部活の後に軽音部メンバー全員でちょっとした会議をすることになり、
また例によって平沢邸がその議場として選ばれた。
適当なファーストフード店とかでも構わないところだけど、そのようになったのは、唯先輩の「じゃあウチにおいでよ!」という無邪気な笑顔のお誘いがあった結果だ。
そんなわけで、今はそのリビングで憂が用意してくれた飲み物やお菓子を頂きつつ、体感的にその半分を雑談が占める話し合いをしている。

自ら誘ってくれたとはいえ、いつもお邪魔してばかり。
唯先輩と憂には感謝すると同時に、少し申し訳なく思ったりもする。
とは言いつつも結局溜まり場にしてしまっているのは、この家の何とも言えない居心地の良さに、皆つい惹かれてしまうからかもしれない。
両親が不在がち故に2人きりで過ごす時間が長い平沢姉妹にとって、来客はむしろ楽しみだったりするのか、2人はいつでも歓迎してくれるのだ。

もっとも私にとっては、この家が好きな理由はそれだけではなかったりするのだけど。

「およ、あずにゃんのコップ空っぽだね。注いであげるよー」

不意に、私の中でこの家が持つ意味を単なる「先輩と親友の自宅」
以上のものにしている張本人が、いつものふわふわした声で話しかけてきた。
その視線の先にあるのは、空気で満たされている私のコップだ。

「あ、いいですよそんな。自分でやりますから」
「ご遠慮なさらずー♪…ありゃ?」

アップルジュースのペットボトルを手に取った唯先輩の動きが一瞬止まる。
すぐにそれを自分の目線まで持ち上げ、その内容物が私のコップと同様であることを確認した唯先輩は、
少し申し訳なさそうな顔をする。

「あー、こっちももう空だ。ちょっと新しいの持ってくるから待っててー」
「すみません、本当に」

いーからいーから、と言いながら唯先輩は立ち上がる。
一応申し訳なさそうにはしてみせるけど、やや喉が渇いていたのも事実なので、
ここは素直にお言葉に甘えることにした。
キッチンへ向かう唯先輩の後ろ姿を見ながら、憂がふと思い出したように呟く。

「あれ?でも、ジュースの買い置きあったかな」

憂の心配をよそに、しばらくして戻ってきた唯先輩の手には、
透明なピンク色の液体が注がれたコップがあった。

「お待たせー♪」
「ありがとうございます。って、注いできたんですか?コップはここにあるのに」
「うん。さっきのと同じジュースがなくて。
 それで冷蔵庫にあった別のジュースにしたから、
 味が混ざるとよくないかなーって思って新しいコップに入れたんだー」

妙に細かいところで気配りをする人だ。
まあこの人のそういうところも、個人的には結構好きなんだけど。
何も考えていないようで、色々なところでさりげなく周りを気遣ってくれる。
そのポイントがちょっとズレてることもあるけど、
結局はそれもいい結果をもたらしてくれたりして、
何とも不思議でよく分からないけど、憎めない人だ。
そんなことを思いつつ、私が唯先輩から受け取った
そのコップの中で揺れる液体を見て、憂は怪訝な表情をする。

「そんなジュース、買ってあったかなぁ…?」
「唯、味が混ざるのを気にするのもいいけど、
 どうせこの後また注ぐんだからボトルごと持ってきた方が良かったんじゃないか?」
「お前は何杯飲むつもりだ、図々しい」

もっともな指摘をする律先輩に、更にもっともなツッコミを入れる澪先輩。
この2人は本当に息が合ってるなぁ。
あれ?そういえば憂が何か気にしてたけど、何だったっけ?
そう思いながら、綺麗なピンク色をしたコップの中身を口に運ぶ。
甘酸っぱくて、フルーティないい香りがした。

「ううん、このジュースはペットボトルじゃなくて350の缶に入ってたんだ」
「350の缶…!?」

唯先輩の言葉を聞いた憂が顔色を変えた。

「お、お姉ちゃん!その缶、なんて書いてあった!?」
「ふぇ?えーと、確か『カシスオレンジ』とか…」

次の瞬間、他の4人は一斉に「えええぇ~!?」と叫び、
私は飲んでいた「ジュース」を噴き出した。

「お姉ちゃん!それお酒だよ!」
「ええっ!?」
「『カシスオレンジ』はカクテルっていうお酒の一種なのよ、唯ちゃん」
「そ、そうなの!?果物の名前だからてっきりジュースだと…」

