04-a morning mysterious

『虹蛇の導き』が消えゆく空は雲一つ無く澄んで、街が目を覚ますまでの時間を優しく包んでいた。
微かな歌声を耳にした者は、自分が未だ夢の中に居るのかと戸惑いつつ、何処か懐かしい響きに頬を綻ばせた。

「――♪ ―…♪…」

そして歌い手を目にした者が居たならば、やはり自分は夢の中に居るのかと、頬をつねるだろう。


長い睫毛も繊細な口元も、優美と称すべき程しなやかで、だが女性的かと問われれば異なる。
性的なものを感じさせぬ容貌は、体を包む漆黒のマントと相まって、何処かの名も知れぬ神が遣わした使徒―そんな印象を抱かせる。

「…♪……。 …ふぅ…」
溜息と共に瞳を開く―未だ薄暗い街の中で、一足早く夜が退散したかの様に、瞳は青く澄んでいた。

…優しい視線の先は、小さな双葉。
およそ注目する者の無い広場の隅に、何時誰が植えたものか。
憩いの場として利用される広大な空間で、葉を茂らせる事も、多彩な花をつける事も無く。
未だ残る夜の残滓に包まれ、周囲に仲間は無く、それは酷く孤独に揺れていた。
「…父様や母様の様に上手く歌えないが…助けになれるだろうか…?」


…いや。
それは既に過去の話。
歌姫の華麗さも詩人の魅力も持たぬ、だが、別の何かを持った歌声に包まれて。
今は既に、独りではない。

不安を打ち消す微かな煌きは、朝焼けの輝きに劣らぬ生命の息吹を孕んで。
仄かな熱は、太陽の暖かさよりも強く、旅人の心に届くだろう。
フィロスタインの双眸には、吹き込まれた活力に応え、精一杯両手を広げる幼い命が映っていた。

綻ぶ表情は、無邪気な、ではない。
恐らく無垢な―こそ正しい。
「…ありがとう。おれの歌でも、気に入って貰えたんだな…」
応じる言葉は無くとも、聞こえているのだろう。

名はまだ無い。
”不思議な種”から”不思議な若葉”。
それから先は―何と呼ばれるのだろうか。
生まれたばかりの弟を見る目で、少年は大きく頷いた。



「すごーい!わかさま、お歌上手になったのよ!お友達もにこにこなのよ!」
「?!ぉうわわっ?!」

拍手と賛辞の二重奏は、少年の耳には不意の雷鳴に等しかったか、文字通り宙へ跳び上がると、従者が手を、いや”方向を”差し伸べる間も無く、石畳に尻から落下する。

「あ゛!っ…!く…ぅ~…っ…!」

言葉にならない呻きを上げつつ、恨みと殺意すら籠もった視線を向ける。
…が、激痛のあまり両の瞳に涙が浮かび、咄嗟に立ち上がれず、這ったまま尻を押さえた姿では、迫力より逆に、特定の人間を喜ばせる危険なオーラが醸し出されている。


「きゃははは!わかさま、お尻痛いなら撫でたげるのよ?」
声は大人であり、子供。
特区深部の守り手にして、また特区に守られる魔女ミステル。
成熟した大人の風貌ながら、その笑顔には野に咲く花の如く一片の屈託も無い。

「…み、ミステル…お前、何で此処に…」
思わぬ所で出会した驚きと痛みを抑えつつ、だがフィロスタインの声に有るのは、不安。
特区に守られているべき魔女―少女が此処に居るのは―


「ミステリオン・アージュ・ネーベント・ネペンテス嬢。その行為はアルコ・イリスを存亡の危機に陥れます故、お控え頂きたくあります」
楽屋オチと共に出て来るには、その声は冷徹に過ぎた。



力場に入り損ねた靴が片方、世界法則に従って大地に落下した。
宙を舞っていると自覚した時には、視界の殆どが少女の背中で覆い尽くされていた。
同時に”運ばれた”との理解より早く、華奢な体を掴み寄せ急制動―踏み締める何者も無い空中に生じた漆黒の柔壁は、一瞬前まで少年を包んでいた筈の外套。

地に降り立ってようやく「ほえ?」と目を丸めるミステルを背に庇い、同様に自分を守る二つの背に厳しい目を向ける。
「『黒帳』、『宝石姫』!何のつもりだ!」
腰に凪いだ二つの鞘に、本来有るべき物は無く、代わって現世に顕れし魔神二体。


