違う。元就は確信した。これは我の子供の頃ではない。
兄は一人だけだし、父も無駄に金銭を使う人ではなかった。母が父を叱っている所など想像も出来ない。
では何だ。この懐かしさは、あの母子から受ける安堵と同一感は?
「いい子、――はとても優しいいい子」
せめて名前さえ聞き取れたなら、後で幾らでも調べがつくというのに。
愛と慈しみで構成された家族は元就にはもう無縁だ。知ってどうなる訳でもないが、しかし。
『全ての事象は、確認されてはじめて存在を確定する。・・・箱の中の猫みたいに。
あなたが今少しだけ見ている風景は、何処かの頁に確実にあって、でも‘あなた’と連なっているかまでは決まってない。』
女の姿も見えないが、あの両の腕と長い黒髪に抱きしめられた感触がする。
少女の名前は聞こえない。母の顔も見えない。確定していないから?
元就は焦れる。手を伸ばせば簡単に届くのに。
触れられない光景は眩しく霞んで消えた。
兄は一人だけだし、父も無駄に金銭を使う人ではなかった。母が父を叱っている所など想像も出来ない。
では何だ。この懐かしさは、あの母子から受ける安堵と同一感は?
「いい子、――はとても優しいいい子」
せめて名前さえ聞き取れたなら、後で幾らでも調べがつくというのに。
愛と慈しみで構成された家族は元就にはもう無縁だ。知ってどうなる訳でもないが、しかし。
『全ての事象は、確認されてはじめて存在を確定する。・・・箱の中の猫みたいに。
あなたが今少しだけ見ている風景は、何処かの頁に確実にあって、でも‘あなた’と連なっているかまでは決まってない。』
女の姿も見えないが、あの両の腕と長い黒髪に抱きしめられた感触がする。
少女の名前は聞こえない。母の顔も見えない。確定していないから?
元就は焦れる。手を伸ばせば簡単に届くのに。
触れられない光景は眩しく霞んで消えた。
波頭が盛り上がっては崩れて、白い模様を砂の透ける海水に描いている。
ざわめく波の音には己の鼓動すら飲み込まれそうだが、不快ではない。心地よく胸に響き、元就は聴覚を委ねた。
ふいに手を引く大柄の男が身を屈め、砂浜に落ちていた何かを拾った。
男、元親が摘まむその塊に、元就は目を細める。
小さめの鶏卵ほどの大きさの、巻貝の貝殻だった。白に山吹色の縦縞模様という優しい色合いの貝は割合厚く、
握ったくらいでは壊れそうに無い。であるから、波に曝されながらも完全な形で落ちていたのか。
葛貝だと元親が教えるてくる。ここらではあまり見れないな、と目を輝かせて陽に透かし見つめていた。
――手間と金子のかかった工芸品でも、そこらに落ちている自然物でも同じか。元就は半ば呆れて、半ば眩しく元親を見る。
眩しい。
既に太陽が天頂へ辿りつかんとする時分になっている。海原はただ黙々と波を寄せ返しながら巨大な体を横たわらせるだけ。
青く広がる風景は清しく、どこにも海の妖女など潜む場所は無さそうに見える。
それもすでに、幻術の一つなのかもしれないが。
ざわめく波の音には己の鼓動すら飲み込まれそうだが、不快ではない。心地よく胸に響き、元就は聴覚を委ねた。
ふいに手を引く大柄の男が身を屈め、砂浜に落ちていた何かを拾った。
男、元親が摘まむその塊に、元就は目を細める。
小さめの鶏卵ほどの大きさの、巻貝の貝殻だった。白に山吹色の縦縞模様という優しい色合いの貝は割合厚く、
握ったくらいでは壊れそうに無い。であるから、波に曝されながらも完全な形で落ちていたのか。
葛貝だと元親が教えるてくる。ここらではあまり見れないな、と目を輝かせて陽に透かし見つめていた。
――手間と金子のかかった工芸品でも、そこらに落ちている自然物でも同じか。元就は半ば呆れて、半ば眩しく元親を見る。
眩しい。
既に太陽が天頂へ辿りつかんとする時分になっている。海原はただ黙々と波を寄せ返しながら巨大な体を横たわらせるだけ。
青く広がる風景は清しく、どこにも海の妖女など潜む場所は無さそうに見える。
それもすでに、幻術の一つなのかもしれないが。
眠りから覚めると見知らぬ室内が飛び込んできて、元就は未だ夢にいるのかと緩い思考に微睡んだ。
低い視界に広がる畳の目と黒い縁取り。開け放たれた縁側から陽光が差しこんで、散らばる装飾品の輝石を煌かせていた。
明るい。
明るい?
