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どれだけ走っただろうか。
疲弊しきった体を引きずりながら、サキは行き止まりのない旧市街の廃墟群の中を彷徨っていた。
もはやなんのために自分が歩いているのかすらわからない。
霞のかかった頭でサキは当て所もなく歩き回った。
するとしばらく歩くうちに、人のいないはずの廃墟の一角に微かに明かりが灯っているのが見えた。
ただ古い電線が生き残っているだけかもしれない。
それとも浮浪者がいるのかもしれない。
だがサキは吸い寄せられるようにその光へ向かった。
一歩一歩がまるで沼の中を歩いているように重い。
しかしサキは必死で歩いていった。
近づくほどに明らかになったその光の正体は、驚くことに無人灯でも浮浪者の溜まり場でもなかった。
それは何かの店のようであった。
ショウウィンドウには正体不明の置物などがずらりと並べてある。
入り口には看板らしきものが掲げてあったが、字がかすれて何とかいてあるのかはわからない。
サキはふらふらと店の扉をくぐった。
一瞬異国の地に迷い込んだような錯覚を起こした。
どうやら強い香が焚かれているようだった。
店内にはわけのわからないガラクタと見たこともないような量の書物がところ狭しと並べられていた。
雑然と置かれたそれらをぼんやりとした暖かな光が照らしている。
まるで絵本に出てくる魔女の家のようだった。
店はねじれながら奥深くまで続いていた。
数歩歩くとすぐに次の曲がり角があらわれ、まるで迷宮のような佇まいだった。
奥に行くほど狭くなるその店内を、サキはぶつからないように気をつけながら惚けたように進んだ。
先ほどの出来事も何もかも忘れてしまいそうな幻のような光景だった。
しばらく進むとどうやら行き止まりらしく、前方に帳場のようなものが見えた。
一段と本がうずたかく重ねられた帳場で、誰かが本を読んでいた。
その人物は一度本を読む手を置くと、口に咥えていた煙管を手に持ち火鉢の縁で二度三度それを叩いた。
あんなところに火鉢なんか置いて引火しないだろうか、とサキは頭の片隅で思った。
サキが帳場の目の前まで来ると、その人物ははじめて気がついたようにサキを見上げた。
「いらっしゃい。探し物かね?」
目が合ったサキはドキリとした。
帳場で本を読みふけていた人物――黒髪のその美しい女性はまじまじとサキの顔を見つめるとかけていた丸眼鏡を外し立ち上がった。
「おやおや、ひどい有様だね。どうしたんだい」
暖かい感じのする人だった。
サキは声も出さずにその人物を見つめ返した。
知らぬ間に涙が一滴、二滴と頬を流れ、やがて先の目からは涙がとめどなくあふれ出した。
「あ、あれ?!」
サキは驚いて目を押さえた。
しかし押さえるそばから涙は流れ続けた。
「おやおやおや……」
帳場の女は困ったような顔をすると、帳場に通じる通路を空けサキに手招きした。
「来たまえ。何があったか知らないが、とりあえず中で紅茶をご馳走してあげよう」
一瞬立ちすくんだサキは一度大きく目を開くと、たまらず女の胸に抱きついた。
「うわあぁぁあ!!」
抑えていた感情が爆発し、濁流となってサキを巻き込んだ。
斉藤のこと、三村のこと、みんなのこと、あの恐怖……
様々な思いが涙とともにあふれ出して止まらない。
「体が冷えているよ。そんな薄着で外を歩き回るからだな。先に風呂に入りたまえ」
サキの頭を胸に抱きこんで、女は言った。
古びた女のセーターからは懐かしい母の香りがした。


湯船に浸かると、サキの気持ちは少しづつ解れていった。
疲れきった体を熱すぎない心地よい温度の湯が包む。
汚れた顔を湯でぬぐうと、サキは湯船の中で大きく伸びをした。
まだ頭を混乱していたが、ひとまずこの心地よさに身を任せたかった。
脱衣場のほうで人の気配がした。
「この家に住んでいるのは私だけだから、気兼ねしないで長湯を楽しんでもらって構わない。
君の服は汚れていたようだから、私の部屋着を着たまえ。ここに置いておくよ」
