オープニングシーン:堕天のプレリュード
ライブハウスの地下に設けられた楽屋は、埃と安い消毒液、そして少女たちの放つ甘い香水と期待と不安が入り混じった独特の匂いで満たされていた。壁には過去に出演したであろう無数のバンドのサインが殴り書きされ、そのどれもが掠れて過去の亡霊となっている。ここは夢の残骸が堆積する場所。そして今宵、新たな夢が、あるいは悪夢が産声を上げようとしていた。
鏡の前には、二人の少女が陣取っていた。
一人は、原宿からそのまま抜け出してきたかのような、ゆめかわ系のゴスロリ衣装に身を包んだ小柄な少女、めぅ。彼女はうっとりと鏡の中の自分を見つめ、小さな声で、しかし確信に満ちた響きで呟いていた。
「めぅは、せかいいち可愛い……はゎゎ……。今日のステージで、みんなそれを知ることになるんだ……はゎゎ……」
その隣では、同じく漆黒のゴスロリ風衣装ながら、見る者を射抜くような鋭い視線を持つ少女、免田みんとがスマホの画面を睨みつけていた。
「ふん、まだデビューもしてないのに騒いでるの、物好きな連中だけじゃん。ま、いいけど。すぐに分からせてあげる。誰が本物で、誰が『ざぁこ』なのか」
生意気な口元が、小悪魔的な笑みを形作る。
部屋の隅では、対照的な静寂が満ちていた。
ショートの黒髪が凛とした印象を与える信貴みことは、壁に立てかけた布に包まれた長い得物――薙刀の傍らで、静かに目を閉じ、精神を統一している。武家の末裔としての誇りが、アイドルの楽屋という異質な空間においても彼女を孤高に保っていた。日本武道館への道、その第一歩を前に、彼女は己の魂を研ぎ澄ましているのだ。
その近く、まるで天井の染みか何かに擬態するかのように気配を消しているのは、現代風の忍装束を纏った白狼だった。彼女の視線は落ち着きなく、換気口の蓋やドアの蝶番、天井の梁といった、常人なら意にも介さない場所を絶えず観察している。忍びとして生き、唐突にアイドルの世界に放り込まれた彼女にとって、この喧騒はまだ慣れぬ戦場そのものだった。
ソファに深く腰掛け、手帳にペンを走らせているのは、柔らかいグレーのウェーブヘアに包帯が覗く、花文字 汎。彼女の視線は鋭く、そして冷徹に、他のメンバー一人ひとりの言動を記録していく。彼女にとってここは夢の舞台ではなく、暴くべき闇が渦巻く潜入現場だ。その美しい傷跡は、彼女がこれまでくぐり抜けてきた修羅場の証だった。
そんな緊張と喧騒が入り混じる中、一人だけ別世界の住人のように目を輝かせている少女がいた。
「わぁ……! プロデューサーさんからの差し入れですって! 見てください、お嬢ちゃんたち! キラキラしたマカロンですよ!」
大盛 繭は、差し入れの箱を宝物のように抱え、屈託のない笑顔を振りまいていた。その人形のように整った顔立ちと、雪のような白い肌は、この薄汚れた楽屋には不釣り合いなほどの神聖さを放っている。彼女の存在そのものが、周囲の空気を浄化していくようだ。だが、その純真無垢な魂が、世界の負のエネルギーを溜め込む爆弾であることなど、今は誰も知らない。
カチャリ、と。
まるで古い置き時計の針が動くような、場違いに静かな音を立てて、楽屋のドアが開いた。
そこに立っていたのは、プラチナブロンドの髪を無造作に流し、中性的な美貌を持つ男。この泥中の天使たちを束ねる、稀代のプロデューサー、饗庭 瞑(あえば めい)だった。
彼の登場で、楽屋の温度が数度下がったかのような錯覚に、少女たちは一斉に動きを止める。
「やあ、僕の天使たち。準備は順調かい?」
饗庭は、常に完璧な優雅さで微笑む。だがその瞳の奥には、神の視点にも似た冷徹な光が宿っていた。彼は一人ひとりの顔を慈しむように見渡し、そしてうっとりと息を吐いた。
「素晴らしい…。嫉妬、自己顕示欲、不安、希望、そして無垢な食欲…。色とりどりの感情が混ざり合い、最高の『物語』が生まれようとしている。実に美しい」
彼の言葉の意味を正確に理解できる者はいなかった。だが、その声には抗いがたい魔力がこもっている。
「君たち『NEPHILIM†DOLLS』は、ただのアイドルではない。天国(ステージ)から堕ちてきた、泥だらけの天使だ。完璧じゃないからこそ、傷つき、もがき、苦しむからこそ、その魂は宝石のように輝く。ファン(観測者)たちは、君たちのその『本物』の輝きにこそ熱狂する」
饗庭はゆっくりと歩みを進め、テーブルの上に一枚のフライヤーを置いた。そこには、今日の対バンライブに出演する他のグループの名前が、禍々しいフォントで印刷されている。
「さて、記念すべき最初の『試練』を発表しよう」
彼の声が、甘く、残酷に響き渡る。
饗庭は、楽しそうに目を細めた。
「今夜の観客は、すべて他のグループのファンだ。それも、熱狂的で、攻撃的で、排他的な……いわゆる『厄介オタク』と呼ばれる信者たちで埋め尽くされている。彼らにとって君たちは、愛する教祖のステージを汚す、不快な侵入者でしかない」
楽屋に、息を呑む音が響く。歓声ではなく、罵声と敵意の中で歌えというのか。
「これは、ただのライブではない。君たちがこれから紡いでいく、壮大な叙事詩の序章だ。敵意という名の荒波の中で、どれだけ多くの魂を己の信者として引き寄せられるか。最も多くのファンを、最も多くの魂を、この初陣で獲得した者こそが……」
饗庭はそこで言葉を切り、恍惚とした表情で続けた。
「……僕らの『NEPHILIM†DOLLS』、最初のセンターに立つ栄誉を手にする」
競争、嫉妬、闘争。それこそが少女たちを輝かせる触媒だと信じるプロデューサーは、悪魔のように優しく微笑んだ。
「さあ、最高の脚本を僕に見せておくれ。君たちだけの、泥まみれで、だからこそ美しい物語を。ステージの幕は、もうすぐ上がる」
第1クエスト:インディーズライブデビュー
薄暗いライブハウスの空気は、鉄錆と汗、そして狂信的なまでの熱気が混じり合った匂いで満たされていた。ステージ袖から覗く景色は、地獄の釜の底さながらだ。フロアを埋め尽くすのは、他の出演者の名を叫び、一心不乱に拳を突き上げる男たち。彼らはファンではない。信者だ。そして、これからステージに上がる『NEPHILIM†DOLLS』は、彼らの神域を荒らす異教徒に他ならなかった。
「……なるほど。これは想像以上ね」
楽屋での事前調査を終えた花文字 汎は、冷静に呟いた。彼女はライブ前、【潜入Lv2】と【トーク力Lv2】を駆使し、いくつかのグループの楽屋に顔を出していた。完全に打ち解けるには至らなかったものの、「今日一番厄介なのは『屍喰(しかばねぐい)団』のファン。通称『グールズ』。推し以外は石地蔵になる上に、少しでも気に入らないとSNSで徹底的に叩く」という貴重な情報を引き出すことには成功していた。
SEが鳴り響き、スモークが焚かれる中、6人の泥中の天使たちがステージに姿を現す。
案の定、先程までの熱狂が嘘のように、フロアは静まり返っていた。腕を組み、値踏みするような冷たい視線。スマホの画面に目を落とす無関心。これが【完全アウェイの洗礼】。
その氷のような沈黙を、最初に切り裂いたのは免田みんとだった。彼女は唇の端を吊り上げ、マイクを握りしめる。
「はぁ? なにそのつまんなそうな顔。あんたたち、もしかして本物のアイドルを見たことないの? 可哀想。あたしが教えてあげる。誰が本物で、誰が『ざぁこ』なのか!」
【挑発Lv2】。あまりにも無謀で、あまりにも直接的な宣戦布告。
地蔵と化していたグールズたちの眉が、ピクリと動く。「なんだ、あのクソガキ……」という侮蔑の視線が、無関心よりはるかにマシな熱量をもって、みんとに集中する。
みんとは怯まない。むしろ、その視線を待っていたとばかりに【小悪魔Lv3】の笑みを深める。彼女の魔眼【スキャンアイ】は、彼らの心の奥底にある「自分たちの推しこそ至高」という歪んだプライドと劣等感を正確に見抜いていた。その本音を的確に踏み抜くような挑発的なダンス。彼女の一挙手一投足が、観客の神経を逆撫でしていく。
「おい!」「舐めてんのか!」「帰れ!」
ついに、野次が飛び始めた。冷え切った会場は、一触即発の火薬庫へと変貌する。みんとは、その爆発寸前のエネルギーを浴びて、恍惚と笑った。彼女の【扇動Lv3】は、完璧に成功したのだ。
その瞬間、隣で震えているように見えた少女、めぅの瞳が、らんらんと輝きを放った。
「はゎゎ……みんな、めぅを見てる……!」
みんとが作り出した膨大な悪意と敵意。それは、めぅの魔人能力【被虐嗜好】にとって、極上のご馳走だった。野次を、罵声を、憎悪を、その小さな身体に浴びるたび、彼女のパフォーマンスは常軌を逸したキレを増していく。
「一番目立つのは、めぅだもん!」
【ワガママLv.1】でセンターに躍り出た彼女は、【打たれ強さLV.3】の精神で一切の悪意を意に介さず、ただひたすらに【可愛さLV.3】を振りまく。だが、その可愛さはもはや尋常ではない。憎悪を力に変える姿は、神々しくすらあり、観客たちは困惑した。
「……なんだあの子、ヤバいぞ」「罵声でイッてる顔してないか?」「でも……なんか、すげぇ……」
敵意は、いつしか畏怖と、倒錯した魅力へと変わり始めていた。
会場の混乱は、さらに加速する。
突如、メンバーの一人、白狼の姿がぐにゃりと歪んだ。次の瞬間、そこに立っていたのは、この日最も熱狂的なファンを持つグループ『屍喰団』のセンター、その人に瓜二つの姿だった。
