女 の 闘い -悪夢- ◆SDn0xX3QT2
見下ろすと、アーサーが僕の右手に身体を摺り寄せていた。
こんなふうにアーサーがじゃれてくれることをずっと願っていたけれど、いざ実現するとどうすればいいのかわからない。
なんとなく、動いたら噛みつかれそうな気がして、じっとしていることにする。
この時間がずっと続けばいいのに、なんて馬鹿なことを考えていたら、
お前の考えなどお見通しだと言わんばかりのタイミングでアーサーが僕を見上げてきた。
こういう時はやっぱり笑顔だろう。
そう思って、アーサーに笑いかけようとして―――そして、僕は気づく。
笑えない。
笑いかたが、わからない。
ちょっと顔の筋肉を動かせばいいだけだと、理屈は理解できる。
なのにそれができない。
こんなに嬉しいのに。
……嬉しい?
何故だろう。違う気がする。
僕は嬉しくなんてない。
いや、それも違う。
僕は
「にゃあ」
一声鳴いて、アーサーが遠ざかっていく。
僕はただ、その後ろ姿を見つめるしかできなかった。
何故、笑えなかったのか。
何故、嬉しいと感じた自分の心を疑ったのか。
答えがでないまま、僕はただアーサーの後ろ姿を見送るしかできない。
『スーザクー』
名前を呼ばれると同時に、すっかり馴染んでしまった重みが背中に圧し掛かる。
条件反射的に僕は、もう何度言ったかわからない台詞を口にしていた。
『重いよ、ジノ』
『かたいこと言うなって』
『そういう問題じゃないんだけど。君、僕との体格差、自覚してる?』
『そんなことよりさ、スザク。こんな所に座り込んでいったいどうしたんだ?』
ジノに訊ねられて、辺りを見渡す。
まず視界に入ったのはランスロット。
ランスロットのそばに、ロイドさんとセシルさんの姿が見える。
ここは――
『スザクく~ん。君ねぇ、ちょっと頑張り過ぎ~』
僕の視線に気づいたらしいロイドさんが、いつもの調子で僕に言う。
そんなことを言われても、頑張り過ぎと言われるほど頑張った覚えなんて僕には無い。
足りない。まだまだ足りないんだ。
『というわけで、スザク君はお休み~』
『でもロイドさん、ランスロットのテストは』
『それなら気にしないで。ちょっとシステムのほうに異常が出ちゃって、テストは無理なの。
それに、スザク君は頑張ったんだから、休んでいいのよ?』
『セシルさんもこう言ってるんだから、休めよスザク』
『いや、でも僕は』
『……オコノミヤキ』
僕の言葉を遮ったのはいつの間にか後ろに立っていたアーニャ。
その手にはいつもの様に携帯電話が構えられている。
『オコノミヤキ、食べたい』
『エリア11の庶民料理か、いいな。一緒に食べに行こうスザク。私はヤキタコが食べたいぞ』
『ジノ、違う。ヤキタコじゃない。タコヤキ』
『お好み焼きとたこ焼きじゃどっちも粉物だよ?って、そうじゃなくて。僕は行かないから』
『どうして? テストは中止なんだろ?』
『それならそれで、自主トレとか、勉強とか……僕は君たちと違って、士官学校を出てるわけじゃないんだ。
やらなきゃらならないことはいくらでも』
そこまで言って、アーニャがほんの少し悲しそうな顔をしているのに気づく。
後ろにいるジノも様子がおかしい。
ロイドさんに、セシルさんも……
『駄目。一緒に行く。スザクはもう頑張った』
『そうだぞスザク。だいたいスザクはいつも無理し過ぎなんだ。だから休んでもいい、私が許す』
『アールストレイム卿とヴァインベルグ卿の言う通りよ、スザク君。もう休んでいいの』
『スザク君。君さぁ、もう、十分なんだよ?』
アーニャが、
ジノが、
セシルさんが、
ロイドさんが、
――――優しい。
こんなにも、優しい。
もう頑張らなくていいんだと。
もう休んでもいいんだと。
優しく僕を労わってくれる。包んでくれる。