ガラス越しにそう言うと、人影は立ち去った。
奇特な店の主の優しさにサキは素直に甘えた。
せめて今晩だけは目一杯誰かに甘えたい。
風呂から上がり、言われたとおり部屋着を借りて濡れた髪を拭きながら居間に向かうと、店の主は紅茶を淹れていた。
暖かな香りがサキの鼻腔をくすぐった。
「やあ、少しは落ち着いたかい」
ティーポットを片手に彼女は言った。
「あ、わざわざありがとうございました」
「なに、気にすることはない。それより、ここに座りたまえ」
店の主は四人がけの食卓にサキを招いた。
木で作られたその質素なイスに座ると、サキはなぜか安心した。
「これはウバ茶と言ってね、セイロンティーの一種だ。少々渋みが強いかもしれないが、味は一級品だよ」
サキの前にあるカップに紅茶を注ぎながら、店の主は薀蓄をたれた。
「それと紅茶にはやはりスコーンだ。今朝私が焼いたものだから味の保障は出来ないがね。好きなジャムをつけて食べるといい」
小さなジャムのビンとスコーンの載った皿を勧めると、彼女は紅茶を啜った。
サキも同じように紅茶を啜ると、何ともいえないいい香りが鼻腔に広がった。
サキは一度カップを置くと、辺りを見回した。
やはり店内と同じように物が雑然と並んでいる。
特に目を引くのは書物の量だった。
日本語に限らずアルファベットや、それ以外の文字で書かれた本がうずたかく積み上げられている。
サキは向かいに座る店の主を見た。
化粧気もなく髪型も雑なショートカットだったが、整った綺麗な顔立ちをしている。
年は二十五六といったところだろうか。
大時代的な言葉遣いと悠然としたいずまいは不思議だったが、彼女からは何か懐かしさのようなものが感じられた。
こんなところに、この人は一人で住んでいるのだろうか?
「何かね?」
微笑みながら彼女は訊ねた。
「あ、いえ」
あわててサキは視線をカップに戻した。
「そういえば、まだ君の名前を聞いていなかったな。私は村上八雲という」
「えっと……二宮、サキです」
サキはあえて母親の旧姓を名乗った。
母と自分を捨てた男の苗字を名乗る気にはなれなかった。
「二宮? 二宮……まあそこまで珍しい苗字でもないか。では二宮君、今夜は泊まっていきたまえ」
「え、でも……」
「この辺りは物騒な輩も多いからな。何があったか知らないが、今晩はここで休んでいたほうがいい」
サキはしばらく迷ってから、八雲の申し出を受け入れることにした。
「えっと、ありがとうございます。今晩はお邪魔させてもらいます」
「それがいい。客間にはあとで案内しよう」
会話が途絶えると、食器がぶつかる音だけが響いた。
八雲はじっとサキの顔を見つめている。
サキはなんとなく気まずくなり、話題を投じた。
「ここの本は、村上さんは全部読んだんですか?」
「八雲で構わんよ。そうだな、粗方読んだものばかりだ。何せ暇でね」
つまらなそうに八雲は答えた。
サキは改めて部屋を見回した。
自分では一生かかってもこんな量の本が読みきれるとは思えない。
「一応自分では探偵を名乗っているが久しく客もない。しょうがなく骨董屋の真似事なんぞしとるんだがね」
ふうと八雲は芝居がかったしぐさでため息をついた。
いや、しぐさに限らず彼女は言葉遣いからなにから芝居がかっていた。
そして自身でもそれを楽しんでいるようである。
「さてそろそろお開きとしよう。客間はこっちだ」
八雲は立ち上がるとさっさと歩いていった。
案内された客間は決して広くはなかったが、よく手入れされているようだった。
「今日はひとまず何も考えずに寝ることだ。一晩立てば気持ちの整理もつくはずだよ。では、また明日」
それだけ言うと、八雲は静かにドアを閉めて立ち去った。
木で作られたベッドに寝そべると、サキはすぐに睡魔に襲われた。
色々な思いが一瞬脳裏をよぎったが、意識は急速に闇に飲み込まれていった。
(全部、明日、考えよう……)

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最終更新:2006年09月09日 17:59