夕闇に染まる七虹都市の空に、輝く"虹蛇の導き(ユルングライン)"が姿を見せ始める頃。
アルコ・イリスの七彩の大通り──その一つ、"蜜月(ハニームーン)通り"。蜂蜜色の魔法燈に光術師が明かりを点し始めるなか、丁寧に敷き詰められた水飴色の石畳道を歩いて行く私こと
フィロスタインの足取りは軽かった。
リリアローゼから与えられた男児が着るには余りにも恥知らずな潜入用の服は、一度宿に立ち寄って脱ぎ捨てている。鷹眼石の飾りがついた立て襟の長外套の下は、しかし平時身に纏っている古風な礼装でもない。今身につけているのはミステルに以前作って貰った動きやすい黒い平服。余り悪目立ちせぬように、という配慮である。尤も、多種多様な外見格好人種入り混じる七虹都市の雑踏においては、多少奇矯な格好をしていようともそう人目を引かなかったりするのだが──備えておくに越したことはあるまい。
私の足が軽いのは、ようやっとロゼから架せられていた女子制服着用という拷問から開放されたとか、暫く傍に居なかった守護剣が知人である術士の元から帰ってきたからというのも大きかったが、
「……ふふ、ともだち、か」
いけないと思いつつも、意識していないと頬が緩んでしまいそうになる。はじめて地上にともだちが出来たというのは、それ位私にとって喜ばしい出来事だった。傍目にも明らかに上機嫌と解かるらしい。
"
蜜月通り"に向かう前に立ち寄った術具店の店長──表向きは普通の店だが裏では『特区』と繋がりがあり店主本人もまた本来は『特区』の住人である──にも何か良いことがあったのかと聞かれたくらいだ。
流石にこの後のことを考えるとあまり浮ついた気分のままでも居られないのだが、もう暫くだけ、このふわふわとした砂糖菓子のような感覚に浸っていたくもあるのが困り者だった。
直ぐ傍で微かに笑う気配。なんだか酷く微笑ましげな其れは、周囲の者には解からぬものだったろう。
私が腰に佩いた二本の魔剣の内一本──忠実な黒い騎士剣が漏らした忍び笑いであったから。
「何だ、"黒帳(ドゥンケルハイト)"。言いたいことがあるなら言うが良い」
《──いえ、本当に嬉しそうだとそう思うただけです、皇子(みこ)。元々あの人間の若者を気に入っておられましたからな、喜びも一塩なのでしょう?》
図星を突かれてしまうと妙に気恥ずかしくなってしまい、私は黙り込む。
会話をしたのも時間を共に過ごしたのもそう長い時間ではないが、短いやり取りのなかでもミケルは感じのよい人間だとわかっていた。嘘がない。お人よしと言ってもいい。あれでは恐らく厄介ごとに巻き込まれたり、貧乏くじばかり引いているのではないかと少し心配にもなる。
ミケルは、私や『特区』の民に対して奇妙だという目を向けたり、不必要に臆したりしない。ありのままに、自然に、当たり前のものとして接してくれる、案じてくれる──そういう人間は稀有だ。
そもそも"議会"と何ら関わりのない人間と話すこと自体あまりない経験だったのだが。だからこそ印象深い出会いとして記憶に残っていた。もう少しゆっくりと話してみたい。そんな風に思った人間は本当に久しぶりだった。
ただ、ミケルが『特区』を訪れることはほぼありえないだろうし、私が『地上(うえ)』に出てもアルコ・イリスは広い。二度と会うことはあるまいと思っていたのに。
ロゼにお使いを頼まれたとき、少しだけ思った。"もしかしたらまたミケルに会えるかもしれない"と。正直言って女の格好をしたところなど見られたくはなかったが、私のばかみたいな仮装を気持ち悪がることもなく、ちゃんとソルティレージュ嬢の下まで案内してくれたミケルは、本当に良い奴だと思った。その後も、地上で暫く過ごす私のことを気にかけてくれた。
何か彼にできることがあるならば返して遣りたかった。そうしてミケルが礼の代わりにと望んだのは友人になること。だが、それは──私も望んでいたことで。
「……っ、ミケルには内緒だぞ? 本当は私から、『友人になって欲しい』と言いたかったなど」
礼をしたかったはずなのに自分のほうが喜ばされてしまった面映さを思い出し私は小さく眉を下げる。そして、こそこそと忠実な魔剣たちに口止めを頼んだ。
《この"黒帳"、濫りに主の秘密を吹聴するような真似は致しませぬ。安心召されよ……"六道薙(フラートゥス)"、主もそうであろ?》
