マルセル・ブサック

登録日:2021/01/04 (火曜日) 23:02:49
更新日:2024/02/29 Thu 21:47:11
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マルセル・ブサック(Marcel Boussac 1889年4月17日 - 1980年3月21日)は、フランスの実業家およびマジキチサラブレッド生産者兼馬主(オーナーブリーダー)。

一般に彼は競走馬の生産や馬主として有名だが、実は本業でもフランス史に残る有名人。
家業であった繊維業を継ぐと、第一次世界大戦時の軍需や戦後の民需に応じて莫大な富を築き、「繊維王」と呼ばれるまでに事業を成長。
最盛期には繊維業のほか、新聞社に銀行、家電メーカーなども保有していたガチの天才実業家だった。

また、その富をもって様々な分野で様々なパトロンとしても活動。
後に「モードの王」の異名で知られるクリスチャン・ディオール*1を積極的に支援。
ディオールはブサックの積極的な援助により大成功を収めた。

しかし、彼を歴史上もっとも有名にしたのはオーナーブリーダーとしての空前絶後の実績。
馬主としてはジョッケクルブ賞(通称フランスダービー)を通算12回*2凱旋門賞は通算6回優勝*3等を筆頭に多数のG1を総なめしフランス・イギリスのクラシックも完全制覇
所有していた馬も初期を除いて自家生産馬がほとんどで、生産者としてもフランスリーディングに馬主として14回、生産者として17回も優勝
1950年と1951年にはイギリス・アイルランドでも馬主・生産者リーディングを獲得した。

また、フランス競馬界全体の発展にも大きく貢献。
あの世界最高峰の芝クラシックG1凱旋門賞を文字通り世界最高のレースにする為に高額の賞金設定、前夜晩餐会の発足の主導、世界各国から一流馬を招致・・・等々現在に至る世界最高峰の競走としての地位を整備した。
1933年からは奨励協会*4の委員に選ばれ、フランス競馬会のブランド・格式を不動のものにする事にあたっても力を尽くした。

現在は自身の名が入った2歳牝馬G1「マルセル・ブサック賞*5」が毎年10月頭の凱旋門賞ウィークエンドに開催される、まさにフランス、世界の競馬界伝説のレジェンド。

しかし、晩年には馬主としての名誉が失墜。本業であった繊維業も経営不振に陥り、1978年に破産
それから2年後の1980年にブサックは失意の中90歳で死亡した。
彼はなぜ前代未聞の偉大な栄光を築き上げ、そしてなぜ悲惨な破滅を迎えたのだろうか?




ブサックの初期

マルセル・ブサックは1889年4月17日にフランスのシャトールーで生まれた。
1906年に高校を卒業すると直ぐに父から家業の繊維業を継ぎ、持前の才覚で事業を大きく発展させた。
特に第一次世界大戦で軍需に、戦後は民需に応えた柔軟な対応で彼は「繊維王(le Roi du Coton)」と呼ばれる大富豪になり、念願の上流階級に足を踏み入れた。

1914年*6のある日、彼は友人ド・カステルバヤック伯爵の誘いで「ブサック~競馬やろうぜ~」と某国民的アニメみたいなノリでサラブレッドの生産を始めた。

伝説の偉大な馬主だからここからチートみたいな手法でG1を勝ちまくり、誰もが拝むような伝説の一歩がスタート!
......となるかと思いきや、彼はそんなことは全くなく当初はごく小規模な活動であった。

彼は馬主と同時期に馬産も始めたのだが、生まれた生産馬もセリで気前よく売ることが多く、あまり競馬に熱心ではなかった。
最初期のブサックにとって、競馬とはあくまでも「上流階級の顔つなぎや趣味」としてやるものであり、持っているお金の中で無理なくやっているに過ぎなかったのである。

その為テキトーに馬を買って、テキトーに種付けして、テキトーに売る・・・
みたいなこんなんじゃ物語にならないよ~と言うような出だしであり、フランス競馬会の裕福な成金あしながおじさんの一人でしかなかった。

だが、馬主になって1年後の1915年。ここから彼の運命を大きく変える事件が起こる。

彼はこの年、生産した競走馬をセリで販売し、その一頭がアメリカ人にお買い得な価格で購入された。
のちにこの馬はサンブライヤーと名づけられ、アメリカ競馬でデビューした。
すると、2歳時にG1ホープフルSを筆頭に重賞を5勝して2歳牡馬王者となり、さらに真夏のダービーことG1トラヴァーズSも制し、生涯で計8個の重賞・2つのG1を勝利する名馬となった。

この大活躍に周囲は称賛の声をあげたが、ブサック自身はこの売却を激しく後悔した。
こんな名馬をなぜ二束三文で売ってしまったのか......と。

だが同時に、



「テキトーに生産した馬がアメリカのチャンピオンになれるなら、ガチればダービーも余裕じゃね?」



と、今後は趣味以上の情熱と努力をもって本気で馬産に臨み、馬主にとって最大の名誉であるダービーを自家生産馬で取ることを決意する。



ブサック試行錯誤時代

ダービーを勝つ!という目標を達成するためにブサックは血統や配合の勉強を進める傍ら、生産規模の拡大やら名種牡馬の調達等と邁進。
しかし、当時も今も競馬の世界は貴族や大富豪が集まるかなり閉塞的な世界。新参者の成金であるブサックに中々馬を売ってくれる人はいなかった。

そんな状況でもブサックは自身の人脈や金銭、何よりもダービーに勝ちたいという熱意を最大限に利用した。
そして、ハーマン・デュリエ、モーリス・ド・ロトシルト男爵、エヴレモン・ド・サンタラリ*7、エドモン・ブラン*8等々の当時の有力馬主から名馬や牧場などの設備を少しずつ集めることに成功した。

ブサックはそのでも特にハーマン・デュリエの馬を欲しがった。




残念ながら既にデュリエは死去していたが、ブサックは彼の実績とアメリカ血統に目をつけ、デュリエ氏の未亡人であるデュリエ夫人のもとを訪ねる。
「30頭あまりの繁殖牝馬を全部買いたい」というブサックの申し出は流石に断られたものの、代わりに次年度に生まれた仔馬を全頭一括で購入する契約を結ぶことに成功。

デュリエ夫人はその年、夫の英ダービー馬ダーバーと仏1000ギニー馬バンシーを交配したダーバンという牝馬を、
またバンシーの母フリゼット*13にもダーバーを付けてダーバンの叔母にあたる牝馬ダーゼッタを生産する。
この2頭はいずれもセントサイモンとアメリカ産の(つまり純血キチ外イギリス人の言う半血)ハノーヴァーの濃いインブリードを持つ馬だった。

ブサックはここで後のブサック帝国を作る名牝らを購入し、ダーバンとダーゼッタを自分の名前と勝負服で競馬場に送り出した。
アメリカの血が濃い彼女らは2歳時から圧倒的なスピードを発揮。
ダーバンはG1グランクリテリウムおよびヴェルメイユ賞等に、ダーゼッタはG1モルニ賞に勝利した。

また、同時期に購入した牡馬グレージングは惜しくも仏ダービーでクサールの2着に入り、ガチった初年度から順調なスタートを切っていた。
ブサックの実質的なキャリアは彼女らを購入した世代から本格的に始まり、翌年には友人と共同生産したラムスで初めて仏ダービーを制覇し、早くも軌道に乗ったのである。

だが、ブサックはこの結果に満足していなかった。
更に強い馬を自分の力のみで作る為、ヨーロッパ各国の金融界等に絶大な勢力を持っていたユダヤ系のロトシルト*14家からも馬を購入。
フランス・ロスチャイルド家の一族モーリス・ド・ロトシルト男爵はブサックのダービーに勝ちたいという熱意(とお金)にほだされ、彼は1920年に3頭の1歳牝馬を売却する。
その内の1頭が後の名牝ザリバだった。

ザリバは2歳時から超一流のスピードを発揮して大活躍。
クラシックこそ惜しくも逃したものの、マイルG1ジャックルマロワ賞やモーリスドゲースト賞等に勝利し、当初の期待を超える優れた能力を示した。




さらにザリバが走った翌年、ブサックは再びモーリス卿のもとを訪れ、今度は牧場の基礎種牡馬の産駒を買い求めた。
この時に購入した馬がのちに6年連続BMS*22となり、長らくブサック帝国を支える名馬アステリュー
アステリューは仏2000ギニー、英チャンピオンS、ジャックルマロワ賞等のG1を勝利。
種牡馬としても1934年に仏リーディングサイアーの他、前述の通り6年連続でBMSに選出されるなど大活躍した競走馬である。




このように、初期のブサックはデュリエ夫人やド・ロトシルト男爵等らから購入した繁殖牝馬に、同じく彼らの種牡馬を付けることで生産されており、まだブサック本人の配合手法は確立されていない。

しかし、この時期に購入・生産した馬はその後のブサックの配合手法の基礎や手本となり、根拠となっていく。
ブサックは先人たち馬産家の手法を学びながら、今までとは違う革新的な方法論を模索することになる。


ブサック、開眼!

ブサックは自身の繊維業での成功経験を競馬に転用できないかと考えていた。
彼は1911年にそれまで珍しかった色鮮やかな女性向け商品を大量生産・販売を始める。
後に「ファンフレルーシュの革命」と呼ばれる革命的手法を推し進めた事で大成功を収めた。

この成功のように、彼は「安定して、質の高い競走馬を、大量に排出する」方法・配合理論を模索していた。




それまでの競走馬の配合は、
「アウトブリードの牝馬にはインブリード種牡馬を、インブリードの牝馬にはアウトブリード種牡馬を交配する。」
というのが当時の生産者の常識であった。
これは、インブリードによる虚弱体質や気性悪化等のデメリットとアウトブリードゆえの遺伝力の弱さをともに避けて、競走能力と遺伝能力の継続的な両立を目指す手法である。
この手法は通称「基準交配」と呼ばれる。

しかし、この交配では強い馬は時間が経てばその内出るが、安定せず結果も未知数と非常に根気のいる方法だった。
ブサックも当時は「基準交配」で配合しており、いい馬は出るには出るが年によってバラつきがあり安定しない事に悩んでいた。
彼は「もっと大胆で、早く、安定する方法」を探し求め続けていたのである。



そんな1927年のある日、彼は引退したダーバンに何を種付けするか悩んでいた。
この時、彼はダーバンにクサールという名馬を付けることを思いついた。
クサールは前述のダーバン達と購入した牡馬グレージングに仏ダービーで勝利し、その後は凱旋門賞を2連覇する等の大活躍をした名馬だったのだ。
その配合を試す前にお互いの血統を確認したところ、矢木にブサックに電流走る――!