【ご都合変幻自在主義】。
「なっ!?」「え、なんで〇〇様がここに!?」
グールズたちが騒然とする中、偽りのセンターは、【お色気の術Lv3】をまとわせた、本家よりも遥かに煽情的でセクシーなパフォーマンスを【身軽Lv3】で繰り広げる。
「偽物だ!」「いや、でも……めちゃくちゃエロい……」「これはこれでアリなのでは!?」
忠誠心と本能がせめぎ合い、観客席の統率は完全に崩壊。厄介オタクたちの脳は、未知の刺激によってショート寸前だった。
カオスが極まる中、不意に曲が止み、ステージは一度静寂に包まれた。
マイクを握ったのは、信貴みこと。薙刀の使い手である彼女は、この狂乱の中でも【凛々しいLv.2】姿を一切崩さない。
「皆様、本日はわたくしたち『NEPHILIM†DOLLS』のステージをご覧いただき、誠にありがとうございます」
その【礼儀正しいLv.3】挨拶は、煽りと混乱でささくれ立った観客の心に、清涼な水のように染み渡った。これまで好き放題に暴れていたメンバーの悪印象すら、彼女の品格が中和していく。
そして、彼女は歌い始めた。日本武道館へのひたむきな想いを【感情豊かLv.1】な歌声に乗せて。クライマックス、彼女の手のひらから純白の光が迸る。【LIGHT×LIVE×RIGHT】。その光は、会場に満ちた憎悪や欲望を洗い流し、観客の心に眠っていた純粋な「夢への憧れ」を呼び覚ました。
「……こいつら、本気だ」
誰かが、ぽつりと呟いた。それは、この日初めてNEPHILIM†DOLLSに向けられた、紛れもない敬意の言葉だった。
この奇跡のような逆転劇の裏には、常に笑顔を絶やさない少女、大盛 繭の存在があった。
彼女は【良心Lv1】を発動させ、徹頭徹尾、メンバーのサポートに徹していた。みんとが煽れば「みんとお嬢ちゃんは、皆さんと仲良くなりたいだけなんですよ!」と【解説Lv1】でフォローを入れ、めぅが前に出すぎればさりげなく立ち位置を修正し、白狼の奇策に観客が戸惑えば、誰よりも楽しそうな【笑顔Lv2】で「すごいでしょ!」とアピールする。彼女の純粋な「陽」のエネルギーが、グループの暴走をギリギリでエンターテイメントとして成立させていたのだ。カオスの中に一本、確かな光の柱を立てていたのは、間違いなく彼女だった。
ライブが終わり、熱気の残る物販コーナー。
そこに、めぅが【可哀想さLV.1】を発動させて売り子に立っていた。
「はゎゎ……めぅ、あんなに頑張ったのに……誰もグッズ、買ってくれないのかな……ぐすっ……」
さっきまでの狂気的なパフォーマンスとの凄まじいギャップ。その涙目の上目遣いに、脳を焼かれたグールズの一部が、抗いがたい庇護欲を刺激されてふらふらと財布を取り出していくのだった。
こうして、NEPHILIM†DOLLSの初陣は、伝説として幕を閉じた。
ライブ直後、SNSは「今日、ヤバい新人アイドルがいた」「屍喰団の偽物が出てきてクソ笑った」「なんかよく分からんけど泣いた」「とりあえず緑のメスガキとピンクの狂った子がヤバい」といった感想で溢れかえり、大きなバズを巻き起こす。この一夜の衝撃は、その後3ヶ月に渡って彼女たちの名を地下アイドルシーンに轟かせ続けることになるのだった。
幕間:加速する堕天の物語
伝説となったインディーズデビューライブから、3ヶ月。
世界は『NEPHILIM†DOLLS』という新たな熱病に罹患していた。
火付け役となったのは、白狼の獲得した【信者ファン】が運営するまとめブログ『堕天使速報』だった。あの夜の狂乱を克明に記録し、神格化に近いレベルで分析した記事は瞬く間に拡散された。
『【衝撃】屍喰団のセンターに化けた新人、あまりにもセクシーすぎる』
『【炎上必至】緑のメスガキ、観客全員に「ざぁこ」発言で大荒れ→なぜかファン急増』
『【新概念】罵倒されると輝くアイドル・めぅ様、マジでヤバい(褒め言葉)』
まとめブログは、メンバー一人ひとりの魅力を巧みに切り取り、消費しやすい「物語」へと仕立て上げた。白狼のミステリアスな変身能力、免田みんとの過激な挑発、めぅの倒錯したカリスマ、信貴みことの凛とした神聖さ、大盛 繭のグループを包む母性、そして花文字 汎の冷静な知性。それらはネットという培養地で爆発的に増殖し、彼女たちは瞬く間に地下アイドルシーンの頂点へと駆け上がっていった。
小さなライブハウスは常に追加公演となり、チケットは即日完売。みんとの「ざぁこ共!」という煽りはファンとのコールアンドレスポンスとして定着し、めぅが「はゎゎ…」と呟けばフロアから熱狂的な声援が飛んだ。彼女たちのパフォーマンスは、回を重ねるごとに洗練され、同時に危険な輝きを増していった。
そんなある日、レッスンを終えた彼女たちの前に、饗庭 瞑が姿を現した。
彼はスマホの画面に表示された『堕天使速報』の記事に満足げに頷くと、いつものように優雅な微笑みを浮かべた。
「素晴らしい。実に素晴らしいよ、僕の天使たち。君たちの『物語』は、僕の想像を遥かに超える速度で世界に浸食している」
彼はテーブルの上に、一枚の企画書を滑らせる。
そこに記されていたのは、大手レコード会社のロゴと、『NEPHILIM†DOLLS メジャーデビュー 1st Single』という文字だった。
「おめでとう。君たちの魂の輝きが、ついに世界に見出された。メジャーデビューが決定したよ」
歓声、息を呑む音、疑念の眼差し、そして野心に燃える瞳。六者六様の反応を、饗庭は恍惚と見つめていた。彼のシナリオは、最高の形で進行している。
第2クエスト:虚飾の祭壇で、本物を叫べ
そして、メジャーデビューシングルのMV撮影当日。
ロケバスが向かう先は、文明から切り離されたかのような深い森の奥。木々の隙間から、古びた石造りの建物が姿を現した。天を突く尖塔、蔦に覆われた壁、そしてその瞳のように穿たれたステンドグラス。廃教会だ。神に見捨てられて久しい、退廃と荘厳が同居するその場所は、まさに『NEPHILIM†DOLLS』という存在を象徴しているかのようだった。
「わぁ……! すごいですね、お兄ちゃん! 昔の人が、ここでお祈りをしていたのですね!」
大盛 繭が、子供のように目を輝かせる。その隣で、花文字 汎は鋭い視線で建物の構造を分析していた。何かを記録するライターの癖は、ここでも健在だった。
廃教会の内部は、ひんやりとした空気に満ちていた。埃っぽい匂いの中に、微かに香油の残り香が混じる。祭壇の前には、無数のケーブルと照明機材が持ち込まれ、神聖な空間を無機質な異物が汚していた。
「――ようこそ、君たちの新たな祭壇へ」
饗庭の声と共に、祭壇の影から一人の男がぬっと姿を現した。痩身で神経質そうに髪をかきむしり、血走った眼だけが異様な熱を帯びている。彼こそが、今回のMVを手掛ける、芸術家肌の変人として名高いPV監督だった。
監督はメンバーたちを一人ずつ、まるで品定めするかのようにじろじろと見回し、やがて満足げに頷いた。
「……いいね。壊し甲斐がありそうな、綺麗な瞳をしている。特に君」
監督の指が差したのは、前回のクエストを制し、センターに立つ白狼だった。彼女は動じることなく、その視線を真っ直ぐに受け止める。
饗庭が、愉悦を隠しきれない声で告げた。
「さて、僕の天使たち。メジャーデビューを飾る、栄光ある第二のクエストを発表しよう」
「今回のトラブルは二つ。まず、【監督の奇癖】。彼は『本物の感情のきらめき』を撮ることに、異常な執着を持っている。台本など無意味だ。彼は君たちの魂が最も激しく揺さぶられる瞬間を求めて、あらゆる無茶な要求を突きつけてくるだろう。それにどう応えるか、君たちの『本物』が試される」
監督が、にたりと笑う。「例えば…そうだな。今すぐここで、絶望して泣き叫んでみてくれないか?」その唐突な言葉に、メンバーたちの間に緊張が走る。
饗庭は構わず続けた。
「そして、二つ目のトラブルは【ワンカット撮影】。MVのクライマックス、この祭壇で行うダンスシーンは、一切の編集を許さない長回しのワンカットで撮影する。たった一人のミスが、全員の努力を水泡に帰す。一人の失敗は、全員の失敗だ。まさに、君たちの絆が試される運命共同体、というわけさ」
連帯責任。その甘美で残酷な響きに、少女たちの視線が交錯する。信頼、牽制、猜疑心。
「さあ、最高の脚本を見せておくれ」
饗庭は両手を広げ、まるで指揮者のように言った。
「この神聖なる廃墟で、君たちの最も醜く、最も美しい『感情』をぶつけ合うがいい。カメラは、君たちの魂の全てを記録する。最高の芸術を、共に創り上げようじゃないか」
第2クエスト:虚飾の祭壇で、本物を叫べ
廃教会に、芸術家の怒声が響き渡った。
「違う! 違う! そんな上っ面だけの感情じゃない! 僕が欲しいのは魂の叫びだ! 君の奥底にある、ドロドロした絶望を見せろ!」
PV監督は髪をかきむしり、血走った眼で少女たちを睨めつける。撮影は開始早々、暗礁に乗り上げていた。【監督の奇癖】は、想像以上に厄介だった。
