなる。背後に不穏な気配を感じ、わたしたちは振り返った。
その瞬間、背筋が凍りつく。
「な……、」
信じられないモノを視界にとらえてしまった。
大蛇だ。大蛇がいる。
丸太のように太い胴回り。長さは、わたしと蜂谷さんを足したって届かないだろう。アマゾンの奥地に潜んでいそうな巨大な蛇。だが……そもそも蛇と呼んでいいものか……。そう迷ってしまう程に容姿がグロテスク過ぎた。どろどろと絶えず腐り落ちていく肉。口から垂れ流れる唾液は柔らかな腐葉土を溶かしている。生気を感じさせない眼を不気味に光らせながら、薄闇より這ってくる様は、とてもこの世の生き物とは思えない。だからそんなものをあえて呼ぶのなら――――
悪魔。それが一番しっくりくる。
そんな悪魔が一匹ではなく数匹、わたしたちを取り囲んでいた。
「は、蜂谷さん……」
蜂谷さんは無言でわたしを背中にかばい、後ろ手にわたしの手を握りしめた。自分だって怖いだろうに。情けないことにわたしの首から下は完全に硬直してしまっていた。蛇に睨まれた蛙とはこのことか。
悪魔たちはじりじりと包囲網を狭め、獲物を追い詰めていく。握る力がぎゅっと強くなるのを感じた。
そして一匹が体を少し縮こまらせた後――――
「危ない!」
とてつもない勢いで飛び掛かってきた。
何かが折れる音と共に、視界が回転する。蜂谷さんがわたしを抱え込むように押し倒したと気付くのに少し時間がかかった。かわせたのは奇跡に等しい。顔に着いた泥を拭いながら上体を起こす。背後にあったせいで、攻撃を代わりに受けた世界樹が大きくくの字に曲がっているのが目に入った。パラパラと木片が剥がれ落ちていく。蜂谷さんが庇ってくれていなければ今頃は……。
冷たい汗が背筋を伝う。ラッキーは何度も続かない。次に襲われたら私たちは確実にミンチになる。
悪魔がゆっくりとこちらに向き直った。逃げ場はないかと首を巡らせ、直後絶望する。すでに何匹もの悪魔が飛び掛かる前動作に入っているのがわかったのだ。ぞくりと、私は迫りくる死を直感した。
そのとき――
「な、なに!?」
突然、碧の閃光が走った。
いったいどういうことか。正面。長い悪魔の背後。世界樹の前の中空にまばゆい光が浮かんでいる。あまりにもまぶしいので、顔をしかめるように目を細めると、その中に何かがいるのがわかった。
人の形をしている。
(天使……?)
それが最初の印象だった。わたしだけじゃなく、蜂谷さんも、もしかすると悪魔たちまでその存在に目を奪われたように見つめていた。
結果としてその推測は、笑い話にしかならないほどに的外れだったのだが。
光を弱めながら地上に降りてくるにつれ、徐々にその形が見てとれるようになる。そして地に足をつけるとともに、光が完全に消滅し、容貌が明らかになった。
それはおよそ天使からかけ離れていた。
漆黒の髪を持つ、十代後半ほどの青年。同じく黒の双眸はまるで黒曜石のように無感動な光を湛えている。闇のように深い緑の着物を着て、全体を見ると黒揚羽を連想させる。
だが何より特筆するべきは、その美しさだ。この世の何よりも優美で禍々しい顔立ち。時代からも、人間からも離れた風貌だった。
「さて……」
風鈴のように玲瓏な声が染みわたる。次に彼は周囲に首を巡らせた。悪魔たちの警戒は、いまや完全に闖入者の方に向けられている。それもそうだろう。彼からは何か“強い”存在感を感じる。無視などできるはずもない。
大蛇はチロチロと火のような舌をチラつかせ、今にも飛び掛からんといった様子だ。まさに一触即発だった。
「西の魔物……
ニーズヘッグとか言ったか。……僅かでも樹の力が弱るときを窺っていたわけだ……。それは果たして正解だったが、それでもこの程度の魔物では……」
青年は手のひらをかざす。すると彼が現れたときと同じ、碧の光が収束していき、弾ける。
「まるで障害にならない」
どこから取り出したのか。彼の手元には、禍々しく、巨大な鎌が握られていた。
それを合図に蛇が巨体を跳ねさせて襲いかかる。わたしでは目で追うのがやっとなほどの勢いだ。しかし青年はわずかに体を傾けるだけで回避し、さらにすれ違いざまに蛇の首を刈るという芸当をみせた。
「【嘲笑する虐殺者】が、笑わせる……」
どす黒い血が青年の端正な顔に血化粧を施す。その頬紅を、彼は長い舌で舐めとって薄く笑った。どうしようもなく恐ろしく、狂おしく、そして艶めかしい所作。
どちらが悪魔なのか、わからなくなるほどに。
恐怖も忘れ、私はただただその圧倒的な存在に魅入る。
「嘲笑するのはどちらか、その命を以て知るがいい」
気付けば化け物は一掃されていた。周囲には両断された大蛇の群れ。湿った地面がおびただしい量の血を吸い込んでいったが、それでも噎せかえる血のにおいが立ち込めていて吐き気を催す。この世の地獄を書いたような光景。
そんな死の中心で彼は佇んでいる。全身に返り血を浴びた悪魔の如き姿は、寒気がするほどおぞましく、そして人並はずれて美しい。
「まさかこうなるとは……もうこちらから攻める他ないか……」
青年はぶつぶつと独り言をつぶやいてから、かぶりを振った。
「ならば芽は、脅威に育つ前に刈るとしよう」
彼は鎌を一寸かまえる。それを大きく一回転させて、周囲を一薙ぎにした。
ゴウ、と一陣の烈風が巻き起こり、疾風の刃が周りの木々を切り刻む。トネリコの木が重い音を立てて倒れていくのを、わたしと蜂谷さんは縮こまりながら、互いに身を寄せあって眺めていた。
青年はおもむろにほとんど折れかかっている世界樹に向き直る。
「……やってくれたな」
そしてゆっくりと歩き出した。半月の刃から、鮮血がしたたり落ちる。まさかこの人……!
「だめ!」
何をしようとしているのか勘づいた蜂谷さんがはじけるように飛び出して、木と青年の間に割って入る。「危ない」と引き留める間もなかった。
「待って!」
「……」
青年はひどくつまらなさそうに蜂谷さんを見下ろす。
「この子は私が小さい時から育ててきたの」
青年は
「それで?」
と短く返した。さすがの蜂谷さんも少し面喰った。
「私、お母さんいないし、この子と一緒に育ってきてて……」
「それで?」
青年は同じ言葉で返す。よほど興味がないのだろう。話を聞いているのかも怪しい。それでも蜂谷さんは懸命に続ける。
「変な風に思われるかも知れないけど、家族みたいなものなの」
「だからそれで?」
いい加減に蜂谷さんも頭に来たようで、まなじりを決して青年に立ち向かう。
「あなた何様のつもり? 樹を切らないでって言ってるのよ」
青年はその言葉を鼻で嗤い、心底馬鹿にしたように冷たく微笑む。
「俺は神依」
青年は歌うように答える。
「この地の、世界樹を刈り殺しに来た」