飛び起きて、元就は自分の置かれた状況に深く溜め息をついた。とんでもない失態を犯してしまった。
日の出前に起床し、心静かに昇る日輪を迎え一日を開始する。それが元就の日常であり、破られてはならぬ神聖な儀式である。
それがどうだ。昨晩はよく理解出来ぬまま男の凶行に流され、高ぶった感情を抑えきれず泣いて嘔吐までした…気がする。
混乱していて記憶が定かではないが、あらぬ事を口走ったはずだ。しかも、女の言葉で。
よりにもよってなんと愚かな。元就は激しく後悔して布団に突っ伏した。
女言葉は、女性としての自分を立場的にも捨てた時に、つまりは元服した時に封印した。
それでも妹とふたりきりになれば女言葉を使った。妹が、男としての元就を悲しむからだ。
かわいそう。可哀想ねえさま。なぜ?
数年も経てば元就も男言葉に慣れ、自然に女としての自分は消えていった。楽だと思った。これが自分の生きるべき道なのだ。
思い込もうと必死になれば、物事は望んだ方向につつがなく進む。ほら、間違いじゃない。
妹にも良い縁談を用意できた。何も間違っていない。道は淀みなく続く。これが正しい姿なのだ。
嫁いでしまえば家に戻ることはないものだが、妹は懐妊の報告を、と元就に会いに来た。
身重の体で、とたしなめれば妹姫は、申し訳ありませぬと頭を垂れる。姉妹どちらの声にも影は落ちず、朗らかなものであったが、
元就は舌が上手く回らず、妹の前だというのに女の言葉を使う事が出来なかった。
そんな姉を察して、妹もまた『元就様』と姉扱いはしなかった。穏やかな笑みに薄く陰りが膜を張っていたのに気付いてはいたけれど、
元就にはどうにも出来なかった。一つの道を選ぶという事は、幾つかの道を捨てる事だ。捨てたのは女の道、特に不都合は覚えなかったが、
・・・狭い道を、選択してしまったのかも。もしかしたらもっと広々と楽な道もあったのかも。
わずかにでも妹に悲しい声を出させずに済んだのかも。
弟は死なずに済んだのかも。
潮の花61
低い視界に広がる畳の目と黒い縁取り。開け放たれた縁側から陽光が差しこんで、散らばる装飾品の輝石を煌かせていた。
明るい。
明るい?
飛び起きて、元就は自分の置かれた状況に深く溜め息をついた。とんでもない失態を犯してしまった。
日の出前に起床し、心静かに昇る日輪を迎え一日を開始する。それが元就の日常であり、破られてはならぬ神聖な儀式である。
それがどうだ。昨晩はよく理解出来ぬまま男の凶行に流され、高ぶった感情を抑えきれず泣いて嘔吐までした…気がする。
混乱していて記憶が定かではないが、あらぬ事を口走ったはずだ。しかも、女の言葉で。
よりにもよってなんと愚かな。元就は激しく後悔して布団に突っ伏した。
女言葉は、女性としての自分を立場的にも捨てた時に、つまりは元服した時に封印した。
それでも妹とふたりきりになれば女言葉を使った。妹が、男としての元就を悲しむからだ。
かわいそう。可哀想ねえさま。なぜ?
数年も経てば元就も男言葉に慣れ、自然に女としての自分は消えていった。楽だと思った。これが自分の生きるべき道なのだ。
思い込もうと必死になれば、物事は望んだ方向につつがなく進む。ほら、間違いじゃない。
妹にも良い縁談を用意できた。何も間違っていない。道は淀みなく続く。これが正しい姿なのだ。
嫁いでしまえば家に戻ることはないものだが、妹は懐妊の報告を、と元就に会いに来た。
身重の体で、とたしなめれば妹姫は、申し訳ありませぬと頭を垂れる。姉妹どちらの声にも影は落ちず、朗らかなものであったが、
元就は舌が上手く回らず、妹の前だというのに女の言葉を使う事が出来なかった。
そんな姉を察して、妹もまた『元就様』と姉扱いはしなかった。穏やかな笑みに薄く陰りが膜を張っていたのに気付いてはいたけれど、
元就にはどうにも出来なかった。一つの道を選ぶという事は、幾つかの道を捨てる事だ。捨てたのは女の道、特に不都合は覚えなかったが、
・・・狭い道を、選択してしまったのかも。もしかしたらもっと広々と楽な道もあったのかも。
わずかにでも妹に悲しい声を出させずに済んだのかも。
弟は死なずに済んだのかも。
潮の花61