憂とムギ先輩に聞かされた事実に、唯先輩は青ざめ、愕然とした表情になる。
いやいや、確かにカシスもオレンジも果物ですけど、
だからジュースだろうって判断はどうなんですか唯先輩。
果物の名前だからジュースだっていうならぶどう酒だってジュースですよ。
酒ってついてるのにジュース。なんという自己矛盾。ああ、でも甘酒はお酒じゃないか。

っていうか、私どれくらい飲んだっけ?
そこそこ喉が渇いていたこともあって、結構ゴクゴクいっちゃった気がする。
恐る恐るコップの中を確認すると、既に半分強は私の喉を通過したことが分かった。

「どどどど、どうしよぉー!?あずにゃんにお酒飲ませちゃった!
 っていうかコップに注いで残った分は私も飲んじゃったし!」
「落ち着け、唯!確かカシスオレンジはそんな強い酒じゃないはずだから、
 ちょっと飲んだ程度じゃ大丈夫なはずだ」
「いや、でもアルコールに弱い人だとそれでもアウトってことも…。
 梓、大丈夫か?具合悪くなったりしてないか?」
「あ、はい。大丈夫です」

律先輩はすっかり取り乱している唯先輩をなだめ、澪先輩は私の具合を心配してくれる。
唯先輩、自分でも飲んでたんですね。見たところ酔ってはいないようですが。
まあコップに注いだ残り程度じゃ、大した量じゃないだろうし。
幸い、私の方も今のところ体調に異常はなく、酔ったような感じも特にしない。
といっても、今までお酒を飲んだことはないから
どういうのが「酔った」感じなのかは分からないけど、
飲む前と比べて特に違いは感じないから多分酔ってない、と判断。
私の身体はどうやら、コップ半分程度の缶カクテルにやられるほど
極端にお酒に弱いということはないらしい。

それにしても、初めて飲むお酒は味に慣れてないからあまり美味しくない、
なんて聞いたことがあるけど、そうでもなかったな。
一部のカクテルはジュースと大差ないとも聞いたけど、そっちは本当っぽい。

などとどうでもいいことを考えていると唯先輩が私の所に来て、
私と向かい合う形で正座して、半泣き…いや、8割泣きで謝罪し始めた。

「あ、あずにゃぁ~ん、ごめん…ごめんなさぁ~い!
 まさかお酒だったなんて思わなくて…!本当にごめんねぇ~!
 大丈夫!?気持ち悪くなっちゃったりしてない!?」

唯先輩の泣き顔も、ちょっとかわいいかも…いやいや、そうじゃなくて。
唯先輩は泣き上戸…というわけでもなく、単純に罪悪感による涙だろう。
取り返しのつかないことをしたと言わんばかりの顔だけど、
特に私の身体にも異常はないし、唯先輩ならまあ仕方ないとも思えるうっかりだし
(それもどうかとは思うけど)、私は別に怒ってない。
だから、「大丈夫ですよ」とひとこと言って安心させてあげようと思った。
…一瞬、本当に一瞬だけ、立場が逆ならこの人がきっとそうしてくれるのと同じように、
その身体を抱きしめて安心させてあげようか、という考えも脳裏に浮かんだけど、
そんなのは私のキャラじゃない、とすぐに打ち消した。

しかし。

「でも、これで梓が酔っ払って、キャラがガラッと変わったりしたら面白かったかもなー」

それを言った律先輩は直後に「バカを言うな!」と澪先輩から制裁を受けていたけど、
その言葉が耳に入ったことが、私にちょっとした悪戯心を芽生えさせてしまった。


唯先輩は、顔を合わせれば必ずといっていいほど私に抱きついてくる。
最初の頃は戸惑ったし、正直鬱陶しく思ったこともあったけど、
今ではそれもイヤじゃない…どころか、すっかり好きになっていたりする。

