vipac @Wiki
第三話 迷争 その二
最終更新:
匿名ユーザー
右ひざの関節を支えるネジが緩んでいるし、機体各部の部品が磨耗している。そのせいでバランサーの再調整が必要になっている。
ネジと言うのは、あの鉄で出来ていて溝と溝を噛み合わせることによって物と物とをつなぐ、あのネジである。
ネジは原始的かつ効率的で、人類の機械の歴史をどのデータバンクにも残らない程の昔から支え続けてきたスーパーマンと言うわけだ。
誰もが時代遅れだと思うことだろう。誰もがそのようなチャチなもので人工の巨人を支えられるワケは無いと思うだろう。それでもそう思う反面どこか納得してしまうことだろう。
安全でお手ごろで親しみの持てる我らがネジは、この荒廃した地球上でプラモからACまでをモットーに幅広く活動中だ。
ACには百本を裕に超えるネジが使用されている。ネジは今、二十メートルにも三十メートルにもなる鋼鉄の巨人を制覇したのだ。そしてこれからもネジの快進撃は止まることは無いであろう。崇めよ称えよ、ああネジよ永遠なれ。
夜になるとオアシスはその澄んだ水に三日月を映す。空の月と湖面に光る月は生き写しのようでありながらその実は全く違う。そのくせ湖面の月は光を放つために空の月に完全に依存する、奇妙な相互関係。
「工具箱持ってきてくれー」
コクピット内部からACの足元にいるオペレーターのシーラに声を張り上げる。
ネジがいくら素晴らしくても物質である限り限界は来る。磨耗した膝関節のネジは交換しなければならない。
オアシスのほとりに膝を立てているACの名前はカラス。無敗と名高いレイヴン、ノブレス=オブリージュの黒いAC。ベタではあるが黒い悪魔との仇名まで頂戴しているが、夜闇に溶け込むACの中でノブレスは「そのまんま過ぎるよな」と思わないでもないのである。
オアシスを見ればこの世界が砂漠に侵食され続けている事なんて忘れてしまいそうになる。
百年ほど前に地中から這い出してきた人類は地球上に広がる緑と青を見たと聞くし、その時地球のほとんどは海に包まれていたらしいが、果たしてそれは本当のことだろう。どこかの誰かがでっち上げたうそなんじゃないだろうか。
ノブレスの知る地球はその表面積の実に二割を砂漠としており、今この瞬間も緑は蝕まれ続けている。世界中を探したって海と言う単語そのものを知っている人間の絶対数が少ないような世の中だ。
地球には大陸はひとつしかないが、ある学者によれば過去にはいくつも大陸があったのだが大規模な地殻変動のせいで全ての大陸が一つになってしまったのだろう、との言。
馬鹿げている。
地面が動くワケが無いのだ。この決して揺るがない基盤が動くようなことがあるとするならば、人類は絶対の存在ではないと言う事になる。基盤は揺るがない。その上に立てられた文明もけして揺るがない。人類がこの地球において覇者である限りそれは絶対だ。
――もしも大陸が動いて、地球上において人類が覇者でないことが証明されるようなことがあるとしたら、そのときは月や火の星に住むというおとぎ話の住人は助けてくれるだろうか。
地面が動くという事はそのようなことを考えるのと同じくらい馬鹿げている。火の星や空に輝く月に人が住んでいるわけは無い。人が月に住めばその輝きに目を焼かれるだろうし、火の星に住めばたちまち灰になってしまうことだろう。
全部、レイヴンが考えるような事じゃない。
油断するとすぐに日々を一生懸命に生きる思考の隙間から馬鹿げた事ばかり考えてしまうのはノブレスの悪い癖だ。考えている事は支離滅裂で、主語が無かったり前後がつながらないような事ばかりでイエスと言った直後にノーと言うような馬鹿げたものばかりで、少なくともまともな人間の考える事じゃない。
「ノブレスー、上に上げるよー」
見下ろせば組み立て式昇降機に乗り、工具箱とコーヒーカップを二つ持ったシーラがいる。
ノブレスは今カラスの応急メンテの真っ最中だった。
シーラによれば自分の機体のメンテもろくにやらないレイヴンはかなり多いらしいが、ノブレスはそれが嘘だと信じている。
