あの時。兄が病に倒れ、いよいよ、という頃。弟は新たな道を提示してきた。
弟は既に相合の城主として立っており、不安定な立場の元就よりはずっと地に足ついていた。
『姉者、もしどうしても度し難いのならば、俺の室に入らないか』と。
毛利元就は死んだ事にして、弟はどこか市井の娘を側室に迎えたと、そうすれば良い。宗家は大江のものでは無くなるが。
居場所を与えよう。出来うる限りの、安らかに生きてゆける場所を。血を途絶えさせたくないならここにもう一つ、父の血を引く人間がいる。
受け入れれば良かった。
変わりたくないと無い物をねだりをしておいて、切り捨てているのは他ならぬ自分だ。吐き気がする。
弟は既に相合の城主として立っており、不安定な立場の元就よりはずっと地に足ついていた。
『姉者、もしどうしても度し難いのならば、俺の室に入らないか』と。
毛利元就は死んだ事にして、弟はどこか市井の娘を側室に迎えたと、そうすれば良い。宗家は大江のものでは無くなるが。
居場所を与えよう。出来うる限りの、安らかに生きてゆける場所を。血を途絶えさせたくないならここにもう一つ、父の血を引く人間がいる。
受け入れれば良かった。
変わりたくないと無い物をねだりをしておいて、切り捨てているのは他ならぬ自分だ。吐き気がする。
身に心もとなさを覚え、何かと原因を探れば下着を着けていないからだった。纏っているのは男の着ていた紺青色の単衣だけ。
大きい体に合わせて仕立てた着物は当然華奢な元就を包むには生地が余分だ。肩からずり落ちるし袖からは指先さえ出ないしで、
元就は貧弱な体躯を再び侮辱された気分になった。剥ぎ取られた衣服は寝具の向こうに散らばっている。
翡翠色の絹の、繊細な花模様が光に映えた。
先程から離れの玄関で会話する声が聞こえてきている。
一つは昨晩共に過ごした男、もう一つは女性の・・・これは昨晩、元就に湯殿の用意をした老婆であろう。
なにやら楽しげに「弥三郎様は、」などと聞こえてくる。
程なく男が室内に戻ってきた。元就が目覚めているのを認めるとやたら滅法喜んだ顔をして抱きついてくる。犬か。
手にした握り飯の乗った盆を床に置き、元親は元就を抱え込んだ。おはようと言いながら頬を甘噛みする。元就は、彼の取った行動に拳で返した。
殴られた左のこめかみを押さえ「痛ぇよ!」との講義は声だけで、元親は少しも痛そうな顔をしていない。
それどころか喜色満面で元就を見ている。視線が上下に移動し、口元がだらしなく歪むのを元就は気味悪く思った。
「…言いたい事があるならば、はっきり…」告げられたらそれはそれで困るのだろう。しかし元親は構わず述べた。
「いやー…イイ光景だなーって」
寝具の上で、惚れた女が、己の衣服を着て座り込んでいる。寝起きの髪はまだ整えられていず、乱れが昨夜の睦言を想起させた。
着物の合わせからは鎖骨と、豊かとは言えぬ両の乳房の間が覗き、ぶかぶかの袖が隠れた拳から折り曲がって揺れている。
やはり長く足元を覆う裾から小さな足が出ていた。薄い甲の皮膚に浮かび上がった、細く葉脈のように広がる青紫の血管。
肩の縫い目は元就の肘辺りに溜まり、着心地が悪いのだろう、時折眉をひそめて軽く身をよじる。その仕草のなんと可憐なことか。
(男の浪漫がここに…!)こみ上げる愛しさの衝動にまかせてなおも抱きつこうとすると、拳の次に足が飛んできた。
勢いよく腹を蹴られ、続けざま繰り出された二発目には、足首を掴んで転がしてやろうと元親は待ち構えた。しかし。
あ、と小さく元就がこぼし、振り上げた足を床に戻してへたりと座り直した。軽く開いた脚の間に、両手で布地を押さえつけるよう置き、
上目遣いで睨み付けてきた。ああ、そうだったけか、元親は気付いた。そう思うと惜しいことをした。
「お前今下着着けてな、」
鈍い音を立てて、枕の台座が元親の頭部に勢いよく当たった。
「長曾我部殿はよほど国を滅ぼしたいと見えるな。」
「なんで今更そんな他人行儀なんだよ!」
もとちかって呼べよー、ほらー、とめげずに抱きつく男の腹に再び拳をくれてやった。筋に覆われ硬い腹に、返って元就が痛みを覚えた。
潮の花62
大きい体に合わせて仕立てた着物は当然華奢な元就を包むには生地が余分だ。肩からずり落ちるし袖からは指先さえ出ないしで、
元就は貧弱な体躯を再び侮辱された気分になった。剥ぎ取られた衣服は寝具の向こうに散らばっている。
翡翠色の絹の、繊細な花模様が光に映えた。
先程から離れの玄関で会話する声が聞こえてきている。
一つは昨晩共に過ごした男、もう一つは女性の・・・これは昨晩、元就に湯殿の用意をした老婆であろう。
なにやら楽しげに「弥三郎様は、」などと聞こえてくる。
程なく男が室内に戻ってきた。元就が目覚めているのを認めるとやたら滅法喜んだ顔をして抱きついてくる。犬か。
手にした握り飯の乗った盆を床に置き、元親は元就を抱え込んだ。おはようと言いながら頬を甘噛みする。元就は、彼の取った行動に拳で返した。
殴られた左のこめかみを押さえ「痛ぇよ!」との講義は声だけで、元親は少しも痛そうな顔をしていない。
それどころか喜色満面で元就を見ている。視線が上下に移動し、口元がだらしなく歪むのを元就は気味悪く思った。
「…言いたい事があるならば、はっきり…」告げられたらそれはそれで困るのだろう。しかし元親は構わず述べた。
「いやー…イイ光景だなーって」
寝具の上で、惚れた女が、己の衣服を着て座り込んでいる。寝起きの髪はまだ整えられていず、乱れが昨夜の睦言を想起させた。
着物の合わせからは鎖骨と、豊かとは言えぬ両の乳房の間が覗き、ぶかぶかの袖が隠れた拳から折り曲がって揺れている。
やはり長く足元を覆う裾から小さな足が出ていた。薄い甲の皮膚に浮かび上がった、細く葉脈のように広がる青紫の血管。
肩の縫い目は元就の肘辺りに溜まり、着心地が悪いのだろう、時折眉をひそめて軽く身をよじる。その仕草のなんと可憐なことか。
(男の浪漫がここに…!)こみ上げる愛しさの衝動にまかせてなおも抱きつこうとすると、拳の次に足が飛んできた。
勢いよく腹を蹴られ、続けざま繰り出された二発目には、足首を掴んで転がしてやろうと元親は待ち構えた。しかし。
あ、と小さく元就がこぼし、振り上げた足を床に戻してへたりと座り直した。軽く開いた脚の間に、両手で布地を押さえつけるよう置き、
上目遣いで睨み付けてきた。ああ、そうだったけか、元親は気付いた。そう思うと惜しいことをした。
「お前今下着着けてな、」
鈍い音を立てて、枕の台座が元親の頭部に勢いよく当たった。
「長曾我部殿はよほど国を滅ぼしたいと見えるな。」
「なんで今更そんな他人行儀なんだよ!」
もとちかって呼べよー、ほらー、とめげずに抱きつく男の腹に再び拳をくれてやった。筋に覆われ硬い腹に、返って元就が痛みを覚えた。
潮の花62