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お姉ちゃんレシピ

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お姉ちゃんレシピ


『お姉ちゃんレシピ』

漠然とした不安ほど始末に負えないものはない。
いくら拭いてもぬぐい切れないガラスの曇りみたいなものだから。

    ◇  ◆  ◇

薄暗い部屋の中にいても、かすかに雨の滴りが聞こえてくる。
昨日までの春めいた陽気から一転して花冷えの一日だった。
まだ日が落ちるには間があるはずだけど、ひょっとしたらこれからも
まだまだ降り続くのだろうか。

 この家には今、部屋の主である唯と私の二人しかいない。
朝一番で訪問した私とすれ違うように、憂ちゃんは出かけて行ってしまったからだ。

「ちょっと梓ちゃんの所に遊びに行ってきます。夕方まで戻りませんから。
夕方までですよ。いいですね? ああそれから、あとで──」

出かけぎわにそんなことを笑顔で言われた。
まるで唯を自由にできるのは夕方まで、ときつく念を押されたような気もする。
というか、唯の引っ越しの手伝いに来たはずなのに、
ひょっとするとそれどころじゃないのかな、
という漠然とした不安が胸の奥から湧き上がって来たことを覚えている。

結果的にその不安は、最悪の形で現実のものとなってしまった。



それでも最小限の着替えとか、勉強道具の類を段ボールに詰めるまでは頑張ったんだ。
私だってその程度の常識はわきまえてるつもり。
まさか引っ越しの前日に、家で二人きりという状況を利用しちゃおう、
なんて浅ましい事はこれっぽっちも考えてなかったんだ。

だけど肝心の唯はそうじゃなかった。
いやそれでも最初のうちは、なんとか誘いを払いのけていたんだ。
だけど、まとわりつかれ言い寄られのしかかられ、
ほんわりした温もりや柔らかい囁きや細い指の感触や濡れた唇の湿り気に、
なけなしの理性もしだいに削り取られていき、
まあ結果的にはいつものような流れに──というわけだった。

それでも真っ白な虚脱感に身をゆだねながら、
頭の片隅で酷い罪悪の念を覚えていたのは間違いない。
普段ならともかく、明日は大学の寮に引っ越しという状況で私達、
いや私はなんでこんなことになってるのだろう。
二人で一枚の毛布にくるまって燃え尽き果てているという、なんてことに。

「澪ちゃん、澪ちゃん、澪ちゃぁん……」

半ば呆けた状態で私の身体に両手でしがみ付きながら、
まるで甘い睦言か呪詛のように唯が私の名前を呼び続けていた。
軽く左手で頭を撫でてそれに答える。
まるで小さな子供のようでもあり、それでいて私以上に大人びた女性のようでもあった。
安堵と諦観の混じる溜息が思わず私の口から洩れ出してしまう。
もちろん唯はああいう性格だから、その手の緊張感とは無縁だというくらい、
もう骨身にまで染みている。
何せ3年間の部活の付き合いだ。その上、3年生に至ってはクラスメイトに。
まして最後の半年は……まあそのなんだ、アレだったわけで。


人目を忍んでは無人の教室で、階段の踊り場で、校庭の片隅で、部室で、帰り道で、私の部屋で。
大学の受験も間近だという立場にありながら、まるで何かを恐れるように、
寸時を惜しんでだらだらと逢瀬を続けてしまっていた。
予備校の判定結果から判断する限り、唯の合格は半ば奇跡に近いと言ってもいい。

だからこそ、こんな時くらい私が率先して動かなければ、
永遠に引っ越しの準備が終わらないことくらいわかってたんだ。
なのにこの体たらく。
つくづく流されやすい自分の軟弱さに情けなさが込み上げてくる。

しかしそんな私と違って、唯は少しずつだけど、確実に成長を遂げていることも実は知っている。
たとえばギターの腕だってそう。
そりゃまあ技術的にはまだまだ梓にも及ばないけど、
もともと唯がまともにギターに触ったのが高校に入ってからということを考えれば、
驚くべき、いや恐るべき進歩だろう。

それに『Y&I』だって。
いくら憂ちゃんが絡んでいるとはいえ、あの詩は素晴らしく感動的だ。
唯の想いがこれでもかというくらい詰まってる。
間違いなく『ふわふわ時間』と並んで私たちのバンド「放課後ティータイム」
を代表するナンバーに違いない。

それに比べてこの私のなんと情けないことだろうか。
相変わらず引っ込み思案だし、人見知りだし、心配性だし。
高校生活の3年間でもそういう点は少しも進歩していないのだ。

