※今までに書いたもの
神をも恐れぬ
冬虫夏草
神徳はゆっくりのために
真社会性ゆっくり
ゆっくり石切
ありすを洗浄してみた
※今現在進行中のもの
ゆっくりをのぞむということ1~
※注意事項
- まず、上掲の作成物リストを見てください。
- 見渡す限り地雷原ですね。
- なので、必然的にこのSSも地雷です。
- では、地雷原に踏み込んで謙虚ゲージを溜めたい人のみこの先へどうぞ。
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「ありすはおんしつそだちだから、そんなわからないことばかりいうんだぜ!」
「……ゆぅっ。そ、そうね! のらゆっくりのまりさには、ありすのゆめなんてわからないとおもうわ!」
それは長く続いた口論の末に、ふっと出てしまった罵言だった。
口にしてしまってから、ありすはしまったと臍を噛んだ。これは、絶対に口にしてはならない言葉だったはずなのに。
のらゆっくり。この言葉をありすのつがいであるまりさは酷く嫌う。
子ゆっくりにまで育ったばかりの頃に、まりさは相次いで両親とおうちを失い正しく野良として育ったゆっくりだから。
親の愛情を受けずとも、周囲の保護を得られずとも、子ゆっくり一匹で成体になりきる直前まで育ちきったのだと強がって見せても、
家族もおうちも持たない、皆から苛められる野良であった苦しくて悲しい記憶は決して消えない。
孤独と裏切りが、怖いのだ。
「ま、まりさ……」
「ありす」
だから、まりさは野良と呼ばれることを過敏なまでに嫌う。恐れる、といい換えてもいい。
古傷をぶしつけに抉られたまりさが、静かな声音でありすの名を呼ぶ。先ほどまで激しくいい争っていたのが嘘のように。
だがありすはその静けさこそ、内側に燃え盛る憤怒を無理やり押さえつけている結果なのだと正しく理解した。
続けてまりさが告げる言葉も、ありすの予想を超える範囲のものではない。
「ゆっくり、でていくんだぜ。うらぎりもののかおなんか、もうみたくもないぜ」
まりさは飽くまで静かにありすに向けて別れの言葉を告げた。
ありすもまた、その言葉を静かに聴いた。決して覆されることのない宣言だと分かっていたから、心静かに聴くことが出来た。
凍りついた心は、ちょっとやそっとのことで揺さぶられたりはしないから。
訪れたばかりの強い春の風が、木のうろを利用したおうちの中にも暖かい外気を吹き込んでくる。
その風に背を押されるようにして、ありすはかつてとてもゆっくりできたはずのそのおうちを後にした。
心も、思考も凍りつかせたまま。自分の愚かさに打ちのめされ、ひとりおのれを冬に鎖してありすはまりさに別れを告げた。
それが、半年前のことだった。
* * *
(……ありす、ほんとうにばかだったわ)
当時のことを思い返し、ありすは一人山道を行く。
二匹の別離からもう半年。山々はいっそうに緑を深め、ゆっくりたちは自然がもたらす数多の恵みの中で生命の喜びを謳歌している。
今しがたありすが来た道すがらにも、子ゆっくりまで育ったいとし子を引き連れ、狩りの練習に励む幾つもの家族の姿を見た。
その中には、去年の春に生まれたありすやまりさと同じ世代の親ゆっくりの姿も多くある。
ありすと将来、どんな伴侶を迎え何匹の子を設けるか、語らい合った親友の姿もそこにあった。
だが、春に伴侶との決裂と別離を経たありすは、今もただ一匹だ。
まりさのおうちを出てからどこに身を寄せようにも、生まれたおうちにはもう居場所はない。
両親は戻りなさいと言ってくれたが、そこではもう妹たちの育児がはじまっていてその内手狭になるのはわかっていたし、
ありす自身も出戻りなどと周囲に呼ばわれるのは嫌だった。
それに何より、ありすにはまだ未練があった。まりさとの仲をかつてのように取り戻したいという未練が。
まりさと一度決裂したからといっておうちに戻ってしまえば、きっと群れの長たる両親はありすの以後の行動を束縛する。