だっておかしすぎる。自分が乗る自転車の仕組みもわからないと言うのはとても怖いと思う。自分では何がおかしいかもわからなくても、実は何かが狂っているのかもしれない。
おかしいかもしれないし、おかしくないかもしれない。そんな疑心暗鬼を拭うには自分が正確な知識と責任を持ってメンテナンスに臨み、自分の自転車の調子を見なければ最終的な安全は確保できないと思う。
だからノブレスは勉強したし、膝についてる一見すると関係ないように思える部品の名前だって知っている。どのネジがどんな役割を持っているか知っている。
どこを直せば何が正常になるかもわかるようになった。
異常を直すためにはガレージを使わなければならない場合もあって、その場合がある毎に「ガレージの機械の使い方を教えてくれ」。
頼んでいるのにシーラは一度もウンと言ったことが無い。ノブレスが頼むたびに彼女は口癖のように「それは私やメンテ屋の領分だから」と言う。
「そうでなけりゃ私のする仕事なんてこれっぽっちも残らない」とも言っていた。
機械の解説書の類は全部シーラに隠されて、この前、と言ってももう一ヶ月と少しも前の事だが右も左もわからないままにガレージをいじくった事がある。
メチャメチャ怒られた。泣きながら「そんなに私が信用できないのか」と言ってノブレスをボコボコにした。
それ以来は応急処置しかしないことにしていたが、それでもシーラの機嫌はあまりよくない。
それだっておかしいとノブレスは思う。
シーラは働きアリも真っ青の仕事量を毎日こなす。金勘定と依頼先への提出資料作成やその他諸々のデスクワークにメンテナンス、仕事も向こうからやってくるワケは無い。
いつだって朝から晩まで働き詰めのシーラはその上に機体のメンテまでこなしている。
ここ一ヶ月はデスクワークの量も格段に減ったし来ない仕事を取りにいくような事も少しづつ減っている。
その量に反比例して家計簿とのにらめっこの時間が徐々に増えていく毎日で、風邪を引いても冷却シートを頭に貼って休むことなく仕事を続ける。
今も寝不足のようで、眠たげな目をこすりながらアクビを噛み殺している。
そんな彼女を指を咥えて見てるだけ、というのは心苦しい。出来るだけの手伝いをしようと思っての事だが、何でかシーラはそれで機嫌を悪くしてしまう。
そんなに気張らないで、
俺の事も少しぐらい放っておいて、
「早く寝ればいいのに」
昇降機がコクピットまで上がって来た時だった。無理な笑顔が心苦しい。心がぎりぎり痛むような気がする。さっさと休め、もっと手を抜け、俺を心配させるな。
「レイヴンほったらかしにして休むオペレーターなんているわけ無いでしょうが」
言って顔の部品を全部線にして笑いながらコーヒーカップを差し出して。
「はい、砂糖二杯でいいよね」
砂糖も塩も高級品で、家計を苦しめる要因の一つになっている。それにノブレスは彼女がいつも二杯入れていた砂糖をこの頃は全く入れていないのを知っている。
差し出された右手を無視して左手を指して、
「そっちくれ」
「こっちはだめだって」
「お前も砂糖二杯入れてたじゃんか。別にいいだろ」
「……だったら何でこっち欲しがるのよ」
言わない。素直に親切に従うのは気が引けたけどしょうがないと思う。
砂糖の量の話をしたらきっと機嫌を悪くする。
受け取ったコーヒーカップが暖かくて、冷えたものの全部が熱疲労で痛む。
心に染みて沁みるのは多分やさしさとか何とかそういうもんだろう。昼間、責任逃れしようとした事を黙って心の中で詫びる。
口には決して出さない、今ノブレスは風邪を引いているわけではないから。
シーラはコクピットの中に腰を曲げて入ってきて、機体の状態を映し出す小画面を覗き込む。
「明日に備えて早く寝たほうがいいと思うんだけど」
小画面を見つめてノブレスはキーボードを叩く。
モニターにやけに複雑な数式が表示されて、小画面の機体見取り図の脇には警告ランプがついており、見取り図白い線で描かれているけど左ヒザ部分だけが赤くなっている。
画面から目をそらさずに、
「明日決闘だし心臓がバクバク言っててさ、眠れない」
彼女は溜息をついて昇降機に乗っかったままの工具箱を下がったままのコクピットカバーの上に置いた。
