暁の終焉(中編) - (2007/04/24 (火) 19:24:52) の1つ前との変更点
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*暁の終焉(中編) ◆WwHdPG9VGI
■
「俺のカバンに、薬が入っていたのを疑っているなら――」
「ええ、それが証拠よ」
あっさりとハルヒは言った。
「俺が言うのもなんだけど、証拠品を残しておく犯人ってのは、間抜けすぎやしないか?
俺がそこまで間抜けに見えるっていうなら仕方ないけどな」
皮肉を混じらせて、ロックは言った。。
「そうね。でも、逆に言えば、そこが怪しいのよ」
「……どういうことだい?」
「証拠を自分のディパックに残せば疑われるなんてこと、それこそ小学生でも高学年になれば思いつくわ。
少し考えれば、誰か別の人間がロックに罪を着せるために仕組んだに違いない、という結論に達するでしょうね。
そしてそれが、あんたの狙いだったのよ」
ハルヒの声は淡々としており、彼女の確信の強さをうかがわせた。
「一度分かりやすく疑われることで、完全に容疑者から外れる。単純だけど、強力な心理トリックだわ。
調査済みだと思ったものをもう一度調査する人間は、いないもの」
「……動機は?」
抑えてはいたが、その響きには苛立ちが感じられた。
「俺は、ずっとしんのすけ君と行動してきた。危害を加えるつもりなら、とっくにやっていたと思わないのか?」
「そうね。足手まといの子供を連れ歩くなんて、デメリットにしかならない……。これも、単純に考えたらそうよ。
単純に考えたら、だけど」
「……単純に考えなければ?」
「足手まといの子供を連れ歩いていれば、『人に危害を加える人間じゃない』と他の参加者に思わせられるってメリットがあるわ。
そうなればしめたものよ。善人面をして集団にもぐりこむことができるんだもの。
この腐れゲームで、誰かの信頼を勝ち取るのは、簡単なことじゃないけど、子供を連れ歩くほどの善人ともなれば別だわ。
現にあったは、エルルゥさんという、傷の治療が出来る薬師を味方につけることもできたし、今もこうして集団にもぐりこむ事ができてる」
ややあって、
「よくもまあそれだけ、悪意てんこ盛りの発想ができるもんだ」
心底呆れたという風に、ロックが吐き捨てた。
「……集団に潜り込んだあんたは、用無しになった足手まといを切り捨て、ついでにあたし達を度疑心暗鬼に追い込んで、切り崩そうともくろんだ。
そりゃそうよね。全員がスクラム組んでる集団じゃあ、万が一の時、皆殺しにできないもの」
ハルヒの声は、どこまでも決まりきったことを読み上げるようだった。
「ちょっと待ってくれ。俺は、君達にアレを提供しただろう? 優勝狙いだとするなら矛盾してるじゃないか」
「保険よ! 生き残る道は、多いほうがいいに決まってるもの。リアリストのあんたなら、分かるでしょ?」
「……だが結局、君の言ってることは全部推測だ。何一つ証拠はありゃしない」
「証拠? 証拠ですって!?」
ハルヒの声が甲高くなった。
「そんなもん、必要ないわ! だって、どう考えたって、犯人はあんたしかいないもの!
トウカさんは、毒なんか使う必要がない。しんちゃんは自殺する動機がない。沙都子ちゃんは論外の外!
キョンは絶対に違うし、沙都子ちゃんをあんなに心配してる魅音が最後の一人になろうなんて考えるはずがない!
だから……。あんたしかいないのよっ!!」
絶叫が居間のドアを震わせた。
「トウカを先に行かせたのは、そういうことか……」
「そうよ! エルルゥさんが庇った人だってことで、あんたを庇うかもしれないもの」
「……そこまで疑ってるなら、さっさと撃てばいいだろう。どうして、こんな風に長々と?」
氷のような声で、ロックは尋ねた。
「あたしわね、陰険なやつが大嫌いなのよ。人を舐めきって、どうせ分からないだろうと心の中でせせら笑ってるようなやつが大っ嫌い。
だから、そいつがどれだけ大したことのない人間か、分からせてから……。殺してやろうと思ったのよ!!」
鉛のような沈黙が満ちた。
「……撃つ前に一つだけ、俺の願いを聞いてくれないか?」
「懺悔なんかしたって無駄よっ!!」
冷酷にもハルヒは、一言の下に斬って捨てた。
「そうじゃない……。しんのすけ君が起きるまで、待って欲しい」
「はぁ? 時間稼ぎしようってつもりなら……」
ハルヒの声音に、初めて疑問の成分が混じった。
「さっき思い出したんだが……。しんのすけ君が、台所の方をうかがっているのを、俺は見たんだ。君はみかけなかったか?」
「……確かにやたらと、うろちょろしてた気もするけど……。それがどうしたっていうのよ!?」
ハルヒの怒鳴り声が響いた。
「やっぱりな……。しんのすけ君はエルルゥに懐いてたから、手伝おうとしてたか、話しかけようとしてたんじゃないかと思ったが、
案の定か」
「あんたの話は、まわりくどいのよっ!! 結局、何だっていうわけ!?」
「簡単なことさ。あのお茶に毒が入っていたのは間違いない。だから――」
「……しんちゃんが、犯人らしき人を見たかもしれない。そういうわけ?」
「いくらエルルゥが精神的に消耗していたとはいえ、彼女の隙を伺うためにはそれなりの時間、台所周辺にいなきゃならなかったはずだ。
だから、しんのすけ君が台所周辺にいた人物を思い出してくれれば――」
それきり声は途切れ、長い沈黙が満ちた。
「悪あがきが過ぎるとは思うけど……。分かったわ、撃つのは待ってあげるわ」
「……ありがとう。今の俺には、君のその言葉がカーネギー名語録全てより、ありがたく聞えるよ」
心底安堵したというように、ロックが言った。
「ゴチャゴチャ言ってないで立ちなさい! ほらっ! とっとと歩くのよ!」
「バターン半島への行軍じゃないだろうね?」
「待ってあげるって行ったでしょ!? けど、しんちゃんが起きるまで、あんたには和室に居てもらうからね」
ロックはため息をついた。
「あそこなら、窓もないからな……。やれやれ、トイレ休憩はくれるのかい?」
「舐めた言うんじゃないわよっ!! 部屋から出ようとしたら、容赦しないからね!!」
二人の足音が遠ざかっていくのを確認し、沙都子は居間へ通じるドアから、耳を放した。
(……出て行かずに聞いておいて、よかったですわ……)
沙都子は胸を押さえた。
(そういえば確かに、しんのすけさんは、やたらとエルルゥさんの側にいきたがってましたわね……)
山の中でのしんのすけの行動を思い出し、沙都子は顔をしかめた。
背後には気を配っていたが、自分はエルルゥの隙を伺うことに、集中力の大半を裂いていた。
――見られたかもしれない
心の中に不安の黒雲が立ちこめ、心臓がばくばくと音を立てている。
(どうすれば、どうすれば、どうすれば、いいんですの?)
ハルヒがロックの申し出を受け入れた時、ロックの口調は確かに明るさを増した。
(もしかして……)
――ロックは自分が犯人だと気づいている?
沙都子の胸を、氷の槍が刺し貫いた。
息が乱れ、嫌な汗が吹き出る。
(落ち着いて……。仮にしんのすけさんが、私を見たと証言しても、それで何が変わるっていうんですの?)
沙都子の心の水面が、その揺らぎを弱めた。
(そうですわ……。ハルヒさんも私のことを警戒しているようすはありませんでしたし……)
必死に自分を落ち着けようと、沙都子は安心材料を心の中で繰り返す。
でも、でも……
――魅音がまた鬼のような表情になって、自分が悪いと言い出したら?
自分の体がおこりのように震えだすのを、沙都子は感じた。
(そうですわ……。魅音さん、あの人だけは、私のことを疑ってもおかしくない……)
不安の風は、たちまちの内にその強さを増していく。
どうしよう、どうしよう、どうしたら……。
不安にかられるまま、意味も無く視線をあちこちにさ迷わせるうちに、沙都子の目が一点に吸い寄せられた。
沙都子の視線の先には、寝息を立てるしんのすけの姿があった。
ありったけの憎悪をこめて、沙都子は、しんのすけを睨んだ。
(この子が死んでさえいれば、全部上手くいったのに! どうして死んでくれなかったんですの!?)
飛び掛って首を絞めたくなる衝動を、沙都子は抑えつけた。
そんなことをしたら、自分が犯人だと白状するようなものだ。
――待て
しんのすけが、このまま目覚めなければ、全ては丸く収まるのではないか?
