由規(佐藤由規)
- 投手陣の建て直しが急務であったスワローズが玉砕覚悟で獲りに行った、みちのくの豪腕その1。
- 同年の夏の甲子園で、高校生最速(155km/h)を叩き出した。高校生ドラフトでは案の定5球団が競合したものの、引退宣言をしていた古田前監督が1番目に当たりくじを引いた。
- その瞬間のやくせんのボルテージは一気に上がり、中には涙する者もいた(俺)。
- その時のスレタイが「やくせんドラフト~若いツバメをつまみ食い」であったため、縁起をかついで大学生社会人ドラフトでもほぼ同名のスレタイにしたところ、見事BIG3の一角、加藤幹典の一本釣りに成功した。
- 今のところ寮での生活だが、一番のリラックス法は自分の急須で入れた熱々のお茶を飲むことだそうだ。
- 球種は自慢の150km/hオーバーのストレートの他にスライダー、カットボール、フォークボールを中心に、たまにカーブ、チェンジアップと意外と豊富に持っている。
特にスライダーは球速に応じ何パターンか持っているようである。 - …話が逸れたが、いずれにせよ由規は今年いっぱい戸田で体力と技術の向上を目標としてシーズン中盤まで日々頑張っていた。
- 実は本来左利きであり野球以外の動作は左手で行っている。その名残りか、川島(亮)と同じく打席に入るのは左。
- 2008.8.2、若手の登竜門であるフレッシュオールスターゲームに出場する。
9回表、5点リードという場面で抑えとして登場、MAX152km/hを武器に1回を被安打1の無失点で抑えた。
- その後も戸田で実績を積み2008.8.30に待望の1軍登録、横浜戦に初登板を果たしたが、2回途中6失点で降板…。しかし途中出場の「福ちゃん」こと福川が逆転2ランを放ち、負け投手を取り消した。
- 2度目の登板は2008.9.6の巨人戦。先発で6回を投げ、2安打3失点、三振8の力投で一軍初勝利を挙げた。このときまでチームは巨人に8連敗しており、翌日の各新聞には早くも「Gキラー」と載せられた。このとき打線で援護した1人が、また福川である。
これが有名な「1リットルのやくせん エピソードⅡ」 - その後も登板する度に好投。2008.10.8の横浜戦も被安打2(自責点1)と絶好調だったが、8回終了後に荒木投手コーチから「完投と新人王どっちがいい」と聞かれ「新人王です!」と即答し交代、イムの日韓通算200セーブのお膳立てをした。
本人曰く、「完投は来季でも狙える。新人王は1度しか取れないタイトル」とのこと。 - ちなみにこの男、雨男の噂も…。
初登板の日も雨、2008.9.21登板予定も雨で中止、2008.9.14の巨人戦(からくりドーム)、9.24の中日戦(ナゴヤドーム)を除き登板日は雨または曇り時々雨と、お天気とは今のところ相性が良くない。 - こうしてルーキーイヤーの成績は以下の通りだった。
・1軍 : 6試合登板、2勝1敗0S・投球回数29 2/3・28奪三振・防御率4.55
・戸田軍:15試合登板、8勝5敗0S・投球回数77.2 ・71奪三振・防御率4.17
- 2009年は開幕2戦目に登板、初勝利してローテーションの一角として幸先のよいスタートを切った。しかし勝ち投手にはなったものの4.18の広島戦で原因は2009年を象徴となった人差し指のマメを潰して途中降板。続く4.27の横浜戦で1回を被安打1ながら5四死球の大乱調で戸田行き。戸田行きの際に、(1)ストライクが入ること。(2)1イニングを20球以内に収めること。(3)体力面を強化の3点の宿題を課される。
- 再昇格は約1ヶ月後の5.20の楽天戦で地元仙台で田中将大と直接対決。負け投手ながら自責点1の投球に復活の兆しが見えたように思えたが、5.27のオリックス戦で2度目の人差し指のマメを潰して途中降板。翌日に戸田行き。次の白星は6.17のロッテ戦まで待たなければなかった。
- 6.27の読売戦は2009年ベストと言える投球内容。自己最長の8回117球を投げ2安打(被弾1)・奪三振5・四球1・1失点で勝利。大器の片鱗を見せる。
- 続く7.4の阪神戦で自身3連勝で5勝目を挙げると7.18の広島戦で中指のマメを潰し3度目の途中降板。
- 入団2年目で初のAS選出となったが、前出の7.18の広島戦で潰したマメが完治せず、代走での出場のみと誠に寂しい内容。
- やくせんではいつしか「まめのり」、「まめ」という呼び名が定着する。
- AS明けは、フォークボールを解禁し打開を図るが9.6の読売戦で中指のマメによる4度目の途中降板、最後まで修正出来なかった制球難に加え、自身の守備のミスによる自滅で後半は白星をあげることなくシーズン終了。目標であった新人王も逃す結果に。
- CSでは第3戦で登板予定の高木がインフルエンザの影響で先発登板。4回を投げ5奪三振ながら被安打7(被弾1)・5四球・自責点2で敗戦投手に。
苫篠さんに「球は一流なのに活かしきれてない」といわれた。
- 2009年は22試合で5勝10敗・防御率3.50。被打率.245(右打者.228、左打者.265)、奪三振率6.77(奪三振数91)と個々の内容を見ると成長の跡が見られたが、投球回数121で与四死球62は如何とも…。
- 11月にU-26 NPB選抜として登板。大学代表も含め最速を記録、1回を3凡で抑える。
- シーズンオフには指のマメ以外にも足のマメも潰していたことが明らかに。
- 2009年オフは増渕と共に渡米。憧れの松坂大輔から3カ条の教えを授かった。
- その道中指の豆が潰れ過ぎたせいで指紋が薄くなり機械が読み取れないという珍事も発生。
- 増渕もアゴに入れたボルトのせいで金属探知機に引っ掛かり、あわや2人共々飛行機に乗り遅れるところだったそうで。
- 2010年に向けて、マメ対策としてボールの握りを変えることに。
一般的にボールは浅く握るものだが、実は由規はボールを深く握っていたためにまめができやすくなっていたことが判明!