ああ――
本当に――
―――この期に及んでこんな都合のいい幻を見るなんて、僕はどこまで愚かなんだろう。
ジノはもう僕の傍にはいない。
僕が切り捨てたのだから。僕等はもう、敵なんだ。
そう思った瞬間、ジノが消える。
アーニャはもう、どこにもいない。
この島で彼女は死んだ。死んだ人間は生き返らない。
そう思った瞬間、アーニャが消える。
ロイドさんとセシルさんのことを、今の僕は利用しているだけだ。
ゼロレクイエムのために、僕は二人を傷つけている。
そう思った瞬間、ロイドさんとセシルさんが消える。
ランスロットを見上げて、自嘲する。
僕の幻は、本当に僕に都合よくできているらしい。
僕を見下ろすように立つ白い騎士は、アルビオンでもコンクエスターでもない。
第三皇女の専任騎士の愛機だったランスロットだ。
今の僕の機体じゃない。
そう思った瞬間、ランスロットが消える。
僕はゆっくりと、自分の身体へと視線を落とす。
身に纏っていたのは、ユフィの騎士だった頃の白の騎士服。
ナイトオブセブンになってジノとアーニャに出会ってからは一度も袖を通したことはない。
幻さえ矛盾しているなんて、なんて滑稽なんだろう。
今の僕には着る資格はない。
そう思った瞬間、騎士服が消えた。
真田さんの声がした――『枢木殿は某を騙していたでござるか?』
伊達さんの声がした――『Ha! 不甲斐ねぇな、
枢木スザク』
神原さんの声がした――『枢木殿。私は、阿良々木先輩に会いたかった』
レイさんの声がした――『スザク。こんなものが貴様の結果か』
罵られ、蔑まれ。
でもその声も、すぐに消える。
すべての幻が消えて、暗闇だけが残った。
僕は目を閉じようとした。
これが正解なのだと。
これが枢木スザクには相応しいのだと、そう思いながら。
「スザク!!」
闇が、切り裂かれた。
「スザク」
ユフィの、声だ。
初めて出会った日。
上から落ちてきた彼女を受け止めた時のように、目の前が、鮮やかな桃色に染まる。
「スザク」
声が震えてる……泣いて、いるの……?
「スザク、私です。ユフィです」
ユフィが僕の頬に触れる。
無意識のうちに、僕もユフィへと手を伸ばしていた。
でも僕の手は、ユフィの体温を感じない。
……ああ、これも、幻、か……
「スザク」
ねえ、ユフィ。
僕は、本当は、ずっと君に逢いたかったんだ。
言いたかったことがある。
あの時の君の言葉の続きを、自分に都合よく解釈して。
本当に身勝手な告白を、してしまってもいいだろうか?
ユフィの姿は、もう見えない。
だから、早く言わないと。彼女の声が、聞こえなくなってしまう前に。
「ユフィ……僕も……、君に…あえ、て……………」
――――もう、何も聞こえなかった。
† † † † †
街灯と月明かりの下、
上条当麻はある意味において人生最大の罪悪感に苦悩していた。
視線の先には、血に染まったスーツに身を包み、ぐったりとしたまま目を覚ます様子のない少女。
上条はつい数十秒前、この少女を全力で殴って気絶させてしまったのだ。しかも、殴ったのは顔。
上条は『男が女を殴るなんて最低だ』という程度の常識は持ち合わせている。
女を殴ったことが無いのかと訊ねられれば答えは「NO」なのだが、
少なくとも今までに殴った女性は、普通に戦えば自分より強い相手だけだった。
一発殴っただけで気絶されたのは、記憶にある範囲では初体験。
出来れば一生経験したくなかった初体験に、上条は焦っていた。
気絶していることが一目瞭然の相手に「大丈夫ですか?」と質問をしてしまう程度には、焦っていた。
自分を殺そうとしていた相手を殴って気絶させるくらいは正当防衛として許される範囲だと気づかない程度には、焦りまくっていた。
少女の顔を覗き込み、そこで上条は気づく。
