作家がよく自身の音楽のルーツみたいな話をするけれど、それは音楽を俯瞰できなかった時代の概念だと思う。インターネットによって音楽を経験することができる現代では、後天的にルーツを矯正することができてしまう(しかも無数に!)。創作はもはや思いつくものではなく、既にあるものを刷り直すだけとなった。音楽は網羅されていて、新規性を感じてしまう現象は聴き手側の勉強不足としか考えられなくなった。
音楽を作る技術を向上させるためには、すべての音楽ジャンルを意図的に調べ上げて、音楽的特徴と印象との対応を学びつくす他はない。作編曲の能力とは「表現したい印象から音楽と具体的なパターンを適切に選び刷り直すことができる」力と言い直すことができる。この能力の向上には分析と練習の2軸があって、対峙した音楽を自分が測かり得るいくつもの尺度でもって分析し、分解した要素から再現可能かどうか検証すること、そして可能であれば再現する練習を反復することである。
その過程には壁があって、"気づき"と"根気"によって突破しなければならない。自身の音楽ルーツとか作家性みたいなものは膨大な音楽サンプルに被覆されているということ、無意識の経験から思いつくのではなくて意識して正しい音楽を参照すること、音楽性をジャンルや和声に縛られず素直に面白いと感じられる要素を追求し続けること。
音楽を作る技術を向上させるためには、すべての音楽ジャンルを意図的に調べ上げて、音楽的特徴と印象との対応を学びつくす他はない。作編曲の能力とは「表現したい印象から音楽と具体的なパターンを適切に選び刷り直すことができる」力と言い直すことができる。この能力の向上には分析と練習の2軸があって、対峙した音楽を自分が測かり得るいくつもの尺度でもって分析し、分解した要素から再現可能かどうか検証すること、そして可能であれば再現する練習を反復することである。
その過程には壁があって、"気づき"と"根気"によって突破しなければならない。自身の音楽ルーツとか作家性みたいなものは膨大な音楽サンプルに被覆されているということ、無意識の経験から思いつくのではなくて意識して正しい音楽を参照すること、音楽性をジャンルや和声に縛られず素直に面白いと感じられる要素を追求し続けること。
作曲のスランプも創作の誤認によると思われる。制作工程が正しく管理されていないだけだと思う。