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主よ人の望みの喜びよ -Jesus bleibet meine Freude-(第10回)

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 通夜の席では人知れる場所では泣かなかったが、棺に横たえられた響子先輩の姿が痛ましかった。額には包帯が巻かれ、体のところどころに傷が見受けられる。けれども、顔だけは何事もなかったかのようにいつもの先輩のものだった。白い肌に清楚な顔立ち、そこから発揮される勝気な笑い顔と真剣な眼差し――顧みれば、一年間で色々な響子先輩が見れたものだ。
 これが最後の触れ合いだった。響子先輩の頬に手を滑らせると、体温の介在しない無の境地がそこにあった。もう魂はここにはない。心臓も活動していない。抜け殻があるだけだ。
 響子先輩の肌に一滴の雫が落ちた。次々と垂れ落ちる雫は、頬を伝い、首筋に流れていった。人前で緩んだ涙腺を隠さなかったのは初めてだった。高校の同級生が、普段無表情の僕を見て絶句していた。
 通夜の式が一通り終わり、僕は響子先輩の両親にどうしても訊きたいことがあった。今後はどうするのか、と伺うと、交通事故を起こしたドライバーが飲酒運転の疑いがあるということで刑事事件に発展しているそうだ。これから遺族で署名や証拠探しに奔走するらしい。
 それも一つの道だろう。遺族として、事故を起こした張本人を追及する姿勢は当たり前だ。僕だってそうするだろう。でも、僕は参加しない。僕には、響子先輩が望んだ道があるからだ。多分、僕にはまた違った使命が突きつけられているんだと――傍から見たら勝手な盲信かもしれないけれど、あの人の意志を、理想を………そして、なにかを成し遂げた時の満足そうな笑顔を、僕が世界に向けて放ちたい。僕は、心の中心軸に錆びない楔――純粋な願いを打ち込んだ。
「申し訳ないんですが、僕はあなた達の署名とかには参加しません。けど……」
 響子先輩の両親に面と向かって話したかった。一方的な決意の表明だったとしても構わない。最後までいい終わらなければ気が済まなかった。はにかみ、言葉を整理して、続けた。
「……けど、僕には違うことを望んでいると思うんです。あの人は音楽が大好きでした。そして、僕もそれを貫きます。もう迷いません。迷っていたら、きっと響子先輩に叱られるから――迷惑かけるから。僕は余計なことに意識を傾けるのをやめます。高校は多分、このまま通って、音大とかで勉強してみたい。卒業できなかったとしても、いい経験にはなると思いますし。高校を卒業して即、バンドを結成するのは無理だと思います。だから、着実に階段を登ります。僕は見てみたい。響子先輩が思い描いていた夢の先を。いえ、眺望してみせます。必ず……それだけです」
 二人は、穏やかに僕の語りに耳を傾けていた。熱意が通じたのだろう、頑張ってね、と励ましを頂いた時は、また熱いものが込み上げてきたが、今は思いを溢れさせる場面ではないと感じ、務めて冷静に返事をした。そして、助言をくれた。
「でもね、それは響子の望んだ道なの。あなたが無理に歩む道ではないのよ」
 静かで物静かな声に呼応してか、僕もゆっくりとこうべを振った。
「確かにその通りです。でも、先輩が目指していた道は、あの人が切り拓いてくれた道と同じなんです。道が同じなだけで、それらは全て自分の為なんです。でも……やっぱり、響子先輩のことを忘れることができそうにない。だから、見せてあげたいんです。僕と一緒に踏むだだっ広いステージを、せめて」
 時折、相槌を打って頷く先輩の両親はもう一度、頑張ってね、と少し強い調子でいってくれた。今度は激励ではない。送り出しの意が言外に込められた言葉だった。
「これ……ずっと大事にしますから。もし見たくなったら、いつでもいってくれればいいですから」と、僕はギターケースとその中に入ったCDを示した。両親が首を縦に振ると、僕は深々とお辞儀し、通夜の場ををあとにする。もう足踏みはしない。躊躇している暇があるなら、その隙に足を前に踏み出そう。僕は、響子先輩を失ったと自覚している。けれど、今もどこかにいるはずだと錯覚している自分がいるのは否めない。
 それはただの思い込み。僕が望むだけの、どれだけ祈っても覆ることのない真実に反しようとする勝手な妄想。
 でも、僕は響子先輩の幻影を追うような真似はしないだろう。信念をやり通していけば、どこかで鉢合わせするだろうと、軽く考えていたからだ。
 いつか、どこかで。

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