オープニング

鳥取大砂丘は、もはやただの観光名所ではなかった。異常な速度で拡大を続けるそれは、生きた砂漠と化し、一つの学園を飲み込んでいた。外界から隔絶された全寮制、鳥取砂丘学園。かつての名門校の面影はなく、今やその名は、社会に馴染めぬ異能の若者たち――魔人を隔離するための収容所として、密かに囁かれるのみである。

夢を追う者、過去から逃れる者、あるいはただ行き場を失った者。それぞれの理由を胸に、六人の新入生が、古びた門をくぐった。彼らが入部を希望した野球部は、この学園の中でも最底辺と目される場所だった。

案内されたグラウンドは、言葉を失うほどの惨状だった。
甲子園出場を記念したであろう石碑は半分砂に埋もれ、スコアボードの文字は錆と砂埃で判読不能。外野フェンスはところどころ破れ、その向こうには延々と続く砂丘が、巨大な黄土色の獣のように横たわっている。そして、本来であれば黒土であるはずのダイヤモンドは、完全に砂丘の一部と化していた。足を踏み入れれば、きめの細かい砂がくるぶしまでまとわりつき、一歩進むごとにずぶりと沈み込む。

「……新入生、だね。よく来てくれた…かな」

声の主は、少し古びたジャージを着こなした快活な少女だった。マネージャーの桜乃千代。その太陽のような笑顔だけが、この色彩のない世界で唯一、鮮やかな色を持っていた。だが、その瞳の奥には、拭い去れない憂いと、新入生たちへの憐れみが滲んでいる。彼女の背後では、数人の上級生たちが日陰で気怠そうに座り込み、新参者たちを値踏みするように、あるいは虫けらでも見るかのように、冷え切った視線を向けていた。
その時、ベンチの奥から、むわりとアルコールの匂いが立ち上った。

「あ゛? 新入りか」

巨躯がゆっくりと起き上がる。185cmはあろうかという体躯は、不摂生で弛みきっている。無精髭、据わった濁った目、ヨレヨレのジャージ。男――監督の毒島権蔵は、手にした一升瓶を呷ると、忌々しげに新入生たちを、特にその中に混じる魔人たちを舐め回すように見た。

「…見ろよこのザマを。グラウンドは完全に砂漠だ」
吐き捨てるような声。野球への愛情など微塵も感じられない、ただただ面倒くさそうな響き。

「今日は初日だ、小難しいことは言わねえ。とりあえず、その砂漠を100周走っとけ。体力測定だ。終わった奴から上がっていいぞ。俺はあっちで見てるからよ」

それだけ言うと、毒島は再びベンチにどっかりと腰を下ろし、ぐびりと酒をあおる。その目はもはや、新入生たちのことなど映してはいなかった。ただ虚空を、あるいは瓶の底に沈んだ過去の幻影を見つめているかのようだった。

絶望的な環境。やる気のない監督。冷笑する先輩。
そして、唐突に突きつけられた、理不尽な命令。

時折、砂丘から吹き付ける強い風が、砂のカーテンを作り出し、視界を白く染める。じゃり、と口の中に広がる不快な感触。普通に歩くことすら困難なこの砂地を、100周。それは体力測定などという生易しいものではなく、ただの嫌がらせ、あるいは心を折るための儀式に他ならなかった。

千代が何か言いたげに唇を噛み締めるが、監督の威圧的な雰囲気の前に、言葉を飲み込むしかない。

さあ、どうする?
この理不尽を、ただ受け入れるか。
己の力で、覆すか。
あるいは、初めから全てを嘲笑い、この茶番を別の形で楽しむか。

砂塵舞うグラウンドで、六人の魔人の物語が、今、始まる。

1ターン目

砂塵がまるで意志を持っているかのように、新入部員たちの頬を打ち、開いた口に容赦なく侵入してくる。毒島監督が吐き捨てた「100周」という言葉の理不尽さが、砂の味となって舌の上に広がった。絶望的な沈黙がグラウンドを支配する。だが、その沈黙は長くは続かなかった。最初に動いたのは、六人の中でもひときわ巨大な体躯を持つ男、藤田アーウィンだった。

「――押忍」

短く、しかし覚悟の籠もった声を一つ。彼は、中学時代の相撲部で味わった、より過酷なしごきの数々を脳裏に蘇らせていた。あの土俵の上の圧に比べれば、砂の上を走ることなど造作もない。彼はただ【一途Lv.2】に、与えられた試練を乗り越えることだけを考えていた。ずぶり、と足が砂に沈む感触を確かめながら、一歩、また一歩と、巨大な身体を前へ進め始めた。その背中は、後続の仲間たちに無言で何かを問いかけているようだった。

「……やってらんないわよ、ったく」

小柄な少女、夢前川八鹿が毒づく。彼女の【洞察力Lv.3】は、すでにこの場の力関係と欺瞞を見抜いていた。ベンチで酒をあおる監督は周回数など数えていない。日陰で嘲笑う上級生たちは、自分たちの無様な姿を肴に時間を潰したいだけ。そして、心配そうにこちらを見るマネージャーの桜乃千代の瞳には、期待よりも憐れみの色が濃い。フィジカルエリートへの嫌悪と、実力を認められない過去の挫折が、彼女の胸にくすぶる。だが、彼女は走り出した。今はまだ、この茶番に従うしかないと判断したからだ。

その八鹿の隣に、すっと並びかける影があった。力風呂ポケットだ。
「八鹿さん」
ポケットは、この絶望的な状況をこそ、好機と見ていた。彼の【魔人能力】:『野球仕様是(サクセスストーリー)』は、協力者がいてこそ真価を発揮する。彼は、八鹿の瞳に宿る、自分と同じ種類の反骨心を見逃さなかった。
「あの監督と先輩たち……なんとかしないと、俺たちの野球は始まらない」
「……何企んでるのよ」
「呪いをかけます」
ポケットの真顔での返答に、八鹿は思わず足を止めかけた。
「『甲子園に優勝しないと存在が消滅する』呪いです。八鹿さんの【洞察力Lv3】で、彼らの心の弱さを、不安を、抉り出してほしい。そこに俺が、【呪縛Lv2】を叩き込みます」
あまりに突飛な提案。だが、八鹿の口元には、獰猛な笑みが浮かんでいた。理不尽には、より大きな理不尽を。悪意には、さらに煮詰めた純粋な悪意を。彼女はポケットの協力者となることを、その視線一つで了承した。

一方、ボーイッシュな少女、黒鋼晶は別の方法でこの状況と対峙していた。彼女は近くに転がっていたグラウンド整備用のトンボを手に取ると、ぐっと力を込めて構える。
「……どうせ走るなら、無駄にはしません」
【打撃力Lv2】で鍛えたスイングは、トンボをまるで長大なバットのようにしならせた。彼女は走りながら、腰を鋭く回転させ、トンボを振るう。ブォン、と風を切る音と共に、足元の砂がならされていく。それはランニングであり、筋トレであり、バッティング練習であり、そしてグラウンド整備でもあった。吹き付ける砂嵐に顔をしかめながらも、【芯の強さLv2】で耐え、黙々と一人四役をこなす彼女の姿は、一種の職人のような凄みを放っていた。
この混沌とした新入生たちの人間模様を、さらに深い混沌の底へ突き落とす者が二人。

「俺ちゃんってば天才だから〜〜、こんな砂漠、屁でもないんだZE〜〜?」

萵苣畑伽兵衛は、走る気など毛頭なかった。彼の【ナルシシズムLv2】に満たされた精神は、他人の理不尽な命令に従うことを許さない。彼はにやついた笑みを浮かべると、おもむろにズボンのチャックに手をかけた。
「でもサァ〜〜、ただ汗を流すなんて馬鹿のやることだろぉ? 特別に、監督とマネージャーちゃんには、俺ちゃんのバイブス、見せてやんよ!」
「そぉれ!それそれ!どうしたどうした!!ソイヤソイヤソイヤ!」
次の瞬間、萵苣畑は懐から【ドドメ色の棒(スティック)】を取り出し、奇声と共に振り回し始めた。その姿は、原始的な儀式で踊り狂う呪術師のようだった。湿り気を帯びた棒が空を切るたび、不可思議なオーラが周囲に拡散する。
ベンチで虚空を見つめていた毒島監督の眉が、ぴくりと動いた。萵苣畑の姿が視界に入り、その侮辱的な態度と奇行に、濁った瞳の奥で何かが燃え上がった。明確な敵意と嘲笑。それは、監督の心を苛む焦燥と奇妙な共鳴を起こし、彼の精神を不快に揺さぶった。
「お、おい……なんだありゃ……」
上級生たちも、その常軌を逸した光景に嘲笑を忘れ、恐怖とも困惑ともつかない表情で固まっている。
そして、桜乃千代。彼女は萵苣畑の【ドドメスティック・バイオレンス[魔]】を前に、ただただ顔を赤らめ、俯くしかなかった。それは恐怖でも安心でもない。強烈な、耐えがたいほどの羞恥心だった。

そして、誰にも知られず、この混乱を最大限に利用する者がいた。黒子ノリスケだ。
「ククク……馬鹿ばっか」
コンビネゾンを脱ぎ捨て、全裸となった彼の姿は【魔人能力】:『透明ランナー』によって完全に不可視となっていた。存在感の薄い彼にとって、この状況はまさに独壇場。彼はまず、萵苣畑の奇行に気を取られている監督の足元に、音もなく忍び寄った。
「ムカつくんだよ、ジジイ……」
一升瓶の蓋をそっと開け、己のそれを近づける。透明な液体が、別の透明な液体へと注ぎ込まれていく。それは、彼の歪んだ自尊心を満たす、完璧な犯罪だった。ミッションを終えた彼は、次にターゲットを千代へと定める。【からかい上手のLV.3】と【窃視癖LV.2】が疼き、彼女の無防備な胸元へと、見えざる手が伸びかけた――その瞬間。
「みんな、頑張って……!」
千代が、絞り出すように言った。その声は震えていたが、必死に仲間を鼓舞しようとする純粋な響きがあった。その気高さが、あるいは萵苣畑のあまりの奇行が、黒子の歪んだ欲望に一瞬の躊躇いを生ませた。彼は舌打ちを一つすると、その場からすっと身を引いた。今はまだ、その時ではない。

