師は私に
花の植え方を教えた。
貴女は私に
その花が好きだと教えてくれた。
世間を騒がせたサイキョームテキ痴女アイドルの、視線誘導標 愛子。
そして、非合法異種格闘技戦、アンダーグラウンドの花形ファイター『鴉天狗』。
表社会としても、裏社会としても大いに注目を集めるこの試合は、過去最高の観戦者を記録するに至る超話題マッチであった。
「あの元『サンアイズスタジオ』のアイドル、マナマナこと愛子が格闘家デビューだってよ」
「よく参加を許したな……闘技会にとってもリスクだろ、あんなん」
「なんでも老拳狐がファンらしいぞ」
「『鴉天狗』がとうとう魔人闘技会に……!」
「魔人異能格闘技なんて目じゃねえくらい、何でもアリなんだぞ? そんなお行儀のいい闘士が、勝負になるのかぁ?」
「バッカ知らないのかお前! MMAの最連勝記録保持者だぞ!? 対応力がバケモンなんだよ!」
「マナマナは強いぞ! あの魔境、アイドル甲子園を出禁になってんだからな!」
「はん! アイドルがなんだ! 所詮、表の人間だろ!!」
「愛子が勝つよ!」
「鴉天狗が勝つね!」
「さぁ、」
「いったい、」
「「「どっちが勝つんだ?」」」
戦闘開始から2秒後。
「ふんぁぁああああああああッ!!♡♡♡」
大量の視線を集めた愛子は、即座に絶頂した。
「ああーッ久しぶり! こんなねっとりした、芳醇な視線は久しぶりーーっ!!!」
住宅街のど真ん中。
アスファルトの上で、愛子は体をくねらせ、局部を地面に擦り付ける。不審者である。
「ああーッ、視てる! みんなが私を視てるゥ〜ッ! アイドル時代には感じなかった、品定めと期待がごっちゃに入り混じった滋味深き視・線〜ッ!?」
愛子はビクンビクンと痙攣し、地面をのたうち回る。犯罪者である。
愛子はくねくねとかたつむりのように蠕動しながら、自身に向けられた視線の内容を分析する。
(興奮3分の1、興味3分の1に、ドン引き3分の1ってトコ? 近くからの視線はないから、相手はまだアタシを見つけてないっポイ。探しに行かないとだなー?)
愛子は弾かれたように突然立ち上がると、天に向けて手を差し出し、叫んだ。
「よッし……見ててね見ててね!? イっくよ〜!!」
不可視の視線が愛子の周りを嵐のように旋回する。髪が風を浴びるようにはためく。
『眼ルズ&パンツァー』!!」
愛子を包むように、不可視の戦車が組み上がった。
鴉天狗は周囲を警戒しながら、ひとまず二階建ての一軒家に侵入する。
MMAと違い、必ずしも相手が目の前にいるわけではない──多くの場合は、索敵から開始する。
魔人闘技会は初参加だが、セオリーは心得ている。相手に見つかる前に相手を見つけて奇襲。これが初手の黄金パターンで、決まれば半分以上は勝つ。……魔人相手だと、それでやっと半分、というのが恐ろしいところだが。
「とにかく全体を見渡せる高さに……」
屋内に人の気配はないが、注意は怠らない。念のためにSLOTに緊急回避用のコンボを設定してから建物の構造を把握し、ゆっくりとベランダに出て……。
周囲に、地面を揺らす破壊音が響き渡った。
「ッ!?」
視線、視線、視線。
視線が集まってくる!
見ている会員は何人?
1000人、2000人、いや5000人?
みんなの視線が、私の力になる!
視線を手繰り、繕い、織り上げて、視線の砲台から視線の弾丸を放つ。
型式? 知らんよ。
MA-NA-KO0721型でどうよ。
空も飛べんぜ。
音に驚く暇もなく、反射的にベランダの陰に身を屈める。
数百メートルは距離がありそうな音だ。今もまだ続いている──近付いてきているとも思えない。こちらを見つけたわけではない。
能力の準備動作か?
鴉天狗は、己の顔を隠すマスクを呪った。視界が狭い!
