雑記
戦争の防ぎ方に対する一考察
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匿名ユーザー
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友人nishy氏が「戦争」というものについて書いていたので、それに対する返答ではないのですが、まじめに自分の意見を述べておきたいテーマだなと思ったので。。。
戦争というものについて。友人のblogに対する、私の回答というか、意見として、ここに述べておこうと思う。
戦争とは、その行為そのものを論ずる場合と、その思想を論ずる場合で論点が異なると思う。
まず、行為としての戦争とは何か。
第一にいえるのは、究極の消費経済であるということである。
戦争は、生産を伴わず、延々と消費のみを続ける。経済活動として、活発ではあるが、非常にゆがんだ形態であるといえる。生産を伴わない以上、物的にも人的にも経済を疲弊させる。負ければもちろん全てを失うが、勝ったとしても無傷というわけにはいかない。
戦争は、生産を伴わず、延々と消費のみを続ける。経済活動として、活発ではあるが、非常にゆがんだ形態であるといえる。生産を伴わない以上、物的にも人的にも経済を疲弊させる。負ければもちろん全てを失うが、勝ったとしても無傷というわけにはいかない。
それなのになぜ戦争を行うのか、というと、思想としての戦争、ということが重要になってくる。
思想としての戦争、とは宗教、イデオロギーという意味にとどまらない。完全に無駄な、「意地」による戦争ということである。
大国の意地。宗教的な意地。イデオロギーに発する意地。民族的な意地。
そういったものが戦争に駆り立てる。
そういったものが戦争に駆り立てる。
しかしながら、「戦争」とは本来手段であり、目的ではない。その目的が戦争以外の手段でかなえられるのであれば、戦争は必要ないのである。
したがって、戦争を起こさないために必要なこと。
ひとつは、国際的な協調体制である。
そもそもなぜ戦争という手段を選ぶのか。
それは、友人がblogでも書いていたことだが、まさに効率がいいからである。うまくいけば、短時間に莫大な利益を得られる、様に見える。実際には損害が0というわけにはいかないし、国際的な世論の反発なども招きかねない。それでも戦争という手段に出るのは、まず第一に戦争を起こす当事者が自国内の国民にしか責任がないからだ。戦争によろうとも、自国の経済なり文化なりが豊かになるのであれば、あるいは国民の持っている内的な不満を解消できるのであれば、国民は一部の良識ある人々を除いてそれに賛成をする。それは、悲しいことに、いくら否定してみても歴史が証明しているとおりである。
それは、友人がblogでも書いていたことだが、まさに効率がいいからである。うまくいけば、短時間に莫大な利益を得られる、様に見える。実際には損害が0というわけにはいかないし、国際的な世論の反発なども招きかねない。それでも戦争という手段に出るのは、まず第一に戦争を起こす当事者が自国内の国民にしか責任がないからだ。戦争によろうとも、自国の経済なり文化なりが豊かになるのであれば、あるいは国民の持っている内的な不満を解消できるのであれば、国民は一部の良識ある人々を除いてそれに賛成をする。それは、悲しいことに、いくら否定してみても歴史が証明しているとおりである。
しかしながら、効率がいい方法が戦争であるということは、片方に効率の悪い方法も、あるということだ。
それは、外交である。
「戦わずに勝つ」とは、孫子の言であるが、2500年たってもいまだこの言葉は心理であると思う。
「国家間に真の友人はいない」という言葉がある。それは審理だと思う。しかしここで私が言いたいのは、「みんなで仲良くしましょうね」などということではない。それぞれの国が、それぞれの国の利益を図るのは当然のことである。要は、それらの国家のうちのどこかが暴走を始めるときに、それをとめられるか、ということだ。その暴走を止めようとする動きの動機が、自国の不利だから、でかまわないのだ。そういった抑止の効果(必ずしも軍事力によらない。世論なども含む)は必須である。
また外交といっても、単なる国家間の交渉、というだけに留めるつもりはない。