この狂乱の坩堝こそ、力風呂ポケットと夢前川八鹿が待ち望んだ瞬間だった。
「――今だ、八鹿さん!」
「言われなくとも!」
八鹿の【洞察力Lv3】が、萵苣畑の奇行に動揺する監督と上級生たちの精神の脆い部分――過去の挫折、未来への不安、拭えないコンプレックス――を的確に見抜く。その情報を得て、ポケットは両手をぐっと握りしめた。
「届け、俺の想い! 俺たちの野球を始めさせるための……祝福の【呪縛Lv2】!」
彼の魔人能力、『野球仕様是』が、八鹿との協力関係によって増幅される。目には見えない力が、黒い稲妻のようにほとばしり、監督と上級生たちの魂に深く、深く突き刺さった。
「――甲子園に優勝しないと、お前たちの存在は、この砂丘の砂粒のように消え去る」
それは、単なる脅しではなかった。存在の根幹を揺るがす、抗いがたい呪いの楔。
「う……!?」
毒島監督は、胸に突き刺さるような悪寒に、思わず一升瓶を取り落としそうになった。萵苣畑への怒りとは質の違う、もっと根源的な恐怖。なぜだか分からないが、「野球で勝たなければならない」という強迫観念が、脳の奥底で警鐘を鳴らし始めたのだ。上級生たちも同様だった。彼らの冷笑は消え失せ、顔には得体の知れない不安と焦りが浮かんでいる。

砂嵐が、再び全てを覆い隠すように吹き荒れる。
ただひたすらに走り続ける巨漢。
トンボを振り回し、道を切り拓く少女。
呪いを振りまく、野球バカと毒舌家。
奇妙な踊りを続ける、ナルシスト。
そして、その全てを嘲笑う、透明な悪意。

桜乃千代は、目の前で繰り広げられる光景に、ただ立ち尽くすしかなかった。これは、彼女が夢見た野球部の姿とは、あまりにも、あまりにもかけ離れていた。

幕間:砂と徒労の日々

あの日、狂乱の初日から一週間が過ぎた。
新入部員たちに与えられたのは、バットでもボールでもなく、錆びついたスコップとブリキのバケツだけだった。仕事は単純明快。グラウンドを覆う砂をすくい、バケツに入れ、延々と広がる大砂丘まで運び、捨てる。そしてまた戻り、砂をすくう。その繰り返し。

それは野球の練習というより、古代の奴隷労働に近かった。

太陽が真上から照りつける昼間は、汗が砂と混じって肌に不快な膜を作る。日が傾き始めると、砂丘から吹き付ける風が体温を奪っていく。指の皮はめくれ、腰は悲鳴を上げ、精神は単調な作業の繰り返しによってすり減っていく。

その間、監督の毒島は一度もグラウンドに姿を見せなかった。おそらく寮の自室か、誰もいない監督室で酒をあおっているのだろう。先日の呪いが効いているのかどうか、確かめる術もない。
上級生たちは、涼しい顔で部室にたむろし、スマートフォンをいじっているか、トランプに興じているだけ。時折、窓から1年生たちの無様な姿を眺めては、聞こえよがしに嘲笑の声を上げた。

「おい1年! もっと腰入れろや!」
「お前らのせいで俺らが練習できねえんだぞ、わかってんのか?」

手伝う気など、彼らには微塵もなかった。この不毛な作業は、生意気な魔人の新入生たちに「身の程」を教えるための、彼らなりの儀式なのだ。

学園生活もまた、監獄そのものだった。授業が終わればすぐさま部活に駆り出され、部活が終われば寮の点呼。自由時間など存在せず、全ての行動は教師や寮監の監視下にある。ここは、社会不適合者とされた魔人たちを矯正し、管理するための檻。その事実を、新入部員たちは骨身に染みて理解し始めていた。

フラストレーションは、沸騰寸前の水のように、それぞれの心の釜の中で煮えたぎっていた。
ただひたすらに砂を運び続ける藤田アーウィン。彼の【仲間思いLv.3】の心は、疲弊していく仲間たちの姿を見るたびに痛んだ。
黒鋼晶は、黙々とトンボで砂をならし続けた。彼女の【芯の強さLv2】が、かろうじて心を繋ぎとめている。だが、ボールを握れない日々は、確実に彼女の情熱を蝕んでいた。
萵苣畑伽兵衛は、作業の合間に砂で城を作り、それを【二枚目Lv1】の自分への捧げものだと嘯いては、上級生たちから怒声を買っていた。彼の【ナルシシズムLv2】は、この状況ですら楽しむ術を見出していたが、それは危険な綱渡りに見えた。
力風呂ポケットは、この状況を打開する次の一手を常に模索していた。だが、あまりに閉塞した環境は、彼の【野球仕様是(サクセスストーリー)】を発動させる協力の糸口すら見つけさせてはくれなかった。
黒子ノリスケは、透明になっては作業をサボり、教師の私物を盗み見るなどして鬱憤を晴らしていたが、野球部という集団に縛り付けられていること自体への嫌悪感は増すばかりだった。
夢前川八鹿は、誰よりも苛立ちを募らせていた。彼女の【毒舌Lv1】は日に日に鋭さを増し、その矛先は監督や上級生だけでなく、時に他の1年生にすら向けられそうになるのを、必死にこらえていた。

そんな、誰もが限界に達しようとしていた金曜日の放課後。
ようやくグラウンドの所々に、湿った土の色が覗き始めた頃。その男は、一週間ぶりにぬっと姿を現した。

「……おい」

アルコールの匂いをまとわせた毒島監督だった。その目は相変わらず濁っていたが、以前のような完全な虚無ではなく、どこか焦りの色が浮かんでいる。先日の呪いが、彼の無意識下で根を張り始めている証拠なのかもしれない。

「週明けに、理事長が見に来る」

監督は吐き捨てるように言った。

「それまでに、このグラウンドを『見れる』状態にしとけ。マウンドだけでもいい。とにかく、形だけは整えろ。分かったな」

一方的な命令。それは相談でも指示でもなく、ただの責任の丸投げだった。
「見れる」状態とは、一体何を指すのか。あの砂金理事長の目に、どう映れば合格なのか。だが、質問を許す雰囲気ではない。監督はそれだけ言うと、踵を返し、再び去っていこうとした。

その背中に、マネージャーの桜乃千代が駆け寄る。
「監督! でも、この人数と道具じゃ、月曜までなんてとても…!」
「うるせえ! やるんだよ!」
怒声と共に振り払われた手は、千代に当たる寸前で止まった。だが、その威圧感だけで、彼女の言葉を封じるには十分だった。

監督が去った後、重い沈黙が1年生たちの間に落ちる。
今のペースでは、休日を全て返上したとしても、マウンドを申し訳程度に形作るのがやっとだろう。理事長の言う「見れる」状態にまでするには、圧倒的に時間も、人手も、そして何よりまともな道具が足りていなかった。

絶望的な状況。再び突きつけられた理不尽。
その中で、千代が意を決したように口を開いた。

「……みんな。本当に、ごめんね。こんなことになっちゃって…」
彼女は深く頭を下げた。
「でも、ここで理事長に悪い印象を与えたら、本当に廃部にされちゃうかもしれない……。何か、何か方法はないかな」
千代は顔を上げ、必死に言葉を紡ぐ。それは、無力な彼女にできる、唯一の抵抗だった。
「たとえば……土日、みんなで頑張って、なんとか終わらせるとか……。それか、監督が言ったみたいに、本当にマウンドだけを完璧に仕上げることに集中するとか……」

彼女は一度言葉を切り、周囲の顔色を窺う。
「……あるいは、足りない道具を、どこかから……その、調達してきたり……。一番いいのは、先輩たちに頭を下げて、手伝ってもらうことだと思うけど……」
そして、彼女は小さな声で、まるで禁断の言葉を口にするかのように付け加えた。
「……みんなは、すごい力を持ってるんだよね? その……魔人能力、っていうの? それを使えば、何か……普通じゃできないようなことができる、とか……ないかな?」
彼女の言葉は、いくつかの選択肢を示していた。
正攻法で乗り越えるか。ルールを曲げて効率を求めるか。あるいは、人間関係の壁に挑むか。それとも、人ならざる力で、この理不尽を粉砕するのか。

選択は、再び彼らに委ねられた。

2ターン目

千代の必死の提案が、夕暮れのグラウンドに虚しく響く。しかし、一週間の徒労と理不尽な扱いは、新入生たちの心をささくれ立たせるには十分すぎた。最初に沈黙を破ったのは、意外にもこれまで状況を静観していた黒鋼晶だった。

「……やってられません」

呟きと共に、彼女は足元に転がっていた硬式球を拾い上げた。その瞳には、ボールを握れなかった一週間の鬱憤が、青い炎のように燃え盛っている。彼女は部室の方向を睨みつけると、美しいワインドアップモーションから、腕をしならせた。

「うおおおおっ!」

【強肩Lv3】から放たれたボールは、もはや白い点にしか見えない。直後、彼女の【魔人能力】:『リボルバー』が発動する。空気を切り裂く音がしたかと思うと、次の瞬間、ボールは不可視の弾丸と化し、上級生たちがいる部室の窓、そのわずか数センチ横の壁に突き刺さった。

ドゴォォォン!!!

コンクリートが爆ぜる轟音。部室から、悲鳴とも怒声ともつかない絶叫が響き渡る。
「な、なんだ今の!?」
「撃たれたぞ!?」
窓から顔を出した上級生たちは、鬼の形相でこちらを睨む晶の姿を見て、言葉を失った。
「……すみません。一週間もボールを投げていなかったので、【コントロールLv3】が少し乱れてしまいました」
白々しいにも程がある言い訳。だが、その瞳は笑っていなかった。それは明確な、そして圧倒的な暴力による「交渉」だった。恐怖に染まった上級生たちの顔を見て、晶は満足げに息を吐くと、近くのスコップを手に取った。彼女は知っていた。この掃き溜めでは、正論よりも純粋な脅威の方が、よほど雄弁に響くことを。

この晶の行動が、溜まりに溜まった鬱憤の堰を切った。
「そうだそうだ! マネージャー風吹かせてんじゃねえぞ!」
これまで息を潜めていた黒子ノリスケが、ここぞとばかりに弱い者イジメの牙を剥く。彼の矛先は、ただ一人、味方であろうとしてくれた千代に向けられた。
「監督の娘なんだろ? てめえが誠意を見せろや! お前が裸で俺たちを“慰安”するなら、俺ちゃんが【窃盗癖LV.3】で金でも道具でも盗んできてやんよ!」
下劣な要求。だが、その声は奇妙なほど切実だった。彼の歪んだ心は、この理不尽な状況からの脱出を、最も手軽で、最も醜悪な方法で求めていた。