顔が赤い。
自分が殴ったところが腫れて赤くなっているのとは違う。のぼせた時のような、身体の内側からくる赤。
右手でそっと額に触れてみれば、熱がある。
それほど高くはないが、夜のコンクリートの上に寝かせておくわけにはいかない。
肩の怪我の手当てもしなければならないし、頬だって冷やさないと腫れるだろう。
いや、これは、おそらくは冷やしても腫れるだろうが。
とりあえず、適当な民家まで運ぼうと、上条は少女を抱き上げた。
その刹那――
「少しお話をさせていただいてよろしいでしょうか?」
――背後から、女の声がした。
それだけではない。首筋に、刃の感触がある。
一撃で殺される状況だと上条は直感で理解する。だがそれでも、怯みはしない。
「……あんた、殺し合いに乗ってるのか?」
「ああ、すみません。これは念のためです。貴方は殺し合いには乗っていないのですか?」
「当たり前だろ!」
「当たり前、ですか」
「そうだ、当たり前だ。俺はこんな殺し合い、絶対に認めない!!」
上条は告げる。
僅かな沈黙の後、首筋から刃の感触が遠ざかる。
上条が振り返るとそこには、赤い槍を携えた黒髪の女性が一人で立っていた。
「私、
ファサリナといいます。私もこの殺し合いには乗っていません。
ただ、ここでは初対面の人にはどうしても警戒心を――」
ファサリナの自己紹介と謝罪の言葉を聞きつつも、上条の視線はファサリナの胸に一直線だった。
これは不味い、と上条は思う。
どうにか豊満な胸に視線が行ってしまうのを抑えようと葛藤する。
そんな上条の苦悩はお構いなしに、ファサリナは言葉を続けた。
「――それで、お訊ねしたいのですが、その少女の名前は?」
ファサリナに問われ、上条は考える。
彼女は間違いなく自分に対して名前を名乗ったはずだ。
だが、思い出せない。
上条にとっては聞き慣れない外国人の名前だ。一度聞いたくらいでは覚えられないのも無理はなかった。
「たしか、ゆーなんとかって」
「……
ユーフェミア・リ・ブリタニア、でしょうか?」
「ああ、それ。たぶんそれだ。そんな感じだった。あんた……ファサリナ、だっけ? この子の仲間なのか?」
「私は私の仲間に頼まれて、彼女を捜していたんです。ところで貴方の名前は?」
そう言われて初めて上条は、相手が名乗ったのに自分は名乗っていないというミスに気づく。
元を正せばいきなり背後から武器を突きつけた相手。
名乗るのを忘れたくらいで慌てる必要など全く無いのだが、ファサリナが美女だったことも相俟って、完全に地に足が着いていなかった。
「も、ももも、申し遅れました。私、一年七組、上条当麻です」
明らかに声が裏返っていた。おまけに噛んでいた。どうでもいい情報が含まれていた。
健康な男子高校生(童貞)としては、とても正しい反応なのかもしれないが。
「カミジョウ、ですか?」
「あ、えっと、上条がファミリーネームで、当麻がファーストネーム、って言えばわかるのか?」
「ああ、では、トウマですね」
そう言ってファサリナがくすりと笑う。
「私、もっとトウマとお話がしたいですわ」
「ファサリナが殺し合いに乗ってないって言うんなら、俺も話が聞きたい。情報がほしいんだ。でもその前に」
「ユーフェミアの怪我の手当て、ですね?」
「ああ、このままほっとけないから」
「わかりました。でも、今はそれよりも優先すべきことがありますわ」
まるでファサリナの言葉が合図だったかのように始まる放送。
ファサリナは手早くデイパックから地図と名簿、ペンを取り出し内容を書き留めていく。
上条もまた、ユーフェミアを抱えたまま放送へと耳を傾けた。
「……え?」
死者の発表を聞いた上条が、思わず驚きの声を上げる。
(なんでだ? なんでサーシェスの名前が呼ばれない!?)
