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自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな恵みがあろうか。
罪人でも、自分を愛してくれる人を愛している。

また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。
罪人でも同じことをしている。

返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。
罪人でさえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に課すのである。


────しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。
人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。


【ルカによる福音書 六章 二七~三六】



「本当に酔狂だよな、あんた」

地下MMA(魔人異能格闘技)アンダーグラウンドの常連ファイター、『鴉天狗』こと美濃蒼海(みの おうみ)は不躾に投げつけられる声に顔を向けた。

声の主は“会員”であるアンダーグラウンドのスタッフ。
場所は試合開始までの待機部屋。

魔人闘技会は選手を戦場に強制転移する形で開始されるが、各種トラブルを防ぐために闘士たちには転送前の待機部屋が与えられる。
その待機部屋に監視のためにスタッフは来ていた。

眉をひそめる美濃蒼海にスタッフは続けた。

「だってそうだろ?あんた小谷伊吹(こむすめ)の潰れかけの道場の負債を引き受けたんだろ?しかもこの試合に負けたらアンダーグラウンド(うち)と奴隷契約結ぶことになるんだろ?」

黙る美濃蒼海を無視してスタッフはべらべらと喋り続けた。
どうやら相当におしゃべりな男のようだ。


「結局、あんたは何故戦うんだい?やっぱりあれかい?愛ってやつかい?あそこの道場主の小娘、仕込めば(・ ・ ・)光りそうだしな?そのときはご相伴に預かりたいねぇ~イヒヒ!ああいう娘の方が、ハマったら艶のある声で鳴くもんだぜ」

あからさまな挑発。
アンダーグラウンドからすれば美濃蒼海には負けてもらった方が都合がいい。
見え透いた精神攻撃には乗らず、美濃蒼海は返した。

「…愛とか、そんな大仰なもんじゃあねえよ」

そのぶっきらぼうな物言いに、挑発は無意味とスタッフは悟った。

「…ふうん。じゃあさ、マジでなんで戦うんだ?これは挑発とかじゃなくて。純粋に興味本位。あんたにメリットねぇじゃん。何?哀れみとか?健気に父の借金を背負いながら毎日頑張るウサギちゃんが可哀そうになった?」

本当におしゃべりな男だと思いながら美濃蒼海は答えた。

「別に…哀れみとかそんな高尚なもんじゃねぇよ。俺が哀れもうが哀れむまいが、あいつらの頑張りに関係はねぇ」

ふむ、と受け止めてスタッフは重ねた。

「じゃあ、責任感ってやつだ。あんたが小娘の父親を試合で再起不能にしたんだろ?その業?カルマ?ってやつを牧師様は背負おうって話だ。どう?合ってる?」

あまりにも的外れな指摘に、美濃蒼海はハッ!と笑った。

「責任感だぁ?そんな俺に似合わないもんを引っ張り出すかよ」


ジリリリリリ


けたたましいアラーム音が待機部屋に響いた。
まもなく美濃蒼海は戦場に転送される。

「…おっと時間かい…へへへ、せいぜい頑張んなよ?負けたらどうなるかは分かっているよな?」

美濃蒼海の脳裏に契約がよぎる。

~~
乙(美濃蒼海)が本試合において勝利した場合、甲(アンダーグラウンド)は長浜伊吹(旧姓小谷。以下「長浜伊吹」という)に対して過去に締結された一切の専属契約、債務担保契約その他これに準ずる契約を解除し、これらに基づく支配権、身柄拘束権その他一切の請求権を放棄する。甲は、今後長浜伊吹に対し、当該契約に関して何らの請求も行わない。また、当該契約に関する記録・証憑は全て消去されるものとする。乙は、これをもって、本試合への出場および勝利に対する一切の対価が充足されたことを確認する。

出場者が本試合に敗北した場合、甲が長浜伊吹に対して有する専属契約は解除しない。また、乙は甲に対する専属契約を締結し、今後甲の指定するいかなる試合出場要請・処分・命令に対しても応じる義務を負う。これを拒否した場合は死を以て償う。
~~