そして、好きになったのは、そういったスキンシップだけではなかった。

そんな心境の変化があった私だけど、どうにも素直じゃないところは変化しなかったらしい。
唯先輩のスキンシップは嬉しいのに、それをその通りに表に出すことができない。
人前で抱きつかれたりするのはやっぱり恥ずかしい、とか。
以前は嫌がっていた手前、すんなり受け入れるようになったことで
デレたと周りに思われるのが(実際そうなんだけど)何となく癪だ、とか。
――私のいけない気持ちが唯先輩にバレて、拒絶されたらどうしよう、とか。
そんなことを意識してしまって素直になれないのも、
律先輩に言わせれば私のキャラなのかも知れないけど、
そのせいで大好きな唯先輩のスキンシップを(「大好きな」がどっちにかかるのかは秘密)
心ゆくまで味わえずにいることに、日々悶々とさせられていたりもする。
本当はもっといっぱい唯先輩に抱きしめられたいし、
自分から抱きついたりして、もっと甘えたりしたいのに…。

そんな中、降って沸いた今回のハプニング。
律先輩の言葉からヒントを得た私は、これをチャンスとして利用することを思いついた。
「酔っ払うとキャラがガラッと変わる」人。
実際の私がそうなのかどうかは分からないけど、
今からしばらく、私はそういう人になることにしたのだ。

別に、律先輩の期待に応えて楽しませようというわけじゃない。
ただ。

酔ってキャラが変わったフリをして、唯先輩にちょっぴり甘えてしまおう、と。
そんなことを思いついてしまったのだった。

これなら、私から唯先輩にくっついても「酔っているから」で済ませられるし、
「いつもの仕返しです」とでも言っておけば他意はない風を装えるだろう。
少し絡み酒っぽくしてもいいかもしれない。
後で何か言われても、その間の記憶は「なくして」しまえばいい。
さっきも言った通り、私は今までお酒を飲んだことなんてないから、
私のお酒への強さも、実際に酔った時の姿も、知る人はいない。
だから、演技次第でこの場を誤魔化すことはできるはずだ。

…まあ、自分でもこのアイデアは正直どうかとは思う。
他の先輩方や憂がいる前だし、恥ずかしいことに変わりはないのかもしれない。
だいたい、お酒の力を借りないと素直になれないなんて、情けないにも程がある。

それでも、こんな僅かなきっかけにすらすがってしまうくらい、
自分でも気付かないうちに、私の心は我慢の限界に達していたのだ。
泣くほど心配してくれている唯先輩には悪いけど、
元はと言えば唯先輩が私にお酒を飲ませたせいなんだし、
――唯先輩が私をこんな気持ちにさせたせいなんだし、
これくらいのズルは、許してもらえるよね。

心の中で誰にともなくそんな言い訳をして、私は早速、それを実行した。


「えへへ~、ゆいせんぱぁ~い♪」
「ふぇっ!?あ、あずにゃんどうしたの!?」

唯先輩は、私の突然の豹変ぶりに涙も止まるくらい驚いたようだ。
確かに、今の声は自分でもびっくりするくらい、甘えた色をしていた。
いつも心にはめている枷を少し緩めて、少し素直になっただけなのに…。
まさかあんな声が出るとは思わず、自分で恥ずかしくなってしまい、頬が熱をもつ。
けど、その赤らんだ頬も、酔っていることの演出には多分ちょうどいい。
うん、死角はない。

ゆいせんぱい、ゆいせんぱい、ゆいせんぱぁ~い♪♪」
「な、なに!?」
「ゆいせんぱいにはいっつも抱きつかれればっかれすから、しかえしれすぅ~」
「わ、わわわ、わわ!?」

唯先輩はまだ混乱している様子だけど、そんなことはお構いなしに
その身体に正面から抱きつき、その胸に顔をうずめる。

――ああ。
唯先輩の温もり。
唯先輩の柔らかさ。
唯先輩の匂い。

いつもは存分に味わえないそれらを、ここぞとばかりに堪能する。
いつもの何倍もの量の唯先輩分が、いつもの何倍もの勢いで私の中に流れ込んでくる。
あまりの快感に、身体も心も震える。
これは、想像以上に――たまらない。
もっとそれを味わいたくて、唯先輩の背中に回した両腕に更に力を込めて、
程よい豊かさをもつその胸に、より深く顔をめり込ませる。
唯先輩は私の様子に戸惑いつつも、しっかり抱き返し、頭を撫でてくれている。