サーシェスの名前が呼ばれない。それは、サーシェスが死んでいないということだ。
サーシェスが死んでいない。それは、スザクとレイはサーシェスを殺していないということになる。
そして、スザクとレイがサーシェスを殺していないということは、
上条が彼等に向けた言葉の一部は、その前提が間違いだったことを意味している。
――上条当麻は、困惑していた。
◆ ◆ ◆
「それで、まともに動けるようになるまでは、あとどのくらいの時間が必要なのかしら?」
放送の内容についての僅かなやり取りの後、戦場ヶ原は背後にいる魔女に訊ねた。
注意の殆どは窓の外へ、残りの少しはデイパックの中で眠ってしまった二匹の猫へと向けられている。
「それは私にもわからないな」
振り返ることをしない戦場ヶ原の背中と、戦場ヶ原の隣におとなしく座っている黒猫の後ろ姿を見ながら、
C.C.は答えを返す。
はぐらかしているわけではない。本当にわからないのだ。他に答えようがなかった。
D-4南東部。橋から西へと伸びる大通りから少し北へと入った地点。
五階建てマンションの最上階の一室に二人はいた。
まっすぐ象の像へ向かわなかった理由はいくつかある。
C.C.を背負って移動する戦場ヶ原の体力の限界。
一方通行と交戦しているスザクの心配。
追って来いと告げた上条の存在。
地理的に考えて島の中では人の往来が多いポイントであろう橋に、
阿良々木暦が現れるかもしれないという希望――。
互いに互いの考えを見透かして、「どこかの建物で休みたい」とC.C.が提案し、戦場ヶ原がこのマンションを選択した。
橋まではそれなりに距離がある。さらに、周辺の路地が入り組んでいるため、実際の移動距離は直線距離よりもかなり長い。
橋を渡って来た人間と即合流とはいかないが、危険人物がやってくる可能性を考慮すれば橋からある程度離れていたほうがいいとの判断だ。
窓からは橋の様子が窺える。
橋の東側4分の1ほどとその先の20メートルほどは建物の影になっていて見えないが、橋を渡る人間を確認するだけなら十分だった。
「じゃあ、もうしばらくはここにいましょう」
戦場ヶ原の一言を最後に、二人の会話は途切れる。
話すことは特にない。
それよりも、考えたいこと、気持ちを整理したいことがそれぞれにあった。
言葉を交わすことなく時が流れる。
「にゃあ」
沈黙を破るように、窓の外を見つめていた黒猫が鳴いた。
「アーサー、貴方はまだ眠くはないのかしら?」
戦場ヶ原が黒猫、アーサーを優しく撫でる。
戦場ヶ原がアーサーを見下ろし、アーサーが戦場ヶ原を見上げる。
目が合う。
「にゃあ」
悲しそうに。
寂しそうに。
苦しそうに。
何かを訴えるように。
「にゃあ」
アーサーが泣く。
戦場ヶ原はそんなアーサーを見つめ、逡巡し、微かに微笑む。
そして、窓を開けた。
アーサーは身軽に窓枠へ、窓枠から近くの木へと飛び移り、そのまま道路へ降りると東へと走り去った。
「……よかったのか?」
何も言わず、一部始終をただ見ていたC.C.が声をかける。
「人影は見えないわ。少し窓を開けたからといって、誰かに気づかれた可能性は低いと思うのだけれど」
「私が言っているのはそういうことではない」
本当は私の質問の意図くらいわかっているのだろう、と言外ににおわせるC.C.の言葉。
はぐらかす意味もごまかす意味もないのだとわかると、戦場ヶ原は諦めたように口を開いた。
「だってしかたがないでしょう? アーサーには行くべき場所が、居るべき場所が他にあるんだってわかってしまったんだもの。
それが枢木君の所なのかどうかまではわからないけれど、あの子は今行かないと駄目だと判断した。私にそれを止める権利は無いわ」
C.C.が言う。
「お前は猫の気持ちがわかるのか」
口調こそ軽いが、そこにからかいの色はない。
「猫の気持ちがわかるんじゃないわ。私とあの子は同じだからわかるのよ。私にも、私の場所がある」
「阿良々木君とやらの隣か」
「ええ、そうよ」
何の躊躇いも無く即答する戦場ヶ原に、C.C.は苦笑する。
