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――僕は生まれが雪国で、昔はこの辺りに住んでいたのですよ。小学校に上がって二年ばかりして関東へ
越してしまいましたけれどもね。
 珈琲を啜りながら彼はそんな風に言った。
 ――いつだったかの冬休み、不思議なものを見ましてね。
  ◇
 冬というと車の排気ガスのにおいが思い出されます。零度前後のよく冷えた排ガスのにおい。あれは僕
にとってはスケートリンクの上を通る氷上清掃車のにおいでした。それまでたくさんの人が滑ってずたず
ただった氷の表面が、清掃車が通ると新品同様にツルツルときれいになります。まるで新雪を踏むような
心地で、僕のような子どもたちは先を争って氷の上へ滑り出したものです。
 ここらで一番近かったリンクは××山の山中にある湖が凍りついてできる天然のものでね。もう今はなく
なってしまったが、よく滑りに連れてってもらいました。ある日、僕らが丁度着いた時分が清掃の
時間だったことがありました。湖面からみんな引き上げてしまって、誰もいなくなった湖の上を、貸し靴
屋の小父さんが運転する清掃車がゆっくりと周り始めていました。
 僕は湖を前にして、もう滑りたくて滑りたくて、焦れてじっとしていられないほどでした。しかし父は
僕を荷物の上に座らせて、スケート靴のひもを締めにかかりました。
「あまり遠くへ行くんじゃないよ」母親が傍らであれこれ言っていました。
「氷に穴が開けてあっても近づいてはだめだよ。万一落ちたら心臓麻痺を起こすから」
 僕は半分聞き流すようにして頷きながら、力強い父の手が足をぎゅうと締めつけるのに耐えていました。
靴に体重を預けたときにも足を捻ってしまわぬために、どんなに痛くとも我慢してこれをしっかり結ばね
ばならなかったのです。
「さあできた。いっといで」
 丁度結び終えたあたりで、清掃も済んだようでした。ぽんと靴を軽く叩かれたのを合図に、僕は湖面に
飛び出して行きました。磨かれたばかりの湖面の氷は澄みわたること真水のごとく、子どもの目にはガラ
スよりも透明でした。
或いは底が見えやしまいかと、僕は湖の真ん中を少しすぎたあたりで立ち止まり、足元を覗き込んでみま
した。
 底はまったく見えませんでした。ただ黒々と深い暗闇が漠と広がって在ります。そもどこからがその闇
で、どこまでは確実にこの透明な氷があるのやら、それさえ判然としません。よくよく目を凝らすと、浮
き上がろうとしたところをそのまま氷に閉じ込められたものでしょうか、かすかでちっぽけな空気の珠が
そこここにぷくぷくとついていました。
 そうして闇は深く深く、まるで夜そのもののように氷の奥にたまっておりました。
 僕は途端に恐ろしくなりました。自分がまるで足下に夜空を踏んで立っているような、一歩踏み外せば
底のない中空を果てまで落ちてしまうような気がしたのです。凍てついた泡の珠も深過ぎる夜から逃げ損
ねた星かに見えました。「万一落ちたら心臓麻痺を起こすから」という母の言葉が思い出されました。思
えば僕はそのとき生まれて初めて、確実に起こりうる現実として、己が死ぬということを明確に知ったの
だと思います。
 僕はその晩熱を出して、夜半に大層浮かされました。夜が明けると熱も下がってけろりとしていたんで
すが、両親は心配してちょっと養生しなさいとどこにも連れ出してくれなかった。精々が縁側でほんの少
し雪遊びをさせてくれる程度でね。もちろん僕は気に入りませんでしたよ。特にその日は科学博物館へ連
れて行ってくれる約束だったのに、突然反故になって大いに不満でした。
 博物館にはプラネタリウムにロボットに惑星模型に恐竜のホネに、といろんなものがありましてね。入
り口のホールのところに飾ってある、魚を模した絡繰り仕掛けの宇宙船だとかが僕は大好きで、見に行く
のを楽しみにしていたんです。
 それでも両親の判断は正解だったようで、夕方からまたぞろ熱が出始めて、僕は朦朧とするはめになっ
た。ずっと母親がついて看病してくれていたんですけれども、食事の用意などしなければならないから一
度外すことになった。心配ないよ、すぐに戻るからね。何かあったらすぐ呼びなさい、と言い置かれたの
に頷いたことは覚えています。
 その後はすぐ眠ってしまったんでしょう。
 ふと気がつくともう部屋は真っ暗になっていましたが、母親はまだ戻っていませんでした。母が気を利
かせたものか、庭の石灯籠のろうそくが点いているようで、窓の外にぼんやり甘い灯りがともっていて、
障子の影が敷布団の上にざあっと広がって落ちていました。
 僕はしばらくその灯のあたりを見るでもなしに眺めていたんですがね。
 ほんのわずかに開いた障子の隙間に、突然ぬっと現れたものがあったんです。
 それは金色のうろこをびっしりつけた、何かの胴のように見えました。錦鯉のようでもありましたが、
大きさがそんな比じゃあありません。堅そうなうろこの一枚一枚が子どもの僕の手のひらよりも大きかろ
うと思われたほどでしたから。
 それが一ぺんにゅうっと通り過ぎてしまって、そしてもう一度戻ってきました。そのとき障子に映った
影は、確かに大きな魚の影でした。
 僕はびっくりしてすぐには動けなかったんですが、影の主の方は僕が見ていることを知ってか知らずか、
何度もそのあたりの中空をくるくる泳ぎ回るようにしていました。僕は気づかれないようにして、そうっ
と布団を這い出て障子の隙間に目をつけて、外を覗いてみたんです。
 そこにはでっかい魚が一匹、三十センチもつもった庭の雪の上を悠然と泳いでいました。昔のガレー船
のオールの先のような太くて平たいひれを動かして。
 魚はしばらく庭をくるくるしていましたが、突然ぐいと尾びれを動かして石灯籠に近づきました。そう
してぐるんと灯籠を囲んでしまうと、ふっと灯籠の灯りが消えました。
 あっと思ったときには、魚の喉元というか、えらのあたりが中からすうっと明るく照って、やがてみえ
なくなりました。魚は灯籠の灯りを喰ってしまったんです。
 ぱくぱくと口を開閉したのち、魚はすっと泳ぎ去って行きました。僕はあわててそこらにあった上着を
引っ掴み、庭に出ていた自分の靴を突っかけて魚を追って飛び出しました。
 魚は中空をぐいぐい泳ぎながら、街頭の灯りもぱくぱく飲み込んで行きます。

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