《応とも。それに、某(それがし)らは別の気懸かりで一杯でして》
"黒帳"の落ち着いた響きのバリトーンに答えたのは、今日連れているもう一本の魔剣の声。黒い騎士剣よりも更に低く渋みのある声は壮年から老境にさしかかる男のそれであったが、口調そのものは飄々として軽やか。風のように捕らえ所がない。
"六道薙"。鞘と柄の拵えは純白。下げ緒は白銀。緒と同色の鍔には龍──父上とは違う姿をした東方大陸の神獣──が透かし彫りされている。遥か遠い異国は"倭(やまと)"の地で用いられる武器──刀の形状をした魔剣。以前、出会ったことのある倭の剣士は"妖刀"と評した。養父から譲り受けた護剣の一本。
その『彼』の言葉に私は軽く首を傾げた。何を魔剣たちは気にしているというのだろうか。
「別の気懸かり?」
《──ッ! "六道薙"、そのことは……!》
答えるようにと刀に促す視線を遣ると、息を呑んだように"六道薙"を止めんとしたのは"黒帳"。けれどその時にはもう、"六道薙"は安心した調子で私の問いかけに答えていた。
《いえね、坊が『特区(いえ)』を一ヶ月も離れるたぁ、そうあることじゃありやせん。坊が気鬱に陥りやしないと気が気じゃあなかった。坊をこんなに機嫌よくしてくれた、新しいご友人には足を向けて寝られねえ》
「……ああ」
足が止まる。返ってきた言葉に合点がいった。意識して考えていなかったことだ。浮かれていた頭が、意識が、急激に冷えていき──同時に申し訳なくもなった。
魔剣たちは何時だって私に甘い。常に誰かしら私の側に居てくれて、何くれとなく世話を焼いてくれて──そして、何より私を優先してくれる。
そんな彼らが私が陥るかも知れぬ気鬱を案じてくれるのは理解できる。杞憂であると否定できないからだ。
俺は、長く『特区』を空けることは何時だって不安でならない。それは、ただ何事かあっては困るというだけなら、まだ単純な話であった。
確かに、不在時の『特区』の状態も気懸かりであったが、同時に──安寧すぎても寂しいなどと思ってしまうのだ。本当に愚かでどうしようもない。
言い渡された休暇が、俺など居なくても構わないと──問題なく全ては回るのだと。そういうつもりの無い、純粋な善意だと解かっていても、怖くなる。
俺はどうしたって人間で。それ以外のものになれなくて。人が『特区』の中に居ることをよく思わぬものも居ると、知っている。その感情は察して余りあるし、申し訳ないとも思う。だから全員に理解されたいなどとおこがましいことは思わない。
それでも、俺にとって『特区』は家だ。かけがえのない故郷だ。大切な、大好きな皆とこの命が尽きるまで『特区』で暮らしていきたい。そこに俺が居ることを、許して欲しい。叶うなら、必要とされたい。
『特区』の中心として重責を負いながらも存在と力の強さゆえに容易に出歩くことを好まれぬ父様の代わりを、俺が望んで請け負うようになって、六年になる。
父様や皆の役に立つ為にできることをする。それがエゴであることを、俺は知っている。子供の遊びを、なんとか居場所が欲しくてもがいているに過ぎないのを、皆は優しいから許容してくれるだけだ。
本当は、俺が何もしなくたって、父様やロゼたち長老がいれば『特区』は問題なく回るのだ。──今がそうであるように。
それでも、何かせずには居られない。安寧に、ずっと、浸っていることができない。
『地上』で暮らすこと自体に不都合は無い。本来なら地下暮らしよりも此方での生活のほうが肌にあうはずだ。俺は人間なのだから。
でも、『地上』に長く居ると、胸が苦しくなる。『地上』を居心地よいと思ってしまう自分が堪らなく嫌になる。お前は此処で暮らすべきなのだといわれているようで。
何時か、何時か、『地上』で暮らしなさい、といわれるのではないかと。もう帰ってこなくてもいいと、そう告げられるのではないかと。
やさしい父さまや皆を思えばこんな疑念は妄想だと、酷い侮辱だとわかるのに──一度、考えてしまうと止められない。
人で居ることが息苦しい。皆と同じでないことがさびしい。ほんとうに、とうさまやロゼの子供として生まれてくることができたなら、どんなに良かっただろう。
言っても詮無いことばかり──だのに、それは何時だって俺の心の奥底に巣食う、消しようの無い澱、卑賤で醜い性根だ。