大事に思ってくれるからこそ、二度と失敗はさせまいとあれこれと多くの干渉を試みるだろう。
その多くの干渉の中には、確実にまりさからのありすの隔離――或いはまりさの追放といったものも含まれるのは明らかだった。
それだけはありすは選びうる未来の一つとしては受け入れられない。
だからありすは両親の元に戻るという選択肢をはじめから切り捨てていた。
あれからまりさと話す機会もないまま、斜面になんとか掘り抜いた侘しいおうちで日を送りながらも、その決意だけは変わらない。
(だって……もともとありすがわるいんだもの)
あの時、最初の冬篭りを抜けたばかりのあの日。ありすとまりさが喧嘩をした理由は、子作りを巡ってのことだった。
ありすはあの頃、とにかく子供がたくさん欲しかった。
理由は簡単明快だ。赤ちゃんは、ゆっくりにとってとってもゆっくりできるものだから。
多くのゆっくりが純朴にそう信じているように、ありすもまたそのことを疑おうとしたこともなかった。
だって、群れの長の子として生まれたありすもまたたくさんの姉妹に囲まれてゆっくりと育ったのだ。
だから、自分の娘も同じようにゆっくりとした大家族として育ててあげたかった。それだけだった。
だが、それにまりさは真っ向から反対した。
赤ちゃんは胎生にんっしんっで生むべきだし、それで得られる一匹か二匹で十分ゆっくりできると主張した。
たくさん赤ちゃんができたら絶対にゆっくりできない、とまで断言した。
そして、ありすと激しい口論になり、お互いにヒートアップし、ついにありすが禁句を吐いた。
愚かな考えだったと、ありすも今では深く反省している。
この半年で、どれほど多くの同世代のゆっくりが無計画に子ゆっくりを設け、育て、死に逝く我が子を前に悲嘆に暮れただろう。
ちょっとした長雨に見舞われ、十分な食料の備えもないままに巣穴の中で全滅を遂げてしまった家族も見た。
不慮の事故で片親を亡くし、食糧調達に支障を来たした挙句、赤ちゃん同士で共食いの禁忌を犯してしまった家族も見た。
先に見かけた親友とて、生れ落ちた六匹の子のちょうど半分を既に失ってしまっているのだ。
次々に子を失った時の悲嘆に暮れたれいむの顔は、今も忘れられない。ありすが己の誤りに気が付いたのが、その時だった。
まりさは知っていたのだ。
まりさもまた、大家族に生まれたゆっくりだったから。
大家族に生まれ、両親を失くし、おうちも失くし、大勢の姉妹ごと路頭に迷い、ただ一匹生き延びたのがまりさだった。
だからどれだけ大勢の赤ちゃんをゆっくりさせることが大変かを知り尽くしていたのだ。
同時に七匹の姉妹を生んだありすの家族が一匹として欠けることなく成体まで育て上げることができたのは、
ありすの親が群れの長という特権を持つ立場にあってこそのことだったのだが、あの日のありすは何もわかっていなかった。
(ありすが、ほんとうにばかだったわ……)
ありすはそれを思うたび、心が締め付けられるように痛む。
まりさは、真剣に考えてくれていたのだ。ありすと、ありすとの間に生まれる子供の未来を。
だからこそ、まりさはありすの願望を否定した。それはきっと、不幸な未来しか生み出さないから。
それを理解せず、ありすはひたすら多くの子を産むことを望み、それを拒むまりさを思うさま罵り、ついに別離という結末を齎した。
その責任のほとんど全ては、まりさの説得をことごとく一蹴して聴く耳持たず、まりさの信頼を裏切ったありすにある。
だから、ありすは覚悟していた。
今日この日、うーぱっくに託した伝言。
『おひさまがしずむころに、いつものばしょであいたいです』、その言付けをまりさが無視して現れないことを。
我ながら、都合の良すぎる言動だとは思う。
でも、日が経つにつれ、ゆっくりの世界の現実を知るにつれ、まりさに会いたい気持ちは募った。
たとえ昔のように一緒にはなれなくても、仲直りをしたかった。
