ギムリアースのお話5

もともと、寒く乾燥した地方であるためか、ギムリアースには入浴という概念自体が希薄だ。

そのため、南方の諸国との交流によって入ってきた風呂というものを備えている家はあまり多くない。

長い冬の間、暖炉には欠かせない貴重な薪を一度に大量消費するため、
非効率な薪の消費の仕方だとギムリアースの民から敬遠されているのも普及が遅れている理由の一つだろう。

無論、クレスの家にも浴室などというものはない。

ただ、首都であるトレムレデールの街には少数ながらも公衆浴場が存在していた。

使用料金は少々高めだが、長く続く冬の間まったく体を洗わないというのも不潔であるという理由から、
主に女性や富裕層が利用している。

ボリスもそこへ向かっていた。

日は既に天頂にかかっているというのに、外は身を切るように寒い。分厚い服を着込んでいても、骨まで染み透ってくるようだ。

昼間だというのにこの寒さ。

ギムリアースの国は、毎年多くの旅人が死亡することで悪名高いが、その責任の大部分はこの凶悪な気候にある。

まるで皮膚に噛み付いてくるかのような寒さだ。

見れば石畳の小道に降った雪が凍りつき、それが太陽の熱で少し溶けて氷道になっているではないか。

片腕を失い、バランスをとるのが常人より難しくなっているボリスにとっては特に危険な状態だ。

滑って転倒すれば、容易には起き上がれない。

転ばないように上手く姿勢を調整しながらゆっくり歩いて行くと、見覚えのある場所に出た。

王宮前広場。

戦争前は市民の憩いの場であり、レヌリア軍が入城していた頃は公開処刑の場となり、そして今は商店が軒を連ねる市場となっている。

売り子の元気な呼び声と子供達のはしゃぎ回る歓声が広場のあちこちから聞こえ、ボリスは久しぶりに頬が緩むのを感じた。

この寒さの中で元気なものだ。

と、王宮の方から喧しい声が聞こえてきた。

どうも王宮から出てきた人間に、広場にいた人々が集まって何か言い立てているようだ。

聞き耳を立てていると、どうも非難を浴びせているらしい。

一体誰なのだろうと、そちらに向かってゆっくりと歩を進めた。

だが王宮から出てきた人物を見たとき、ボリスははたと立ち止まった。

さきほどまでの心楽しい気分は霧散し、顔が引きつっているのが自分でも分かる。

視線はその人物の顔を凝視したまま動かない。いや、動かせない。

あまりにも見覚えのあるその容貌。

遠目からでもよく分かる美男子ぶりは、一年前から何一つ変わっていなかった。

気が付けば、ボリスは残った方の拳を固く握りしめていた。

忘れるわけがなかった。

彼は、ボリスたちを統率する立場でありながら自分だけ後方の安全地帯に残った、卑怯者なのだから。

奴には後できっちりと仲間達の分まで借りを返させてもらおう。

「五体満足で生きていけると思うなよ、くそったれの旅団長どの。」

ボリスは暗く濁った眼で彼の顔をもう一度凝視すると、その場を立ち去っていった。





旅団長、と呼ばれている人物がいる。

読んで字の通り、ギムリアース国軍の高級将校だ。

ただ、彼は国軍の他の将官たちとはある一点に於いて違う。

彼は、かの義勇軍の司令官も務めているのだ。いや、正確には務めていたと言うべきか。

一年前に義勇軍が潰滅して以来、彼はその責任を取らされ僻地に左遷されていたが、昨月になってようやく許されて首都への帰還が叶ったのだった。

だが彼は軍上層部のこの仕打ちに大いに不満を抱いていた。

そもそも義勇軍の連中をレヌリア帝国に対して投入すること自体、自分は反対だったのだ。

正規軍でさえも正面から激突すれば敗北必至な帝国軍を、寄せ集めの義勇軍ごときがなんとかできる訳がない。

だが、大衆からの熱狂的な支持を受けた義勇軍を解散させることで生じるであろう
世論からの突き上げを恐れた上層部は、義勇軍に帝国への無差別攻撃を許した。

あろうことか正規軍にすらまだ配備されていない自律型の金属製ゴーレムまで与えて。

帝国に奪われた旧領土奪還の大義を掲げた義勇軍は勇んで祖国を出立したが、その結果は惨憺たるものだった。

自分が案じた通り、寄せ集めの義勇軍は帝国の精鋭とぶつかって為す術もなく全滅。