MMAでは自分の視線を隠したり、相手の意識を逸らすために役立っていたが、ゲリラ戦では普通に不利である。だからといって“表の顔”と“裏の顔”を分ける都合上、外すわけにもいかない。
「クソッ」
鴉天狗は口の中で音もなく吐き捨てながら、音の方を見る。土煙が舞っているのは見えるが、人影などは──。
いや、いる。
3、400メートル先。宙に浮く奇妙な女が、家屋を破壊して回っている。まるで踊るように体をくねらせると、重機でも操っているかのように周囲が抉られる。
幸い後ろを向いていて、こちらに気付く心配はない。
チャンスだ。奇襲を行う。まずは接近して──。
その瞬間。
女が宙返りをするように、異形のように体ごと首を回して、こちらを見た。
「視 い つ け た ッ ♡」
ザッ
【SLOT1: 着地→ダッシュ】
鴉天狗は迷わずベランダから身を投げ出した。着地の衝撃を空の繋ぎ手で潰し、0.1秒ののちに全力疾走の姿勢をとる。そのまま、脇目も振らずに走る、走る。
「なんだッ、アレ……!」
蛇のような得体の知れない不安が、鴉天狗の喉に絡みつくのを感じた。理屈ではない。勝つ、負けるという話ではなく、本能に訴えかけるような寒気を感じる。
鴉天狗の能力は、近接戦闘に向いている。中〜遠距離においては、“いかに敵との距離を詰めるか”が戦術のコアとなる。
本来、彼から距離を取ることなど滅多にない。
だが、彼は敵の姿を見た瞬間には遁走を決めた。空の繋ぎ手まで使って、最高速度で逃げる。
言葉では言い表せない異常性。アレは、能力もわからぬうちに戦っていい相手ではない。
強敵との打ち合いで磨かれた第六感が、鴉天狗の脳を大音量で揺らしていた。
師の言葉が頭をよぎる。
「立ち向かうだけが、勇気ではありませんよ」
小谷道場。
隙間風の吹き抜ける寂れた道場で、師は言った。
「なぜ逃げなかったのです。……貴方は、もっと自分を大事にするべきです」
「……納得できません。誰かを助けたいと思うのが、そんなに悪いことですか」
私は、思わず言い返していた。
だいたい、自分を大事にしないのは師の方ではないか。
誰彼かまわず助けて回って、怪我を負っても「誰も傷付かずに済んだ」と宣う。それが、私の師であった。
「……貴方はまだ未熟です。“助けたい”と“助けられる”は違う」
昔から、「才能がない」とよく言われた。
師もやはり、そう思っているのだろうか。
私に背中を任せて欲しい。……その一心で努力しても、いつまで経っても彼女の中の私は“未熟”なままだ。
私が黙り込んだのをどう捉えたか。彼女は、ふっ、と空気を緩めて、優しく微笑んだ。
「花を、植えましょうか」
「……花?」
私が怪訝そうに聞き返すと、彼女は答える。
「ええ。花に毎日、水をやるのです。嬉しい日も、悲しい日も、なんでもない日も。
花が咲いたら、また次の種を植えるのです」
「──なんのために?」
「明日に残すためです。
いざという時、“明日も水をやらなければ”と、そう思う。──そのために、花を植えるのです」
化け物だ。
ただそこにいるだけで、周囲を圧倒する異物。狂気を孕んだ純粋。彼女はこちらに気付いた時、笑っていた。壮絶に。
鴉天狗は曲がり角を右へ、左へ、とにかく捕捉されないようにランダムな方向へ曲がる。
ギュルギュル、というような音が、背中越しに伝わってくる。
……そして一歩ごとに、遠のいていく。撒けたらしい。
「クソッ……」
鴉天狗は警戒しながらも、歩を緩める。
遠くの轟音は止まないが、離れたことで逆に、今はある程度の安全が確保されているとも言える。それでも、蜘蛛の糸のように絡みつく不安と不快感は消えそうにないが。
鴉天狗は考える。敵の能力の把握は、魔人戦において最重要だ。
敵の女は自分が見つけるまで、確かにあさっての方向を見ていた。なぜ捕捉された?
そして、なぜ撒けた?
気配を殺して潜む人間と、全速力で逃げていく人間、どちらが捕捉しやすい?
気配、と呼ばれるものは、基本的には音だ。
隠れていても、微細な息遣いや衣擦れの音が漏れるものである。達人は、その“音”を気配と呼んでいるに過ぎない。
音を辿るには、距離が離れ過ぎていた。女は家を破壊していたのだ。その爆音の中で、どうしてこちらの音が聞こえよう?
第一、音を聞いているのであれば、気付かれるタイミングがおかしい。ベランダに入った時ではなく、相手を見た瞬間。
まるでこちらの視線に反応したかのような──。
──視線。
「試す価値は、あるか……」
1時間後。
「MOOOOO〜! どこ行っちゃったのサー!!!」
一閃。
視線の刃は柱を穿ち、壁を抉る。
愛子は腹いせに周辺の家屋を破壊し、その瓦礫の上で横たわった。
視線を感じて、そちらに向かう。向かっていっても、誰もいない。愛子はその繰り返しに、うんざりしていた。
視線を感じたと思ったら、すぐに消える。かなり急いで来ているのに、どこにもいねーし!
