アヴェンジャーの、シャクシャインの気配が戻ってきた。
 彼のことを、天梨は嫌ってはいない。そもそも天梨は人を嫌いになることがない。
 天梨にとって彼はとても恐ろしい人で――そして、とても哀しい人だった。
 裏切られたもの。失ったもの。魂を、踏み躙られたもの。後世の人は彼を英雄と呼んで讃えたけれど、そんなものは彼にとって何の慰めにもならないだろう。

 自分が彼だったなら、どうだったろうかとたまに考える。
 幸せに生きる権利のすべて。
 自分が信じた、向き合ったもののすべて。
 すべてを奪われ、嘲笑われる。
 ……同じだね、と言ったら彼は激昂するだろう。だから言わない。見えている地雷を踏むほど、天梨は怖いもの知らずではなかった。
 とはいえ心のなかでは実は、そんな風にも思っている。
 だから、自分のもとにやって来たのがあの悪意の塊であったことには納得している部分もあった。特に今は、それが強い。

 私もいつかは、彼のようになってしまうのだろうか。
 この心の中に秘めた、燻り続ける黒いもの。
 〈天使〉には、〈アイドル〉には、〈輪堂天梨〉には決して似合わない黒点。
 激情、殺意、憎悪……きっとそういう名を与えるべきであろう感情。
 いつまでこれを抑えきれるのだろう。いつまで、私は私でいられるのだろう。
 ――怖い。怖いのだ。そう考えるとほんとうに、とても怖い。
 そんな天梨に、彼はいつも囁く。地獄へ堕ちろと。共に、復讐の炎を燃え上がらそうではないかと。
 まさしく、悪魔の囁きだ。穢れたる神(パコロカムイ)という悪魔は、契約を求めている。天使と呼ばれた少女との、冒涜的な契約を。

 天梨は、他人の痛みが分かる少女だ。
 だから、その選択肢は比較的すぐに思い浮かんだ。
 理由は決して、それだけではなかったかもしれないけれど。
 いずれ自分が"そう"なってしまうのなら、その前にすべてを終わりにしてもいいかもしれないと思った。
 幸いにして、この手には令呪がある。
 穢れたる神を終わらせ、自分の未来と引き換えに、地獄の顕現を防げる光の剣がある。
 すべての犠牲と、すべての痛みと、この針の筵のような"今"を終わらせられる一手だと今でもそう思う。

 なのに天梨は、まだこうやって生きている。
 死ぬのは怖い。それは確かだ。
 心のどこかで、なんで自分が死ななきゃならないのかと思っている。それもそうかもしれない。
 でも天梨には、その理由は分かっていた。それは――……


「や。元気にやってるかい?」
「えっ――」

 天梨の目の前に、当たり前のような顔をして"そいつ"は現れた。
 後ろで一本に纏めた、明るい橙色の長髪。
 若き英雄という呼称がこの上なく似合う精悍さと爽やかさを併せ持った、されどどこか焦げた水飴のようなどろつきを感じさせる青年だった。
 彼こそがアヴェンジャー。裏切られ、踏み躙られた過去の凶影。
 穢れたる神。シャクシャイン、である。
 ただしその姿は、天梨が知るものとは少し違っていた。胴体に複数箇所、血が滲んでいたのだ。
 銃創であると、すぐに分かった。何しろ彼はサーヴァント。この世界では、戦うことが仕事の暴力装置であるから。

「ど……どうしたの、それ」
「気付いてくれたか、話が早くて何よりだよ。俺も好んで和人と無駄話はしたくないからね」

 ――サーヴァントと交戦してきた。
 ――だから一応、君にも報告しようと思ってさ。

 そう言って、シャクシャインは白い歯を覗かせて笑った。
 彼は、悪意の化身である。英雄に備わっていた尊いものをすべて懇切丁寧に取り除かれた結果、汚濁の如き悪意だけが残った厄災である。
 故にその言葉は、すべてが災厄の呼び水でしかない。今だってそうだ。

「戦力自体はそう大したことはないが、性質が厄介な奴だった。
 戦上手っていうのかな、一番面倒臭い手合いだね。英霊は契約に抵触しないし殺すつもりだったけど、結局はまんまと逃げられてしまったよ。いやはや、恐ろしいねぇ聖杯戦争ってやつは」

 悪魔と詐欺師のやり口は、得てして共通しているものである。
 あらゆる手段で、あらゆる方面から不安を呷る。
 心の弱い部分に付け込んで、善性だとか理性だとか、そういう均衡を崩しに掛かる。
 シャクシャインのやっていることも同じだ。彼は今、天梨を恐怖で揺さぶっている。

 この恐ろしいアヴェンジャーですら、傷を負う。
 敵を殺せずに、血を流して帰ってくる。
 聖杯戦争とは恐ろしいもの。ましてや時間の経過と共に強い者ばかり残った今ならば、ますますそれは顕著になる。
 そんな世界で、日和ったことばかり抜かしていて本当にいいのか。
 このままでは自分は、何もできないままこの地獄に食われてしまうのではないか。
 怖い。嫌だ。死にたくない――やられる前にやらなければ。
 そういう堕天でもシャクシャインは十分に面白い。愉快だ。喜んで共にダンスを踊ろう。
 そんなシャクシャインの思惑を、無垢な少女が知る筈はない。
 天使は何も知らぬまま、震える口を開いた。そして。

「大丈夫、アヴェンジャー……!?」

 まるで。
 傷ついた家族にそうするように、嗤う復讐鬼の身体に駆け寄っていた。

「どうしよう……! 何とかできない? 私の魔力を吸うとか、どうにかして……!」
「……、……」
「と、とりあえず血を止めないと……! っ――待ってて。すぐそこに薬局があったはずだから、そこでガーゼと消毒液を……!!」

 ――輪堂天梨は、不憫な少女である。
 彼女はただ、あるがままに輝いていただけだ。
 自分を求めてくれる誰かに、自分の最大の輝きでもって応えていただけ。
 優しく、誠実で、裏表がなく、悪意がない。
 なのに、その善性は踏み躙られた。輝くものを妬み、引きずり下ろそうとする無数の醜いものに汚された。
 そうして辿り着いたのがこの針音の箱庭。願いを選別する、ひとつの生と無数の死が犇めく人外魔境。
 天梨はあまりに不憫で、不幸だ。それは誰もが認める事実である。

 そして同時に。
 輪堂天梨は、間違いなく"異常"な少女でもある。
 齢二十にも満たない、高校も卒業していない少女が、不特定多数の無数の悪意を浴び続けてまだ穢れていない。
 彼女は今も応え続けている。ステージに立ち、歌って踊り、微笑んで誰かに元気を与えて続けている。
 優しく、誠実で、裏表がなく、悪意がない。――今もなお。
 それが一体どれほど困難で、どれほど異様なことであるのか。
 シャクシャインだけはそれを知っていた。そうでなければ、彼の目論見は数日と要さずに叶っていた筈なのだ。
 天梨はあまりに不憫で、不幸だ。それは誰もが認める事実である。
 しかし同時に。
 輪堂天梨は、間違いなく――〈天使〉だ。それもまた、誰もが認める真実である。
 歴史の波から生まれ落ちて慟哭する、一切鏖殺の復讐鬼でさえも。

「……そう騒がなくても掠り傷だから問題ないよ。まったく可愛げのない奴だよね、君って」
「でも……!」
「人の心配するよりまず自分の心配をしたら? 聖杯戦争は間違いなく加速してる。予期せぬ出会いをしなかった?
 日常に変化を感じなかったかい? 崩壊の時はすぐそこまで迫っているよ。君もそろそろ身の振り方を考えないとな」

 〈天使〉は、〈悪魔〉を慮っている。
 彼女は本気で、この堕ちた英雄を対等な存在と扱っているのだ。
 事の善悪、倫理的な正しさと間違い。そこの分別は付けた上で、しかしすべての存在を根底から差別することなく手を差し伸べる光の翼。
 もしも彼を喚んだのが彼女でなければ、もうとっくに穢れの炎は東京を焼き尽くす族滅の祟りとして煌々と燃え盛っていたに違いない。