仲直りができないとしても、せめてひとこと、『ごめんなさい』を伝えたかった。
ありすは本当に馬鹿だったと。
馬鹿だったから、まりさを傷つけ、怒らせてしまったのだと。
この半年間、顔をあわせることもなかったまりさに、心から謝りたかった。
「……まりさ」
謝罪は、受け入れてもらえないかもしれない。いや、きっと受け入れられないだろう。
自分の言動を思い返し、ありすは跳ねながら涙する。
酷いことを、幾つもいってしまった。絶対に吐いてはいけない暴言も吐いた。
まりさは本当に、ありすとゆっくりするためになることを真剣に考えてくれていたのに。
今更償うことなんて、できないのかもしれない。せめて謝りたいと願うこと自体、自己満足に過ぎないのかもしれない。
それでも、このまま何もしないよりはきっと二匹にとって生産的なことだろうと、せめてありすはそれだけを信じたいと願う。
輝く水滴を幾つも振りまきながら、ありすが向かう先は二匹にとっての特別な場所。
ありすとまりさが所属する群れのゆっくりプレイスを一望できる、とてもゆっくりできる小高い崖だった。
まだ二匹が子ゆっくりだった頃、親たちには内緒のちょっとした冒険の末見つけ出した、二匹だけのゆっくりプレイスだ。
もし、あの頃の想いがまだまりさの中にも残っているなら。あの時抱いた怒りがわずかなりとも解けているなら。
あの頃のように、この丘を登りきったところにまりさが待っていてくれるのではないか。
変わらぬ景色に褪せぬ過去の思い出を重ね、ありすは息を切らせながら最後の坂を跳ね上る。
上りきったそこに自分を待つまりさの姿があったなら、持てる限りの心と言葉を尽くしてまりさに謝ろう。
もしまりさの姿がなかったなら、その時は未練を断ち切ろう。それ以上想い続けても、まりさの未来を邪魔するだけだから。
望みと覚悟、二つの想いを新たにしたとき、ありすの視界がすっと開けた。
斜面がだんだんなだらかになり、その先では覆い茂る木々が根を下ろす大地ごと失われている。
その開けた視界の向こうにあるのは、澄み渡るような一面の青い空と抱き合う地平の彼方。
普段、地べたを這い回るしかないゆっくりが見ることもないような、素晴らしい世界のかたち。
「……まりさ?」
その崖のふちに黒い帽子がひとつ向こうを向いて佇んでいるのを、ありすは見た。
言葉は恐る恐るといった体で問いかけながら、既に心中では確信している。
「まりさ……っ!?」
ゆっくりは髪飾りや帽子でお互いの個体を識別する。ありすがその帽子を見まごうはずはなかった。
声を震わせ、立ち止まる。懐かしい光景。かつての思い出のままに在る今。
心の中が、とても暖かい。半年間凍てつかせた心を溶かしてしまうほどに。
解けた心の氷が涙となって視界が自然とぼやけてかすみ、ありすはしばし言葉と身体の自由を失った。
背後に生まれたその気配に、まりさもようやく気づいたのか。
もぞもぞと、帽子が動いた。後ろを振り向くしぐさを見せた。少し、緩慢な動きだった。
「ま……!?」
あふれ出す想いのままに再三、まりさの名を呼ぼうとして、しかしありすは幾つかの違和感を覚えて言いよどんだ。
帽子は間違いなくまりさのものだ。だが、その後姿はどこかゆっくりできないように感じとった。
何が、とはわからない。だが、何かが違う。そんな微妙な感覚だ。
どこまでも晴れ渡った空に、急に暗くて大きな雨雲がわき出してきたような感覚がありすの心の中に広がってゆく。
そう、例えば今まさに振り返ろうとしている帽子の鍔から垣間見えるまりさの髪が銀髪であるところなど、特にゆっくりできない。
「……ぅー?」
振り返るにつれて帽子の鍔が隠していた部分があらわになる。
隠れている部分があらわになるにつれ、ありすの心を覆う雨雲がどんどんその領域を広げてゆく。
銀色の髪に続くのは黒いこうもりのような羽。こちらの姿を捉えるにこにこと微笑むような糸目。
そして、おぼうしの下に被った薄いピンク色のもうひとつのおぼうし……?