「インブリード馬とインブリード馬を掛け合わせてアウトブリード馬を作ったらどうか?」


このクサールとダーバンは共に濃いインブリードを持っていたが、確認すると両者の子供にはほとんどインブリードがなかった。
当時では珍しい配合を試した為、正直半信半疑だったと思うが、1927年に自身の配合理論で作った初の産駒である牝馬ディアデム*27が重賞を勝利。

そして、翌1928年にはその全弟でありブサック帝国の礎を築いた名馬トウルビヨンが誕生。
その後も1936年にファリス、1937年にトウルビヨンの息子ジェベル等とブサック帝国の根幹をなす最高クラスの名馬を自分の手で生み出すことに成功したのだ。

なぜブサックはここまで活躍する名馬を輩出できたのか?
ここでは最初の根幹となったトウルビヨンとブサック特有の交配について紹介しよう(ファリス、ジェベルは後述)。





上記の通りフランス血統として純血化された父と、同様にアメリカ血統として純血化された母をダイナミックにぶつけたトウルビヨンの配合。
この配合は、いわゆる「雑種強勢*1による効果であり、これによって高い競走能力をもたらしたと思われる。
こうした手法は、後に「インターナショナル・アウトブリード」と呼ばれる方法論になった。

しかし、いくらダービー馬でも種牡馬として活躍できるかは未知数。
実は「雑種強勢」には生殖能力がなかったり*32、第2世代では現れなかったりすることが多く、続けてより良い品種を作るのが困難なのだ。
…が、結論から言うとトウルビヨンは種牡馬として大成功。
後に「トウルビヨン系」という父系を築き上げるほどの名種牡馬となった。





そもそもサラブレッドはインブリードとアウトブリードを繰り返すことで、より早くより強い馬を生み出している。
ブサックは今までの配合理論を恐ろしく早いペースで行なう等の改良を行い、この革命的な配合手法にたどり着いた。
前述のアステリューとトウルビヨンという2頭の種牡馬を擁したことで、ブサックの生産体制は安定して大規模化。
やがてブサックは大きく分けて5種類のインブリードを使い、名馬を大量生産するようになった。




このように、時代を先取りしてアメリカ血統を輸入し、リスクが高いと言われていたインブリードを「雑種強勢」と一緒に使い、ブサックは「帝国」と呼べるほどの名声を築きつつあった。
しかし、順調に成功を収めていたブサックに時代という新たな試練が起こる。



ブサック、時代に揉まれる

1939年、ナチスドイツはポーランドに宣戦布告。後に第2次世界大戦と呼ばれる、人類史上最悪の戦争が始まった。
そして戦火はフランスにも飛び火し、1940年にフランスはイギリス、ベルギーと協力してナチスドイツと戦った。
フランス軍は奮戦するも、ナチスドイツは最新戦車部隊による奇襲と怒涛の猛攻で防衛ラインを突破。
フランスは壊滅的な被害を追ってしまい、降伏まで時間の問題という局面になった。

このフランスの戦況不利をいち早く悟ったブサック*40は、自身の生産馬であるトウルビヨンや繁殖牝馬をイギリスへの伝手を利用して逃がす事を計画。
これはある程度は成功したが、全てを逃がしきる前に6月22日にフランスは降伏。フランスは占領されドイツの衛星国ヴィシー・フランスとして再出発することになる。
その際にブサックはヴィシーによって設立された国家評議会のメンバーとなったのだが、ある日ナチスの高官に呼び出され......

卐ナチス高官卐「ブサック君、突然で悪いのだが君の持っている種牡馬、繁殖牝馬を全て我らドイツで保護する事が決まった。」
ブサック「は!?何を言っているんですか!?やめてくださいよ!本当に!」

卐ナチス高官卐「いいかい?今回の戦争に関してだが、慈悲深い総統閣下は君達フランス市民の血税や犠牲の代わりに「美術品や借金の肩代わりで許したる!」と申されていらっしゃる。つまりこれは我がドイツからフランスへの慈悲深い賠償なんだ。君の是非は関係ないから尊いんだ。両国の絆が深まるんだ。
ブサック「そんな!横暴すぎます!」

卐ナチス高官卐「( ´_ゝ`)フーン、君たちは敗戦国なのによくそんな強気でいられるね?私達ナチスの力を使えば君の会社を国有化することもできるのだよ?そうなったら君の会社の社員や資産は一体どうなるんだろうね?」
ブサック「ぐ・・・」

卐ナチス高官卐「そういえば、君はユダヤ*2とも取引していたようだね?いけないなぁ~これが総統閣下にばれたら大変なことになるだろうな~もしかしたら、近いうちに旅行に行く事になるかもね!アウシュビッツ*3とか?」
ブサック「わかり・・・ました・・・」

卐ナチス高官卐「そうか、そうか、よかった。まあ、現役馬までは持っていかないからこれからもナチスの為に尽くすんだぞい。じゃ、私は馬たちを総統閣下に引き渡しに行くから。ばばんば~♪

ブサック「ひどい……!ひどすぎるっ……!こんな話があるかっ……!やっとの思いで…辿り着いたのに……やり遂げたのに……ナチスっ……!あのボヘミアの伍長がもぎ取ってしまった………!せっかく手にした俺の未来…希望…人生をっ……!」

なんとブサックが心血注いで作り上げた種牡馬や牝馬を、ナチスに賠償として全て強奪されてしまったのである。




その後、表向きはナチスに協力して軍服等を軍隊に供給していたブサックだったが、裏ではナチス打倒の為慎重に連合国側と連絡し、レジスタンスを秘密裏に支援していた。

やがて1945年に第2次大戦も終結。
戦後ファリスは無事に帰されたが、ザリバやコリーダ*4等を含む大半の名馬や生産馬がソ連の侵攻によってほぼ断絶&殺害されてしまった。


このナチスの蛮行に大激怒したブサックはドイツ軍による連行への報復として、ドイツで生まれたファリス産駒の出生証明書にサインしないという行動に出た。
そのことにより、ファリスがドイツへ連行されていた時代に生まれた産駒はフランスの血統書に登録されず、「父馬X」と記載されることになり長らく競走馬として扱われないという事になった。
皮肉にも後に「英国競馬を弱体化させた」とあれほどバカにしたジャージー規制を今度は自分の手でドイツに対して行ったのだった。

ファリスがナチスに接収されていた5年間、ブサックは主にトウルビヨンやジェベルを用いたインブリード馬の生産に勤しんでいるが、もしこの期間にファリスがいたならば後に行うあそこまで過激で濃厚なインブリードを使う傾向はなかったかもしれない......。



ブサック黄金時代

多くの名馬がフリー素材と化したチョビ髭のせいで第二次世界大戦で亡くなったものの、帰ってきたウルトラマントウルビヨンとファリス、ジェベルが健在だったブサックはいよいよ手が付けられない程強大になった。
最盛期のブサックの生産馬の数は、当時のライバルであるイタリアの「ドルメロの魔術師」フェデリコ・テシオやイギリスの17代目ダービー卿の10倍以上とも言われていた。

生産馬はその多くが自家生産種牡馬に依存した交配だった。彼の産駒はここから国内外のレースを無双しまくることになる。
40年代に入るとブサック帝国は紛れもなく欧州最強の勢力となり、フランスだけでなく近代競馬総本山と自称するイギリス競馬をも制圧。
個々の名馬が驚異的なパフォーマンスを見せたのは40年代、帝国として頂点を極めたのが50年代、とくに1950年のクラシック戦線だった。

1950年のこの年、アホ規則のせいで相対的に英国競馬のレベルが低下していた*42とは言え、ブサックは仏1000ギニー、仏ダービー、英ダービー、英オークス、セントレジャー、愛オークスをたった1年で制覇。仏オークスと仏2000ギニーも2着に入る。
ブサックは積極的に自身の競走馬をイギリスへ遠征させ、大レースをどんどん掻っ攫った。
目の前でフランス馬が自国のレースを次々奪っていくという光景に英国紳士達は発狂・憤死ものの事態に発展。

そしてジェベルの息子、マイバブーが英2000ギニーを勝った翌年の1949年、これがトドメになり「もうジャージー規則なんて運用しても英国競馬のレベルが下がるだけだ!」ということで、遂に悪名高いジャージー規則は撤廃。トウルビヨンとその子供達もイギリスでもサラブレッドとして認められる事となった。

この大快進撃を支えたのは、トウルビヨンと新たな自家生産種牡馬ファリスとジェベルだった。
特にジェベルは英国の伝統あるクラシックレースである英2000ギニーを勝利し、更にトウルビヨンの後種牡馬としても大成功を収め、息子のアーバーや前述のマイバブー等がアスコット金杯や2000ギニー等の大レースを奪いとった。

自家生産の3大種牡馬トウルビヨン、ファリス、ジェベル。
彼らこそがブサック帝国を支えた立役者だった。ここではジェベルとファリスについて紹介する。




この3頭の大種牡馬を中心に、ブサックはそれまでの「基準交配」を更に早く過激に行っていった。
この時期の典型的な配合はアポロニア*47のように、トウルビヨンを導入済みの牝馬にアステリュー&アブジャー親子やファリスで「一時的にアウトブリード化」しておいて、最後にジェベル等を掛けてインブリードする。等の形を使って名馬を大量生産していた。

また、ブサックは極端なインブリードを行うことでよく逸話が残っているが、その象徴として有名なのがコロナティオン*48であろう。

彼女はトウルビヨンを父に持つ牝馬にトウルビヨンの直仔ジェベルを掛けて生まれた。
これは血量で言うとトウルビヨンの2×2、更にテディの4×4のクロスも持っている為、合計血量62.5%という、当時でも現代でも危険すぎてまずやらないような一見滅茶苦茶な配合を行い成功させた。