義勇軍が残した唯一の功名といえば、あのインペリアルガードの力量をはっきりと確かめられた事くらいだろう。

しかしその為に払った代償はかなり高くついた。

一万人の命と引き換えにして得たものがその程度なのだからお笑いだ。




順当な責任の所在から言えば、更迭されるのは自分ではなく、義勇軍創設を容認した軍上層部の連中の方であるはず。

それなのに何故自分が左遷されねばならなかったのか。

旅団長はその不満を、久しぶりに再会した同僚の将校であるバストーク少将にぶちまけていた。

「………なるほど。貴様の言うことにも確かに一理あるな。」

銀髪を短く刈り込んだ赤目の将官は、口に咥えたパイプから煙を吐きながら同情するように言った。

今、二人は安楽椅子に深く腰掛け、暖炉の方に足を向けてくつろいでいる。

「だろう?上層部の連中は責任を全て私に押しつけたのだ。
広場に出た途端に民衆から罵声を浴びせかけられたのもきっとそのせいだろう。一体どうなっている。」

同僚の発言に対して旅団長は憤懣やるかたない、と言わんばかりにしかめ面をして見せた。


「確かに今の上層部の連中はあまり上等な輩とは言い難い。立派な奴は先の戦争であらかた死んだしな。が、ハウスマンよ。
貴様が失態を演じたのは事実なのだろう?なら左遷されるのは当然というものだ。民衆からの罵声も良く考えれば理由は分かるだろう?」

「そうは言うがバストーク、お前は知るまい。カルラ火山山麓の田舎で守備隊の訓練をやらされるのがどれほど耐え難い屈辱か。
私はハウスマン家の嫡男だぞ。あれほどの辱めを受けたのは初めてだ。」

「あの時貴様が義勇軍の出撃を許可していなければ、これほど多くの若者を失わずに済んだのだ。左遷でもまだ甘いくらいの大失態だぞ。
名門ハウスマン家の嫡男なればこそ、この程度の処分で済んでいるんだ。それが分からないのか?死んだ連中の遺族が、お前の謝罪を求めていることも、お前は知らんのだろう。」


バストーク少将のこの言葉に、旅団長は失笑でもって応じた。

「謝罪だと?おいおい、一体誰に何を謝ればいいと言うんだ?あの尻の青い若造共を戦場に駆り立てたのは他ならぬ大衆自身じゃないか。
それを今さら私の責任にするのかね?大衆も上層部の連中と変わらんな。この国には救いがたい阿呆しかいないのか。」

旅団長が吐き捨てるようにそう言うと、少将は眉を顰めてたしなめた。

「ハウスマン、それは言ってはならん事だ。大衆が愚かなのは今に始まったことではない。それを守り導くのが、我ら軍人の務めというものだよ。」

「ご立派な理想だな。私はとうにあきらめたよ。広場で罵声を浴びせてくるような物分かりの悪い連中ばかりでは理想など抱いたところで無駄だ。」




旅団長のそっけない返答に少将はやれやれと肩を竦めて、ふと何か思い出したように口を開いた。

「そういえばハウスマン、相談したい事とは一体なんなのだ?さっきから愚痴ばかりで肝心のその話をまだ聞いていないぞ。」

「ああ、そういえば忘れていたよ。バストーク、貴様は国軍再編の噂を聞いたことがあるか?」

「いや、ないが。一体なんだそれは?」

「聞いたとおり、我らギムリアース国軍を再編するという噂だ。あの新女王ならやりかねないと、今若手の将校たちの間で話題になっている。」

「ほほう。女王陛下は遂に武官の任命権だけでなく、軍の内情にまで手を付ける気になったか。」

「他人事ではないぞ。確かな筋からの情報によれば、女王は国軍を縮小する腹だそうだ。」

「その確かな筋とは貴様のお父上のことかね?」

「……よく分かったな。」

「当たり前だ。女王の動向を知るなど、ごく一部の大貴族にのみ許された特権。しかも女王の新政策の内容まで知っているとなれば貴様の親父殿くらいだろう。ハウスマン宰相閣下なら、アンセイナス陛下の政策に口を出せるしな。」

「その話は今は置いてだ、女王は軍備を縮小するというんだぞ。信じがたい話だと思わないか?」


「レヌリア帝国との武力衝突を予想しているなら、確かに正気の沙汰ではないだろうな。」

「貴様もそう思うだろう。まったく、小娘風情が軍の内情に口を出すなど、言語道断なことだ。
小娘は小娘らしく王宮に閉じこもって夜会のドレス選びに精を出せばよいものを。」