その混沌の渦中、白狼は冷静に動いていた。撮影準備の喧騒に紛れ、【身軽Lv3】でスタッフから情報を引き出す。「監督は、かつて自身が手掛けた伝説のソロアイドル『月詠しずく』に心酔している」という決定的な情報を掴むと、彼女は確信を持って行動に移った。監督の前に立った彼女の姿が、陽炎のように揺らめく。次の瞬間、そこにいたのは、儚さと狂気を宿した瞳を持つ『月詠しずく』その人だった。【ご都合変幻自在主義】と【お色気の術Lv3】の合わせ技。監督の息を呑む音が、静かな教会に響いた。彼は己の神が降臨したかのような錯覚に陥り、食い入るようにカメラのモニターを見つめ始めた。
その一方で、めぅは不満を募らせていた。
「ねぇ、白狼お嬢ちゃん。めぅに変身してよぅ。かわいいめぅが二人になれば、もっといい映像になるのに、はゎゎ……」
【ワガママLv.1】と【可哀想さLV.1】を駆使した要求。しかし、白狼は『月詠しずく』として監督の心を掴むことに集中しており、その声は届かない。意図せぬ無視は、めぅの魔人能力【被虐嗜好】のスイッチを押した。拒絶された悲しみと屈辱が、彼女の瞳に妖しい光を宿らせる。
「はっ、なーに生温いことやってんの。監督さんが欲しいのは、こういうことでしょ?」
免田みんとが、悪戯っぽく笑った。彼女の【スキャンアイ】は、監督の欲望――「少女たちの衝突、葛藤、その果てに生まれる本物の輝き」を正確に読み取っていた。彼女はあえてメンバー間の空気をかき乱すように【挑発Lv2】の言葉を投げかけ、グループ全体のパフォーマンスを【扇動Lv3】でギリギリの極限状態へと導いていく。
「センターが偽物やってる間に、あたしが主役、貰っちゃうから」
その言葉は、センターである白狼だけでなく、他のメンバーの自尊心をも的確に刺し貫いた。
そんな一触即発の空気の中、信貴みことは一人、己の道を貫いていた。監督から「愛する者を失った悲しみを表現しろ」と無茶ぶりされれば、薙刀の道で挫折した過去を【感情豊かLv.1】に表現し、静かな涙を流す。その【凛々しいLv.2】姿と、どんな時も崩れない【礼儀正しいLv.3】態度は、崩壊寸前の現場における唯一の良心であり、精神的な支柱となっていた。
大盛 繭もまた、彼女らしくこの状況に立ち向かおうとしていた。
「監督さん! 難しそうだけど、なんだかワクワクしますね!」
【好奇心Lv2】からくる純粋な言葉と、曇りのない【笑顔Lv2】。だが、今の監督が求める「葛藤」とは真逆のその輝きは、彼の心には響かなかった。「君はいいね。でも、僕が今欲しいのは光じゃない。光を生み出すための、深い深い闇なんだ」と、彼は残酷に言い放った。
そして、運命の【ワンカット撮影】が始まった。
祭壇に並び立つ6人。みんとの扇動で極限まで高められた緊張感が、廃教会を満たす。1テイク、2テイク……。誰かの僅かな振りのズレ、表情の硬さで、監督の「カット!」という声が響き、全てがやり直しとなる。
10テイクを超えた頃、事件は起きた。
疲労とプレッシャーの中、焦っためぅの足が、僅かにもつれた。完璧なフォーメーションに生まれた、一瞬の乱れ。
「――いい加減にしろッ!!」
声の主は、花文字 汎だった。
次の瞬間、乾いた音が教会に響き渡った。汎の振り抜いた手が、めぅの頬を捉えていたのだ。【暴力Lv2】。カメラが回っている、その目の前で。
スタッフが凍りつき、饗庭の口元だけが愉悦に歪む。
だが、誰もが息を呑んだのはその次の瞬間だった。汎の魔人能力【キャモ・フラジュラン】が発動する。打たれためぅの白い頬には、醜い痣ではなく、まるで砕けた宝石を散りばめたような、あるいは一筋の涙が凍りついたかのような、悲しくも美しい傷跡が浮かび上がっていた。
そして、打たれた衝撃とめぅ自身の【被虐嗜好】が臨界点を突破する。彼女の瞳から大粒の涙が溢れ、その表情は被虐の恍惚と悲壮な美しさが混じり合った、神がかったものへと変貌していた。
「……これだ」
監督が、震える声で呟いた。
「これだ! これだよ! 僕がずっと見たかった『本物』の感情はッ! カメラを回し続けろォ!!」
この一撃が、全ての化学反応を引き起こした。
突然の暴力に驚愕し、純粋な瞳を潤ませる大盛 繭。
自らが引き起こした悲劇を冷徹に見つめながらも、その傷跡の美しさに官能的な表情を浮かべる花文字 汎。
「ほらね、最高にキマったでしょ?」と、全てを計算していたかのように不敵に笑う免田みんと。
仲間が傷つけられた怒りを内に秘め、それでも毅然と前を見据える信貴みこと。
この悲劇の主人公は自分だとばかりに、恍惚と絶望の涙を流すめぅ。
そしてセンターとして、この全ての悲劇と美しさを一身に背負い、神々しいまでのオーラを放つ偽りのアイドル、白狼。
六人六様の「本物の感情」が爆発した奇跡のワンカット。
それは後に、アイドル史に残る伝説のMVとして、世界に配信されることになるのだった。
幕間:信仰の値段
伝説のMVは、社会現象となった。
『NEPHILIM†DOLLS』の名は、もはや地下アイドルの枠を遥かに飛び越え、テレビ、雑誌、ネットニュースを席巻する巨大なアイコンと化していた。
特に、世間の度肝を抜いたのは、花文字 汎がめぅの頬を打った「あのワンシーン」だ。
放送倫理委員会からクレームがつき、一部の保守的なメディアからは「過激すぎる」と批判されたが、若者たちはその逆張りこそを支持した。あの暴力は、予定調和を破壊する「本物」の衝撃だった。
花文字 汎は「美しき加虐者」、めぅは「被虐の聖女」として神格化され、二人を描いたファンアートがネット上に溢れかえった。特に、汎の獲得した【絵師】ファンが描く、悲壮感と官能性に満ちたイラストは絶大な人気を博し、「#汎めぅは概念」というハッシュタグがトレンドを独占した。
音楽番組の楽屋。
収録を終えたメンバーたちは、スマホの画面に映る自分たちの狂騒を、三者三様の表情で見つめていた。
「はゎゎ……めぅ、こんなに綺麗に描いてもらえてる……。汎お嬢ちゃんに打たれた甲斐があったはゎ……」
めぅはうっとりと、自分と汎が描かれた耽美なイラストを眺めている。
「ふん、あんたが勝手にコケただけでしょ。ま、結果的にあたしの筋書き通りになったんだから、感謝しなさいよね、ざぁこ」
免田みんとが鼻を鳴らす。彼女の言葉はいつも通り棘々しいが、その瞳には自らが演出した状況への満足感が滲んでいた。
少し離れた場所で、当の花文字 汎は、雑誌のインタビュー記事に目を通していた。そこには「暴力性すらアートに昇華する孤高のカリスマ」という、自分でも眩暈がするような見出しが躍っている。
(……馬鹿馬鹿しい。ただ、最も効率的だっただけだ)
冷めた本心とは裏腹に、世間が作り上げた「花文字 汎」という虚像は、勝手に一人歩きしていく。それが不快であり、同時に有利な武器であることも彼女は理解していた。
そんな中、センターである白狼の周辺では、不可解な現象が起きていた。
彼女のファンレターには、差出人不明の高級時計や宝石が紛れ込み、所属事務所には「白狼個人の等身大純金像を建立したい」というアラビア語の問い合わせが届く。その全ては、白狼が新たに獲得した【石油王】ファンの仕業だったが、当の本人はどこ吹く風だ。
「皆が私を求めている。当然のことだ」
彼女はただ静かに、次のステージを見据えている。その揺るぎない自信こそが、彼女をセンターたらしめているのだ。
対照的に、大盛 繭の心には、小さな影が落ちていた。
テレビに映る自分は、いつも驚いたり、心配そうに眉を寄せたりしているだけ。それが「NEPHILIM†DOLLSの良心」だと評価する声もあるが、他のメンバーのような熱狂的な「信者」を生み出せていない事実に、彼女は焦りを覚えていた。
(私の笑顔は……私の良心は、この世界では無力なのでしょうか……)
隣では、信貴みことが背筋を伸ばし、黙々と薙刀の素振りをしている。どんなに環境が変わろうと、彼女は己の武道を、己の信じる道を曲げない。その姿は繭にとって眩しく、そして少しだけ遠く感じられた。
その時、楽屋のドアが静かに開いた。
饗庭 瞑が、悪魔的な笑みを浮かべて立っている。
「やあ、僕の売れっ子たち。世間の熱狂は、実に心地いいね」
彼は手に持ったタブレットをテーブルに置いた。画面には、オリコンチャートの1位に輝く『NEPHILIM†DOLLS』のジャケット写真が表示されている。
「君たちの第2シングルも、無事、神話の仲間入りを果たした。そして……この熱狂を、次の次元へと昇華させる時が来た」
饗庭が指をスライドさせると、画面が切り替わる。そこに表示されたのは、巨大なイベントホールの見取り図と、おびただしい数の待機列のシミュレーション画像だった。
「第3クエスト:初めての握手会」
その言葉に、メンバーたちの空気が変わる。
これまで画面越しだったファンと、直接対峙する。彼らの体温を、視線を、言葉を、その手で受け止めるのだ。
「勘違いしないでくれたまえ。これはファンサービスなどではない。君たちの『価値』が、最も残酷な形で可視化される審判の場だ」
饗庭の声は、愉悦に震えていた。
「握手券とは、信仰の証。ファンの列の長さは、君たちが集めた信仰心の総量そのものだ。目の前の信者から、どれだけ多くの情念を、渇望を、そして『魂』を引きずり出せるか。彼らの人生を、君の色に染め上げられるか」
「メディアが作った虚像ではない、剥き出しの君たち自身が試される。さあ、準備はいいかい?」
彼は祭壇に生贄を捧げる神官のように、厳かに告げた。
「虚飾を剥がされ、信仰の俎上に載せられる気分はどうだい? 最高のショーの幕開けだ」
第3クエスト:信仰の値段