「ふへへ~、ゆいせんぱい、参りまひたか~?降参れすかぁ~?
 れも、まだはなひてあげまひぇんよ~♪」
「あずにゃんからこんなくっついてくるなんて…一体どうしちゃったの…!?」
「きっと今になって酔いが回ってきたんだ。少しタイムラグがあるから…。
 律があんなこと言うから、本当になったじゃないか!」
「いやいや、さすがにそれは関係ねーし!?
 しかし、ちょっと飲んだだけでコレかよ。梓がこんなにアルコールに弱かったとは…」
「素敵…!とても素敵だわ!お酒って凄い可能性を秘めていたのね!」
「何の可能性だよ…っつーかガッツポーズすんな、ムギ」
「梓ちゃん、酔っ払うとこんな風になるんだ…仕返しって言ってるけど、本当かな?」
「ゆいせんぱいぃ…はなひまひぇんよぉ~♪」
「あ…でも、酔いにゃんもかわいいかも…よしよし♪」

どうやら、私の酔ったフリは上手くいっているようだ。

――いや、もうフリではなくなりつつあるのかもしれない。

だって私は、唯先輩に、もうすっかり酔ってしまっているから。

私の感覚を刺激する唯先輩の全てが気持ちよくて、蕩けてしまいそう。
身体がかぁーっと熱くなって、頭がくらくらして、ふわふわした浮遊感に襲われる。
お酒で酔っ払ったときもこんな感じになるのかな?
でも、たとえ世界中のあらゆるお酒を集めても、きっとこれほどまでに気持ちよく、
あっという間にメロメロになるくらい私を酔わせてくれるお酒はないだろう。
どんなお酒だって敵わないくらいに私を酔わせる、大好きな人――愛しい、唯先輩。

初めて飲むお酒はあまり美味しく感じない、と聞いた。
今回の私はそうではなかったけど、唯先輩に対する私の想いはきっとそんな感じだった。
色や香りはよかったのに、いざ飲んでみたら期待外れで。
でも、だんだん本当の味が分かるようになって、それを美味しく感じるようになって。
そして、いつの間にかそれなしではいられなくなった。
もう、すっかり依存症だ。
初めて味わう恋に、唯先輩に、私はずっと酔わされっぱなしなんだ。

それでもこれまでは、素直になれないことが摂取制限にもなっていて、
だからこそどうにかなっていたのかもしれない。
けれど今の私は、その制限を自分で取り払ってしまった。
唯先輩にいつもよりいっぱい甘えて、唯先輩分を浴びるように摂取してしまった。
それは予想を遥かに超えて私を酔わせ、正常な思考を奪っていく。
ちょっとだけのつもりだったのに、その域を通り越して尚、それを欲する自分がいる。
もっともっと、唯先輩が欲しい。
でもこれ以上はもう、自分がどうなってしまうのか、まるで想像がつかない。

そう、想像がつかない――だから、もう考えるだけ無駄だ。

そう思った瞬間、おそらく私の心の枷は完全に外れてしまって。
私はただひたすら心の赴くまま、求めるままに動き始めた。

「ふぇへへ~、ゆ~いしぇんぱぁ~い♪もっと、もっとぉ♪」
「あずにゃんが酔いにゃんからドロにゃんに進化した…!」
「何だよドロにゃんって…」
「『どろよい』して『ドロドロに甘える』あずにゃんだよ!」
「お姉ちゃん、『泥酔』は『でいすい』って読むんだよ」

そう、私は泥酔状態です。あなたのせいで。
あなたの魅力に、あなたという存在に、こんなに酔わされてしまったんです。
だから、あなたにドロドロに甘えないと気が済まないんです。