「千代チャンさぁ〜〜、俺ちゃん達のこと舐めてるよねェ…?」
ねっとりとした声で、萵苣畑伽兵衛が千代に詰め寄る。彼の【ナンパLV2】は、この状況では相手を精神的に追い詰めるための凶器と化していた。
「一年生だからって、何でも言うこと聞くと思ってんの? あんまり好き勝手言ってっと、俺ちゃんの『女の子』にしちゃうよ?」
彼は懐から【ドドメ色の棒(スティック)】を取り出し、ぶらりと揺らしてみせる。その禍々しい存在感は、千代から正常な思考を奪い、羞恥心と恐怖で心を縛り付けた。
「あんたがまず、先輩や道具の持ち主に頭を下げてこいよ。それがマネージャーの『誠意』ってもんだろ?」

「ちょっと、あんたたち!」
見かねた夢前川八鹿が【毒舌Lv1】で叫ぶが、その声は二人の下劣な要求の前にはかき消されそうになる。彼女の【洞察力Lv.3】は、このままではチームが内側から崩壊することを正確に捉えていた。仲間割れ。それは、彼女が最も嫌う展開だった。

千代は、ただ震えていた。晶の威嚇、黒子と萵苣畑の下劣な要求。善意で発した言葉が、最悪の形で跳ね返ってきた。彼女の瞳からは光が消え、ただただ絶望の色が浮かんでいた。

その時だった。
「――そこまでだ」

静かだが、有無を言わせぬ声が響いた。力風呂ポケットだった。彼は震える千代の肩にそっと手を置くと、黒子と萵苣畑を真っ直ぐに見据えた。
「千代ちゃんは、俺たちのために何とかしようとしてくれた。それを踏みにじるような真似は、俺が許さん」
彼の言葉には、【豪力Lv2】で鍛え上げられた肉体から滲み出る、本物の凄みがあった。
「それに黒子」
ポケットは、視線をノリスケに固定する。
「お前、初日に千代ちゃんにセクハラしようとしただろ。俺は気づいてたぞ。不祥事を起こして、野球ができなくなるのはごめんだ。これ以上問題を起こすなら……」
ポケットは言葉を切ると、おもむろに腰に巻いていたロープを解き始めた。彼の固有スキル【緊縛Lv2】は、ただの比喩ではない。
「……お前を縛り上げて、部室に吊るしておくことになる」
黒子は、ポケットの目に浮かぶ本気の光を見て、ヒッと息を呑んだ。この野球バカは、野球のためなら本当に何でもやりかねない。

ポケットは次に、震える千代に向き直った。
「千代ちゃん、大丈夫だ。肩の力を抜いて」
彼の【脱力Lv2】のスキルが、言葉を通して千代の強張った心と身体を優しく解きほぐしていく。
「落ち着いて、教えてほしい。この野球部は、いつからこんな風になってしまったんだ?」
ポケットの真摯な問いかけに、千代は堰を切ったようにぽつり、ぽつりと語り始めた。監督の過去の挫折、魔人選手が起こした暴力事件、それ以来やる気をなくした上級生たち……。断片的な情報が、この部の根深い問題を浮き彫りにしていく。ポケットは、ただ黙って、その全てを受け止めていた。問題の根っこを理解しなければ、本当の解決には至らないと知っていたからだ。

そして、この混沌の中心で、ただ一人、全く別の行動を取る者がいた。藤田アーウィンだ。彼は、仲間たちの醜い言い争いにも、千代の絶望にも、ただ胸を痛めていた。だが、彼が選んだのは、言葉で誰かを諭すことではなかった。行動で示すことだった。

「――俺は、行きます」

アーウィンはそれだけ言うと、一人、上級生たちがいる部室の方へと歩き出した。彼の巨大な背中は、まるでこれから土俵入りにでも向かう力士のように、揺るぎない覚悟に満ちていた。
「な、アーウィン!?」
ポケットが声をかけるが、アーウィンは振り返らない。
部室の前に立ったアーウィンは、中から聞こえる罵詈雑言にも怯むことなく、深く、深く頭を下げた。
「先輩方! 俺は、藤田アーウィンです! どうか、力を貸してください!」
彼の声は、グラウンド中に響き渡った。
「俺は、先輩たちと一緒に、野球がしたいんです! このままじゃ、野球ができない! だから、お願いします! 一緒に、このグラウンドを直し、一緒に、練習をさせてください!」
彼の言葉には、何の駆け引きも、計算もなかった。ただ、【一途Lv.2】なまでの純粋な想い。そして、敵意を向ける相手すら仲間と信じようとする、【仲間思いLv.3】の魂が込められていた。

部室の中が、しんと静まり返った。
窓から覗いていた上級生たちが、呆気に取られたようにアーウィンを見ている。彼らはこれまで、反抗的な魔人、生意気な魔人しか見てこなかった。こんなにも真っ直ぐに、プライドも何もかも捨てて頭を下げてきた人間は、初めてだった。
「……何言ってんだ、こいつ」
「気色悪い……」
嘲笑う声が漏れる。だが、その声にはいつものような刺々しさがない。むしろ、戸惑いの色が濃かった。

アーウィンは、頭を下げ続けた。返事がなくとも、罵声を浴びせられようとも、彼は動かない。その姿は、まるで大地に根を張った大木のように、誰にも揺るがすことのできない頑固な信念を体現していた。
晶の脅迫が恐怖で彼らの心を動かしたのだとすれば、アーウィンの懇願は、彼らがとうの昔に捨て去ったはずの「良心」や「矜持」といった部分を、静かに、しかし確実に揺さぶり始めていた。

その光景を、1年生たちはただ見つめていた。
脅し、罵り、諭し、そして、ただひたすらに頭を下げる。
バラバラの想いが、絶望的なグラウンドの上で交錯する。週明けの視察までに、このグラウンドは、そしてこのチームは、「見れる」状態になることができるのだろうか。

土曜日の朝。グラウンドには、重く、気まずい沈黙が漂っていた。
片や、決意を新たにする1年生たち。
片や、昨夜の脅迫と懇願によって、無理やり引きずり出された上級生たち。
彼らは互いに視線も合わせず、ただそれぞれの胸のうちに、異なる感情の炎をくすぶらせていた。

「……ちっ。なんで俺らが」
上級生の一人が、悪態をつく。だが、その声にはいつものような覇気がない。ふと視線を上げると、そこには鬼の形相で黙々とスコップを振るう黒鋼晶の姿があった。そのスコップが地面を叩くたびに、上級生たちの肩がびくりと震える。昨夜、部室の壁にめり込んだ硬球のイメージが、悪夢のように彼らの脳裏に焼き付いていたのだ。逆らえば、次は自分たちの頭が標的になるかもしれない。その恐怖が、彼らをこの場に縛り付けていた。

そこへ、藤田アーウィンが深々と頭を下げた。
「先輩方、ありがとうございます! 一緒に、頑張りましょう!」
その声には、一点の曇りもなかった。昨夜の懇願と同じ、ただひたすらに真っ直ぐな感謝の言葉。上級生たちは、恐怖で縛られた心に、今度は別の感情――気まずさと、ほんのわずかな罪悪感を植え付けられる。彼らは舌打ちをしながらも、渋々スコップを手に取った。

作業は、力風呂ポケットの仕切りで始まった。
「アーウィンは一番力がいる砂運びを頼む。晶はトンボでならしながら、全体の進捗を見てくれ。八鹿さん、あんたの目で一番効率のいい手順を見つけて、俺に教えてくれ。先輩方は……とりあえず、見える範囲の砂をどかすことからお願いします!」
ポケットの指示は的確だった。彼はすでに千代から、上級生たちの(数少ない)長所や性格を聞き出していたのだ。反発を最小限に抑え、それぞれの能力を最大限に引き出すための采配。それはまるで、試合を組み立てる捕手(キャッチャー)のようだった。

アーウィンの【筋肉Lv.3】は、人間離れしたパワーで砂を運び出す。その姿は、まるで小型の重機のようだった。
八鹿の【洞察力Lv.3】は、砂の流れや地面の傾斜から、最も効率的に排水路を確保するラインを見つけ出し、ポケットに伝える。
晶は黙々とグラウンドをならし、時折、サボろうとする萵苣畑や黒子に、ボールを壁に叩きつけた時と同じ冷たい視線を送って牽制した。

上級生たちは、最初は嫌々だった。だが、目の前で繰り広げられる光景に、次第に心を動かされていく。アーウィンのひたむきな姿。ポケットの巧みな采配。八鹿の的確な指摘。そして何より、この1年生たちが、自分たちがとうの昔に失ってしまった「本気」の熱を放っていることに、彼らは気づき始めていた。
いつしか、嘲笑は消え、指示を待つまでもなく、自ら動くようになっていた。誰かが声を張り上げ、連携が生まれる。スコップが土をかく音、バケツを運ぶ足音、そして飛び交う声。それは、この数年間、このグラウンドから失われていた「部活」の音だった。

桜乃千代は、その光景を涙が滲む目で見つめていた。走り回って麦茶を配り、小さな傷に絆膏を貼る。彼女が夢見ていた光景が、今、目の前で、不格好ながらも確かに形作られようとしていた。

土日が終わり、月曜日の朝が来た。
グラウンドは、見違えるようになっていた。
完璧な黒土ではない。まだ砂の気配は色濃く残っている。だが、一週間前の「砂漠」は、そこにはなかった。ベースは白く輝き、ラインは真っ直ぐに引かれ、そしてグラウンドの中央には、皆の汗と土で固められた、誇らしげなマウンドがそびえ立っていた。

そこへ、高級車のタイヤが砂利を踏む音と共に、二人の男が現れた。
物腰柔らかな笑みを浮かべた理事長、砂金満。
そして、その隣で苦虫を噛み潰したような顔をした監督、毒島権蔵。

砂金は、整備されたグラウンドを一瞥すると、感心したように目を細めた。
「おや、これは……素晴らしい」
彼はゆっくりと歩き出し、真新しいマウンドにそっと触れた。
「毒島監督。これは一体どういうことですかな? 廃部寸前と聞いていた野球部が、まるで生まれ変わったようだ」
その声はあくまで温厚だったが、毒島は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
「……こいつらが、勝手にやったことです」
吐き捨てるように言う毒島。だが、その瞳には、かつてないほどの複雑な感情が渦巻いていた。苛立ち、困惑、そして、彼の心の奥底で眠っていた野球人としての魂が、ほんのわずかに、この光景に心を動かされているのを、彼自身が感じていた。