握りを浅くすることで余計な力みが消え、球速も落ちずにシーズン中にマメで降板することがなくなった。 - 要は今年までずっと変態投球をしていたことに・・・
- てか、松坂からは教えてもらわなかったのか?(松坂も日本時代に、全く同じ事やってマメを潰してる。)
- 2010年7月29日に日本人最高となる158km/hを記録!
- さらに同年8月26日の神宮球場での横浜戦の5回、ターメル・スレッジの打席で投じた5球目が日本人最速となる161km/hを記録し、日本人投手として初めて160km/hの壁を破った。
- ただしこの記録、テレビ中継(フジテレビONE)では152km/hと表示されたことからも分かるが、かなり信憑性に疑いがある。
- また二つとも(水増しガンで有名な)神宮球場で記録されているため、上記の158km/hも確証は持てない。
- まぁ、他の球場でも156km/hぐらいなら計測されるので、球速が進化したことは確か。
- 2010年の最終成績は12勝9敗、防御率3.60。
- 遂に二桁勝利!高卒3年目の選手ということをお忘れなく。
- 村中と共に「ヤクルトの若い方のエース」、館山と共に「右のエース」、石川・村中・館山と共に「ヤクルト先発4本柱」と呼ばれるまで成長。
- けど最後の最後でまたマメを発症してしまったのは残念。新たに入団した弟の前で恥ずかしい格好を見せないよう頑張れ!
- ブログを始めたこと告知してもかまわんょ(笑)
- 2011シーズンは震災による精神的ショックを感じさせず、開幕から好調を維持し勝ち星を積み重ねるも、交流戦期間中に脇腹を痛めて離脱。オールスター前には復帰し、小川監督から後半戦のキーマンと期待されるも優勝争いが佳境を迎えた9月に肩の張りを訴えてまた離脱。あぁ、スペ体質…。
- そのまま一軍にあがることなくシーズンを終える。最終成績は7勝6敗、防御率2.86。もし由規がフルシーズン戦えていたら…。
- 2012シーズンは肩をしっかり治してフルシーズンで頑張ってください!
- と、思っていたらいきなりスペリやがった…。
- どうやら去年からある右肩の違和感が未だにあるとのこと。
- まだ若い選手名だけにしっかり完治させて神宮に戻ってきてもらいたい。
由規と東日本大震災について
- 2011年3月11日に起こった東日本大震災において、由規の地元である仙台は最大震度7の揺れに加え大津波が沿岸を襲い、甚大な被害を被った。
- 由規や由規の家族は無事だったものの、由規と仙台育英時代にバッテリーを組み、家族ぐるみでの付き合いもあった斎藤泉さんが行方不明となり、4月27日に遺体が確認された。
- 奇しくも4月27日は由規の先発登板日でもあり、この一報を由規は試合前に聞くことになった。由規は悲しみを堪え、雨の中のその試合を5回1失点で勝ち投手の権利を得たまま降板し、試合は後を託されたリリーフ陣の好投、打線の援護もあって、由規はシーズン2勝目を手にした。そしてその試合のウィニングボールを斎藤泉さんに捧げると表明した。
- 斎藤泉さんのご冥福をお祈りいたします。
- また、この度東日本大震災にてお亡くなりになられた方々やご遺族には心よりお悔やみ申し上げます。
- そして全ての被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。
ヤクルトの泣き虫王子
添付ファイル