要は、ばれなければいいのだ。
(……エルルゥさんはああ言ってましたけど、異世界の薬が、異世界の人間にどんな効果をもたらすかなんて、誰にも断定できませんわ。
ましてやしんのすけさんは幼児。
大人には問題ない量でも、幼児に強い薬をたくさん飲ませれば危険だということなんて、誰でも知っている常識ですもの)
死ななくてもいい、薬のせいでしゃべれなくなるだけでもかまわない。
古今東西、犯罪者は証拠品を徹底的に隠滅したがあるものである。
その例にもれず、沙都子の心は、しんのすけという証拠を消すことに、一気に傾いていった。
(これは……乗り越えるべき壁なんですわ。私の中にある甘えを消し去り、覚悟をきめるための儀式……)
エルルゥが死んだとき、自分は涙を流していた。
あんなことではいけない。
弱いままでは、最後の一人になんて、なれるはずがない。
幸運なことにこの家には今、人はほとんどいない。
ハルヒとロックは奥の和室、魅音たちは埋葬のために外に出ている。
(急がないといけませんわ……。魅音さんたちがいつ戻ってくるか、わかりませんもの)
躊躇っていては、絶好の機会を逸してしまう。
そのことが、沙都子を更に駆り立てる。
松葉杖をついて立ち上がり、部屋のドアを開けた。
――誰もいない。
台所までの距離がやたらと遠く感じられた。
コップを取り出して、水をいれ、薬を溶かす。
(速く、速く、速くしないと……。魅音さんたちが戻ってくる前に、終わらせてしまわないと……)
沙都子の頭には、もうそれだけしかなかった。
『人を殺す』という異常な行為に対する興奮と狂気は、沙都子から判断力を奪い去っていた。
(これだけ溶かしたものを飲ませれば、きっと……)
しんのすけが死ぬかどうか、今の沙都子には、それすらも関係なかった。
証拠を消せるかもしれないことを、何でもいいから、やりたくてたまらなかった。
コップを抱え、居間を抜けて襖に手をかけ、引き開けようとしたその時。
首筋に冷たいものが触れた。
「……いくらキョン殿の言うこととはいえ、まさかと思ってはいたが……」
沙都子が振り返ると、そこには白刃を構え、顔を歪めるトウカの姿があった。
「沙都子……どうして……」
驚きと困惑の表情を浮かべながら魅音が廊下から姿を現し、続いて厳しい表情をしたキョンが入ってくる。
そして最後に、
「君の脚本どおりになったな……」
「……別の結末になってほしかったわ。こんな結末……。最低よ」
ハルヒは呻いた。
エルルゥが台所に立った後あの場にいなかった人間は、ロック、エルルゥ、しんのすけ、沙都子の4人に間違いなかった。
これは、3人の記憶を何度も照らし合わせてみたから、間違いない。
トウカは、不協和音などおこさなくとも、その気になれば、全員をいつでも皆殺しに出来る力がある。
次にロックだが……。
正直なことを言えば、沙都子に聞えるように話した――沙都子が犯人だとするなら、聞いていないはずがない――
あの内容は、最後まで残った2つの仮説のうちの1つだったのだ。
だがロックが、小学生の女の子と天秤にかけられるリスクを犯すほど馬鹿だとは、どうしても思えなかった。
エルルゥが仮に死ななかったとして、彼女はお茶を入れに行くと提案した人間であり、薬師だ。
疑いがかかるようなやり方を取る犯人がいるはずがないから、彼女も外れる。
3択にはなりえず、ロックと沙都子の2択ということに、結局なってしまう。そんな馬鹿なことをロックがするだろうか?
――となれば、結論は1つ。
リアリストのロックならば同じ結論に辿り着いているとは思った。
ロックが自分の言葉から、自分達もロックと同じ結論に達していることを読み取ってくれるかどうかは賭けだったが、
ロックは読み取るばかりでなく、的確にアシストまでしてくれた。
自分も同じようなことをやる予定ではあったが、瞬時に考え付くあたりは、流石ロックというところか。
芝居は成功した。
けれど、ちっとも嬉しくない。
(ロックが、犯行動機を白状し出すとか、そういう展開だったらよかったんだけど……)
トウカが家の中にいないと思わせたのは、ロックが反撃に出た時の保険の意味が大きかったというのに。
しかしロックは終始大人しく、こういう結末を迎えることになってしまった。
ハルヒは沈痛な眼差しで沙都子を見つめた。
■
――はめられた。
沙都子の体から力が抜けた。
全てはお芝居だったのだ。
コップが落ち、畳の上で跳ねて液体がこぼれた。
「……沙都子、どうして……」
信じられない、という表情で魅音が尋ねてくる。
(……私を疑って、こんな大掛かりなお芝居までしておいて、白々しいですわ)
沙都子が犯人かもしれないと、ハルヒやキョンに吹き込んだのは魅音に決まっているのに。
「……魅音さんなら、ご存知でしょう?」
「分からない、分からないよ、沙都子……」
沙都子は唇を噛んだ。
この人は、この期に及んでも自分に対して保護者ぶることで、周りに対して自分が善人だという印象を与えようとしている。
沙都子の胸に怒りが込み上げた。
(このまま魅音さんに利用されて終わるなんて……。冗談じゃないですわ)
怒りが絶望をおしやり、沙都子の身体に力を蘇らせた。
沙都子は全員に視線を走らせた。
どの顔も困惑の表情を浮かべ、どこか痛ましげな視線を、自分に注いでいる。
気取られないように俯きながら、沙都子は思考する。
自分は子供、年齢を重ねたものにとって守るべき、そして純真であるべき存在だ。
――そこを突く
沙都子の心は決まった。
「……私……にーにーに、会いたかったんですもの」
「け、今朝いったじゃないか! きっと帰れるって!」
「そんなの無理に決まってますわ!! こんな、こんな爆弾がつけられてるんですもの!! 外せるわけ、ないじゃありませんか!」
絶望し、怯えきった子供の表情を浮かべながら、沙都子は声を振り絞った。
「あの仮面の男が行ってましたわ……。この世界から、出ることができるのは一人だけだって……」
「……だからって、しんのすけをっ!」
「生きて帰れる方法がそれしかないのなら、そうするしかないじゃありませんの!! 死んでしまったらもう……にーにーに会えない……」
喋っているうちに感情が高ぶり始め、沙都子の目から、自然と涙が零れ落ちた。
激情に身を委ねながらも、沙都子は集中力を振り絞る。
自分は、恐怖のあまりおかしくなってしまった子供だ。演技などではなく、心からそう思い込まなければならない。
そう、思わせなくてはならない。
「……そんなの嫌……。いやぁぁぁっっ!!」
髪を振り乱し、悲痛な声で泣き叫ぶ少女のあまりの痛ましさに、沙都子を取り巻く人間達は、思わず目を逸らした。
「ちょっ……落ちつい……」
ハルヒが思わず手を差し伸べようとする。
「……いやぁぁぁっっ!!」
耳をつんざくような絶叫が空間を埋め尽くした。
「……いやっ!! 撃たないで、撃たないでよぉぉ!! 誰か助けてっ!! にーにー……助けて……」
涙を流しながら片足で少女が這いずり回る様は、あまりにも悲惨な光景だった。
ハルヒはぎょっとして棒立ちになり、
「えっ!? あっ……。ご、ごめん」
手にした銃に気づくや否や、銃を放り投げた。
「落ちつけよ。誰もその……なんだ。君をどうこうしようなんて、思っとらんから」
あやすように言って、キョンが沙都子に近づこうとする。
誰もがすでに、沙都子がしんのすけを殺害しようとしたことを忘れているかのようだった。
(……上手く、いきましたわ……)
泣き喚きながら、沙都子は計算する。
おそらくもう、ハルヒやキョンは、自分を殺すことなどできすまい。
これも心理戦だ。嘘の顔で相手を欺き、人のウイークポイントをつく。
沙都子が、さらに泣き声を響かせようと息を吸い込んだ、その時。
「末期の言葉は、それだけでよいのだな?」
絶対零度の声音に、誰もが凍りついたように動きを止めた。
■
――やらねばならない。
守らなくてはならない人を、守るために。
エルルゥに誓ったことを、破らぬために。
災いの根は、絶たなくてはならない。
そために。
――鬼にでも、なる。
静寂の中、トウカが沙都子に歩み寄っていく。
「しんのすけ殿に毒を盛り、エルルゥ殿の死を呼び込んだ罪は重いっ!! 成敗する! そこへ直れっ!!」
トウカの体から殺気が炸裂した。
その場にいたものが、部屋が吹き飛んだかと錯覚するほどの殺気の放出であった。
肉食獣の檻に放り込まれたような感覚がその場にいる者達を襲う。
否、今のトウカは獣などという優しい存在ではない。もっと恐ろしい何かだ。
白刃が抜き放たれ、刀身が鈍く光った。
「……ま……まって……」
恐怖を必死に振り払い、魅音が震える手を前に出した。
「魅音殿。こやつは卑劣にも幼子に毒を盛り、そして露見するかもしれぬとみるや、再度殺害をもくろんだ。捨て置くわけにはいかぬ!」
魅音の方を見ようともせず、トウカは、怯えきって動けない沙都子を冷然と見下ろした。
「何か他に、言い残すことはあるか?」
「あっ……う……」
沙都子は金魚のようにパクパクと、口を動かすことしかできなかった。
演技を続けようとする気力も、力も、何処かへ消し飛んでいた。
ただ、目の前の存在が、怖くてしかたなかった。
「無いのか。ならば……」
トウカが、剣を宙に舞い上げた。
――本当に斬る気だ。
「待ってよ!!」
恐怖の金縛りを渾身の力で断ち切り、魅音は叫んだ。
「トウカさん! 私が……私が言えたことじゃないのは、分かってる……。でも、沙都子を許してあげてよ!
沙都子はただ、怖かっただけなんだ! いきなり殺し合いをさせられて……。仕方ないじゃないか! 沙都子はまだ子供で……女の子なんだよ!?」
必死で魅音は訴えた。
「園崎の言うとおりですよ! そりゃ、殺そうとしたのは、なんていうか……その……あれですけど……。
こんな酷い状況じゃあ、沙都子ちゃんがおかしくなったって、仕方ないじゃないですか!!」
魅音から少し遅れて金縛りから脱したキョンは、魅音を援護した。
(どうしちまったんだよ? トウカさん)
子供を情け容赦なく斬ろうとするなんて、らしくないにも程がある。
魅音を許した彼女とは、別人のようだ。
(違う……。むしろ、そのせいか?)
