ゆっくりまりさが嫌われるまで2
「うえぇー…!?何なのこれ…?」
夜の九時過ぎ。
ふと誰かの声で目が覚めたゆっくりまりさは
近くに何本もの人間の足があるのをソファの下から見た。
外は昼間のように明るく、まりさはもう朝なのかな、と呑気に思いながらも
ソファの下から顔だけ出して人間に向かって言った。
「…にんげんさん?ここはまりさたちのおうちだよ!
おちびちゃんたちがねてるからおそとでゆっくりしていってね!」
「えっ…!?何これ?ゆっくり!?」
「どっから入って来てんだよ!?しゃ…喋ってるぞコイツ…」
「き…君達…!」
「どうしたの?まりさはまりさだよ?」
人間達は見た事もないような変な顔をしてこっちを見ている。
その時まりさは子供達がソファの下にいない事に気付き、
新聞紙をガサガサ鳴らしながらゆっくりらしからぬ動きで慌てて外に飛び出した。
「うわ!動いた!!」
人間達が驚いているのにも気付かず、まりさは子供達を目で捜したが
ソファの近くの座布団の上で三人とも寝ているのが見えてまりさはホッと安堵の息を吐いた。
恐らく新しいお家の周りを探索したくてまりさ達に気付かれないよう
子供達だけでお家から出たのはいいが、直ぐに眠くなって寝てしまったのだろう。
あれ程子供だけでお外で眠らないよう言い聞かせておいたのに…。
無事だったから良かったものの起きたらしっかりと叱らなくちゃ。
「どうすんのどうすんの!?」
「どうすんのって…こんなに散らかされて…。追っ払うしか無いだろ」
「…君達、ここは人間の家だから出て行きなさい」
「ゆ?ここはまりさたちのおうちだよ?」
「この家は元々は私達のモノだったんだ。
今まで留守にしていただけで本当は私達の家なんだよ。
分かったら出て行ってくれるかな?」
ゆっくりまりさは人間が言った言葉を初めは理解出来きなかったが、
ゆっくりと理解すると頭に熱い餡子が昇ってきた。
自分達の家だった?今来たばかりなのに?そんなのおかしい。
ゆっくりまりさがこの様に感じるのは何らおかしな事ではない。
ゆっくりが家を空ける際には必ずある程度大きくなったゆっくりを
残した上で入り口を隠しておかなくてはならず、
家族揃って外出する時、又は何らかの非常事態でやむなく全ての大人のゆっくりが
家を空ける際には十数分もかけて木の枝や葉っぱを使って家の入り口に厳重に隠す。
これは他のゆっくりに家を奪われない為であり、
それがされていない場所は自分の家にしても良い場所である。
それがまりさの群れのルールだった。
(もっともそれはこの家から400メートル程離れた山の中のルールだが)
勿論まりさがここをお家にする時には誰もいなかったし、枝も葉っぱも一つも無かった。
つまり完全に人間側が間違っていると言って良い。
だがまりさはぶつかり合いよりも話し合いを好むタイプのゆっくりだったし、
人は違えどかつて世話になった人間に対してそんな事はしたくなかった。
まりさは話し合いを選び、人間もそれを選ぶ事にした。
「にんげんさん!まりさたちがここにはいったときはだれもいなかったし、
えだもはっぱもなかったよ!ここはまりさたちのおうちだよ!」
「さっき留守にしていただけって言っただろ…『エダモハッパ』って何の事だ?」
「…なぁ、お前達も自分の家を盗られたら嫌な気分になるだろ?