「はっ!もしかして、今のあずにゃんなら!」

と、そこで何かを思いついたらしい唯先輩は、
正座を崩して座ると、自分の太ももをぽんぽんと叩く。

「ほ~らあずにゃん、膝枕してあげるよ~♪」
「にゃあぁ~ん♪」

猫みたいな声が出た。無意識に。
律先輩の「うわぁ…」というドン引き気味の声と
ムギ先輩の言葉にならない歓喜の声が聞こえた気がするけど、
そんなノイズはどうでもいい。
今は唯先輩の太ももしか目に入らない。
誘われるまま、わき目もふらずにすがりつく。
健康的な肉付きのそれは見た目通りふにふに柔らかくて、
ぽかぽか温かくて、タイツと肌の感触もすべすべで、もう最高…。
頬を擦りつけて目一杯楽しませてもらう。

「ふにゃあぁ…」
「あずにゃんが完全に猫さんになっちゃった…ネコミミ用意しとけばよかったなー」
「うにゃぁん♪」
「おー、よしよし♪」

唯先輩は、私の頭や首筋や背中を撫でながらそんなことを言う。
大丈夫、ネコミミなんかなくたって、私はちゃんとあなたの猫ですよ。
あなたが大好きで、本当に大好きで、
もっともっとかわいがって欲しくて仕方ないと思っている猫です、なんて。
ああ、何だかまた酔ったみたい。
人モードの私にとってはまるでお酒で、猫モードの私にとってはまるでマタタビ。
私はどうあってもこの人に酔わされる宿命なのかもしれない。

そのまましばらくは唯先輩の膝の上で大人しく撫でられていたけど、
唯先輩酔いがますます進むにつれて、それにさえも物足りなさを覚え始める。
更なる唯先輩分を積極的に求めようとおもむろに身体を起こすと、
偶然にも唯先輩の顔が、文字どおり目と鼻の先にあった。

「ほわっ!?」
「…えへ~、ゆいしぇんぱ~い♪」
「な、なにかな?」

いきなり顔を近づけられたからか、驚いた顔をして、少し頬を染める唯先輩。
こんな至近距離で見つめあうなんて、普段は照れ臭くてできないけど、今ならできる。
そうやって近くで見る唯先輩は、とてもかわいい。
遠くで見てもだけど、近くで見るともっとかわいい。
大きくてつぶらな目、そこに少しかかる柔らかな髪、長い睫毛、ぷにぷにしたほっぺ。
化粧っ気はないし、眉毛もちょっと整えきれてない感じだけど、
それもかえって素朴な感じがして魅力的だと思う。
そんな唯先輩の顔は、いつもコロコロその表情を変えて、私の目を飽きさせない。
心をストレートに映して、笑ったり、泣いたり、むくれたり、また笑ったり。
いつものかわいい顔も、だらけているときの間の抜けた顔も、
少し澄ました綺麗な顔も、真剣なときのカッコいい顔も…全部、ぜんぶ大好きだ。
見ているだけで、思い出すだけで、また酔いが回る。
こんなかわいい人、こうしてやるです。

「ゆいしぇんぱいはかあいいれすねぇ~♪あたまなれなれひてあげまふよぉ~」
「わ、え、ちょ、そんなことないよ!あずにゃんの方がかわいいよ!?」

唯先輩の頭に手を伸ばし、その茶色がかった髪に触れる。
少し癖っ毛気味のそれはふわふわと柔らかくて、指で梳くと気持ちいい。
そうするたびに、シャンプーの香りなのか、甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
その香りに誘われるように、私はそのふわふわに顔を沈めた。

「ふぁっ!?」
「ゆぃしぇんぱいのかみのけ、ふあふあいいにおいできもちいいれすぅ~」
「はわわ、や、やめてよぉ!」

唯先輩の髪をモフモフくんかくんかしながら、次は何をいただこうか考える。
うん、やっぱり、さっきも目に留まったあれかな。
唯先輩の抱きつきに、よくセットでついてくる頬ずり。
その時に私のほっぺに押し当てられる、
すべすべでしっとりでもちもちでぷにぷにな唯先輩のほっぺも、
この際だからちゃんと賞味しなきゃ。
名残惜しいけど、ふわふわ時間(唯先輩の髪的な意味で)に別れを告げてから、
まずは指で、それを味わう。