イベントホールの巨大な空間は、おびただしい数の人間の熱気で満ち満ちていた。
NEPHILIM†DOLLS、初の握手会。その幕開けは、白狼の【信者ファン(まとめブログ管理人)】による大々的な事前宣伝によって、狂乱と呼ぶにふさわしい様相を呈していた。何千というファンが、たった数秒の触れ合いを求めて、この地に集結したのだ。
その中でも、ひときわ異彩を放っていたのが二つのレーンだった。
一つは、会場の端から端まで届きそうな長蛇の列を形成する、センター・白狼のレーン。そしてもう一つは、「#汎めぅは概念」というネット上の熱狂を現実世界に具現化させた、花文字 汎とめぅのペアレーンだ。これは、めぅが【ワガママLv.1】で運営にねじ込んだ結果だった。
「はゎゎ……すごい列……。みんな、汎お嬢ちゃんとめぅに会いに来てくれたんだ……」
めぅが恍惚と呟く。その隣で、花文字 汎は冷静に、流れてくるファン一人ひとりの顔を【記憶力Lv2】で焼き付けていた。
握手会が始まると、そこはまさしく信仰の可視化、人気の格付け会場と化した。
免田みんとのレーンは、熱狂的な信者の巣窟だった。
「ちょっと! あんたたち! 一番イケてるあたしのレーンがこんなに短いわけないでしょ! 隣の奴らよりあたしの方が可愛いって、分からせてあげなさいよ!」
【扇動Lv3】によるアジテーションが、まだ迷っていたファンたちの足を彼女の元へと向かわせる。握手ブースに入れば最後、【小悪魔Lv3】の魅力と、「あんた、あたしのことだけ考えてればいいのよ、ざぁこ」という【挑発Lv2】の囁きで、ファンは骨抜きにされていく。彼女はファンの心を支配し、忠誠を誓わせていた。
信貴みことのレーンは、他の喧騒が嘘のように、静かで神聖な空気に包まれていた。彼女は訪れる全てのファンに【凛々しいLv.2】表情と【礼儀正しいLv.3】姿勢を崩さない。そして、握手したその手は、彼女の魔人能力【LIGHT×LIVE×RIGHT】によって淡い光を放つ。
「……!?」
ファンは言葉を失う。アイドルの手から伝わるのは、ただの温もりではない。純粋な感謝と喜びの感情そのものだ。彼らはまるで浄化されたかのようにブースを後にし、そして再び列の最後尾に並び直す。彼女のレーンは、見た目の長さ以上に、驚異的なリピート率を誇っていた。
そして、最も異質だったのが大盛 繭のレーンだった。
「――それで、お兄ちゃんのお仕事のお悩みは……なるほど、人間関係ですね。でしたら、私の【パトロンLv3】に人事コンサルタントのプロがいるので、今すぐ繋いでみます!」
彼女は【良心Lv1】のままに、握手会を「お悩み相談所」へと変貌させていた。ファン一人ひとりと真剣に向き合い、【好奇心Lv2】で話を聞き、【解説Lv1】で的確なアドバイスを送る。時にはスマホを取り出し、その場で【名家Lv2】の人脈を駆使して問題解決に乗り出す。
回転率は、絶望的に悪い。列はメンバーの中で最も短い。しかし、彼女のブースから出てくるファンは皆、涙を流して感謝し、人生を救われたかのような表情を浮かべていた。彼らはもはやファンではない。生涯を捧げる「信者」となっていた。
だが、この日の主役は、やはりセンター・白狼だった。
彼女のレーンは、まさにエンターテイメントの奔流だ。【配慮力Lv3】でファンの望みを瞬時に察知し、【ご都合変幻自在主義】でそのファンの「一番の推し」――それが他のアイドルであろうと、アニメキャラであろうと――に完璧に変身して見せる。
「〇〇(別グループのアイドル)の姿で『愛してる』って言ってください!」
「お安い御用だ」
その神対応にファンは絶叫し、失神寸前だ。さらに【身軽Lv3】を活かしたアクロバティックなパフォーマンスで、長い待ち時間すらファンを飽きさせない。圧倒的な女王の風格。その列の長さは、揺らぐことがなかった。
事件が起きたのは、中盤に差し掛かった頃だった。
ペアレーンの隣、白狼の圧倒的な人気を目の当たりにしためぅが、焦りと嫉妬から計画を実行に移す。
「はゎゎ……! み、皆さん、聞いてください……! 白狼お嬢ちゃん、お仕事に武器を持ってきてるんです……! めぅ、怖くて……!」
唐突な【可哀想さLv1】アピール。会場がざわつく。めぅの視線の先には、確かに白狼の腰に下げられた、忍装束に隠れた小さな膨らみ――【飛苦無Lv1】があった。
「武器!?」「マジかよ……」「物騒すぎるだろ……」
ファンが動揺し、スタッフが慌てて駆け寄ろうとした、その瞬間。
「――めぅちゃんたら、また面白い冗お上手ですね」
静かな声が、マイクを通して響いた。花文字 汎だった。
彼女はめぅの肩を優しく抱き寄せ、ファンに向かって艶然と微笑む。
「この子ったら、いつもこうやって私を困らせるんです。可愛いでしょう?」
そして、めぅの頬に残る【傷跡】をそっと指でなぞりながら、囁いた。
「それとも、私がつけたこの傷が、また新しいお話を欲しがっているのかしら?」
【トーク力Lv2】による完璧な状況操作。暴力沙汰寸前の緊張は、一瞬にして「#汎めぅ」の新たな燃料へと変換された。ファンは「てぇてぇ……」「今のヤバい……」と、別の意味で興奮の坩堝と化す。めぅの妨害は、【被虐嗜好】が満たされる前に、完璧に鎮圧されたのだ。
その喧騒の最中も、汎の目は冷静に白狼のレーンを観察していた。ひときわ厳重な警備に守られた異様なオーラを放つ男、そして周囲のファンに指示を出すカリスマ的な雰囲気の女。あれが【石油王】と【ブログ管理人】に違いない。汎は彼らの顔、服装、仕草のすべてを【記憶力Lv2】に刻み付けた。
(……握手会の後が、本当の仕事だ)
彼女は、次の【潜入】計画に思考を巡らせていた。
幕間:亀裂のプレリュード
握手会という名の審判を経て、NEPHILIM†DOLLSという神話は、より強固で、より残酷なピラミッドを形成していた。
頂点に君臨するのは、絶対王者・白狼。彼女の周囲には、新たに獲得した【トップオタ】が組織した親衛隊が常に壁のように控え、その威光はもはや他のメンバーを寄せ付けないほどのものとなっていた。
そのすぐ下で、虎視眈々と牙を研ぐのが花文字 汎だ。彼女の戦場は、もはやステージの上だけではなかった。楽屋の隅、移動中の車内、彼女は常にスマホの画面を睨み、白狼の【信者ファン】たちのSNSを監視し、その行動パターンを分析していた。彼女の【潜入】は、既に始まっているのだ。
「あんたのやり方は生温いのよ。ファンは浄化されたいんじゃない、支配されたいの」
雑誌の対談企画で、免田みんとが信貴みことに言い放つ。
「わたくしは、そうは思いません。信頼とは、敬意から生まれるものです」
信貴みことは、静かに、しかし決して譲らない。二人の道は、交わることのない平行線だ。
そんな中、グループ内には二つの歪みが生まれていた。
一つは、花文字 汎の影のように付き従うめぅの存在。握手会での一件以来、彼女はすっかり汎に萎縮し、その許可なく口を開くことすらなくなった。だが、飼い慣らされたペットのようなその瞳の奥では、屈辱と羨望の炎が静かに燻っていた。
そしてもう一つは、大盛 繭の孤立だった。
握手会での「お悩み相談所」は、ネットの一部で『救済アイドル・マユエル様』などとカルト的な話題を呼んだものの、ファン総数という絶対的な指標の前では惨敗だった。
公園のベンチで、ファンから届いた「繭さんのおかげで、会社を辞めずに済みました」という手紙を握りしめ、彼女は空を仰ぐ。
(私は、間違っていたのでしょうか……。誰かを笑顔にしたい、助けたい……その気持ちだけでは、ここでは生き残れないの……?)
その純粋すぎる魂は、勝利を至上とするこの世界の摂理との間で、引き裂かれそうになっていた。
そんな亀裂が深まるグループに、饗庭 瞑は新たな試練を投げかける。
「おめでとう、僕の天使たち。君たちは、国内最大級の野外音楽フェス『GEHENNA ROCK FES』への出演が決定した」
地獄の名を冠した、灼熱のステージ。数万の観客が、熱狂と狂乱に身を焦がす場所。
「君たちの神話は、巨大なビジネスになった。だが忘れるな。ビジネスの頂点に立つ者は、常に一人だ。他の者たちは、その礎となるための生贄に過ぎない」
饗庭は、残酷な真実を砂糖菓子のように甘く囁く。
そして、フェス当日。
照りつける太陽が、巨大な会場の空気を焦がしていた。数キロ先まで続くフードエリアの煙、無数のバンドのサウンドチェックが混じり合った混沌の音。その熱気に、メンバーたちのテンションも否応なく高まっていく。
「すごい人……! みんな、楽しそうですね!」
久々に屈託のない笑顔を見せる大盛 繭。その隣で、白狼は親衛隊に守られながら、女王のように悠然と構えている。
ステージ開始まで、あと30分。
衣装に着替えるため、専用のコンテナハウス楽屋に戻った彼女たちを待っていたのは、絶望的な光景だった。
「――ない」
最初に気づいたのは、信貴みことだった。
メンバー全員分のステージ衣装が保管されていたはずの、頑丈な衣装ケースが、もぬけの殻になっていたのだ。
「嘘……でしょ?」
「どこにもないわ!」
「まさか……盗まれた?」
パニックが伝染する。誰が? いつ? 何のために?
メンバーたちの視線が、互いを疑うように交錯した。外部の犯行か? それとも、この中に……誰かを蹴落とすために、こんな卑劣な手を使った裏切り者がいるのか?
