一
覗いた先は暗闇だった。少女は手探りでハンド・ライトを見つけ出し、スイッチを入れた。もはや暗闇でなくなった収納の中で、少女は記憶を探り始めた。
日本では珍しいアップライト型の掃除機を持ち上げたところに、それはあった。小さな台だが十分届くだろう。ハンド・ライトを脇にはさみ、両手でしっかりとそれを抱えて、ゆっくりと足を進める。ドアはまだ影も見えない。少女は生まれて初めて、自宅の廊下の長さを意識した。それでも、進むことをやめる気持ちはなかった。
だいじょうぶ。きっと神様が味方してくれる。何といっても、今日は特別な夜なのだから。
二
真っ暗で誰もいないリビングに、時を刻む音だけが響いていた。時刻はもう午後七時を回っている。急がなくてはいけない。
ツリーの組み立ては済んでいる。足りないものは一つだけ。カーペットの上に灯りを滑らせて、金色の輝きを探す。空き箱と包装紙の山の中から、掌ほどもある星を拾い上げると、少女はツリーに目を向けた。
一呼吸し、右足を持ち上げ、少しずつ踏み台の上に体重を移していく。左足で床を強く蹴り、くるむように台を抱える。揺れはすぐに収まった。手の中の感触を確かめながら、ゆっくりと体を持ち上げる。ふだんなら天井が見えたのだろう。しかし、今日は違う。少女が目にするのは、果てのない星空だ。
二年前のクリスマスに、彼女は魔法使いになった。父がくれた黒い魔法の珠。それがあれば、ボタン一つで家の中は宇宙に変わる。家族三人で星々を数えながら過ごした奇跡の夜を、彼女は今でも鮮明に思い出すことができた。
眼前のひときわ目立つ星は、シリウス。Wの形をした星々は、カシオペア座。東の地平線に見える星の群れは、プレアデス。父と同じ名前を持った星。
時計の音が、聞こえた。
一度目を閉じて、息を止める。ゆっくり吐き出す。また吸って、吐き出す。針が刻んだ音に耳をすます。一つ。二つ。三つ。目蓋の裏の光が消えたことを確認してから、少女は再び目を開けた。今の彼女はツリーよりも背が高い。軽く身を乗り出して、その頂に星を結びつけた。
――完成だ。
三
時を刻む音だけが、少女に世界が停まっていないことを教えてくれる。八時だ。
50インチのプラズマテレビの下で、ハードディスク・レコーダーが小さなうなり声を上げたのを、彼女は聞き逃さなかった。今年出荷された、父の会社の新商品だ。動いているか不安になるくらい静かだと、テレビでお笑い芸人が言っていた。それが冗談だと彼女は知っていた。その機械は父の代わりに、母の出演する番組を一年中追いかけていた。
音に促されるように、少女はテレビを点けた。シリウスよりも眩しい光が、少女の顔を照らす。いつもの安っぽい音楽の後に聞こえてくる、いつもの母の声。遠いのに、近い音。近いのに、とても遠い声。よそ行きのおかしな声と感じていたはずの声。それが『いつもの声』になったのは、一体いつのことだったか。
チャンネルを変える。画面を覆う母の姿は一瞬で消え、黒い街灯に照らされたロンドンの下町に入れ替わった。『クリスマス・キャロル』。一目でわかった。去年と同じ番組だ。
去年の今日は、一日中テレビを観ていた。いい子にしていれば、クリスマスには奇跡が起こる。その日、テレビが教えてくれた。今年の自分はいい子にしていた。言いつけを破ったことはない。留守番は慣れたものだし、買い物も一人で行ける。運動会に急に行けなくなったと言われたときだって泣かなかった。もちろん自分は、あの可哀そうなティムではないけれど。足が悪いわけでもないし、お金がないわけでもないけれど。けれどそれでも、奇跡が起こるこの日を、一年もの間待ち望んで来たのだ。
ドアのチャイムが鳴る。クリスマスの精霊がやって来た。
四
目が覚める。眠っていたようだ。あわてて時計を見ると、午後十時。頭を振って、眠りに就く前のことを思い出す。
訪ねてきたのは宅配便のおじさんだった。雪で遅い時間になってしまってすまないと、謝られてしまった。キッチンの引き出しから取り出したハンコを、送り主の名前を見ないようにしながら押す。別れ際の「メリー・クリスマス」。待っていた言葉をくれたのは、顔も知らないおじさんだった。少女はその日初めて、声を上げて泣いた。