頼むからここを出て行ってくれないか?」
まりさはあんよに下った熱い餡子が今度は
帽子にまで昇ってきそうな程の怒りを感じた。
自分達の家を集団で奪おうとしているだけで無く、
人間達はまりさ達が先に人間の家を奪った事にしようとしている。
だがやはりこのゆっくりまりさは温厚なゆっくりであり、
一度は頂点にまで達しかけた怒りを一分近くかけて抑えると
今度はゆっくりとした口調で聞き分けの無い人間を諭すように優しく言った。
「…にんげんさん、おうちにできそうなところだったら
ここじゃなくても、まだそのへんにたくさんあるよ」
まりさは先ほど家の中をある程度探索したから知っている。
ソファの下だけでは無く、椅子の下、棚の下、食器棚と電子レンジとの隙間。
まだまだ快適に住めそうな処がいくらでもこの辺にはある。
まりさはゆっくりと丁寧にお家作りの方法を知らない人間に説明して上げた。
本来なら子供達を遊ばせる為の場所にしたかったが、まりさなりの最大の譲歩だ。
また、この時まりさは抜け目無くも美味しいごはんを拾えた場所は教えなかった。
「にんげんさんたちはそこにおうちをつくってゆっくりすればいいよ!
にんげんさんたちもゆっくりしていってね!」
「……?コイツ棚の下の事言ってるのか…?隙間?」
「そうだよ!あそこならりっぱなゆっくりぷれいすになるよ!」
「…あぁいや、そうじゃない」
「ゆっ?」
「君達が家だと言うその場所だけでなく、この家自体が私たちのモノなんだ。
その…つまりだな!あのテーブルの下も食器棚とレンジの間も!
最初から全て私たちのモノなんだ!」
これには流石のまりさもブチ切れた。
この人間達は群れの中で皆に迷惑をかけていた
あの嫌われ者のゲスまりさ以上に強欲な生物だ。
家から出て行けと言うだけでなくこの辺りの全ての場所を自分達のモノだと言う。
いくら温厚なゆっくりまりさとて許せるモノと許せないモノがあった。
ゆっくりまりさは話し合いの出来ない人間に向かって攻撃する事に決めた。
「ゆっくりでていってね!」
「うわぁ!○○!!」
ゆっくりまりさは最も近くにいた比較的背の低い人間に向かって
全力でぶちかました。これを喰らって立っていた者は今まででに一人もいない。
そしてモロに喰らったこの人間は少なくとも大きなダメージを受けたハズだ。
まりさはこれで人間達は出て行ってくれるだろうと確信し、頬を蹴られた。
「ゆぶぅ!!」
「まりさあぁぁあぁあぁ!!?」
この時ようやく話し声で目を覚まして起きて来たありすが
ソファの外で蹴られたまりさを見て絶叫した。
「○○!!大丈夫!?
…大丈夫そうだな?」
「にーちゃん、コイツ等掴んでも大丈夫だよ多分、ホラ」
ゆっくりまりさは蹴られた頬が痛くて
ありすの目の前だと言うのにも関わらず泣き叫んだ。
今までなるべく話し合いで争いを解決するように努めて来たまりさだからこそ
頬が破れるような痛みは今まで感じた事が無かったのだ。
焼けるような痛みに耐えながらも、
ガラガラと何かゆっくり出来ない滑るような音がしたので
反射的に音のする方に目を向けると、
先ほど体当たりを喰らわした男が寝ていた子供達を窓から外に放り投げているのが見えた。
ゆっくりやめてね!と言おうとしたまりさだが今度は自分が動けない事に気付き、
じたばたと体を動かすと違う男が自分の髪を掴み上げてるのが分かった。
男はまりさの髪を掴んで玄関の外まで持って行くと道路に向かって下手から放り投げた。
「ゆべぇッ!!」
アスファルトに叩き付けられたまりさは
立て続けにやって来たかつて無い痛みに一時は家族の事も忘れて悶絶した。
「ゆ”っ…ゆ”ぅっ…?」
「ゆびゃあぁあぁあぁぁ!!いぢゃいよぉおおぉお!!」
窓から放られた子供達(子まりさ二名)はまりさから少し離れた所で泣いている。