「ゆいしぇんぱいのほっぺぷにぷに~♪」
「はうぅ…」

指先に吸いつくような感触、包み込むような柔らかさ、でもしっかり押し返す弾力。
今日もバッチリですね、唯先輩。
絶妙なその触り心地をしっかり指先で確かめてから、
自分の右のほっぺを唯先輩の左のほっぺにぴったりとくっつける。

「ほおずりぃ~♪」
「ふえぇぇ…」

うん、やっぱりほっぺの感触はほっぺで味わうのが一番。
すりすり。ああ、幸せ…。

「お、おい、梓のキャラ変わりすぎじゃねーか?もはや仕返しってレベルじゃ…」
「唯が完全に押されてるしな…普段の唯よりもむしろスキンシップが激しい…」
「素晴らしい…これは素晴らしいわぁ…!」
「ムギ、うっとりしすぎ…」
「お姉ちゃんと梓ちゃんがいつもと違う…なんかドキドキするかも…」
「憂ちゃんまで!?」

唯先輩は普段あれだけ私に抱きついてスキンシップをしてくるくせに、
自分がされる側になるのは慣れていないのか、たじたじになっている。
顔を真っ赤にして涙目のレアな表情。
それがまた反則的なまでにかわいくて、私の唯先輩酔いは更に悪化する。
もうそろそろやめておこうかな、でも最後に何か、もう一回だけ味わってから…。

そこで、私の目に留まるものがあった。
小ぶりで形も良くて、つやつやと血色のいい、柔らかそうな、唯先輩の唇。
柔らかな歌声や、私を呼ぶ甘い声が紡ぎだされるそこに、私の視線は釘づけになる。

――そうだ、次は、あれにしよう。
前に唯先輩も自らしようとしてきた、あれ。
あの時は突然でびっくりしたことや恥ずかしさもあって
つい反射的に拒否してしまったけど、本当はずっと、してほしかったんだ。
それも、今ならきっと大丈夫。

「ね~、ゆいしぇんぱい?」
「な、何かな、あずにゃん」
「ちゅ~してもいいれふよ、ちゅ~してくらさい、ちゅ~しましょ~♪」
「ちゅ、ちゅー!?」

4人の観衆からどよめきが起こった気がした。
あれ、私、何かとんでもないことを言いだしてしまったのかも…?
うーん、でももう何かと手遅れな気がするし、今の私は酔っているから仕方ない。
うん、仕方ないんだ。

「ゆいしぇんぱい、前にわらひにちゅ~しようとしたじゃないれふか~」
「い、いや、でも…」
「い~じゃないれすか~、ちゅ~してくらさいよぉ~」
「う…だ、ダメだよあずにゃん!こんなの…」
「ひてくれないなら、こっひからいきまふよぉ?」
「ダメだってば!」

しかし唯先輩は、キスだけは頑なに拒んだ。

…どうして?
確かに、前に唯先輩がしようとしてきた時は私も拒んだけど、
今は私が自らキスをせがんでいるのだから、ためらう理由はないはずなのに。
いくら受け身に慣れていないといっても、
唯先輩なら喜んでしてくれると思っていたのに…。

「ぐすっ…」
「ふぇ?あずにゃん?」
「なんれ…なんれれすか?なんれ、ちゅ~してくれないんれすか!?
 前はゆいしぇんぱいの方からしようとしてきたのに…。
 あれはただの遊びらったんれすか!?」

あんなに思わせぶりなことをしておいて、いざ迫られると拒否するなんて。
唯先輩にとってはキスを「しようとする」のもただのスキンシップの一環で、
本当はするつもりなんかなくて、特別な意味は何もなくて、
半ばおふざけで、ただの冗談だったってことですか?
そんなの…そんなのひどいじゃないですか。
さんざん気を持たせておいて、そんなのってないじゃないですか!