その苦笑が戦場ヶ原に対する呆れなのか羨望なのかは、C.C.自身にもわからなかった。
◆ ◆ ◆
とある民家。
八畳の和室の片隅に敷かれた布団の中で、ユーフェミアは未だ眠り続けていた。
肩の傷はファサリナの手によって処置が施されている。手当ての間もユーフェミアが目を覚ますことはなかった。
ユーフェミアのデイパックの中に入っていた武器の類は、今は上条とファサリナのデイパックに分けて入れられている。
ユーフェミアが眠るのと同じ和室の中央には、ちゃぶ台を挟んで向き合って座り、話し込む上条とファサリナ。
自分の右手が持つ能力、幻想殺し《イマジンブレイカー》のこと。
インデックスのこと。小萌先生のこと。
白井黒子のこと。
海原光貴のこと。
この地で命を落とした
御坂美琴のこと。
大切な人を守って散った
神原駿河のこと。
最後までかっこよく戦って死んだ
アーチャーのこと。
出会えたもののはぐれてしまった一方通行のこと。
自分の目の前で命を絶ったレイ・ラングレンのこと。
自分を『悪意の扇動者』とまで言った枢木スザクのこと。
結局何を考えているのかよくわからなかったC.C.のこと。
そして、守ると約束したのに別れてしまった
戦場ヶ原ひたぎのこと。
真剣な表情で話す上条は、ファサリナと情報交換をしている―――つもりになっていた。
上条は自身の持つ情報の殆どを吐き出している。少なくとも、意図的に隠していることは皆無だ。
それに対してファサリナは、嘘こそないものの、提供した情報はごく僅か。
対等な立場での等価交換には程遠い。
しかも、上条はそれに気づいていない。
これは決して、ファサリナが特別話術に長けていたというわけではない。
上条が劣っていたのだ。
”相手の話を聞く”ということに関して。それ以上に、”冷静になる”ということに関して。
上条が一通り話し終えたのを見計らって、聞き役に徹していたファサリナが口を開く。
「当麻は、スザクとレイという人にそこまで言われても、己の信念を曲げるつもりはないのですね?」
その問いに、上条は頷く。
「たしかに俺の取った行動は間違っていたかもしれない。もっと上手い方法があったのかもしれない。
けど、俺がやろうとしたことは、目指そうとしているものは、間違っちゃいないはずなんだ。
だってそうだろ? 誰かが誰かを殺していい理由なんてどこにもない。
誰かを犠牲にするなんて、そんなの絶対におかしいんだ。誰かが死んでも仕方ないなんて、そんな風に諦めちゃダメなんだよ。
本当はみんな、誰かの死なんて望んじゃいないはずなんだ。
だから俺はこんな殺し合いは認めない! あんただってそうだろ、ファサリナ!!」
感情のままに叫び、上条はファサリナを見つめた。まるで縋る様な目で。
上条は、必死だった。
「……当麻が大きな声を出すから、ユーフェミアが目を覚ましてしまったようですわ」
ファサリナの言葉に、上条が振り返る。
布団の上で上体を起こし、無言のままでこちらを見つめるユーフェミア。
怯えた様子で上条とファサリナを見つめる瞳に、呪われた赤は無い。
この時点では上条やユーフェミアを含め、この会場にいる参加者の誰一人として知る由もないことだが――
ユーフェミアは『日本人を殺せ』というギアスに支配されていた。
だが、そのギアスは、上条の幻想殺し《イマジンブレイカー》に殺された。
ギアスが解除されたのは、上条がユーフェミアを殴り飛ばした時ではない。顔に触れただけではギアスは消えない。
幻想殺し《イマジンブレイカー》が発動したのは――ギアスが消されたのは――それよりも少し後。
ユーフェミアの頬の紅潮に気づいた上条が、右手で額に触れた時である。
だが、上条とファサリナは、この事実を正確に把握していない。
上条はファサリナから、ユーフェミアが何者かに操られ日本人を殺すために行動していた可能性が高いという話を聞いた。
その時に上条は、それが魔術なら自分が右手で殴ったその時にその術は解除されたはずだと判断し、
上条の話を聞いたファサリナは、上条が嘘を吐くタイプの人間に見えなかったことから、それを概ね信用してしまったのだ。
「あなた、は……」