 ――私なら、みんな黙らせるかな。

 それでも。
 天使は今、まごうことなく人の子でもあった。
 心のなかに、茨の冠を戴いた王子の声が反響する。
 嘘。罵倒。揶揄と的外れな説教。天使を蝕む泥汚れは、彼女の足を前に進ませない。

 ――だから振り払うよ。それで、みんなプチっと潰す。

 そんな風に、自分のために生きることができたなら。
 その時、この眼にはどんな景色が映るのだろう。
 そう思わないと言ったら嘘になる。あまり、直視したい感情ではないけれど。それでも伊原薊美と出会って話せたことは天梨にとって久しぶりの良いガス抜きになった。
 けども、それ以上になってはいけないのだと自分を律するきっかけでもあったのも事実だった。
 自分は、アイドルだから。王子さまではなく、皆を平等に照らすヒロインだから。
 天使の輪を、王冠にしてはいけない。天梨はそう胸に抱いて、激情を押し殺し、天使として歌を奏で続ける。

「あのさ、アヴェンジャー」
「珍しい。俺と話しても君に得はないぞ?」
「わかってるよ。アヴェンジャー、口を開けば堕ちろ、こっちに来い、こっちの水は甘いぞぅって言うだけだもんね。
 でも、一応私はあなたのマスターだからさ。何もお話しないまま、理解できない誰かとして片付けたくはないんだよ」
「酔狂だね。で?」

 輪堂天梨はまだ、それを選び続ける。
 そしてきっとこれからも。
 だけど、彼は――

「……あなたも、枯れる花で終わりたくはなかったの?」

 彼は、彼女と同じなのかと。
 目が眩むくらいの光になって、世界を見返したかったのかと、天梨は問うていた。
 口にしてからやっぱりまずかったかな、と少し不安になる。
 彼に対してそれを問うのは、正直竜の逆鱗をいたずらにつつくようなものだと天梨にも解っていた。
 ともすれば怒らせてしまうかも、と思ったのもつかの間、シャクシャインは笑みを浮かべたまま即座に答えてくれた。

「当たり前だろ。大嫌いな奴らの都合で徒花にされたまま、それを受け入れて何やら神妙な顔で歴史の礎になれって?
 そんなの俺は御免だね。俺は枯れない。たとえ枯れ落ちたとしても、すべての土を腐らせて俺のためだけの土壌に生まれ変わらせてやる」

 星ではない、永遠の炎として。
 侮辱され、切り捨てられた誓いに対する応報として。
 日ノ本を滅ぼし、その遺骸までも永久に焼き尽くす地獄の炎華たれと。
 シャクシャインは、己をそう定義している。天使の輪でも、茨の冠でもなく、枯れぬ憎悪の一輪花をこそ彼は目指しているのだ。

「そっか。そりゃそうだよね」
「そうさ。俺からしたら、君の方がよほど理解できない」
「奪われても罵られても、黙って受け止め続けてるから?」
「君は人間として他の和人より圧倒的に優れてる。なのに雑魚の妬み嫉みにしこたま殴られて、傷だらけの顔で不細工に微笑んでるんだ。
 俺に言わせれば馬鹿の所業だよ。君が誰に会ったか知らないけど、そいつも俺と同じことを言うだろうし思うだろうさ。
 ――君には資格がある。屑ども、皆死ねと願う資格が。復讐鬼たる俺がそれを保証してやるよ」
「……優れてる、ってのはどうなんだろ。私はそうは思わないけどな。
 みんな誰にでもいいところがあって、悪いところがある。
 私なんて、ただ人より少し運がいいだけだよ。馬鹿ってのは、確かにあんまり否定できないけど」

 人間は、誰だってみんな頑張っているのだ。
 天梨はそう思っているし、信じている。
 それが本気の台詞なのだと分かるから、シャクシャインは呆れ顔で嘆息した。
 これだからこの女は鬱陶しい。救えない。和人の分際で、どこまでも高尚だ。

「ありがとね。久しぶりにちゃんとお話できた気がする」
「つまんない女。天使サマには皮肉を言う機能も搭載されてないのかい?」
「かもね」

 空の星には手を伸ばしたくなるものだ。
 なぜなら、とても眩しいから。
 シャクシャインにとってもそれは同じこと。
 ただし彼の場合、眩しいからこそ自分の手に収め、自分と同じ底の底まで堕としてやりたいという欲望がそう望ませる。
 輪堂天梨は星だ。和人を呪い、族滅を誓う堕ちた神が唯一認める、許しがたき星。
 和人にあるまじき光がそこにあるのなら、この星さえ堕としてしまえばその時点で和人という種族すべての否定が完了する。
 だから、この悪魔は囁くのだ。手を引くのだ。
 地獄のような苦痛と怨嗟、悠久の彷徨の末にようやく見つけた己の復讐――それこそが輪堂天梨。彼女が鍵で、始まりとなる。

 さて、次は何をしようか。
 何をして、この笑顔を穢そうか。
 皆に微笑む天使の笑顔を、全てを見下ろす悪魔の笑顔へ歪めてやろうか。
 甘美で苛立たしい思案に耽るシャクシャインと、未だ悪魔の手の中にいる天梨。
 彼らふたりの耳へ同時に響いたのは、メッセージの着信を告げる無機質な電子音だった。
 ガス抜きの外出とはいえ、やはり端末を持たずに出かけるのは気が引ける。
 なので持っていたが、此処まで一度も触らずに済んでいた"それ"が音を鳴らした。

 ――ぴろん。

「……ん」

 天梨がスマートフォンを開けば、そこには"マネージャー"の文字がある。
 トークアプリの通知だ。何だろうと思って開くと、そこにはこんな文面が躍っていた。

『天梨さん、お疲れ様です。今大丈夫ですか?
 対談のお仕事が入りましたので取り急ぎ概要を連絡させていただきます。
 つきましては、先方のご希望で天梨さんにひとつお願いがあるのですが――』


◇◇


 初めて見た時の感想は、きっと、"びっくりした"というのが正しい。

 当時からそこそこ有名だったアイドルグループ。〈Angel March〉、通称エンジェ。
 当時のエンジェは伸び悩みとマンネリ化が傍目にも分かる感じで、まあ、偉そうに言うと迷走してしまってた。
 マンネリ脱却のために新しいことを試みては、元々あった魅力がどんどん失われていく悪循環。
 純粋な応援よりも偉そうな後方腕組み説教が目立つファン界隈に嫌気が差して、私もエンジェから距離を置くようになってしまった。
 だから――エンジェが加入して間もない新人をベテランそっちのけでいきなりセンターに抜擢する、というニュースを聞いた時は、正直だいぶ思うところがあった。

 いやいや、テコ入れしたいのは分かるけどそれは駄目じゃん、とか。
 此処まで頑張ってきたメンバー達がかわいそうじゃん、とか。
 いろいろ思ったし、それは私に限らず他のファンも同じだったらしい。
 だから、たぶん期待していた人の方が少なかったと思う。……というか此処だけの話、私もそのクチだ。
 既存のメンバーを蔑ろにしてまでセンター預けた新人さんとやらをひと目見てやろう、みたいな姿勢で久しぶりにチケットを取り、会場に足を運んだ。

 そして――びっくりした。

 私だけじゃない。みんな、びっくりしていた。
 断っておくと、私は元々エンジェが好きだった。
 迷走でだいぶ心は離れてしまってたけど、それでもメンバーには思い入れがあったし、だからこそ新人のセンター起用にムッとした。
 でも、そのステージを見た時、そんな疑問と疑念は全部吹き飛んでしまった。
 納得させられたのだ。あの、圧倒的なまでの輝きに。
 理解させられたのだ。あの、恋するような微笑みに。