瞳も髪も、眩いばかりの煌きを放つ、人形の如く可憐な美少女。
"宝石姫(スフェル・ファム)"。

黒髪碧眼、フィロスタインと似た面差しだが、長身に人を威圧する眼差しの騎士。
"黒帳(ドゥンケルハイト)"。

共に歳古き魔剣にして、フィロスタインの忠実な従者。
上位の竜とすら対峙出来ると評される大業物なれば、人の姿を真似る事など造作も無く、無手に見えても、全身が凶器そのものである。

《お下がり下さい、我が主。敵です》
《敵よ、敵なのだわ皇子さま。とってもいや~んな敵なのだわ》
幻想の美しさを有する両名の瞳は、しかし煉獄の炎よりも暗く不吉に揺らめき、その声は―憎悪、殺意、嫌悪、そして、他の何か―あらゆる負の感情を含んで、剣の切っ先より遙かに明確に、対決の始まりを告げていた。
「敵…?」

「―警告。当地域での安全課職員に対する戦闘行為は重罪となります。武器をお収め下さい」
応じたのは対照的に、一切の心を感じさせぬ、歯車が回る様な言葉。
尋常ならざる気配に視線を追って、少年は目を見開いた。


怪物が居た。
長身の黒帳の倍近い背丈に、捻くれた複数の腕。
彼の知識にある如何なる妖魔とも、被造物とも異なる。
全身鎧と巨大甲虫を裂いたものを、子供が出鱈目に組み上げ、仕上げに汚泥を頭からかけた様な―そんな異形の存在が、彼らを見下ろしていた。

敵。
従者は確かに言った。

契りを結んだ魔剣が、主人の与り知らぬ戦など有り得ない。それ程に、契約とは強固なもの。
ならば少年がこの世に生を得くる前、少年の知らぬ場所で、対峙した相手か。
無双の魔剣二体を相手に生き残れる存在はごく僅か。しかも宝石姫が”嫌な敵”と評する相手。
それは―


《バラしましょう、バラしましょう、真っ赤で綺麗な薔薇薔薇にしましょう》
少年の思考を遮って、舞う様な動きは空気を震わせる事すら無く、怪物の背後に麗しき女性の姿を現出させる。
《おぞましい、おぞましいのだわ。殺さないと綺麗にならないのだわ。触らないと殺せないのだわ。ああおぞましい、おぞましい》

一閃。

闇夜の流星の如く、白い繊手が黒い体を切り裂いた。
血液が有っても触れるのは嫌と言わんばかりに、大きく袈裟斬りにされた怪物の傷口は、既に微細な紅の輝きを放っている。

生命より鉱物・宝石を錬成し、死に至らしめる宝石姫の魔力。
速やかなる魔力の伝導は、純粋な瞳に込められた、純粋なる殺意の顕れであろう。
従者の攻撃に目を見開く少年の耳に、次の刹那聞こえたのは、酷く冷静で、冷徹で、そして、おぞましい言葉。


「魔素変換因子により、第40691層より第42759層まで破損。修復不能。変異因子侵入。対策。第40000隔壁より43000隔壁閉鎖。被害部位をゴミ箱に捨てても良いですか? Yes。転世廃棄完了。次元変性。60魔素を消費しても良いですか? Yes。根源魔素変換開始」

何が起こっているか、誰にも何も見えぬ筈であった。
だがフィロスタインの竜眼は、確かにそれを捕らえた。
…或いは、見なければ、見えなければ良かったかも、知れなかったが。


怪物の周囲が微かに。ほんの微かに歪んだ。
そこに有ったものが。ほんの僅か。
怪物の周囲の僅かな”何か”が。
とてつもなく大切な何かが。
地が。火が。水が。風が。
光が。闇が。
音が。色彩が。
意思が。生命が。
存在が。