「ゆぐっ!? ゆゆ、ゆゆゆっ!?」
「うー?」
ゆっくりが、同時に二つ以上の髪飾りを持つわけがない。それに、あの口に咥えた薄っぺらい金色の何かはなんだ。ゆっくりできない。
記憶にある面影とまるで不一致な、だが上に被ったおぼうしが紛れもなく当人だと主張するゆっくりできない『まりさ』の姿に、
ありすは先ほどまでの暖かい感情などどこかへ吹き飛ばした風で激しく混乱した。
当人かどうかを確かめるため、近寄ろうなんて思わなかった。
あの姿も、幼子が鳴くような声も、本能的な危機感を呼び起こすものだった。
「うー? うー♪」
パニックに陥るありすの前で、当の『まりさ』自身は対照的にゆっくりしている。
口にした『何か』からその中身を啜りながらとても、とてもゆっくりした様子だった。
まだ成体に達しないその『まりさ』にとって、今日ここで練習がてらに捕えた獲物は一食分としては十分すぎる体積を備えていたし、
よく引き締まったそいつの餡子はさっぱりとして程よい甘さを備えたなかなか質のよい代物だった。
ただひとつ、存外にゆっくりできないものがあったとすれば、戯れに被ってみた獲物のおぼうしだっただろう。
得体の知れぬ不快感に怯えるありすは、『まりさ』が抱えるそんな事情を知らない。
先ほどまでとは違う理由で立ちすくみ、ただふるふると身体を振るわせる『まりさ』を凝視する。
そのありすの見つめる先で、『まりさ』が口に咥えた何かを捨ててぶるりとひときわ大きく身体を振るわせた。
二重に乗せた上の帽子が、へにゃりと形を崩して地面へ――いや、地に打ち捨てた何かの上に落下する。
その瞬間、ありすの目に映る景色が突如としてその姿を一変させた。
「ば……りっ、れびっ!?」
まず最初に、ありすは地に横たわる薄っぺらい何かが、愛するまりさの変わり果てた姿なのだということをようやく認識した。
そしてほとんど同時に、今の今までまりさだと信じ込んでいた相手が実際にはれみりゃであったことを理解した。
ありすにはこの時、心構えなどなにもできていない。
急変する事態への驚き、まりさの無残な姿への絶望、とうてい敵し得ない捕食種と必殺の間合いで向き合うことになった恐怖とで、
恐慌に陥ったありすには相手の名をまともに呼ぶことすら出来ていない。
「うー♪ うー♪」
れみりゃはそんな身を竦ませるありすに軽い視線を投げると、二度ほど楽しそうに鳴いた。
そして、羽根を大きく広げて二度、三度と試すように羽ばいて、最後に一度、ばさりと大きく空気を打つ羽音が響いた。
ありすは瞬きもせずれみりゃの身体が宙に浮く瞬間までを凝視して、自失のうちに自分の死を受け入れたかのようだった。
そんな無防備なありすが死を免れたのは、れみりゃの側の都合に過ぎない。
まるまる一匹の成体まりさを喰らったばかりのれみりゃは既に満腹だった。そこに現れたありすは獲物たりえなかったのだ。
「うー♪」
ご満悦な鳴き声と、かつてまりさだったものをその場に残し、れみりゃは崖から大空へと飛び立った。
ありすには、最初に一瞥をくれた以外にはまったく関心を見せないまま。
しばらくの間、ありすは呆然と空を見ていた。れみりゃが溶け込んでいった見慣れた景色を。
自分が生きていることが信じられず、まりさが死んだことが信じられず、ゆっくりと空の彼方へ向けた眼差しを地上へと下ろす。
夢、あるいは錯覚であってほしいと願っていた。だが、無常にも黒いおぼうしと薄っぺらいまりさは、
その場から消え去ることなどなくれみりゃが去る前と同じように風にゆらゆら揺られていた。
「……まりさ……!」
受け入れるしかなかった。吸い寄せられるように、ありすはかつてまりさだったものへと這い寄った。
夏の熱気を孕んだ空気が、いやに冷たく感じられた。陽光の輝きなんて失われていた。突如夜の帳が下りたような暗さすら覚えている。
「まりざ! ばりざ!」
小さな声で呼んでも、大きく激しくその名を叫んでも、ほとんど皮だけになったまりさから答えは返らない。