鉄の自制心で魅音を許すことはできても、トウカの怒りは、消えたわけではなかったのだろう。
寧ろ、抑え込んだことで行き場を失って凝縮されていた怒りが、脱出口を見つけて噴出しているのかもしれない。
「……魅音殿やキョン殿の故郷ではどうか知らぬが、トゥスクルでは、罪の軽重に大人と子供の区別は存在せん」
思わずキョンは顔をしかめた。
(おいおい、文明の衝突かよ……。こんな時に、少年法の有難みを知りたくなんぞ、なかったぜ)
どうやらトウカの世界では、大人も子供の平等に裁かれるらしい。
価値観が違うというのは厄介極まる問題だ。
「それに、キョン殿と魅音殿は子供と言うが、他人に罪を着せようと工作する狡猾さに、躊躇なく自分よりも幼い少年を害する冷酷さ……。
もはやこの者は、子供の範疇にはおさまらぬ!」
「それでも、大人ですら狂っちまいかねない状況を考慮しないってのは、あんまりですよ!」
周囲の環境と人格の未熟さを考慮しないにも、程があるではないか。
「トウカさん……お願いだよ!! 私が……。私が悪いんだ。ちゃんと沙都子に首輪のこと、説明しなかったから!!」
「あ、あたしも、キョンと魅音に賛成よ! しんちゃんは、無事だったんだし……。
沙都子ちゃんだって、言って聞かせればきっと落ち着いて……」
「それは違うな」
冷め切った声に、思わずキョンと魅音、そしてハルヒはロックを凝視した。
「その子は冷静だ。冷静に俺達を殺そうとした……。そうだろ? 沙都子ちゃん」
沙都子の瞳に怯えの色彩が浮かび上がった。
「な、何を根拠にそんなこと言うのさ!?」
魅音が噛み付くが、ロックは眉一つ動かすことなく、
「その子は、さっき泣き喚いている時ですら、冷静さを残してた。冷静に俺達の反応を測ってた」
「ロックさん。罪を着せられて、頭に来るのは分かりますけど……」
顔をしかめてキョンは言った。
「俺は冷静だし、根にもってもいやしない。信じるかどうかは、君たちの自由だが、俺の目にはそう見えた」
いつの間にかロックの目には暗黒の光が宿っており、それにキョンや魅音達を圧倒する。
(まったく……。レヴィの台詞じゃないが、惑っちまってたな……)
悪人しかいない場所から急に移動させられたせいで、人を見極める目が狂っていたようだ。
いつもの全てを疑う目で見るなら、色々なものが見えてくる。
――恐ろしいほど、見えてくる。
誰かの命を守ろうとするなら、悲しみを止めようとするなら、そうなる必要があったというのに。
惑っていたせいで、できていなかった。
自分が惑っていなければ、エルルゥは死なずにすんだかもしれない。
後悔しても仕方がないが、彼女の遺志を継ぐためにも、ここからは間違うわけにはいかない。
ロックは、感情を排した冷徹な視線を沙都子に向けた。
トウカが、わが意を得たりとばかりに頷いた。
「某もロック殿と同じ考えだ。この者は、悔い改めたりはすまい」
宙に浮いた刃が、動い――
「だったら、私を斬って!! エルルゥさんを撃ったのは私だ! 罪は私の方が多く背負うべきでしょっ!?」
咄嗟に身体をトウカと沙都子の間に割り込ませ、魅音が叫んだ。
「それは違う! その鬼の子が災禍の根源だ。魅音殿はただ――」
「私があんなことしなければ、誰も死なずにすんだんだ! 冷静に犯人を捜して、沙都子をちゃんと止めてたら、エルルゥさんは死ななかった!
斬るなら私を斬って!! でも、沙都子のことは、許してあげてよっ!!」
身体は震えていたが、魅音の表情には覚悟があった。
「魅音殿……」
トウカの声に、始めて感情の色が混じり、沙都子に向けられていた殺気がわずかに緩む。
圧迫から開放され、沙都子は、胸の中に混乱を抱えたまま思考する。
(どうして……。どうして魅音さんは……。私のために、そこまでしてくれるんですの?)
分からない。さっぱり分からない。
――自分が犯人かもしれないと皆に吹き込んだに違いない魅音が、どうして今度は自分を庇うのか。
沙都子の思考は混乱を極めていた。
魅音のやることは、矛盾だらけだ。
鬼のような顔をした魅音、笑顔の魅音、皆に自分の悪口を吹き込む魅音、目の前で自分を庇っている魅音……。
分からない。頭がおかしくなりそうだ。
(どれが演技で、どれが本当の魅音さんなんですの!?)
――演技
沙都子の頭に閃くものがあった。
(そうですわ……。この状況全てがお芝居だとしたら、説明がつくじゃありませんの)
何故こんなことに気づかなかったのだろう。
乱れていた思考が、急速に収束していくのを沙都子は感じた。
(さっきと同じですわ。きっとこれは、私がどう反応するかを確かめるためのお芝居……)
そう仮定すれば、魅音の不自然な行動にも説明がつく。
山の中で、あれほど自分に優しかったロックや、どうみてもお人よしのトウカが急に冷酷になったことにも、魅音の不自然な行動にも説明がつく。
――だとするならば
(このまま、魅音さんの後ろに隠れていては、正真正銘の悪人であるという烙印を押されてしまいますわ……)
沙都子は口を開いた。
「……魅音さん、ありがとう。私の……私なんかのために……」
俯き、声を詰まらせながら沙都子は言った。
「でも……その人の言うとおりですわ……。私は、取り返しのつかないことを、してしまったんですもの……」
心底後悔しているというように、沙都子は声を震わせる。
「だから……。いいんです……。もう、十分ですから……」
「沙都子!?」
沙都子は、魅音に小さく笑ってみせた。
運命を受けいれたというように、心の整理はついたというように。
「……勝手なもので……死ぬのは……怖いですけど……。それしか、償う道がないなら……。私は……」
――涙を流せ。感情に訴えろ。
沙都子は自分を叱咤した。
全身全霊を振り絞って演技をし、沙都子は結果を待つ。
だが、聞こえた言葉は。
「――良い覚悟だ。せめてもの情け。苦しまぬよう一太刀であの世へ送ってやろう」
沙都子は、愕然として頭上のトウカの顔を見上げた。
トウカの瞳に宿るのは、凍てついた殺意のみ。
処刑人というものの目は、おそらくこうであろうと沙都子は直感する。
――芝居なんかじゃない
恐怖が、沙都子の全身を貫いた。
トウカの目が細められ、殺気が沙都子を襲う。
――殺される!!
思わず沙都子は目を閉じ、無我夢中で我が身を守ろうとした。
「あっ……」
誰のものとも分からぬ声が聞こえた。存在すべきでないものを見てしまった、そんな思いが秘められた声だった。
おそるおそる沙都子が目を開けると、目の前には魅音の背中があった。
自分の手が魅音の体を掴んでいた。
白刃が魅音の額すれすれで止まっていた。
魅音を盾にしてしまった
その事実に気づくと同時に、沙都子の体から力が抜けた。
――もう終わりだ。
沙都子は、湧き上がる絶望に身を委ねた。
■
「……まさか……。本当に……鬼の子であったとは……」
トウカは肩を落とした。
ハクオロ、アルルゥ、カルラ、エルルゥ、自分が守らなければならなかった人々は全て死に絶えた。
だからせめて、この世界に来てから守ると決めた者達だけは絶対に守りたかった。
エルルゥの遺志を継ぎたかった。
故に、鬼のふりをした。
目の前の子供が心底自分の犯した罪を悔い、二度とせぬと誓うことを、祈った。
ほんの少しでも、剣を受け入れるそぶりをみせたなら、斬るつもりはなかった。
だが、あろうことか目の前の少女は、自分を庇い続けた魅音を盾にした。
(斬らねばならぬ……。斬らねば……守れぬ!)
砂を噛む思いでトウカは、剣を振り上げた。
「駄目だ!! トウカさんっ!! 斬っちゃ駄目だっ!!」
喉の底から声を振り絞り、キョンは叫んだ。
今の今まで、疑いはしても、心のどこかで思っていた、信じていた。
――トウカが子供を斬るはずがない
だが、今は違う。トウカは本気だ。
「とめるな!! キョン殿!!」
「止めますっ!! 駄目なもんは駄目ですっ!!」
明確な論理はキョンにはない。
集団内に沙都子のような人間を抱えていては危険だということぐらい、百も承知だ。
ここで災いの根を絶って置いたほうがいいことも、分かる。
だがそれでも、キョンはリアリストになどなりたくなかった。
(理屈なんかしったことか! 駄目なもんは駄目だ!)
ここで、小学生の女の子を殺すことを許容してまったら。
――戻れなくなる
きっと元の世界に帰れても笑えない。
そしてそれは……。
(トウカさんだって同じことだ)
キョンは、大きく息を吸い込んだ。
「俺は、トウカさんに手を汚してなんか、もらいたくねえ!!」
目の前の人は、きっと傷つく。
仲間を次々と失って十分すぎるほど傷ついているのに、その上にまた傷が増えてしまう。
出会ってから何度か見たトウカの屈託のない笑顔が、キョンの頭をよぎる。
まるで小さな子供ようなトウカの笑顔が、キョンは好きだった。
(今、沙都子ちゃんを斬っちまったら……)
――トウカはきっと、元の世界に帰ってもあんな風に笑えない。
「やめてくれ! 剣をおろしてくれっ! トウカさんっっ!!」
キョンは声を振り絞った。
ロックは迷っていた。
さっきまでのトウカの行動が演技だということは分かっていた。
だから止めずに静観していた。
だが、今は本気だ。本気で斬る気だ
(どうする……。止めるか……)
ロックの顔に苦悩の皺が刻まれた。
沙都子のような存在を、集団の中に抱える危険性は、言うまでもない。
合理的に考えるなら、生かしておいて得なことなど、何一つ無い。
けれど、沙都子は幼い女の子だ。
幾らなんでも……。
――もう……悲しいのは……嫌です
(そうだったよな……エルルゥ。分かってる、分かってるさ……)
心の中でエルルゥに語りかけながら、ロックがトウカを止めるために足を踏み出そうとした、その時。
――あの子は殺しをやめられないよ。
耳の奥に蘇った別の声が、ロックを金縛りにした。
正体が露見しても、最後の最後まで、少女であるという自分の長所と迫真の演技で、周囲を欺こうとし続けた北条沙都子。
その精神力、狡猾さはトウカの言うとおり、子供の範疇を越えたものだ。
(あの時と同じだ! ギガゾンビの野郎が、このクソったれな状況が、あの子を人食い虎に変えちまったんだ! 畜生っ!)