世界がほんの僅か。

無くなった。


眉を跳ね上げる宝石姫に一礼―己の背中側に90度体を曲げてお辞儀をする姿は、仕掛け玩具としてはデザインが悪質過ぎで、子供受けはするまい。
「申し訳ございません」

生命を有さぬ存在でも、物質の構成要素に干渉する宝石姫の魔力からは逃れられない。身体が鉱物で抗魔の意思を有さぬゴーレムの類ならば、むしろ格好の餌食。
だが、其処に有る筈の何も。
傷跡も、生命を奪い尽くす宝玉の群れも。
そんなモノは気のせいで、魔法など世に存在しないのと言うが如く。
出現時と変わらぬ姿で、怪物は怪物として存在していた。

そして、致命の傷を与えた筈の少女の指先は。
半ばより先が、綺麗に消失していた。

「再生措置を行います」
《あらあらあら。此処じゃ多すぎて、なかなか滅ぼせないのだわ。今度は170分割して、一度にお華を咲かせてみるのだわ》
「不要でありますか」

会話は一切無かった。
恐るべき案を挙げる少女には、その威を知る者ならば戦慄を禁じ得まい。

―徹底的に滅ぼし殺し尽くす。

そう、宝石姫は宣告したのだ。

「小生、記憶領域に重大な損傷が御座います。貴方方との戦闘理由及び記憶を読み出し不可能であります故、戦闘中止を願います」
魔神をも砕く魔剣と対峙しているとは考えられぬ、冷静な言葉。
明確な答えは無くとも、分かる事は一つ。
そいつは、紛れもなく怪物。


《戯れ言を。退け、ファム》
常ならば互いに敬意を払い、穏やかな家族の如く言葉を交わす間柄。
だが黒帳が発したのは将帥の命令、殺戮の魔剣としての咆哮。
石畳がめくれ上がり、天へ駆ける竜の如く、土と石の奔流が怪物の全身を覆い尽くす。
人間ならば圧潰、原型を留めぬ。
だが、ここは単なる時間稼ぎ。次の一手までの目眩ましに過ぎぬは、咄嗟にミステルを庇ったフィロスタインも、後方に飛びすさった宝石姫も分かっていた。

突き付けた指先は一見無害、だがそうではない。
「――!」
《主には指一本触れさせぬ。塵一つ残らぬよう、この場にて砕いてくれる!》
言葉と共に、圧倒的な力の流れが生じる。
人に、建物に、地に水に、大気の中に舞う精霊達にさえ。
万物に働く”重さ”の力をねじ曲げ、逃れ得ぬ超重量で敵を撃砕する、必殺の技。
展開された力場は、異形の如何なる移動手段をも無力と化す。
解放されれば間違い無く、周囲一帯を巻き込む程に、広く強力な―



「―やめろ。『黒帳』」



咄嗟に出た言葉、では断じてない。
明確な意思で以て呼ばれた従者は、困惑を隠せぬ様子で、主を振り返った。
異形もまた―こちらはそもそも、表情が無かったが、眼を向ける。

竜眼と、もう一つ。
複数の視線に怯まず。
どころか、その全てを圧倒するかの如き、瞳へと。
人の意思を以て、その場の全てを睥睨する少年へと。


《若…》
「私は戦闘を命じていない。お前達とその人の間に、過去に何が有ったとしても。戦う意志を示さない相手に刃を向けるのは『特区』の民の取るべき道ではない」

事情を知らぬ者が見たならば、誰も少年を人間と思わぬであろう。
それほどまでに深く、重い。戦士としては華奢な体躯は、揺るぎない威厳を放っていた。
或いはその身が輝いて見えたのも、錯覚ではあるまい―


「それに…表の世界に暮らす人々や、私の友を戦に巻き込む真似は許さない。…戻れ」

はっと息を飲み、怪物の後方に目をやると、黒帳は主へ向き直り、恭しく頭を垂れた。
己の力が解放されれば、朝露の如く消し飛んでいたろう小さな存在を、そこに認めた故に。
主人の”友”―微かな輝きを放つ小さな若葉は、静かに静かに揺れていた。

《残念だわ…汚い塵から綺麗な宝石を、沢山創ってみたかったのだわ…。でも皇子さまにそんな格好良く命令されたら、仕方無いのだわ》
《…申し訳有りません。この黒帳、迂闊で御座いました。…ただ、この者には充分、お気を付け下さいますよう…》

声だけを残して人影は虚空へ消え、少年の腰に、重さが帰って来る。
軽く鞘を小突いたのは、罰のつもりか。



「お美事で御座います」
「…従者の非礼は詫びよう。だが何故、こんな接触をする?理由によっては只で済まないぞ」
異形が崩れた―そうとしか見えないお辞儀は、丁度90度で停止した。