「チラ見してから即逃げてるってわけぇ? 意味不明!」
そんなこんなで3軒目。家をぺしゃんこにしても、人が這い出てくる様子はなかった。隣接する家をぶっこわしてみてもダメだった。
「あー! つまんない!」
こんなことでは会員に飽きられてしまう。実際、愛子を取り巻く視線は半分程度に減少していた。おそらく、対戦相手の方に集中しているのだ。何か、面白いことでもしているのか。
「ほいだら、っと」
まあ、家を全部潰せば死ぬでしょ。
かたつむりのような少女は、舌なめずりをした。
師の下で学んだ期間は、それほど長くはなかった。だが、私は師のことを心から敬愛していた。
師は事あるごとに「命あっての物種」と口を酸っぱくして繰り返したが、自分は、師のためなら命すら惜しくはなかった。
「道場を、畳むことになりました」
彼女の目には、隈があった。資金集めに奔走して、眠る暇もないのだろう。
「お金なら、私も手伝います」
何度も提案して、何度も却下されてきた言葉。
師の返事も、判を押したように同じだ。
「蒼海くんはまだ子供なんですから、気にしないことです」
知っている。彼女の夫が、莫大な借金をしていること。
一人娘のために、自身がアンダーグラウンドへ堕ち、見せ物として戦おうとしていること。
才能のない自分が憎い。
何もできない自分が憎い。
「……いいですか、蒼海くん。
自分を守るために行動なさい。
傷ついていい人など、誰もいないのです」
それならば、貴方は──?
「あぁ──そうだ、明日から、蒼海くんが、道場の花に水をやってください」
強くなった。
鴉天狗──蒼海は、自分に言い聞かせるように考える。
(私は強くなった。恐ろしいものから、大切なものを守るために)
化け物の通る道には土煙が上がり、見失う心配はなかった。蒼海はじっと動かずに、ひたすらその方向を見続ける。視界に入るのは土煙だけで、敵の姿はまだ見えない。
先ほどから少し離れた建物の二階。
クローゼットに身を潜めて、瞬きもせずに、敵がいる方向を見続ける。
敵は、視線に反応している……と思う。何度か試して確信を得た。だが、確証はない。
空を飛んでいるのは何故だ? どうやって建物を破壊している? 問うても答えは出ない。だが、いい。魔人能力なんてものはデタラメなものだ。どう足掻いても、推測の域を出ることはできない。
ダメだったらまた、逃げればいい。卑怯な手でも、とにかく勝つ。手段を選ばない。才能がないなりに出した、勝つための答えである。
風が、ひときわ強く吹く。土煙が消え去り、可憐な悪魔のヴェールが払われる。
見えた。
かたつむりのような突起がついた麦わら帽子は、視線誘導標のように彼女を目立たせる。
彼女は当たり前のように、けたたましい笑いを湛えて、蒼海を見た。
「視 い つ け た ッ ♡ ごかいめっ♡」
轟音が迫る。空気を切り裂きながら、迷いなく蒼海に向かってくる。
蒼海はまだ目を離さない。
女は見えない何かに跨っているかのように、はしたなく足を開いて、300メートルほどの距離を一呼吸のうちに詰める。
蒼海はまだ目を離さない。
「今回は逃げないんだ! MOU! 会いたかったヨー! 私だって、会、即、殺害! ってわけじゃないんだからネ!!
──二つの愛ざしの純情な感情、鬼愛ツの刃!」
蒼海は、目を閉じた。
化け物は迷いなく、クローゼットを扉ごと破壊する。
鋭い斬撃は、黒ひげ危機一発のようなコミカルさを持って、クローゼットを穴だらけにしていく。
「あハハー気が変わった! やっぱすぐ殺しちゃ……アレ?」
視線に敏感な彼女だからこそ、それ以外の痕跡に鈍感になる。
クローゼットの扉が、少し開いていたのはどうしてか?
蒼海がギリギリまで、ただ彼女を見ていたのはどうしてか?
クローゼットの中から、うめき声一つ漏れないのはどうしてか?