当然だ。穏やかな夢の中から一転、
一気に堅く冷たいアスファルトに叩き付けられたのだから。
「ゆっくりしていってね!?だいじょうぶだからね!?」
まりさは痛みも忘れて子供の元に向かった。
良かった。二人ともちょっと皮が剥けたぐらいでどこもおかしくなってない。
まりさは子供達の安全を確認すると今度は家の中で何をされているかも知れない
ありす達の元へ向かわなくては!と門に向かって跳ね出した。
「はなしなさいこのいなかものぉ!こんなのぜんぜんとかいはじゃないわ!」
「ゆぇえぇえぇん!!たしゅけちぇえぇぇぇ!!!」
だがありす達のへ心配は不要なモノであった。
まりさ達と同様に、ありすと子ありすは
玄関から門の外に向かって投げ捨てられた来たからである。
「「ゆっべえぇえ!」」
ベタッと音を立ててありす達はオデコから地面に着陸した。
それを見たまりさ達は先程の自分達が受けた痛みを思い出して顔を顰めた。
それを見届けた男はまずプラスチック製の門をしっかりと締めて引き返し、
更に重い玄関を閉めた上で念には念を入れて鍵をかけた。
「ゆぐっ…ゆうぅうぅぅぅ!!どうなっちぇるのぉおぉぉ!?」
「おちびちゃん!しんぱいしなくていいからね!だいじょうぶだからね!」
「ゆっくちできにゃぃよぉおぉ!!!おうぢにかえりぢぁいよぉぉおぉ!」
「まりさ!こんなところとかいはじゃないわ!おうちにかえりましょ!」
ありすも子供達も口々に『お家に帰りたい』と言いだした。
無理も無い。幸せな団欒の時から冷たい苦痛の海にブチ込まれれば誰でも
元の状態に戻りたいと願うに決まってる。
「ゆっくりわかってるよ!おうちをとりかえすよ!」
家族の為にもせっかく見つけたゆっくりプレイスを横取りされては堪らない。
ゆっくりまりさは痛む体を無視し、門に向かって全力の体当たりを始めた。
夜の団地にバン!バン!と大きな音が鳴り響く。
「なにじでるのばでぃざぁぁぁああぁぁ!?」
だが、まりさは勘違いしていた。
ありす達の言う『お家に帰ろう』の意味は『もう山に帰ろう』と言う意味だったのだ。
4回程門に体当たりするとようやく門が開いた。
次なる玄関のドアを目指そうと顔を上げたまりさが見たモノは
真っ赤な顔をした人間と、眼球に向かって物凄い早さで迫って来た帚の柄だった。
「ゆっげあ”あ”ぁ”ぁ”あ”ぁ”ぁ”あぁ!!!?」
まりさの体当たりの騒音に腹を立てたのだろう。
中から先ほどの人間が出て来てまりさを帚で攻撃したのだ。
おでこの辺りを狙ったのかもしれないが
運悪くまりさが顔を上げたため、まりさの左目に帚の柄が突き刺さってしまった。
「「おがあざぁぁあああぁん!!?」」
狂気すら孕んだ人間の怒りを見てまりさに近づく事も出来ずに
ありすと子供達はまりさから離れた。
「もうやじゃよおぉぉぉ!!ごわいよぉぉぉおぉ!!」
その時、あまりの恐怖にパニックに陥った子まりさが一匹、
ゆっくりせずに泣き叫びながら跳ねて逃げて行った。
「かーさん!ヤバいって!ホラ!!」
「ちょっと○○さん?こんな夜中にどうしたの?」
そうこうしている内に恐ろしい人間達が集まって来た。
ありすは思った。
やっぱり人間はゆっくり出来ない生き物だった。
ありす達を皆殺しにする気なのかもしれない!
子供達をこんな所に居させるワケにはいかないし小まりさも追わなくてはならない!
でもまりさを見殺しにも出来ない!
どうすれば…!とその時、痛みを抑えてありすに右目を向けるまりさの姿が見えた。
その目は『逃げた子は自分が追うから早く逃げて』と言っているのが
長年一緒にいた経験からありすは理解出来た。
あの小まりさが逃げた方向に行こうにも新しく現れた人間が道を塞いでいる。
まりさの言う事に従うしかないとありすは決意した。
「まりさ!!ありすとおちびちゃんたちはやまにもどるわ!
