おや兄さん、あんたこの街に来たばかりだね?
何、見れば分かるさ。田舎面が丸出しだ。
一体何をお探しだい?
そうか、花か。だったら虹影地区の琥珀館がいい。あそこの『花』はどれも飛び切りだ。一匹化け物が居るが──おや失敬、こっちの花では無かったか。
ならば
夕煌通りに行くといい。
中央区側から入って5つ目、右手に見える細道に入りあとは真っ直ぐ進むといい。
やがて見えてくる古びた木製の看板が目印の花屋なら、お求めの花も見付かるだろう。
そして若しもあんたに助けが必要なら、きっと力を貸してくれる。
『その花の名を知っていますか』
空に掛かる虹の橋、美しき"虹蛇の導き(ユルングライン)"。
アルコ・イリスに脚を踏み入れたものならば必ず一度は立ち止まり、時間も忘れて見入ってしまう7色の煌き。しかしその男は最早見向きもせず、建物が落とす陰と全てを飲み込むような夜の闇が揺蕩う足元を眺めていた。
「──とうさん、かあさん」
男がぽつりと呟く。
大きな音で吹く風に殆どが飲み込まれながらも、何事かをぶつぶつ呟いた末、男は上等な革の靴をそっと脱いだ。
その上に置かれた手紙が一通。
さらに花束を置こうとして、思いとどまり抱きしめる。
「先立つ不幸をお許しください。……彼女に振られた俺には、俺には、…──もう生きている価値なんてないんだあああああああああ!!!」
絶叫、そして残響を響かせ、男と花束が宙に踊る。
周囲の建物より一際大きな頂上から落ちた身は、真っ逆さまに路地へと。
こうして男の苦難の人生は終わりを迎えた。
────筈だった。
「お目覚めかしら」
花咲き乱れ蝶が遊び温暖な気候で青空が広がる楽園を期待していた男は、全く現状が把握できなかった。
空に輝く7色。照らされた夜空。先程まで立っていた屋上。
そして目を開けた自分を覗き込む女の姿。
腰まで在る濡れ羽の髪に琥珀の瞳。
シックな黒のワンピースで包まれた肢体は女性らしい膨らみに恵まれている。
はっきりとした目鼻立ちと理知的な面差しだが、残念な事に口元を引き結んだ女は全く笑っていなかった。愛想の欠片もない。
笑えばきっともてるだろう──伏したままそこまで思って、男は我に返り慌てて飛び起きた。
「お、俺は死んだはずじゃ…!!」
「見て判らないのかしら。生きているじゃない」
琥珀色が呆れたように眇められる。
その視線を浴びながら、男は先程の決死の飛び降りを思い出し、今更ながらに恐怖と寒気を感じ、そして生き伸びてしまった事に何ともいえない恥ずかしさを憶えた。
「貴方、運がよかったわ。詰み上がった木箱の上に偶然落ちて一命を取り留めたのよ。そして私が其処に通りがかった」
ああそれで妙に木屑塗れなのねと、男は納得した。確かに尻の下には潰れた木箱が大量に。
しかし、次の瞬間に怒りが爆発した。
「な、な、…なんてことをしてくれたんだ!! 俺は、死ぬつもりだったんだ!! なんで助けたりなんかするんだ!!」
男の勢いに反して女は何処までも冷ややかな目をしている。
否、そればかりか温度が段々と下がっていっているのだが、残念な事に頭に血が上った男はその事に気付けない。
「ああもう!!あああもう!! 生きてたって仕方無いのに! どうして死なせてくれなかったんだああああッ!!!」
「あら、そう」
冷ややかな返事が一瞬で場の空気を凍らせる。
水を浴びせられさらに冷風に吹き曝されたような寒気を憶えて振り返った男が見たものは、絶対零度の琥珀色。
────して。
「ぎゃああああああああああ!!!すんませんすんませんごめんなさい赦してください!!!」
「あら、死にたかったのでしょう。助けてしまってごめんなさいね。責任取って引導を渡してあげるわ」
衣服に包まれ一見判らないがその実素晴らしく発達した筋肉を纏う腕に引っつかまれ、男と女は川沿いにいた。
轟々と流れる激流に正に突き落とされそうになって、手摺を握り締め男は必死で命乞いをするが、女はやめる気配がない。
「抵抗すると恐怖を味わう時間が長くなるわ。決意が鈍らないうちに潔く逝きなさい」
「すみませんほんと俺が悪かったですぶっちゃけほんとは死にたくなんかないんですただちょっと彼女に振られて死にたくなっただけなんですうううう」
「くだらない理由ね」
一度助かってしまった以上、二度目を敢行するのは辛い。ましてや衝動に突き動かされた勢いだけの行動だったから余計に。
そろそろ股を濡らしそうな勢いで怯える男を蔑みながら、女がぱっと手を離すと、男はそのまま後ろに倒れ込んで尻餅を突いた。そのまま起き上がる気配がない。
「……う、うう、…うわあああああ!! そりゃあんたにはくだらないかもしれないさ! でも俺に取っては一生で一度の恋だったんだ!! それなのに、それなのに喧嘩して別れちまって、もうやっていけねえようわあああああああ!!」