彼は小画面に表示される数式を頭から見直して、Enterキー。
「ブー」
警告ランプの口真似をするシーラ。直後にブザーもなった。
ブー
表示される機体の線画内、左ヒザは白くなっていたが右ヒザと左足首が赤い。
左ヒザに振り分けられる重量係数は正常値範囲内に入ったが赤くなった部分に振り分けられた数値はその部分の現在許容重量値をはるかに上回っている。
このままでも動けない事はないが、その場合高所から飛び降りたときにどうなるかわかったものでない。首を捻って、
「しっかり計算したのに……」
シーラが嬉々とした表情で、
「言わんこっちゃ無いじゃない」
穴を見つけたらすぐに割り込もうとする。
「後は私がやるからノブレスは寝てなよ」
それでも彼は席をどこうとせず、返事もしないままにキーボードを叩き続けた。
彼女は表情を曇らせている。今譲らないでいるのだって彼女に負担をかける行為な事に変わりは無いのに、何でか彼は譲りたくない。
自分の領域になっているコクピットシートに彼女が座るのが嫌な訳じゃない。彼女にはぜひ甘えてもらわなければならないからこそ席を譲らない。甘えてもらわなければ何でもかんでも借りたままになってしまうし、それはとても据わりが悪い。
なのにそのことを言うことは出来ない。何故出来ないのかはわからないし、彼女の表情が更なる重石になる。
――何でわかってもらえないのか
きっと彼女も周りが見えていないんだとお――
「決闘ってさ」
実に切り出しにくそうにしゃべリ出す。うっかりしたら聞き逃すところだった。
何かの糸口かもしれない、何の糸口かも確認しないで藁にすがるような思いで耳を澄ます。
「決闘って勝負がつくまで戦うって事でしょ」
「とうぜ……!」
当然だ、言ってしまいそうになって俯いて口を押さえて、一・二、三秒は待たない。
彼女だって俯いている。そのまま喋る様は喉につっかえた血の塊を吐き出している様に見える。
「それってさ、……どっちか死んじゃうってことじゃ――」
合点。
笑え、笑って安心させてやれ最後まで言わせるな言葉には重大な意味をこめるな出来るだけ能天気に、
パターン59、アクション
「だいじょうぶ、こんなにげんきなのにしぬわけないじゃん」
死なないどころか負けもすまい。自分に決闘を申し込んだときのナイフのような目は岩にあてがっただけで刃のかけるもろい目だ。
それに、短い刃で鴉は切れない。
一気に用意してあった言葉を吐くほどに焦っていたやつに負けない。迷っているやつには負けようがない。
目の前で顔を上げて鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。何でびっくりするか。
「あしたしぬようにみえる?」
目の前で笑った。
駄目押しで小指を突き出して急かすように、
「ゆーび」
あわてる様に彼女も右手の小指を突き出して指と指を絡ませて、明日会う約束でもする友達のように笑いあって、
『きーりげーんまーんうそついたーら』
途中からは声が重なっていて、びっくりはにっこりに変わって涙腺がちょっと緩んでいる。
『はーりせーんぼーんのーます、ゆびきった』
笑い泣きのシーラに尻ポッケから取り出したハンカチを手渡して、彼女が受け取ったのに合わせて布の端から手を少しづつ引いていく。指の引いた先に見たこともない国の国旗が幾つも幾つも続いていて終わりは見えない。明日だって明後日だって国旗のように終わりがないに違いない。
「百七十」
「へ?」
「両膝の部品の磨耗度から計算した場合の合計パーセンテージは百七十。肩膝十五パーセントずつかける重量を調整しなきゃならない」
圧力計算のXにあたる部分がスラスラと出てくる。ノブレスには頭をフル回転させても出せなかった部分なのに彼女はちょっと見ただけで気付いた。すごい。どうやって計算したのかぜひ聞かせてもらいたいがそれを聞くと彼女はまた怒るだろう。
今怒らせる気なんてない。せっかく笑っているんだからそのまま笑わせておくのが人道的な処置であろう。今こそ労ってやるときだ。
「オアシスで水浴びでもして来いよ、砂だらけなのにそのまんまだと気持ち悪いだろ」