 〈天使〉が、そこにいた。

 可愛くて、歌も上手で、ダンスも上手い。
 一挙手一投足のすべてに、花が咲いて見える。
 何をどうすれば自分を可愛く見てもらえるか、何をどうすれば見る人を笑顔にできるか、死ぬほど考えてるんだと分かるパフォーマンスのそのすべて。
 アイドルとは何たるかを、見る人すべてを幸せにしながら示すような最高のステージ。
 彼女を推すのに理由はいらなかった。ていうか推さない理由が見つからなかった。
 ――あの子みたいになりたいと、心の底からそう思った。

 私は、闇を知っている。
 闇の怖さを、きっと人より知っている。
 追いつかれたら、私の負け。
 勝つには、あの光に、追いつけばいい。

 あの子になりたい。
 あの子は、光だから。
 闇の向こうに、〈天使〉はいる。
 だから私の感情は、ただの"好き"では終わらなかった。
 そこで終われないのが、私という人間のいいところで。
 同時に、この人生を生きにくくしてる悪いところでもあるのだろうけど。


 ――待ってろ。
 ――絶対、私もそこに立ってやる。


 そう思って努力した。
 自分がオーディションに落ちまくっている最中もステージに立ち続け、ひとりでグループを背負う姿に何度も何度も嫉妬してハンカチを噛んだ。
 走って、走って、すっ転んで、また立ち上がって。
 あの子が燃えた時には腹が立った。
 私の推し(ライバル)にケチつけやがって、とめちゃくちゃ不愉快な気持ちになった。あとショックも受けた。
 それでも、私の目標はずっとあの子だった。
 輪堂天梨。本物の〈天使〉。アイドルの中のアイドル。私の、永遠の憧れ。

 ……そう、だからこそ――


「あ、あわわわわわ、わわわわわわわわ…………」

 着信音を響かせるスマホの画面に表示された〈輪堂天梨(てんし)〉の名前に、私はもう心臓が弾け飛びそうなほど動揺していた。
 威勢のいいこと言ってた割にそのザマか? ライバルなんじゃないのか? うっさいうっさい知ったような口利くなバカ!
 番組で共演しただけでも死ぬほど緊張してたのこっちは! それがマンツーマンで個通なんて夢かうつつかもうわかんない!
 とはいえあんまり待たせてしまうわけにもいかない。私みたいな木っ端アイドルと違って〈天使〉は忙しいのだ。

 すう、はあ、ひっひっ、ふー。
 合ってるんだか間違ってるんだか分からない呼吸法で息を整えて、よし……と意を決して通話ボタンを押す。
 前回は空回りするあまりまともに話せずコミュ障爆発してしまったけど、今日はウィットなジョークの一つくらい飛ばしてやろう。
 よし、オッケー。覚悟完了。スマホを耳元に当てて、口を開く。

『――あ、もしもし。満天ちゃん?』
「ひゅっっっっっ」

 あっ無理。
 声可愛すぎる、普段からこれなの? 声優でもなんでもやれるんじゃないの。
 ていうか今、名前! 名前呼ばれた、プライベートで……! いやあっちから電話してきたんだから当たり前なんだけど、それにしたってやばすぎる。
 決めたはずの覚悟はあっさりどっかに吹っ飛んでいってしまった。
 鏡があったらこの時、私はさぞかしひどい顔をしていたと思う。

「あ、ぇと、その、もすもす……?」
『あはは、昔ながらの言い方になっちゃってるよ。
 大丈夫、そんなに緊張しないで? おんなじアイドルなんだから、ね?』
「ぁ、はい……えぇっと……こんにち、は……?」
『うん、こんにちは。今ってちょっと時間ある?』
「あっ、ある。あるます、あります」
『よかった! マネージャーさんから今連絡があってね、満天ちゃんに私から伝えてほしいってことだったから電話したの』
「うぇ……?」

 輪堂天梨から、煌星満天(わたし)に、直接伝えること……?
 まったくと言っていいほど心当たりがない。
 まさかこの間の番組のズッコケに対する苦言だったりするのではないか。
 だったらもう今後は石の下でうねうね動く足の多い虫として生きていくしかないのでサッと血の気が引いていく。
 けどそんな私の気も知らず、〈天使〉は明るい声で信じられないことを言った。

『今度、私と満天ちゃんで対談企画をやるんだって。
 "最強×最凶! 新旧アイドル対談バトル"……って、なんかこれ言葉に出すとすっごい恥ずかしいね。うへぇ……』
「――――たい、だん」

 たいだん。
 退団? そんなわけない文脈で分かれバカ。
 となるとやっぱり、いやまさか。
 まさか、あの、"対談"だとでも……?

 えっ。
 ――本当に?

「え、えぇえぇえぇえ……!? わ、私と!? 輪堂さんが!? 〈天使〉が!? 対談!? 一対一!? で!?」
『うん、そうみたい。楽しそうだよねー。私も満天ちゃんとは一回ゆっくり話してみたいと思ってたから、ちょっとわくわくしてる』
「――~~~~……!!!」

 声にならない声が、喉をついて溢れてくる。
 どうしよう。いや、本当に。
 私みたいな一回ラッキーで、それもほぼほぼ反則技でバズっただけの人間が、憧れでライバルな〈天使〉と対談。一対一。本当にえらいことだ。

「あっ、いや、でも……」

 嬉しいか嬉しくないかなんて、わざわざ言葉にするまでもない。
 嬉しくないわけがない、私だって一応此処までアイドルやって来てるのだ。
 ただちょっと、必要な段階をいくつもすっ飛ばして夢みたいなイベントに辿り着いてしまったから感情がバグってるだけ。
 そりゃ嬉しいよ、当たり前じゃん。此処が聖杯戦争のために作られた偽りの街だとか、そんなこと全部どうでもいいよ。
 推しで、ライバルで、目標だったこの子と並んで話して、あまつさえそれが仕事になるなんて――私みたいなへっぽこには過ぎた幸運だ。
 だけど私はどこまでもネガティブな人間だから、すぐに大混乱の有頂天から現実に引き戻されてしまう。

「私、えっと……」

 大前提。
 私こと煌星満天は、対人コミュニケーション能力にそこそこ重大な問題を抱えている。
 そんな私が憧れの推しと一対一で、それも企画としてカメラなりレコーダーなりのある前で話すなんてできるわけがない。
 良くて地蔵化。最悪、話は遮りまくるわ見当違いな返事ばっかりで顰蹙買うわの大失敗。企画自体お蔵入り、輪堂さんサイドには共演NGにされて一躍業界の鼻つまみ者になって、荷物まとめて普通の女の子に早戻り…………悪い想像がぐるぐるぐるぐる、脳裏を駆け巡る。
 ああもう、今ほど自分が生きるの下手くそなことを呪った日はなかった。
 と、そんな逡巡と自己嫌悪でてんてこ舞いの私に対し、電話の向こうから『あー……』と気まずそうな声。

『…………やっぱり、まずいよね? 今の私とそういう絡み方するのって』
「え」
『ごめんね。ほんと、ぜんぜん断ってくれて大丈夫だから。満天ちゃん今大事な時期だもんね、ちょっと配慮が足りなかったや』
「え、ちが……そ、そんなつもりじゃ、なくてっ」

 冷水を浴びせかけられたように、一気に感情の昂りが冷えていく。
 同時に私は、バカか、と思った。
 彼女に対してではない。あの〈天使〉にこんなことを言わせてしまった自分に対してだ。

 ――何やってんだよ、バカ。
 ――お前だってアイドルなんだろ、煌星満天。

『マネージャーさんには私から言っとくね。うん、気にしないで』
「ち――」

 今まで、私の中で彼女のいる世界はどこか絵空事のようだった。

 目標にしてたのは事実だ。ライバルとして、今に見てろと闘志を燃やしてたのも誓って嘘じゃない。
 それでも、私と彼女の間には大きな大きな差があったから。
 画面の向こう、ステージと客席、天と地、理想と現実。人気者と日陰者。
 だけど私は、形はどうあれ彼女と同じ空間に立つことができるようになった。
 たとえそれが、話題の新人アイドルとトップアイドルの共演という話題性ありきの機会だとしても――以前までの私であれば、彼女と同じ場所に立って言葉を交わすなんてできる道理はなかったのだ。

 文字通り、夢にまで見た日。
 それなのに私は、今、何をやってる?

