ドピゥ外寇

ドピゥ外寇もしくはドピゥ戦役スッパダカ戦争とは、1930年3月11日から同年7月11日にハダカンボ王国にて発生した紛争である。ドピゥとは「外から来た」という意味であり、スッパダカ王朝始まって以来の大規模な対外防衛戦争である。

ドピゥ外寇
画像
時期:1930年3月11日-7月11日
場所:ハダカンボ王国スッパダカ島
結果:ハダカンボ王国の勝利
交戦勢力
ハダカンボ王国 同胞
指揮官
ハダカンボ11世
エガチャン
タムケン
バセンジ
エホーマキ
フェンリル・フォン・バーベンベルク
ミウ
トーマ
アヂッリザット・M・マカロワ
アレクサンドル・テルゴイッチ
セミョーン・ティモフ
ウラジーミル・ヴィチャスラフ
戦力
35,000 第一次侵攻:
13,000
第二次侵攻:
17,000
被害者数
戦死:2,000
戦傷:12,000
戦死:6,534
戦傷:9,865

背景

ハダカンボ王国は島の中央に位置するキサバシリ山に巨大な金鉱を持ち、また、それを掘削もしくは砂金を採ることによって莫大な黄金を保有していた。それは、早い時期から諸外国に知られており、イクファターナの外国資本はなんとかしてこの鉱脈を本格的に開発し莫大な利益をあげようとしていた。ハダカンボ10世の頃には鉱脈探査の交渉を鉱業数社合同で行うようになっていたが王国側はキサバシリは聖地であり外国人の立ち入りを禁止しているとして拒否。
ハダカンボ10世の跡を継いだハダカンボ11世も同様の態度を示したことから武力で王国を制圧し鉱脈を強奪することを画策した。
資本側は最初に各国政府に働きかけるも、国際社会からの批判を恐れ軍事行動は控えるようにしていた。そこでタヴェリア北部で盗賊活動をしていたザルバチのギャング団「同胞」に働きかけ、武器供与と現地での略奪を条件に鉱山の制圧を依頼した。同胞側も資金調達の好条件に快諾し、1930年3月7日に同胞の武装勢力はザルバチ共和国を発した。

第一次侵攻

シュインの虐殺

3月11日午前8時頃、北部のシュイン港に上陸した同胞軍先発隊300人は現地民13人を殺害。現地の食料や運び出されようとしていた金細工などを強奪した。このとき住民が身に着けていた装飾品なども引き剥がされた。住民は残虐な方法で殺害されたという。

王府軍派遣

事件の一報がフルヌゥドの王府にもたらされたのは事件から6時間後の14時頃のことであった。現地民の生存者から事件の詳細を聞いたハダカンボ11世はすぐさま周辺の集落から戦士を集め右翼総戦士長エガチャンを指揮官とする1,500人の部隊を派遣した。とどまっていた同胞軍300人は応戦し、17時頃に激しい戦闘となった。同胞軍は最新鋭のボルトアクション銃で武装しており、対する王府軍は石槍、大盾、弓矢で応戦するという状態であった。激しい銃撃にもかかわらず全速力で突撃してくるハダカンボの戦士たちに同胞軍は動揺し、戦闘発生からわずか30分で同胞軍は総崩れとなり200人ほどが係留してあった船で逃げ出した。このシュイン港の戦闘で70人が戦死し、残る30人が捕虜となり、王府へ連行された。捕虜への尋問で、同胞が金山を狙って軍事侵攻をもくろんでいることと、本隊が3日後に来襲する情報を得た。

侵略者への対応

王府ではその日の夜、大臣や部族長を交えた緊急会議が開かれ、全部族が結集して侵略者を撃退することで合意した。このとき対立していたマッパダカ族も一時休戦して協力することとした。これは、古代ヤード帝国による侵略の屈辱が歴史的なものとして刻まれていることが大きかった。「二度目を許すな」をスローガンに全島一致でこれに当たった。翌12日にはウポポ族、モフモフ族、クンニ族、マッパダカ族、東西フェラーチョ族の戦士総数27,000人が結集し、国王の統一指揮のもとに戦う宣誓がなされた。

テコキ川の戦い

14日午前6時に王国南部の沖合に同胞本隊を載せた船が現れる。狼煙によって30分後には王府にこれが伝わり、王国軍30,000人が出動。
王国軍本体が王国南部海岸に到着したのは7時間後の13時頃のことであり、その頃にはすでにセミョーン・ティモフ率いる同胞軍本隊13,000は上陸し、テコキ川流域に陣形を張っていた。
14時に王国軍は全軍突撃を開始し同胞軍に襲いかかった。
同胞軍は今度はライフル銃のみならず、野砲などを装備していたため、陣形突破は困難を極めたがやはり死を恐れず突撃してくる戦士たちは徐々に同胞軍を押し返していった。
15時30分、右翼部隊を担当していたモフモフ兵が同胞軍背後を突いたことで半包囲の形になり、完全包囲を避けるためにティモフは後退を指示。
一部の部隊は内陸の密林に逃げ込むも、ジャングルでの戦いはハダカンボ人にとって自分の庭で戦うようなものでそれぞれ各個撃破されていった。海岸沿いに後退した部隊5,000人は再結集し、反撃のために海岸洞窟に陣地を構築した。

駆逐

しかし16日の未明に王国軍は夜襲をかけ、ほぼ無抵抗の同胞軍を一網打尽にした。この時自決しようとしていたティモフは捕虜となった。
密林に逃げ込んだ部隊は18日までにモフモフ族の掃討作戦によってほぼ駆逐された。なお、このとき逃げおおせた兵士は事件から2年後に発見された。

