のんのメモ帳

お父さんのこと

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azukicat

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去年2006年8月22日に父親が入院して、そのまま一度も家に帰る事無く
他界してしまった。年寄りネタでいま売れている綾小路なんとかって
タレントが「人の死亡率は100%です」と言っていたのが、妙に心に
残っている。

お医者さんに疑いを持って、うらむ気持ちがあったが、お父さんの寿命は
運命だし、なにか入院中に悪い偶然が重なって様態が悪化したとしても
お父さん自身が引き寄せた事なんだと思うようにした。

入院する際に、すでに体重が落ちてやせ細っていた。
入院後一週間で誤飲のため、自力での飲食は禁止された。
アルコール依存症の離脱症状を防ぐ為の、一種の麻痺剤により意識が朦朧と
してしまった父。物を飲み込む力が弱くなって当然だ。

8月26日頃だろうか。危篤の様態説明がドクターからあったが、ドクターは
医療ミスを誤魔化す為か、肺癌なのですでに助からない状態だと。
延命措置は母と決めてしないことにした。

あの頃の自分はドクターを前にして非力を実感していた。
なにか、物言いをすれば、病院から出されてしまう気がしていた。
検査をした病院から、入院施設のある病院が見つかるまで、長い時間が
かかった。

そんな中、引き受けてくれた病院だった。

お父さんは生きてきて、どんな事に感動し、喜び、何を大切にして
きたのだろう。

最後の一週間を思うとつらい。
栄養状態は保ち、貧血やわらいだ。
肺の水は1・5ℓ抜けて、日に日に痩せて来ていたものの、呼吸は酸素5ℓで
安定していた。

お父さんは、私が病院から一度出て、また戻って来ると「お帰り」と
言った。水は飲むなといわれていたが、自力で痰を出す為に水が欲しいと
言った。私は隠し隠し水をあげた。お父さんは「秘密の水」と呼んだ。
その名前が楽しかった。

入院中も冗談を絶やさなかった。

四ヶ月間はあっという間だった。もしかして、痰の苦しみをまだ受け入れて
取り続けていたなら、今日今も命があったかもしれない。
口の中は乾燥し、舌は痰で固まり、ぱりぱりの状態だった。

体は骨に皮がかかっているだけになり、そんな体に39度近い熱が出続ける。
抗生物質も延命措置になるため、途中から点滴はしなくなった。
お父さんの体は、経管食と酸素で自力で体の均衡を保った。

私は第九練習を優先させたが、それはそれでよかったと思う。
お父さんに12月10日が本番だからね。と言い聞かせた。お父さんは、
指を折ってなにかを数えることをしていた。もしかして、第九演奏までは
長生きしようと思ったのかもしれない。

この間、ふっと神様が「もうお父さんの事に悩まなくていいんだよ」と
いう意味で、お父さんの死が来たような気がした。その時は晴れやかな
気分に一瞬なった。

今日は午前中気分がさえなく、もやもやが続き、なにも手に付かなかった。
洋服を片したら少し落ち着いた。こうやってお父さんの事も
亡くなってから文章に落ち着いてしなかった。

書くことによって気分が落ち着いて来るものだ。
身近な人の死ってなんなんだろう。みな、誰もが経験するのだが。。。
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