私は唯の側にいる資格があるのだろうか。
いずれさらに美しく成長していく彼女の側にいる、資格が。

もし私が唯のお荷物になってしまったら。そう思うと、怖くて怖くてたまらない。


「どしたの、澪ちゃん。震えてるよ。それに……ちょっと痛いかも」
「あ……ご、ごめん」

ふと気づくと、訝しげな表情を浮かべた唯が私のことを見上げていた。
いつの間にか彼女の事を力任せに抱き締めてしまっていたらしい。
謝りながら両の手の力を緩める。すると今度は、

「そうだ、忘れてた。憂から澪ちゃんにって、預かってたものがあるんだった」

そう言うなり、緩めた私の手をすり抜けて自分の机へと飛んでいく。
そういえば別れ際に憂ちゃんがそんなことを言っていたっけ。

 ──ああそれから、あとで澪さんへ渡すようにって、
 ──お姉ちゃんに頼んだものがあるんです。
 ──必ず読んでくださいね。必ずですよ?

それにしても何一つ隠すもののない状態でそんなことをやらかす所はまだまだ子どもだなあ。
とはいえやはり認めざるをえない。
そのシルエットが夏休みの頃と比べて一段と女らしくなっていることに。

さまざまな変化の中でも何より彼女自身が、特にこの半年ほどで確実に変化を遂げて始めている。
少女から大人へ。まるでつぼみが綻び花開くように、確実に女性としての魅力を備えはじめていた。

もっとも普段の言動がアレだから、まだ気づいてる人は少ないだろうけど。
いやひょっとすると本人すら自覚がないかも知れない。
だけど高校最後の半年間を、ある意味誰よりも近い距離で過ごしてきた私には、
文字通りその変化を手に取るように感じていた。

明日からは私達はひとつ屋根の下で暮らすことになる。
たとえ部屋は別々でも、夜中の距離は限りなく近い。
いや待てよ。ひょっとして私が望めば、毎晩だって不可能じゃないかも知れない。

だけど唯と私は学部が違う。もう同じクラスにはなれない。昼間の距離は限りなく遠い。

──大丈夫だよ。

どういうわけか、最初の学祭コンサートの時に見せてくれた、
唯のひまわりみたいな笑顔が脳裏に浮かんだ。

初めて『ふわふわ時間』の歌詞を褒めてくれた唯。
合宿で滝のような花火をバックにギターをかかえてはしゃぐ唯。
そして何よりも、私の大きい手と長い指を好きだと言ってくれる唯。

それらを思い出してもなお、漠然とした不安を拭い去ることはできなかった。

これからもちゃんとやっていけるのだろうか、私と、唯は。
「大丈夫だよー」
「……へ?」

いつの間にか、憂ちゃんからの預かり物を探してはずの唯の顔が、目の前に出現していた。
あまりにも自分の思考に深く埋没していて、彼女の動きを把握することも忘れてしまっていたらしい。

「朝だってちゃんと起きてー」
「そっからしてまず心配なんだが」
「一人で勉強だってちゃんとするしー」
「ホントに? 唯が? 一人で大学の勉強をする?」
「まあその、ちょこーっと澪ちゃんや和ちゃんに手伝ってもらうかも知れないけど……」
「いやだから私だって学部違うし、和に至っては別の大学だし」
「……あー、大丈夫だよ……多分」

わずかに唯の笑顔が引きつる。だめだ。
朝起こすくらいならまだしも、その他のフォローとなると心もとない。
こんな事でホントに大丈夫なんだろうか。

「ねえ澪ちゃん、私のコト、好き?」
「何を今さら」

よほど私の顔色が悪かったのだろうか。
まるで目の中を覗き込むようにしながら、唯が硬い表情を浮かべてそんな質問を投げかけてくる。

「大抵のことはやっていけると思うんだけど、一番心配なのは、澪ちゃんに見捨てられちゃうこと」
「え……っ?」
「だって澪ちゃん美人だし、可愛いし、人気出そうだし、私なんかどんくさくて、いっつも迷惑ばかりかけてるし……」

そのまま言葉に詰まり、しゅーんとなってしまう。

「そ、そんなことないぞっ」

あわてて私は語気を強めながら答えた。
そうとも。こんな時こそ、むしろ私の方がしっかりしなくちゃ。

「唯といっしょなら、私はいつだって楽しいから。絶対見捨てるなんてことないから」
「ホントにー?」
「ああ、本当だって」
「そっか。よかったー」

そんなやり取りを交わすと、心底安心したような笑みを撒き散らしながら、
再び唯は探し物を見つけ出す作業へと戻っていった。

唯たちと同じ大学に進路を変えたのだって、本来は彼女の側に少しでも長くいたいから、
という気持ちがあったからだ。今さらそれを隠そうとは思わない。
だけどその選択が正しいものだったのか、私は再び迷い始めていた。

確かに合格した頃は喜びでいっぱいだった。
唯が女子寮に入ると言い出した時は正直天にも昇る心持だった。
彼女と同じ屋根の下で暮らせる。そう考えただけで心が躍ったものだ。
しかしそれも一過性の盛り上がりにすぎず、むしろ最近は危惧のほうが重くのしかかってしまっている。

