春日局

【元ネタ】史実・日本
【CLASS】アサシン
【マスター】
【真名】斎藤福
【性別】女性
【身長・体重】詳細なし
【属性】中立・中庸
【ステータス】筋力E- 耐久E- 敏捷A 魔力B+ 幸運A+ 宝具B
【クラス別スキル】
気配遮断:B
 それに類する心得はないが、後述の『無辜の怪物』の影響により一定ランクで可能となっている。
【固有スキル】
無辜の怪物:B
 人の形は保っているが、内面的な怪物化により身体能力が向上している。 
戦略:A+
 大局的に物事をとらえ、戦う前に勝利を決する力。ただし彼女の戦場は人と人との間で行われる、直接的ではない争いである。
信仰の加護(偽):A+++
 特定宗派に対するものではないが、一つの家に殉じる精神性により人格までもが変質をきたしている。
呪術(偽):B+
 『無辜の怪物』の影響によりその手腕、生き様が昇華したスキル。彼女独自のものだが、効果は本物の呪術に匹敵する。自覚する、しないに関わらず、彼女が取り計らった人間に実害をもたらす。

【宝具】
『春日の抜参り(かすがのぬけまいり)』
ランク:B 種別:対人宝具 レンジ:なし 最大捕捉:なし
 後述する『直訴状』に内容を書き入れることで、形勢を覆すなんらかの事象を引き起こす。
 基本的な法則として、同じ内容を二度引き起こすことはできないが、文面を変えれば実質同じ内容であろうと作用する。そのため、英霊自身のずば抜けた知力、見識眼、またいかなる手段も実行を躊躇わない怪物化した精神性と相まって非常に応用が利く代物となっている。

【Weapon】
『短刀(たんとう)』
 不定だが、形状から福の最初の婿家である、稲葉家の所有していた稲葉志津(いなばしづ)であると思われる。のち、稲葉家から家康に献上されている。
『直訴状(じきそじょう)』
 ひとつの魔術書に匹敵する効果をもつ。これにより基本的な魔術の使用、魔力の供給が可能になっている。なお実際にはこの直訴状は存在していない。逸話から発生したもの。

【解説】
 斎藤福。のち、「春日局」を朝廷から下賜。安土桃山時代から江戸時代前期の女性。
 徳川家光の乳母。女性政治家。

 丹波国の黒井城下館(興禅寺)で生。城主の姫として、幼少期をすごしたとされる。その後、稲葉正成の後妻となるが、慶長9(1604)年板倉勝重の推挙により(異説とも)、家光の乳母となるべく江戸へ赴いて、大奥入りの前に夫と離別(離縁)。
 一説によると、正成が主君小早川秀秋の死により浪人となり、家族が流浪にさらされたとき正成が妾を持ち、腹を立てたお福は妾を斬り殺して正成に離縁状を叩きつけ、京に出、徳川秀忠の子、家光誕生および乳母募集の高札を見て応募した、ともいうが、これは後世の創作ともされる。

 しかし、家光には2歳下の弟忠長があり、父秀忠はこれを偏愛し、やがて継嗣の序列も逆転するような状況に至る。
 1615年(元和1)福は伊勢参宮を口実に江戸を出て、これを駿府の大御所家康に直訴した(春日の抜参り)。これを受けた家康の取り計らいにより、家光は世子と定まったとされる。これにより家光は生母よりも、福を重く用いるようになったとされ、のち家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局」として大御台所・江の下で大奥の公務を取り仕切るようになる。ただし、福と江とはそりが合わなかったとも言われ、これが後年、家光と江が自ら育てた秀忠の次男、忠長との確執につながったと言われる(のち、忠長は謀反の疑いありとして、領地召し上げの上、切腹となっている)。
 家光には大奥にまつわる逸話が多く、若い頃は男色にかまけて女性に興味を覚えなかったとされ、寛永3年(1626年)の江の没後からは、福は家光の側室探しに尽力し、伊勢慶光院の院主であった万や、楽、夏などの女性たちを次々と奥入りさせ、並みの女性ではならぬとなると、尼僧や身分の低い女性を家光に勧め、嫡子誕生に苦心したと言う。
 また将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握ったとされる。
 また、大奥を統率し、もろもろの〈掟〉を制定したといい、大名証人のうち、女子のことはすべて局一人の沙汰するところであったという。

 寛永6年(1629年)、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。後水尾天皇が幕府の処置に対し逆鱗あり譲位の意志を示すさなか、大御所秀忠の内意を受けていたともされる。また、後水尾天皇に退位を迫らせようとした家康の使者であったともされる。
 この際、武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、育ての親でもある三条西公国の息子・三条西実条と猶妹の縁組をし、参内する資格を得、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号、及び天酌御盃をも賜る。
 しかしこの参内に公家達は反発したとされ、結局、後水尾天皇は譲位したとされる。
 寛永9年(1632年)、再上洛。従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。

 寛永20年(1643年)死去、享年64。
 家光が疱瘡になったとき、福は生涯薬を飲まない誓いを立て、山王社と東照宮に詣で、水の入った桶を頭に乗せ、月が出るまで祈ったという。その後、家光は快癒したが、逆に福が病を得たのに薬を飲まない事を知ると、家光は手ずから薬を飲ませようとしたが、福は飲んだふりをして、密かに吐き出して誓いを守ったと言う。
最終更新:2020年03月22日 21:38