砂金は、整列した部員たちを見回した。その視線は、一人一人の価値を冷徹に査定しているかのようだった。
「諸君の努力には感服しました。特に、新入生の皆さんの力は大きいようだ。この調子で精進すれば、特待生としての価値も、より一層高まることでしょう」
「価値」。その言葉に、何人かの顔がこわばる。
理事長は、満足げに頷くと、踵を返した。
「よろしい。野球部の存続を、前向きに検討しましょう。……期待していますよ、監督」
最後の言葉は、毒島への静かな圧力だった。

砂金が去った後、再び沈黙が落ちた。廃部の危機は、ひとまず去った。
上級生たちは、どこかバツが悪そうに、しかし以前のような刺々しさはなく、そそくさと部室へ引き上げていく。
残された1年生たちと千代の間に、安堵の空気が流れた。

「……やった、やったね、みんな!」
千代が、満面の笑みで叫んだ。
その時、去ったはずの毒島が、振り返って一言だけ、吐き捨てた。

「……浮かれるな、クズども」
その声には、いつものような投げやりな響きはなかった。むしろ、微かな、本当に微かな熱のようなものが混じっているように、力風呂ポケットには感じられた。

「明日から、本当の練習を始める。泣き言を言う暇があったら、バットでも振っとけ」

それは、この野球部が、ようやく本当の「スタートライン」に立ったことを告げる、号砲だった。

幕間:球拾いと洗濯の日々

グラウンドには、ようやく野球の音が戻ってきた。
カーン、と乾いた打球音が響き、ミットにボールが収まる小気味よい音が続く。マウンドには2年生エースを筆頭とした上級生たちが立ち、久しぶりの本格的な練習に、どこか楽しげな表情すら浮かべていた。
週末の共同作業で生まれた一体感は、しかし、蜃気楼のように儚い幻想だったらしい。彼らが野球を取り戻した一方で、新入生たちに与えられた役割は、ほとんど変わっていなかった。

「おい、1年! 今のファウルボール、どこいった! さっさと拾ってこい!」
「そこのトンボ! グラウンド荒れてんぞ!」

彼らの仕事は、グラウンドの更なる整備、そして上級生たちが打ち損じたボールを、いまだ砂の残る外野の茂みから探し出す「球拾い」。練習が終われば、彼らが泥と汗で汚したユニフォームや用具を、たった一つの水道で洗う「洗濯・整備」が待っていた。

週末に見せた態度の軟化は、あくまで「グラウンドを使えるようにするため」の一時的な協力関係に過ぎなかった。彼らにとって、魔人である1年生は、便利なパシリであり、自分たちの練習環境を維持するための道具。決して「チームメイト」ではなかった。

「おーい、アーウィンだか何だか知らねえが、その図体ならボール探すのも得意だろ! 早くしろよ!」
「ポケット! お前、司令塔気取りか? いいから俺のスパイク磨いとけ!」
「女! ボール投げるのが得意なんだろ? なら俺らのユニフォームの泥汚れも、その勢いで落としてみろよ!」

嘲笑が、容赦なく突き刺さる。
特に、彼らの嫉妬の矛先は「特待制度」に向けられていた。
「特待生様は水が使い放題でいいよなあ? 俺たちは配給制で、洗濯も満足にできねえんだ。悪いが、俺たちの分までしっかり洗っとけよ!」
それは、この学園が抱える歪んだ階級制度が生み出した、どうしようもない軋轢だった。上級生たちは、自分たちが享受できない特権を持つ1年生たちを、パシリとして使うことで、その鬱憤を晴らしているのだ。

監督の毒島は、ベンチの奥で腕を組み、その光景を黙って見ているだけだった。時折、上級生たちのプレーに鋭いヤジを飛ばすことはあっても、1年生が置かれた状況を改善しようという素振りは一切見せない。彼にとって、これもまた「野球」の一部――チーム内の序列や、理不尽さへの耐性を試す、古臭い儀式なのかもしれなかった。

新入生たちのフラストレーションは、再び限界点に達しようとしていた。
野球をするためにここに来たはずが、やっていることは雑用ばかり。目の前では、自分たちを見下す連中が楽しそうにボールを追いかけている。この屈辱的な状況に、誰もが歯を食いしばっていた。

そんな中、桜乃千代が、申し訳なさそうに1年生たちのもとへやってきた。彼女の手には、冷たい麦茶が入ったやかたが握られている。
「みんな……本当に、ごめんね。せっかくグラウンドが綺麗になったのに……」
彼女は言葉を詰まらせながらも、必死に顔を上げた。
「でも、ここで腐っちゃだめだよ。何か、何か方法があるはずだから……」
千代の声は、この理不尽な状況を打ち破るための、ささやかなヒントを孕んでいた。

「たとえば……何か、きっかけを作って、みんなの実力を見せつけるとか。練習試合とか、紅白戦とか……監督に頼んでみるとか」
「それがダメなら、もう一度、今度は先輩たちとちゃんと……本音で話し合ってみるとか。どうして私たちのことをそんな風に扱うのか、聞いてみるとか……」
「あるいは、今は我慢して、球拾いでも洗濯でも、文句一つ言わずに完璧にこなすの。そうすれば、いつか先輩たちも認めてくれて、練習時間をもらえるかもしれない……」

彼女の提案は、どれも茨の道だった。
実力を見せる機会など、どうやって作るのか。
話し合いで、彼らの根深い偏見が消えるのか。
我慢の先に、本当に光はあるのか。

ボールの行方を追う上級生たちの声が、遠くで響く。
自分たちは、いつになったらあの輪の中に入れるのだろうか。
あるいは、あの輪を、自分たちの力で壊してしまうべきなのか。
選択の時が、またしても訪れようとしていた。

3ターン目

屈辱が、砂埃と共に舞っていた。上級生たちの嘲笑は、1年生たちの心をじりじりと焼く太陽のように、執拗に降り注ぐ。だが、その膠着した空気を最初に引き裂いたのは、予測不能な男、萵苣畑伽兵衛だった。

「チヨちゃんさぁ〜〜、そんな暗い顔してっと、せっかくの【二枚目LV1】が台無しだぜぇ?」
彼は球拾いを放り出すと、どこからか取り出した手鏡で自分の髪をいじりながら、グラウンドの外へと歩き出した。向かう先は、女子寮の方角だ。
「ちょっと俺ちゃん、ファンサービスしてくるわ。見てな、最高のショーを用意してやっからよ」
彼の【ナンパLv2】は、もはや芸術の域に達していた。学年など関係ない。手当たり次第に女子生徒に声をかけ、甘い言葉を囁き、ウィンクを飛ばす。そして、ひとたび彼の術中にはまった女子生徒は、彼の【ドドメスティック・バイオレンス[魔]】が放つ奇妙なオーラによって、抗いがたい安心感と高揚感を覚えさせられるのだ。

一時間後。グラウンドの周囲は、異様な光景と化していた。
どこから集まってきたのか、100人近い女子生徒たちが、フェンス際に集結していたのだ。そのほとんどが、萵苣畑に魅了された上級生の女子たちだった。彼女たちは、黄色い歓声を上げ、手作りのうちわまで振っている。
「キャー! 伽兵衛くーん!」
「俺たちの伽兵衛に、変な雑用させないでー!」
突如現れた巨大な「ギャラリー」に、練習していた上級生たちは度肝を抜かれ、動きを止めた。自分たちの権威の象徴であったはずのグラウンドが、完全に萵苣畑のホームステージへと変貌してしまったのだ。彼らの顔は、嫉妬と困惑でみるみるうちに歪んでいく。

この千載一遇の好機を、夢前川八鹿が見逃すはずがなかった。
「……へえ、随分とお客さんが集まったじゃない。こんな大観衆の前で、みっともない練習してて恥ずかしくないの?」
彼女は、上級生たちに向かって挑発的に言い放った。その【毒舌Lv1】は、彼らのプライドを的確に抉る。
「私たちと勝負しない? まさか……負けるのが怖かったりして」
その言葉を証明するかのように、彼女は近くに転がっていたボールを拾うと、バッティングケージに立つ上級生に向かって、トンボをバット代わりに振り抜いた。彼女の【バットコントロールLv3】から放たれた打球は、唸りを上げて上級生の耳元をかすめ、バックネットに突き刺さった。紙一重。だが、その一撃は、彼女の実力が雑用係で終わる器ではないことを、雄弁に物語っていた。

「――ナイスバッティング、八鹿さん!」
力風呂ポケットが、まるでその打球を予測していたかのように、落下点に走り込んでいた。彼は球拾いをしながらも、常に戦況を読んでいたのだ。上級生が打った痛烈なピッチャーライナーを軽々と捕球し、ホームラン性の打球にフェンス際まで追いついてみせる。それは球拾いでありながら、もはや華麗な守備練習そのものだった。
「先輩! 今のボール、少しシュート回転がかかってましたね! 次はもっとインコースを意識すると、伸びますよ!」
ポケットは、拾ったボールを返しながら、的確なアドバイスまで付け加える。その【気迫Lv2】に満ちた動きと洞察力は、邪魔をするどころか、練習の質を明らかに向上させていた。

「――行くぞ!」
グラウンドの端では、黒鋼晶が返球のデモンストレーションを始めていた。拾ったボールをキャッチャー役の上級生に返す。ただそれだけの行為が、彼女の手にかかると、一つのショーになる。【強肩Lv3】と【コントロールLv3】、そして【魔人能力】:『リボルバー』。放たれたボールは、轟音と共に一直線にミットへと吸い込まれていく。その威力は、キャッチャーミットを突き破らんばかりの勢いだった。恐怖で顔を引きつらせる上級生。その横で、晶は平然とトンボをバット代わりに素振りし、【打撃力Lv2】のパワーを誇示する。

この混沌とした状況の中、誰よりも誠実に、そして効率的に動く男がいた。藤田アーウィンだ。彼は、仲間たちが引き起こした混乱に乗じて、己のタスクを猛烈な勢いで片付けていた。
「うおおおおお!」
彼の【魔人能力】:『警戒爆走』。手足を音速で動かすその能力は、洗濯や球拾いといった単純作業において、圧倒的な効率を発揮した。常人には見えないほどの速さでユニフォームが洗われ、砂の中にあったはずのボールが次々と回収されていく。彼は瞬く間に雑用を終わらせると、その節約した時間で、練習中の上級生のもとへ向かった。
「先輩! 俺は相撲しかやってこなかったので、野球のことは何も分かりません! どうか、教えてください!」
アーウィンは、再び深々と頭を下げた。【一途Lv2】なその瞳は、ただ純粋に教えを乞うていた。彼の【恵まれた体格Lv.1】と【筋肉Lv.3】は、誰が見ても優れた野球選手になれるポテンシャルを秘めている。教えを乞われ、自尊心をくすぐられた上級生は、まんざらでもない顔で、アーウィンに簡単な素振りのフォームを教え始めた。

