迷い込んだのは大人の国でした。
蜜月通りと交差する、夢見通りと名のついたひときわいかがわしい通り。ラザロが蜜月通りに身を落としていると聞いたレオは実際やって来て、そして今非常に後悔している。
生え抜きの一員としてありがちなことに、レオは塔の外にあまり詳しくない。なんだかんだいって広大な
アルコ・イリス市街で一人の人間の居場所を探すにはレオは世情に疎く、ようやく先刻レオはラザロがいると言う運河の船の場所を近所に住んでると言う酔っぱらいから聞き知った。で、迷っている。帰り途が欠片もわからずとにかく大通り、できれば蜜月本通りに出たいとうろついているうちに。
「坊や。夕食は食べた?私の部屋に来ない?」
「いえ、あの。塔を出た時バーガーを一つ食べたので」
「ダメ。食べざかりなんだから。お姉さんがレバーシチューとか海亀大蒜焼とか作ってあげるから」
「ひぇ結構です。ごめんなさい遠慮します」
「可愛い子。商売抜きでお腹いっぱいにしてあげる。その後は、ね」
「う。あえ。あの、止めて下さい。やめてください。襟飾りをしゃぶらないで」
浮世離れした雰囲気のせいか妙にお姉さんや時にはお兄さんに食いつかれる。振り切って路地に入ればあられもない未来が見える。いずれにしても少年には刺激が強すぎる。じたばたと夜の大人たちや現時点では何もない空間から逃げ回っていくうちに、なぜかどんどん薄暗い通りに入り込んでいく。
魔術学院関係者はあまり道を覚えない。覚えなくても空さえ見上げれば昼も夜も帰る方向くらいはわかるものだから覚える必要がないためだが、あいにくこの日は重く雲が下りている。朝まで帰れなかったらどうなるのだろうとレオは想像する。“未来視”だろうがなんだろうが、我が身に降りかかる夜の脅威は見えない。見えないものは見えないのだ。
「泣きそう」
レオが声に出して嘆くと、暗がりから声がかかる。
「少年、どうしたのかな。二段飛ばしで大人の階段を駆け上がっているような顔をして」
驚いて目を凝らす。娼館らしき建物の壁際のゴミ捨て場。そこになぜか正坐している老人が一人。
「あ、あなたは?そんなところで何を?」
「“おしおき”でさ。天使に叱られた」
この人大丈夫かな、とレオは自分の普段の言動を棚に上げて心配する。そんなレオの心配をよそに、逆に老人は心配そうな顔をして見せる。
「君はどうしたの?あ、初めて遊びにというか遊んでもらいに来たけど勇気が無くてうろうろしていたのかな?あるある。そういうときにはさ、友達と酒の勢いで」
「違います!あの。道に迷ってしまったんです」
「うん。知ってる知ってる。人は皆迷える子羊。導きを求めていと高き神の衣の裾にすがる」
「そういう意味ではないんですけど。神官さんみたいなことを言いますね」
「そうだもん」
そうなのか。娼館のゴミ捨て場で正坐している妙に慣れた聖職者、というものがこの世に存在していいものかどうか普通なら怪しむところだが、人生経験のないレオはそう言われたらそうなのだと思うしかない。助かったとレオは思う。聖職者=謹厳実直と信じ込んでいるレオは老人にすがる。
「なら、道を教えてもらえませんか。あ、ええとこう魂の救済とかではなく実際的な道なんですけど。あの、大通りはどっちでしょうか」
「うーん。そう言われても外国人だしねー。来た時には案内人がいたんだけど」
しょんぼりと肩を落とすレオの手に、老人が優しく自分の手を重ねる。
「まあさ。部屋で休んでいくと良いよ。雨が降りそうだし、部屋にお菓子もあるし。人助けのためなら早めに切り上げてもミヒャエルもがみがみ怒鳴らないだろうし。さっ」
「えっ」
展開が読めずに戸惑うレオ。ふと老人は心から心配そうに眉を寄せささやく。
「それに。君、いろんなものを乗せ過ぎだよ。少し下ろして行った方がいい」
アルコ・イリスの夜は深い。色々な影を懐に隠している。
周りに人がいることを忘れるな。先生はそう言った。ザナにはその意味がよくわからない。
周囲に人がいる。そんなことは当たり前のことだ。貧民街には人が多い。ザナはいつだって人の中で生きてきた。
往々にして無関心で、少しでも不快を感じたならば手ひどく対応する。そういう人々の間で暮らすうちに幾度もザナは殴られ蹴られ水をかけられ罵られた。そしてそのうちに殴られたり蹴られたり水をかけられたり罵られたりしない立ち回りを身に付けた。目立たず隙を見せず不用意に関わらず。先生はそういうことを言っているのだろうか?