一息でまくしたてて
「神に誓って覗かないから」
最後に一押しするように。
あっさりウンと頷いた彼女を見たのはずいぶん久しぶりな気がする。
コクピットから押し出して昇降機に乗せて↓を押す。
加減を知らない昇降機はガッコンガッコン音を立てて危なげに降下。地に付いてもシーラは迷ったように立ち止まったが、やがて荷物の置いてある住処兼用の超大型トラックまで走っていく。
全体からしたら少し手狭な居住域にい入った彼女はものの三分でトラックから飛び出してきて砂を蹴って走り出す。
アホみたいに笑ってバスタオルとシートと替えの服とたまった洗濯物。
こんな時だ洗濯物位忘れろ。
と言ってやろうかと思ったが、それだって邪魔立てになるかもしれない。自分のパンツも洗濯物に混じっているのを見てノブレスは顔を赤くした。
シーラがオアシスの脇についてほとりで服を脱ぎ始めたところで意志の力で持って何かをねじ切り、振り返ってコクピットへ。
まだまだやることは山積みだ。天井で木彫りのワシが揺れている。
ネジの締めなおし弾薬の装填OSの再チェック。口に出せばわずか二十八文字。それでもきっと朝までかかることだろう。今晩シーラはちゃんと自分より早く寝てくれるだろうか。
思った指先がシート脇の双眼鏡にぶつかる。この前アイカメラが砂を噛んだときにコックピットに持ち込んだもので、これを使えば百メートル先の物だろうが何だろうがたとえそこらのオアシスだろうが丸見えである。
、
。
完全に忘れ去られていたラジオが誰にも聞こえないような声で魂の叫びを吹き上げる。
神は死んだ!
夢を見ている。見ている自覚を持っている。
そうでなければ目の前で自分の昔が再生されているのに我慢できるわけは無い。奥歯を噛んで、血が出るほど拳を握り締める。
いまさら誰がこんな光景を見せようと言うのか。自分が望んだわけではないし、他人には夢に干渉する事なんて出来ない。
でも、何かが干渉しているんじゃないかと思えるほどの生々しい感情の本流とリアルタイムな空気を感じる。
リアルタイムのくせにダイジェストで自分の心をえぐるような場面ばかりが繰り返し再生される。
一体どうしろというのだろう。こんな物を見せられたところで、過ぎ去り、現在よりも劣る過去を見せられたところでどうなるのか。
所詮過去は過去で現在には干渉できない。過ぎ去った物を何時までも何時までも思い返し、迷っていても何も起こりはしない。
迷ってばかりじゃ何も始まる事は無い。子供だって知っているのにこの夢は今更に何かを語ろうとしている。
もう止まらず、生き続ける事を選び続けると誓った。一度はその選択も出来なくなるところだったが、今はどうにか生きている。
――パンが紫色でも空は青い。ギネス級の秘法をめぐって行われた悲しい戦争の結末もまた、大空にしてみればちっぽけなものだった。
何かを尋ねている自分がいる。エプロンをしている。掃除機を持っている。笑っている。
対象となっている人物を現在その光景を見ている自分は知っているはずなのに、虫食いのようになっていて何も見えない。
見たいと思う。自分はあそこに自分の生きがいがいた事を知っていて、なのに見えずにいる。いつも笑っていて、何を考えてるかわからなかったけど
――「 」
―― に反応する を見ると、彼はもしかして自分の事などどうでもいいのではないのかと思えてしまう。
――でも、 にならないよりはましだと、「 」を口にする勇気を肺からひり出した。
何にならないよりましだと思っていたのかと思う。何をわけのわからない事を考えていたのかと
とにかく、 と関わっていたかった。何で、と言われれば困る。強いて言うならば だからだ。
なのだから と一緒にいるのは至極当たり前で、自分もそれを望んでいる。
なのに は の を見に行くと言って、しょっちゅう出かけてしまう。
二週間も三週間も家を空けることがある。
寂しい。
今、自分は一人でいる。 はもういない。
何故か。
あんなに大事だと思っていたのに、 はまた勝手に家を空けてしまったのだ。
でもきっと、三週間もすれば帰って来ると思っていた。