――本当ならこの子は、学校に通い、友達をつくって幸せに暮らしたんだろう。
――でも、そうはならなかった。ならなかったんだ。
ごりっとロックの奥歯が軋んだ。
――だから、この話はここで、お終いなんだ。
違う、と叫びたかった。
今からでも遅くは無い、言い聞かせれば分かってくれるはずだ、そう叫んでトウカを止めたかった。
だが、動けなかった。
人食い虎となった少女を集団の中においておけば、エルルゥの恐れた『悲しいこと』がもっともっと起こってしまうかもしれない。
拳を震わせ、苦悩に顔を歪めながらも、ロックは動けなかった。
自分の息が荒くなるのをハルヒは感じた。
目の前で、小さな女の子が斬られようとしている。キョンが、必死にトウカをおしとどめようとしている。
やめろ、と叫びたかった。
どんな理由があるにしたって、そんなの間違っている。小さな女の子が殺される所なんて見たくない。
ハルヒの心は、全力でキョンに賛同していた。
それでも、ハルヒは動けなかった。
(アルちゃん……。ヤマト……)
ハルヒの頭に浮かぶのは、アルルゥとヤマトの顔。自分の短慮で死なせてしまった、二人の幼い団員達。
団長として、二度とあんなミスを犯すわけにはいかない。そうでなければ二人に申し訳が立たない。
歯を食いしばり、暴れる心の手綱を取りながらハルヒは思考を展開する。
沙都子を集団の中に置いて置くメリットは、ゼロ。
いつ背後から襲われるともしれないし、内部分裂の火種にもなりかねない。
長は、集団全体のことを考えなくてはならない。
そして、全体のことを考えるなら――
――答えは決まっている。
顔面を蒼白にし、唇を震わせながら、ハルヒは立ち尽くしていた。
キョンとトウカが言い争っているのを、沙都子は他人事のように見ていた。
ハルヒとロックは、厳しい目でこちらを見ている。
沙都子は、心の中で自嘲の笑みを浮かべた。
(当然の反応ですわね……)
自分のやったことが最低最悪の行為であることぐらい、わかる。
沙都子は小さくため息をついた。
それにしても、と沙都子は思う。
(どうして、こんなに……。心が痛いんでしょう?)
魅音を盾にしてしまったことが、ショックだったのだろうか?
そんなはず、ないのに……。
沙都子は、座り込んだまま動こうとしない魅音の背中を見つめた。
「御免!!」
鋭い声と共に、トウカがキョンを突き飛ばし、近寄ってくる。
(死ぬんですのね、私……)
何故か、あまり怖いという気持ちはなかった。
生きたいという気持ちが、あまり湧かない。
あれほど最後の一人になると、硬く誓っていたはずなのに。
――こんな自分なんか、生きていても仕方ない
空虚な心に、いつの間にか心の中にそんな考えが浮かんでいて、それを受け入れている自分に、沙都子は驚いていた。
トウカが刀を逆手に持ち替えた。
突然、沙都子の視界が真っ暗になった。
――死んだ?
そんな馬鹿な考えが、沙都子の頭をよぎる。
数瞬を置いて、沙都子は状況を理解した。
目の前にあるのは魅音の胸。
自分は、魅音に抱きかかえられている。
沙都子は信じられない思いで、その事実を確認する。
耳の近くで、魅音の声が響いた。
「……殺させない……。沙都子は……絶対に、殺させない……」
■
「み、魅音殿!? なぜ……」
トウカの声は驚きと困惑に満ちていた。
「その者は、魅音殿を……」
「……かまわない……」
自分を完膚なきまでに裏切った沙都子に対する怒りが全くないといえば、嘘になる。
小さな子に毒を盛り、周りの人間に罪を着せ、疑心暗鬼を引き起こして最後の一人になろうとした沙都子に、
まったく恐怖を感じないといえば、嘘になる。
その行為の醜悪さに全く嫌悪感を抱かないといえば、嘘になる。
でも、それでも。
「沙都子が、私のこと裏切ってても……人を殺そうとしたんだとしても……かまわない……」
沙都子は自分だから。
弱くて、身勝手で……。光に、クーガーに、トウカに、救われ、教えられても、
突き上げる感情を抑えきれずに過ちを繰り返してしまう、
どうしようもなく駄目な自分だから。
人殺しに堕ちてしまった、園崎魅音自身だから。
だから許せる、許したい、そう思う。
――それに
「……魅音さん……どうして……」
耳元で沙都子の声がする。
分からない、という思いが伝わってきて、魅音は小さく笑った。
――強い思いが、叫ぶから。
「沙都子……。あんたは、私の友達だ……」
沙都子がそう思っていなくても、かまわない。
魅音は、沙都子を抱く腕に力を入れた。
「あんたを殺すことなんて……できないよ」
■
(魅音殿……そこまで……)
トウカは、心の中で声にならぬ呻き声をあげた。
完膚なきまでに裏切られたというのに、魅音はそれでも、沙都子を許すという。
その優しさと懐の深さには、感嘆の念を禁じえない。
(だが……だが、しかし……)
沙都子という少女の行いは、あまりにも人の道を外れすぎている。
姦計を巡らし、幼子を手にかけようとし、人の心を利用し、裏切り、踏みにじる。
(生かして、おくわけには……いかん)
しかし、魅音が沙都子を抱きかかえているために、刀を振るえば魅音を傷つけてしまう。
トウカが歯噛みしたその時、
「トウカさん、もうやめてくださいよ」
振り返ると、背後にはキョンがいた。
突き飛ばされて転倒したときにぶつけた箇所をさすりながら、
「……この子だって分かってくれますよ。園崎が、言って聞かせれば、きっと分かってくれます。
仮に分かってくれなくても……何か考えましょうよ」
キョンがそう言うであろうことは、トウカには分かっていた。
キョンは、真っ直ぐで強い少年だ。
身が危険になるかもしれないという理由で、少女を殺すという決断を絶対にするまい。
(……さすがは、キョン殿)
自分の剣を捧げるべき人物だ。
だが、この場合は、その人柄の大きさが仇になってしまうのだ。
「……キョン殿も……魅音殿も……甘い……。甘すぎる!」
気づいた時には、トウカはそう口にしていた。
キョンは、困ったなというように顔をしかめ、
「……甘いって、言われたらそうなのかもしれませんけど……。何というか、そういうのって大事なことじゃないかって……俺は、思うんですよ」
押し黙ったままのトウカに、キョンは静かな口調で続けた。
「……トウカさんは、昨日、全然知らない人を……侍の格好をした人を弔ってあげてましたけど……。
あれだって、その……極論しちゃえば意味の無いことで……。合理的とか、そういう類の言葉で表せる行動じゃないですか」
トウカの眉が上がった。
「ああいうことも多分、甘さとか、そういうのに分類されると思うんですけど……。けど、ああいうものって、なくしちゃいけないものじゃないんですか?」
感情が高ぶり始めるのをキョンは感じた。
「……トウカさんは、この子を斬っちまったら、きっと後悔します!」
「某は、後悔などせぬ!」
「あなたは、そんな人じゃない!!」
怒気がキョンの口をついて出た。
「子供を殺して後悔しないなんて、そんなの嘘っぱちだ! 俺はもう、誰にも悲しい思いも、辛い思いもして欲しくないんだ。あなたにもっ!!」
キョンは、思いを込めた視線をトウカの瞳に叩きつけた。
「俺は……。トウカさんは、トウカさんのまんまで元の世界に帰って、笑って……欲しいんだ」
真摯な眼差しで自分を見つめてくる少年を、トウカは無言で見返した。
少年の視線は一瞬たりとも揺るぐことはなかった。
しばらくそうしていた後、トウカは大きく嘆息の息を吐いた。
「……分かった」
剣を鞘に戻しながら、
「魅音殿も……。お立ちくだされ」
苦笑の入り混じったトウカの声に、魅音は恐る恐るトウカを見上げた。
「まったく……。キョン殿と魅音殿は……」
呆れて物が言えないというように、トウカは天井を仰いだ。
キョンが頭をかき、魅音が苦しげに顔を歪めながら立ちあがる。
「ごめんなさい、トウカさん……。物凄く勝手で、許されないこと言ってるって分かってるけど……」
「それはよいのだが――」
トウカは、魅音の言葉を遮った。
「つくづく……。魅音殿とキョン殿は、お人よしだな。自身のことより、人のことばかり考えている」
トウカは暖かい笑みを浮かべた。
「だが、それがいい」
白い鞘が高速で閃き、くぐもった打撃音が二つ響いた。
悲鳴すら上げることなく、キョンと魅音の体は崩れ落ちた。
(某の全てをかけてもいいと、思えるほどに)
優しさと強さを秘めたこの二人を守りたいと、心から思う。
「……と、トウカさん!?」
「心配なさるな。強く打ってはおらぬゆえ、二人とも、すぐに目を覚ます」
ハルヒに返答し、トウカは先ほどまでとは打って変わった冷酷な目線を、下に落とした。
先ほどとは違い、沙都子は逃げようとも、命乞いをしようともせず、目を閉じてじっとしている。
「言い残すことは、あるか?」
「……しんのすけさんに、ごめんなさいと。魅音さんに……。ごめんなさい、今までありがとうございましたと、伝えてください」
トウカの心の水面が大きく揺らいだ。
今の沙都子は、自分の罪を悔い、甘んじて罰を受けようとしているように見える。
トウカの心に迷いの風が吹き荒れ、心の水面が大きく波打った。
(……いや、駄目だ。エルルゥ殿との誓いのために、キョン殿と魅音殿とお守りするために……。鬼に、ならねば!)