 人と話すのが苦手。大舞台のプレッシャーが苦手。
 要領悪い、どんくさい。アイドルとして落第生のぽんこつ女。
 身に余るチャンスを前にしているのに、そんな欠点ばかり此処ぞとばかりに得意げにあげつらって、"こんな私じゃ"と負のスパイラルに陥って。
 いや、いいよ。それはもういい。私、そういう人間だし。
 でも、だけど、おい、煌星満天。
 百歩譲ってそこまではいいとしても、だ。

 ――おまえ、今、誰になんてこと言わせてんだ!

「――――違うの!!!」

 叫んだ自分でさえ、耳がきーんとしてくるような。
 そんな、調子も音量も外れきった不細工な声で。
 私は、電話の向こうの"彼女(てんし)"に叫んでいた。
 今はただ、彼女に通話を切ってほしくなかったのだ。
 私の憧れ。私の、ライバル。それ以前に、私の推し。

 輪堂天梨は完璧な少女(アイドル)だ。
 話してよし、歌ってよし、踊ってよし、欠点がない。
 だから彼女は、"こんな状況"の中でも笑顔を絶やさないし、自分というアイドルの価値を一欠片たりとも落とさない。
 私みたいな木っ端にはきっと本来見抜けないほど、そのお化粧と立ち振る舞いは完璧なのだろう。
 でも、なんでだろうか。一応は私も、懐中時計に選ばれて運命とやらに放り込まれた演者のひとりだからだろうか。
 通話の向こうで、相手の心を慮って訥々と言葉を並べる彼女の声が、この時はひどく――寂しそうに聞こえた。


◇◇


 びっくりした。
 満天の叫び声に、今も耳鳴りが甲高く耳の奥で反響している。
 今まさに挨拶をして通話を切ろうとしていた指も、思わず止まってしまうくらいには――天梨はびっくりしていた。

『あ……その、本当に、違うの。
 輪堂さんと共演するのがイヤとか、関わりたくないとかじゃなくて……私なんかにこんな夢みたいな話が来たことに、すごくびっくりしちゃっただけで』

 天梨は自分が今世間からどう見られているかをちゃんと理解している。
 だからこそ、満天が明らかに難色を示し出した時にもさほど驚きはなかった。
 彼女を責める気持ちにももちろんならない。だってそれは、芸能界を生きていく者としてとても当たり前の懸念だからだ。
 現在進行系で炎上している、黒い噂にまみれたアイドルとの共演なんてあまりにも大きなリスクだ。最悪、これをきっかけに飛び火が起こることだってあり得るだろう。
 だからそれをケアしようとするのは当然の考えで、これに対して反感を抱くほど天梨は自分本意な考え方のできる人間ではない。

 ただ、少し寂しい気持ちになるだけ。
 でもそんなもの、天梨であれば簡単に無視できる。
 気にしないし、引きずらない。相手に悪印象を抱くなどもってのほか。
 これはそれで終わるだけの話だった筈なのだが、その"相手"が突然大声で叫び出したものだからさしもの天梨もきょとんとした顔になってしまった。

『……こ。こんな私でよかったら、ぜひやりたいです。その、企画……』
「――、」
『だ、だから……! えと、その! そんな悲しいこと、もう言わないでくれると嬉しい……です!!』
「……満天ちゃん」

 輪堂天梨には、彼女自身も自覚していない異能がある。
 それはほんの単純な魅了(チャーム)。
 普通であれば、他者が自分に対してほんの少しいい感情を向けてくれる程度のごくごく弱い魔術だ。
 〈古びた懐中時計〉が与えてくれたチャチなギフト。けれど天性のアイドルの振る舞いと合わさることで、魅了はその効果を何倍にも高めていた。
 ――顔の見える相手なら、誰でも笑顔にできる。
 これが輪堂天梨の人気が不落であることの種仕掛け。とはいえ顔の見えない相手に対しては、この異能は効果を発揮しない。

 そう、つまりだ――煌星満天には今この瞬間、〈天使〉の魅了が効いていない筈なのである。

 とはいえ天梨は自分がそんな大それたものを無意識に遣っていることなど知る由もない。
 顔の見える人よりも顔の見えない人の方が怖く、冷たく、意地悪なのは此処に来る前からそうだった。
 なのに今、通話の向こう側にいる"顔の見えない人"の言葉は、こうなってから初めて受け取るような温かさに満ちていて。

『この際だからもう全部言っちゃいますけど、私、例の報道とか暴露とかぜんぜん信じてないですから! ほんと、今まで〈天使〉の何を見てきたんだって感じでむしろめちゃくちゃ腹立ってます! 輪堂さんの歌とステージ百万回聞き直して見直して来いって感じですよね、あと雑誌の取材記事とかも! そんなプロ意識もへったくれもないようなこと、エンジェの〈天使〉がやるわけないだろって、まったく――』
「……ふふ」
『………………………………、あ』

 気付けば、思わず笑ってしまってた。
 あることないこと好きに書かれて、メディアの玩具扱いされてる自分を肯定してくれたのが嬉しかったわけじゃない。少しはあったかもしれないけれど、それより嬉しかったことが別にある。

『ご、ごめんなさい……こう、私も推しを毎日ぼろくそ言われ続けて、結構溜まってて……』
「満天ちゃんって、ほんとにあのオーディションのまんまなんだね」
『ぁ、う。ひ、引きましたよね……? ワ、ワァ…………』
「ううん、そうじゃなくて」

 この煌星満天というアイドルは、実際確かにコミュニケーション能力に問題を抱えているのだろうと思う。
 でも彼女の場合、ただ鬱屈と溜め込んで抱え込んで、ひとりで潰れていくわけじゃない。
 あくまで人と話したり関わることが苦手なだけで、その内面にはきっととても豊かな感情が溢れているのだ。
 溜まって溜まって、それで限界になったら――彼女は、爆発する。まさにあのオーディション会場で辛口審査員に対しそうしたように、大爆発を引き起こす。
 癇癪の一言で片付けるのは簡単だ。でも、天梨は彼女のこれを長所だと思う。
 だって現に、満天はそれで世間に自分を示してみせた。
 会場を爆発させて、皆が薄々意地悪な人だなあと思っていた大御所審査員に目に物見せた悪魔。アイドル界に現れた超新星。コミュ障でぶきっちょだけど、彼女は自分の心に嘘をつかないのだと思う。
 それは、天梨にはできないことだ。

「ありがとね、すっごく嬉しいよ。満天ちゃんは、私なんかのために怒ってくれるんだ」

 そんな彼女が、自分のために怒ってくれた。
 偽るのが苦手な満天が、自分のために声を荒げてくれた。
 そのことが嬉しい。嘘をつけない彼女の言葉は――理屈も表裏もなく、信じられるから。
 アイドルは嘘をつくのがお仕事。
 他人にも自分にも甘い嘘をついて、騙して、優しく騙して幸せにしてあげる。
 でも、だからこそ。

 ――嘘をつかないアイドルっていうのはもしかすると、とっても強いのかもしれない。

「――ふふっ。私もね、あの審査員さんちょっとひどいなあって思ってたんだ」
『えっ』
「だからね、あのオーディションの動画見た時からずっと満天ちゃんのこと気になってたの。わーこの子いいなぁ、推せるなぁ、って」
『ひゅっ……』

 だってそう、自分は今、彼女にまんまと笑顔にさせられてしまった。
 その"嘘のなさ"に、笑いたい気分でもなかったのに、そういう顔にされてしまった。
 嘘で弱さを覆い隠して、中に押し込んで、そうやって生きてる自分が、嘘のない笑顔を引き出された。