ユーフェミアが呟く。その声は恐怖に震えていた。
ユーフェミアにはギアス発動中の記憶が無い。
一緒にいたはずの黒子たちの姿は見えず、自分がいたはずの場所とは明らかに違う場所にいる。
それだけでも恐怖を感じるのには十分だというのに、
このゲームが始まった直後に自分を殺そうとした人物が目の前にいるのだ。
「私はゼクス・マーキスから貴方のことを託されました」
ファサリナが告げる。
突然出てきたゼクスの名前に、ユーフェミアはあげそうになっていた悲鳴を寸前のところで飲み込んだ。
だが、ファサリナの言葉に理解は追いつかない。
状況の把握もできず、ユーフェミアはただ戸惑うことしかできない。
そんなユーフェミアの様子を、ファサリナは黙って見ていた。
上条の話とゼクスの話を併せて考えれば、目を覚ましたユーフェミアが上条を殺そうとしなければ、
その時点でほぼ安全であるとファサリナは考えていた。
だが、まだ、ユーフェミアにかけられていた術が解かれたと断言することはできない。
ファサリナは、それを確かめる為、リスクは高いが最も短時間で行えるであろう方法を選択した。
「そこにいる上条当麻は日本人です。
単刀直入に聞きます、ユーフェミア。貴女は今も彼を……日本人を、殺したいですか?」
この数分後、ユーフェミアは上条とファサリナの口から聞かされることになる。
ゼクスの死を。
そして、自分がスザクの同胞である日本人を殺すために、行動していたことを――
◆ ◆ ◆
自分たちが置かれている状況は最悪。
それが、放送を聞いたグラハムと暦の出した結論だった。
放送によって告げられた死者は四人。今までの放送と比較すると格段に少ない。
参加者が減ったことで戦闘が起こりにくくなっているのか、殺し合いに乗った者同士が潰し合ったのか、
それとも
浅上藤乃のように殺し合いから降りた者が他にもいるのか――
理由はわからないが、全体で見れば殺し合いは減速していると考えていいだろう。
だが、死者として呼ばれた四人が問題だった。
【ライダー】
【ヒイロ・ユイ】
【レイ・ラングレン】
【ゼクス・マーキス】
ヒイロとゼクスはグラハムにとっては仲間だった。
特にヒイロは首輪解除のキーパーソン。
この二人の死は、大きな損失だ。
だが、それ以上に差し迫った問題がある。
死者として発表された四人のうち、レイ・ラングレン以外の三人については
グラハムと暦の持つ情報を合わせればその死亡位置をある程度まで推測できる。
D-5、もしくはその周辺。
そう考えて間違いないだろう。
そして、それは同時に、暦の探し人である戦場ヶ原がいる可能性の高い場所であり、グラハムと暦の現在地でもあった。
「誰もいないな。ファサリナや戦場ヶ原ひたぎが見つからないことを嘆くべきか、危険人物に遭遇しないことを喜ぶべきか……」
「僕には、嘆く余裕も喜ぶ余裕もありません。僕等がこうしている間にも戦場ヶ原は」
「すまない阿良々木少年。私の失言だ」
「いえ、僕のほうこそ……」
二人が乗っていた軍用ジープは、今はグラハムのデイパックの中にある。
軍用ジープは細い路地の多い住宅街で人を捜すのには向かないからだ。
周辺に危険人物がいる可能性を考えると大声で叫ぶわけにもいかず、
結果として二人は、土地勘のない街中を虱潰しに歩き回るという非効率な方法を取らざるを得なくなっている。
そんな状況で何の収穫も無く既に30分以上。
もはや、焦りは隠せなかった。
「……え?」
急に、暦がマヌケな声をあげる。
「どうした阿良々木少年」
「猫がいたんです。これくらいの大きさの黒猫で、そこの路地を右から左に走って行ったんですけど」
手で示しながら、暦は自分の見たものをグラハムに伝える。
「こんな街中であれば、野良猫の一匹や二匹いても不思議は無いと思うが」
「僕は今までこの島で野良猫や野良犬は見たことがありません。
それにデイパックに馬が入っていたんです。猫が入ってるってこともあるんじゃないですか?」
「つまり君は、その猫が誰かの支給品だと考えているということか」
暦が猫を見たという方向にグラハムは視線を向ける。だが、既にそこに猫の姿はない。