程よくワインに飲まれながらザナは近道に夜の夢見通りを抜けて帰る。夜も更けているのにまだまだ活気があって、ほらこんなに人がいる。
湿って生温かな初夏の夜風が酔った頬に心地よい。城市の風はどこか熟れたような香を乗せてさわさわとザナの(少し焦げた)前髪をいたぶる。肩にかけていた上着も揺れる。
「そこの坊や、遊び相手が見つからないの……ってなんだ偽酒売りか」
痩せてひょろひょろしたザナが歩いていると、しばしば客引きに声を掛けられる。酔ったザナは失礼だとも思わず手を振ってやる。
「はっ、まだ客が見つからないの。そろそろ商売替えしたら?」
「黙りなさい白髪。何その前髪。焦げ白髪」
「白髪じゃない。アッシュブロンド」
虚しい自己主張をして通り過ぎる。そのまま歩いていると、路地でしゃがみこんでいる少年を見つけた。何か現実の厳しさを見せつけられたのか。
普段なら当然無視して通り過ぎる所だが、今日は機嫌がいい。何より少年が着ている魔術学院の制服。気が付いたらついついどうしたのかと声をかけていた。
「………怖かった。あの人の足がしびれて無ければ危なかった。何が見えたんだろう」
ズボンを押さえてぷるぷる震える少年。
「なんだか知らないが大変そうだ。どうした」
やっとザナに気がついたみたいに少年が振り返る。
「…………そのナイフは?」
「ナイフ?」
何を言い出すのかとザナは少年のとろんとした目を見返す。いつも持ち歩いている小さなダガーはあるにはあるが、当然抜き身で持っているはずもない。ベルトに仕込んだ鞘にきっちり刺してある。酔って気がつかないうちに刺されたかと体を見下ろすがそんなこともない。
「あ、ごめん。なんでもない。ナイフ持って構えてるみたいに見えたから。見間違えたみたい」
どんな見間違えだ。酔っているのか、と自分を棚に上げてザナも思う。
「どうした。酔って足腰立たないのか」
「お酒なんて飲まない。お酒は毒だ」
「そんなことない。飲んでみればいい。出来れば私から買え」
「君は酒売り?」
「さっきまでは。今は帰るところだけど」
「そう。良かったら蜜月通りへの道を教えて貰えないかな……その、道に迷って」
道に迷ったと言う言葉を言うと不幸になるとでも思っているのか、少年は変に慎重にその言葉を口にした。
「いいけど」
軽く頷いてザナは歩きだす。ついてこい、というつもりだったが理解できなかったのかしばらくぼうっとしている少年。しばらくしてからあわててザナの背を追う。
「ありがとう。助かった。親切だね」
「いや。……私は魔術士に弱いんだ。多分母親譲りだ」
「?そう?あ。雨が降るよ、そっちの軒先を歩こう」
「そうか」
安ワインに酔ってさえなければもう少し何か思い当たることもあっただろうが、今はザナは素直に少年の忠告を聞いて道の端を歩く。
背丈の似た二人の影法師が夜道に並ぶ。やがて少年の“見た”通りに雨が降り出す。絹糸のように細い雨が街路の敷石を緩やかに濡らして行く。
「魔術学院の学生か」
前を向いたままに見ればわかることを問うザナ。
「うん」
「何しに来た。遊びにか」
他の誰かにもこんなことを聞いたと思いつつ。
「こんなところに遊びに来てもろくなことにならないと思うよ。それは“見”なくてもわかる……人探しに来たんだ」
「誰を探してる」
自分はこの辺に詳しい、手伝ってやろう。良い気分のザナは純粋に親切心で言ってみたが、あいにく少年は首を横に振る。
「ありがとう。でも、さっき場所は聞けたから」
「そっか。ならいいんだ」別段気にすることもなく、さらっと思いつくままザナは話題を変える。「お前、字が書けるのか」
「は?」
思っても見ない質問に目を見開く少年。普通に考えたら魔術学院の生徒に対して侮辱か挑発以外の何物でもないが、不思議そうな表情で少年は肯定する。
「書けるよ」
真面目に答えるのも馬鹿らしい問いにきちんと答える少年。
「そうか。私も書ける」
今は書けるのだと自慢するザナ。そんなザナを少年はきょとんと見つめる。
「そう」