は帰ってこない。
気付けば、
大通りは既に真っ赤に染まっていた。
あちこちの電柱や建物にはトラックから二人乗りの小型車まで、様々な車が突っ込んでいて、そのどれもが火を吹いてただの鉄クズに成り下がってしまっている。
いつもならこの通りは学校帰りの学生や、主婦や子供、他にもいろいろな人でにぎわう商店街なのに、今は誰が見ても恐怖と迷惑大安売りの闇市にしか見えなかった。
さっきまでとは明らかに違う場所に立っている。見たことのある、馴染みのある大通りであの時は毎日見ていた。
家を出れば目と鼻の先にあった大通り。
そこには笑う自分と の姿は無い。
笑う事が出来るやつなんてこの場にはいなくて、この場には今までに何度か見た汚らしい蟲が何匹もいる。
のっそりのっそりと余裕を見せるような動きで何匹も何匹もジナイーダの元によってくる。
違う。無機質な青い殻の目はジナイーダを見てはいない。その後ろにあるものを見ている。
右手を見れば、青い車椅子が転がっているのまでは見えたが、何故か真後ろを振り向く事が出来ない。振り向きたいのに振り向けない。
火の手が上がって視界が赤い舌に占領されて、しかし火の勢いをものともせず蟲がよってくる。
蟲が狙っているのが自分ではない事に何故か安心感を覚えている自分がいる。
――一体後ろに何があるのか。
確認したい。それを知れば、少なくとももどかしい感じは消える。自分の体が自分で制御できないもどかしい感じは消える。
火の手がいくら大きくなっても熱いとは思わないし、目の前の虫に恐怖を感じない。夢だから当たり前。
そのくせもどかしいのは生意気
目を凝らした。何で目を凝らしたかは解らないがとにかく目を凝らしている。
遠くを見つめる目は視界をさえぎろうとする炎を無視して、驚くほどクリアな映像を伝える。
ジナイーダがいる。炎の遥か向こう側で息を切らして懸命に目を凝らしてこちらを見つめる自分がいる。
自分の視界はクリアだが、彼女の視界はクリアでない。なにしろ、自分はあの時青い車椅子しか見ていないから確信を持てる。自分が見られているわけではない。
些細な事で、たかが夢。なのにそんなことで胸をなでおろしている自分がいる。
彼女が小さいな石を拾って、走りながら叫んだ。
「ケダモノがぁ」
拾った右手を振りかぶる。熱を持った頭は後先考えないで、勝手に突っ走る。もし冷えていたとしたら考えたかどうかもわからないけれど。
「触れるなぁ!!」
たくさんの力が石ころに託されて、石ころはどんなバッターにだって捕らえられない魔球になって、
自分にぶつかってきた。
これは過去の風景でいて、夢であって、そこには干渉しないはずだと勝手に思い込んでいて、次に蟲にぶつかるはずだった石ころは夢を見ている自分の頭にぶつかって。
頭蓋骨を割った風にすら思える激しい痛みが脳髄を襲ったが、それは果たして本当に石のせいによるものなのか。
石のぶつかったところを手で押さえたら、ぬるりとした紅い水に手が触れた。
見てもいないのに勝手に紅いのだと思い込んで、石を投げた自分を見つめる。
石を投げた自分も石の当たった自分のことを見てざまあ見ろと思った。
石を投げた自分は石の当たった自分のことを睨み続けた。それを認めたくない石の当たった自分は
救いの音を聞いたように振り返る。
さっきまで振り返れなかったのに、今度は振り返れた。けれども足元を見ることは許されず、ただ見上げる。
そしてその場にいる全員が足を止めて、さっきまではそこにいなかったプレッシャーの塊を口をあんぐりとあけて見上げた。
火に照らされて暑苦しさを振りまく鉄巨人に乗った自分は、カメラをズームにして自分の追い求めていた微弱な生命反応を確認した。
何のことは無い。頭を押さえた自分がいて、その向こうには蟲が沢山、そのまた向こう側には憎悪の瞳を持った自分がいて、
そのまた向こうでは、街に燃える火とは全く関係の無い火が上がっていて、その中心には見覚えのある、憎むべき のACがいる。
もうACは動かない。ただ、コックピットが開いて、その向こうの が言った。
そして、細められた目が現実を見て、大きく見開かれる。