「私もますます楽しみになってきちゃった。うん、なんだかモチベ出てきたや」

 ――うん、やっぱりこの子はアイドルだ。
 この子はきっと、すごいアイドルになる。
 輪堂天梨は、エンジェの〈天使〉は、心からそう思って頷いた。


◇◇


 もしかすると、私はこの後突然空から降っていた隕石とかにぷちっと潰されて死ぬのかもしれない。

 私はしゃべるのが下手くそだ。
 小粋なジョークは言えないし、持ちネタなんてものもない。あったとしてもそれを出力するためのべしゃりがない。
 そんな私が誰かを慰めようとか励まそうとか、そんなのはっきり言って"出過ぎた真似"以外の何物でもないのは自分でも分かってる。
 だから今のだって、私がただ言いたいこと、溜め込んできたこと、それをばーっとまくし立てただけに過ぎない。
 その、まるでゴミ箱をひっくり返したみたいな雑多で平凡な言葉の洪水。
 それを聞いた〈天使〉が私に言ってくれた言葉に、心臓が止まりそうになった。

 ――ずっと満天ちゃんのこと気になってたの。わーこの子いいなぁ、推せるなぁ、って。

 推せる、と。
 あの〈天使〉が、輪堂天梨が、そう言ってくれたのだ。

 思えば一回も報われたことのない旅路だった。
 夢を見ること、諦めないことだけ一丁前で、実力も結果も伴わない日陰の星。
 満天の煌星なんて名前負けだよね、と、鼻でそう笑われたこともある。
 怒鳴り返したいのは山々だったけど、でも結局、できはしなかった。
 だってまさしく、図星だったからだ。とんだ名前負け、高望み。魔女に出会えないシンデレラ。
 暗がりで銀河を見つめるだけの、弱くてちっぽけな星(わたし)に――今。信じられない言葉が、かけられた。

「…………ぅ、うー………」

 あ。
 やばい。
 ちょっとマジで泣きそうになってきた。
 此処はゴールじゃなくて通過点。いつかはこの〈天使〉に勝つのだと誓っておいて、ただ見てもらえただけで、評価してもらっただけでこのザマだなんて我ながらとてつもなく情けないけど。
 でもそのくらい、嬉しかったのだ。救われたのだ。
 この瞬間に巡り会えただけでも、私が今まで歩んできた夢の旅路は無駄じゃなかったのだと、そう思えた。

『満天ちゃん?』
「あっ、……、はい! えっと、私も輪堂さんに迷惑かけないように――いや。
 輪堂さんに"負けないように"、精一杯頑張るので! 当日、ぜひ、よろしくお願いします……!!」
『天梨でいいよ。同い年だったよね、確か?』
「えっ。あ、でも、私みたいなのがそんな」
『私がそっちの方がいいなーって思ったんだけど……だめ?』
「だっ、だめじゃない! だめじゃないです!! あぁ、うぅ…………」

 迷惑かけないように、とか。
 推しの視界に入れる、とか。
 そういうことを原動力に頑張るのは、きっと彼女に失礼だ。
 このいつもいつでも一生懸命、"みんな"のために踊る彼女のためにも。
 そして、いつかその輝きに勝つ完璧で究極のアイドルになるためにも――

 この可憐な〈天使〉に負けないように。
 そう頑張ろうと、私は情けない顔でそう誓った。

「…………よ。よろしく、ね。天梨ちゃん」
『うん。よろしく、満天ちゃん』

 今ほど、世界が平和であってほしいと祈ったことはきっとない。
 世界はもう既に、私の眼から見ても分かるくらい狂い始めてる。
 さっきあった出来事からして、そうだ。
 蝗害。たぶん聖杯戦争のせいなのだろう、事件事故。
 そして私の前に現れて、"あいつ"が勝手にボディーガードに任命してしまった残念イケメンバーサーカー。
 このつかの間の、壊れかけの平穏すら、もう長くは保たない風前の灯火なのかもしれない。

 でも――
 だとしても。

 それでも、どうかこのまま。
 夢のような、夢のための時間が続いてくれればと。
 私は思ってしまい、そこで。

「上出来です」
「あっ」

 そんな声と共に、スマホが横から伸びてきた手に掠め取られた。

「やればできるものだ。頓挫する可能性も踏まえて期待半分で講じた手でしたが、想像以上の結果を魅せてくれた」
「ちょ……! 今大事なとこだからスマホ返して、ていうか何言って――」

 言いかけて、はっと気が付く。
 そうだ――考えてみれば今までの会話、何かヘンじゃないか。

 言わずと知れた最強天使と、昨今話題の最凶新人の対談を組む話が持ち上がった、それ自体はいい。自惚れかもだけど納得できる。
 でも、だからと言ってなんで輪堂さん……天梨ちゃんが直接私にそれを電話してくる?
 バイトのシフト変更を伝えるんじゃないんだから、普通仕事の連絡がアイドルに直接来ることなんてまずない。
 基本、双方の事務所同士でそういう役割を任されている人間が連絡を取り合って、そこから担当アイドルに話が伝えられるのが普通だ。
 なのにどうして、私は天梨ちゃん経由で直接それを知ることになったのだろう?
 誰が、何のために、彼女に……彼女のマネージャーに、"そうしてほしい"と伝えたのだろう――?

「……、お………」

 気付いた。
 その瞬間私は、まだ通話が繋がっていることも忘れて叫んでいた。

「お前の仕業かっ、このバカプロデューサー――――!!!」

 そんな私の声も無視して。
 "そいつ"は、私を悪魔に変えた英霊(プロデューサー)は……あまりに不躾な質問を、オブラートなしの直球で私の〈天使〉に投げかけた。

「直接話すのは初めてですね、輪堂天梨さん。
 率直にお伺いしますが、"聖杯戦争"という単語に覚えはありますか?」


◇◇


 ――ぇ、と、思わず声が出た。
 それはきっと、責められることではなかったろう。
 通話の向こうで突然交代した話の相手、かと思えば自己紹介もなしにいきなり投げ込まれた弩級の爆弾。
 聖杯戦争。この通話で聞くことになるとは思わなかった単語に、声は漏れたし呼吸は止まった。
 その反応は、相手に対して"輪堂天梨は知っている"と理解させるには十分すぎる動揺だった。

『……どうやらご存知のようですね。やはり、でしたか』

 天梨の動揺をよそに、電話口の男は小さく息を吐いてみせる。
 どうして。なんで? バレるようなこと、何もしてないのに。
 混乱と疑問符が脳裏をぐるぐる、ぐるぐると回る。
 そんな天梨に、男はなおも言葉を続けた。

『ご安心を。あなたに危害を加えようという算段ではありません。ただ少し、踏み込んだお話をさせていただければと思っているだけです』
「……、えっと……。あの、ぜんぜん、話が見えないんですけど」
『ふむ――まあ、確かに些か急な話であったことは否定できませんね。
 ではまず、不躾のお詫びも兼ねてこちらからカードを明かしましょう」

 信用していいのかどうかとか、そういう以前の話だ。
 話が突然すぎてぜんぜん頭に入ってこない。
 アイドル・輪堂天梨は誰もが認める天才だったが、人間として見るなら彼女はちょっとばかし善性に比重を置きすぎただけのただの少女でしかなかった。
 話が輝かしいステージから血腥い戦争のそれに切り替わったなら、当然こうして置いて行かれもする。
 だが事を仕組んだ"悪魔"は、こと人心に触れることにかけては非常に巧みだ。
 だから当然。動揺する少女の心を速やかに話の軌道に乗せ、会話を成立させるカードの切り方も心得ていた。

『私のクラスはキャスター。そして同時に、今は"彼女"のプロデューサー業も兼任しています』
「……! え、それって――まさか……!」
『いかにもその通り。私はアイドル・煌星満天の求めに呼応し、この仮想都市東京へ召喚されました』