「失礼致しました、フィロスタイン氏。職務上、貴方の為人を知る必要が有りました故」
決済書類の山を積み上げられたと同じ形に、少年の顔が歪んだ。
面倒臭いが半分、諦めが半分。

「『安全課職員』『武器を収めろ』それにミステルの呼び方…全て私に向けた言葉だろう。試されるのは好きではないが」
腕を組むフィロスタインの表情は先程までと変わらぬが、先程とは異なる。
数瞬前までその身より発せられていた力強さ、重厚さを伴う威厳。それが何処かへ失せていた。
威厳が無い訳ではないが、先程と質が異なる、人が積み上げうるものだ。
自身は、それに気付いているのであろうか―

「ご慧眼で御座います。申し遅れました。小生、地域安全課二等衛視、デュールバインと申します。デュールとお呼び下さい」
見た目と同じく、する事も面倒な相手らしい。
正答に至ったとは言え、少年に喜ぶ理由は無かった。


地域安全課ラグナ・ガーディアンの名は、無論少年も知っている。
『あれと議会と魔術学院相手に、事を起こすな』とは犯罪者のみならず、フィロスタインの様に表の街と関わる特区住民全ての不文律でもある。
新人の入れ替わりが激しい上、潜入任務に当たる隊員は非公開となるため、30名足らずとも、100名を越えるとも言われる。
その全てが、捜査と殺しのエキスパート。
アルコ・イリスの法に反するならば、生まれたばかりの赤子も、別世界より飛来した魔王も、一切の区別無く逮捕・処罰すると言われ―否、実際『してきた』。
関わりたくないと言う点では、先に上げた三つの中でトップであろう。
残念ながら目の前に居るが。


「特区にて、こちらにお出でとお伺い致しました故、ご無礼を承知で参上致しました。ミステリオン嬢には、案内役を買って出て頂き、感謝しております」
「案内役…?」
半眼で異形と、首だけを捻って、含み笑いの少女を睨む。

「…ミステル、お前…自分が上(こっち)に遊びに来たくて、わざわざ付いて来たろう?」
「………♪」
笑顔のまま虚空を泳ぐ視線は、図星を突かれたと雄弁に語っている。
アルコ・イリス市民に『中央広場の隅の花壇』で、案内役など必要な筈が無い。
増して市役所は、ここ中央区に有る。


「ミステル!」
途端、怒気を孕んだ声に打たれて、少女は長身を小さく折り畳んだ。
涙目で見返したすぐ前に、フィロスタインの顔があった。
「危険だといつも言ってるだろう!万一お前の素性が人に知れたら、特区のみんなが悲しむ事になるかも知れないんだぞ!」


人外の力を振るう者、それも学院に属さぬ在野の術師への偏見は、魔術への理解が深いアルコ・イリスに於いても、皆無と言う訳ではない。
忠実な番犬や下水の鼠が、魔女の下僕として人々を監視している、とのおぞましい民間伝承は、善良で平凡な人々の心にこそ、恐れと憎しみの根を下ろしている。
またミステルの能力は、裏社会に生きる犯罪結社等には、喉から手が出る類のものでもある。無害な鳥獣を、偵察兵の如く扱えるならば―少女の意思や身体がどう有ろうと、考慮はあるまい。

顔を背ける事を許さず、肩を掴んで叱る表情は、先程、若葉に見せたとは無論、異なるもの。
しかし、本質は同じもの。

「うぅ…だって、ミステルもお友だちが心配だったのよ…わかさまも忙しくって、お水もお歌もあげられなかったのよ…」
「…っ…」
先の黒帳と同じ所作で、同じ場所へと視線が飛ぶ。
恐らくは、同じ思いで。


友と彼が呼んだ存在。
幼く小さく、一部の者にしか知られる事無く、独力で生きる事は決して叶わず。
それでも、七罪都市とも呼ばれるこの街で、懸命に生きていこうとする、力強い存在。
何処かが、似ていた。
誰かに。
そして、自身に。
だからこそミステルも、いつか出会ったそれを”友だち”と呼んだのだろう。