「そんな、バカな……」
また場面が変わる。自分はただ立ち尽くしてみているだけで、また燃え盛る街の燃え盛る大通りにいる。
そのときにはもう自分の目の前にいるジナイーダは焼けた鉄の棒を握り締めていた。
焼ける手の平も気にしないで、虫の姿も見ようともしないで振り返りながらフルスイング。
手の内に嫌な手ごたえが残って、化け物の小さいながらも重たい体が宙を舞って、背中からコンクリの壁にぶつかった。
派手に吹き飛んだけれども、棒が叩いたのは殻を被った顔だったので、大した打撃にはなっていないだろう。
野性の本能に従ったジナイーダは、高温の鉄棒を長ドスみたいに腰ダメに構えて、殻のついていないバケモノの腹めがけて子供のころ見た任侠物のように突進した。
体重に、足のバネ、腕のバネ。それぞれ出せるだけの力を出して、鉄棒の先に集まる。
合計でいくらの力がかかったのかはわからないけど、バケモノの柔らかい腹に棒は突き刺さり、高温で体の中を焼く。
体液が沸騰して、傷口から蒸気が吹き出る。六本の不細工な節足がてんでばらばらにもがいて痛み苦しみを表そうとした。
「キィィィィィイィィィィヒィィィィィィ」
やがて、黒板を引っかいた音のような叫びをあげて、バケモノはその息の根を絶たれる。
ジナイーダは鉄棒を握った手をダランと下げて、不気味な死体は落っこちてベチャリと嫌な音を立てて中身をぶちまけた。
「―ハァッ、ハァッ、アッ……」
馬鹿みたいに熱い棒を握ってるのに、その熱さを全く伝えてこない手の平はがむしゃらにジナイーダとジナイーダの不安を煽るはずだ。恐怖しているのは眺めているジナイーダのみ。
蟲殺しの女が棒から手をはなそうとしても、皮膚が焼きついてしまっているみたいでちょっとやそっとのことではがれそうにも――
簡単に取れた。
蟲を殺したジナイーダが唐突に眺めているだけのこちらを向いて、
「あなたは迷っているクセに」
昔の自分が今の自分に歯向かった。なんでか知らないが無償に腹が立つ事のような気がして、一瞬たりとも我慢は出来ない。堪忍袋の尾は一瞬で捻じ切れた。
「何が迷っているクセに、よ! 私は決めたのよ!? あんたに出来ないことを私は出来る! 私は強い!!」
昔の自分に怒りをぶつけてどうなるわけでもない。
夢だと自覚しているくせに我慢がならなくてぶちまけて、でも目の前の自分は眉一つ動かさない。
火傷を負っているはずの、自分が痛いと思った傷と同じものを持っているはずなのに声は冷たい。間違っている事をさも正解だとでも言うように
「迷っているクセに」
言って近づいてきた自分は呼び動作も無しにおもむろに手を怒る自分の首の辺りに伸ばして、怒っているジナイーダですら今の今まで忘れていたアクセサリーを握った。
それはワシの木彫り。露天のクソ親父が作ったレイヴンの印だということは少なくとも、現在のジナイーダは知らない。
手の内に在る物を確かめるように拳をもんで、一気に引っ張る。細いワイヤーが千切れて首に跡を残していく。
ワイヤーが宙に舞っているうちに昔の自分は言うのだ。
「あなたにこれは必要ない」
嫌な汗をかいてベッドから跳ね起きる。時計はまだ一時を指していることには気付かない。まだ起きる時刻ではない事には気付かないでいる。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ」
嫌な夢を見たと思う。顔を抑えて、自分の手があることを確認してからポケットを探った。
ごそり、横になった時にでかいポケットは折り曲がっていて、中の物を確認するのも厄介だった。
それでも妙に必死になりながら、非効率的な力づくの手つきでポケットが破れそうになりながらも底の方まで手を伸ばして、翼の形を確認した。
ホッと一息ついたジナイーダは、ベッド脇の机に置きっぱなしの特殊無線にメールが届いたのに気付かない。
電源を切ったままの機器がメールを受信する。光るはずの無いモニターが薄青い光を発して、画面の中のメールが何であるかを知らせる。
今はそれを知る者もいないが、メールには「TO ジナイーダ」「Fromカドル」の文字が刻まれている。
その三へ続く