コンテナハウスのドアが開き、饗庭が顔を覗かせる。
彼は空の衣装ケースを一瞥し、そして――歓喜に打ち震えるかのように、その口元を歪めた。
「素晴らしい……! なんて劇的な展開だ……!」
彼は絶望する少女たちに、悪魔のように告げた。
「クエスト4:衣装盗難事件」
「持ち時間は厳守だ。他の出演者もいる。ステージの開始を遅らせることは、絶対に許されない」
タイムリミットは、あと25分。
ステージ衣装という鎧を剥がされた、裸の天使たち。
「さあ、どうする? この絶望的な状況で、君たちはどんな『本物』の輝きを見せてくれるんだい?」
「最高のステージを、期待しているよ」
疑心暗鬼と焦燥が渦巻く中、運命のカウントダウンが始まった。
第4クエスト:裸のステージで、魂を晒せ
灼熱の太陽が照りつけるフェス会場。だが、NEPHILIM†DOLLSの楽屋コンテナだけは、氷点下のような空気に支配されていた。
もぬけの殻となった衣装ケース。タイムリミットまで、あと20分。
疑心暗鬼が少女たちの心を蝕んでいく。誰もが口には出さないが、頭の中では同じ問いが渦巻いていた。「――この中に、裏切り者がいるのか?」
「落ち着け! まずは状況を整理する!」
白狼が【配慮力Lv3】で場を収めようとするが、その声は空しく響くだけだった。彼女の【石油王】への連絡も、スタッフへの交渉も、この絶望的な時間制限の前では無力だった。
「汚い……流石忍者汚い」
楽屋の隅で、めぅがボソリと呟いた。その毒に満ちた言葉は、白狼の胸に突き刺さる。花文字 汎の冷静な聞き取り調査を、めぅは自分に都合の良い「白狼犯人説」の証拠として解釈し、憎悪の炎を燃やしていたのだ。
「この程度のトラブルで潰れるタマじゃないでしょ、あたしたちは!」
免田みんとが【挑発Lv2】で叫ぶ。それは、崩壊寸前のグループを無理やり一つの方向――闘争へと向かわせる劇薬だった。
その時、これまで静かに状況を見つめていた花文字 汎が、静かに口を開いた。
「……時間がない。衣装が見つからないなら、衣装よりも美しいもので、肌を飾ればいい」
彼女の瞳には、冷たい狂気が宿っていた。
「私が、皆に傷をつける。私の【キャモ・フラジュラン】なら、それは醜い傷跡ではなく、至高の装飾になる。さあ、めぅ。手伝いなさい。私の背中に、最初の傷を刻んで」
その言葉に、メンバーは絶句する。だが、めぅだけが恍惚とした表情で立ち上がった。汎との共犯関係。その倒錯した美学が、彼女を突き動かす。
――その狂気の儀式が始まる、まさにその寸前だった。
バタン!とコンテナのドアが乱暴に開け放たれた。
「お嬢様! お待たせいたしました!」
息を切らして立っていたのは、燕尾服を纏った老執事。その後ろから、スタッフたちが雪崩れ込むように巨大な衣装ケースを運び込んでくる。大盛 繭の【パトロンLv3】、その切り札が土壇場で発動したのだ。
「代わりのお召し物を、考えつく限りご用意いたしました!」
ケースが開けられる。だが、そこにあったのは、グループのコンセプトであるゴシックな統一衣装ではない。ロックTシャツ、パンクファッション、チャイナドレス、ナース服……統一感ゼロの、コスプレ衣装の山だった。
「……これしか、ないのね」
花文字 汎が、つまらなそうに呟いた。時間は、もうない。
覚悟を決めた少女たちは、無言で、目の前の衣装を手に取った。
そして、運命のステージの幕が上がる。
数万の観客が固唾を呑んで見守る中、ステージに現れたのは、あまりにもちぐはぐな格好の6人だった。
「え……?」「何かの演出?」
会場が騒然とする中、ロックTシャツ姿の信貴みことがマイクを握った。
「本日は、我々の不手際により、このような姿でステージに立つことを、心よりお詫び申し上げます」
【礼儀正しいLv.3】の真摯な謝罪。その潔さに、観客席から「気にすんなー!」という温かい声が飛んだ。
その声を合図に、音楽が爆発した。
「今日だけのお祭りです! 皆さん、盛り上がっていきましょう!」
Tシャツにホットパンツというラフな姿の大盛 繭が、【笑顔Lv2】で叫ぶ。彼女こそが、この危機を救った女神だった。その太陽のような笑顔が、トラブルという暗雲を吹き飛ばしていく。
「こんな格好でも、あたしたちが一番だって、証明してあげる!」
パンクファッションの免田みんとが【扇動Lv3】で叫び、観客のボルテージを極限まで高めていく。
信貴みことは、衣装がない悔しさを赤い【LIGHT×LIVE×RIGHT】の光に変え、魂のパフォーマンスを叩きつける。
私服のゴスロリでステージに立っためぅは、センターで艶然と微笑むチャイナドレス姿の白狼への憎悪を【可愛さLV.3】の仮面の下で燃やし、鬼気迫るパフォーマンスを見せた。
ナース服姿の花文字 汎は、手にした注射器の小道具をマイクのように構え、冷たい笑みで観客を挑発する。その姿は、白衣の天使ではなく、狂気の断罪人だった。
そして、センター・白狼。
このカオスな状況ですら、彼女は女王だった。艶やかなチャイナドレスを身に纏い、【お色気の術Lv3】と【ご都合変幻自在主義】で、観客一人ひとりの欲望を的確に撃ち抜いていく。どんな衣装を着ようとも、センターは自分だと証明するかのように。
それは、NEPHILIM†DOLLS史上、最も奇妙で、最も伝説的なステージとなった。
不揃いな衣装は、逆に彼女たち一人ひとりの個性を際立たせ、「トラブルすら伝説に変えるアイドル」として、その名をフェスに刻み付けたのだ。
特に、この危機を物理的に救い、ステージを最高の「祭り」へと昇華させた大盛 繭の存在は、「グループの心臓」「最後の聖女」としてSNSで爆発的に拡散され、新たな信者を獲得することになるのだった。
幕間:見えざる敵意
GEHENNA ROCK FESでの「衣装盗難事件」は、結果としてNEPHILIM†DOLLSの神話をさらに強固なものにした。
トラブルを伝説に変える即興性、どんな衣装でも輝ける個性の爆発。メディアは彼女たちを絶賛し、特にグループの危機を救った大盛 繭は「奇跡の聖女」として特集記事が組まれるほどだった。
「繭さん、すごかったですね! あの時の笑顔、最高でした!」
ファンレターを読みながら、繭は久しぶりに心からの笑みを浮かべていた。自分の信じるやり方が、ようやく認められた。その事実は、彼女に大きな自信を与えていた。
だが、水面下では、見えざる亀裂が静かに、そして確実に広がっていた。
「……犯人は、本当に外部の人間だったのかしら」
楽屋の隅で、花文字 汎がポツリと呟く。彼女の鋭い視線は、何も知らないふりをして談笑するメンバーたちを観察していた。彼女の疑念は晴れていない。このグループの中にいる「敵」の正体を、彼女は執拗に追い続けていた。
白狼の焦りは、誰の目にも明らかだった。
フェスでの一件以降、彼女はレッスンに鬼気迫るほどの集中力で臨むようになった。センター権の力で勝利を続けてはいるが、素点では大盛 繭に敗北した。その事実が、絶対女王のプライドを深く傷つけていたのだ。
「次のステージで、私が本物のセンターだと、改めて証明しなければ……」
彼女の傍らには、【繋がり】を持つ信者ファンからもたらされた、数々のテレビ番組出演や雑誌の単独表紙のオファー企画書が積まれている。だが、彼女が求めているのは、そんな業界の忖度ではない。圧倒的な実力による、完全なる勝利だった。
そんなある日、饗庭 瞑が、新たな企画書を手に楽屋へ現れた。
その顔には、いつも以上に愉悦の色が濃く浮かんでいる。
「やあ、僕の可愛いスキャンダルたち。君たちの人気は、ついに禁断の果実にまで手を伸ばすことを許されたようだ」
彼が差し出した企画書には、禍々しいフォントで『ハイエナTV』と記されていた。
「ハイエナTV……あの、どんな相手でも徹底的に追い詰めて、炎上させることで有名な……」
信貴みことが、眉をひそめる。
『ハイエナTV』は、登録者数1000万人を超える超人気動画チャンネルだが、その手法は極めて悪質だ。ターゲットの僅かな失言や過去を徹底的に暴き、編集の力で悪意あるスキャンダルに仕立て上げ、視聴者の憎悪を煽って再生数を稼ぐ。これまで何人もの芸能人が、彼らの毒牙にかかって社会的に抹殺されてきた。
「素晴らしい舞台だとは思わないかい?」
饗庭は、うっとりと目を細めた。
「炎上とは、最も効率的なプロモーションだ。大衆は、清廉潔白な聖人よりも、泥にまみれてもがく罪人の方を好む。君たちの『物語』に、新たな葛藤と試練のスパイスを加える時が来たのさ」
そして、運命のコラボ配信当日。
ハイエ-ナTVのスタジオは、高級機材が並ぶ一方で、どこか薄汚れていて生臭い空気が漂っていた。壁には、彼らが過去に「喰らった」芸能人たちの苦悶の表情を切り取った写真が、戦利品のように飾られている。
「どうもー! ハイエナTVでーす! 今日のゲストは、今をときめく超人気アイドル、NEPHILIM†DOLLSの皆さんでーす! よろしくお願いしまーす!」
ハイエナ、と名乗る配信者の男が、わざとらしい笑顔と大声で彼女たちを迎える。だが、そのカメラが回っていない瞬間の瞳は、獲物を値踏みする肉食獣のように冷たく、いやらしかった。
「今日は皆さんの魅力を、根掘り葉掘り聞いちゃいたいと思いまーす!」
饗庭との打ち合わせでは、「当たり障りのない質問で、グループの魅力を紹介する」という内容だったはずだ。だが、メンバーたちはこのスタジオに渦巻く悪意を、肌で感じ取っていた。
配信が始まり、和やかな(ふりをした)トークが続く。
そして、ハイエナがにやりと笑い、一枚のフリップを掲げた。
「さあ、それではお待ちかね! NEPHILIM†DOLLSの全てを丸裸に! 【NG無し!禁断の質問コーナー】!」
その言葉に、メンバーたちの表情が凍りつく。
聞いていない。これは、台本になかったコーナーだ。プロデューサーの、饗庭の仕込みだ。