当時も評論家からは批判の嵐だったとか。ブサック自身はそれに対して、
「それでは具体的にどうすべきか説明してくれ!君たちはニックス*49をどう説明するのだ?」
と反論している逸話が残っている。



これらの成果を見るに、彼は間違いなく「魔術師」テシオや17代目ダービー卿に優るとも劣らぬ大馬主であり「配合の天才」であった。

しかし、彼のあまりにも前衛的すぎる配合理論は後のアーガー・ハーン4世*53などほんの一握りの天才馬主や、一部のこんな項目を作るような物好きな競馬バカにしか理解されず、「単に一時期だけ幸運だった男」、場合によっては「インブリードによって自滅した愚かな生産者」、「神に背いて天罰が下った」とこれだけの実績を上げてなお今でも偏見が散見されているのは、何とも口惜しい限りである。

だが、そのような偏見を持たれても仕方ないぐらいの信じがたい大崩壊&滅亡までのカウントダウンがすぐそこまで来ていた。
栄光を掴んだ40~50年代、ここからたった10年で彼は破滅してしまうのである。



転落、そして失墜

短期間に絶頂と失墜があったその波乱万丈な人生において、特に没落期にスポットが当てられがちなブサック。
この没落期の典型例が前項目で出てきたアポロニア。この名牝は代々ブサックの自家種牡馬が付けられ、血統表の全体が少々息苦しいほどブサック血統で埋められていた。

問題はこうした多重インブリード牝馬に対する次の一手をどうするか?で彼は躓いてしまった。結局アポロニアは11頭の仔を産んだが、ブサック自慢の自家生産種牡馬たちとは1度も交配されず、多くは外部種牡馬が付けられた。一体なぜだろうか?

仮に彼女にブサックの自家種牡馬を付けたらどうなるか。
彼女は既にブサック3大種牡馬が付けられている為、あまりにリスクが大きすぎる。それゆえブサックはアポロニアに自家種牡馬を付けることができず、交配相手に窮したのである。

50年代以降、ブサックは前述のコロナティオンやアポロニアのような多重インブリード配合を沢山行った。
こんな事をやったブサックはみすみす袋小路に突入したようにも感じられる。
いったいどのような経緯を経て、ブサックの牧場は競馬の「け」すら知らないド素人にでもわかる危険な状況に至ってしまったのか?
インブリードによる自滅? 交配の失敗? はたまた、本当に神罰が下った?
根本的な原因はそこではなかった。



まず最大の原因は種牡馬
ブサックの生産体制は、自家種牡馬にほとんど完全に依存するという当時のヨーロッパでは珍しいアメリカンなスタイルであった。*54
こうした繁殖牝馬、種牡馬ともに自家生産主体の生産方式はどうしても血が続くに連れて交配の選択肢が狭まってくるのも事実である。*55
しかし、不運にもブサックの3大自家種牡馬トウルビヨン、ファリス、ジェベルが1954年からの4年間に相次いでこの世を去る。

残った種牡馬もテディ系のアステリューは父・母父として長年ブサック帝国を支えたが、自身の死後に後継種牡馬のアブジャーが早世したため、直系はほぼ断絶。

ファロス系の名馬ファリスは、種牡馬入り2年目から5年間ナチスドイツに接収されたこともあって、その真のポテンシャルを全て発揮しきれなかった。
後継としてはアルダン、プライアムなど初期の産駒は既に他国に輸出済みで、ブサックの手元には晩年の傑作オーリバン*56が残っていたが、これがまさかの大失敗

トウルビヨン系はブサックの自家父系とさえ言えるが、名馬が多すぎてかえって選抜が難しく、1947、48年に仏リーディングサイアーになる等一定の成功を納めた名馬ゴヤは、同父のジェベルがそれ以上の大成功を収めた為にアメリカへ輸出。息子のニルガルとゴヤマの同期生も揃って他国へ輸出していた。

ゴヤの甥であるコアラーズ*57もブラジルへ輸出済みで、そのコアラーズと天秤にかけて残した期待の最強無敗馬カラカラ*58はまたもや大失敗となっていた。

その一方で、早々に見切りをつけてアメリカへ輸出されたアンビオリックスは、なんとアメリカでリーディングサイアーを取ってしまう不運もあり、残っている直系で当時ブサックの手元でまともに活躍したのは、カラカラの半弟のアーバー*59しかいなかった。
こうして見ると、「輸出された種牡馬が非常に多く、ジェベル以降は残した種牡馬が成功してない」という状況である。

自家種牡馬の売却は彼なりに過度のインブリードを避けて、血統が行き詰まることを避けての行為でもあったのだろうが、結局ブサックは自家生産3大種牡馬に代わる「計算の利く種牡馬」をついに生み出せなかった。

当時彼の手元に残っていた種牡馬ではアーバーこそ小規模な成功を収めていたが、前述のとおり本命だったカラカラとオーリバンが相次いで大失敗に終わり、自家父系は終焉を迎える。
自家生産種牡馬で同時に3頭も大成功したなら、それは歴史的な大偉業と言うべきだが、その3頭にほぼ完全に依存しながら、後継を引き当てられずに3頭がほぼ同時に死亡したこと。
これがブサックにとって転落の第一歩となる。

もちろんブサックはこの非常事態をただ座して眺めていたわけではない。
彼はアメリカの大牧場カルメットファームからまずアメリカ三冠馬ワーラウェイ*60を輸入。
ところが、ワーラウェイはブサックが産駒の出来が良いと見てレンタルから完全購入に切り替えた途端にまさかの急死
ブサックはこれを惜しみ、さらに続けてカルメットから厳選した3頭の種牡馬を輸入する。



ブサック「お待ちどー!カルメット三銃士を連れて来たよ。」
牝馬たち「カルメット三銃士?」

ブサック「ワーラウェイと同じ父である名種牡馬ブレニム*61を持ち、アメリカン・ダービー等を勝利した重賞の専門家、ファーベント!」
ファーベント「うっす、よろしく。」

ブサック「アメリカで今激アツのブロリーブルリー*62産駒で、1600mでダート世界レコード(当時)2000mで世界レコードタイ(当時)を記録したレコードの専門家、コールタウン!」
コールタウン「がんばります、よろしく。」

ブサック「同じく今激アツのブルリー産駒で、ギャラントマン*63、ボールドルーラー*64、ラウンドテーブル*65等の名馬と覇権を争い、1957年アメリカ最強世代のケンタッキーダービー馬になったダービーの専門家、アイアンリージ!」
アイアンリージ「よっす、どうも。」

ブサックがこれら4頭のアメリカ産一流馬に牧場の未来を託したのは、かつて自分の基礎牝馬ダーバンがアメリカ血統ゆえに大成功し、トウルビヨンを産んだからであった。
だが、さすがに4頭すべてが一流種牡馬になるとはブサックも考えていなかったであろう。

ブサック「流石にすべて失敗することはないだろう!1頭くらいはバースの再来トウルビヨンの再来のような成功をするはずで、その1頭さえいれば牝馬たちを一時的にアウトブリードの状態に出来るから、次代で再び自家種牡馬が大活躍するはず!」

という程度の期待だったに違いない。ブサックは早速カルメットの種牡馬を種付けした。



ブサック「出でよカルメット三銃士!!そして願いを叶えたまえ!!」









































え、もったいぶらせて結局どうなったって?


















大★失★敗



カルメットの4種牡馬は、あろうことか最低限の期待さえ裏切ってしまった。
まるで某球団のバースの再来が、「バースの再来の再来の再来」になってしまったレベル・・・しかもそれが4頭同時という信じがたい大失敗であった。

ブサック帝国はフレズネイ=ル=ビュファール牧場、ジャルディ牧場を擁し、前述のテシオやダービー卿の10倍近い生産規模を誇った。
カルメットの4種牡馬はブサックの超良血牝馬たちのお腹を借りて1年に100頭以上の若駒を送り出したはず......
が、ブサックの牧場でこれら4頭が送り出した産駒のうち一流馬と呼びうる馬は1頭すらいなかった

これによってブサックの被った打撃は、単に一流馬が出なかっただけに留まらなかった。

繁殖牝馬は残せる子孫の数も期間も牡馬に及ばない。
種牡馬は当時でも多くて1年に100頭、現代では200頭近く産駒を残せるが、牝馬は1年に1頭しか残せない。

牧場の主力と期待した種牡馬が続けて滑るということは、まさに大規模汚染と言って過言でない甚大な事態を引き起こしてしまった。*66
しかも産まれた馬が牝馬ならば繁殖牝馬として名馬を……と考えても、後年日高を破壊したラムタラ初年度勝ち上がり0頭ピルサドスキーですら存在していた母父としてG1馬輩出すら4頭合わせても一切いないと言う始末。


この自家種牡馬の連続死去と輸入種牡馬の大失敗は同時並行で起こってしまい、ブサック帝国は激しく揺さぶられる。
次代の候補としてアメリカから買い付けた4頭。これが全て失敗に終わったことはブサックにとって最も想定外だったことだろう。
まさに泣きっ面に蜂......なんてレベルじゃないくらいに酷く落ち込んだことは想像に難くない。

栄光の1950年から、たった10年であれほど優位を誇ったブサックの競走馬や牝系はその活気を失い、価値を下落させた。
日本で例えるのならばサンデーサイレンスが同じ大惨事を起こしたら社台がどうなるか*67を想像すれば分かりやすいか。
ブサックはカルメットの刺客4種牡馬によって受けた打撃からついに回復することができず、新たな種牡馬を導入する余裕もなくなった為、いよいよ本当にリスクの高いインブリード外部に種付けに行く生産形式を取らざるを得なくなっていく。
しかし、ブサックの場合牧場が抱える繁殖牝馬が非常に多かったため、外部の種牡馬を使うといっても簡単ではなかった。