実際、これだけでは不足だ。アメリカの軍事力は世界一で、二位から十位までの国の軍事予算の合計額よりも多い軍事予算を組んでいる。これは、単純に二位から十位までの国が束になってかかってもアメリカには勝てない、ということだ。
ゆえに、単純な軍事力による抑止ではなく、そもそも戦争を起こす必要を無くすことが重要なのだ。その為にも、お互いの国、地域に対する敬意(少なくとも、相手に不満を与えない)が必要だと思う。
それぞれの国、地域、民族などによって、ある産業、ある文化にたいする得意不得意というものは、確実に存在する。それらに対して貪欲になって、全てを自国に抱え込もうとするのではなく、国家間における、分業というものを真剣に考える必要があると思う。
ここで、友人がblogで書いている「経済の相互依存関係」を、もうちょっと私流に進めて考えて生きたいと思う。
いくら、平和的な手段によるとはいえ、やはり例えば他国の企業に自国の市場、資源を活用されるのは、面白くないところがあると思う。この「面白くない」国民の感情は、恐ろしいものである。人間の感情、というのは「戦争」に一番近い。ヒットラーがあれだけ国民の支持を得たのも、彼が正しいことを言っていたからではなく、国民に不満があったからである。
私としては、「おだてて、機嫌よくする」のが一番だと思う。語弊のある言い方であることは、わかっているが、言いたいことを一言でいるなら、まさにそれなのだ。
つまり、出来ること、得意なことはその国、地域にある程度任せてしまう。
全てを、自国に抱え込む必要はないのだ。たとえば、アメリカがアラブの石油を支配する必要はない。それぞれがお互いの長所と利点を生かしていくような国際経済体制を作るべきだ。後進国の作物なども、それに食料を依存している日本などはもっと高く買うかあるいは関税を安くするなりするべきで、無理をしてまで国内の農業を優遇しすぎる必要はないと思う。(誤解のないように:ここで言っているのは、農家に「死ね」といっているわけではない。国内の農家にしか作れないものをブランド化するなりして、市場の論理を国産、輸入にかかわらず農業などにも導入するべきだということを言っている。)
つまり、出来ること、得意なことはその国、地域にある程度任せてしまう。
全てを、自国に抱え込む必要はないのだ。たとえば、アメリカがアラブの石油を支配する必要はない。それぞれがお互いの長所と利点を生かしていくような国際経済体制を作るべきだ。後進国の作物なども、それに食料を依存している日本などはもっと高く買うかあるいは関税を安くするなりするべきで、無理をしてまで国内の農業を優遇しすぎる必要はないと思う。(誤解のないように:ここで言っているのは、農家に「死ね」といっているわけではない。国内の農家にしか作れないものをブランド化するなりして、市場の論理を国産、輸入にかかわらず農業などにも導入するべきだということを言っている。)
そこでもうひとつ必要なのが、教育である。
もちろん、勉強ができればいい、ということを、言いたいわけではない。
アジテーターに煽動されない、真に未来の自分と、自国と、世界について考えるだけの力をもった人間を、育てていくことである。戦争というものがどういう行為であるのか、目的を達するために戦争以外にどういった手段があるのか。またそもそもその目的は達成するに値するものなのか。そういった事柄を見極める力。
また、自分とは違う国、違う文化的背景に対して理解し、敬意を払うことができる理解力。
また、自分とは違う国、違う文化的背景に対して理解し、敬意を払うことができる理解力。
そういったものを身に着けた(押し付けられたではないことに注意)人間の育成。それこそがもっとも重要なテーマだと思う。
私は、倫理観による戦争の抑止は、理想ではあるが不可能だと考える。
したがって、友人のblogでの意見に賛成である。
多くのことが友人が書いてある内容と重なってしまったが、私の言いたいことも要約してしまえば「戦争」を不必要なもの、不利益なものにしてしまえばいい、ということだ。
多くのことが友人が書いてある内容と重なってしまったが、私の言いたいことも要約してしまえば「戦争」を不必要なもの、不利益なものにしてしまえばいい、ということだ。