トウカは自分を叱咤した。
悲しみを増やさないために、守るべき人を守るために、禍根は絶たなくてはならない。
たとえ、魅音に恨まれようと、キョンに罵られようと、やらねばならない。
彼らの命を、尊い心を、踏みにじろうとする敵から、守るために。
トウカの瞳に殺意が戻り――
剣が、弧を描いた。
両断されたものが、とん、と床に落ちて転がった。
*暁の終焉(中編) ◆WwHdPG9VGI
■
「俺のカバンに、薬が入っていたのを疑っているなら――」
「ええ、それが証拠よ」
「……俺が言うのもなんだけど、証拠品を残しておく犯人ってのは、間抜けすぎやしないか?
俺がそこまで間抜けに見えるっていうなら仕方ないけどな」
皮肉を混じらせて、ロックは言った。。
「そうね。でも、逆に言えば、そこが怪しいのよ」
「……どういうことだい?」
「証拠を自分のディパックに残せば疑われるなんてこと、それこそ小学生でも高学年になれば思いつくわ。
少し考えれば、誰か別の人間がロックに罪を着せるために仕組んだに違いない、という結論に達するでしょうね。
そしてそれが、あんたの狙いだったのよ」
ハルヒの声は淡々としており、彼女の確信の強さをうかがわせた。
「一度分かりやすく疑われることで、完全に容疑者から外れる。単純だけど、強力な心理トリックだわ。
調査済みだと思ったものをもう一度調査する人間は、いないもの」
「……動機は?」
抑えてはいたが、その響きには苛立ちが感じられた。
「俺は、ずっとしんのすけ君と行動してきた。危害を加えるつもりなら、とっくにやっていたと思わないのか?」
「そうね。足手まといの子供を連れ歩くなんて、デメリットにしかならない……。これも、単純に考えたらそうよ。
単純に考えたら、だけど」
「……単純に考えなければ?」
「足手まといの子供を連れ歩いていれば、『人に危害を加える人間じゃない』と他の参加者に思わせられるってメリットがあるわ。
そうなればしめたものよ。善人面をして集団にもぐりこむことができるんだもの。
この腐れゲームで、誰かの信頼を勝ち取るのは、簡単なことじゃないけど、子供を連れ歩くほどの善人ともなれば別だわ。
現にあったは、エルルゥさんという、傷の治療が出来る薬師を味方につけることもできたし、今もこうして集団にもぐりこむ事ができてる」
ややあって、
「よくもまあそれだけ、悪意てんこ盛りの発想ができるもんだ」
心底呆れたという風に、ロックが吐き捨てた。
「……集団に潜り込んだあんたは、用無しになった足手まといを切り捨て、ついでにあたし達を度疑心暗鬼に追い込んで、
切り崩そうともくろんだ。 そりゃそうよね。全員がスクラム組んでる集団じゃあ、万が一の時、皆殺しにできないもの」
ハルヒの声は、どこまでも決まりきったことを読み上げるようだった。
「ちょっと待ってくれ。俺は、君達にアレを提供しただろう? 優勝狙いだとするなら矛盾してるじゃないか」
「保険よ! 生き残る道は、多いほうがいいに決まってるもの。リアリストのあんたなら、分かるでしょ?」
「……だが結局、君の言ってることは全部推測だ。何一つ証拠はありゃしない」
「証拠? 証拠ですって!?」
ハルヒの声が甲高くなった。
「そんなもん、必要ないわ! だって、どう考えたって、犯人はあんたしかいないもの!
トウカさんは、毒なんか使う必要がない。しんちゃんは自殺する動機がない。沙都子ちゃんは論外の外!
キョンは絶対に違うし、沙都子ちゃんをあんなに心配してる魅音が最後の一人になろうなんて考えるはずがない!
だから……。あんたしかいないのよっ!!」
絶叫が居間のドアを震わせた。
「トウカを先に行かせたのは、そういうことか……」
「そうよ! エルルゥさんが庇った人だってことで、あんたを庇うかもしれないもの」
「……そこまで疑ってるなら、さっさと撃てばいいだろう。どうして、こんな風に長々と?」
氷のような声で、ロックは尋ねた。
「あたしわね、陰険なやつが大嫌いなのよ。人を舐めきって、どうせ分からないだろうと心の中でせせら笑ってるようなやつが大っ嫌い。
だから、そいつがどれだけ大したことのない人間か、分からせてから……。殺してやろうと思ったのよ!!」
鉛のような沈黙が満ちた。
「……撃つ前に一つだけ、俺の願いを聞いてくれないか?」
「懺悔なんかしたって無駄よっ!!」
冷酷にもハルヒは、一言の下に斬って捨てた。
「そうじゃない……。しんのすけ君が起きるまで、待って欲しい」
「はぁ? 時間稼ぎしようってつもりなら……」
ハルヒの声音に、初めて疑問の成分が混じった。
「さっき思い出したんだが……。しんのすけ君が、台所の方をうかがっているのを、俺は見たんだ。君はみかけなかったか?」
「……確かにやたらと、うろちょろしてた気もするけど……。それがどうしたっていうのよ!?」
ハルヒの怒鳴り声が響いた。
「やっぱりな……。しんのすけ君はエルルゥに懐いてたから、手伝おうとしてたか、話しかけようとしてたんじゃないかと思ったが、
案の定か」
「あんたの話は、まわりくどいのよっ!! 結局、何だっていうわけ!?」
「簡単なことさ。あのお茶に毒が入っていたのは間違いない。だから――」
「……しんちゃんが、犯人らしき人を見たかもしれない。そういうわけ?」
「いくらエルルゥが精神的に消耗していたとはいえ、彼女の隙を伺うためにはそれなりの時間、台所周辺にいなきゃならなかったはずだ。
だから、しんのすけ君が台所周辺にいた人物を思い出してくれれば――」
それきり声は途切れ、長い沈黙が満ちた。
「悪あがきが過ぎるとは思うけど……。分かったわ、撃つのは待ってあげるわ」
「……ありがとう。今の俺には、君のその言葉がカーネギー名語録全てより、ありがたく聞えるよ」
心底安堵したというように、ロックが言った。
「ゴチャゴチャ言ってないで立ちなさい! ほらっ! とっとと歩くのよ!」
「バターン半島への行軍じゃないだろうね?」
「待ってあげるって行ったでしょ!? けど、しんちゃんが起きるまで、あんたには和室に居てもらうからね」
ロックはため息をついた。
「あそこなら、窓もないからな……。やれやれ、トイレ休憩はくれるのかい?」
「舐めた言うんじゃないわよっ!! 部屋から出ようとしたら、容赦しないからね!!」
二人の足音が遠ざかっていくのを確認し、沙都子は居間へ通じるドアから、耳を放した。
(……出て行かずに聞いておいて、よかったですわ……)
沙都子は胸を押さえた。
(そういえば確かに、しんのすけさんは、やたらとエルルゥさんの側にいきたがってましたわね……)
山の中でのしんのすけの行動を思い出し、沙都子は顔をしかめた。
背後には気を配っていたが、自分はエルルゥの隙を伺うことに、集中力の大半を裂いていた。
――見られたかもしれない
心の中に不安の黒雲が立ちこめ、心臓がばくばくと音を立てている。
(どうすれば、どうすれば、どうすれば、いいんですの?)
ハルヒがロックの申し出を受け入れた時、ロックの口調は確かに明るさを増した。
(もしかして……)
――ロックは自分が犯人だと気づいている?
沙都子の胸を、氷の槍が刺し貫いた。
息が乱れ、嫌な汗が吹き出る。
(落ち着いて……。仮にしんのすけさんが、私を見たと証言しても、それで何が変わるっていうんですの?)
沙都子の心の水面が、その揺らぎを弱めた。
(そうですわ……。ハルヒさんも私のことを警戒しているようすはありませんでしたし……)
必死に自分を落ち着けようと、沙都子は安心材料を心の中で繰り返す。
でも、でも……
――魅音がまた鬼のような表情になって、自分が悪いと言い出したら?
自分の体がおこりのように震えだすのを、沙都子は感じた。
(そうですわ……。魅音さん、あの人だけは、私のことを疑ってもおかしくない……)
不安の風は、たちまちの内にその強さを増していく。
どうしよう、どうしよう、どうしたら……。
不安にかられるまま、意味も無く視線をあちこちにさ迷わせるうちに、沙都子の目が一点に吸い寄せられた。
沙都子の視線の先には、寝息を立てるしんのすけの姿があった。
ありったけの憎悪をこめて、沙都子は、しんのすけを睨んだ。
(この子が死んでさえいれば、全部上手くいったのに! どうして死んでくれなかったんですの!?)
飛び掛って首を絞めたくなる衝動を、沙都子は抑えつけた。
そんなことをしたら、自分が犯人だと白状するようなものだ。
――待て
しんのすけが、このまま目覚めなければ、全ては丸く収まるのではないか?