「ち、違うよあずにゃん!ただ、今は…」
「うるひゃいれす!ゆいしぇんぱいはひどいれす!ばか!ゆいしぇんぱいのばか!」
「話を聞いてよあずにゃん!…あと、みんなも見てないで何とかしてよぉ!」
「はっ!ご、ごめんねお姉ちゃん!」
「ああスマン、思わず見入ってしまった…っておい澪、しっかりしろ!放心状態だぞ!」
「ちゅー……ちゅー…ネズミごっこか……梓はネコミミ似合うしな……はは……」
「いいじゃない唯ちゃん、してあげれば!」
「はいはいムギ、ちょっと自重しようね。ほら梓も、その辺にして唯から離れろ」
「イヤれす!はにゃれましぇん!」

律先輩が私を唯先輩から引きはがそうとしてくるけど、私は涙を流しながら必死に抵抗する。
イヤだ、離したくない。
唯先輩も、この気持ちも。
私はまだ、この人に酔っていたいんだ。

「ああもう、ひどいなこりゃ…。憂ちゃん、悪いけど水持ってきてくれ」
「は、はい」
「はにゃしてくらひゃい、りつしぇんぱい!」
「いいから大人しくしろ、この酔っ払い!」
「あずにゃん、まずは落ち着こうよ。ね?落ち着いて話そう?」
「にゃんれふか!いまひゃらにゃにをはにゃすっていうんれふか!
 ろうせじぇんぶわらひのかんひがいらったんれひょ!」
「もうお前何言ってんのか全然わかんねーよ…半分猫語みたくなってるし」

あんなに抱きついてきて、あんなに可愛がってくれて、あんなに私の心に入り込んできて。
そんなあなたに本当は甘えたくて、でもなかなか素直になれなくて。
それでもハプニングまで利用して、やっと自分から甘えられたのに、
そうやってこっちからアプローチしたら、応えてくれないなんて。
結局、あなたにはそんな気持ちなんてなかったんですね。
あなたがあんな風だったから、私にとってあなたがそうであるように、
あなたにとって私は特別なのかもしれないと、どこかで期待していた。
女の子同士のいけない気持ちと分かっていても、希望を持てた。
でも、私の勘違いだったんですね。
そのおかげで、私はすっかりこんな気持ちにさせられてしまったというのに。
今更どうしようもないくらいに――。

「あずにゃん!」

唯先輩は突然大きな声で私の名を呼ぶと、私の肩をがしっと掴んできた。
眉を吊り上げ、珍しく怒ったような顔をした唯先輩の、らしくない剣幕。
思わず私も、私を制止していた律先輩も、
見ていた澪先輩とムギ先輩も黙ってしまい、一瞬にして静寂が訪れる。
そこで吊り上げていた眉尻を下げ、表情を少しだけ悲しげなものに変えた唯先輩は、
私の肩から手を下ろすと、さっきとは一転して静かに口を開いた。

「ごめんね…あずにゃん。でも、キスするのは、今は、今だけはダメだよ」
「なんで…」
「今のあずにゃんは、酔っ払ってるから。
 酔っ払って、ちゃんとした判断ができなくなっちゃってるから」
「別にそんなの…!」
「ううん、良くないよ。
 ちゃんと判断できないのに、ただその場のノリで、勢いで、だなんて。
 正気に戻った時に後悔するかもしれないキスなんて、しちゃダメだよ」
「後悔なんて…」

後悔なんてしない、と言いかけたけど、
当の私が言っても説得力はないことに気付いて口をつぐむ。
今更(お酒には)酔っていませんでした、なんて種明かしをするわけにもいかず、
自分で蒔いた種とはいえこの上なく歯がゆい。
でも、唯先輩が私のことを気遣ってそう言ってくれているのは理解できて、
それはちょっと嬉しかった。

「それに…」

唯先輩は続きの言葉を口にする。頬をかいて、少し照れくさそうにしながら。

「『酔っ払った勢い』で済まされちゃうのが、イヤだったんだ。
 あずにゃんとの、初めてのキスを…」
「え…」
「正気に戻った時に、あずにゃんは後悔するかもしれない。
 もしかしたら覚えてないかもしれない…。
 あずにゃんとの初めてのキスがそんなのじゃ、やっぱり悲しいもん…」
「あ…」

言われてみれば、その通りだった。
私はお酒には酔ってないけど、唯先輩にそれは分からない。
だからあのままキスをしても、それは「酔った上での悪ふざけ」になる。
実際、最初にこれを思いついた時の私はそれを狙っていたのだ。
でもそんなことになれば、私にとってはちゃんとしたキスの記憶でも、
唯先輩にとっては酔った私が勢い任せにしただけのキス、ということになる。
それは…そんな形で唯先輩の記憶に残るのは、やっぱりイヤだ。