若干サバ読んだが負けてない、とザナは上機嫌に胸を張って歩く。不思議そうに様子をうかがっていた少年は、しばらく歩いてから思い出したように「二ヶ国語書けるよ。中等部以上なら皆そうだけど。僕は蓬莱語」と付け加えてザナの上機嫌は終わる。
「……私は書けない」
「うん。あの、何かごめん」
そのまま黙ってザナは歩き、少年は気まずそうに横を歩く。少年にとって幸いなことにすぐに夢見通りを抜け広い通りが見えた。夜の雨に濡れ暗い色に見えるが、確かにもとはシロップ色をした蜜月大通りの敷石に間違いない。ほっと息をつく少年。
「ありがとう。本当に助かったよ」
「うん。私は良い人だ」
自分で言って、じゃあこれでとまだ機嫌が悪いザナはおざなりに手を振る。振りながら何気なく隣を見て、安心したように笑う少年が雨にそぼっていることに気がつく。自分に雨の降らない道の端を歩かせて自分は雨に打たれていたのだと今更気付く。
また負けた、となぜかザナは酔いに飛躍した理屈で腹を立てる。そういえば自分の家はこのエリアだが、こいつは
中央区の塔に帰るのか。
「これ使え」
ふと気がつくとザナは少年に上着を押しつけている。
「えっ、そんなダメだよ」
「何がダメだ。ちゃんと洗ってるぞ」
汚そうとか言ったら殴るぞと気迫を込めて睨みつけ、無理やり受け取らせる。押し返されたりしてぐだぐだになる前に、さっさとザナは背をひるがえす。
「ちょっと待って!これ返しに行くから!」
背中から追ってくる声に手を振って答えて裏通りの馴染んだ闇に飛びこんでいくザナ。
名前もお互い名乗らなかった、と酔いのまわった頭で思いいたる。どうやって返すのだろう。それとも魔術士ならなんとかなるのかな。まあどちらでもいいか。
ほうほうと優しく降る小雨を浴びて、今はまた上機嫌にザナは師のいる家に帰っていく。
数日が経った。ザナは文字の読み書きは何とか習得しつつある。そもそも言語能力未熟なガキとは違うのだから当たり前だ、とラザロは褒めもしない。
鉄の翼は早々と完成したが、肝心の魔化魔術を覚えるのにザナは苦労した。正確には魔術の基礎理論を覚えるのに、だ。使うだけなら使えるだろうとラザロは言う。が、それではいけないらしい。みっちりと応用まで含む魔術理論を仕込まれた。
「ある魔術を“閉鎖”する、とは対象部分以降を切り離して“活性化”する概念だ。そこだけ気をつければ後は癖のないように書いた」
朝日を浴びて煌めく羽根を撫でつつ、ラザロは書き上げた魔術を書いた紙を渡す。魔力を失ったが、覚え込んだ魔術理論を元に新しい魔術を書くことはまだ出来る。二日かけて羽ばたき魔具の魔化呪文を作成した。当然自分では実験もできないのでザナの一発勝負を背負って空を飛ぶことになる。
「はいわかりました……わかってなくても作動しますよね」
「魔術をなめているのか。まあ今回ばかりは発動してもらわんと困るが」
ザナの目の前にある翼はそれ自体生きている金属鳥かのように見える。技術的合理性に基づいて作られたフォルムは不思議な躍動感に満ち、美術品として作られた訳でもないのに機能美を湛えている。
「では唱えてみろ」
ザナは精神を研ぐ。
「『銅鉱の囁く無尽なる骨よ、依るべきなき蔓纏う夜半なる、鉦と無垢?、えっと亀の』」
「待て。詰まったら流すな。俺を墜死させる気か」
叱責され始めからやり直し。
「『銅鉱の囁く無尽なる骨よ、依るべきなき蔓……』」
からっとしたアルコ晴れの朝だった。これから一日を謳歌しようという草花の匂いが街路樹や植え込みから立ち込める。さらさらと流れる市街用水が儚い水音で市民たちを起こそうとしている。
「死んでいる……真っ黒にねじくれて……焦げた瓦礫がここでも押しつぶして……あふれる腐った……積み上げられて……」
ぶつぶつ“見え”るものを嘆きながらレオは蜜月通りを歩いて行く。
本当はレオはあまり日の出ている時間に外を歩くのは好きではない。昼間は悲惨なモノが見えやすく、特に雑多な繁華街など地獄のように見える。