国内のフランス種牡馬は?となるが、50年代後半以降はフランソワ・デュプレ*68が没落したブサックに代わって生産者部門の首位を占めるようになった。
デュプレはしばしばブサックの種牡馬も用いたが、ブサックは彼の親ドイツ的な言動やスタンスへに反発していた。
ブサックにとってドイツに味方する人間や、ドイツの血を引いている馬は「親の仇かそれ以上」に憎んでいた為、牧場が滅亡寸前の危機的状態になっても最後までデュプレ等の親独派が所有する一流種牡馬や、1滴でもドイツ血統がある馬は絶対に用いようとしなかった。

この為結局外部に行く事になるのだが、ブサックの牧場には100頭以上の牝馬がいた為、種付け料と輸送のコストで経営を圧迫。
40年前にはただの個人的道楽でしかなかった牧場経営は、今や本人すら支えきれないほどの規模に膨らんでいたのである。

更に悪い事は続くもので、

①少しでも赤字を無くすために色々とコストカット
 ↓
②寄生虫が大発生という防疫的失敗が発生
 ↓
③生産馬の成績不振
 ↓
④フランスの脱植民地化や時代遅れなやり方*69にこだわった為にブサック本業の繊維業まで傾く
 ↓
⑤生産馬のさらなる成績不振


という負のスパイラルを招いてしまう。
競馬界で成功し続ける事が、後世に血を残し続ける事が、種牡馬を当て続ける事がいかに難しいか、今現在のノーザン・社台ファームやクールモアグループがどれほど努力しているのかがお分かり頂けるだろう。*70

ファリスとジェベルが母父としてはあまり名を残せなかった*71のも、この時期のブサック牝系の大汚染が原因。
また、60年代に様々な足掻き実験的配合やあのコロナティオン以上の超リスキーなインブリードを行ったことにより、ファリス産やジェベル産の牝馬は交配相手に恵まれず、血統を枯らせてしまうことになる。
超良血と言われたブサックの牝系の血統が後世にほとんど残らなくなってしまったことは、競馬の歴史的にみても大変勿体ないことであった。




60年代以降のブサックの成績は惨憺たるものである。
数少ない活躍馬は自家製牝系のうちカルメットの刺客4種牡馬によって汚染されていない牝馬に、外部の種牡馬をつけることで産み出されていた。
が、それでも以前のように勝つことが出来ずに惨敗を続け、このままブサックは滅亡するのか?と思われていた。

しかし、そこはブサック。タダで終わる男ではなかった。
彼は1975年の産駒で、遂に最後の傑作・希望というべきアカマスという名馬を生み出す。

アカマスの配合は輝かしく、そして皮肉に満ちている。
牝系はブサックの原点であるフリゼット系で、母はダーバンの妹ヘルディファンから数えて6代目のリカッタ
父の欧州三冠馬ミルリーフ*75は、ブサック自身がかつてアメリカへ輸出したラトロワンヌやジェベルの息子ジェッダーの血を引いていた。
ジェッダーと4代目牝馬のトウルジマは姉弟の関係であり、まさに黄金時代のブサックのインブリードを再現するような見事な配合となっている。


最後の希望アカマスが仏ダービーを勝った時、遂にブサックは競馬に見切りをつけ、この現役ダービー馬に2700万フラン、残り全ての所有馬143頭に1400万フラン、合計4100万フランで当時若き頃のブサックと同様に情熱と熱意を持っていた新興馬主アーガー・ハーン4世に売却。
もしアカマスが出なかったら、全部で1000万フランも付いたかどうか。その意味で、ブサックは最後の賭けで勝利を収めたと言ってもいいだろう。

しかしそれは彼の没落を帳消しにし、かつての栄光を取り戻すものではなかった。
結局1978年にブサックは破産。さらに1980年失意の中90歳の生涯を終えた。



ブサックが直面した悲運は際立ち、あまりにも理不尽である。

もし名牝ラトロワンヌを残していれば。
アブジャーが早死にしなければ。
ファリスがナチスに5年接収されていなければ。
そもそも第二次世界大戦が起きていなければ。
カルメットではなくクレイボーン等から種牡馬を輸入していれば。
種牡馬ではなくダーバンのような異系血統の牝馬を輸入していれば。
恥を忍んでデュプレやドイツ血統を導入していれば。
そもそも競馬をガチらなければ

このタラレバがあったらブサックの後半生はいったいどうなっていただろうか?



ブサックの死後

彼の死後、所有していた資産は殆どが人手に渡っている。

本業であった繊維業はベルナール・アルノー*76が買収。
所有していた新聞社はフランス最古参の新聞社であるフィガロ社に吸収される形で消滅した。

また競馬事業は前述の通りアーガー・ハーン4世が購入し引き継いでいる。
ブサックから意志と血統を引き継いだアーガー・ハーン4世は、その後見事にブサック血統を復活させる。

アカマスこそ購入後の競走・繁殖成績は振るわなかったものの、アーガー・ハーン4世はむしろアカマスの半額あまりで購入したブサック牝馬大きな価値を見出していた。

ブサックの死から2年も経たないうちに、父も母もブサック生産馬でアカマスの半弟アカラッドがG1サンクルー大賞を、その全妹アキーダが凱旋門賞を勝利。
また99年のKG6世&QEステークスの勝利馬デイラミ、及びその半弟で03年の凱旋門賞馬ダラカニはブサック牝系から生まれた名馬である。
ブサックがこだわり、それゆえに苦しんだ牝系。それを丁寧に磨き直して蘇らせたことは、4世の生産者として最大の功績とみなしていいだろう。

しかし、そのアーガー・ハーン4世でさえカルメットの刺客4種牡馬には手こずった。彼が生産したG1勝馬の中で、この4種牡馬いずれかの血を引いているのはシンダー*77エルデリスタンエルヴェディア*78くらい。
長い年月の中でカルメットの血が相当に薄まっていることを考えて見ても、当時のブサックの辛酸がいかほどであったか、改めて察されるものである。



評価

交配論というのはかなり奥が深い。
専門的なものまで全部記載していたら個別記事がいくつあっても足りないため、このページには要点と簡略な理論しか言及していない。
しかし、1930~70年代当時に覇権を争った伝説の馬主「魔術師」フェデリコ・テシオや17代目ダービー卿に引けをとらないほどの天才だったこと、そして様々な交配論を開拓したパイオニアであったことは語るに及ぶまい。

その一方で、ダーバンらの祖先フリゼットを高齢になって子供を産めなくなったら屠殺場送りにしたり、思わず眉を顰めるような濃厚or多重インブリードを多用した競走馬の交配、それによって生まれて寵愛していたはずのコロナティオンも最後は牧場から放逐して行方不明にさせてしまう等、主に動物愛護の観点から見ると非情・薄情な対応が多かった為、「サラブレッドを生き物ではなく「モノや商品」と見ていた悪魔に天罰が下った」と評価する人物も少なからずいる。*79

当時においても、今でも彼の革命的・積極的なやり方について賛否両論があり、
ほんの一握りの人々にしか理解されず、時の人と言われるような風潮があるのは残念なところである。

様々な賛否両論を巻き起こしたものの、ブサックの死後の1980年、フランス競馬では彼の偉大な功績を讃え、
凱旋門賞ウィークエンドに開催されている2歳牝馬G1レース「クリテリウム・ド・プーリッシュ」を「マルセルブサック賞」と改名している。



日本競馬とブサックの関わり

マルセル・ブサックは、その栄光に陰りが見え始めた1960年代になって、大量に抱えていた独自の血統を金策の為に放出するようになった。
そしてそれらの馬の行方の中には、すでにアメリカに次ぐ経済大国に成長し、サラブレッド輸入大国となりつつあった日本も含まれていた。
輸入された馬は繁殖牝馬約20頭、種牡馬もその1/4ほどが直接ないし間接的に日本に入ってきている。

しかし、それらのほとんどはブサックの配合意図などをまったく理解せずに交配され、その血を薄めていった。
あるいは「ブサックはインブリードしすぎて失敗した」という定説や常識のせいで、日本の生産者にインブリードを躊躇させたのかもしれない。
結果としてブサック血統のほとんどは歴史の陰へ消えて行ったのである。

そんな中でも、日本におけるブサック血統と言えば真っ先にパーソロンが挙げられる。
父はジェベルの末裔マイリージャン、母はブサック牝系のパレオ、母父がファリスという正にブサック血統の塊とも言える血統であった。

彼は1964年にシンボリ牧場の和田共弘代表とメジロ牧場の北野豊吉代表が本命のヴァルドロワール、ヘザーセットが交渉で折り合いが付かず代用として共同で購入し、皇帝シンボリルドルフメジロマックイーンの祖父メジロアサマの父として有名な種牡馬である。
現役時代は2歳時にG1ナショナルステークス*80を勝利してアイルランドの2歳馬の中で屈指の評価を得ていたが、クラシックには勝利できず。
その為輸入当初は仕上がり早の短距離馬と見られていたが、パーソロンはここから名種牡馬の道を歩く!