(……エルルゥさんはああ言ってましたけど、異世界の薬が、異世界の人間にどんな効果をもたらすかなんて、誰にも断定できませんわ。
ましてやしんのすけさんは幼児。 大人には問題ない量でも、幼児に強い薬をたくさん飲ませれば危険だということなんて、
誰でも知っている常識ですもの)
死ななくてもいい、薬のせいでしゃべれなくなるだけでもかまわない。
古今東西、犯罪者は証拠品を徹底的に隠滅したがあるものである。
その例にもれず、沙都子の心は、しんのすけという証拠を消すことに、一気に傾いていった。
(これは……乗り越えるべき壁なんですわ。私の中にある甘えを消し去り、覚悟をきめるための儀式……)
エルルゥが死んだとき、自分は涙を流していた。
あんなことではいけない。弱いままでは、最後の一人になんて、なれるはずがない。
幸運なことに、この家には今、人はほとんどいない。ハルヒとロックは奥の和室、魅音たちは埋葬のために外に出ている。
(急がないといけませんわ……。魅音さんたちがいつ戻ってくるか、わかりませんもの)
躊躇っていては、絶好の機会を逸してしまう。
そのことが、沙都子を更に駆り立てる。
松葉杖をついて立ち上がり、部屋のドアを開けた。
――誰もいない。
台所までの距離がやたらと遠く感じられた。コップを取り出して、水をいれ、薬を溶かす。
(速く、速く、速くしないと……。魅音さんたちが戻ってくる前に、終わらせてしまわないと……)
沙都子の頭には、もうそれだけしかなかった。
『人を殺す』という異常な行為に対する興奮と狂気は、沙都子から判断力を奪い去っていた。
(これだけ溶かしたものを飲ませれば、きっと……)
しんのすけが死ぬかどうか、今の沙都子には、それすらも関係なかった。
証拠を消せるかもしれないことを、何でもいいから、やりたくてたまらなかった。
コップを抱え、居間を抜けて襖に手をかけ、引き開けようとしたその時。
首筋に冷たいものが触れた。
「……いくらキョン殿の言うこととはいえ、まさかと思ってはいたが……」
沙都子が振り返ると、そこには白刃を構え、顔を歪めるトウカの姿があった。
「沙都子……どうして……」
驚きと困惑の表情を浮かべながら魅音が廊下から姿を現し、続いて厳しい表情をしたキョンが入ってくる。
そして最後に、
「君の脚本どおりになったな……」
「……別の結末になってほしかったわ。こんな結末……。最低よ」
ハルヒは呻いた。
エルルゥが台所に立った後あの場にいなかった人間は、ロック、エルルゥ、しんのすけ、沙都子の4人に間違いなかった。
これは、3人の記憶を何度も照らし合わせてみたから、間違いない。
トウカは、不協和音などおこさなくとも、その気になれば、全員をいつでも皆殺しに出来る力がある。
次にロックだが……。
正直なことを言えば、沙都子に聞えるように話した――沙都子が犯人だとするなら、聞いていないはずがない――
あの内容は、最後まで残った2つの仮説のうちの1つだったのだ。
だがロックが、小学生の女の子と天秤にかけられるリスクを犯すほど馬鹿だとは、どうしても思えなかった。
エルルゥが仮に死ななかったとして、彼女はお茶を入れに行くと提案した人間であり、薬師だ。
疑いがかかるようなやり方を取る犯人がいるはずがないから、彼女も外れる。
3択にはなりえず、ロックと沙都子の2択ということに、結局なってしまう。そんな馬鹿なことをロックがするだろうか?
――となれば、結論は1つ。
リアリストのロックならば同じ結論に辿り着いているとは思った。
ロックが自分の言葉から、自分達もロックと同じ結論に達していることを読み取ってくれるかどうかは賭けだったが、
ロックは読み取るばかりでなく、的確にアシストまでしてくれた。
自分も同じようなことをやる予定ではあったが、瞬時に考え付くあたりは、流石ロックというところか。
芝居は成功した。
けれど、ちっとも嬉しくない。
(ロックが、犯行動機を白状し出すとか、そういう展開だったらよかったんだけど……)
トウカが家の中にいないと思わせたのは、ロックが反撃に出た時の保険の意味が大きかったというのに。
しかしロックは終始大人しく、こういう結末を迎えることになってしまった。
ハルヒは沈痛な眼差しで沙都子を見つめた。
■
――はめられた。
沙都子の体から力が抜けた。
コップが落ち、畳の上で跳ねて液体がこぼれた。
「……沙都子、どうして……」
信じられない、という表情で魅音が尋ねてくる。
(……私を疑って、こんな大掛かりなお芝居までしておいて、白々しいですわ)
沙都子が犯人かもしれないと、ハルヒやキョンに吹き込んだのは魅音に決まっているのに。
「……魅音さんなら、ご存知でしょう?」
「分からない、分からないよ、沙都子……」
沙都子は唇を噛んだ。
この人は、この期に及んでも自分に対して保護者ぶることで、周りに対して自分が善人だという印象を与えようとしている。
沙都子の胸に怒りが込み上げた。
(このまま魅音さんに利用されて終わるなんて……。冗談じゃないですわ)
怒りが絶望をおしやり、沙都子の身体に力を蘇らせた。
沙都子は全員に視線を走らせた。
どの顔も困惑の表情を浮かべ、どこか痛ましげな視線を、自分に注いでいる。
気取られないように俯きながら、沙都子は思考する。
自分は子供、年齢を重ねたものにとって守るべき、そして純真であるべき存在だ。
――そこを突く
「……私……にーにーに、会いたかったんですもの」
「け、今朝いったじゃないか! きっと帰れるって!」
「そんなの無理に決まってますわ!! こんな、こんな爆弾がつけられてるんですもの!! 外せるわけ、ないじゃありませんか!」
絶望し、怯えきった子供の表情を浮かべながら、沙都子は声を振り絞った。
「あの仮面の男が行ってましたわ……。この世界から、出ることができるのは一人だけだって……」
「……だからって、しんのすけをっ!」
「生きて帰れる方法がそれしかないのなら、そうするしかないじゃありませんの!!
死んでしまったらもう……にーにーに会えない……」
喋っているうちに感情が高ぶり始め、沙都子の目から、自然と涙が零れ落ちた。
激情に身を委ねながらも、沙都子は集中力を振り絞る。
自分は、恐怖のあまりおかしくなってしまった子供だ。演技などではなく、心からそう思い込まなければならない。
そう、思わせなくてはならない。
「……そんなの嫌……。いやぁぁぁっっ!!」
髪を振り乱し、悲痛な声で泣き叫ぶ少女のあまりの痛ましさに、沙都子を取り巻く人間達は、思わず目を逸らした。
「ちょっ……落ちつい……」
ハルヒが思わず手を差し伸べようとする。
「……いやぁぁぁっっ!!」
耳をつんざくような絶叫が空間を埋め尽くした。
「……いやっ!! 撃たないで、撃たないでよぉぉ!! 誰か助けてっ!! にーにー……助けて……」
涙を流しながら片足で少女が這いずり回る様は、あまりにも悲惨な光景だった。
ハルヒはぎょっとして棒立ちになり、
「えっ!? あっ……。ご、ごめん」
手にした銃に気づくや否や、銃を放り投げた。
「落ちつけよ。誰もその……なんだ。君をどうこうしようなんて、思っとらんから」
あやすように言って、キョンが沙都子に近づこうとする。
誰もがすでに、沙都子がしんのすけを殺害しようとしたことを忘れているかのようだった。
(……上手く、いきましたわ……)
おそらくもう、ハルヒやキョンは、自分を殺すことなどできすまい。
これも心理戦だ。嘘の顔で相手を欺き、人のウイークポイントをつく。
沙都子が、さらに泣き声を響かせようと息を吸い込んだ、その時。
「末期の言葉は、それだけでよいのだな?」
絶対零度の声音に、誰もが凍りついたように動きを止めた。
■
――やらねばならない。
守らなくてはならない人を、守るために。
エルルゥに誓ったことを、破らぬために。
災いの根は、絶たなくてはならない。
そのために。
――鬼にでも、なる。
静寂の中、トウカが沙都子に歩み寄っていく。
「しんのすけ殿に毒を盛り、エルルゥ殿の死を呼び込んだ罪は重いっ!! 成敗する! そこへ直れっ!!」
トウカの体から殺気が炸裂した。
その場にいたものが、部屋が吹き飛んだかと錯覚するほどの殺気の放出であった。
肉食獣の檻に放り込まれたような感覚がその場にいる者達を襲う。
否、今のトウカは獣などという優しい存在ではない。もっと恐ろしい何かだ。
「……ま……まって……」
恐怖を必死に振り払い、魅音が震える手を前に出した。
「魅音殿。こやつは卑劣にも幼子に毒を盛り、そして露見するかもしれぬとみるや、再度殺害をもくろんだ。捨て置くわけにはいかぬ!」
魅音の方を見ようともせず、トウカは、怯えきって動けない沙都子を冷然と見下ろした。
「何か他に、言い残すことはあるか?」
「あっ……う……」
沙都子は金魚のようにパクパクと、口を動かすことしかできなかった。
演技を続けようとする気力も、力も、何処かへ消し飛んでいた。
ただ、目の前の存在が、怖くてしかたなかった。
「無いのか。ならば……」
トウカが、剣を宙に舞い上げた。
――本当に斬る気だ。
「待ってよ!!」
恐怖の金縛りを渾身の力で断ち切り、魅音は叫んだ。
「トウカさん! 私が……私が言えたことじゃないのは、分かってる……。でも、沙都子を許してあげてよ!
沙都子はただ、怖かっただけなんだ! いきなり殺し合いをさせられて……。仕方ないじゃないか!
沙都子はまだ子供で……女の子なんだよ!?」
必死で魅音は訴えた。
「園崎の言うとおりですよ! そりゃ、殺そうとしたのは、なんていうか……その……あれですけど……。
こんな酷い状況じゃあ、沙都子ちゃんがおかしくなったって、仕方ないじゃないですか!!」
魅音から少し遅れて金縛りから脱したキョンは、魅音を援護した。
(どうしちまったんだよ? トウカさん)
子供を情け容赦なく斬ろうとするなんて、らしくないにも程がある。
魅音を許した彼女とは、別人のようだ。
(違う……。むしろ、そのせいか?)