そこのあまり無惨な光景にぐすぐすと涙があふれてくる。思いを口にせずにはいられない。
「ぇっく……何でこんなひどいことが出来るんだろう。怪物だ」
すれ違う善良な市民たちにそれこそ怪物のように見られながらレオは入り組んだ路地に入っていく。
レオはクォールに託された手紙を大事に懐に入れている。なんとしても気が進まない。おそらく元師匠はレオの悪意に気付いているだろうし、下手に会ったら魔術が使えないとはいえ体格で普通に負けているのでくびり殺されかねない。かといって渡さずに持って帰ったり廃棄したりしたら現師匠の不興を買うのは目に見えている。未だにラザロに会ってからどうするか決めかねている。見えるものを見ながら、とレオは考える。普段あまり先々のことを考える気にはレオはなれない。考えるまでもなくその場になれば先は見えるのだから。
しゃくりあげながらゴミゴミした裏通りを進む。ここでも生臭い呟きですれ違った市民のさわやかな朝を台無しにしつつ奥へ奥へと歩いて行く。
「あ」
と足を止めるレオ。雲がいくつか浮かぶだけの空を目を細めて見上げて声を上げる。近くで遊んでいた子供たちが何事かと見上げる前で、レオは虚空を見上げて感嘆の独り言を垂れ流す。
「あれは先生の……凄い……羽根の一つ一つが精密に作動して……美しい、切り裂くようで力強い……なんてたくましいんだ」
子供たちが薄気味悪そうに家に逃げ帰っていく。ママー外に変な人がいるよう、という子供の声など耳に入らず空を見上げて幻影の方に歩み寄っていく。
「さすが先生。素晴らしい魔具だ」
うっとりと見つめながら、やがてレオの中で一つの考え、ビジョンがまとまっていく。
「そうだ。ここで先生が……それなら、手紙を渡す必要もない」
レオはじっと空を見上げ、自分だけが見える鉄の鳥を凝視する。その羽根をむしり取るために。
ラザロの工具の構造なら良く知っている。それがどういう発想で機能するか、どこに作動の中心があるか、どういう素子を師が好むか。何年もそれを手伝ったのだから。
行ける、とレオは結論を下す。今から対抗呪文を用意すれば、レオの金属魔術でもほんの数秒アレに介入できそうだ。
普段なら何と言うことはない。数秒程度の遅延をものともせずに結局メカニズムは作動し初期の設計目的を達成する。その程度の“遊び”を持ってラザロの工具は設計されている。だが、空中での数秒はどうだろう?
無惨に地に落ちる恩人の姿を思ってまた泣く。泣きながら、レオは鉄の翼を折るのにふさわしい場所を探す。
むやみに長い長い呪文を幾度も間違えながら、ザナは二十七回目でようやく魔化を成功させた。すでに昼を過ぎている。二十一回目、八割出来たところで噛んだ時には本当に死ねばいいのにと思った。別に誰に対してでもない、対象を取らない殺意が芽生えるだけの複雑さを魔化の呪文は持っていた。が、それはすでに過去のこと。今は詠唱は成功し、ザナの目の前で卵の殻を割った鳥のように翼がぱたりぱたりとのたうっている。
「先生!出来ました!出来ました!」
疲労で倒れそうになりながらも、ほめて貰おうと師を仰ぐ。
「ん?」
師の姿は見えず、代わりに白い霧が甲板上で渦巻いている。ラザロは十回目に噛んだあたりで興味を無くし、ガレアスをじゃらしてやっているところだった。
「ちょっと待て。よーしガレアス、ほら、放せ……こらッ」
霧の中から聞こえてくる楽しげな声をしばらくザナは黙って聞いていた。やがて霧が晴れラザロが姿を現す。
「先生。出来ました。出来ました」
「ああ。うん。そうか」とうに飽き果てていた気配を隠そうともせずにバタバタ羽ばたき始めている自分の作品を一瞥する。「ああ。出来てるな。はい」
それだけ言ってさっさと翼のチェックを始めるラザロ。一通り骨や羽根の稼働具合を確かめ満足そうに口元に久方ぶりの笑みを浮かべる。
「実に良くできている…………さすが、俺の作品だ」
ぼんやり師の点検作業を見守っていたザナだが、ラザロが点検を終えて一つ頷き、羽根を背負おうとするに及んでようやく声を出す。
「あの」
「ん?」