輸入種牡馬群雄割拠時代の60年代にネヴァービート*81テスコボーイ*82チャイナロック*83ら名種牡馬と覇権を競い、産駒には70年にメジロ3代天皇賞馬の初代メジロアサマ*84、71年に桜花賞馬ナスノカオリ、同年のカネヒムロからタケフブキナスノチグサトウコウエルザまで4年連続でオークス馬を輩出*85、78年には日本ダービー馬サクラショウリ、84年には桜花賞馬ダイアナソロン、そして同年日本初の不敗の三冠馬「皇帝」シンボリルドルフ等々と名だたる大レースの勝馬を輩出。

また母父としても優秀で、78年の有馬記念に勝利して年度代表馬となったカネミノブや、タマモクロスの父である「白い稲妻」シービークロス、牝馬限定G1を5勝したメジロドーベル等を輩出し、1971・76年には日本リーディングサイアーになるなど、現在でも日本の血統に多くの影響を与えている。

残念ながらその後サンデーサイレンス等の輸入種牡馬や、サンデーの後継馬に押されて直系こそ滅亡寸前にあるが、
メジロマックイーンが母父としてドリームジャーニーオルフェーヴル兄弟、ゴールドシップを出すステマ配合で一躍有名になり、彼らから後継種牡馬もボチボチ出ている上、
2021年に世界最高峰のレースである米国のG1・BCディスタフを制したオルフェーヴルの娘マルシュロレーヌもパーソロンの子孫になる為、牝系ではまだまだブサック血統は日本では滅びない事が確定している。



ブサックの生産馬傑作選

余りにも名馬の数が多すぎて全て載せていたら個別記事が必要になるため、現役・繁殖で印象的な活躍をした馬を一部抜粋して紹介しよう。



Sun Briar(サンブライヤー)

生涯成績:22戦8勝
主な勝鞍:ホープフルS(米GI)、トラヴァーズS

ブサックを競馬の沼に沈めた事に定評のある最初期の名馬。

後にブサックがバーゲン価格で売ってしまった事を後悔したが、それは買ったほうの馬主も安すぎると感じる程の名馬だったのだ。

米国の事業家兼馬主だったウィリアム・シャープ・キルマーと言う馬主に購入されてアメリカで競走生活を送ったが、購入当初からオーナー含む関係者らに非常に大きな期待をかけられていた有望馬であり、実際にG1ホープフルS(米GI)を含む重賞5勝を達成する大活躍で2歳王者に輝いた。

翌年はケンタッキーダービー制覇の最有力候補として全米で期待されていたが、オーナーが同馬の併せ馬用に用意していたエクスターミネーター*86のほうが動きがよく、急遽サンブライヤーを休養させて代役でダービーに出走するとそのまま優勝!*87
その後も前代未聞の大活躍を繰り広げた結果、逆にサンブライヤーがエクスターミネーターの引き立て役になってしまうなんとも残念な逆転現象が起きてしまった。
ただしサンブライヤー自身もそれで終わらず、その後のG1トラヴァーズステークスやシャンプレインHではエクスターミネーターにリベンジを果たし、デラウェアハンデキャップといった重賞でも勝ちを挙げている。

引退後はキルマーの牧場で種牡馬となり、ホーソーン金杯3連覇などの活躍で1930年代の世界賞金王に君臨する名馬サンボウを始めとする素晴らしい産駒に恵まれたが、種牡馬として成功した産駒がいなかった為父系は続かなかった。

なお、この頃のブサックはテキトーに配合していたはずなのに、当馬の血統は大種牡馬ハーミット*88とヴィデット*89のクロスに加えて父系のサンドリッジ系と母父のガロピン系のラインブリード*90も狙っているかなりセンスのある配合をしている為、競馬の沼に沈んで破産したのも運命だったのかもしれない。




Tourbillon(トウルビヨン)

生涯成績:12戦6勝
主な勝鞍:仏ダービー


競走馬名は「旋風」を意味し、その名の通り没落していたヘロド系に旋風を起こし、ハイフライヤー*91以来の黄金時代を到来させた名馬。

1930年にデビューし、7月のデビュー戦を優勝した2日後に出走したレースで2着に敗れた後、翌8月にはドイツのレースに出走し優勝。
帰国後出走した仏グランクリテリウムでは重馬場に足をとられ6着に敗れて2歳シーズンを終えた。*92

翌1931年、トウルビヨンはグレフュール賞、オカール賞、リュパン賞と重賞を3連勝し、そして仏ダービーに当たるジョッケクルブ賞も2着馬に2馬身の着差をつけて優勝し、フランス3歳牡馬の頂点に立つ。
これはブサックのみで生産した馬では初の快挙で、ブサックも大変喜んだ事であろう。
しかし、トウルビヨンの競走馬としての頂点はここまで。この後は勝利を挙げることができず、1932年に競走馬を引退し種牡馬となった。

ダービー馬としては早枯れ気味で重馬場に弱いという欠点が指摘されていたが、種牡馬となったトウルビヨンはまさに無双というべき圧巻の活躍を見せる。

2年目の産駒からゴヤ*93を出し、その後もジェベル(後述)、カラカラ*94アンビオリックス(後述)等の名馬を輩出。1940・42・45年にはフランスリーディングサイアーに輝き、リーディングBMSにも2度選出された。
このトウルビヨンの活躍でブサックは馬主・生産者としての名声を確立させ、フランスの競馬は黄金期とも言われる隆盛を極めた。

また、トウルビヨンは母方の血統のせいで「雑種血統」「半血」と英国紳士だけ差別されその子孫も含めてイギリスだけではサラブレッドとは認められなかった。
しかし、1949年には自らの力と子孫の大活躍で遂にあの無能規則ジャージー規則を廃止に追い込んだ。
今現在、彼らの血統はサラブレッドとして認められているが、これは先人達や名誉回復を願った関係者の努力の賜物だけでなく、トウルビヨンとその子孫の活躍も大きな要因のひとつである。

日本へは直仔は輸入されなかったものの、直系ひ孫のパーソロンガルカドールが重賞・G1優勝馬を輩出する大成功を収めている。




Pharis(ファリス)

生涯成績:3戦3勝
主な勝鞍: 仏ダービー、パリ大賞典

わずか3戦3勝ながらフランス競馬史上最強馬の一頭と評価されたほどの名馬。

いきなりG3ノアイユ賞出走という鳴り物入りのデビューだったが、レースではスタートで出遅れる不利があったものの見事1着を掴み、翌6月にはダービーへの出走を決定。
本番のダービーでは最後方を進み、しかも直線で進路を妨害される不利を被ったが、そこから伸びを見せたファリスは一気に先頭に立ち、2着に2と1/2馬身の着差をつけ勝利。
同月末のパリ大賞典でもレース中に馬がバランスを崩し騎手が落馬する寸前になる不利を被りながらも、ゴールまで残り400mの地点で体勢を立て直して一気に先頭に立ち優勝し、「最強馬」と恐れられた。

このパリ大賞典優勝後、ブサックはイギリスに遠征し2000ギニー、エプソムダービーの2冠を制した名馬ブルーピーターとセントレジャーで頂上決戦を行う計画を立てた。
しかしヒトラーのバカのせいで第二次世界大戦が始まり競馬自体が中止となった為に計画はパー。
その後はレースに出走することなく競走馬を引退し、1940年春からフランスで種牡馬となる予定だった

1940年6月22日、フランスはナチスドイツに敗北し降伏文書に調印。賠償金の代わりに種牡馬になったファリスをナチスドイツによって「賠償」として強奪されてしまい、実に 5年間の1945年まで総統閣下が所有するトラケーネンファームで繋養された。

だが、春の種付けシーズンの間にフランスで生まれた初年度産駒が大活躍し、ファリスは1943年にフランスの2歳リーディングサイアーに、翌1944年にはわずか10頭の産駒のみでリーディングサイアーとなった。
一方、ドイツで生産された産駒はアステルブルーテを除き目立つ活躍を見せていない・・・が彼女の残した牝系、通称「ドイツのAライン」から後に綺羅星のような名馬が大量に輩出された。

1945年にフランスへ戻ってからの種牡馬成績も良好で、1951~53年にかけて3年連続でリーディングサイアーとなったが、1957年に死亡。
どちらかというとフィリーサイアー*95として結果を残しており、父系はごく一部を除いて*96断絶したものの母父としてはパーソロンを輩出してシンボリルドルフ等の名馬を日本にもたらした。が、牝系としてはもっとすごい。

日本ではモンロビアから続く牝系からキンシャサノキセキ、サクラローレル、タイムパラドックスといった一流の名馬をもたらし、大失敗した後継種牡馬オーリバンの娘コランディアから続く牝系からはベルワイド、リトルアマポーラ、ファストフォース等の名馬を出した。
また、欧州ではドイツのAラインから5世代後に生まれたアーバンシーが欧州競馬を席巻。ガリレオ・シーザスターズ兄弟を筆頭とした名馬がズラリと並ぶなど大発展を遂げた。
彼らの血が途絶えるまではまだまだファリスの血は無くならないだろう(地球崩壊クラスの災害でも起きない限りなさそうだけど)




Djebel(ジェベル)

生涯成績:22戦15勝
主な勝鞍:ミドルパークステークス、 英・仏2000ギニー、サンクルー大賞、シャンティイ賞、凱旋門賞

欧州競馬界に旋風を巻き起こしたトウルビヨンの史上最高傑作

初戦から2連続で2着後にイギリスに遠征しG1ミドルパークステークスに出走、これに快勝しフランス馬なのにイギリスで初勝利を挙げる。その後はフランスに戻りシャトゥ賞を勝利、オマール賞を2着としてフランス最優秀2歳牡馬に選ばれた。

この結果に自信を持ったブサックは、イギリスクラシックG1英2000ギニーに挑戦する事を決定。21頭もの出走馬がいたが、後続に2馬身差で勝利しこれがブサックにとって初のイギリスクラシック制覇となった。
のちフランスに戻り、プール・デッセ(仏2000ギニー)1着*97、シャンティイ賞*983着で3歳シーズンを終えた。

しかし、4歳時には第二次世界大戦中の為遠征は行われなかったものの美大落ちのチョビ髭伍長に強奪されないよう積極的に国内レースに参戦。
ボイヤール賞、アルクール賞、エドヴィユ賞と3連勝するがG1サンクルー大賞では2着、シャンティイ賞でも2着になり、凱旋門賞では3着となってシーズンを終える。

5歳になった1942年も現役を続け、サブロン賞を1着したあとは前年と同じローテーションで進み、ボイヤール賞、アルクール賞、エドヴィユ賞では2年連続勝利とともに4連勝とした。本命のサンクルー大賞ではレコードタイムで勝利し、続くシャンティイ賞でも勝利して6連勝で臨んだ凱旋門賞では後続に2馬身差をつけて勝利、なんと7連勝を達成しフランスの最優秀古牡馬に選ばれた。

距離の融通がかなり利く馬だったらしく、勝ち星は1000m~2500mと幅広い。
もし、第二次世界大戦が無ければどれほどの活躍をしたのか・・・ただ世界大戦が無かったらここまで長く、圧倒的な活躍ができたか?と言われると何とも言えない。