鉄の自制心で魅音を許すことはできても、トウカの怒りは、消えたわけではなかったのだろう。
寧ろ、抑え込んだことで行き場を失って凝縮されていた怒りが、脱出口を見つけて噴出しているのかもしれない。
「……魅音殿やキョン殿の故郷ではどうか知らぬが、トゥスクルでは、罪の軽重に大人と子供の区別は存在せん」
思わずキョンは顔をしかめた。
(おいおい、文明の衝突かよ……。こんな時に、少年法の有難みを知りたくなんぞ、なかったぜ)
どうやらトウカの世界では、大人も子供の平等に裁かれるらしい。
価値観が違うというのは厄介極まる問題だ。
「それに、キョン殿と魅音殿は子供と言うが、他人に罪を着せようと工作する狡猾さに、躊躇なく自分よりも幼い少年を害する冷酷さ。
もはやこの者は、子供の範疇にはおさまらぬ!」
「それでも、大人ですら狂っちまいかねない状況を考慮しないってのは、あんまりですよ!」
周囲の環境と人格の未熟さを考慮しないにも、程があるではないか。
「トウカさん……お願いだよ!! 私が……。私が悪いんだ。ちゃんと沙都子に首輪のこと、説明しなかったから!!」
「あ、あたしも、キョンと魅音に賛成よ! しんちゃんは、無事だったんだし……。
沙都子ちゃんだって、言って聞かせればきっと落ち着いて……」
「それは違うな」
冷め切った声に、思わずキョンと魅音、そしてハルヒはロックを凝視した。
「その子は冷静だ。冷静に俺達を殺そうとした……。そうだろ? 沙都子ちゃん」
沙都子の瞳に怯えの色彩が浮かび上がった。
「な、何を根拠にそんなこと言うのさ!?」
魅音が噛み付くが、ロックは眉一つ動かすことなく、
「その子は、さっき泣き喚いている時ですら、冷静さを残してた。冷静に俺達の反応を測ってた」
「ロックさん。罪を着せられて、頭に来るのは分かりますけど……」
顔をしかめてキョンは言った。
「俺は冷静だし、根にもってもいやしない。信じるかどうかは、君たちの自由だが、俺の目にはそう見えた」
いつの間にかロックの目には暗黒の光が宿っており、それにキョンや魅音達を圧倒する。
(まったく……。レヴィの台詞じゃないが、惑っちまってたな……)
悪人しかいない場所から急に移動させられたせいで、人を見極める目が狂っていたようだ。
いつもの全てを疑う目で見るなら、色々なものが見えてくる。
――恐ろしいほど、見えてくる。
誰かの命を守ろうとするなら、悲しみを止めようとするなら、そうなる必要があったというのに。
惑っていたせいで、できていなかった。
自分が惑っていなければ、エルルゥは死なずにすんだかもしれない。
後悔しても仕方がないが、彼女の遺志を継ぐためにも、ここからは間違うわけにはいかない。
ロックは、感情を排した冷徹な視線を沙都子に向けた。
トウカは、わが意を得たりとばかりに頷いた。
「某もロック殿と同じ考えだ。この者は、悔い改めたりはすまい」
宙に浮いた刃が、動い――
「だったら、私を斬って!! エルルゥさんを撃ったのは私だ! 罪は私の方が多く背負うべきでしょっ!?」
咄嗟に身体をトウカと沙都子の間に割り込ませ、魅音が叫んだ。
「それは違う! その鬼の子が災禍の根源だ。魅音殿はただ――」
「私があんなことしなければ、誰も死なずにすんだんだ! 冷静に犯人を捜して、沙都子をちゃんと止めてたら、
エルルゥさんは死ななかった! 斬るなら私を斬って!! でも、沙都子のことは、許してあげてよっ!!」
身体は震えていたが、魅音の表情には覚悟があった。
「魅音殿……」
トウカの声に、始めて感情の色が混じり、沙都子に向けられていた殺気がわずかに緩む。
圧迫から開放され、沙都子は、胸の中に混乱を抱えたまま思考する。
(どうして……。どうして魅音さんは……。私のために、そこまでしてくれるんですの?)
分からない。さっぱり分からない。
――自分が犯人かもしれないと皆に吹き込んだに違いない魅音が、どうして今度は自分を庇うのか。
沙都子の思考は混乱を極めていた。
魅音のやることは、矛盾だらけだ。
鬼のような顔をした魅音、笑顔の魅音、皆に自分の悪口を吹き込む魅音、目の前で自分を庇っている魅音……。
分からない。頭がおかしくなりそうだ。
(どれが演技で、どれが本当の魅音さんなんですの!?)
――演技
沙都子の頭に閃くものがあった。
(そうですわ……。この状況全てがお芝居だとしたら、説明がつくじゃありませんの)
何故こんなことに気づかなかったのだろう。
乱れていた思考が、急速に収束していくのを沙都子は感じた。
(さっきと同じですわ。きっとこれは、私がどう反応するかを確かめるためのお芝居……)
そう仮定すれば、魅音の不自然な行動にも説明がつく。
山の中で、あれほど自分に優しかったロックや、どうみてもお人よしのトウカが急に冷酷になったことにも、
魅音の不自然な行動にも、説明がつく。
――だとするならば
(このまま、魅音さんの後ろに隠れていては、正真正銘の悪人であるという烙印を押されてしまいますわ……)
沙都子は口を開いた。
「……魅音さん、ありがとう。私の……私なんかのために……」
俯き、声を詰まらせながら沙都子は言った。
「でも……その人の言うとおりですわ……。私は、取り返しのつかないことを、してしまったんですもの……」
心底後悔しているというように、沙都子は声を震わせる。
「だから……。いいんです……。もう、十分ですから……」
「沙都子!?」
沙都子は、魅音に小さく笑ってみせた。
運命を受けいれたというように、心の整理はついたというように。
「……勝手なもので……死ぬのは……怖いですけど……。それしか、償う道がないなら……。私は……」
――涙を流せ。感情に訴えろ。
沙都子は自分を叱咤した。
全身全霊を振り絞って演技をし、沙都子は結果を待つ。
だが、聞こえた言葉は。
「――良い覚悟だ。せめてもの情け。苦しまぬよう一太刀であの世へ送ってやろう」
沙都子は、愕然として頭上のトウカの顔を見上げた。
トウカの瞳に宿るのは、凍てついた殺意のみ。
処刑人というものの目は、おそらくこうであろうと沙都子は直感する。
――芝居なんかじゃない
恐怖が、沙都子の全身を貫いた。
トウカの目が細められ、殺気が沙都子を襲う。
――殺される!!
思わず沙都子は目を閉じ、無我夢中で我が身を守ろうとした。
「あっ……」
誰のものとも分からぬ声が聞こえた。存在すべきでないものを見てしまった、そんな思いが秘められた声だった。
おそるおそる沙都子が目を開けると、目の前には魅音の背中があった。
自分の手が魅音の体を掴んでいた。
白刃が魅音の額すれすれで止まっていた。
魅音を盾にしてしまった
その事実に気づくと同時に、沙都子の体から力が抜けた。
――もう終わりだ。
沙都子は、湧き上がる絶望に身を委ねた。
■
「……まさか……。本当に……鬼の子であったとは……」
トウカは肩を落とした。
ハクオロ、アルルゥ、カルラ、エルルゥ、自分が守らなければならなかった人々は全て死に絶えた。
だからせめて、この世界に来てから守ると決めた者達だけは絶対に守りたかった。
エルルゥの遺志を継ぎたかった。
故に、鬼のふりをした。
目の前の子供が心底自分の犯した罪を悔い、二度とせぬと誓うことを、祈った。
ほんの少しでも、剣を受け入れるそぶりをみせたなら、斬るつもりはなかった。
だが、あろうことか目の前の少女は、自分を庇い続けた魅音を盾にした。
(斬らねばならぬ……。斬らねば……守れぬ!)
砂を噛む思いでトウカは、剣を振り上げた。
「駄目だ!! トウカさんっ!! 斬っちゃ駄目だっ!!」
喉の底から声を振り絞り、キョンは叫んだ。
今の今まで、疑いはしても、心のどこかで思っていた、信じていた。
――トウカが子供を斬るはずがない
だが、今は違う。トウカは本気だ。
「とめるな!! キョン殿!!」
「止めますっ!! 駄目なもんは駄目ですっ!!」
明確な論理はキョンにはない。
集団内に沙都子のような人間を抱えていては危険だということぐらい、百も承知だ。
ここで災いの根を絶って置いたほうがいいことも、分かる。
だがそれでも、キョンはリアリストになどなりたくなかった。
(理屈なんかしったことか! 駄目なもんは駄目だ!)
ここで、小学生の女の子を殺すことを許容してまったら。
――戻れなくなる
きっと元の世界に帰れても笑えない。
そしてそれは……。
(トウカさんだって同じことだ)
キョンは、大きく息を吸い込んだ。
「俺は、トウカさんに手を汚してなんか、もらいたくねえ!!」
目の前の人は、きっと傷つく。
仲間を次々と失って十分すぎるほど傷ついているのに、その上にまた傷が増えてしまう。
出会ってから何度か見たトウカの屈託のない笑顔が、キョンの頭をよぎる。
まるで小さな子供ようなトウカの笑顔が、キョンは好きだった。
(今、沙都子ちゃんを斬っちまったら……)
――トウカはきっと、元の世界に帰ってもあんな風に笑えない。
「やめてくれ! 剣をおろしてくれっ! トウカさんっっ!!」
キョンは声を振り絞った。
ロックは迷っていた。
さっきまでのトウカの行動が演技だということは分かっていた。
だから止めずに静観していた。
だが、今は本気だ。本気で斬る気だ
(どうする……。止めるか……)
ロックの顔に苦悩の皺が刻まれた。
沙都子のような存在を、集団の中に抱える危険性は、言うまでもない。
合理的に考えるなら、生かしておいて得なことなど、何一つ無い。
けれど、沙都子は幼い女の子だ。幾らなんでも……。
――もう……悲しいのは……嫌です
(そうだったよな……エルルゥ。分かってる、分かってるさ……)
心の中でエルルゥに語りかけながら、ロックがトウカを止めるために足を踏み出そうとした、その時。
――あの子は殺しをやめられないよ。
耳の奥に蘇った別の声が、ロックを金縛りにした。
正体が露見しても、最後の最後まで、少女であるという自分の長所と迫真の演技で、周囲を欺こうとし続けた北条沙都子。
その精神力、狡猾さはトウカの言うとおり、子供の範疇を越えたものだ。
(あの時と同じだ! ギガゾンビの野郎が、このクソったれな状況が、あの子を人食い虎に変えちまったんだ! 畜生っ!)