ハイエナの瞳が、ギラリと光る。
「さーて、記念すべき最初の質問は、匿名希望のタレコミ情報から! 『メンバーの中に、他のメンバーの衣装を盗んだ犯人がいるって、本当ですか?』……さあ、答えてもらいましょうか!」
カメラが、恐怖と疑心暗鬼に揺れる6人の顔を、アップで捉える。
逃げ場はない。ここは、生放送の断頭台。
言葉一つで、仲間を売ることも、自らが炎に焼かれることもあり得る、絶望的な尋問が始まった。
第5クエスト:炎上系コラボ配信
ハイエナTVのスタジオは、一瞬にして凍りついた。
『メンバーの中に、衣装を盗んだ犯人がいるって、本当ですか?』
配信者ハイエナが掲げたフリップの文字は、悪意そのものだった。コメント欄が爆発的な速度で流れ、好奇心と憎悪が渦を巻く。
「はっ、あんたたちみたいな炎上しか能のない連中が、好きそうなネタね」
最初に沈黙を破ったのは、免田みんとだった。彼女は不敵な笑みを浮かべ、カメラを真っ直ぐに見据える。【挑発Lv2】。
「そんなタレコミ、どうせざぁこの嫉妬でしょ? あたしたちの仲を、あんたなんかに壊せると思ってんの?」
彼女の【小悪魔Lv3】的な態度は、視聴者の【扇動Lv3】を狙ったものだ。炎上を恐れるどころか、自ら油を注ぎ、その炎の中心で踊ることを選んだのだ。
「皆様、お騒がせしております。我々の間に、そのような不和は断じてございません」
信貴みことが、深く頭を下げる。【礼儀正しいLv3】。その【凛々しいLv2】姿は、みんとの挑発とは対照的に、場の空気を鎮静化させようとする。
だが、その僅かな均衡は、次の瞬間、最もか弱いと思われた少女によって、木っ端微塵に粉砕された。
「……犯人は、そこにいるじゃないですか」
震える声で呟いたのは、めぅだった。彼女の指は、真っ直ぐに絶対王者・白狼を指差していた。
「はゎゎ……白狼お嬢ちゃんが犯人です……。だって、忍者は汚いもん……! 女忍者は男を誑かす術を習うって言うし……! めぅは、被害者なんです……!」
【可哀想さLV.1】を極限まで高めた、狂気の告発。もはや放送事故だ。スタジオは静まり返り、スタッフは顔面蒼白になっている。
めぅは止まらない。その矛先は、隣に座る花文字 汎にも向けられた。
「それに、汎お嬢ちゃんだって……いつもめぅを叩くし……! あれは能力の暴走なんです! あの傷跡は、その証拠なんです!」
自爆テロ。グループの秘密を、最も醜い形で公衆の面前に引きずり出したのだ。めぅの瞳は、憎悪と【被虐嗜好】の快感に濡れていた。
「――めぅちゃん、少しお疲れのようね」
この地獄のような空気の中、花文字 汎の声だけが、氷のように冷静だった。彼女はめぅの暴言を柳に受け流し、ハイエナに向き直る。
「面白いお話ですね。ですが、衣装盗難の件については、私も独自に調査を進めていまして。いくつか『物証』も手元にございますの。あなたの言う『タレコミ』と、どちらが信憑性があるか、比べてみますか?」
【トーク力LV2】と【潜入Lv2】で掴んだ情報の存在を匂わせる、完璧なカウンター。めぅの告発は、根拠のない妄言へと一気に格下げされた。汎は、この情報戦を完全に支配していた。
白狼は、顔面蒼白のまま、何も言えずにいた。めぅの個人攻撃はあまりに的確で、彼女の思考を停止させた。頼りの【ご都合変幻自在主義】も、この状況では何の役にも立たない。絶対女王が、初めて見せた完全な隙だった。
そして、ついに最後の聖女が動いた。
これまで黙って成り行きを見守っていた大盛 繭が、ふわりと微笑む。だが、その瞳の奥には、これまで誰も見たことのない、冷たい怒りの光が宿っていた。
「ハイエナさん」
彼女は、ハイエナの名前を呼んだ。
「匿名のタレコミ、ですって? 面白いですね。実はわたくしも、匿名の方から面白い情報をいただきまして」
【名家Lv2】の気品と威圧感が、スタジオの空気を塗り替える。
「あなたのチャンネルの『再生数』について、少しお話を伺ってもよろしいかしら? 元編集者の方から、それはそれは詳細なデータをいただいたのですけれど」
その言葉が引き金だった。
繭の【パトロンLv3】と、彼女に救われた『狂信者』たちが、裏で一斉に行動を開始。ネット上に、ハイエナTVの再生数偽装疑惑、パワハラ体質、過去のやらせ疑惑といった「本物のスキャンダル」が、証拠動画付きで投下されていく。
「なっ……!?」
ハイエナの顔から、血の気が引いた。コメント欄の風向きが、一瞬で変わる。『#ハイエナTVやらせ疑惑』が、爆発的な速度でトレンドを駆け上がっていく。
攻撃者が、獲物になった瞬間だった。
「こ、こんな事をして……ただで済むと……!」
狼狽するハイエナに、信貴みことが静かに向き直る。彼女の手が、淡い、しかし燃えるような怒りの赤い光を放った。【LIGHT×LIVE×RIGHT】。その光はハイエナの心を直接打ち、彼のなけなしの冷静さを完全に破壊した。
「あああああ!!」
ハイエナが意味不明な絶叫を上げたところで、画面はぷつりと暗転した。
NEPHILIM†DOLLSとハイエナTVのコラボ配信は、アイドルグループが配信者を逆に炎上させ、社会的に抹殺するという、前代未聞の結末を迎えたのだった。
幕間:玉座の簒奪
ハイエナTV事件は、伝説となった。
アイドルが巨大メディアを返り討ちにし、社会的に抹殺する――その前代未聞の事件は、NEPHILIM†DOLLSの名を、お茶の間のゴシップから国会で議論される社会問題にまで押し上げた。
そして、世間は知った。この泥中の天使たちの中心にいるのは、太陽のような笑顔の裏に、底知れぬ深淵を隠し持つ、一人の少女だということを。
『聖女マユエル、微笑みでハイエナを断罪』
『大盛繭こそが真の支配者か? 彼女を怒らせてはいけない』
大盛 繭が新たに獲得した【まとめブログ管理人】が運営するサイトは、彼女を畏怖の対象として神格化し、そのイメージは瞬く間に定着した。事務所の電話は鳴り止まず、警察からは事情聴取の要請が届き、なぜか海外の某国からは「次期軍事顧問に」という謎のオファーまで舞い込んだ。
グループ内の空気は、完全に変質していた。
楽屋の中心に座るのは、大盛 繭。彼女は何も言わない。ただ、いつも通りにこやかに、差し入れのクッキーを頬張っているだけだ。だが、その存在感は、もはや絶対的なものとなっていた。どの議題も、最終的には彼女の「私は、皆が仲良くできるなら、それでいいと思いますよ?」という一言で結論が決まる。それは提案ではなく、逆らうことの許されない決定だった。
玉座から引きずり下ろされた元女王・白狼は、楽屋の隅で亡霊のように座っていた。配信での失態、そしてランキングの急落。彼女を支えていた自信は粉々に砕け散り、レッスンでも精彩を欠いていた。親衛隊を組織した【トップオタ】たちも、どう声をかけていいか分からず、遠巻きに見守るしかない。失墜した神に、信者は無力だった。
花文字 汎は、そんなパワーバランスの変動を冷静に観察していた。彼女の警戒対象は、もはや白狼ではない。大盛 繭――その底知れぬ力と、彼女を裏で支える【パトロン】や【狂信者】たちのネットワーク。汎は、新たな情報戦のターゲットを、静かに定めていた。
そして、めぅ。
彼女は、生ける屍だった。事務所から活動自粛に近いペナルティを課され、メンバーからは存在しないかのように扱われている。ファンは激減し、SNSには罵詈雑言が溢れる。だが、虚ろなその瞳の奥深くでは、消えることのない憎悪の炎が、まだチロチロと燻り続けていた。
その歪な均衡が支配する楽屋に、饗庭 瞑が、これまでで最も満足そうな笑みを浮かべて現れた。
「素晴らしいよ、繭さん。君は僕の想像を超えた。君こそは、この物語の真の主人公だ」
彼は繭を称賛した後、全員を見渡し、一枚の招待状をテーブルに置いた。金色の箔押しで、権威ある番組のロゴが刻まれている。
「さて、僕の天使たち。君たちの神話は、最終章へと向かう。次なる舞台は、国民の誰もが見守る、一年に一度の祭典――年末歌謡祭だ」
スタジオは、年の瀬の浮かれた空気と、一流のプロフェッショナルだけが放つ張り詰めた緊張感が混じり合っていた。
豪華絢爛なセット、分刻みで動くスタッフ、そしてすれ違う誰もがテレビで見たことのある有名人ばかり。ここは、選ばれし者だけが立つことを許される、日本のショービジネスの頂点だ。
「……すごい」
信貴みことが、思わず息を呑む。免田みんとは、大物歌手たちのオーラに気圧されまいと、必死に不敵な笑みを貼り付けていた。
「くれぐれも、粗相のないようにね」
饗庭は、いつになく真剣な表情で釘を刺す。
「君たちの運命は、ステージの上だけで決まるわけじゃない。むしろ、その裏側にある、この魑魅魍魎が跋扈するバックステージこそが、真の戦場だ」
」
饗庭は、遠くのプロデューサー席に座る、恰幅のいい初老の男を顎で示した。
「彼が、この番組の絶対君主、馬場プロデューサーだ。彼に気に入られるか否か。それだけで、君たちが今夜、国民の記憶に残るか、その他大勢として忘れ去られるかが決まる。本番でのカメラ割りは、彼の一存だ」
さらに、饗庭は続ける。
「そして、周囲を見たまえ。大御所の演歌歌手、ミリオンセラーを連発するロックバンド、そして、君たちと同じ椅子を狙うライバルアイドルグループ……。彼らは共演者であると同時に、君たちの未来を左右する駒でもある。誰に媚を売り、誰を敵に回すか。君たちの社交術と政治力が試される」
「さあ、ショータイムだ」
饗庭は、愉悦に口元を歪めた。
「ステージの上で最高の笑顔を見せながら、その裏でどれだけ狡猾に立ち回れるか。見せてもらおうじゃないか、君たちの『世渡り』という名の、新たな才能をね」
虚構の祝祭が、今、始まろうとしていた。
第6クエスト:虚構の祝祭
年の瀬の喧騒が渦巻く、国民的歌謡番組のバックステージ。そこは、笑顔と欲望が等価で取引される、巨大な市場だった。