ぜったいに!ぜったいにもどってくるのよ!」
それを聞いたまりさは、狭くなった視界に小まりさを映しながら
ゆっくりする事無く追いかけて行った。
人間達は追いかけて来なかった。
「ゆっぐ…ゆぐっ…ごわがったよぉ…」
「もうだいじょうぶだからね!ゆっくりしようね!」
まりさが子まりさに追いついたのはそれから10分後。
全力で跳ねたとしてもそこは所詮足の遅い子ゆっくり。
成体であるまりさに追いつけない道理は無い。
「おかあしゃぁん…ありすおかあざんはぁ…?」
「ありすはもうもとのおうちにかえったからね!
おちびちゃんもいっしょにやまにかえろうね!」
「う”ん…」
子まりさは元気が無くなっていた。
今の状態で山まで引き返すのは無理かもしれない。
…と言うよりもまりさ自身の体の方が損傷が大きかった。
蹴られた頬は破れかけ、おでこは擦りむき、左目を失った。
それらを無視して全力で子まりさを追って来たまりさは
今になってどっと疲労が体を支配するのを感じた。
「おちびちゃん…きょうはもうあそこのすきまでやすもうね?
あしたになったらおかあさんたちのやまにもどろうね?」
手頃な隙間(ゴミ捨て場にあった木材の下)を運良く見つける事が出来たまりさは、
黙りこくる子まりさの髪を銜えると木材の下まで運んであげた。
その夜はありす達への心配と、あまりの痛みで寝るのに時間が掛かったものの
頬をよせて眠る子まりさが、いい夢をみているのか微笑むのが見れたので
それほど苦しい事は無かった。
次の日の朝は雨が降った。
朝の六時。
さほど強くは無いが降り続ける雨の音を
天井に聞きながらまりさ達は眉を下げていた。
「ゆぅ…」
「さむいよおかあしゃん…」
「もっとおかあさんにくっついてね!」
春に降る気まぐれな雨だ。
まりさはこの雨は直ぐに止むだろうと分かっていたが
何分蓄えの無い仮の宿。
お腹が空くのはしょうがない事だ。
まりさは帽子の中に昨日の女の子に貰った飴玉(まりさの分だがとっておいた)が
あるのに気付き、子供に上げる事にした。
本当だったら今頃は残しておいたあのおいしい御飯を食べている頃だったのに、と
まりさはまたあの人間達に対して怒りが湧いて来た。
「おちびちゃん、あめさんもゆっくりしたいんだよ!
おちびちゃんはこれをなめてゆっくりしようね?」
「ゆ!?あまあまさん!?でもおかあしゃんの…」
「おかあさんはおなかいっぱいだよ!