「王に対する不敬は裁判なしでの死罪だぞ。俺は貴様を剣の錆にはしたくない。それにハウスマン、
貴様と女王陛下は同い年ではないか。」少将は呆れたように目をぐるりと回して嘆息した。

「なあ、貴様は女王陛下を非難しているが、そもそも王の政治方針を知っているのか?」

「いや、詳しくは知らん。」

「…ま、左遷されていた身では知らぬのは仕方がないか。」

「もったいぶるな。どういう政治姿勢なのか教えろ。」

「女王陛下は周辺諸国全てとの融和を目指しておられる。」

「おいおい、私はいよいよ女王の正気を疑いたくなってきたぞ。周辺国全てとの融和だと?
もしやと思うが、その中にはレヌリアも含まれているのか。」

「当然だ。そもそもレヌリア帝国との敵対関係を解消するために打ち出された政策だからな。」



「………貴様はそれを許容するつもりか、バストーク。」

「…それが女王の意向だと言うのなら、俺個人の感情など重要ではない。我が身の全ては王の為にある。
例え相手が恨み重なる怨敵であろうと、手を結べと言われればそれに従うまでだ。」

「私は女王のその政策には賛成できないな。レヌリアの奴輩は我らギムリアースの民にとっては不倶戴天の敵だ。
そんな連中と付き合うくらいなら私は自害する方を選ぶ。」

「ハウスマン、これは女王陛下ご自身が決定された政治方針だ。逆らうことは許されない。
それにあの方は今までの歴代の王とはどこか違う。俺はこの国の未来をあの方に託すつもりだ。」

「貴様は随分と女王に心酔しているようだが、私はどうあっても賛成できない。
バストークよ、貴様は私か女王か、どちらの味方をするんだ?」

「その問いは前提からして間違っているぞ。そもそも陛下と貴様とでは同じ天秤に掛けられるものではない。
故に俺はどちらの味方でもない。貴様こそ、幼少の頃は女王陛下と机を並べて学んだ仲だろうに何故それほど陛下を嫌うのだ。」

こういうときの彼は絶対に中立の立場を貫く。公明正大をなにより重んじる彼の態度は自分がいつも評価する所であるのだが、
今のような場合、同僚のこの態度は甚だしく不愉快だった。