体を丸め真剣に泣き出した男を、相変わらず女は冷ややかな目で見ている。
「──くだらないわね。 仮令どんな理由があれ、自分自身で命を断つ事ほど愚かしい事は無いわ」
「う、うるせええええ!正論吐きやがってこのアマ!! 出来ないんだから仕方無いだろウゴエッ!!!!」
鳩尾に爪先を食らわされて男が転がる。
虫けらを見るにしたってもう少しはマシな程に温度を失った視線で見下ろしていた女は、ふと溜息を吐き出した。
痛みにのた打ち回る男を置き去りに何処かへと立ち去った女は、彼の痛みがマシになった頃に戻って来て、その手には花束を携えていた。
──彼女との仲直りの為に用意したものの、結局渡すことも出来ず、抱えて死のうとした花束だ。
「度胸は在るのだから、命を断つだなんて方向ではなく、謝りにでも行けばよいでしょう」
「………けど、罵倒されるのも、彼女に迷惑かもしれないのも、嫌なんだよう……」
ついには泣き出した男に呆れながら、手にした花束を女は押し付ける。
半ば無理やり受け取らされた男が言葉を発するよりも先に、黒いレースの手袋で覆われたたおやかな指が汚れてしまった花に触れる。
「死なれるのも寝覚めが悪いし、私の職業に反する。 ──貴方に一度だけ力を貸してもらえるように、頼んであげるわ」
その意味を問うよりも先に、男の目の前で不思議な自体が起きた。
否、このアルコ・イリスという街では然程珍しい出来事でもないのかもしれないが、だが少なくとも、魔法と云う物から縁遠い日常を送っていた男にとってそれは酷く不可思議なものだった。
女の指先が花弁に触れる。 それだけで、薄汚れていた花は輝きを取り戻した。
女の指先が蕾を撫ぜる。 見る間に綻んだそれは、瑞々しい花を咲かせた。
そして女の脣が語り掛ける。
「貴女の真名は?仲直り?、貴女の真名は?愛の告白?───お願いよ、如何か力を貸して頂戴」
白と赤の花々が柔らかな光を生み出し、それがすうっと、溶け込むように男の胸へと吸い込まれていった。
有難う。花へと語り掛ける女の声音は何処までも優しい。
意外な一面に呆然としていた男は、ふと違和感に気付いた。
「…あれ?」
胸に纏わりついていた重い空気が何処かへ消えている。
代わりに芽生えたのは、彼女ともう一度やり直したいという強い気持ちだ。別れ際の顔ばかりがちらついていたのが、共に笑い、愛し合った記憶に摩り替わる。
今ならば素直な気持ちを伝える事が出来るのではないだろうか。
だが如何してこんなにも急に立ち直れたのか──その理由を知っているであろう女を見上げると、琥珀の瞳が微かに眇められる。
「花言葉と云う物をご存知かしら」
「…は、はあ」
「迷信だと思って居るかもしれないけれど、あれは強ち間違いではない。その植物の側面を表す言葉であり、そして真名とも云えるもの」
女の手が赤い花を撫ぜる。
その手付きばかりは、冷ややかな表情が嘘であるかのように酷く優しいものだ。
「私はそれを引き出し、分けてもらえるようにお願いすることが出来る。例えば病を払う真名を持つ花ならば、飾ることで病魔を遠ざけてくれるし、貴方が持つ花のように、愛の告白に力を貸して貰えるように──貴方の背中を押してくれるように願える」
「…じゃ、じゃあつまりこの花さえ渡せば…!」
「勘違いしないで頂戴」
男の期待に冷水が浴びせられる。
不機嫌そうに眉間に皺を寄せた女が、緩やかに立ち上がると、別れを惜しむように花が揺れた。風ではない、確かに。
「仲直りが上手く行っても、関係を保つには貴方の努力が必要よ。貴方が魔法に頼りきりになれば、何れ破局を迎える。私達に出来るのは切欠を与える事だけ──死ぬだけの勇気があるなら、死ぬ程に愛しているのなら、精々頑張りなさい」
黒いワンピースを揺らし、用は済んだとばかりに女が歩き出す。
その言葉を呆然と聞きながら、花束を抱きしめ、我に返って男は声を上げた。
「ま、まってくれ…!! あんた、名前は…!!」
立ち止まった女が一拍の間を置いて振り返る。
長い黒髪。琥珀の瞳。其れこそまるで花のようなたおやかな振る舞いで。
「───
ユーチャリス。 夕煌通りの一画で花屋と医者をしているわ」
微かな笑みを残し、女──ユーチャリスは今度こそ振り返らずに歩き去った。
夕煌通りの一画。
中央区側から入って5つ目、右手に見える細道に入りあとは真っ直ぐ進んだ先。
「Kokua」と書かれた木製の看板が目印の花屋。
医者を兼任する変わり者の店主と、その養い仔が2人、合計3人と多くの草花が暮らす家に、菓子折りとお礼の手紙が置かれていたのは数日後。
また、別のお話───。
最終更新:2011年06月13日 14:59