だが、この光と影が渦巻くグラウンドで、最も暗く、歪んだ復讐を遂げる者がいた。黒子ノリスケだ。彼は、誰にも気づかれぬまま【透明ランナー[魔]】と化し、最も威張り散らしていた上級生二人の背後に忍び寄っていた。その手には、【窃盗癖LV.3】で彼らのロッカーから盗み出した、当人たちのバットが握られている。
「……僕ちゃんたちに、バットを使わせないからだよ」
憎悪に満ちた呟きと共に、バットが振り下ろされる。
ゴッ!鈍い音が響き、上級生が膝から崩れ落ちた。続けざまに、もう一人にも強烈な一撃が叩き込まれる。
「ぐあああっ!?」
「い、痛え! なんだ!?」
何が起きたのか分からないまま、二人は地面にうずくまる。周囲の誰もが、何が起きたのか理解できない。だが、結果は明白だった。上級生二人が、自身のバットで殴られ、戦闘不能となったのだ。1年生はバットを持っていない。犯人が誰であるか、誰も突き止めることはできない。ノリスケは、透明なまま、卑しい笑みを浮かべていた。これは、彼のやり方での「練習参加」への布石だった。

女子生徒たちの歓声。八鹿の挑発的な打球。ポケットの華麗な守備。晶の剛速球。アーウィンの誠実な懇願。そして、ノリスケの見えざる鉄槌。
1年生たちが仕掛けた、序列破壊の狂騒曲。
その全てを、ベンチの奥から、監督の毒島権蔵が、酒を飲むのも忘れて見つめていた。彼の濁った瞳の奥で、何かが激しく揺れ動いていた。

幕間:崩壊と再構築の兆し

あの日、萵苣畑が引き起こした「ファン感謝デー」と、1年生たちの反乱以降、野球部の空気は一変した。
上級生たちは、もはや1年生をパシリとして顎で使うことはなくなった。いや、できなくなった、というのが正しい。彼らの脳裏には、女子生徒たちの嘲笑、晶の剛速球、八鹿の精密な打球、そして何より、原因不明のまま自分たちの仲間がバットで殴られた恐怖が、深く刻み込まれていた。

結果として、練習は「合同」という形になった。
まだそこには、学年の壁が色濃く残っている。会話はほとんどなく、互いに牽制し合うような、ピリピリとした緊張感が常に漂っている。だが、同じグラウンドで、同じボールを追いかける。それは、この野球部にとって革命的な変化だった。

監督の毒島も、明らかに変わった。
ベンチに座って酒をあおる時間は減り、グラウンドに立つ時間が増えた。その濁った目は、以前よりも鋭い光を宿し、選手たちの動きを的確に捉えている。
「アーウィン! 腰が高い! もっと相撲の四股のように腰を落とせ!」
「ポケット! リードが単調だ! もっと相手の心理を読め!」
「晶! その肩は宝だ。だが、力だけに頼るな。緩急を覚えろ!」
飛んでくるのは相変わらず罵声に近いヤジだが、その一つ一つに、かつての天才投手の面影を感じさせる、的確な「指導」の意志が込められていた。彼は、この得体の知れない1年生たちを、ようやく「指導に値する選手」として認め始めたのだ。

そんな変化の兆しが見え始めた、ある日の放課後。
1年生たちが自主的にグラウンドの整備を終え、寮に戻ろうとしていた時だった。
他の部員たちがいないタイミングを慎重に見計らって、桜乃千代が、少し顔を赤らめながら、彼らに駆け寄ってきた。

「あ、あの……みんな!」

彼女の声は、いつもより少し上ずっている。手には、野球部のマネージャー日誌ではなく、可愛らしい柄の小さな財布が握られていた。

「えっと……みんなに、お願いがあるんだけど……」

千代は一度言葉を切り、もじもじと足元の土をつつく。その仕草は、いつもの快活なマネージャーの姿とは違い、年頃の少女そのものだった。

「今度の日曜日、もしよかったら……その、街でのお買い物に付き合ってくれないかな…?」

目的は、父親――毒島監督――の誕生日プレゼント選びらしい。
一般生徒である彼女は、学外への外出を滅多に許可されない。特待生として、市街地へのシャトルバスを自由に使える魔人の1年生たちを頼りたい、ということのようだった。
普段、部活のことばかり考えている彼女が見せた、個人的で、ささやかな「お願い」。それは、これまでの部活の騒動とは全く質の違う、穏やかで、少し甘酸っぱい空気をグラウンドにもたらした。

このチームの太陽である彼女の、個人的な悩み。
そして、その相手は、チームが乗り越えるべき最大の壁である、毒島監督。
このお願いにどう応えるかは、単なる買い物に付き合う以上の意味を持つかもしれない。チームの人間関係、特に監督との関係性に、思わぬ影響を与える可能性を秘めていた。

4ターン目

千代のささやかな願いは、予想外の形で1年生たちを一つにした。監督へのプレゼント選びという、野球とは全く関係のない目的が、逆に彼らの好奇心と、わずかに芽生え始めた仲間意識を刺激したのだ。特に、これまであまり接点のなかった女子三人は、この機会を逃さなかった。

「もちろん、付き合うよ。ね、八鹿ちゃん」
黒鋼晶が、こともなげに言う。その隣で、夢前川八鹿も「まあ、千代の頼みなら仕方ないわね」と、ぶっきらぼうながらも頷いた。女子同士の親睦を深める。それは、この殺伐とした野球部において、ささやかだが重要な一歩だった。

日曜日。シャトルバスを降りた先の市街地は、砂丘の学園とは別世界のようだった。人々が行き交い、鮮やかな看板が並び、活気に満ちている。千代は久しぶりの喧騒に目を輝かせ、晶と八鹿はその手を引きながら、まるで姉妹のように微笑ましく歩いていく。

「監督、最近少しだけだけど、昔みたいに野球の話をしてくれるようになったんだ。だから、何か……野球に関係するものがいいかなって」
千代が、少し照れくさそうに言う。彼女の【一途Lv.2】な想いは、全て父親へと向かっていた。八鹿は、その言葉と千代の表情から【洞察力Lv.3】を働かせ、監督が本当に欲しがっているものを探ろうと思考を巡らせる。それは高価な品物ではなく、もっと個人的で、感傷的な何かであるはずだ。

その女子グループの後ろを、男たちがそれぞれの思惑を胸に歩いていた。
藤田アーウィンは、ただひたすらに【仲間思いLv.3】の心で、千代のサポートに徹していた。彼の【恵まれた体格Lv.1】と【筋肉Lv.3】は、人混みの中では自然な壁となり、千代たちを不埒な輩から守る防波堤の役割を果たしていた。

一方、力風呂ポケットの思考は、全く別の次元にあった。彼はこの外出を、監督の過去を清算するための絶好の機会と捉えていたのだ。
(監督の過去の挫折……千代ちゃんから聞いた、信頼していた魔人エースの裏切り。そのトラウマを断ち切らない限り、本当の意味で俺たちの監督にはなってくれない)
ポケットは、街に出る前に、野球部の古い名簿を調べ上げていた。そして、監督の元チームメイトが、この街でスポーツ用品店を営んでいることを突き止めていたのだ。彼の計画は壮大だった。元チームメイトの協力を得て、監督のトラウマとなった状況を再現し、それを乗り越えさせることで、心の【呪縛Lv2】を解き放つ。そして、『失った親子関係の修復』こそが、最高の誕生日プレゼントになる、と。その壮大な計画の障害となりかねない黒子ノリスケは、出発前に「お前は女子の買い物に付き合うと問題を起こすから」というもっともらしい理由で、ポケットの【緊縛Lv2】によって寮の自室に固く縛り付けられていた。

そして、この一行の中で最も異彩を放っていたのが、萵苣畑伽兵衛だった。
彼は【ナルシシズムLV2】を全開にした、最新の流行を取り入れた私服に身を包み、まるでファッションショーのランウェイを歩くかのように、街を闊歩していた。
「よぉし、お前ら! この俺ちゃんに続け! 俺ちゃんの【ドドメ色の棒(スティック)】が、お前たちの道を切り拓いてやんよ!」
彼は人の波を分け入り、時折、すれ違う女子生徒にウィンクを飛ばしては【ナンパLv2】を仕掛ける。その自由奔放な振る舞いは、千代たちをハラハラさせたが、不思議とトラブルにはならなかった。

一行は、八鹿の提案で、古びた革製品を扱う店に入った。監督が昔使っていたグローブの手入れ道具が、もうなくなっているかもしれない、という彼女の鋭い指摘だった。店内で、千代は一つのオイルを見つける。それは、監督が若い頃に愛用していたメーカーのものだった。
「これにする……!」
千代が嬉しそうにそれを手に取った、その時だった。

カラン、とドアベルが鳴り、一人の少年が店に入ってきた。
純白のシャツが嫌味なほど似合う、端正な顔立ち。長身で、手足が長いモデルのような体型。そして、何よりも目を引くのは、その氷のように冷たく、絶対的な自信に満ち溢れた眼光だった。
少年は、萵苣畑を一瞥すると、微かに眉をひそめた。
「……騒がしいな。品位のない人間がいると、空気まで淀む」
その声は、静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。
「あ゛? なんて言った、てめえ」
萵苣畑が、喧嘩腰で振り返る。
少年は、萵苣畑を意にも介さず、カウンターで店主と話し始めた。その会話の断片が、ポケットの耳に届く。
「……ああ、白鷺くん。例の特注グラブ、いつでもいいぞ。甲子園に向けて、最高の逸品を用意するからな」
「ありがとうございます。期待しています」
白鷺――その名に、ポケットは息を呑んだ。白鷺玲。今年の高校野球界で、最も注目されている一年生エース。優勝候補と名高い、名門校の絶対的象徴。

白鷺は、用事を済ませると、再び1年生たちを一瞥した。その視線は、ゴミでも見るかのように冷え切っていた。特に、彼らが着ている鳥取砂丘学園の制服の一部が見えた瞬間、その瞳には明確な侮蔑の色が浮かんだ。
「……砂丘学園か。魔人の掃き溜めが、街に出てきていいものかね。空気が汚れる」
その一言が、引き金だった。

「てめえ、もういっぺん言ってみろ!」
晶が、一歩前に出る。その手は、近くにあった革の裁断用具を握りしめていた。
アーウィンも、その巨体で白鷺の前に立ちはだかる。
だが、白鷺は全く動じなかった。
「事実を言ったまでだ。野球は、神聖なスポーツだ。お前たちのような異物が、足を踏み入れていい場所じゃない」
彼は、千代が手にしていたグローブオイルに目をやると、ふっと鼻で笑った。
「……そんな安物のオイルで、何が手入れできる? 本物は、道具から違うんだよ」
その言葉は、千代が心を込めて選んだプレゼントを、そして、彼女の父親への想いを、無残に踏みにじった。

