木田優夫

木田 優夫(きだ まさお、1968年9月12日 - )は、東京都国分寺市出身のプロ野球選手(投手)。五十嵐章人(現:福岡ソフトバンクホークス二軍外野守備走塁コーチ)は従兄に当たる(木田の父と五十嵐の父が兄弟)。


==来歴・人物 ==

国分寺五中では関東代表として台湾に遠征。日本大学明誠高等学校を経て1987年にドラフト1位で読売ジャイアンツに入団(亜大~近鉄の阿波野秀幸の外れ1位)。速球派の先発投手として活躍し、藤田元司監督時代の1990年には12勝を挙げ、最多奪三振のタイトルを獲得、オールスターゲームにも監督推薦で出場した。1997年に右ヒジを手術。1998年に野村貴仁とのトレードでオリックス・ブルーウェーブに移籍し、抑え投手として16セーブを記録。

1999年にFA権を行使してデトロイト・タイガースに入団。日本人メジャーリーガーとなった。3A降格を機に2000年6月にオリックスで日本球界に復帰。2001年に自由契約となり、数球団の入団テストを受けるも不合格。腰痛治療のため2002年は球団に所属せず。2003年にロサンゼルス・ドジャースに入団、2003年3月には交通事故により全治6週間の重傷を負うも(プレスリリースではこうなっていたが、本人が後に語るには打撲のみで全治1ヶ月だったという。手術を受けるほど重症だったのは通訳の方)同年8月にはメジャーに昇格した。2004年9月にシアトル・マリナーズに移籍。2005年はメジャーでは1試合しか登板できず自由契約となり、同年オフ、古田敦也新監督の意向もあり東京ヤクルトスワローズに入団。中継ぎで活躍し、監督推薦で16年ぶり2回目のオールスターゲーム出場。16年間のブランクは歴代最長記録である。

趣味は漫画を描くことで、中学時代には美術部に所属していた。東京ドームで個展を開いたことや、日本テレビのズームイン!!サタデーで「木田画伯展」というものを行ったこともある。
ユーモアあふれる性格で知られ多くのテレビ番組にも出演する。
村上ショージに弟子入りしており明石家さんまは大師匠になる(実際村上はさんまの弟子では無いが)。毎年明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショーにレギュラー出演している。
デトロイト・タイガースの入団会見では羽織袴姿で登場し、「ロボコップに会えなくて残念」とジョークを飛ばして報道陣の笑いを誘った(このジョークの原案は先輩の槙原寛己だと後に明かした)。
アメリカでの愛称は名字をひっくり返した「ダーキー」。オリックス復帰当時はさんまが「明石家マンション物語」に出演していたこともあって、その中の人気コーナー「ダメダメボーイズ」の決め台詞と合わせた「DAKYXX(ダーキー・ダメダメ)」グッズが発売された。
高校球児時代は甲子園大会に出場経験はなく、無名の高校生だった。ドラフトで巨人の1位指名を受け、一日にして超有名人になったのだが、実はドラフト会議の直前に占い師に「あなたはもうじき日本全国に名前が知れ渡るだろう」といわれており、その占いが的中したと、本当に驚いたのだという。
2006年シーズン終了時現在、巨人の日本人投球最速記録(156km/h)を持っている。
2007年からは高井雄平が背番号を41に変更した(高津臣吾が球団側の提示で22番に戻したため)ことに伴い42に変更してシーズンに挑む。
従兄の五十嵐章人とは『痛快!明石家電視台』に「クイズ!パァちゃいまんねん ペアでんねん」で共演したことがある。
週刊誌をいつも買ってきてロッカーに入れていて、他の選手が借りてよんでいる。それを宮本慎也が「紀伊国屋(きのくにや)」をもじって「キダクニヤ」とあだ名をつけている。(『あっぱれさんま大教授』)
ホテル暮らしをしている。理由は家に帰っても一人だし、ホテルだと受付の人がお帰りなさいと言われるのが癒されるから。(『あっぱれさんま大教授』)


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最終更新:2007年05月22日 15:00