視線誘導標 愛子が攻撃したのは、クローゼットの中の鏡だ。
大きな姿見がけたたましく砕けて、破片が散らばる。そのうちの一枚を、愛子が拾い上げ、首を傾げる。
「アレー? これって──」
愛子の背後のクローゼットから、男が飛び出す。目を閉じたまま。
気配、と呼ばれるものは、基本的には音だ。
達人は、“音”を気配と呼んでいるに過ぎない。
蒼海には、視覚など必要ない。
蒼海は、正確に愛子の位置へ飛び出す。飛び出した勢いをも乗せた、磨き上げた渾身の左ストレート。
愛子は咄嗟に振り向き、驚愕のあまり固まる。回避は、間に合わない。左ストレートが正確無比に、愛子の脳を揺らす!
「痛って……」
しかし、愛子は、腐っても強靭である。不意打ちで刺さった左ストレートに対して目を回しつつも、意識はしっかりと──
ザッ
【SLOT2: 左ストレート→左ストレート】
確実に愛子の意識を刈り取る、左ストレートの二連撃。
「ぎぢぃっ」
骨が砕ける感覚。まず、蒼海の拳。
関節がメリメリと割れて潰れる。
それでも、蒼海は拳を押し込む。そして、愛子の頭蓋骨。ボキン、と、沈む感覚。
愛子は蒼海を睨みつけ、その瞳が、音を立てそうな勢いで白目に変わる。
「……っ、ぇあー」
化け物は、前のめりに倒れた。
「美しいですね」
教会の庭で、彼女は目を輝かせた。
「亡くなった母は、花が好きでした。道場にも、母が植えた花がまだあるんですよ」
師の娘──伊吹。教会に何度か来ていたが、庭に招き入れるのは初めてである。
蒼海は正直、花について話したくはなかった。
どうしても、師が頭にちらついてしまう。
「そうでしたか──さあ、まだ外は冷えます。中に戻りましょう」
「──あ、チューリップ。私、黄色いチューリップが好きなんです。──母も──」
「ぜぇッ、ぜぇッ」
蒼海は、乱れた息を整える。
これは、20年前のリベンジマッチだ。
まだ幼かった頃、師のために身を投じたアンダーグラウンド。
推薦人は、師の夫だった。
「小谷道場と、まだ幼い伊吹……それに霊仙を救えるのは、君だけなんだ!」
霊仙さんを……師を救うために、自分は裏に堕ちた。
師が望んでいないことは知っていた。
師の夫が、自分を騙そうとしていることも、知っていた。
それでも、自分が勝てば全て丸く収まると──勝つことで、全てを守れると思った。
たかだか十数歳の子供には、過ぎた願いだったようだが。
『表は表に。裏は裏に』。
アンダーグラウンドで力をつけ、登り詰めても、もう表に戻るつもりはなかった。戻るには、手が汚れ過ぎていた。
ただ、それでも──師が残した花に、水をやらずにはいられなかった。
肩で息をしながら、目を開く。頭から血を流している女と、血で染まった己の拳が見えた。
リベンジマッチだ。
「勝って、やったぞ、畜生」
蒼海は20年前、あっけなく負けた。
そのせいでアンダーグラウンドに囚われ、霊仙さんもまた、命を落とした。
優しさだけでは何も為せない。力が無ければ、何も守れない。
蒼海は得たのだ。全てを守るための力を──。
ビグン、と。
明らかに異様な様子で、女が跳ねる。
いや。頭を強く打つと、こういうことがある。普通の現象だ。
ビグン、ビグン。
……蒼海は、身構える。
そして、注意深く女を視る。
ビグンッ、ビグッ
「ぉあー、ぇ? あてぁー」
不可視の何かが、操り人形を持ち上げるように愛子の体を持ち上げる。
手を、足を、そして頭を、グネグネといじくり回す。
愛子はかくん、かくん、と頭を揺らしたのち、「ぎっ」と口から声を漏らす。凹んでいた頭蓋骨が、ばこん、と軽い音を立て、球の形を取り戻す。
荒療治によって血が、脳髄が、周囲に散らばる。眼球に、光が戻る。
「痛てーんですけど」
「化け物め」
え?
私がなんでこんなに、こーんなに視線を欲するのかって?
私がなんで、こーんな化け物になっちゃったかって?
ヨヨヨ……これには、キクも涙、カタルも涙の壮大な物語が……。
ないよ。
別にない。
愛に飢えてたとか、悲しい過去とか、別にないです。
親には愛されて育ったし、友達もたくさんいたよ。
ざんねん。
私は生まれつきの、ただの視線ジャンキーだよーん。
だから何?
