「俺が利口なんじゃなくて、お前が物を知らないだけだろ」
庭を見るふりをしてさり気なく顔を逸らすと、愛のそうですねとのんびりした声が返る。庭に面した広
縁に控えている小十郎は、やれやれと言う替わりに背中で溜息を吐いてみせた。
開け放った障子の彼方では、枝垂桜と海棠が妍を競うように咲き誇っている。米沢にも遅い春が訪れ、
愛が嫁いできてからおよそ五ヶ月。春爛漫の景色を前にして、不意に、もう限界だと思った。
自分を厭い忌み嫌う母とも、自分を傅育した喜多とも、違う。濡れた穴ぐらを持つ女たちとも違う。愛
から向けられる無垢な笑顔が、無条件の好意が、苛つく。
「おい、小十郎。俺の部屋に行って本持って来いよ。宇津保物語」
「は……宇津保物語、ですか?」
肩越しに振り返った小十郎は、訝るような顔つきだ。
「Ya, 納戸の長櫃の中に入ってる。確か琴がどうとかいう話だったろ? 愛に貸してやるから」
「左様でしたか。ではすぐに持参しますので、しばしお待ちください」
ひとつ頷くとこちらへと向き直り、作法の見本みたいな一礼をしてから小十郎は立ち上がった。遠ざか
っていくのを耳を澄ませて確かめながら、政宗は茶碗を持ち上げ、ぬるくなった中身を飲み干し、茶托に
叩き付けるように置く。
「喜多。茶のおかわり。あと茶菓子とかないのかよ、気がきかねぇな。饅頭でも大福でもいいから厨屋に
行って持ってこい――愛は甘いもの好きだよな?」
「はい。愛はお饅頭も大福も大好きです」
ほぼ地顔と言える笑顔で愛が言うと、喜多は相好を崩した。
「気の利かぬことで失礼しました。そうそう……南蛮菓子のかすていらがありますよ。殿が茶会で使われ
るそうですけど、喜多が膳部の者に頼んで分けて貰ってきますから、お二人で仲良くお待ちくださいね」
いそいそと腰を上げた喜多は婉曲に表現したが、分けて貰うというより強奪してくるに決まっている。
膳部の襟首を掴んで凄み、横っ面を二、三発張り倒して切り取ってくるに違いない。
弟の小十郎は、口で言って分からなければ殴って言うことをきかせるが、姉の喜多は先に殴ってから口
で説明するという方法をとる。先に痛みを与え反抗する気概を挫くのだと言う。二人のおかげで政宗は十
になるまで、傅役は主を殴りつけるのが主な仕事なのだと信じ込んでいた。
幼い頃、悪戯が過ぎるたびに木刀を振りかざし追いかけてきた、二人の鬼のような形相を思い出すと、
ぶるりと身が震えた。
庭を見るふりをしてさり気なく顔を逸らすと、愛のそうですねとのんびりした声が返る。庭に面した広
縁に控えている小十郎は、やれやれと言う替わりに背中で溜息を吐いてみせた。
開け放った障子の彼方では、枝垂桜と海棠が妍を競うように咲き誇っている。米沢にも遅い春が訪れ、
愛が嫁いできてからおよそ五ヶ月。春爛漫の景色を前にして、不意に、もう限界だと思った。
自分を厭い忌み嫌う母とも、自分を傅育した喜多とも、違う。濡れた穴ぐらを持つ女たちとも違う。愛
から向けられる無垢な笑顔が、無条件の好意が、苛つく。
「おい、小十郎。俺の部屋に行って本持って来いよ。宇津保物語」
「は……宇津保物語、ですか?」
肩越しに振り返った小十郎は、訝るような顔つきだ。
「Ya, 納戸の長櫃の中に入ってる。確か琴がどうとかいう話だったろ? 愛に貸してやるから」
「左様でしたか。ではすぐに持参しますので、しばしお待ちください」
ひとつ頷くとこちらへと向き直り、作法の見本みたいな一礼をしてから小十郎は立ち上がった。遠ざか
っていくのを耳を澄ませて確かめながら、政宗は茶碗を持ち上げ、ぬるくなった中身を飲み干し、茶托に
叩き付けるように置く。
「喜多。茶のおかわり。あと茶菓子とかないのかよ、気がきかねぇな。饅頭でも大福でもいいから厨屋に
行って持ってこい――愛は甘いもの好きだよな?」
「はい。愛はお饅頭も大福も大好きです」
ほぼ地顔と言える笑顔で愛が言うと、喜多は相好を崩した。
「気の利かぬことで失礼しました。そうそう……南蛮菓子のかすていらがありますよ。殿が茶会で使われ
るそうですけど、喜多が膳部の者に頼んで分けて貰ってきますから、お二人で仲良くお待ちくださいね」
いそいそと腰を上げた喜多は婉曲に表現したが、分けて貰うというより強奪してくるに決まっている。
膳部の襟首を掴んで凄み、横っ面を二、三発張り倒して切り取ってくるに違いない。
弟の小十郎は、口で言って分からなければ殴って言うことをきかせるが、姉の喜多は先に殴ってから口
で説明するという方法をとる。先に痛みを与え反抗する気概を挫くのだと言う。二人のおかげで政宗は十
になるまで、傅役は主を殴りつけるのが主な仕事なのだと信じ込んでいた。
幼い頃、悪戯が過ぎるたびに木刀を振りかざし追いかけてきた、二人の鬼のような形相を思い出すと、
ぶるりと身が震えた。