引退後は父トウルビヨンや1年先輩のファリスとともにブサック帝国の三大種牡馬として活躍し、いきなり初年度産駒からジェラルアルバークラリオンなどの名馬を送り出し、コロナティオンは凱旋門賞を制し、ガルカドールは71年ぶりとなるヘロド系の英国ダービー馬となった。
この活躍もあり1947~49年までの3年連続及び56年にフランスリーディングサイアーを獲得した。

ヘロド系の後継としても超有能で、現在につながる直系ではクラリオン*99マイバブー*100を輩出したが、ブサックの手で生まれた馬からは遂に後継馬は現れなかった(この2頭は非ブサック産)。

フランス競馬会はこの栄誉を称え、現在ではメゾンラフィット競馬場でジェベルの名を冠したレースG3「ジェベル賞」が行われている。

なおドバイで3月に行われているレース「ジェベルハッタ」とは何も関係ない



Ambiorix II (アンビオリックス)

生涯成績:7戦4勝
主な勝鞍:グランクリテリウム、リュパン賞

名前の由来は紀元前のローマの支配に抵抗し、ガリア人の自由を求めた英雄から取られた。
ジェベルと同様のトウルビヨン産駒であり、種牡馬入り後はなんとアメリカでリーディングサイアーに輝いた名馬。

いきなり重賞のシャトゥ賞でデビューしたが、これは着外。*101
渡英したグッドウッドのセルシーステークスで楽勝して初勝利を上げた後に、フランスの2歳牡馬最重要レースであるグランクリテリウムに優勝。3戦2勝の成績でフランス最優秀2歳牡馬に選出された。

3歳時はグレフュール賞、リュパン賞に勝利したが、オカール賞及び仏ダービーでは2着に入り、この年に惜しまれつつ引退した。

2400mのクラシックディスタンスよりも1600mから2000mのマイル~中距離で活躍した為、競走馬引退後は距離適性からヨーロッパよりもアメリカの競馬で真価を発揮すると考えたブサックによって*102250,000ドルをポンっとであっさりシンジケートに売り渡し、クレイボーンファームで種牡馬生活を送る。

するとそこから名馬を輩出!アメリカ2歳牝馬チャンピオンに輝いた後にアメリカンオークス等を制覇し、通算45戦13勝をあげた名牝ハイヴォルテージや、G1を複数回勝利して52戦13勝とタフに走り、後に社台ファームが導入して多数の障害レースで活躍馬を出し、G1安田記念、マイルCS等を制覇したノースフライトの母父としても有名なヒッティングアウェー等を出した。

生涯で51頭のステークスウィナーを輩出し、1961年には前述のとおり北米リーディングサイアーに輝く大活躍。
また、リボー産駒のラグーサ*103の活躍により1963年には英愛リーディングBMSにも輝いた。



Coronation V(コロナティオン)
※「コロナティオン」は仏語読み。日本だと英語読みで「コロネーション」とも読む


生涯成績:13戦6勝
主な勝鞍:プール・デッセ・デ・プーリッシュ(仏1000ギニー)、凱旋門賞

??? 「これがブサックの夢、ブサックの望み、ブサックの業!! 『他馬より強く』、『他馬より先へ』、『他馬より上へ』!!」


某掲示板 で全世界のシスコン・ブラコンの希望の星とも称されたブサック狂気の傑作。
何がヤバいっていうとその血統が途轍もなくヤバい!

彼女の父は前述のジェベル、母は仏1000ギニー馬のエスメラルダという超良血だったが、この両親なんとどちらも父がトウルビヨンなのである。
つまり腹違いの兄妹が愛し合った結果*104生まれた子供がコロナティオンということである。

インブリートの内容はトウルビヨンの2×2=50.00% 、テディの4×4=12.50%、合計血量62.5%という前代未聞の数値をたたき出したインブリートの極致。これは某ウイポなら危険だといって種付けをさせてもらえず、某ダビスタなら危険な配合と警告が発生するレベルの途轍もなくヤバい配合である。
こんなマジキチ血統背景を持つ彼女は当然まともな馬であるはずもなく、ブサックが溺愛するほどのとてつもない才能を持っていたが、非常に神経質かつ異常に気性が激しかったこともあり、生涯でたった1戦を除いてハラハラドキドキのレースを見せつけた。

2歳時にフランスのシャトー賞でデビューすると、落ち着きのないレースぶりながら何とか1馬身差で勝利。
ここで自信を持ったブサックはイギリスのロイヤルアスコットに遠征し、クインマリーステークスに出走させここでも2着に頭差で勝ち優勝。
次に出走したロベールパパン賞では当時のレコードタイムを2秒4も縮める異次元のレースレコードを記録してまたも優勝したが、このあとのモルニ賞、シェヴェリーパークステークスはともに集中力のないレースぶりで敗れた。

3歳になると、ブサックは大レースを目指し、まずは母も勝利した仏1000ギニーに出走。集中力を欠いたレースぶりだったが、何とか1位同着に持ち込んだ。
このあとは英オークスに出走するが、スタートから暴走してしまいクビ差の2着。さらにアイリッシュオークスにも挑戦するが4馬身差の2着に敗れた。
次走は凱旋門賞と決まったのだが、実はこの頃の凱旋門賞は今ほど権威の高いレースではなく、フランス古馬混合G1の一つでしかなかった。しかし、大実業家であったブサック氏が、

「俺の愛するコロナティオンが世界一の名馬だ!ロンシャンまでかかってきな!」

と、溺愛しているコロナティオンの出走するレースを世界一のレースにしたいと言うことで各方面に働きかけ、結果として当時世界最高賞金の2500万フランの世界的大レースになり、現在でも高額の賞金を持つ大レースとなったのだ。

この年(1949年)はG1パリ大賞・仏オークス・ヴェルメイユ賞を勝った現役最強の名牝バゲーラ、仏2000ギニー優勝馬のアムールドレイク、愛2000ギニー・愛セントレジャー等の勝ち馬ボーサブリュー等々、欧州中のスーパーホースが凱旋門賞に出走し28頭?!という超多頭数のレースだったが、本馬はめずらしく落ち着いておりレース開始後は中団好位の10番手辺りを追走し、そこから直線に入ると一気に抜け出して残り300m地点で先頭に立ち、最後は騎手が手綱を抑える余裕を見せながら、2着馬ダブルローズに4馬身差の大圧勝!
ブサックのマッチポンプ計画は大成功に終わった。
この超強豪メンバーが揃った凱旋門賞を圧勝で制した本馬は、20世紀欧州有数の名牝としての名声を不動のものとしたのだった。
翌年も競走生活を送ったが、ヴェルムー賞に勝ち、クイーンエリザベスステークスで2着した程度に終わって引退した。

その後はブサックのもとで繁殖用に供されたが、卵管閉塞のため不妊で10年交配されながら死産、不受胎が続き、ついに一頭の産駒も残せないまま牧場から出されてしまった。
その最期は今でも不明である。
この不妊の原因は極端なインブリードの影響という説もあるが、実は本馬には全妹も何頭かおりそのうちの1頭オルマラはGIジャンプラ賞を勝ったロクリスを産んだほか、現在も牝系が繋がっており末裔にはGI3勝を挙げたエルヴェディヤが出ている。

もしかしたら、彼女は雌の騙馬だったのかもしれない。彼女は一人の男のエゴによって生み出されて世界最高の名馬になったが、役に立たないと分かると捨てられてしまい、サラブレッドの、競馬界の暗黒面をも我々に見せてしまった。





Acamas (アカマス)

生涯成績:11戦3勝
主な勝鞍:仏ダービー、リュパン賞

ギリシア神話から命名由来のブサックの最後の傑作にして最後のダービー優勝馬。
後期ブサック特有のカルメットの4刺客種馬を付けていない牝馬に外部の一流馬を交配する事で誕生した。

2歳時には3戦1勝とパッとしなかったものの、その後はリュパン賞、仏ダービーと2連続でG1を優勝しブサック血統の偉大さと最後の輝きを示した。
その後は前述のとおりアーガー・ハーン4世に売却され、同期のシャーリーハイツ*105とともに自身の父である新種牡馬ミルリーフ旋風を起こす大暴れをした。
が、期待されて種牡馬入りするも繁殖能力に問題あり中々子だしがよろしくなかった為、刺激を与えるという意味でなんと8歳時に競走馬として復帰したが繁殖力は回復せず、当時「種牡馬の墓場」と揶揄されていた日本に売却された*106
日本では何頭か仔を残すも、活躍はできずに亡くなってしまい、ライバルのシャーリーハイツの輝かしいその後と較べ悲運の馬生を送った。

が、彼の活躍によってアカマスの、つまりはブサックの牝系が見直され、後にアーガー・ハーン4世の手によってシャーリーハイツとブサック牝系が出会い、ダルシャーン*107という名種牡馬が誕生した。

もしアカマスに普通の繁殖力があったなら?という疑問への回答こそダルシャーンであり、彼の牝系がライバルのシャーリーハイツ最大の後継馬となったのは、偶然にしては出来すぎた話だろうか。






余談

日本の小説・テーブルトークRPG『ロードス島戦記』シリーズ・『ソード・ワールドRPG』では、至高神ファリス・ファリスと対をなす暗黒(自由)神ファラリス(馬のファリスの祖父)・邪神ニルガルとブサック系馬と同じ名の神が登場。
同作では他にも「マイリー」・「ミルリーフ」(アカマスの父)・「ミゴリ」と過去の名競走馬と同名の神が存在しており、古参のアニヲタだとこっちで彼らの名にした親しんだものが多いのではないだろうか。