こんな時は自分の胸を引き裂いて、頭を打ち付けてしまいたくなる。本当に愚かだ。消えてしまいたくなる。信じているのに──信じたいのに──信じきれない。
帰りたい。帰れば、皆の顔を見ればきっとこんなことは思わなくて済むのに。まだ一日も経っていないのに、できるはずはないのだけれど。
ああ、いけない。仮面がずれる。俺は──私は。こんなことを、口に出してはいけないのだ。
忠実で心配性の優しい魔剣たちを、煩わせてはいけない。父さまに、醜態を曝してはいけない。私は、仮面を被る。
「心配するな。私とて……そう悪い方にばかり考えたりせぬよ。父上も皆も、純粋に私を案じてくれたと解かっている」
声に──震えは無かったと思う。実際、理性はそれに納得しているし、事実はそうだろう。
私が臆病で疑い深い。卑屈に過ぎる。それだけのことだ。
だが、私の虚勢は──赤子の頃より連れ添った"黒帳"には張子細工にしか見えなかったらしい。察しが良すぎるというのも、こういう時は、困る。
《"六道薙"! だから止めたであろう!! この迂闊者がッ!》
《あ……坊、す、すいやせん! 某、口がすべりやした! 却って余計なことを思い出させちまって……》
怒気を孕んだ"黒帳"の一喝に、やはり私の心理を理解してしまったらしい"六道薙"が──人で言うなら平身低頭、顔色を変えたような調子の声で謝罪してくる。
《……。……"六道薙"! 護剣たる我らが皇子を憂わせてどうする!!》
《ド、"黒帳"、落ち着けって! 声、声、硬くなってんじゃねえか! あだだだだ重力、重力はらめえええええ! 根元から逝っちゃうのおおおおおお》
《寧ろいっぺん逝っておけ!!》
余程私はわかりやすく情けない態度を取っていたに違いない。自覚は無いが、表情にも表れていたのかも知れぬ。"六道薙"に対しての"黒帳"の怒りは中々収まらないようだった。
私の身体に重みはかからないが、それでも大きな力がごく微細な範囲──つまりは"六道薙"の刀身にのみかかる気配を感じる。ただ、通行人にはそうそう気づかれることはあるまい。
"黒帳"の扱う力は基本的に目に見えず、何より『彼』の能力行使はぶれがない。どこまでも静かで、精密だ。"黒帳"はこのまま他一切に迷惑も影響も被らせる事なく、"六道薙"を叩き折ることも可能だろう。
などと、静観してはいられない。アーティファクトとしての格が上である"黒帳"が本気になれば、幾ら"六道薙"が再生能力を有する魔剣であっても、暫く私の中で休んで貰わねば直らぬほどのダメージを受けかねん。
"黒帳"は魔剣たちの中でも私に過保護すぎるところがある。普段冷静である分、箍が外れると激烈で、外部から止める必要があった。
「其処までだ、"黒帳"。私は懲罰を命じておらぬ」
制する私の命に、忠実な騎士剣は即座に矛を収めた。感じていた力が霧散。《……すまぬ》という"黒帳"謝罪の声に、《いや、こっちこそ……》と"六道薙"が応じて私たちに言うのを聞く。
私は首を横に振る。確かに"六道薙"が何も言わなければ、確かにもう暫し私の意識は穏やかな幸せのことだけ考えていられたかもしれないが、一言で打ち破られたくらいだ。時間の問題だっただろう。
寧ろ、こうして己の愚かさを自覚しておくほうが良い。大丈夫、大丈夫だ。心配に思うことなど何もない。
彼らが側にいてくれる。父様を、ロゼを、ミステル、キュルクィリィ──他にも『特区』の朋たちを思い出す。全ては杞憂だ。
醜い迷妄は辞めにしよう。ごめんなさい、と心の中で皆に謝罪し、気持ちに区切りをつけて口を開いた。
「良い。頭が冷えた。これから行く場所のことを考えると丁度よかったかも知れぬ」
そうして、労わるように二本の魔剣の柄頭を撫で、後はもう、何もなかったように歩き出す。魔剣たちももう何も言わなかった。
私たちのやり取り──下手をすればひとり芝居にも見える──にも、これといって足を止めるものはいない。
精霊や理外の生き物を見聞きする存在が少なくないアルコ・イリスでは、極端に煩くしたり物騒な話題でもしない限りは多少の独り言には目を瞑る者が殆どだ。
──真性の狂人という可能性もなきにしもあらず。触らぬ神に祟りなし、という心算のものも居るだろう。
今はその、雑踏の無関心さが心地よかった。触れられぬ方が都合が良いこともある。そういう事は世の中に得てして多いものだ。
最終更新:2011年07月06日 22:55