千代の瞳から、みるみる血の気が引いていく。
その瞬間、ポケットは動いていた。彼は白鷺の前に立つと、深く、深く頭を下げた。
「――申し訳ありませんでした」
「……何?」
予想外の行動に、白鷺だけでなく、晶や八鹿も目を見開く。
「我々の仲間が、あなたに不快な思いをさせてしまったこと、深くお詫びします。ですが」
ポケットは顔を上げた。その瞳には、怒りでも憎しみでもない、ただ純粋な闘志が燃え盛っていた。
「俺たちは、あんたに勝つ。その安物のオイルで手入れした、ボロボロのグローブで、あんたたちのピカピカの道具を打ち砕き、甲子園に行く。覚えておけ」
それは、宣戦布告だった。何の力も持たない、ただの野球バカが、エリート中のエリートに向かって放った、無謀で、しかしどこまでも純粋な挑戦状。
白鷺は、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、その目に興味の色を浮かべた。だが、すぐにそれは冷たい侮蔑へと変わった。
「……面白い冗談だ。せいぜい、砂遊びでもしているがいい」
それだけ言い残し、白鷺は店を去っていった。

後に残されたのは、重い沈黙と、1年生たちの胸に刻み込まれた、初めての明確な「敵」の姿だった。
萵苣畑は、珍しく不機GSTな顔で舌打ちをしている。自分の【ナルシシズム】が、初めて他者から完全に無視され、否定されたのだ。
千代は、震える手でオイルを握りしめていた。彼女のプレゼントは、けなされた。だが、ポケットがそれを守り、未来の勝利を誓ってくれた。その事実が、彼女の心を強く支えていた。
「……ポケットくん」
「大丈夫だ、千代ちゃん。俺たちが証明する。道具や才能だけが、野球じゃないってことをな」
ポケットの言葉に、アーウィンも、晶も、八鹿も、無言で頷いた。
この日、彼らはただのプレゼントを買っただけではなかった。彼らは、共通の敵と、共に戦うべき理由を見つけたのだ。それは、どんな高価な練習器具よりも、チームを強くする、最高の贈り物だった。

日曜日の夜。
千代は、緊張した面持ちで監督室のドアをノックした。手には、小さな紙袋が握られている。中には、あのグローブオイルと、1年生たちがなけなしの小遣いで買った、安物の栄養ドリンクが数本入っていた。

「……なんだ」

中から聞こえてきたのは、いつも通りの不機嫌な声。千代は意を決して、ドアを開けた。
部屋には、酒と湿布の匂いが充満している。毒島は、古い野球雑誌を読みながら、眉間に深い皺を刻んでいた。

「お、お父さん……その、これ……」
千代が、おずおずと紙袋を差し出す。
「誕生日、おめでとう」

毒島は、一瞬、何を言われたのか分からないという顔をした。自分の誕生日など、もう何年も忘れていた。彼は怪訝な顔で紙袋を受け取ると、中からグローブオイルを取り出した。そのメーカーのロゴを見た瞬間、彼の指が、ぴくりと震えた。

それは、彼がまだ何者でもなかった高校時代、初めて自分の小遣いで買ったのと同じオイルだった。甲子園の土が染み込んだ、あの古びたグローブを、来る日も来る日も磨き続けた、青春の記憶。

「……くだらん」

毒島は、吐き捨てるように言った。そして、オイルを机の上に放り出す。
「こんなもんで、俺が喜ぶとでも思ったか。練習の時間が惜しい。さっさと戻れ」

冷たい言葉。拒絶の態度。
千代の瞳が、悲しみに揺れる。彼女は俯き、何も言えずに部屋を出ようとした。
だが、彼女がドアノブに手をかけた、その時。

「……千代」

背後から、か細い声が聞こえた。それは、彼女がもう何年も聞いていなかった、父親としての優しい響きだった。

「……ありがとな」

千代が振り返ると、毒島はもう彼女の方を見てはいなかった。ただ、机に置かれたグローブオイルを、まるで壊れ物を扱うかのように、そっと指でなぞっている。その横顔は、千代の知らない、後悔と、ほんの少しの喜びが入り混じった、複雑な色をしていた。

その夜、誰もいないグラウンドで、一人の男が黙々とグローブを磨いていたという。その姿を見た者は、誰もいなかった。

幕間:決戦前夜の静寂

白鷺玲との遭遇は、チームに劇的な変化をもたらした。
これまでバラバラだった1年生たちのベクトルが、初めて「打倒・白鷺」という一点で重なったのだ。グラウンドには、以前とは比べ物にならないほどの熱気が満ちていた。
ポケットは、白鷺のいる名門校の過去の試合データを収集し、その圧倒的な実力を分析しては、対策を練り続けた。
晶と八鹿は、互いを好敵手と認め、打者と投手として一対一の真剣勝負を繰り返すことで、技術を極限まで高め合っていた。
アーウィンは、上級生たちから貪欲に技術を吸収し、その恵まれた体格を活かした長打力を開花させつつあった。
萵苣畑でさえ、白鷺に受けた屈辱をバネに、【鍛錬Lv3】の質を上げ、女子生徒たちの声援を力に変えて、驚異的な身体能力を見せつけていた。
上級生たちも、その熱に浮かされるように、練習の密度を上げていく。1年生たちへの態度は相変わらずだったが、その実力だけは認めざるを得なかった。
監督の毒島も、選手たちの変化を肌で感じていた。ヤジの数は減り、代わりに要点を突いた的確な指示が増える。娘から贈られたオイルで手入れされた古いグローブを、彼は時折、懐かしむように眺めていた。
そして、運命の夏が来た。
夏の甲子園、鳥取県予選。その組み合わせ抽選会が行われた日、野球部に激震が走った。
「一回戦の相手……決まったぞ」
掲示板に貼り出されたトーナメント表を見て、上級生の一人が絶望的な声を上げた。
その先に書かれていた名は――白鷺玲を擁する、県内最強の優勝候補校。
よりにもよって、初戦で、最強の敵と当たることになったのだ。
誰もが言葉を失い、重い沈黙が部室を支配した。ある者は天を仰ぎ、ある者は悪態をつく。だが、1年生たちの瞳だけは、絶望ではなく、むしろ歓喜と闘志の色に燃えていた。
「……面白い」
ポケットが、獰猛な笑みを浮かべて言った。
「神様は、俺たちに最高の舞台を用意してくれたらしい」
望むところだ。最高の敵を、最初の舞台で叩き潰す。これ以上のシナリオはない。
だが、問題があった。決戦を前にして、チームの指揮官であるはずの監督が、一向にスタメンを発表しようとしないのだ。練習中もどこか上の空で、夜になれば監督室にこもり、ただ酒をあおっているだけ。
試合前日。しびれを切らした1年生たちは、意を決して監督室のドアを叩いた。
部屋の扉を開けると、むわりと濃密なアルコールの匂いが鼻を突く。毒島は、机に突っ伏すようにして、呂律の回らない声で何かを呟いていた。完全に泥酔している。
「監督! 明日のスタメンはどうなってるんですか!」
ポケットが声を張り上げるが、毒島は虚ろな目で彼らを見返すだけだった。
「あ゛あ……? スタメン……? 知るか、そんなもん……」
「ふざけないでください! 俺たちは、あいつらに勝つために……!」
「うるせえ……」
毒島は、よろりと立ち上がると、空になった一升瓶を掲げてみせた。
「……酒が、切れちまった……」
彼は忌々しげに舌打ちをすると、千鳥足で1年生たちの横を通り過ぎ、自室へと向かおうとした。そして、ドアノブに手をかけたまま、振り返って言った。
「……酒だ。美味い酒を持ってこい。そうすりゃあ……お前らをスタメンに入れてやっても、いい……」
それだけ言い残し、監督は自室の扉の向こうへと消えていった。
後に残されたのは、絶望的な課題と、絶望的なまでの静寂だった。
時刻は、すでに夜。街へ向かうシャトルバスは、もうない。
この学園から街へ出るには、夜通し砂丘を越えるしかないが、それは遭難の危険を伴う無謀な賭けだ。仮に街へたどり着けても、ほとんどの酒屋はシャッターを下ろしているだろう。
明日の試合、その出場権を賭けた、理不尽で、あまりにも切実なクエスト。
最強の敵を前にして、彼らはまず、自分たちの指揮官の心を、どうにかして満たさなければならなかった。
千代が、青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「みんな、どうしよう……! お父さん、大事な試合の前になると、いつもこうなっちゃうんだ……。きっと、怖いんだと思う。また、負けるのが……」
彼女は唇を噛み締め、必死に解決策を探ろうとする。
「夜中に警備を抜け出して、砂丘を越えるのは絶対に危ないよ。酒屋さんだって、もう閉まってるだろうし……。明日、授業を抜け出して買いに行く……? でも、それじゃ試合に間に合わないかもしれない……。だったら、学内で誰か持ってる人を探すとか……? あるいは、何か……代わりになるものを、自分たちで作るとか……」
そして、彼女は最後に、最も困難な選択肢を口にした。
「……ううん、お酒なんかじゃ、きっとダメなんだ。本当は……お父さんとちゃんと話して、説得しなきゃ……」
選択肢は、いくつもある。
だが、どれも確実な成功を約束するものではない。
決戦の日は、刻一刻と迫っていた。

5ターン目

監督室の前に、再び1年生たちが集結していた。だが、その空気は以前の詰問の時とはまるで違う。絶望でも、怒りでもない。そこにあるのは、決戦を前にした、静かで、しかし鋼のように硬い覚悟だった。

「……開けるぞ」

ポケットの言葉を合図に、扉が開かれる。部屋の中は、相変わらず淀んだアルコールの匂いと、絶望的な自己憐憫の空気が満ちていた。毒島は、床に座り込み、虚ろな目で壁の一点を見つめている。

「監督、まだそんなところで燻ってるんですか」
八鹿が、冷たく言い放った。彼女は一歩前に出ると、監督が大事そうに抱えていた空の一升瓶を、【反射神経Lv2】でひったくる。
「いつまで過去の亡霊に怯えてるのよ。みっともない」
彼女の【毒舌Lv1】は、容赦なく監督の傷を抉る。そして、彼女は奪い取った瓶を、躊躇なく床に叩きつけた。ガシャン!という耳障りな音と共に、ガラスの破片が飛び散る。そのいくつかが彼女の素肌を浅く切り裂くが、【リトルソルジャー(魔)】の力を持つ彼女は、眉一つ動かさない。
「酒に逃げても、何も変わりやしない。アンタが向き合うべきは、酒じゃない。私たちよ」