ずるり、ずるりと這い迫り、変わり果てたまりさの身体に寄り添って、ありすはようやくそこで涙を流す。
「ばりざ! どおじでっ。どおじで……!!」
ありすには分からない。
なぜまりさが死ななければならないのかも、なぜ自分が命を永らえてしまったのかも、なぜ自分はこの場所を選んでしまったのかも。
あまりにも多くの『どおして』を込めて、ありすは言葉なく慟哭した。
その問いに答えるものなどないはずだった。いたとしても、たった一匹から得られる答えでなければ、ありすには意味がない。
それも、もはや永遠に得られることはない。ありすがまりさが旅立った彼岸の世界へ追って渡り越さない限り。
そう思ったとき、ありすの視線が吸い寄せられるように目の前に広がる広大な景色へと移る。
「それも……いいかも……」
この馴染んだ崖からひと飛びすれば、まりさを追うことは困難でもなんでもない。
一息に跳んでしまえば、この世で無理だったことさえあちらでなら適うかもしれない。
全てというべき存在を失ったありすが、ふと死に誘われたそのときだった。
「あ……でぃ……」
「ゆ!?」
聞こえるはずがない、聞こえるべきでない声が確かに聞こえたのは。
はっとして、まりさの死体を見る。うつろな眼差しに、ほとんど黒ずんだ外皮。
だが、ありすは見た。まりさの口元がわずかながらも確かに動き、意味ある言葉を紡ぎ出そうとするその瞬間を。
「あでぃ……ず……」
「ばりざ! よがっ、いぎで……っ!!」
まりさが、生きている。
ありすのその喜びは、だが夏の日差しに照らされた小さな水溜りのように瞬時に干上がった。
まりさの生命の残り火が到底長く続くものとは見えないことに気づいたこともある。
だがそれ以上に、まりさが必死に紡ぎ出す声音の差し込むような冷ややかさが、ありす心を再び凍りつかせた。
「うら、ぎり、ぼの」
「ばり……ざ?」
裏切り者。
そういったのだろうか。いや、聞き間違いなどではありえない。ありすは、それを遺言だと察知した。
裏切った者がいるというのは、一体どういうことだ。誰かがれみりゃを使って、まりさとありすをハメたのだろうか。
打ちひしがれたありすの心に、暗い復讐心の灯火がともる。
もしそうであるなら、まりさの遺言を一言たりとて聞き逃すわけにはいかない。
そうだ。ありすがまりさの仇をとるのだ。
「でび……りゃの、ながま。あでぃず……じね」
「……ゆ?」
そう、心に決めたというのに。
まりさの遺言の続く一節に、ありすはわが耳を疑った。
ありすとは、自分のことだ。どうして、ありすがれみりゃの仲間になるというのだ。
死を前にして、混乱しているのか。
しっかりして、ありすに全てを伝え残して。今わの際のまりさにそう懇願しようとして、ありすはまりさの顔を見た。
そして、何もいえなくなる。
先ほどまで焦点を結んでいなかったまりさの両眼が、今は爛々とした光を湛えて確かに自分を睨み据えていた。
その瞳に宿る光は、紛れもないありすへの強い怒りと憎しみで満たされてる。
「あでぃず、じね……ゆっぐじ、じえ。じねぇ……」
たるんだ皮の中、こびりついた餡子が宿す最期の生命を振り絞り、まりさが聞き間違いようのないはっきりした呪詛の言葉を吐く。
ちがうの、という一言すらありすは口にすることを許されない。
ありすを射抜く狂的な鋭さを持つまりさの眼光が、ありすの心身の一切を呪縛していた。
「じ、ねえええぇ……」
「ゆ、あ……ああ……?」
射抜かれ、気おされて口が巧く動かない。「どうして」の一言を口にすることもできない。
まりさがありすの何に対して怒っているのか、まりさを裏切った敵は誰なのか。ありすには何もわからない。
わからないままに、まりさが自分に向ける憎しみにあらためて恐怖が湧く。
ありすは何をすることもできず、ただまりさがゆっくりと黒ずんでいくその姿を眺めていた。