追記・修正はダービーを10回以上勝利してからお願いします。


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最終更新:2024年02月29日 21:47

*1 1950年代に活躍したフランスのファッションデザイナー。現在では化粧品・衣服等の高級ブランドとして有名

*2 ダービーは首相になるよりも難しいと言われるほど競馬に携わる人の頂点ともいえるレースだが、それを12回って・・・

*3 これは1馬主としては史上最多の勝利数

*4 後のフランスにおける競馬統括機関フランスギャロの前身

*5 1969年~1979年までの旧名はクリテリウム・デ・プーリッシュ賞

*6 奇しくもこの年はブサックを大富豪にする第一次世界大戦が始まる年である

*7 キジルクールガン、オムニウム、クサールといった名馬を生み出した名生産者。後にフランスでサンタラリ賞のレース名に名を残した

*8 フランス競馬史上有数の生産者。テディ等の名馬を輩出し、その栄誉を称えてエドモン・ブラン賞のレース名に名を残した

*9 メトロポリタンH、ブルックリンH、サラトガスペシャルSなどの大レースに勝利した名馬

*10 産駒にアメリカ3冠レースの1つ「プリークネスステークス」として名を残す名馬プリークネスを筆頭に大レース勝ち馬多数輩出し、「アメリカのセントサイモン」と称される大活躍を見せた。残念ながら20世紀初頭には低迷してしまいサイアーラインはほぼ消滅したが、ノーザンダンサーやナスルーラ等の祖先である大種牡馬ネアルコの曾祖母の父がレキシントンである為、現代のサラブレッドのほとんどの馬の祖先にはこの馬がいる途轍もない馬なのだ

*11 この頃、欧州競馬にとって大きな市場だった新興国アメリカから、反対にサラブレッドを還流するという動きも起こっていた

*12 1791年に発行した競走馬の血統を記録した本。サラブレッドの血統は徹底的に管理されており、他の種の血統が入らないように、詳細な祖先が記録されている本なのだ

*13 フリゼット系と呼ばれる超名門牝系を作った始祖であり、ブサックの馬産の基本となる牝馬たちの祖になるという大きな功績を残した基礎牝馬だった。後に1926年に夫人から牧場、および残っていたすべての馬を売却した後にブサックによって買い取られたが、既に21歳と高齢だったため子を残すことが出来ず、24歳の時に見切りをつけたブサックによって屠殺処分という形でその生涯を終えた。末梢にはアメリカ殿堂馬にもなったマートルウッドや、同じくアメリカ殿堂馬のダリア、ミスタープロスペクター、シアトルスルーなどが出ており、日本でもこの牝系からサクラチトセオーなどが出ている

*14 英語でロスチャイルドと言い、19世紀から現代でも絶大な発言力を誇るユダヤ系の名家

*15 セントサイモンという名馬の子孫が地元英国で、初期から大成功して大繁殖しすぎてしまい、結果的に孫世代以降の発展に影を落として短期間のうちに消滅してしまった悲劇。当時は馬の海外への輸出入のノウハウや技術が未確立だった事もありものすごい勢いで血統が袋小路になってしまった

*16 当時は英国領インド

*17 英チャンピオンSやイスパーン賞などのG1を制覇した名馬

*18 4~5歳時に凱旋門賞を連覇した歴史上唯一の馬であるフランスの歴史的名牝。2~5歳時まで33戦とタフに走った

*19 G1ミドルパークSに勝利し、後に紹介する父アステリューと共にブサックを支えた

*20 G1セントジェームズパレスステークス等に勝利し、後にフランスで2回リーディングサイヤーに輝く名馬となる

*21 後の世代にドバウィ、ダラカニ、デイラミ等の名馬を輩出する

*22 ブルード・メア・サイアーの略称。いわゆる母父としての優秀さを決める賞

*23 フランス、スペインに渡る地域

*24 仏2000ギニーなどを勝ち、後にアメリカに輸出されて4回アメリカのリーディングサイアーとなる

*25 これを近交弱勢と言い、遺伝子の中にある潜在していた有害な能力が現れてしまう事で、行き過ぎると自ら絶滅の一途を辿っていく

*26 競馬界ではこれはこれでベスト・トゥ・ベストと呼ばれる立派な理論なのだが

*27 後に子孫の一頭であるドルガが日本に輸入され、大種牡馬ヒンドスタンと交配したリュウファーロスという名馬が活躍する

*28 それまでの最高価格を倍以上も上回る高額落札だったそうな

*29 父は自分最初の傑作馬オムニウムで、母は仏オークス馬カスバーという良血馬。同世代で英国競馬史上有数の名牝であり、英国クラシック競走を4勝した最強牝馬セプターをタイマンで破って勝った伝説がある

*30 18~19世紀初頭まではブイブイ言わせていた血統だったが、セントサイモン系の台頭等によって大衰退。当時はイギリスではほぼ絶滅し、フランスで何とか血を繋いでいた

*31 英ダービーやアスコット金杯などデビュー11連勝を果たした名馬。同世代のセントサイモンと競走馬としては優劣つけ難いとの評価を得た。なお種牡馬としては大きく差を付けられたが、産駒牝馬が優秀な牝系の祖になり現代でもミルリーフやミスタープロスペクター等の名馬に受け継がれている

*32 ラバやライガーなど

*33 全兄のレオニダスがイギリスとフランスで重賞を勝っていたため、ブサックも期待をかけていたが生涯成績は7戦0勝。1930年にセールでアメリカに輸出後、産駒14頭のうち10頭が勝ちあがり1935年にはアメリカ最優秀3歳牝馬になったブラックヘレン、1940年にはアメリカ二冠馬バイムレックが出る大活躍。末裔にもバックパサーやイージーゴアと言った名馬がズラリと並ぶ大名牝となった。この活躍を受けて、アメリカの競馬界に残した功績を称えてチャーチルダウンズ競馬場にはG1「ラトロワンヌステークス」が創設されている

*34 が、ラトロワンヌ放出の影響もあってかのちにその基準が緩んでしまい、牧場に多数のそれも互いに血統が似通った牝馬が大量に帰ってくるようになった

*35 近代イギリスの伝承に現れる幽霊船「フライング・ダッチマン」が名前の由来で、英ダービー、セントレジャー、アスコットゴールドカップ等に勝利し通算16戦15勝を上げた名馬

*36 日本だとサンデーサイレンスが似た立場にあった

*37 産駒にカドラン賞を4連覇したフランス最強超長距離馬の一頭であるマーシャスを筆頭に、ブサック史上最強の不敗馬カラカラ、アスコットゴールドカップ等に勝利したアーバー、英オークス馬アスメナ、ジャックルマロワ賞等に勝利したアルベレ等をだしたやべー母ちゃん。繁殖牝馬だけの実績ならザリバと甲乙つけがたい程の実績を残し、後の名馬ダルシャーンにもこの馬のインブリードがあるブサック屈指の名牝である。

*38 ジェベルの母方の祖母

*39 子孫にG1馬多数

*40 本業の繊維業の一環で軍服をフランス軍に提供していた為、最新の戦況や情報が手に入った

*41 この他にもベルギー史上最強馬として名高いプリンスローズもこの時にごうだ・・・輸入された

*42 特に1947年の英ダービーにおいてイギリス最強馬と目されたテューダーミンストレルが英国の大観衆とイギリス国王ジョージ6世とエリザベス王妃が観戦していた中で、フランス産馬パールダイヴァーの4着に敗れた際には、敗因の議論よりも先に「屈辱」「国家的悲劇」などと言われるほど弱体化が著しかった

*43 ブサックはあくまでもジェベルは中継点としかみなしていなかった

*44 G1ミドルパークSなどに勝利した名馬

*45 ただしブサック以外の生産者による産駒は、必ずしもアウトブリードばかりではない

*46 産駒にナスルーラ、ダンテ、ロイヤルチャージャー、ニアークティックという後の大種牡馬の祖先を生んだやべーやつ

*47 トウルビヨン2×3、テディ4×5というかなり重いインブリードを持ち、仏オークス、仏1000ギニーを制覇した名牝

*48 英語での表記はコロネーション

*49 配合において、名馬の生まれる可能性が高い血統の組み合わせのことをいう。有名どころだと「ステマ配合」等。しかし、あくまでも結果として出た成功例でしかない為、確実に名馬が出るわけではない

*50 産駒にG1ジャンプラ賞に勝利したロクリス等を出し、末裔には仏1000ギニー等に勝利したエルヴェディヤがいる

*51 産駒に仏1000ギニー、愛オークスを制したコレジャダ等を出し、子孫には前述のアポロニアやアカマス、ダルシャーン等活躍馬多数

*52 実はあのフェデリコ・テシオも、晩年にトファネッラの2×2という超インブリード馬のタナカというブサックのパクリがあったことはあまり知られていない。このタナカはインブリードの弊害をうかがわせず、レニャーノ賞など8勝をあげたものの、大レースには縁がなかった。

*53 イスラム教の分派ニザール派の指導者で政治家兼実業家。父親の3世もナスルーラなどを生産した馬主。オーナーブリーダーとしての活動でも知られ、ブラッシンググルーム、シャーガー、ダルシャーン、デイラミ・ダラカニ兄弟等々の名馬を生産し所有した

*54 一方、ライバルのひとりフェデリコ・テシオは「自分で生産した種牡馬を使うことは身贔屓で判断を狂わせる」と自分の牧場には種牡馬を置かず外部の種牡馬に頼っており、ネアルコなど自身が生産した馬を使うことも少なかった。ただ、最高傑作のリボーは4代父まですべて自家生産した馬である

*55 但し、それでも付け足りないくらいの牝馬がいた(最盛期で200頭近くいた)というのだから驚き

*56 仏で9戦6勝。主な勝ち鞍に仏ダービー、モルニ賞

*57 第2次大戦で死亡したコリーダ唯一の産駒。輸出したブラジルでリーディングサイアーを取り、のちに産駒エメルソンがブラジルから帰ってきてフランスでリーディングサイアーを取る

*58 8戦8勝。勝ち鞍は凱旋門賞、パリ大賞典等に勝利した名ステイヤー。間違いなくブサック生産馬史上の中でも最強の1頭

*59 ブサック生産の名ステイヤー。アスコットゴールドカップ、カドラン賞等の長距離G1を勝っている

*60 通算60戦32勝、40年に2歳王者、41年には米三冠馬に輝き3歳王者、41,42年には連続で年度代表馬に選ばれたアメリカ屈指の名馬

*61 前述のワーラウェイを筆頭に英国ダービー馬マームードやテシオ三大名馬の1頭の一つであるドナテッロを輩出したやべー奴

*62 カルメットファーム史上最高の種牡馬であり、三冠馬サイテーションを筆頭に産駒7頭がアメリカ競馬殿堂入り、1頭がカナダ競馬殿堂入り、1947年などの5年度で北米リーディングサイアーに輝いているやべー奴