「……そうだ。監督。あんたは、結局のところ、俺と同じなんだ」

次に口を開いたのは、力風呂ポケットだった。その声には、奇妙なほどの確信が満ちていた。
「野球を嫌いなフリして、やる気ないフリして……結局、野球から離れられない。あんたは、俺と同じ、ただの野球バカなんだよ」
その言葉は、最大の侮辱であり、同時に、最高の理解者からの共感だった。毒島が、ゆっくりとポケットの方を向く。その濁った瞳の奥で、何かが激しく揺れた。
「そんな野球バカには、酒よりこっちがお似合いだ!」
ポケットは叫ぶと、どこからか取り出したボールを握りしめ、ワインドアップモーションに入った。そのフォームは、かつて毒島が最も信頼し、そして最も深く裏切られた、あの天才魔人エースのものと瓜二つだった。
彼は、白鷺と遭遇したあの日、監督の元チームメイトに会いに行くという当初の計画を、一人で実行に移していたのだ。そして、裏切ったエースの行方を突き止め、彼から直接、伝説の魔球の投げ方を教わっていた。

ヒュッ、と空気が裂ける音がする。ポケットの手から放たれたボールは、ありえない軌道を描き、監督の目の前でホップした。あの日の悪夢の再現。毒島の顔から、血の気が引いていく。
「……やめろ」
「思い出せ、監督。あんたが逃げ続けている、あの日の光景を」
ポケットは、二球、三球と、同じ魔球を投げ続けた。それは、監督の心の傷をこじ開ける、残酷な治療だった。
そして、最後の投球モーションに入りながら、ポケットは言った。
「最高に美味い酒なら、俺たちがいくらでも飲ませてやる。『甲子園優勝』っていう、俺たち野球バカが、喉から手が出るほど欲しい、最高の美酒をな!」
その言葉と共に、最後のボールが放たれる。それがどこへ行ったのか、どういう結末を迎えたのかは、その場にいた誰にも分からなかった。ただ、毒島が呆然と、己の手のひらを見つめていたことだけが、全てを物語っていた。

この劇的なやり取りを、他のメンバーはそれぞれの形で支えていた。

「監督」
藤田アーウィンが、静かに語りかける。彼は、自分がかつて相撲で格上の相手に挑んだ時の恐怖を、【一途Lv.2】な言葉で語った。
「怖かったです。足が震えて、眠れなかった。でも、土俵に上がったら、やるしかなかった。最初から負けると思ってたら、勝てるもんも勝てません。俺は、あんたを信じたい」
その言葉は、ポケットの荒療治でむき出しになった監督の心に、温かい膏薬のように染み込んでいった。

「Fuuu〜〜!!監督、俺ちゃんの棒を見ろよ、ホラホラホラ!」
そのシリアスな空気を、萵苣畑伽兵衛がぶち壊す。彼は千代の手を無理やり引くと、【ドドメ色の棒(スティック)】を共に振り回し始めた。
「千代チャンも恥ずかしがってないで声出して、ソイヤソイヤソイヤ!」
「え、えええ!?」
千代はパニックになりながらも、萵苣畑の勢いに巻き込まれていく。その常軌を逸した光景は、しかし、不思議な効果をもたらした。ポケットの行動で極限まで高まった緊張が、この馬鹿馬鹿しい奇行によって、ふっと緩和されたのだ。萵苣畑の【ドドメスティック・バイオレンス[魔]】が放つ安心感が、毒島のささくれだった心を、奇妙な形で癒していく。

「――監督。私の球も、見てください」
黒鋼晶が、静かに前に出た。彼女は、ポケットが使ったのと同じボールを拾い上げると、監督に向かって渾身の一球を投げ込んだ。『リボルバー』が発動し、ボールは銃弾と化して、壁に突き刺さった。
「私たちは、これだけの力を持っています。あんたが采配を振るうべきは、過去の亡霊じゃない。私たちだ」
それは、揺るぎない自信と、監督への信頼要求だった。

一方、この騒動の裏で、黒子ノリスケは別のミッションを遂行していた。彼は【透明ランナー[魔]】で監督室に忍び込み、監督の筆跡を【カンニングLV.2】で完璧に模倣すると、明日の試合のスタメン表を勝手に作成していたのだ。それは、彼がこれまで仲間たちを【窃視癖LV.2】で観察し続けてきたからこそ可能な、驚くほど的確なオーダーだった。もちろん、ちゃっかりと自分の名前も「9番・セカンド」の位置に書き込んである。監督は、どうせ酔った自分が書いたものだと思うだろう。これは、彼のやり方での「チームへの貢献」だった。

全ての言葉が、全ての行動が出尽くした時、部屋には沈黙が戻った。
毒島は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、もう濁ってはいなかった。
かつて、甲子園のマウンドに立っていた頃と同じ、鋭く、そしてどこまでも澄んだ光を宿していた。

「……分かった」
彼は、立ち上がった。その足取りに、もうふらつきはない。
「お前たちの『美酒』とやら、とくと味わわせてもらう。だが、もし不味かったら、ただじゃおかねえぞ」
彼は、ノリスケが用意したとは知らずに、机の上のスタメン表を手に取った。
「……面白いオーダーを組むじゃねえか、俺も」
にやりと、本当に久しぶりに、彼は笑った。
「行くぞ、ガキども。戦争の時間だ」

それは、鳥取砂丘学園野球部が、本当の意味で一つのチームになった瞬間だった。

幕間:決戦の朝

夏の太陽が、鳥取の空を焦がしていた。
蝉の声が、まるでこれから始まる戦いの鬨の声のように、やかましく鳴り響いている。
鳥取砂丘学園野球部のロッカールームは、不思議な静寂と、爆発寸前の熱気に包まれていた。誰もが、これから起こるであろう全てを予感し、己の魂を研ぎ澄ましている。

そこに、監督の毒島権蔵が入ってきた。
その瞳は、決戦を前にした将軍のように鋭く、しかしどこか穏やかな光を宿していた。手には酒瓶ではなく、古びたノートが握られている。

「……よく聞け、クズども」

彼の声は、静かだが、ロッカールームの隅々まで響き渡った。

「相手は王者だ。エリートだ。俺たちが、この世で一番憎むべき、恵まれた連中だ。俺たちは、掃き溜めの雑草。奴らは、温室育ちの高級な花だ。普通にやれば、勝てる確率はゼロに等しい」

彼はそこで一度言葉を切り、選手一人一人の顔を、確かめるように見回した。

「だがな。野球ってのは、筋書きのねえドラマだ。何が起こるか、誰にも分からねえ。お前らみたいな、規格外のバケモノが揃ってりゃ、なおさらだ」

彼は、黒子ノリスケが勝手に書いたスタメン表を掲げた。
「このオーダーは、俺が考えた。……いや、俺たちが見つけ出した、奇跡を起こすための唯一の答えだ。文句は言わせねえ」

彼は、ポケットに向かって頷いた。
「ポケット。お前が司令塔だ。俺はベンチで、お前を信じる。お前のリードが、俺の采配だ」
次に、晶に視線を移す。
「晶。お前がエースだ。遠慮はいらねえ。その肩が壊れるくらい、腕を振ってこい」
そして、全員に告げた。
「俺の仕事は、お前らを信じることだけだ。あとは、お前らが、このグラウンドで、好き放題に暴れてこい。俺たちの野球を、あのエリートどもに見せつけてやれ」

それは、彼が選手たちに贈る、最大限の信頼の言葉だった。

ロッカールームを出て、グラウンドへと向かう通路。そこで、桜乃千代が待っていた。彼女は、丁寧にアイロンがけされた真新しいユニフォームを、一人一人に手渡した。

「……みんな」
彼女の声は、少し震えていた。だが、その瞳は、どこまでも強く、選手たちを真っ直ぐに見つめている。
「みんななら、きっと勝てる! 私、信じてるから!」
その言葉は、何よりの力水だった。

グラウンドに足を踏み入れると、割れんばかりの歓声と、そして、それと同じくらいの野次が飛んできた。
「砂丘の魔人どもは帰りやがれー!」
「高校野球を汚すなー!」
だが、もはやそんな声は、彼らの耳には届いていなかった。彼らの視線は、ただ一点。ダイヤモンドの向こうで、泰然とキャッチボールを繰り返す、一人の男に注がれていた。

白鷺玲。
彼は、鳥取砂丘学園の選手たちを一瞥すると、ふっと、嘲るように笑った。その唇が、動く。
『砂遊びは、終わりだ』
声にはならずとも、そのメッセージは明確に伝わってきた。

審判が、両チームに整列を促す。
灼熱の太陽。沸騰するスタンド。そして、絶対王者との対峙。
全ての条件は、整った。
これは、ただの公式戦一回戦ではない。
掃き溜めの雑草たちが、エリートたちの喉元に食らいつき、その全てを引きずり下ろすための、下剋上の始まりだ。

「プレイボール!」

審判の声が、球場全体に響き渡った。
鳥取砂丘学園野球部の、短く、そして誰よりも熱い夏が、今、始まる。

6ターン目

灼熱の太陽が、マウンド上の二人の投手を平等に照らし出していた。
一方は、王者。その純白のユニフォームは塵一つなく、絶対的な自信に満ち溢れている白鷺玲。
もう一方は、挑戦者。砂まみれのグラウンドで鍛え上げられた、黒鋼晶。その瞳には、侮辱への怒りと、抑えきれない闘志が炎のように燃え盛っていた。

試合は初回から、壮絶な投手戦の様相を呈した。
晶の投げるボールは、荒々しく、そして暴力的だった。彼女は先頭打者のインコースぎりぎりに、【コントロールLv3】を駆使した剛速球をえぐり込む。バッターがのけぞり、スタンドから悲鳴が上がる。それは、挨拶代わりの恫喝。舐めてかかれば怪我では済まないという、明確な意思表示だった。
対する白鷺のピッチングは、芸術品のように洗練されていた。一切の無駄がないフォームから放たれるボールは、打者の手元で鋭く変化し、砂丘学園のバッターたちのバットに空を切らせる。

両者一歩も譲らぬまま、試合は中盤に差し掛かった。先に均衡を破ったのは、王者の一振りだった。
不用意に入った甘い球を、相手の4番打者が見逃さない。快音を残した打球は、レフトの頭上を越えようとしていた。誰もが長打を覚悟した、その瞬間。