 ――ずん、と、心に重たい衝撃が轟くのを天梨は感じた。

 今まで、天梨にとって聖杯戦争とはどこか遠い絵空事だった。
 悪魔の如きアヴェンジャーの囁きで聞くだけの名前。
 蝗害や不穏なニュースを見るたびにその進行を感じ取ってこそいたが、実感を伴ってその名がのしかかってきたのはこれが二度目だ。
 一度目はついさっき。負傷して帰ってきたシャクシャインの姿を見た時。
 そして二度目は今。絆を育んだ、心の靄に光を射し込ませてくれたアイドルの真実。
 煌星満天は、マスターだった。自分と同じ、この聖杯戦争という舞台の演者だった。
 これは天梨にとって、言うまでもなく衝撃的なことであった。

「……じゃあ、キャスターさんが私に満天ちゃんへ電話するように誘導したんですか?」
『その通りですが、誤解しないでいただきたいこともあります。
 あなたへの接触を図る意図が第一だったことは事実。
 ただ同時に、あれは満天を彼女の理想に、トップアイドルの座へ進めるための一手でもあった』
「へ?」
『そう不思議なことでもないでしょう。言った筈ですよ、私は彼女の"プロデューサー"でもあるのだと』

 思えば確かに、満天へ電話するように頼まれたのは妙だった。
 だがそれは、彼女に対するある種のサプライズというか、心意気のようなものだと思っていたのだ。
 この間の共演の時に満天が自分のファンでいてくれたことは聞いていたし、その兼ね合いだとばかり思っていた。
 聖杯戦争の戦略上の接触。そして、煌星満天というアイドルを育てるための一手。

『誓ってそこに嘘はない。仔細を語るつもりはまだありませんが、私と彼女の間に存在する契約はプロデュースそのものですのでね。
 聖杯戦争を進めつつ、彼女の背中を蹴り飛ばす。一挙両得だったというわけです』
「……、なんとなくわかりました」

 ――彼の言葉には妙な説得力があって、天梨は少し安堵していた。
 もしも満天が彼というサーヴァントの傀儡にされてしまっていたのなら、こんなひどい話はないと危惧していたからだ。
 でも聞く感じ、彼はサーヴァントである以前に煌星満天の"プロデューサー"で、そこについては結構真摯な印象を受けた。
 なので天梨としても警戒心を少しだけ緩め、落ち着くことができた。
 とはいえ話はこれで終わりではなく、むしろ此処からである。

「それで……。あの、キャス……プロデューサーさんは私に何の用なんですか?」
『理解が早くて助かります、ウチのとは大違いだ』

 自分から聖杯戦争の参加者であることを明かし、陣営の実態の一部を晒した。
 その行動の理由がまさか、自分のアイドルと打ち解けてくれたお礼だなんて親切なものであるとは思えなかった。
 天梨は元々利発な方である。動揺が薄れ、警戒心が解けたなら、その頭脳は正常に回転する。

『単刀直入に言いましょう。協力関係の締結を打診したい』

 満天のプロデューサー/サーヴァントは、淀みなくそう言った。
 協力関係。つまりは、同盟、ということだろう。
 争いを望まない天梨にとって一番恐れていた未来は、この男が果たし合いまがいの申し入れをしてくる展開だった。
 そうなると、非常に困る。受けても受けたくても先にあるのは地獄でしかない。
 それに、天梨としても協力できる相手ができることはもちろん悪い話ではなかった。
 それが満天であるのなら尚更、少しは気持ちを落ち着けることもできる。

『先程も言ったように、私の目的は満天というアイドルを育てることにある。
 その観点で言えば、輪堂さん。あなたも例に漏れず乗り越えるべき"敵"です。
 最終的にあなたは、煌星満天に打倒されなければならない。
 最弱の悪魔が、最強の天使を越えて輝く〈主役(スター)〉になる……それが彼女が望み、私が叶える結末だ』
「……、……」
『ただ、その超越が殺し合いの顛末であっては意味がない。
 アイドルが競い合うのなら、それは各々のステージの上でなくてはなりません』
「…………そうですね。うん、私もそう思います。
 ていうことは、えぇと。満天ちゃんとプロデューサーさんにとっては、私がラスボス……ってことなんですか?」
『ええ、現状は』
「あはは。歯に衣着せぬ物言いってやつだ」

 倒すべき相手に此処まで言っていいのかと思ったけれど、最後まで聞くと確かにこれは晒していいカードだ、と納得が行く。
 とはいえ流石に驚いた。本気で、彼らはこの聖杯戦争でシンデレラストーリーをやるつもりでいるのだ。
 素晴らしいことだと思う。とても、素敵なことだと思う。
 ――いいなあ、と、本当にそう思った。

「いいですよ。私も、正直身の振り方をどうするか悩んでたので」
『感謝します。満天も喜ぶでしょう。それに少なからず、あなたにとっても恩恵がある筈ですから』
「……そうかもしれないですね。私もひとりじゃないのは心強いです」
『ああ、いえ。それだけではなく』
「……?」

 煌星満天のプロデューサー。
 芸能界に溶け込み、既に多くの人脈を築き、そのすべてを主との契約のためにのみ注ぐ怜悧な男。
 その辣腕は、天梨のアヴェンジャーとは違った意味で悪魔の如し。
 いや。彼に関しては、"如し"だなんて言葉を使う時点で間違っている。


『――見たところ、厄介なモノに憑かれているようですから。そういう意味でも、お力になれるのではないかと思いましてね』
「…………っ!」


 天梨は思わず、視線を"それ"の方へと向けた。
 満天との会話に、彼女のサーヴァントとの交渉。
 怒涛の展開のあまり、久方ぶりにこの時天梨は彼の存在を忘れていた。
 美しく、そして何より悍ましく。
 底知れぬ悪意を、哀愁のすべてを火に変えて猛り続ける"それ"を。

『落ち合う場所はすぐにこちらから送ります。
 あなたの交わした契約が如何なるものであるにせよ、私との邂逅は無駄にはならない筈だ』
「あ、なた……一体……」
『申し上げた通りです。クラスはキャスター。煌星を満天の太陽にする任を遣ったモノ。そして、今は』

 ふ、と。
 小さな微笑を込めた声が、この通話を締める最後の言葉となった。

『ただの、しがないプロデューサーですよ』

 ぷつん。
 ぷーっ、ぷーっ、ぷーっ……。
 …………、…………。
 …………。


◇◇


「――きゃーーーーすーーーーーたぁぁぁぁーーーーーーーっっっ!!!!」

 通話(しごと)を終えた"プロデューサー"……ゲオルク・ファウストは、すぐさま絶叫じみた抗議の声に眉根を寄せる羽目になった。
 声の主は言わずもがな煌星満天、彼の召喚者にして契約者だ。
 少し涙を浮かべて頬を紅潮させ、わなわなと身を震わせている。

「なんですか、騒々しい」
「何勝手なことしてんの!? えっ、ていうか私一言の相談も受けてないんですけど!?」
「するわけがないでしょう。台本通りの演技ができるほど利口な姿を私に見せてくれたことが一度でもありますか?」
「うぐぐ……っ、て、違う! それもそうだけど、私が言いたいことはもっと別にあるの!」
「ではそれを先に言うべきですね。話は端的であるほど良い」
「――あのね!」

 〈天使〉――輪堂天梨との交渉は成った。
 今後どうなるかは彼女の連れる、もとい彼女に"憑く"モノ次第なのは否めないが、それでも現状は上手く進んだと言っていいだろう。
 満天にもそれは分かる。だがその上で文句があるので、こうして抗議しているのだ。