*63 ベルモントステークス、トラヴァーズステークスなどに優勝した名馬であり、2023年現在唯一血がつながっているボワルセル系の名馬である

*64 プリークネスステークス、トレントンハンデキャップなどに勝ち、3冠馬セクレタリアト等を輩出した大種牡馬。現在でも子孫にシアトルスルー、エーピーインディ、タピット等の大種牡馬が名を連ねているアメリカの名門父系の開祖である

*65 クラシックには勝てなかったが、アメリカ各地を転戦して66戦43勝とタフに走り芝・ダートを問わず実績を残し、計16度のレコードを記録した名馬。ベルギー史上最強にして悲劇の名馬プリンスローズの血を引いており、日本にもボールドリック、ターゴワイス、アーテイアス等の種牡馬が来日している

*66 日本のラムタラ、ウォーエンブレム、ピルサドスキー等大失敗と言われる種牡馬が可愛く見えるレベル......というか正直例えが思いつかないレベルの大惨事

*67 サンデー初年度は導入した社台以外の種付け希望がほぼなく、社台ファームの総力を挙げてあらゆる名牝を付けていた

*68 風景画家であるジュール・デュプレ氏の孫であり、ホテル経営者。オーナーブリーダーとしても有名で、テディ直系の凱旋門賞連覇馬タンティエーム等を所有した名馬主

*69 特に50年代後半から後の欧州連合:EUのひな型であるECが出来始め、徐々に経済的に欧州同士で協力し合う流れにブサックは猛反発した

*70 個人的道楽のブサックと商売でやっている社台やクールモアを比較するのもおかしいけど

*71 日本では名種牡馬パーソロンの母父にファリスがいますが

*72 実際にアメリカの競馬では薬物投与による事例が後を絶たない。近年でも三冠馬ジャスティファイのドーピング疑惑が上がった。

*73 同期の三冠馬アファームドの最大のライバルとして知られる。主な勝鞍に77年グレートアメリカンステークス、78年トラヴァーズステークスなど

*74 これによって日本にサンデーサイレンスを筆頭に多数の名馬が流れた

*75 英国ダービー・キングジョージ&クイーンエリザベスステークス・凱旋門賞の欧州三冠という圧倒的な実績を筆頭に、種牡馬でもシャーリーハイツ等を輩出した名馬。日本にもミホノブルボンやエルプス等の父マグニテュードや、イナリワンやロジータ等を輩出した名種牡馬ミルジョージを輩出した

*76 ルイ・ヴィトンで有名なLVMHのCEO

*77 英ダービー・愛ダービーをダブル制覇し、凱旋門賞もあのモンジューをねじ伏せて優勝したやべーやつ。なお、英愛ダービーを制覇した馬が凱旋門賞を優勝したのは史上初だったそうな

*78 コロナティオンの妹オルマラの末裔であり、仏1000ギニー・コロネーションS・ムーランドロンシャン賞等々の大レースに勝った名牝

*79 これには当時の時代背景にも原因があり、当時はそもそも「動物愛護」という概念そのものが希薄だった事もあるため仕方ない部分もある。特にフランスでは馬肉食の文化もあり「20世紀最強馬」と言われたあのシーバードですら最後は食肉市場行きの最期を遂げている

*80 現ヴィンセントオブライエンステークス

*81 初年度産駒からいきなりマーチス、ルピナスというクラシック馬を輩出し、その後もコンスタントに優秀な産駒を輩出してネヴァーセイダイ系ブームの火付け役となり、1970、72、77年のリーディングサイアーに輝いた。BMSとしても、メジロラモーヌやサクラユタカオー等の活躍馬を送り出す

*82 初年度産駒から皐月賞馬ランドプリンスを出し、キタノカチドキ(皐月賞、菊花賞)、テスコガビー(桜花賞、オークス)、トウショウボーイ(皐月賞、有馬記念)、サクラユタカオー(天皇賞(秋))らを送り出して1974、75、78、79年にリーディングサイアーになった。2022年現在でもサクラユタカオー→サクラバクシンオー→ビッグアーサーと血がつながっている

*83 第1次競馬ブームの立役者となったハイセイコー、中央競馬史上初の獲得賞金1億円越えを達成した「怪物」タケシバオーの2頭の顕彰馬をはじめアカネテンリュウ、メジロタイヨウ等の名馬を輩出し、1973年にリーディングサイアーとなった名種牡馬。獣医学が現在ほど発達していなかった時代に抜群の受精能力を誇り、年間最大127頭、13年連続50頭以上、生涯通算1334回もの種付け回数を誇るなど、当時としては比類なきタフネスさを発揮し、なんと29歳と高齢であったにもかかわらず種付けを行った伝説がある

*84 授精能力が壊滅的に低いという障害を抱えながらも関係者の尽力で数少ないが産駒を残し、その中からメジロティターンが種牡馬となりメジロマックイーンへと繋げ、さらにマックイーン産駒のギンザグリングラスが種牡馬入りし少数だが産駒がデビューした事で日本競馬史上3例目かつ2022年現在では現役最古の内国産4代種牡馬血統になっている。

*85 これは後の大種牡馬であるノーザンテーストやサンデー&ディープ親子でも達成できなかった大記録。クラシック限定ならディープインパクトが桜花賞で4年連続で勝利している

*86 「皆殺し屋」という物騒な馬名の通り、通算100戦50勝!?を上げたケルソ、フォアゴーと並ぶアメリカ競馬史の最強去勢馬3強の一頭というやべーやつ。

*87 ケンタッキーダービーは他国のダービーと違って騙馬でも出走OKなのだ

*88 競走馬としてエプソムダービーに勝利、種牡馬としてもイギリスで7度もリーディングサイアーを取ったやべーやつ。1970年に日本のリーディングサイアーを獲得したガーサントが子孫にあたる。競走馬の父系としては断絶してしまったが、競走用クォーターホースとしては血統を完全に塗り替える大活躍で全世界の50%以上をハーミット系が占めるやべー事態になっている

*89 持病のリウマチに悩まされながらも英国2000ギニー等の大レースを制し、産駒には2頭のイギリスリーディングサイアーがいるやべーやつ。1頭はサンブライヤーの祖先であるスペキュラムであり、もう一頭はあのセントサイモンの父であるガロピンである

*90 叔父と姪、叔母と甥、祖父と孫娘の様な親近繁殖の事を言い、「系統繁殖」とも言われている。インブリードよりもリスクが少ないため、優秀な遺伝子を受け継がせるための手段として用いられている

*91 大種牡馬ヘロドの直子であり18世紀を代表する名馬。無敗の成績と種牡馬としての大きな成功でサラブレッド種の成立にも貢献したやべーやつ。特に種牡馬の実績が途轍もなく、1785-1796,1798年の計13回もリーディングサイアーを獲得し200年以上たった2004年にサドラーズウェルズによって破られるまで不滅の記録だったと言えばそのヤバさが分かるだろうか?なお、息子のサーピーターティーズルも大成功し、ヘロド-ハイフライヤー-サーピーターティーズルの3代で1777年から1809年までの33年間に31回もリーディングサイヤーになりサンデー&ディープ親子も素足で逃げ出す大記録を打ち立てた。なお、その後はセントサイモンの悲劇よろしく大衰退しヘロド系はトウルビヨンが出るまで不遇の時代を過ごすことに・・・

*92 なお、この敗戦によってトウルビヨンは生涯「重馬場に弱い」というレッテルが貼られることになった

*93 ガネー賞2回等初期のトウルビヨンを代表する産駒

*94 凱旋門賞、アスコットゴールドカップ等を優勝した無敗の名馬

*95 牝馬に活躍馬が多い種馬のこと

*96 突然変異の白毛馬ハクタイユーから続く一族がこの馬の子孫の為、その毛色の稀少さによってサイアーラインをつなげているが、残った子孫の種付けの記録が1頭もない為父系存続は絶望的である

*97 第二次大戦の影響でプール・デッセ・デ・プーリッシュと10月に合同開催

*98 同様に第二次大戦の影響で行われた代行の仏ダービー

*99 グランクリテリウムなどに勝利し、直系にはリュティエ、アホヌーラなど

*100 英2000ギニーをレコードで勝ち、サセックスステークスなどに勝利。直系にはパーソロンなど

*101 ブサックはかなり野心的で、初戦でいきなり重賞に挑戦する事がままあった

*102 今では信じられないかもしれないが、当時は今以上にクラシック~長距離路線の価値が高く、スプリント~中距離路線の短い距離は軽んじられていた

*103 愛ダービー完勝後に頭角を現すと英セントレジャーやエクリプスSなどを制して英国最強馬の座に君臨したやべーやつ。惜しくも1973年に13歳というあまりにも早い若さで他界したが、母父として日本の名種牡馬ミルジョージを輩出している

*104 馬の腹違いは兄弟として扱わないじゃないかというツッコミはここではご勘弁願いたい

*105 こちらも2歳時は6戦2勝とパッとしなかったが、3歳時に本格化し英・愛ダービーを2連勝した名馬になった。その後脚を痛め引退したが、種牡馬として後述のダルシャーンや父子3代ダービー制覇のスリップアンカー等を輩出した。日本では「薔薇一族」の開祖ロゼカラーの父でもある。

*106 当時の日本では信じられないぐらい凄いレベルの名馬だった為、前述のリスクがあると分かっていても種牡馬にしたのだ

*107 デビュー戦こそ5着だったが、その後5連勝で仏ダービーを制覇した。なお、このダービーでは後の世界的大種牡馬であるサドラーズウェルズや後の凱旋門賞馬レインボウクエストが出走していたかなり豪華なダービーだった。その後は種牡馬となり、コタシャーン、ダラカニ、マークオブエスティームなど多くの活躍馬を輩出した。2010年代後半以降は活躍馬が減りつつあったが徐々に持ち直し、2023年現在もっとも活気のあるミルリーフ系になっている。