午後十一時。また泣き出したくなる気持ちを抑えて、少女は食卓へ向かった。灯りはもう必要ない。星空の下で、少女はケーキの蓋を開けた。いちごとチョコレートで彩られた真っ白な生クリームのケーキ。薄暗い食卓の上で、それだけが確かな色を持っていた。少女はキャンドルを取り出し、メレンゲで出来たサンタを避けるようにしながら、白い世界を次々と侵していく。家族と同じ数だけ伸びたキャンドルを見て、少女は微笑んだ。椅子の上で立ち上がり、父の手つきを思い出しながらマッチを擦ると、鈍い輝きが誰もいない食卓を照らし出した。赤。青。黄。色づき始めた三本のキャンドルが、今度こそ奇跡を呼び起こす。
指先の熱を堪えて、少女は赤色のキャンドルに火を灯した。明るい光の中に現れた、シャンメリーの瓶。中央の大皿にはロースト・ターキーが王様のように鎮座している。山盛りのジンジャー・ブレッドは甘い匂いで周囲を満たし、彼女を懐かしい景色で包み込んだ。
匂いが消えた。食卓の上の料理も消え失せ、少女は再び暗闇に包み込まれた。今や少女を照らすものは、星々のか細い光だけだ。
もう一度マッチを擦り、青色のキャンドルに火を灯す。光を取り戻した世界の中心を貫くのは、少女が飾り付けたクリスマス・ツリー。その頂からは金色の星が少女を見下ろしている。その真下には、朝から出かけたっきりの父の姿があった。
少女は歌い出したくなる気持ちを抑えるために、宅配便の包みへ視線をやる。最後のキャンドルに火を灯そうと、少女はマッチ箱に右手を差し入れた。
マッチ箱を見つめる。手の甲が隠れるくらいまで指を送り込んで、奥を探る。添えた左手を離し、右手を軽く振ると、箱は吸い付くようにその動きを追いかけてくる。右手を抜き、箱を目の高さまで持ち上げる。何もない。膝をついて、床の上を手で探る。ハンド・ライトのことは忘れていた。
時計の針がうるさい。午後十二時三十分前。時計は少女の願いに構うことなく、今日という時間を終わらせようとしていた。
五
午前零時。凍りついた時間の中で、最後の火が消えた。ケーキは涙で滲んで見えない。星の名前も思い出せない。輝くものは全て消え失せ、取り戻すことはできそうにない。少女は遂に暗闇に飲み込まれた。
動くことをやめた世界で、電話の音だけが鳴り響いている。
覗いた先は暗闇だった。少女は手探りでハンド・ライトを見つけ出し、スイッチを入れた。もはや暗闇でなくなった収納の中で、少女は記憶を探り始めた。
日本では珍しいアップライト型の掃除機を持ち上げたところに、それはあった。小さな台だが十分届くだろう。ハンド・ライトを脇にはさみ、両手でしっかりとそれを抱えて、ゆっくりと足を進める。ドアはまだ影も見えない。少女は生まれて初めて、自宅の廊下の長さを意識した。それでも、進むことをやめる気持ちはなかった。
だいじょうぶ。きっと神様が味方してくれる。何といっても、今日は特別な夜なのだから。
二
真っ暗で誰もいないリビングに、時を刻む音だけが響いていた。時刻はもう午後七時を回っている。急がなくてはいけない。
ツリーの組み立ては済んでいる。足りないものは一つだけ。カーペットの上に灯りを滑らせて、金色の輝きを探す。空き箱と包装紙の山の中から、掌ほどもある星を拾い上げると、少女はツリーに目を向けた。
一呼吸し、右足を持ち上げ、少しずつ踏み台の上に体重を移していく。左足で床を強く蹴り、くるむように台を抱える。揺れはすぐに収まった。手の中の感触を確かめながら、ゆっくりと体を持ち上げる。ふだんなら天井が見えたのだろう。しかし、今日は違う。少女が目にするのは、果てのない星空だ。
二年前のクリスマスに、彼女は魔法使いになった。父がくれた黒い魔法の珠。それがあれば、ボタン一つで家の中は宇宙に変わる。家族三人で星々を数えながら過ごした奇跡の夜を、彼女は今でも鮮明に思い出すことができた。
眼前のひときわ目立つ星は、シリウス。Wの形をした星々は、カシオペア座。東の地平線に見える星の群れは、プレアデス。父と同じ名前を持った星。
時計の音が、聞こえた。
一度目を閉じて、息を止める。ゆっくり吐き出す。また吸って、吐き出す。針が刻んだ音に耳をすます。一つ。二つ。三つ。目蓋の裏の光が消えたことを確認してから、少女は再び目を開けた。今の彼女はツリーよりも背が高い。軽く身を乗り出して、その頂に星を結びつけた。
――完成だ。
三
時を刻む音だけが、少女に世界が停まっていないことを教えてくれる。八時だ。