「私……本当に、嬉しかったんだよ」
「……、……」
「キャスターに考えがあってやったのは、まあ分かるよ。
 私達みたいな弱っちい組が勝ち残っていくには仲間が多くいた方がいいってのも分かる。天梨ちゃんが私と"同じ"だって分かったなら声かける、それも分かる。あの子、見るからに危ないタイプじゃないしさ」
「続けてください」
「でも――それでも、一言くらいあってもよかったじゃん。
 私、憧れの天使と一対一で共演なんて聞かされてひとりでぬか喜びしてたってことになるでしょ。
 それは……流石に、悲しいよ。そこはちょっとデリカシー欲しかったって言ってるの」
「ふむ」

 話していてなんだかやるせなくなってきたのか、満天の声は徐々にトーンダウンしていく。
 それを聞き終えたファウストは、自分の顎に手を当てて小さく呟いた。

「どうやら、意図が正しく伝わっていないようですね」
「……?」
「確かに第一目標は輪堂天梨への接触でした。彼女の存在は戦力的な意味でも、あなたがアイドルとして輝くためにも大きな意味を持ちますから。
 可能な限り自然な形で、自然体の彼女を引き出せるように状況をセッティングしました。それは事実です」
「だ、だから、それが――」
「ただ、対談の企画が実際に持ち上がっていることも事実です。このひと月で用意したコネを使い、私が仕組みましたから」
「――、えっ」

 悪魔は、その奸計のために多くのものを利用する。
 時に人心さえ弄び、手中で転がす狡猾さを彼らは共通して有している。
 なればこそ、ファウスト……煌星を銀河に押し上げんとする辣腕の彼が、手前の契約者の心をこうも分かりやすく蔑ろにする筈はない。
 それは三流の所業だからだ。満天すら知り得ない"一流"の顔を持つ彼は、悪魔は、当然その愚は犯さなかった。

「記録役は私が務めればいいので、やろうと思えばこの後すぐにでも可能ですよ。無論、しませんが」
「え、じゃあ……」
「あなたはもう少し私を信用するべきですね。我々は悪辣な存在ですが、同時に契約に強く縛られる不自由な生き物でもある。
 功を急ぐ余り、育て上げるべき光を翳らせていては本末転倒でしょう」
「……、……。……ご、ごめんなさい。それなら――私が悪い」

 何しろ一方的にノンデリ扱いして捲し立ててしまったものだから、満天は一転しゅんと小さく縮こまって謝罪する。
 色んなことがありすぎて動揺していたのは否めないが、それにしたって今のは早合点が過ぎた。
 いろいろと言いたいことはあるが、この"プロデューサー"が自分を此処まで――憧れの天使と語らえるところまで育ててくれたことは紛れもない事実なのだ。
 だから満天は、素直に申し訳なくなってしまう。しかし一方、ファウストはまったく不変のまま「ただ」と続けた。

「"一言の相談も受けてない"と怒る権利は、確かにあなたにはあるでしょう。
 何しろこれであなたは逃げられなくなった。もはや、進むしかありません」
「い、いや。最初から逃げるつもりなんてないよ、そこだけは。
 私なんて諦めの悪さだけが取り柄みたいなもんだし、此処まで来て今更尻込みするとかそんなことは」
「輪堂天梨の説明を思い出してください。これはただの"対談"ではありませんよ」

 言われて、満天は記憶をほじくり返す。
 幸いにして天梨の声は、あの混乱の中でもしっかり脳裏に残ってくれていた。
 推しと曲がりなりにも一対一で話せたのだ、個通したのだ。この記憶はきっと一生残り続けるとさえ思う。

 あの時、天使は悪魔にこう言った。

 ――『"最強×最凶! 新旧アイドル対談バトル"……って、なんかこれ言葉に出すとすっごい恥ずかしいね。うへぇ……』

 はっと気付いて、満天はキャスターの顔を見上げる。

「新旧アイドル……対談、"バトル"……!?」
「その通り。単に仲良しこよしで終わるのでは意味がない。
 尤も、実際に形として優劣を決めるわけではありませんから。企画としてはただのキャッチーさ優先のタイトルに過ぎませんがね。
 だが、あなたにとっては違う。"煌星満天(あなた)"にとってこの対談は、紛れもない戦いです」

 どういうこと、と聞く必要はなかった。
 此処まで来たら、満天にだって彼の言わんとすることが分かってしまう。
 何せ、相手は最強のアイドル。アイドルになるべくして生まれてきた、〈天使〉なのだ。
 ……その隣に立ち、言葉を交わし、互いのアイドル性を表現して記録する対談の場。そこではきっと、両者の優劣がはっきりと浮かび上がる。どちらの方が輝いているか、魅力的か、それが残酷なまでに示される。
 であれば確かに、これは戦いだった。
 生半な覚悟と完成度で天使の隣に立てば――その時待っているのは、公開処刑にも等しい完膚なきまでの"敗北"だ。
 煌星満天は輪堂天梨に明確に劣っているという当たり前の話が、されど逃げ隠れも誤魔化しも利かない"事実"として証明されてしまう。

「あなたはその時までに、彼女へ並ぶに足る輝きを得なければなりません」
「……っ!」
「輪堂天梨本人にも伝えたことですがね。彼女があなたと同じ演者であると分かった以上、あなたが越えるべき最大の敵は間違いなく彼女です。
 故に対談の話が纏まった時点で、あなたがそれを受けた時点で、もうあなたは〈天使〉との戦いから逃げられない。
 〈悪魔(あなた)〉は――〈天使(てんり)〉に、勝たなければならない」

 悪魔が、悪魔へ断言する。
 そして。

「それに、これは私の所感ですが」


 ……此処からは、ゲオルク・ファウストによる所感になるが。
 彼の眼から見ても、輪堂天梨という少女は凄まじいと言う他なかった。
 彼の正体はファウストを装った伝承悪魔。愛すべからざる光。
 その悪魔をして、彼女を〈天使〉と呼ぶことは実に適当だと認識した。

 アレは、こと"愛される"ということに関して限りなく頂点に近い。
 魔性の女と呼ばれる人種が人間社会には度々登場するが、天梨はそうですらない。
 そこにあるのは底のない善性。ヒトがヒトのまま体現できる善良さの最上位(ハイエンド)。
 狂気、危うさ、善良である故の残酷。他人を狂気へ誘う、フェロモンめいた魅惑。
 そうしたものが、天梨にはない。言うなれば地上から仰ぎ見る太陽の光、なのだ。

 誰も焼くことなく、ただあたたかく照らすもの。
 まさしく――アイドルになるべくして生まれてきた少女だと、そう思った。
 満天には流石に伝えなかったことだが、正直に言うならば、面食らった。
 よもや煌星満天と輪堂天梨の間に、これほど大きな差が存在するとは思わなかったからだ。
 敵がこれほどまでに異様な、"愛されるべき光"であるとは想定していなかった。

 だが。
 これは、逆に好都合でもある。

 逆に言えば、それほどまでの。
 それほどまでの"トップアイドル"という解りやすいゴールが存在してくれるなら、プロデュースの方向性もより明確になるというものだから。
 輪堂天梨こそが、煌星満天のラスボスなのだ。
 聖杯戦争がどれほど荒れ模様を見せようが、少なくともファウスト/メフィストフェレスと彼の契約者にとってその一点だけは変わらない。

(問題は、アレの傍に居る"まがい物"だな。同族というよりは悪神に近いんだろうが、何にせよ厄介極まりない。
 俺が言えたことじゃないが、ヒトの運命とやらは兎にも角にも悲劇が好きらしい)

 彼は、悪魔である。
 故に同族、それに近いモノの気配はすぐに分かる。
 輪堂天梨との通話中ずっと、メフィストフェレスはそれを感じていた。
 この世のすべてを呪い殺さんとする、剣呑極まりない悪意の兆し。
 他者に害を成さない善性の天使を歪め得る、極めて厄介なアポトーシス。
 そして何より難儀なのが、輪堂天梨の置かれている状況だ。
 何も害さない天使を取り囲む悪意の渦。酒も飲めない歳の少女にけしかけるには明らかに過剰すぎる無数の無貌の"誰か"ども。