「そうか…。…それは…、すまん…。私も、気になっていたんだが…」
山積する特区の問題を抱えながらも、僅かな時間に友の下へ。
それは少年の優しさ。だが、同じく考える者に心が至らなかった。それは少年の未熟。
しかし根底を成すのは、少女を叱る心も、若葉に微笑んだ心も、全て同じ。

「でもなミステル…こんな事はダメだ。今回は何も無かったが、特区には良い人ばかりが来る訳じゃない。忙しそうに見えても構わないから、私に声を掛けるんだ」
「ぅ…分かったの…ごめん、なさい…」
厳しさと優しさと責任感を混ぜ合わせ、家族愛をどっさり。


「優しいご家族をお持ちであられます」
「…ああ…。ミステルがどう言って付いて来たか知らないが…此処まで安全に連れて来てくれた事には、感謝する」

身長も容貌も年齢すら、本来有るべきそれとは異なる。
自然に、当たり前に成長したならば、決してそうならぬ存在。
少年は、自らの意思で少年以上の存在に。
―兄であろうと生きて、そして、そう在るのだろう。
若葉が若葉でなくなる日も、そう遠くないだろう。



「誰が伝えたにせよ、ミステルの真名は脅して聞き出せる物ではない。その人が、それ程信頼に足ると貴方を判断したなら、私もそうしよう」
湯気を立てる料理を前に、既に笑顔でパクつくミステルを小突いて、フィロスタインは宣言した。

迫害と追放から逃れ来た魔女ミステルの名は、今ではごく限られた存在のみが知る。
その中にフィロスタインが知らぬ者も、信用しない者も居ない。


怪物に案内されたのは、無闇に白い市役所の奥、地域安全課管理棟。
その食堂。

「話に聞く特区の若様とお姫様とは、腕の振るい甲斐が有るね。此処の人達、何を食べても同じか、同じ物しか頼んでくれないので、偶のお客さんは嬉しいですよ」
ひょろりとした料理長が只の人間かはさておき、腕は良い。
食べやすく切られたサンドウィッチは、具材一つ一つが丁寧に下拵えされ、川魚の香草焼きの塩加減も絶妙。
卵と野菜のスープは、クセの無い味と豊かな香りで、食欲を刺激する。
芳醇なデザートのケーキまで全て、僅かな時間で出されたとは思えぬ、しっかりした美味さに満ちていた。



「コロナ・チュリウス容疑者が狙われました」
「!」
「ダミーの首を撥ねられましたが、本人は直前で、当該区域拘置所より保護致しました」
「…そ、そうか…」
食事時に相応しい内容ではないが、ミステルが手を止めぬのは、異形の声が己のみに届いているのだと、フィロスタインも理解していた。


コロナ・チュリウスの名は知っていたが、良い形で、ではない。
特区への冒険者侵入を教唆した男。だが当人も、怪しげな宗教結社より脅迫を受けていたとか。
良い印象は持てぬが、敵と断じるのは躊躇われる。そんな相手である。
無事の知らせに安堵の溜息を漏らすのは、偏に心根の優しさ故であろう。
人ならざる者を統御する身に、欠く事の出来ぬ天性の素質。

「本件は広域に渡る連続殺人であり、組織犯罪の疑いが御座います。重要案件に挙がり”沈黙の輪”捜査権は地域安全課に移りました。被害者に準ずる特区代表者に、ご報告致します」
「手練が居るのか、内通者か?何れにしても大胆な…」
紅茶の香りを味わいつつ、少年は要点を逃さなかった。
治安機関に拘束されている者にまで、殺害の手が伸びたと言うのだ。

異能の存在が跋扈するアルコ・イリスでは、自警団にもそれなりの質が求められる。
全てが有能とは言えずとも、元の社会的地位が高い者を収監する場合、人的にも魔術的にも、高レベルの防護体制が敷かれる。

「深夜の巡回で異常無しの報告でありましたが、朝には独房の扉が開いており、ダミーが殺害されておりました。監房正面扉の鍵も破られており、犯人は此処より侵入したと考えられます」
「狂っていると言うのは簡単だが…あらゆる意味で”普通の相手”ではない、か」
侵入を堂々と誇示するのは、相手が何者であろうと退かぬ決意の表明と、同時に治安機関への挑戦に他ならない。
「鋭意捜査中でありますので、フィロスタイン氏には独自調査を中止して頂き、特区防衛に専念して頂く選択肢をご提示致します」