勝つのは、過去が暗くて重いやつじゃないよ。
強いやつが勝つんだよ。
てか、弱いから過去が暗いんじゃん(笑)
視線と拳が、交差する。ぶつかり合う速度は、認識の速さを超える。それでも、会員たちは目を離すことができない。
見たかったものがここにある。
ただただ勝利を求める、魂のぶつかり合いが。
「逃げ回ってた割には、動けんじゃーん」
二つの愛ざしの純情な感情は、まなこ粒子という特殊フェロモンによって、視線が物理的強度を持つ能力である。
汗、涙に混じるまなこ粒子は無色透明だが、血に混じったそれは、視線を赤く発現させる。
半透明ながら、今や視線の流れは蒼海にも見えていた。
(これか……っ! 俺の目からも出ている、この視線が、敵の能力……!)
視線が、蒼海の頬を掠める。血がだらりと、顎に向かって流れ落ちる。まともに受ければ、ひとたまりもないだろう。
ザッ
【SLOT1: 着地→ダッシュ】
基本的には反射神経で避け、どうしても避けられないものは空の繋ぎ手で避ける。ステップを踏んで着地することで、緊急回避用のスロットに繋げる。
「! なに今の! すごーい!」
愛子の動きは、素人そのものだ。
だが、体の強靭さと、能力の強力さ、そして頭のネジのぶっ壊れ具合が飛び抜けている。
戦い慣れていないのに、殺し慣れている。
(これが、才能って奴なのか)
蒼海の傷が増えていく。空の繋ぎ手の負担で、脳と体が軋む。勝ちが遠のく。
愛子は今、視線を繭のように編み上げ、視線のボール、あるいはゆりかごの中で守られている。
視線の硬度は高く、蒼海の拳では貫くことができない──!
絶望的な状況で、しかし蒼海は諦めない。
(なんとか、SLOT3を使えたら……!)
現在、SLOT3には何もセットされていない。相手の動きを読み、意表を突くことができれば逆転のチャンスは十分にある。
ザッ
【SLOT1: 着地→ダッシュ】
蒼海の姿がブレる。しかし、鋭敏に反応した視線が、左肩を穿つ。愛子は蒼海の動きに、対応しつつある。
(なんとか……なんとか、SLOT3を……!)
「その“視線”、なーんか企んでんねぇ? ……うーん、楽しかったけど、もう殺すかー」
愛子は飽きたような表情でため息をつくと、唐突に己の繭を解き、地面に降り立つ。蒼海が反応する前に、その繭でそのまま、
蒼海を包んだ。
「じゃ、潰すね──」
視線。最期に愛子は、蒼海の視線を感じた。
愛子は、視線から感情を読み取ることができる。
感情は喜び。──蒼海は、笑っていた。
「ッ……!?」
愛子は咄嗟に身を翻し、バックステップで蒼海から距離を取る。なんだ?何か見落としが
ザッ
【SLOT1: 着地→ダッシュ】
次の瞬間。愛子は蒼海とは反対方向に、走る姿勢を取っていた。蒼海が視界から外れる。
蒼海は、これを予期して笑ったのだ。愛子は、視界外の視線を操れない──!
誰かを守るためには、強く在らねばならない。弱くては、誰も守れない。
蒼海が繭から解放され、着地する。愛子は、予想外の自分の動きに対応できず、姿勢を崩す。蒼海は足を踏み出し、自分の足で、不条理を斃すべく地面を蹴る。腕を伸ばす。大事なものに、届く──届く!
霊仙さんの、厳格な笑顔が浮かぶ。
伊吹の、照れ笑いが浮かぶ。
全ては──この日のために──!
「戦闘中に、ヨソミすんな、ボケ」
……蒼海の両腕から力が抜け、ぶら下がる。両足も、地面から離れて静止する。
少し遅れて、蒼海の脳漿と血液が、ビチャビチャと音を立てて地面に落ちる。
愛子はゆっくりと姿勢を戻すと、手の内にあった鏡の破片を放り捨てた。
蒼海が、囮に使った鏡。その破片だ。
「乙女の必需品だね──アイデア、パクらせてもらったよん」
蒼海の顔面には、大質量の視線が突き刺さっていた。
顔を隠して、身分を隠して、本心を隠していた鴉のマスクを暴き、その素顔へ。
無遠慮な視線に、彼は殺された。20年前のように。
「あーやッばマジ化け物じゃん! 死ぬかと思ったー!」
愛子は、鴉天狗の顔を勢いよく踏みつけにする。花を踏み躙る子供のように、強く、強く。
そして、血に塗れた愛子が、軽やかに笑う。
その姿はまさに、視線を独り占めするアイドルそのものであった。
視線誘導標 愛子、勝利。
最終更新:2026年05月25日 00:55