まりさの呪詛は片時たりと止まらない。ありすに今出来るのは、その自分への憎しみに満ちた『遺言』を呆然と聞き続けるだけ。
あんよの部分に始まった変色は徐々に上方へと進み、それが口元に迫るにつれて必死に吐き出す言葉も不明瞭になる。
徐々に黒ずんでいくまりさがその言葉を吐いたのは、変色があとわずかで口に達しようというその時だった。
「でび、りゃに……ばでぃざ、おぞわぜだ……あでぃずは」
「……ゆぁ?」
がつん、と殴られたような衝撃がありすを襲った。今、まりさはなんと言ったのだ。
聞き間違いだと信じたかった。どうして、ありすがまりさを襲わせなければならないのだ。
ありすはただ、この思い出の場所にまりさを誘っただけ。ここなら、話を聞いてもらえるかもしれないと願ったから。
そこにれみりゃが来てしまったのは、まったくの偶然だ。そもそもありすがれみりゃにどうやってまりさを襲わせるのだ。
だかあありすとれみりゃの間に何の関係もないってことは、まりさにだってわかっているはず。
今のはきっと、ただの聞き間違いだ。そうとしか、考えられない。
ありすはあくまで常識の中でそう考えた。だから末期の言葉を正しく聞き取ろうと、横たわるまりさの身体へと身を寄せる。
まるで、それを狙い澄ましてのことのようだった。
「ゆっぐりごろじのあでぃずは、じねえええぇぇぇっ!!」
「ゆぎゃああぁぁぁっ!!?」
最期の瞬間、まりさは全てを振り絞ったような絶叫を上げ、伸びた。
もう身体の半ばが黒ずみ、跳ねることなんてできない。だから、動く部分をぐんと伸ばした。ありすの顔を食い千切ろうと。
眼前に迫ったその凄絶な叫びと顔立ちに、ありすは心底から恐怖した。道連れになるのかとほとんど観念しかけた。
しかし限界を超えた恐怖が却ってありすの硬直を解いた。本能に根ざす生への欲求のままに、ありすは必死に半身を捩る。
その半歩が、生死を分けた。
怯えに目を見開くありすの直前で、襲い掛からんとした皮だけのまりさの身体は急速に失速した。
形を失い崩れ落ちるまりさの視線はその最期までありすを睨んで離さず、だが決して届くことなく地面に沈んだ。
そしてそのまま、二度と動くことはなかった。
「……まりざ?」
ありすの全身を襲う瘧のような震えが静まるまで、どれほどの時を要しただろう。
ようやくの思いで発した呼びかけに、真っ黒になったまりさの応えはもちろんない。
崖の上に聞こえるのは、ありすの声を除けばやや強く吹き始めた風の音だけだ。
「どおぢで……」
強い風にあおられて、まりさのおぼうしが宙に舞う。
その行く先を目で追いながら、ありすは一匹さめざめと涙した。
ありすには分からない。
なぜまりさが死ななければならないのかも、なぜ自分が命を永らえてしまったのかも、なぜ自分はこの場所を選んでしまったのかも。
しかしありすは理解していた。
なぜまりさに自分が疑われたまま永遠の別離を迎えなければならないのかについては、今やはっきりと理解していた。
春先に自分が犯した裏切りが、どれほどまりさを孤独に追いやっていたのかを。
その育ちのゆえに孤独をあれほど恐れていたまりさが、この別離の期間のうちにどれほどまでに追い詰められていたのかを。
一度信頼を裏切られたまりさにとっては、不慮の死に直面した時ありすの他に憎しみをぶつける対象などなかったのだ。
なんとなれば、この死はまさしくありすの誘いがもたらしたものに他ならなかったのだから。
その孤独と裏切りがようやく終わると見えた矢先、れみりゃの襲撃を受けたまりさの絶望はどれほどのものだったか。
それを想い、ありすは嗚咽を殺して泣き続けた。吹かれた帽子が宙を舞い、地平の彼方へ呑まれるまでただ泣き続けた。
ありすは、まりさに謝罪を告げる機会すら得られなかった。
ただ一度きりの機会を、永遠に逃した。
失われた二匹の仲は、もう二度と戻らない。
二匹がかつて思い描いた幸せな未来も、もう決して戻ることはないのだ。
最終更新:2009年02月14日 10:13