最初に挨拶を受けた時と同じ形に、少年の口元が歪む。
「選択肢…それが安全課のやり方か?」
「小生の判断であります。貴方の行動を強制する事は、何人にも益を齎さないと判断致しました」
少年の為人を知った上で、選択肢。
回答を読まれているのが不快でも、異なる選択をする事はあり得ない。
だが少年が顔を顰めるのも予測済みか、異形は言葉を続ける。

「地域安全課は善良な市民の皆様の生命と権利を守る為、全力を尽くします。フィロスタイン氏がご自身の生命の危険を冒しても、御同胞を守る為に行動されるのであれば、それを妨害する権利を有しません。助力が必要な際は、小生他2名の担当官までご連絡願います」
…駆け引きの相手としては、訳の分からぬ部類に入る。
フィロスタインの表情が奇妙な形に固まったのも、当然と言えよう。

「…勝手に動いて、危なくなったら助けを求めて良い、と?」
「貴方の行動が捜査妨害に当たると判断致しました場合、警告は致します。そうでない限り、貴方の市民としての権利は有効であります」

市民として、行動の自由を束縛されぬ権利。
市民として、官憲に保護を求める権利。
此の様な特殊な状況下で、彼の様に特殊な市民にも、それを認めると言う。

「…それが、安全課か?」
「市民の権利を守らぬ治安機構に、存在する資格は御座いません。…では、小生”迷子の猫探し”の担当案件が御座います故、失礼致します。精算は済ませております故、お食事をお楽しみ下さい」

一礼して天上に頭をぶつける異形に向かい、少年は小さく頷き―鬼火の如きその目を睨み付けた。


「一つだけ言っておく…私を試すのも、どう判断するも自由だが。特区と私の家族に傷一つ付ければ…それが誰であっても、許さない」

「承知致しました。ではフィロスタイン氏、ミステリオン嬢。またお会いしましょう」
抑揚の無い声が、何故か嬉しそうに聞こえたのは、少年と少女の錯覚であろうか。
黒い背に向け、二人は同時に同じ感想を漏らした。
「…変な人なのよ」
「…ああ。変な人だ」



「…お前達は、あれが何者か、知っているのか」
僅かに残る夜の欠片も、消え行こうとする中央広場。
二人と二振りは、まばらな人影を抜け、地下に通じる回廊へと急いでいた。

《…我らも左程は。…ただ、以前。あの者と同じ姿の輩が、暴れました》
《…沢山、沢山の友達と仲間が、酷い目に遭ったのだわ》

魔剣。人でない存在。
彼らの声は、正しくそれを感じさせた。
幾星霜もの歳月を積み重ね、記憶の海の底深くへと封じ込めた感情が篭った声は。
決して人間には、出す事は出来ない。
「…余程の事だった、ようだな…」

《…主よ。申し訳御座いませぬが、この話はいずれ、またの機会に》
《ちっとも面白くないお話なのだわ。皇子さま、美味しい物を食べた後に聞かない方が良いのだわ》
「…分かった。お前達が話したくなった時に、話してくれ」

それが正しいのか。フィロスタイン自身にも、断定出来なかった。
だが、恐らく聞いてしまえば、一つの行くべき道が定められてしまう。
そんな話だろう。
今はまだ、その時ではない―そうすべきではない。

「私自身、よく考えて判断しよう。お前達の主として、特区の守り手として」
彼らが語らぬのは、皮肉な事に怪物同様、少年の意思を尊重し、行動を制限せぬ為。


特区の仲間の平穏と、幸福を。
それだけを願っている筈なのに。
誰かが敷いた道の上を、歩かされようとしている。

考える時間は、そう長くは無く。
決断は、少年と、少年の大切な人達の何かを、変えていくのだろう。

「急げミステル。こちらでは、もう私達の時間は終わりだ」
「うー、待って欲しいのよわかさま。ミステルはお腹いっぱいでお眠なのよぅ」
「だったら背負ってやるから、寝るのはそれからにしてくれ。…いしょ、っと」
「にゃはは、らくちんなのよー。わかさまは優しいのよ」


振り向くと少年は、昇り始めた太陽と、その光を受けて輝く”友達”に、小さく手を振った。

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最終更新:2011年06月23日 10:20
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