「ソイヤソイヤソイヤ!」

レフトを守っていた萵苣畑伽兵衛が、雄叫びを上げて跳躍した。彼の【鍛錬Lv3】で鍛え上げられた肉体は、もはや人間離れしたバネを誇る。フェンスに激突しながらも、彼はその打球を奇跡的にグラブに収めた。
「Fuuu〜〜!! 俺ちゃんってば天才だからサァ〜!」
その超ファインプレーに、スタンドの一角を埋め尽くした萵苣畑応援団(彼がナンパした女子生徒たちで構成されている)から、割れんばかりの歓声が上がる。その異様な光景と、萵苣畑が放つ【ドドメスティック・バイオレンス[魔]】のオーラは、味方を鼓舞し、エリート校の選手たちにじわりとしたプレッシャーを与えていた。

その裏の砂丘学園の攻撃。
先頭は、夢前川八鹿。彼女は【小柄Lv1】な体格を利してストライクゾーンを狭め、相手投手をじわじわと追い詰める。そして、【洞察力Lv3】で見抜いた僅かな癖を逃さず、卓越した【バットコントロールLv3】で、しぶとくセンター前に弾き返した。
「っしゃあ!」
続くバッターは、藤田アーウィン。ベンチでも誰より大きな声で【仲間思いLv.3】の檄を飛ばしていた彼は、打席でもその気迫を失わない。彼は、これまで【一途Lv.2】に繰り返してきた練習を信じ、自らの【筋肉Lv3】に全ての力を込めて、フルスイングした。打球は詰まったが、そのパワーが勝り、ボテボテのゴロとなって三遊間を抜けていく。

チャンスが、生まれる。
だが、この試合、砂丘学園にはもう一つの、誰にも見えない武器があった。二塁ランナー、黒子ノリスケだ。
彼は、スタメン表に自分の名が書かれた時から、この瞬間を待っていた。【透明ランナー[魔]】。彼はその能力を、走塁中に、ほんの一瞬だけ発動させる。投手が投球モーションに入った瞬間、彼は透明になり、三塁へとスタートを切る。捕手も、内野手も、誰一人として彼の動きに気づけない。気づいた時には、ノリスケは悠々と三塁ベースに到達していた。
「な……なんだ!?」
「ランナーが消えたぞ!?」
相手チームが混乱する。それは、ノリスケの【窃盗癖LV.3】を応用した、完璧な「盗塁」だった。さらに彼は、ベンチから【窃視癖LV.2】で相手捕手のサインを盗み、【カンニングLV.2】で打席のポケットに伝えていた。

絶好のチャンスで、打席にはキャプテン、力風呂ポケット。
彼は、ノリスケの卑劣な手段を良しとはしていなかったが、今は勝利のために、その情報を利用することを選んだ。
(ノリスケ……あとで説教だ。だが、このチャンスはもらう!)
彼は【脱力Lv2】でリラックスして構え、相手投手の決め球であるスライダーを完璧に読み切っていた。甘く入ってきたそのボールを、インパクトの瞬間に【豪力Lv2】を込めて叩く。
「うおおおおおっ!」
快音を残した打球は、ライト線を鋭く破っていった。
三塁からノリスケが、二塁からアーウィンが、次々とホームインする。
2対0。掃き溜めの雑草たちが、王者から、泥臭く、そして狡猾に、先制点を奪い取ったのだ。

だが、王者はこのまま黙ってはいない。
終盤、ついに打席に白鷺玲が立つ。
スタンドのボルテージが最高潮に達する中、マウンドの晶は、ポケットのサインに首を振った。
(こいつだけは、絶対に、俺の手で!)
彼女の【芯の強さLv2】が、セオリーを拒絶する。もはや【コントロール】など度外視。憎しみと闘志の全てを込めて、【リボルバー(魔)】の力を解放した。
「うおおおおおおっ!」
放たれたボールは、もはや白い閃光。人間の反射神経を超えた速度で、白鷺の胸元へと突き刺さるように飛んでいく。
だが、白鷺は笑っていた。
彼は、その超常的な一球に、完璧にタイミングを合わせていた。
キィィィィン!!
甲高い金属音と共に、ボールは信じられないほどの速度で弾き返され、センターの遥か頭上、バックスクリーンに突き刺さった。
同点ツーランホームラン。
「……これが、本物だ」
ダイヤモンドを一周しながら、白鷺はマウンドの晶に向かって、そう呟いた。
その一振りは、魔人能力すらも凌駕する、絶対的な「才能」の輝きだった。晶は、マウンドで膝から崩れ落ちそうになる。これが、王者の力。これが、自分たちが挑んでいる壁の高さ。

絶望が、砂丘学園側ベンチを覆い尽くす。
これまで圧倒的な実力差で勝利してきたエリート校の選手たちは、完全に勢いを取り戻し、砂丘学園ナインに襲いかかった。
守備が乱れる。簡単な連携ミスが、致命的なエラーへと繋がる。上級生と1年生の間で、これまで燻っていた不信感が、プレッシャーによって露わになる。
「おい1年! なんでそこにカバーがいないんだよ!」
「そっちこそ、ちゃんと捕ってくださいよ!」
声が飛び交い、チームは内側から崩壊を始めた。

監督の毒島は、ベンチで唇を噛み締めていた。
(……ここまでか)
これが、今のチームの限界。個々の力はあっても、「チーム」としての練度が、あまりにも低すぎる。彼が采配を振るう隙すらなかった。それは、彼がこれまで目を背けてきた、「チーム作り」という地道な努力の不足が、最も大事な場面で噴出した瞬間だった。

試合は、そのまま王者の圧倒的な地力の前に、蹂躙されるように終わった。
スコアは、2対7。
砂丘学園の、短すぎた夏は、終わりを告げた。

サイレンが、無情に鳴り響く。
泣き崩れる選手たち。呆然と立ち尽くす選手たち。
その中で、ポケットだけが、真っ直ぐに、マウンドで雄叫びを上げる白鷺玲を睨みつけていた。
負けた。だが、物語は、まだ終わってはいない。
この屈辱と、この絶望を燃料にして、彼らの本当の戦いが、今、始まるのだから。

エピローグ:夏の終わり、そして始まり

灼熱のアスファルトが、敗北の匂いを蒸発させている。
バスに乗り込み、学園へと戻る道中、誰一人として口を開く者はいなかった。窓の外を流れる景色は、来た時と同じはずなのに、今は色彩を失って見えた。悔しさで唇を噛む者、静かに涙を流す者、虚空を見つめる者。それぞれの胸に、敗北という名の重い錨が沈んでいた。

学園に帰り着き、グラウンドの前でバスを降りる。
夕陽が、彼らが血と汗を染み込ませた砂の大地を、赤く、赤く染め上げていた。
「――整列しろ」
静かだが、有無を言わせぬ声が響いた。監督の毒島権蔵だった。
選手たちは、泥だらけのユニフォームのまま、反射的に彼の前に並ぶ。

毒島は、まず引退する3年生たちの前に立った。彼らは、今日の試合、ほとんど出番はなかった。だが、ベンチで誰よりも声を出し、後輩たちの奇跡を信じていた。
「……3年」
毒島の声は、穏やかだった。
「お前らには、苦労しかかけなかったな。俺のせいで、お前らの3年間は、ロクなもんじゃなかったかもしれん。……すまなかった」
彼は、深く、深く頭を下げた。
その姿に、3年生たちは慌てて首を振る。彼らの目には、涙が溢れていた。
「監督……俺たち、今日、初めて……本気で野球が楽しいって思えました。あいつらと、野球ができて……よかったです」
「……そうか」
毒島は、それだけ言うと、顔を上げた。
「お前らの野球は、ここで終わりだ。だが、人生は続く。この掃き溜めで学んだ理不尽への耐性は、社会に出りゃ、案外役に立つかもしれねえぞ。……3年間、ご苦労だった」
その言葉を最後に、3年生たちは、静かにグラウンドを去っていった。彼らの短い夏が、完全に終わった瞬間だった。

残された1、2年生たちの前に、毒島は再び向き直る。
その瞳は、先ほどの温かさとは打って変わって、燃えるような厳しさを宿していた。
「……さて、新チーム」
彼の視線が、一人一人の顔を射抜いていく。
「今日の試合で、嫌というほど分かったはずだ。俺たちが今、どの位置にいるのか。そして、あの王者と、どれだけの差があるのか」
彼は、ポケットを見据えた。
「ポケット。お前のリードは面白かった。だが、終盤、完全に読まれていた。引き出しが少なすぎる」
次に、晶を睨む。
「晶。お前はエースの器じゃねえ。ただの豪腕だ。感情で投げるうちは、白鷺には一生勝てん」
そして、全員に言い渡した。
「個々の力は通用した。だが、チームとしては、幼稚園児の砂遊び以下だ。連携、状況判断、基礎体力……全てが、足りていない」

彼の言葉は、選手たちの傷口に塩を塗り込むように、厳しく、辛辣だった。
だが、誰一人として、反論する者はいなかった。全てが、紛れもない事実だったからだ。

「俺たちには、秋も、春もねえ。甲子園への道は、一年に一度、この夏しか開かれねえんだ。次のチャンスは、365日後。リベンジの機会は、来年の夏、ただ一度きりだ」

毒島は、そこで一度、息を吸った。そして、まるで地獄の始まりを告げるかのように、宣告した。
「明日から、鍛え直す。全てを、一からだ」
「夏休みなんぞ、一日もねえと思え」
「泣き言を言う奴は、今すぐここにユニフォームを置いていけ。俺は、本気で白鷺の首を取りに行く気がある奴としか、野球をするつもりはねえ」

その言葉は、絶望的な宣告のはずだった。
だが、不思議と、選手たちの心には、新たな炎が灯っていた。
悔しさ。屈辱。そして、明確な目標。
今日の敗北は、終わりではない。来年の夏、あの場所に再び立ち、今度こそ王者の喉元を掻き切るための、これは始まりの儀式なのだ。

誰も、下を向いてはいなかった。
全員が、監督の目を、真っ直ぐに見つめ返していた。
その光景に、毒島は、誰にも気づかれぬよう、ほんのわずかに口の端を吊り上げた。
(……いい顔、してやがる)
内心の喜びを押し殺し、彼は最後の言葉を吐き出す。

「――いいな!」
「「「押忍!!」」」

夕闇が迫るグラウンドに、新生・鳥取砂丘学園野球部の、産声が響き渡った。
彼らの本当の夏は、今、始まったばかりだ。

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最終更新:2025年08月22日 16:18