第二次侵攻

さらなる増派

侵攻軍全滅の報がザルバチ本国の同胞本部「夫婦」にもたらされたのは2ヶ月後の5月1日のことであった。同胞団首領アヂッリザット・M・マカロワはこの報告に激怒し、捕虜になったティモフ救出と同胞の面子のためにさらなる増派を命令した。
一方ティモフを捕虜にした王国側はさらなる侵攻に備え、海岸沿いに石塁を設営し、防御力補強に努め、さらにメトラ商人から旧式の火縄銃2,000丁を購入し、その訓練を実施した。
ティモフからは同胞についての情報を聞き出しその黒幕などを知るに至った。

オシコリ浜の戦い

6月18日午前10時に東岸のオシコリ浜にアレクサンドル・テルゴイッチとウラジーミル・ヴィチャスラフ率いる17,000人の同胞軍が現れる。東岸の武装船はすぐには上陸せず、海岸に陣取った王国軍戦士団に向かって砲撃を開始。2時間に渡る砲撃で海岸の部隊が全滅したところに部隊が上陸。後方に控えていた予備戦力がこれと応戦するも、今回はさらに近代兵器をそなえた同胞軍が押し返し、14時頃に上陸に成功した。
海岸守備隊が壊滅した報に王国首脳陣は動揺するも、徹底抗戦に反対する者はいなかった。

マン湖畔の戦い

今回は一筋縄ではいかない事を悟った国王ハダカンボ11世は、王国の最終兵器にして鬼族の末裔ユダバンディ投入を決定。マン湖東岸にて王国軍25,000と同胞軍17,000が激突したのは19日12時のことであった。前回の反省を踏まえ、平原での戦いを挑んだ同胞軍は物資を豊富に輸送し、弾薬を切らさないように気を配っていた。砲撃は熾烈を極め、王国軍は得意の白兵戦に持ち込むことが出来ずにいた。正面の王府軍とマッパダカ族の部隊は苦戦していたものの、左翼部隊のクンニ族の部隊は回り込んで側面から攻撃を仕掛けることに成功した。しかし陣地構築に成功していたために、多くの犠牲を出すことになってしまった。右翼方面からはモフモフ族とエホーマキの部隊が本営突入を試み、14時32分、本営から100メートルの地点にまで接近したところから一斉に矢を仕掛け、指揮官テルゴイッチを負傷させ、副官ヴィチャスラフを戦死させる大戦果を上げた。
16時頃には正面部隊は白兵戦に移行した。この乱戦で国王本人も負傷しながらも敵兵11人を討ち取っている。包囲された部隊は湖の崖から次々と落とされていき、戦闘の趨勢は決した。
17時頃テルゴイッチは降伏し、戦闘は完全に終結した。

戦後処理

王国は降伏したテルゴイッチ、ティモフ両指揮官の処遇をどうするかで大いに紛糾した。
王国民を多数虐殺した下手人を処刑すべきであると主張するのは当然のことであった。しかし国王ハダカンボ11世は、さらなる報復の連鎖を招くとして両人の処刑を許可せず、むしろ客人として遇するように命令した。
ザルバチ政府を通じて同胞と交渉の場を持った王国は無賠償、捕虜交換を提案、同胞首領マカロワもこれ以上の軍事行動はコストだけがかかるということで「手打ち」としてこれに応じた。
後年ティモフが出版した手記によるとティモフは当初蛮族に残虐な拷問を受けるのではと覚悟していたものの、厳しい拷問はされず、それどころか客人として遇されたことに大いに困惑、しかし同時にかような純朴な民族を蹂躙することに罪悪感を覚えたという。ティモフはこの戦役の後に同胞団を引退した。
7月11日にハダカンボ王国代表ロッシュ卿と同胞側代表で首領のマカロワはザルバチ海岸共和国首都ゲオルギーにてゲオルギー和平協定を締結し正式に戦争は終結した。
本戦役は双方ともに交戦団体条件を満たしているので国際法的にも紛争と位置づけられることとなった。

ハダカンボ王国の勝因

近代武装をした軍隊に石器時代の兵装の軍隊が勝利した理由はいくつかあるが主な要因は以下の通りである。
  • 同胞軍の兵士のほとんどは傭兵であり、目的意識が不明確で士気が低かったのに対して、ハダカンボ王国軍は郷里を守るという明確な目的があり士気が高かった。
  • 国際的に未開の土地ということで地理的な情報が皆無だった同胞軍は、ハダカンボ王国の地の利を活かした戦術に翻弄された。
  • 同胞軍は兵站面で補給線が不安定で弾薬が尽きた場合に継戦能力が保証できない不安があった。
  • 同胞軍は遠隔地への派兵ということで兵士の補充は即時に行うことが難しかった。加えて兵士の人件費も長期戦になるに連れて莫大なものになった。対してハダカンボ王国側は総力戦体制を整えていたので兵士の補充はほぼ無制限に行うことが出来た。

影響

同時に黒幕となった複数の企業はザルバチ政府のリークにより各国に騒乱の首謀者として情報がもたらされ、その多くが経営層退陣、逮捕などで一掃された。
この時に国際的な鉱業関連の株価と金の価格が暴落した。
ハダカンボ王国側ではこれにより部族間の王府への結束が固まり、氏族分割時代よりも王権が強化されることになった。
主権国家の正規軍でないとはいえ、近代兵器で武装した軍隊が石器時代の戦士に敗北した事実は各国を震撼させた。これまで南方の蛮族とみなし、対等な外交関係を拒否していた各国も、対ハダカンボ外交の見直しを行うようになり、以後各国は外交関係樹立を模索するようになる。
なお同胞の軍資金は一武装組織が持つにはあまりにも膨大なものであり、その資金の出処は様々な憶測が流れたが、結局不明のままであった。

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最終更新:2018年12月09日 22:52
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