 天使の変転は、筋書きを変えてしまう。
 防がなければならない。だが、この分野においては自分では恐らく不適だろうともメフィストフェレスは認識していた。
 人間の悪意に染められ、穢された少女の手を引くのが悪魔(じぶん)であっては前提条件が崩れ去る。
 輪堂天梨は〈天使〉でなければならない。そうであってくれなければ困るのだ。
 悪魔の手を取った時点で、結果がどうなるにしろ天使は変化してしまうのは見えている。

 故に、そう、だからこそ――


「輪堂天梨を救える"人間"が居るとすれば、それはあなたが適任でしょう」


 悪魔であり、そしてソレ以前に人であり、アイドルである。
 そんな演者がこの針音響く仮想都市に存在しているのなら。
 シンデレラストーリーの筋書きは、書き換えることなく維持できるかもしれない。
 メフィストフェレスは考え、ゲオルク・ファウストはそれを伝えた。

 役者は揃い始めている。
 聖杯戦争、人類の未来を憂う陰謀と、蠢く狂気の器たちなどとはまったく無関係のサイドストーリー。
 されど"彼女たち"にとっては、聖杯獲得以上の意味を持つ光と闇の大聖戦。
 ――天の使いを超えて輝け、煌めく地星。
 空の彼方は未だ遠く。光は燦々と、悪魔を照らし続けている。


◇◇


「……止めないの?」
「何をだい?」
「私に仲間ができるのは、あなたにとって嫌なことだと思ったんだけど」
「どうぞご自由に。俺達の契約は単純なものだ。君は余計なことなんて、何ひとつ考えずに手前の悪性と向き合っていればいい」

 通話を終えた天梨の問いに、シャクシャインはそう言って笑った。
 契約内容はまさしく単純明快。
 輪堂天梨がそれを望まぬ限り、シャクシャインは誰も殺さない。
 自衛や已む無き事情があるならば話は別だが、少なくとも彼がその心魂に燃やす無限大の憎悪と衝動を解き放つことはない。
 だからこそシャクシャインにとっては、天梨が何を選ぼうが、誰と組もうがどうでもよかった。
 何がどうなろうと、結局最後に"それ"を決めるのは天梨なのだ。
 高尚な善性を捨て、内に溜め込んだ黒い炎を解き放つ。殺意のままに、怒りのままに、あまねく命を虐殺する。
 その時はいつか必ずやって来ると、シャクシャインはそう信じて疑わない。

「まあ、会談の席で飲み食いするなら注意することだ。何せ身を以て体験済みだからね、アレはなかなか苦しいよ」
「……コメントしづらいなぁ。ところで、なんだけど――ついてくるの?」
「当たり前だろ? 何処の馬の骨とも知らない和人のガキに愉しみを横取りされたんじゃ俺だって困る。裏切りは君らの得意技だからなぁ、警戒するのは許してくれよ」
「わかったよ。……でも、私にやるみたいに喋るのは絶対やめてね。満天ちゃんにも、キャスターさんにも」
「保証はできかねるね」

 はあ、とため息をつく天梨。
 その姿を見つめるのは―彼女と契約を結んだ悪魔、悪神、英雄。
 そのどれでもあって、どれでもない男。シャクシャインは、輪堂天梨という少女に関して実のところ高い評価を下している。
 和人には見合わない善性と精神性。誘惑への耐久力、まさに天の使いの如し。
 それに驚けばこそ尚更、そんな彼女を穢し続ける和人どもの醜悪さが際立って見えた。
 とはいえシャクシャインに言わせれば、和人が糞袋なのは今に始まったことではない。
 殺すべきなのだ、この民族は。滅ぼすべきなのだ、この糞共は。
 そして。その落日の引き金を引く権利が、この美しい和人にはある。
 彼女だからこそ、日ノ本を落とす審判を下す資格があるのだ。

 どうせ恨みを晴らすなら、それは劇的であるほどいい。
 堕ちよ、天使。共に行こう、天梨。
 同じ地獄で踊る舞踊はさぞかし甘美だ。
 心躍る解放の時に、おまえは心根ひとつですぐにだってありつける。

 そう、改めて。
 祈るように、願うように、考えて――
 は。と、シャクシャインは笑った。
 彼らしくもない、自嘲するような笑みだった。

「……俺はやっぱり、あんたみたいにはなれないや。なあ、異国の老いぼれ(エカシ)よ」

 己にできるのは、ただこうして燃え上がり続けることだけ。
 何故ならそれしか知らないから。
 "裏切られ"、"奪われる"ことは、己から他のすべてを失くしてしまったから。
 だから今さら、憎むべき奴原の中に"例外"を見つけたとしても――在り方/生き方は、変えられない。
 穢れた炎の燃える手で、その手を引いて地獄に誘うのがせいぜいだ。
 だが、それでいい。それだけでいい。
 己はもう、そういうモノなのだ。

 〈天使〉は奪われ続けている。
 今も、その輝きは汚泥の中を翔び続けている。
 どこかの〈悪魔〉が乗り越えるべき、汚泥の空を翔ぶ光の天使。
 十二時では解けない魔法を背負い、アイドル達は交わった。


【渋谷区(中心地よりも外れ)/一日目・午後】

【輪堂天梨】
[状態]:精神疲労(小)、ちょっとだけ高揚してる(無自覚)
[令呪]:残り三画
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:たくさん(体質の恩恵でお仕事が順調)
[思考・状況]
基本方針:〈天使〉のままでいたい。
1:連絡を待つ。
2:アヴェンジャーは恐ろしい。けど、哀しい。
3:……満天ちゃん。いい子だなあ。
[備考]
※午後以降に仕事が入っているかどうかは後のリレーにお任せします。

【アヴェンジャー(シャクシャイン)】
[状態]:疲労(小)、全身に被弾(行動に支障なし)
[装備]:「血啜喰牙」
[道具]:弓矢などの武装
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:死に絶えろ、“和人”ども。
0:俺はやっぱりこういう風にしか生きらんねえなあ。
1:憐れみは要らない。厄災として、全てを喰らい尽くす。
2:愉しもうぜ、輪堂天梨。堕ちていく時まで。
3:青き騎兵(カスター)もいずれ殺す。
[備考]
※マスターである天梨から殺人を禁じられています。
 最後の“楽しみ”のために敢えて受け入れています。


【台東区・芸能事務所/一日目・午後】

【煌星満天】
[状態]:健康、色々ありすぎて動揺したりふわふわしたりで心がとても忙しい
[令呪]:残り三画
[装備]:『微笑む爆弾』
[道具]:なし
[所持金]:数千円(貯金もカツカツ)
[思考・状況]
基本方針:トップアイドルになる
1:……超える、のか。あの子を。
2:魅了するしかない。ファウストも、ロミオも、この世界の全員も。
3:この街の人たちのため、かぁ……
[備考]

【プリテンダー(ゲオルク・ファウスト/メフィストフェレス)】
[状態]:健康
[装備]:名刺
[道具]:眼鏡
[所持金]:莫大。運営資金は潤沢
[思考・状況]
基本方針:煌星満天をトップアイドルにする
0:輪堂天梨と同盟を結びつつ、満天の"ラスボス"のままで居させたい。
1:ロミオとの契約を足掛かりに、そのマスターも従属させたい。
2:時間が無い。満天のプロデュース計画を早めなければならない。
3:天梨に纏わり付いている"まがい物"の気配は……面倒だな。
[備考]
  • ロミオと契約を結びました。
 内容としてはおよそ『煌星満天を陰から護衛する』『彼女が夢を叶えるまで手を出さない』といったもののようです。
  • ロミオの宝具には気付いていません。
  • 対外的には『ヨハン』と名乗っているようです。



[全体備考]
※この話の直後、輪堂天梨のスマートフォンにファウストから会談場所を指定する連絡が入ります。
 具体的な場所やその他内容に関してはおまかせします。


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最終更新:2024年09月17日 23:55