――本当ならこの子は、学校に通い、友達をつくって幸せに暮らしたんだろう。
――でも、そうはならなかった。ならなかったんだ。
ごりっとロックの奥歯が軋んだ。
――だから、この話はここで、お終いなんだ。
違う、と叫びたかった。
今からでも遅くは無い、言い聞かせれば分かってくれるはずだ、そう叫んでトウカを止めたかった。
だが、動けなかった。
人食い虎となった少女を集団の中においておけば、エルルゥの恐れた『悲しいこと』がもっともっと起こってしまうかもしれない。 拳を震わせ、苦悩に顔を歪めながらも、ロックは動けなかった。
自分の息が荒くなるのをハルヒは感じた。
目の前で、小さな女の子が斬られようとしている。キョンが、必死にトウカをおしとどめようとしている。
やめろ、と叫びたかった。
どんな理由があるにしたって、そんなの間違っている。小さな女の子が殺される所なんて見たくない。
ハルヒの心は、全力でキョンに賛同していた。
それでも、ハルヒは動けなかった。
(アルちゃん……。ヤマト……)
ハルヒの頭に浮かぶのは、アルルゥとヤマトの顔。自分の短慮で死なせてしまった、二人の幼い団員達。
団長として、二度とあんなミスを犯すわけにはいかない。そうでなければ二人に申し訳が立たない。
歯を食いしばり、暴れる心の手綱を取りながらハルヒは思考を展開する。
沙都子を集団の中に置いて置くメリットは、ゼロ。
いつ背後から襲われるともしれないし、内部分裂の火種にもなりかねない。
長は、集団全体のことを考えなくてはならない。
そして、全体のことを考えるなら――
――答えは決まっている。
顔面を蒼白にし、唇を震わせながら、ハルヒは立ち尽くしていた。
キョンとトウカが言い争っているのを、沙都子は他人事のように見ていた。
ハルヒとロックは、厳しい目でこちらを見ている。
沙都子は、心の中で自嘲の笑みを浮かべた。
(当然の反応ですわね……)
自分のやったことが最低最悪の行為であることぐらい、わかる。
沙都子は小さくため息をついた。
それにしても、と沙都子は思う。
(どうして、こんなに……。心が痛いんでしょう?)
魅音を盾にしてしまったことが、ショックだったのだろうか?
そんなはず、ないのに……。
沙都子は、座り込んだまま動こうとしない魅音の背中を見つめた。
「御免!!」
鋭い声と共に、トウカがキョンを突き飛ばし、近寄ってくる。
(死ぬんですのね、私……)
何故か、あまり怖いという気持ちはなかった。
生きたいという気持ちが、あまり湧かない。
あれほど最後の一人になると、硬く誓っていたはずなのに。
― ―こんな自分なんか、生きていても仕方ない
空虚な心に、いつの間にか心の中にそんな考えが浮かんでいて、それを受け入れている自分に、沙都子は驚いていた。
トウカが刀を逆手に持ち替えた。
突然、沙都子の視界が真っ暗になった。
――死んだ?
そんな馬鹿な考えが、沙都子の頭をよぎる。
数瞬を置いて、沙都子は状況を理解した。
目の前にあるのは魅音の胸。
自分は、魅音に抱きかかえられている。
沙都子は信じられない思いで、その事実を確認する。
耳の近くで、魅音の声が響いた。
「……殺させない……。沙都子は……絶対に、殺させない……」
■
「み、魅音殿!? なぜ……」
トウカの声は驚きと困惑に満ちていた。
「その者は、魅音殿を……」
「……かまわない……」
自分を完膚なきまでに裏切った沙都子に対する怒りが全くないといえば、嘘になる。
小さな子に毒を盛り、周りの人間に罪を着せ、疑心暗鬼を引き起こして最後の一人になろうとした沙都子に、
まったく恐怖を感じないといえば、嘘になる。
その行為の醜悪さに全く嫌悪感を抱かないといえば、嘘になる。
でも、それでも。
「沙都子が、私のこと裏切ってても……人を殺そうとしたんだとしても……かまわない……」
沙都子は自分だから。
弱くて、身勝手で……。光に、クーガーに、トウカに、救われ、教えられても、
突き上げる感情を抑えきれずに過ちを繰り返してしまう、
どうしようもなく駄目な自分だから。
人殺しに堕ちてしまった、園崎魅音自身だから。
だから許せる、許したい、そう思う。
――それに
「……魅音さん……どうして……」
耳元で沙都子の声がする。
分からない、という思いが伝わってきて、魅音は小さく笑った。
――強い思いが、叫ぶから。
「沙都子……。あんたは、私の友達だ……」
沙都子がそう思っていなくても、かまわない。
魅音は、沙都子を抱く腕に力を入れた。
「あんたを殺すことなんて……できないよ」
■
(魅音殿……そこまで……)
トウカは、心の中で声にならぬ呻き声をあげた。
完膚なきまでに裏切られたというのに、魅音はそれでも、沙都子を許すという。
その優しさと懐の深さには、感嘆の念を禁じえない。
(だが……だが、しかし……)
沙都子という少女の行いは、あまりにも人の道を外れすぎている。
姦計を巡らし、幼子を手にかけようとし、人の心を利用し、裏切り、踏みにじる。
(生かして、おくわけには……いかん)
しかし、魅音が沙都子を抱きかかえているために、刀を振るえば魅音を傷つけてしまう。
トウカが歯噛みしたその時、
「トウカさん、もうやめてくださいよ」
振り返ると、背後にはキョンがいた。
突き飛ばされて転倒したときにぶつけた箇所をさすりながら、
「……この子だって分かってくれますよ。園崎が、言って聞かせれば、きっと分かってくれます。
仮に分かってくれなくても……何か考えましょうよ」
キョンがそう言うであろうことは、トウカには分かっていた。
身が危険になるかもしれないという理由で、少女を殺すという決断を絶対にするまい。
(……さすがは、キョン殿)
自分の剣を捧げるべき人物だ。
だが、この場合は、その人柄の大きさが仇になってしまうのだ。
「……キョン殿も……魅音殿も……甘い……。甘すぎる!」
気づいた時には、トウカはそう口にしていた。
キョンは、困ったなというように顔をしかめ、
「……甘いって、言われたらそうなのかもしれませんけど……。何というか、そういうのって大事なことじゃないかって……。
俺は、思うんですよ」
押し黙ったままのトウカに、キョンは静かな口調で続けた。
「……トウカさんは、昨日、全然知らない人を……侍の格好をした人を弔ってあげてましたけど……。
あれだって、その……極論しちゃえば意味の無いことで……。非合理的とか、そういう類の言葉で表せる行動じゃないですか」
トウカの眉が上がった。
「ああいうことも多分、甘さとか、そういうのに分類されると思うんですけど……。
けど、ああいうものって、なくしちゃいけないものじゃないんですか?」
感情が高ぶり始めるのをキョンは感じた。
「……トウカさんは、この子を斬っちまったら、きっと後悔します!」
「某は、後悔などせぬ!」
「あなたは、そんな人じゃない!!」
怒気がキョンの口をついて出た。
「子供を殺して後悔しないなんて、そんなの嘘っぱちだ!
俺はもう、誰にも悲しい思いも、辛い思いもして欲しくないんだ。あなたにもっ!!」
キョンは、思いを込めた視線をトウカの瞳に叩きつけた。
「俺は……。トウカさんは、トウカさんのまんまで元の世界に帰って、笑って……欲しいんだ」
真摯な眼差しで自分を見つめてくる少年を、トウカは無言で見返した。
少年の視線は一瞬たりとも揺るぐことはなかった。
しばらくそうしていた後、トウカは大きく嘆息の息を吐いた。
「……分かった」
剣を鞘に戻しながら、
「魅音殿も……。お立ちくだされ」
苦笑の入り混じったトウカの声に、魅音は恐る恐るトウカを見上げた。
「まったく……。キョン殿と魅音殿は……」
呆れて物が言えないというように、トウカは天井を仰いだ。
キョンが頭をかき、魅音が苦しげに顔を歪めながら立ちあがる。
「ごめんなさい、トウカさん……。物凄く勝手で、許されないこと言ってるって分かってるけど……」
「それはよいのだが――」
トウカは、魅音の言葉を遮った。
「つくづく……。魅音殿とキョン殿は、お人よしだな。自身のことより、人のことばかり考えている」
トウカは暖かい笑みを浮かべた。
「だが、それがいい」
白い鞘が高速で閃き、くぐもった打撃音が二つ響いた。
悲鳴すら上げることなく、キョンと魅音の体は崩れ落ちた。
(某の全てをかけてもいいと、思えるほどに)
優しさと強さを秘めたこの二人を守りたいと、心から思う。
「……と、トウカさん!?」
「 心配なさるな。強く打ってはおらぬゆえ、二人とも、すぐに目を覚ます」
ハルヒに返答し、トウカは先ほどまでとは打って変わった冷酷な目線を、下に落とした。
先ほどとは違い、沙都子は逃げようとも、命乞いをしようともせず、目を閉じてじっとしている。
「言い残すことは、あるか?」
「……しんのすけさんに、ごめんなさいと。魅音さんに……。ごめんなさい、今までありがとうございましたと、伝えてください」
トウカの心の水面が大きく揺らいだ。
今の沙都子は、自分の罪を悔い、甘んじて罰を受けようとしているように見える。
トウカの心に迷いの風が吹き荒れ、心の水面が大きく波打った。
(……いや、駄目だ。エルルゥ殿との誓いのために、キョン殿と魅音殿とお守りするために……。鬼に、ならねば!)
トウカは自分を叱咤した。
悲しみを増やさないために、守るべき人を守るために、禍根は絶たなくてはならない。
たとえ、魅音に恨まれようと、キョンに罵られようと、やらねばならない。
彼らの命を、尊い心を、踏みにじろうとする敵から、守るために。
トウカの瞳に殺意が戻り――
剣が、弧を描いた。
両断されたものが、とん、と床に落ちて転がった。
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