「しかし、移動手段となり得る馬と違い、猫がこの殺し合いの場で何かの役に立つとは思えないが」
「僕の支給品は、ギターとぬいぐるみとストラップだったんですけど」
「……それは、ただのギターと、ただのぬいぐるみと、ただのストラップだという認識でいいのかね?」
「だたのギターと、ただのぬいぐるみと、ただのストラップです」
「……」
「……」
「……ならば、猫が支給品という可能性も十分に考えられるな」
納得した様子のグラハムに、暦は提案する。
「グラハムさん。猫が来た方向を捜しましょう」
「猫が向かった方向ではなく、来た方向をか?」
「はい。理由や根拠は説明できないんですけど、僕はあの猫は誰かを呼びに行ったんだと思うんです。だから」
言葉を続けようとした暦をグラハムは片手を上げて制する。
聞かずとも、暦の言わんとしていることは理解できた。
誰かを呼びに行く、という行為の目的として考えられることはそれほど多くはない。
現状を考えれば、最も先に思いつくのは『助けを呼びに行った』というケースだ。
とすれば、猫が向かった方向よりも、猫が来た方向に危機に瀕している参加者がいる可能性が高いということになる。
もちろんこれは、暦の勘が当たっていることが大前提の仮説だ。
果たして、支給品にされた猫が見ず知らずの人間のためにそんな行動を取るのだろうか、とグラハムは考える。
だが、暦の瞳を見て、グラハムは決断した。
「――その旨を良しとする。
阿良々木少年、君の提案にこの
グラハム・エーカー、乗らせてもらおう」
◆ ◆ ◆
上条、ユーフェミア、ファサリナの三人は、D-5を西へと進んでいた。
この近辺には危険人物がいる可能性が高い、というのが、移動を提案したファサリナが口にした理由だ。
だが、実際は違う。
本当に危険人物がいるのなら、建物の中に隠れていたほうが安全だ。
移動するにしても、西にある橋ではなく、南を目指すべきだろう。
では何故、彼等が西に進んでいるのかといえば、それは単にグラハムたちとの合流を目指すファサリナの都合でしかない。
「大丈夫ですか、ユーフェミア?」
「……え、あ、あの……はい。大丈夫です……」
ファサリナからかけられた言葉に、どうにか答えるユーフェミア。
ユーフェミアはファサリナから言われるがまま、ここまで同行してきていた。
いくら世間知らずのお姫様とはいえ、普段の彼女であれば、自分を殺そうとした人間に対してある程度の警戒心を抱いていただろう。
だが、今のユーフェミアにそれはできない。
ゼクスの死と、これまでの比ではない長時間の記憶の欠落を知った彼女に、冷静な思考などできるはずがなかった。
そして今の彼女には、『自分を殺そうとしていた人間』よりも、遥かに恐ろしいものがあった。
(私は本当に……日本人を……人を、殺そうなんて……そんなこと……)
怖かった。
ただ、怖かった。
ユーフェミアは今までの人生で、誰かを殺そうなどとは考えたこともない。
だから、自分が日本人を殺そうとしていたと聞かされても、俄かには信じられなかった。
だが、上条とファサリナの話を嘘だと断じるだけの根拠もない。
記憶が途切れたことは一度や二度ではないのだ。
上条たちに会う前に至っては数時間分の記憶を失っている。
その間、自分が何をしていたのかなんてことはわからない。
どうしても考えてしまう。
私は本当に人を殺そうとしたのかもしれない、と。
私のことを恨んでいる人がどこかにいるかもしれない、と。
もしかしたら本当に、この手で誰かを殺しているかもしれない、と――
(いや!)
ユーフェミアは、必死に自身の中で浮かび上がった最悪のケースを否定する。
自分が人殺しになったかもしれないという事実に一人で耐えるには、ユーフェミアの精神は疲弊しすぎていた。
そして、ユーフェミアの支えになるべき人間は、今この場にはいない。
自身が犯したかもしれない罪に。
自分自身がわからないという事実に。
ユーフェミアは、ただ怯える以外に術がない。
(いや……いや……たすけて。たすけて、スザク……!)