50インチのプラズマテレビの下で、ハードディスク・レコーダーが小さなうなり声を上げたのを、彼女は聞き逃さなかった。今年出荷された、父の会社の新商品だ。動いているか不安になるくらい静かだと、テレビでお笑い芸人が言っていた。それが冗談だと彼女は知っていた。その機械は父の代わりに、母の出演する番組を一年中追いかけていた。
音に促されるように、少女はテレビを点けた。シリウスよりも眩しい光が、少女の顔を照らす。いつもの安っぽい音楽の後に聞こえてくる、いつもの母の声。遠いのに、近い音。近いのに、とても遠い声。よそ行きのおかしな声と感じていたはずの声。それが『いつもの声』になったのは、一体いつのことだったか。
チャンネルを変える。画面を覆う母の姿は一瞬で消え、黒い街灯に照らされたロンドンの下町に入れ替わった。『クリスマス・キャロル』。一目でわかった。去年と同じ番組だ。
去年の今日は、一日中テレビを観ていた。いい子にしていれば、クリスマスには奇跡が起こる。その日、テレビが教えてくれた。今年の自分はいい子にしていた。言いつけを破ったことはない。留守番は慣れたものだし、買い物も一人で行ける。運動会に急に行けなくなったと言われたときだって泣かなかった。もちろん自分は、あの可哀そうなティムではないけれど。足が悪いわけでもないし、お金がないわけでもないけれど。けれどそれでも、奇跡が起こるこの日を、一年もの間待ち望んで来たのだ。
ドアのチャイムが鳴る。クリスマスの精霊がやって来た。
四
目が覚める。眠っていたようだ。あわてて時計を見ると、午後十時。頭を振って、眠りに就く前のことを思い出す。
訪ねてきたのは宅配便のおじさんだった。雪で遅い時間になってしまってすまないと、謝られてしまった。キッチンの引き出しから取り出したハンコを、送り主の名前を見ないようにしながら押す。別れ際の「メリー・クリスマス」。待っていた言葉をくれたのは、顔も知らないおじさんだった。少女はその日初めて、声を上げて泣いた。
午後十一時。また泣き出したくなる気持ちを抑えて、少女は食卓へ向かった。灯りはもう必要ない。星空の下で、少女はケーキの蓋を開けた。いちごとチョコレートで彩られた真っ白な生クリームのケーキ。薄暗い食卓の上で、それだけが確かな色を持っていた。少女はキャンドルを取り出し、メレンゲで出来たサンタを避けるようにしながら、白い世界を次々と侵していく。家族と同じ数だけ伸びたキャンドルを見て、少女は微笑んだ。椅子の上で立ち上がり、父の手つきを思い出しながらマッチを擦ると、鈍い輝きが誰もいない食卓を照らし出した。赤。青。黄。色づき始めた三本のキャンドルが、今度こそ奇跡を呼び起こす。
指先の熱を堪えて、少女は赤色のキャンドルに火を灯した。明るい光の中に現れた、シャンメリーの瓶。中央の大皿にはロースト・ターキーが王様のように鎮座している。山盛りのジンジャー・ブレッドは甘い匂いで周囲を満たし、彼女を懐かしい景色で包み込んだ。
匂いが消えた。食卓の上の料理も消え失せ、少女は再び暗闇に包み込まれた。今や少女を照らすものは、星々のか細い光だけだ。
もう一度マッチを擦り、青色のキャンドルに火を灯す。光を取り戻した世界の中心を貫くのは、少女が飾り付けたクリスマス・ツリー。その頂からは金色の星が少女を見下ろしている。その真下には、朝から出かけたっきりの父の姿があった。
少女は歌い出したくなる気持ちを抑えるために、宅配便の包みへ視線をやる。最後のキャンドルに火を灯そうと、少女はマッチ箱に右手を差し入れた。
マッチ箱を見つめる。手の甲が隠れるくらいまで指を送り込んで、奥を探る。添えた左手を離し、右手を軽く振ると、箱は吸い付くようにその動きを追いかけてくる。右手を抜き、箱を目の高さまで持ち上げる。何もない。膝をついて、床の上を手で探る。ハンド・ライトのことは忘れていた。
時計の針がうるさい。午後十二時三十分前。時計は少女の願いに構うことなく、今日という時間を終わらせようとしていた。
五
午前零時。凍りついた時間の中で、最後の火が消えた。ケーキは涙で滲んで見えない。星の名前も思い出せない。輝くものは全て消え失せ、取り戻すことはできそうにない。少女は遂に暗闇に飲み込まれた。
動くことをやめた世界で、電話の音だけが鳴り響いている。