「あずにゃんとの初めてのキスは、大切にしたいんだ。
 だから、あずにゃんの酔いがすっかり醒めて、いつも通りになって。
 それでも私とキスしたいって思ってくれるまで、おあずけだよ」
「ゆいしぇんぱい…」

そうなるまで何度でもアタックしちゃうからね、と。
そこでようやく唯先輩はいつも通りの笑顔になり、私の頭を撫でてくれた。
唯先輩の優しさ、温かさがその手のひらから伝わってきて、
いつの間にか止まっていた涙が、またじんわりと浮かんできてしまう。
まったく、私は何をやっているんだろう。
本当は唯先輩が大好きなくせに素直になれなくて、
唯先輩が起こしたハプニングにつけこんでズルをしようとして、暴走して、
その結果危うく大好きな唯先輩も、最終的には自分自身も傷つけそうになって…。
結局、他でもない唯先輩に助けられたんだ。
もう色々とひどいなぁ、私…。
こんな私だから、ズルをしたんだから、当たり前だよね。
キスがおあずけなのは…。

…おあずけ?

あれ?おあずけってことは、後でちゃんとしてくれる…ってこと?
唯先輩が語った、キスを断った理由をよくよく思い返してみる。

私との初めてのキスを大切にしたいから?

え?それって…。

「あのー、律さん。お水持ってきたんですけど…」

混乱気味の頭で思考を巡らせていたところで、キッチンから憂が帰還した。
その手にあるのは水の入ったコップと…空き缶?

「おー、サンキュー憂ちゃん。ちょうど梓も落ち着いたところだ」
「あ、はい。それでなんですけど…ちょっとこれを…」
「ん?何だこれ…カクテルの缶?」
「はい、キッチンにあったんです。
 お姉ちゃんが梓ちゃんに飲ませたカクテルの缶だと思うんですけど…。
 ここのところに…」
「ほぇ?どうかしたの、憂」

キッチンから持ってきたという、私が飲んだカクテルの空き缶。
憂の手に持たれているそれを、私と唯先輩を含めた全員が覗き込む。
そして、憂の指が示す先に書かれている文字を、唯先輩と律先輩が読みあげた。

「『ノンアルコール』…」
「『アルコール分0.00%』…」

「…………え?」

背中をとても嫌な汗が伝っていく。
しばらくその場に気まずい沈黙が流れた後、唯先輩がおずおずと口を開いた。

「えっと、これは…どういうこと…かな…?」
「このカクテルにはアルコールが入ってないってことよ、唯ちゃん。
 家のパーティで見たことがあるカシスオレンジとは見た目が随分違うと思ったけど、
 なるほど、そういうことだったのね」
「よく見たら、カシスオレンジ『テイスト』って書いてあるな。品名も『炭酸飲料』だし」
「澪ちゃん…ってことはつまり…?」
「ああ、つまりだな、唯。これはお酒じゃなくて…」
「だから、梓ちゃんは本当は…」

真相がどんどん明らかになっていく。

いや、私は確かに酔ってましたよ?唯先輩に。

でもそれは、間違えて飲んだお酒で酔っ払ったということにして、
キャラが変わったフリをして唯先輩に甘えた結果で…。

だから、その根本となる「間違えて飲んだお酒」が、
実はお酒じゃなかった、ということは、その、つまり…。

全身に冷や汗をダラダラ流している私の肩を、律先輩の手がポンと叩いた。

「お前の酔っ払いの演技と、唯へのベタつきっぷり…大したもんだったぞ、中野♪」

律先輩がニヤニヤしながら言うと同時に、5人分の視線が、一斉に私に向けられた。

唯先輩酔いも一気に醒め。
しかし私の顔はさっきまでよりも、
いや、世界中のどんな酔っ払いよりも真っ赤に染まっているに違いないと、
そう確信できるくらいの熱を頬に感じながら。

「……にゃああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」

私は絶叫した――。

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最終更新:2011年01月21日 19:57