NEPHILIM†DOLLSの楽屋は、今まさに崩壊の寸前にあった。活動自粛寸前のめぅは虚ろな目で床の一点を見つめ、玉座から堕ちた白狼は壁際の闇に溶け込んでいる。誰もが自分のことで精一杯で、グループはもはや名前だけの共同体と化していた。
その氷のような沈黙を破ったのは、現女王、大盛 繭だった。
彼女は、そっとめぅの隣に座ると、その冷たい手を両手で包み込んだ。
「めぅお嬢ちゃん。わたくし、あなたの『可愛い』が大好きですよ」
スキルアップした【良心Lv2】が、優しく、しかし抗いがたい力で、めぅの閉ざされた心に流れ込む。
「他の誰かを傷つけなくても、あなたはこんなに素敵なのですから。もう、一人で苦しまないで」
【解説Lv1】で語られる、めぅ自身も忘れていた彼女の魅力。それは、憎悪に凝り固まった魂を、ゆっくりと溶かしていく。めぅの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、炎上以来、彼女が初めて流した「本物」の涙だった。
繭の行動は、それだけでは終わらない。
彼女は他のメンバー一人ひとりの元へ赴き、分裂した心を再び一つに束ねていく。そして、彼女たちにこう告げたのだ。
「皆さん、心配はいりません。わたくしの【パトロン】の方々が、皆様に相応しい方々をご紹介くださるそうですわ」
【名家Lv2】と【パトロンLv3】の人脈。それは、この魑魅魍魎が跋扈する世界で最も価値のある武器だった。
「……なぜだ? あんたが一番得をするはずなのに、なぜ俺たちを助ける?」
花文字 汎の当然の問いに、繭は天使のように微笑んだ。
「わたくしは、皆さんと仲良くしたいだけですもの。それに……」
彼女はすっと左手を持ち上げ、その薬指に輝く指輪を、まるで誰かに見せるように掲げた。
「自分に何の得にもならないのに、必死で誰かを救ってくれる人みたいに、わたくしもなりたいのです」
その謎めいた言葉と仕草は、メンバーたちの胸に、深い印象と、そして新たな謎を刻み付けた。
こうして、大盛 繭という絶対的な太陽のもと、NEPHILIM†DOLLSは奇跡的な「再生」を遂げた。
彼女たちはお飾りの女王に率いられ、バックステージという戦場へと繰り出していく。
信貴みことは、繭の紹介状を手に、番組の絶対君主・馬場プロデューサーの元へと向かった。その【礼儀正しいLv3】立ち居振る舞いは完璧であり、握手したその手から放たれる純粋な喜びの光【LIGHT×LIVE×RIGHT】は、スレきった大物の心を溶かした。「君のような子は久しぶりに見たよ」馬場Pは、彼女に最大の賛辞を送り、カメラ割りの優遇を約束した。
免田みんとは、同じく繭のコネを使い、若手ロックバンドのリーダーや大御所演歌歌手に接触した。【スキャンアイ】で彼らの「退屈」や「承認欲求」を見抜き、【小悪魔Lv3】の魅力で懐に潜り込む。「あんた、面白いねぇ!」と気に入られ、業界内に新たな人脈を築き上げていく。
花文字 汎は、最も狡猾な手を打った。局内の有力者に【潜入Lv2】で接触し、「私のこの【傷】、コンプライアンス的にどう思われますか?」と【トーク力Lv2】で相談を持ちかける。意図的に巻き起こされた「議論」は制作陣を巻き込み、放送前から「NEPHILIM†DOLLSの花文字 汎をどう扱うか」が最大の議題となった。彼女は、戦わずして注目を勝ち取ったのだ。
そして、白狼。
仲間たちの活躍を、そして何より自分を信じ続けてくれた【トップオタ】からの熱いメッセージを見て、彼女はついに吹っ切れた。
「……もう、誰かのフリをするのはやめだ」
彼女は、これまで頼ってきた【ご都合変幻自在主義】という名の鎧を、自らの意志で脱ぎ捨てた。「素の自分」で、この大舞台に挑むことを決意したのだ。その瞳には、かつての女王の輝きとは違う、挑戦者の強い光が宿っていた。
――そして、運命のステージ本番。
日本中が固唾を呑んで見守る中、NEPHILIM†DOLLSのパフォーマンスが始まった。
最初にカメラに抜かれたのは、馬場Pの寵愛を受けた信貴みことだった。その神々しいまでの【凛々しいLv2】表情は、お茶の間に衝撃を与えた。
曲の合間、一瞬だけカメラを奪ったのは免田みんとだ。ウインクと共に舌をペロリと出す【挑発Lv2】のアドリブ。ネットのコメント欄が「今の緑の子ヤバい!」と沸騰する。
そして、意図的にカメラは「問題」の花文字 汎をアップで捉える。彼女は、美しい【傷跡】を隠すことなく、むしろ誇らしげに指でなぞり、挑戦的な視線をカメラに送った。放送倫理委員会が頭を抱える、完璧な炎上コントロールだった。
ソロパート。カメラは、白狼を捉えた。
そこにいたのは、誰かの偽物ではない。「白狼」という一人の少女だった。彼女は、変身能力に頼らず、ただ己の肉体と【お色気Lv3】だけで、魂のダンスを踊る。その姿に、ファンは涙した。挫折からの復活。日本中が、その物語の目撃者となった。
センターの大盛 繭は、そんなメンバー全員を、聖母のような【笑顔Lv2】で見守っていた。そして、再生しためぅの手をそっと握る。めぅは、憎悪から解放された純粋な【可愛さLV.3】で、最高の笑顔を返した。
曲の終わり、カメラは、祈るように組まれた繭の左手をアップで抜く。薬指に光る、意味深な指輪。
――このアイドルは、一体誰に祈りを捧げているのか?
その謎は、この日最大のミステリーとして、日本中の視聴者の心に深く刻み込まれた。
幕間:神々の前夜祭
年末歌謡祭の夜、大盛 繭が見せた「謎の指輪」は、日本中の憶測を呼んだ。
『婚約指輪か?』『某国の王族からの贈り物?』『まさか、我々の知らない“誰か”に操られているのか?』
彼女が新たに獲得した【繋がり(政界フィクサー)】は、そのミステリーを巧みに利用し、大盛 繭という存在を単なるアイドルから、国家レベルの陰謀論が渦巻く巨大な偶像へと祭り上げた。彼女のファン数は、もはや測定不能の領域に達していた。
NEPHILIM†DOLLSは、社会現象の中心にいた。
彼女たちの聖地巡礼と称して大衆食堂『おふくろの飯』には連日長蛇の列ができ、彼女たちが過去に立ったライブハウスは文化遺産のように扱われた。
そして、約束の日が来た。
アイドルならば誰もが夢見る、至上の舞台。
日本武道館。
その八角形の建物を見上げた時、信貴みことは、静かに涙を流した。
かつて、薙刀の選手としてこの地に立った。魔人となったことで失ったはずの夢の場所。そこに、今度はアイドルとして、仲間たちと共に帰ってきたのだ。
「……ただいま、なさいませ」
誰に言うでもなく、彼女はそう呟いた。
バックステージは、これまでのどの会場とも違う、厳かで神聖な空気に満ちていた。歴史が染み込んだ床。ドーム状の天井に反響する、地鳴りのような一万人の歓声。
「……すごいね」
再起を果たした白狼が、素直な感嘆の声を漏らす。その隣で、免田みんとは不敵な笑みを浮かべ、花文字 汎は最後の戦場を分析するように冷静に周囲を見渡していた。めぅは、ただひたすらに、隣に立つ大盛 繭の顔を、崇拝するような瞳で見つめている。
そして、その玉座に座る大盛 繭は、静かに目を閉じていた。
もはや、彼女に敵はいない。いるのは、彼女の描く「皆が仲良くする世界」の登場人物たちだけだ。彼女は、この物語の結末を、ただ静かに待っていた。
開演5分前。
照明が落とされ、緊張が最高潮に達したその時、ステージ袖の闇から、饗庭 瞑が音もなく姿を現した。
その表情は、恍惚と狂信が混じり合った、神がかったものだった。
「おめでとう、僕の天使たち。ついに、約束の地までたどり着いたね」
彼は、これまでの戦いを慈しむように、一人ひとりの顔を見つめた。
「嫉妬、裏切り、暴力、支配、失墜、そして再生……。君たちは、僕が与えた全ての『物語』を喰らい、見事にここまで進化を遂げた。なんと美しいことか」
彼は、ゆっくりと両手を広げた。まるで、最後の審判を告げる神のように。
「今夜、君たちはアイドルではなくなる。これは、君たちが『神』へと至るための、最後のアセンション(神化)の儀式だ」
「最終クエスト:武道館公演」
「このステージで、君たち一人ひとりに、ソロ曲を披露するパートを与える。己の全てを懸け、たった一人で、この一万人の魂を支配するんだ」
「そして――」
饗庭は、悪魔のように優しく微笑んだ。
「――このステージで起こる全てを、僕は肯定する。たとえ、誰かが誰かのステージを妨害しようとも、それすらもまた、神に至るための試練であり、最高の『物語』の一部だからだ」
最後の闘争への、全面的な許可。
友情、裏切り、実力、妨害。全てが許された、たった一つの椅子を奪い合う、最後の戦い。
「さあ、証明しておくれ。この一万人の信者と、全世界の観測者の前で」
地鳴りのような歓声が、会場を揺るがす。
SEが鳴り響き、ステージへと続く道が、眩い光に照らし出された。
「――誰が、唯一無二の【神アイドル】なのかを」
最終クエスト:武道館公演 - 神化の儀式
一万人の地鳴りのような歓声が、八角形のドームを揺るがす。
ステージに立つ6人の少女たち。彼女たちの物語は、今、この場所で終わり、そして始まる。
最初のソロパートを飾るのは、信貴みこと。
この日のために作られた和風ロックのイントロが鳴り響く。彼女は手にしていた【薙刀Lv.1】を天に掲げた。かつて武道家として夢破れたこの場所で、今、アイドルとして、その魂を解き放つ。
【体幹が強いLv.2】能力を活かした、舞うような演舞と歌唱。その一挙手一投足は、ただひたすらに【凛々しいLv.2】。彼女のパフォーマンスは、これから始まる神々の戦いの幕開けにふさわしい、気高く、美しい儀式そのものだった。観客は、その神聖さの前に、ただ息を呑む。
その静謐を切り裂いたのは、免田みんとだった。