今の所はまだ、唯の危なっかしい所を支えているのが私だという自負は、
少なからず持っているつもりだ。
しかしこのまま彼女だけがさらに変化をとげ、私だけが置いて行かれてしまったら。
逆に私が足を引っ張ることになってしまったら。

それでなくても大学は未知の世界だ。
これまでのように先生の言う事を聞いて良い子でいれば成績が取れるわけじゃない。
そして四年後にはイヤでも社会に出ていかなければいかなくなる。
言ってみれば、私たちに残された最後の猶予期間。
その間にもしも、私だけが取り残されてしまったとしたら……。

そんな取りとめのないことを考えていた時のことだった。
ようやく「あったー」と唯が歓喜の声を上げたのは。

「やっと見つけた。これだよ、憂から預かってたんだ。澪ちゃんに渡してくれって」

そう言われ手渡されたのは、表紙に『澪さんへ』と簡潔に書かれた1冊のくたびれたノートだった。
半身を起こし、一枚一枚ページをめくっていく。憂ちゃんの意図を訝しみながら。

ノートの内容はある意味、宝の山だった。

たとえば唯の好きな料理の作り方の数々だったり。
服や音楽、小物類やアクセサリーの好みだとか。
たとえば季節ごとの彼女の過ごし方だとか。
または遠い昔の頃の思い出話だとか。
果てはご機嫌の治し方に至るまで。

知ってることも少なからずあったけど、まるで初耳だったこともたくさん書かれていた。
おそらくそれは憂ちゃんが唯のために尽くしてきた過去のほんの一部なのだろうけど、
それらがいかにも彼女の性格らしい几帳面な文字でびっしりと綴られている。
あまりの情報量に目まいを起こしそう。

要するにこのノートは唯そのもののレシピなのだ。
彼女を喜ばせるために、憂ちゃんが文字通り心血を注いで作り上げてくれたレシピ。

そしてノートの最後は、こんな一文で締めくくられていた。

──お姉ちゃんのこと、くれぐれも、くれぐれも、よろしくお願いいたします。

バカな私はこれを読んで、ようやくノートを託した憂ちゃんの気持ちを理解することができた。
彼女は、世界で一番大切な姉のことを、この私に任せてくれたんだってことに。

私はノートの中身を唯にも読ませた。
最初は笑顔で、途中から真顔に、そして最後はポロポロと大粒の涙を流しながら、
それでも彼女は最後まで読み切った。まるでそれが姉として責務であるかのように。

「澪ちゃん。私たち、幸せになろうね、絶対」
「ああ、そうだな」

そっとノートをベッドサイドに置いてから、唯は無言で私に抱きついてきた。
そんな彼女の身体を私はそっと包み込むように抱き締める。
今こそ彼女の温もりと想いを全身全霊で受け止めなければ。
同時に自分自身の胸にも熱い想いがこみ上げてくるのを感じていた。

気が付くと、いつの間にか雨が止んだらしく、室内が再び明るさを取り戻していた。
心なしか気温まで少し上がったような気もする。
まるで私たちへ本格的な春の訪れを告げているみたいだ。
暗い不安に満ちた過去から、希望の光が差し込む未来への道筋を感じさせてくれるかのように。

たとえ道ならぬ恋だったとしても。
私たちの気持ちがちゃんと通じて合っていて。
それどころか応援してくれる人までいるなんて。

なにより憂ちゃんが教えてくれたのだ。
大切な姉の全てを託してくれることによって。

決して私たちは孤独じゃないってこと。
できすぎなくらいに幸運なのだと。
ほんの少しだけ、思える。

大学生活、寮生活、唯との生活。
不安もあるけど、それ以上の楽しいことも待ち受けているに違いない。
まるで唯の思考パターンが乗り移ったみたいだけど、
今の私にはそんな希望に満ちた未来予想を、驚くほどすんなり受け入れることができた。

この憂ちゃんのノート、唯への想いで溢れている、お姉ちゃんレシピによって──

    ◇  ◆  ◇

私は唯のことが大好きで。
きっと唯も私のことが大好きで。
何よりこの気持ちを宝物みたいに感じられる。

それはとても大切な事に違いない。
とても幸運な事に違いない。

だけど不安がないと言えば嘘になる。
自信があると言えば嘘になる。

それでも唯のことが世界で一番大切だと信じられるなら。

不安も。
自信のなさも。
全て満面の笑顔で包み込むことができる。



だって好きになってしまったから。
だって愛してしまったから。

だから唯が望む限り、ずっと側に居ても、いいよね?

 (おしまい)

※前作「秋色のとばりに

初出:5.75->>111->>117,>>124->>130

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