抱えきれない不安に支配されて、ユーフェミアは心の中で助けを呼び続ける。
ひたすらに繰り返すのは騎士の名前。
(スザク……スザク……お願い、たすけて。ここに来て、スザク)
「にゃあ」
そんなユーフェミアの思考は、一匹の猫の声で断ち切られた。
ユーフェミア達の進行方向に、お世辞にも可愛いとは言えない黒猫が佇んでいる。
「あれ? あの猫、たしか……」
思わず漏れた上条の呟きに、ファサリナが問いかける。
「当麻の知っている猫ですか?」
「ああ、あれは」
「アーサー!!」
「そう、アーサー……って、ユフィ、あの猫、知ってんのか?」
上条のそんな疑問は、ユーフェミアまで届いていなかった。
アーサーに駆け寄り、少しでも目線の高さを合わせようとその場に屈んだユーフェミアは問いかける。
「アーサー。どうして貴方がこんな場所に」
聞きながら、ユーフェミアはアーサーの毛に、僅かに付着している血に気がついた。
「にゃあ」
アーサーが答える。
上条とファサリナにはただの猫の鳴き声にしか聞こえなかったが、ユーフェミアにとっては違う。
ついてこい。
アーサーははっきりと、そう言った。
走り出したアーサーの後をユーフェミアが追う。
わけがわからないままに上条がその後を追い、さらにその後ろにファサリナが続く。
アーサーはまるで、ユーフェミアが追いつくことのできる限界を熟知しているかのようなペースで、入り組んだ路地を進んで行く。
「待ってください、アーサー!」
ユーフェミアは、自分の身体に蓄積されている疲労のことなど忘れていた。
ついさっきまで不安に怯えていたことさえ、今では頭の片隅に追いやられている。
今、彼女の中にあるのは、湧きあがってくることを抑えられない別の不安だった。
何故、アーサーが自分の前に現れたのか。
何故、アーサーは自分に「ついてこい」と告げたのか。
アーサーは自分をどこへ連れて行こうとしているのか。
アーサーに付いていた血は誰のものなのか。
それを考えると、泣きそうなくらいの不安が胸を支配した。
そして、いくつめかの角を曲がった瞬間。
彼女は自分の不安の正体を知ることになる。
ユーフェミアは、足を止めた。
止めざるを、得なかった。
点々と続く血痕の先には、塀に凭れ座り込んだまま動かない身体。
左腕は無く、切断された断面の下には血溜りが作られている。
南から吹いた風に揺れる茶色い髪は、ユーフェミアが心の中で助けを求めた、大切な人のもの。
「スザク!!」
あまりに凄惨な光景に立ち尽くしていたユーフェミアが、状況を理解し動きだす。
「スザク」
血で汚れることを厭わずユーフェミアはスザクの傍らに膝をつく。
長い髪がその動きに少し遅れてついてくる。
コンクリートに膝を打ちつけたが、痛みなど感じなかった。
「スザク」
声が震える。涙が零れ落ちた。
「スザク、私です。ユフィです」
ユーフェミアは手を伸ばし、スザクの頬に触れる。
かろうじて目を開けてはいたものの、それまで動くことのなかったスザクの身体が微かに動く。
動いたのは左肩。
……そう、まるで、今は無い左手をユーフェミアに向けて伸ばすかのように……
「スザク」
一人は怖かった。
ずっと、会いたかった。
アーニャやゼクスや他の誰かと一緒にいても、ユーフェミアは常にスザクの存在を求めていた。
でも、こんな再会を望んでいたわけじゃない。
スザクが傷つくことを、望んでいたわけじゃない。
スザクのこんな姿を、見るのは辛い。
だけど、目を逸らさない。ユーフェミアは、スザクの右手を握りしめる。
「ユフィ……僕も……、君に…あえ、て……………」
――――もう、緑色の瞳は見えなかった。
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最終更新:2010年08月16日 03:09