えんりょしないでいいからね!」
「…うん!ありがちょおかあしゃん!」
遠慮こそしたが飴の誘惑は到底子供が勝てる物ではない。
子まりさは昨日のように飴の甘さに酔い、雨の下で最高のゆっくりを楽しんだ。
「おにゃかへったよぉ…」
当然足りない。
栄養価が高くとも飴玉一つきりなのだ。
小まりさの食欲は満たされず、母に甘えるように言った。
「ごめんねおちびちゃん…いまあるごはんはそれだけだなんだよ…
あめさんがいなくなるまでおかあさんとおひるねしようね?」
雨の中外の草を食べに行く事は出来ない。
ゆっくり理解した子まりさは母の頬に身を預けて
また夢の中へと旅立って行った。
昨晩と同じ現実逃避の旅へと。
雨は止んだ。
雲の間から光が射す今は午後の一時。
まりさはまだ夢の中だ。
子まりさは母を起こすのは悪いと思い、これから起きる母の為に
木材の下から這い出て食べられる草を集めようと思った。
朝に母が自分の分なのにも関わらず自分にくれた飴の恩返しのつもりだったのだ。
子まりさは近くの草を銜えて引き千切ると口の中で少しだけ味見をした。
その瞬間ベッと草を吐き出すと眉を顰めたまま呟いた。
「ゆぅ…まじゅい…ゆっくちできないよ…」
子まりさの舌はとっくに汚染されていた。
甘い飴を食べ、焼そばをお腹一杯に詰め込み、
更にまた飴を食べた。三匹の子ゆっくりの内でも
最も幼いこの子まりさの舌は既に草を受け付ける事が出来なくなっていたのだった。
子まりさは母を起こそうと思い近づいたが
飴を出した母の帽子を見た時思い出した。母が貰った飴の存在を。
飴を誰がくれたか。どこで貰えたか。子まりさ達は全て見ていたのだから。
「…あまあましゃん…」
口の中に甘い飴の味が思い出され、唾液が口の中で溢れ子まりさの頬を伝った。
麻薬のように引きつける飴の存在は子まりさに母の事すら忘れさせてしまう。
子まりさは振り返ると濡れたアスファルトの上をゆっくりせずに跳ね出して
昨日の通学路、母に飴をくれた女の子の元まで向かって行った。
幼いが故にその舌は美味しい物しか受け付けなくなり、
幼いが故に分からなかった。自分が母から離れる事でどうなるか。
子まりさはその日から飴だけを口にするようになり、
それきり母と再開する事は無かった。
「…おちびちゃん…?」
まりさが起きたのはそれから二十分後。
狭くなった視界に我が子が映らない事に気付く。
「…どこなの?おちびちゃん…!?
おちびちゃん!!どこなのおぉおぉぉ!?」
まりさは起きた時、子まりさは既に居なかった。
雨上がりの光るアスファルトの下、まりさの悲痛な叫び声はあまりにも不釣り合いだった。
人はゆっくりせずにまりさのお家を奪い、左目を奪い、今度は子供までいなくなる。
まりさは憧れていた町に全てを飲み込まれるような錯覚に陥った。
黒いアスファルトがまりさを飲み込んで行く錯覚。
ふと、まりさはれいむのお兄さんの本当の笑顔が思い出せなくなっていた。
浮かぶ顔は黒い顔に醜く歪んだ白い笑みが浮かぶだけ。
『町はゆっくり出来る』?『良い子にしていれば人はまりさを傷付けない』?
全て嘘だ。
まりさはあれ程信頼していたお兄さんすら信じられなくなり、
ただただ子を求めて当ても無く町へと跳ねて行った。
まりさが子を探し始めて数十分の間、何匹ものゆっくりを遠くに見る事が出来た。
まりさはれいむのおにいさんから聞いた町の話を
そっくりそのまま群れの皆とのお喋りに流用していたので、
まりさが町に行ったと聞いた皆も我慢出来ずに来てしまったのだろう。
町はゆっくり出来ないと教えなくてはならないが
今はそれどころではない。おちびちゃんを探さなくてはならない。
まりさが車道の曲がり角を曲がろうとしたその時、
角のすぐ向こうにゆっくりれいむがいるのを見た。
アレは友達のれいむだ。
よくお喋りをする友達の内の一人だったのでまりさは覚えていた。
何かに対して威嚇しているが虫でも居るのだろうか?ここからではよく見えない。
もっと近づいて、れいむに町がゆっくり出来ない事を教えよう。
そして出来ればまりさの子供を捜すのを手伝ってもらおう。
「れいー」
まりさがゆっくりれいむに声を掛けようとした時、
