濃姫は、目を見開いたまま全身をふるわせていた。完全に屈服させたと思っていた男が
最後の最後で牙を剥いて逆襲してきたことが、予期せぬ大打撃となって彼女を打ちのめして
いるに違いなかった。
満身創痍となった己が矜恃を、妙な達成感が癒す。
濃姫が信玄に屈辱を与えようとする執念と同様に、信玄はそれを打ち砕くことだけに執念を
燃やしていたのだ。
確かな敗北だった。
武田信玄が魔王の妻に体を許した、という事実は屈辱に変わりない。
しかしこの負け戦は、敵に強烈な一撃を見舞ったという一点において、ある意味では勝ちとも
取れると信玄は考えていた。
同じだけの屈辱を浴びあったいわゆる痛み分け、ではないのだ。
濃姫の胎内に放ったものは、今後の彼女に大きな禍根を残すに違いない。
武田の血が魔王の妻の血と混じる、という彼女にとって最大級の悪夢。
「いやぁ……いや……」
濃姫のか細い声が耳に届いた。
悲痛な声を聞く信玄の胸を痛ませるものは、産まれる子がぞんざいに扱われはしまいか、と
いう危惧だけだった。
濃姫が身籠るか否か分かるのはまだ先のことで、そのとき自分は生きてはいないだろう。
しかし、濃姫は必ず孕む。
確かな確信があった。
根拠など示しようがないのだが、あれだけの執念を持ってほとばしらせた己の精が子をなさぬ
はずがないと思うのだ。
「……――」
ふらふらと立ち上がった濃姫の顔を、信玄は見上げた。
見上げる姿勢ではあっても、感覚的には見下ろす立場へと変わっていることをはっきりと
感じていた。
満足感が全身を駆け抜け、家臣たちの勝ち鬨の声すら聞こえてくるような気がする。
騎馬隊の軽やかな蹄音が、耳に心地いい。
甘美な音に紛れて忍び寄る、全身を痺れさせる黒い狂気の足音が聞こえていても、信玄は
それを甘んじて受け入れた。
たぶん、己はすでに狂っているのだ。
快楽に肉体を蹂躙されながら報復の機会を虎視眈々と狙い続け、蝶を罠に追い込もうとしている
間に、どこかが狂ってしまった。
「こ、殺してやる……今すぐ死ねっ!」
濃姫が拳銃を抜き、腕をぶるぶるとふるわせながら銃口を向けてきた。
拳銃が放つ鈍色の冷たい光を前に、信玄は一切の危機感も覚えず、制止の声すら出さなかった。
「やめろ」という言葉は、もはや必要がなかった。
信玄が事あるごとにしつこいほど言い続けた「やめろ」という言葉は、確かに己の本心を含み
ながらも、意図したのは濃姫の優越感と嗜虐心を煽り立てて、彼女の心を乱すためのものだった。
彼女にとって致命的な隙を生じさせるための鬼謀。慢心させ、勝機を見誤らせる詭計。故意に
敵方へと、ある情報を流す――多くの武将がするような、城取り前の調略にすぎなかったのだ。
信玄は壁に肩を預けて、嘆息した。
――捕虜を独断で殺そうとするなど、織田は統率がなっていない。
「う、う……」
濃姫は嗚咽めいた声を漏らした。
わずかに残った理性が激情に歯止めをかけようとしているのか、細い指が引き鉄を引くことは
なかった。
最後の最後で牙を剥いて逆襲してきたことが、予期せぬ大打撃となって彼女を打ちのめして
いるに違いなかった。
満身創痍となった己が矜恃を、妙な達成感が癒す。
濃姫が信玄に屈辱を与えようとする執念と同様に、信玄はそれを打ち砕くことだけに執念を
燃やしていたのだ。
確かな敗北だった。
武田信玄が魔王の妻に体を許した、という事実は屈辱に変わりない。
しかしこの負け戦は、敵に強烈な一撃を見舞ったという一点において、ある意味では勝ちとも
取れると信玄は考えていた。
同じだけの屈辱を浴びあったいわゆる痛み分け、ではないのだ。
濃姫の胎内に放ったものは、今後の彼女に大きな禍根を残すに違いない。
武田の血が魔王の妻の血と混じる、という彼女にとって最大級の悪夢。
「いやぁ……いや……」
濃姫のか細い声が耳に届いた。
悲痛な声を聞く信玄の胸を痛ませるものは、産まれる子がぞんざいに扱われはしまいか、と
いう危惧だけだった。
濃姫が身籠るか否か分かるのはまだ先のことで、そのとき自分は生きてはいないだろう。
しかし、濃姫は必ず孕む。
確かな確信があった。
根拠など示しようがないのだが、あれだけの執念を持ってほとばしらせた己の精が子をなさぬ
はずがないと思うのだ。
「……――」
ふらふらと立ち上がった濃姫の顔を、信玄は見上げた。
見上げる姿勢ではあっても、感覚的には見下ろす立場へと変わっていることをはっきりと
感じていた。
満足感が全身を駆け抜け、家臣たちの勝ち鬨の声すら聞こえてくるような気がする。
騎馬隊の軽やかな蹄音が、耳に心地いい。
甘美な音に紛れて忍び寄る、全身を痺れさせる黒い狂気の足音が聞こえていても、信玄は
それを甘んじて受け入れた。
たぶん、己はすでに狂っているのだ。
快楽に肉体を蹂躙されながら報復の機会を虎視眈々と狙い続け、蝶を罠に追い込もうとしている
間に、どこかが狂ってしまった。
「こ、殺してやる……今すぐ死ねっ!」
濃姫が拳銃を抜き、腕をぶるぶるとふるわせながら銃口を向けてきた。
拳銃が放つ鈍色の冷たい光を前に、信玄は一切の危機感も覚えず、制止の声すら出さなかった。
「やめろ」という言葉は、もはや必要がなかった。
信玄が事あるごとにしつこいほど言い続けた「やめろ」という言葉は、確かに己の本心を含み
ながらも、意図したのは濃姫の優越感と嗜虐心を煽り立てて、彼女の心を乱すためのものだった。
彼女にとって致命的な隙を生じさせるための鬼謀。慢心させ、勝機を見誤らせる詭計。故意に
敵方へと、ある情報を流す――多くの武将がするような、城取り前の調略にすぎなかったのだ。
信玄は壁に肩を預けて、嘆息した。
――捕虜を独断で殺そうとするなど、織田は統率がなっていない。
「う、う……」
濃姫は嗚咽めいた声を漏らした。
わずかに残った理性が激情に歯止めをかけようとしているのか、細い指が引き鉄を引くことは
なかった。