「もういい。貴様に相談した私が馬鹿だった。よく考えれば、私が左遷されている間にまんまと少将のポストに収まった貴様が、
女王に反感を抱く筈がなかったな。」

「………どういう意味だ。」静かだが、確かに怒りを覚えているらしいことは口調の鋭さで分かった。

彼は自分と同じくプライド高い。

エリートの誉れ高い首都の士官学校を主席と次席で卒業したのだから当たり前だが。

彼とは長い付き合いだ。どこをどう突けば彼が怒るかは熟知している。そして旅団長はいつになく好戦的になっていた。

「だいたい貴様は公明正大などと御託をぬかしているが、その実、失敗を恐れているだけの臆病者に過ぎん。そんな男が少将とは笑わせる。」

「士官学校一の秀才も落ちたものだ。この一年で心の底まで腐りきったか。
ならば俺は友としてその腐った根性に活を入れてやらねばならんな。」

バストーク少将は椅子を蹴り飛ばすような勢いで立ち上がり、怒気も露わに旅団長に迫った。


身の丈が六フィート四インチ(約百九十センチ)を超えるバストーク少将が傍によると、
身長五フィート八インチ(約百七十センチ)の旅団長はかなり小さく見える。

「本当のことを言われて怒るのは万人に共通のようだな。その自慢の巨躯で私を殴り飛ばすのか?」

警戒してそう訪ねた旅団長を、少将は侮蔑の目で見た。

「いや、今の貴様にはその価値すら無い。女王に従うことを何故それほど嫌がる?」

「…お前に言っても分かるまい。下級貴族出のお前にはな。」

「……そうか」少将はフンと鼻で笑うと旅団長に一歩近づいた。



「貴様が義勇兵旅団を任されたのは、女王の口添えがあったからだ。それを知らないわけではあるまい。
准将の身で一個の旅団の長となるなど、他の理由では不可能だ。」

「それは分かっている。が、私は女王に従うつもりはない。バストーク、どうしてお前はそこまで己を偽る?」

「単純な事よ。国家に対して忠誠を誓うとは己を殺すと言うことだからだ。貴様はそんな覚悟もなく軍に入ったのか?」

また一歩少将は彼に近づいた。

「だがそれは人の生き様とは言えない!それh」

旅団長は何か言いかけたが、少将の大声に掻き消された。

「准将、いい加減に軍人としての覚悟を決めろ!!」

最後の言葉を言い終わるか終らないうちにバストーク少将自慢の脚蹴りがハウスマン准将の顔面を捉えていた。


痛む頬をさすりながら宿舎の廊下を歩いていた旅団長は、とある若い士官に呼び止められた。

聞けば総統が自分を呼んでいるという。

左遷が明けたばかりの自分を呼ぶとは、一体いかなる理由によるものだろう。父が何か手を回してくれたのだろうか?

考えても仕方無い。会ってみれば分かるだろう。

准将は顔から表情を消すと、深呼吸を幾度か繰り返し、被っている軍帽を直してから扉をノックした。


「入り給え。」

思っていたよりすぐに帰ってきた返事に戸惑いながら、ドアノブに手をかける。

「ハウスマン准将、入ります。」そう言って部屋へと足を踏み入れた。

中には初老の男性が、豪奢にしつらえられた椅子に座って煙草を燻らせていた。

内装の豪華さの割に、彼自身の服装は簡素なものだ。

通常の将官の軍服となんら変わりない。

彼の名はベルクト・ファーレン・ギムリアース。ギムリアース国軍の最高司令官である。

姓が示す通り、彼はギムリアースの王家に連なる人物で現国王アンセイナスの大叔父に当たる。

昔から伝統として、王太子以外の王子は軍へ入ることが義務付けられている。

ベルクト親王の名で知られている彼もその例に洩れず先々代の国王の第二王子だった。

「一人で来たのか、ご苦労。」彼は旅団長の方に向き直ってそう言った。

どうして分かったのかと訝かったが黙っておいた方が賢明だろう。

総統の顔を間近で見るのは初めてではないが、やはり見慣れるということがない。

長年の間戦場を駆け回ってきた結果、顔にはいくつも戦場で付けられた生傷が残り、本来の年齢よりやや老けて見える。

ただ、その表情には他の追随を許さない威厳が備わっていた。

「いやぁ、今日は特に冷えるな。外は寒かったろう。」

「はぁ」

「何か飲むかね?ちょいとばかりきついが良いウォトカが有るぞ。身体が温まる。」

総統は豪華な戸棚からこれまた値の張りそうな酒瓶を取り出してきた。

「いえ、仕事中ですので結構です。」

「そうか。なら私一人で勝手にやらせてもらおう。」そう言って総統は遠慮無く一杯やり始めた。

いいから早く用件を言えよと内心いらいらしたが、無論、総統に向かってそんな事を言えるはずもなく、旅団長はただ黙って俯いているほか無い。

「私が何故君を呼んだか分かるかね?」と、総統は唐突にそんなことを言い出した。



虚を突かれた旅団長は、何も答えられなかった。

黙りこんでしまった旅団長を愉快そうに見ると、総統は椅子から立ち上がって旅団長の方に近寄ってきた。

「ハウスマン准将、実は君を見込んで一つやって欲しいことがあるのだ。」

「小官にできることでしたらなんなりと。」

真面目腐った返答に総統は微笑を浮かべ、旅団長の耳元に酒臭い口を寄せて、こう囁いた。

「アンセイナス女王を、殺せ。」



これにて投下終了です。えらい長文になってもうた(′ ・ω・`)
一応補足ギムリアースのお話を読んでいない人用です


~義勇軍創設から壊滅までの略歴~
当時、レヌリアに敗れ軍隊の体を為していなかった正規軍の機能を補うため、民間から有志を募る形で義勇軍が結成された。
元々の義勇軍の役割は国内の治安を維持することだったが、軍内部の過激派は正規軍を再編するまで
これをレヌリア帝国軍に対する時間稼ぎに使うことを思いついた。
『強く正統なギムリアースを我々の手で取り戻す』の謳い文句に、現状に大きな不満を抱いていた多くの若者が先を争って入隊した。
敗戦の屈辱感と現状への閉塞感が、ギムリアース機工王国の将来を支える前途有望な若者達を無謀な冒険に駆り立ててしまったのだ。
結果、一万人もの若者たちが故郷からはるか遠方の雪原で犠牲となり、二度と再び祖国の土を踏むことはなかった。

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最終更新:2011年12月24日 22:15
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