れいむの頭がど真ん中から人間の足によって踏み抜かれた。
人間がいた。ゆっくり出来ない人間が。
まりさは動転して近くの自販機の下に急いで隠れた。
まりさはれいむを殺した人間を自販機の下から見上げ、
その『目』を見て恐怖した。
産まれて初めて感じた本物の恐怖だった。
山では滅多に見られないものだが、対象を食べるつもりが無くても
怒りにかられてその命を奪う事がある事はまりさも知っている。
それはまりさにとっても恐ろしい事だったが、まりさが何より恐れた事は
今の人間が捕食の為でも、怒りに駆られて殺したのでもなく、
『ただ殺した』事だった。
淡々と排除するようにれいむを殺した男の目は
まりさが今までに一度も見た事の無い類いのモノだった。
不可解な殺戮に恐怖したまりさは声を上げる事も出来ず、
誰にも見つからないように、その汚れた自販機の下に隠れて人が去るのを待った。
恐怖で涙が溢れている事にすら気付かなかった。
人はれいむの底部に足を差し込むと、まりさの隠れてる方向にある叢に
れいむを蹴り飛ばし、車に乗り込んで去って行った。
町に来た事を、まりさはとっくのとうに後悔していた。
まりさは子を追う事すら出来ない程の死の恐怖に囚われ、
団地の隅にある自動販売機の下で暮らさざるを得なくなった。
昼間外に出ようとものなら人に見つかるかもしれぬ恐怖に耐えきれずまた戻り、
夜に人目を避けて草や虫を食べているときも
人にいつ見られるやもしれぬ恐怖でまったくゆっくり出来なかった。
次第にゆっくりまりさは昼間に短い睡眠を繰り返し、
深夜に数十分だけ外に出て人に怯えながら
いつか食べた飴や焼そばとは比べ物にならないような
不味い雑草をついばむだけの生き物へと変わった。
山へ帰ろうと思うも、もう帰る方向も分からず、
自販機から50mちょっと離れたところから引き返す事も何度もした。
ゆっくりまりさは昼間の短く、浅い睡眠の中で見る短い夢を、
仲間のゆっくりと一緒に笑いながら狩りをする夢を、
帽子にごはんを蓄えて帰るまりさを笑顔で迎えるありすと子供達の夢を、
それだけを慰めに自販機の下の生活をずっと続けた。
まりさが人に見つかったのはそれから三週間後の夜の事。
三週間もの間汚れた自販機の下で生活を続けたまりさは
まるで地を這う汚物のようになっていた。
雨に濡れても、埃を被っても、
汚れを綺麗にしてくれるありすも子供もいない。
まりさの美しい金髪はまだらに茶色く汚れ、真っ白な肌は灰色に変色し、
天に刺さるように立っていたトンガリ帽子は狭い自販機の下でべったりと潰れていた。
「っと!あぁもう…!」
夕方の5時。
チャリンチャリンと小銭がアスファルトに落ちる音で目を覚ましたまりさは
人間の顔の半分が自販機の下の隙間にいる自分を覗いたのを見た。
まりさは忘れもしないその顔を見て『ゆっくり出来る』あの感覚を
実に三週間ぶりに思い出す事が出来た。
自販機の外には初めて会った時に沢山の飴をくれたあの少女が自販機の前に立っていた。
何処かで怪我をしたのか手首に包帯を巻いている。
「ゆぅう…!にんげんさぁん…ゆっくり…
ゆっくり…ゆっくりしていってね…!」
あの日、飴をくれた少女の悪意無き瞳は忘れてない。
自販機から這い出たまりさは一ヶ月ぶりに心からの笑顔を少女に見せ、
涙を浮かべて最高の挨拶をした。
だが
「………」
餡子まで凍り付きそうな目で薄汚く汚れたまりさを一瞥すると
小銭を拾う事すらせず、
一秒でもここに居たくないと言わんばかりに少女は踵を返して歩き出した。
まりさは少女の『目』を見て、その背中に声すら掛けられなかった。
かつてのまりさが悪意無き目と認めたその目の中には
冷たい失望と燃えるような怒りで満ちていた。
ゆっくりまりさは理解した。
町にまりさとゆっくりしてくれる人はいない。
町はまりさをゆっくりさせてくれない。
町が全てを奪うというあまりに強大な恐怖に支配されたまりさは
人への恐怖もこの時だけは忘れ、
弱った足でふらふらと故郷を求めて跳ねていった。
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最終更新:2022年05月18日 22:55