下手をすると『まだそこにいたのか』と言い出しかねないような様子で師がザナを振り返る。
「あの。その羽根ですが」
「何だ」
「どうするのですか」
根本的な疑問。それで何をするのか、どこに行くのか。それについて師は何も語ってくれなかった。
「そうさな。まず実際に飛んでみる。どうするか……それは飛べることが確認してからだ」
はぐらかすラザロに、なおも問う。
「それは誰でも使えるのですか」
「無論だ。俺の作る魔具は全て工具。誰にでも使える物でなくては工具とはいえん」
「なら」
幾度か考えた。師が飛んで行ってしまう不安。師が自分の魔術に命を託す不安。そう言った諸々を解決するためにザナの考えた回答。
「私に、それをテストさせてください」
「む」
さすがに戸惑ったような師の様子にたたみこむ。
「私はほら、何かあっても教えてくれたら魔術が使えますから。何も先生が自分でテストすることはないです。危ないです」
「ふむ」
「ね、先生」
師が顎に手を当て考えている間に、ザナは強引に師と翼の間に割り込む。
運河の狂人が飛ぼうとしている。そのざわめきを遡りレオは細い小運河を目指す。
「あいつ、飛べると思うか」
「まさか。いくら手が四本で目から光線出す化けもんだからって鉄で空を飛べる道理があるか」
「前うろついてる姿を見たが手は二本しかないようだったが」
「隠してるんだろ」
言いながらも物見高い貧民窟の住人どもは続々と崩れかけた家から出て来る。馬鹿な、とレオは思う。ラザロ先生が作った工具が作動しないはずはない。賭けようかなどという声も聞こえる。誰が勝つかレオは知っている。問題はその後だ。落とさないと、と涙ぐみながらレオは決意する。
それにしても、一体誰が魔化したものか。これから飛ぶ姿を見た限りではかなり高度な魔化がおこなわれている。あれほど精密な魔術を行使できるかと言われると、ラザロについて二年学んだレオでも心もとない。在野の術師と組んだのか?そんな人材が塔以外にいるのか?
誰でもいい。レオは検討を打ちきる。瑣末な問題だ。問題はかつての師、ラザロであってその他ではない。
おおっと歓声が聞こえてきて、レオは足を速める。はるか空で陽光を切り裂いている物がちらっと貧民窟の狭い空を横切った。またひときわ大きく歓声が上がる。
駆け足でレオは運河の岸に出た。そこはおあつらえ向きに、崩れた家の跡で多少視界が広い。
空を見上げる。今度は現に金属の明るい閃きを目に捉えた。青空を恐れもなく高く飛ぶ閃き。遠くて人影としてはほとんど認識できないが、鋼色に反射する鳥などいるはずもない。アレは間違いなくラザロ先生だ、とレオは目を細める。
「良かった」
ここなら見える。自分の金属魔術を行使できる。距離も直線距離で言えばさしたる距離ではないので問題ない……もっとも、そのわずかの距離でも十分に落下者を始末してくれよう。
ラザロさえいなくなればレオの視界から怪物は消える。滅び崩れ傷つき呻き死んで腐った世界も見える事がなくなる。未来からレオに助けを求める者はいなくなる。
みんな助かり世界は事もなく続く。めでたしめでたし。ただ、ラザロは死ぬ。死なねばならない。
今の時点では、とレオは思う。あの人は怪物の自覚さえないのだろう。だからレオはこれほどに呵責を覚えるのだとレオは泣く。まったく不公平だ。
しばらくレオはぐすぐすと泣いた。それから、師を地に落とす呪文を用意する。
ほんの数秒機能を停止させればいい。そのくらいのことはレオにもできる。レオは空中に手を掲げる。
「『砂の都の道、鋼柱の君』」唱えかけて、言葉を飲み込む。一瞬の閃光のように血塗れの地面が見える。師の血ではなく、血だまりに倒れた人間が地に頬を付けて見るビジョン。なんだこれ。僕が見る光景か?僕が……死ぬ?
警告じみた甲高い口笛か指笛の音を聞いて、とっさに振り向いた。
瓦礫に足をかけて、ナイフを持った灰色の髪の少女。持っているナイフにも劣らない鋭利な声。
「何をしている」
最終更新:2011年06月13日 18:18