「最高の仲間たちに、最大の敬意を! でも――最高のアイドルは、このあたしに決まってんでしょ!」
マイクパフォーマンスで【挑発Lv2】を叩きつけると、彼女は獰猛な肉食獣のようにステージを駆け巡る。【小悪魔Lv3】の流し目が巨大スクリーンに映し出されるたび、武道館は熱狂の渦に叩き込まれた。彼女は観客をファンにするのではない。共犯者へと引きずり込んでいくのだ。
次にステージに立ったのは、花文字 汎。
彼女は歌い出す前に、静かにマイクを握った。
「今日まで、私についてきてくれてありがとう。他の子から私を見つけてくれた人も、ありがとう。今夜は、あなたたちだけの為に歌う」
【トーク力LV.2】で紡がれる、ファンへの真摯な感謝。そして、彼女は歌いながら、ステージから客席へと身を躍らせた。
「えっ!?」
悲鳴と歓声が入り混じるアリーナ席。彼女は【潜入LV.2】でファンの間をすり抜けながら、その美しい【キャモ・フラジュラン】の傷跡を見せつけ、さらに何人かの腕に、そっと真新しい傷を刻んでいく。痛みはない。ただ、永遠に消えない、美しい宝石のような証。
「これは、あなたと私の秘密」
彼女は【絆創膏Lv.1】を貼りながら囁き、ステージと客席の境界線を完全に破壊した。武道館は、彼女一人のための秘密の園へと変貌していた。
だが、その狂宴に水を差す影があった。めぅだ。
彼女は汎のステージに乱入しようとし、スタッフに羽交い締めにされる。そして、自分のソロパート。彼女は、孤立していた。
「汎お嬢ちゃん……繭お嬢ちゃん……なんで来てくれないの……はゎゎ……」
その呟きは、誰にも届かない。狂気のスイッチが入った彼女は、ただひたすらに【可愛さLV.3】を振りまきながら、破綻したパフォーマンスを始めた。それは痛々しく、醜く、そして――あまりにも純粋だった。憎悪も、憧憬も、全てを燃やし尽くした後に残った、アイドルとしての本能。その鬼気迫る姿に、一部の観客は心を奪われ、涙を流していた。
そして、ステージに、静かな決意を秘めた少女が立つ。白狼だ。
彼女は、変身能力を使わない。「素の自分」で、持てる全てを出し尽くした【お色気Lv3】のパフォーマンスを披露する。挫折と再生の物語を知るファンは、その姿に惜しみない声援を送った。
そして、曲のクライマックス。
「――繭!」
彼女は、ステージ袖にいた大盛 繭を手招きした。次の瞬間、彼女の姿が揺らめき、大盛 繭へと変化する。【ご都合変幻自在主義】。ステージ上に現れた「二人の大盛 繭」は、声を合わせ、歌い始めた。武道館は、この日一番の熱狂に包まれた。
パフォーマンスが終わり、白狼は元の姿に戻ると、自身の象徴であった【飛苦無Lv.1】を、そっと繭の手に握らせた。
「私は、ここでアイドルを引退します。私の夢は、あなたに託します」
衝撃の引退宣言。それは、女王の座の、完全なる禅譲の儀式だった。
全ての視線が、最後のパフォーマー、大盛 繭に集まる。
【センター権】の力で、彼女の存在感は神々しいまでに膨れ上がっていた。白狼から託された飛苦無をそっと腰に差し、彼女は完璧な歌とダンスを披露する。それは、全ての戦いを乗り越えた、絶対女王の凱旋だった。
曲が終わり、万雷の拍手の中、彼女は静かにマイクを握った。
「……聞かれなかったので、ずっと言えませんでしたが」
武道館が、静まり返る。
「わたくし、結婚しておりますの」
時が、止まった。
一万人の絶叫と悲鳴が、阿鼻叫喚が、武道館を揺るがす。
「そして、プロデューサーにも許可をいただきました。この武道館公演を最後に、わたくし大盛 繭は、アイドルを引退いたします」
二発目の爆弾。もはや、誰も正気ではいられなかった。
だが、繭は穏やかな【笑顔Lv2】で、これまでの日々を【解説Lv1】で語り始める。仲間との出会い、ファンへの感謝、そして【パトロン】たちへの想い。その言葉は、不思議な力で、会場の混乱を鎮めていく。
「これからは、普通の女の子に戻って、普通のお嫁さんになりたいのです」
彼女は、最後に左手の薬指をかざした。
「もし、わたくしに会いたくなったら……大衆食堂『おふくろの飯』へどうぞ。いつでも、お待ちしておりますわ」
その笑顔を最後に、彼女はステージを去った。
後に残されたのは、伝説の終焉を目撃した一万人の観客と、それぞれの未来へ歩き出す5人の少女たち。
そして、たった一人だけが許される【神アイドル】の称号だけが、主を失い、虚空に輝いていた。
エピローグ:偶像たちのいた季節
伝説の武道館公演から、一年。
NEPHILIM†DOLLSという熱病は、まるで幻だったかのように日本から去り、人々は新たな流行を追いかけていた。だが、あの夜、少女たちが放った最後の輝きは、人々の記憶に深く、そして静かに刻み込まれていた。
下町の商店街、大衆食堂『おふくろの飯』。
昼下がりの穏やかな日差しの中、大盛 繭は慣れた手つきでテーブルを拭いていた。かつて日本中を熱狂させた【神アイドル】の面影は、その柔らかな笑顔の中に溶け込んでいる。
「いらっしゃいませ!」
カラン、とドアベルが鳴る。入ってきたのは、見慣れないスーツ姿の男たちだった。そのうちの一人が、畏敬の念を込めて繭に問いかける。
「…繭様。例の件ですが、A国が和平交渉の仲介役として、是非とも貴女様のお力添えをいただきたいと…」
「まあ、大変ですわね」
繭は困ったように微笑むと、男たちに熱いお茶を差し出した。
「でも、わたくしは今、このお店のお手伝いで忙しいのです。そうだ、カツ丼でもいかがですか? ここのカツ丼は、絶品ですのよ」
彼女の左手の薬指には、あの日と同じ指輪が静かに輝いている。その指輪が誰からのものなのか、彼女が一体「何者」なのか、その答えを知る者は、まだ誰もいない。
都心を見下ろす、超高層ビルの最上階。
花文字 汎は、書き上げたばかりの原稿の最終チェックをしていた。
『元アイドルが見た、芸能界の真実』
その衝撃的なタイトルがつけられた暴露本は、出版前から業界を震撼させていた。彼女はペンを置き、窓の外に広がるきらびやかな夜景を見つめる。
(――馬鹿馬鹿しい。真実なんて、人の数だけある)
ふと、スマホが震えた。メッセージの送り主は『めぅ』。
『汎お嬢ちゃん、新しいデザイン、見てほしいはゎ……』
添付された画像には、彼女自身をモデルにした、独創的で可愛らしい衣装のデザイン画が映っていた。汎の口元に、微かな笑みが浮かぶ。彼女は短い返信を打った。
『悪くない。今度、アトリエに行く』
傷だらけの指先が、ガラスの向こうの虚構の街をなぞった。
とある地方都市の、小さな武道場。
竹刀のぶつかり合う、乾いた音が響く。道場の中心で、子供たちに指導しているのは、信貴みことだった。
「そこです! 脇が甘いですよ!」
その凛とした声は、武道館のステージに立っていた時と何ら変わらない。彼女は今、魔人であるかどうかなんて関係なく、誰もが純粋に技を競い合える新たな武道大会の設立に、全霊を注いでいた。
稽古が終わり、一人道場に残った彼女は、壁に立てかけておいた愛用の薙刀を手に取る。そして、誰もいない空間に向かって、深々と頭を下げた。
「――この御恩、生涯忘れません」
その感謝が、武道館で共に夢を叶えた仲間たちへ向けられたものなのか、あるいは、彼女を再びこの道へと導いてくれた「誰か」へ向けられたものなのか。それは、彼女だけが知る秘密だった。
深夜のテレビ局。生放送のスタジオ。
「はぁ? あんたたち、まだそんな生温いことやってんの? アイドルってのはね、こうやるのよ!」
ソロアイドルとして活動を続ける免田みんとは、相変わらずのメスガキ節で共演者たちを煽っていた。彼女の周りには、常に熱狂的なファンと、そして新たなスキャンダルの匂いが渦巻いている。
番組が終わり、楽屋に戻る。マネージャーが差し出すスポーツドリンクを一口飲むと、彼女はスマホで自分の名前を検索した。
『みんと様、今日も最高!』
『相変わらず口悪いけど、そこがいい』
『そろそろドーム、行けるんじゃね?』
「ふん、当たり前でしょ、ざぁこ共」
誰にも聞こえない声で悪態をつきながら、彼女の口元には満足げな笑みが浮かんでいた。彼女の戦いは、まだ始まったばかりだ。
原宿、竹下通り。
ガラス張りのアトリエで、めぅはミシンと格闘していた。彼女が立ち上げたブランド『Hawa-Hawa Holic』は、その独特の可愛らしさで10代の少女たちから絶大な支持を得ていた。
かつての不安定な輝きは鳴りを潜め、今の彼女は、創造する喜びに満ちている。
「はゎゎ……このフリル、もっとこうかな……」
彼女は時々、ふと思い出したように、自分の頬に残る、宝石のような傷跡にそっと触れる。それは、彼女が「被害者」だった過去の証であり、そして、新たな人生の始まりをくれた、大切な人との絆の証でもあった。
そして――誰も知らない、どこかの国の、夜の街。
黒いフードを目深にかぶった人影が、ビルの屋上から屋上へと、音もなく飛び移っていく。その動きは、猫のようにしなやかで、影のように捉えどころがない。
人影――白狼は、ある目的地のビルを見下ろすと、懐から一枚の写真を取り出した。そこに写っているのは、笑顔でクッキーを頬張る、かつての仲間たちの姿。
彼女は写真に小さく微笑むと、それを再び懐にしまった。そして、腰に差した一本の飛苦無を、そっと握りしめる。
それは、かつてセンターの座と共に、一人の少女から託されたもの。
彼女の新たな戦いは、誰にも知られることなく、今、始まろうとしていた。
アイドルは、偶像だ。
輝き、消費され、そして忘れ去られていく。
だが、あの季節に確かに存在した彼女たちの物語は、それぞれの人生に、そして彼女たちを見つめた多くの人々の心に、永遠に消えない傷跡のように、美しく残り続ける。
――NEPHILIM†DOLLSという、泥中に咲いた、天使たちの物語。
これにて、終幕。
最終更新:2025年09月09日 11:47