勝てば伊吹の債務完済。
負ければ債務据え置きで自分もアンダーグラウンドの犬に成り下がる。

「分かっているともさ」

転送を間近にしながら美濃蒼海はニッと笑った。

「俺が戦うのは愛だの哀れみだの責任感だののためじゃねえが…」

豪!と猛烈な風切り音とともに、強烈な左ストレートがおしゃべりなスタッフの顔面に叩きつけられた。ガツンという金属を思わせる衝突音が響き、スタッフは壁に叩きつけられた。

「テメェを殴るのはムカついたからだ。俺を挑発するには格が足りねぇぞ小僧」

美濃蒼海の身体を光の粒子が包み、徐々に消えていく。

「じゃあな。俺は絶対勝つ。アンダーグラウンドの上役には債務書を破る準備をするよう伝えておけ」

スタッフの男は完全に意識を失っていたため、美濃蒼海の依頼は虚空へと消えた。



■■■

神の存在証明

■■■



戦場:住宅街


何の変哲もない住宅街に転送された美濃蒼海は周囲を油断なく見まわし、警戒レベルを一つ下げた。
魔人闘技会は“会員”たちにたいしての興行の側面もある故に、ステージギミックがある場合は分かりやすく配置されている。ほとんどの会員が会敵前のステージギミックによる敗退なんてつまらないものは見たくないからだ。

となると、あからさまなほどに平凡な住宅街に即死級のギミックはないと判断できた。

(即死級のギミックがある場合は火山とか研究所だからな…少なくともステージによるダメージを警戒する必要はねぇな)

同じく興行的な面から、いわゆる【初見殺し】は起きにくいように配慮したマッチングが組まれることが多い。不可視の即死ビームだとか、光速移動者だとか、美濃蒼海ですら一方的に蹂躙されてしまうような凶悪極まる能力者が相手ではないと読めた。

(…とは言ってもな…興行的に組まれてるってことは、“噛み合う”相手が用意されてるってことだ…俺が一方的に勝てる相手を期待するわけにはいかねぇ)

なんにせよ初手が肝心。
周囲の気配を探りながら進む美濃蒼海の耳に、サイケで電子的な音楽が飛び込んできた。

罠を疑いつつも、美濃蒼海はその音のする方に進んでいった。
住宅街のど真ん中。
普段であれば小規模なお祭りや町内会で使われるであろう神社のスペース。
小さな神輿などを収める納屋などのあるこじんまりとしたスペース。
その神社の一角に、そのアイドルは…視線誘導標 愛子(でりねーたー あいこ)はいた。
いや、いたなんて控えめな表現では収まらない。


全力で存在を主張し…ライブを行っていた。




『√平方根系◎ルート化計画 :-) 』視線誘導標 愛子(でりねーたー あいこ)



☆☆☆☆

計算計算もっとしたい、もっとしたい!
ひらめいた!真理を見つけたら真理に見つめられちゃうんだよねΩ

R・O・O・T!一夜一夜に人見頃!
R・O・O・T!富士山麓オウム鳴く!
R・O・O・T!トリコロールは三色(みいろ)に並ぶ!

そうと決まれば、計算開始!

eはネイピア数
iは虚数単位
cosは余弦関数
sinは正弦関数

ℇ 全部まとめてオイラーだけどマイナスなのね ℇ

☆☆☆☆



静かな住宅街には不似合いな、いわゆる電波ソングがギュインギュインと響き渡る。
即席ステージの中央に立つ愛子は、かたつむりのようなスクール水着を着込んだままで歌い、踊り、ファンサをしていた。

素人であれば愛子の奇行に気勢を挫かれたであろう。
なんだこいつは、と舐めた態度の一つも取ったであろう。

だが、相対するは『鴉天狗』美濃蒼海。
いささかの油断もせずに構えをとる。

足幅は広くどっしりと重心が低く。
それでいてゆさゆさと細かなステップ。

打撃だけでなくタックルなどのテイクダウンにも対応する必要のある、MMA特有の構え。
レスリングとボクシングをミックスしたような、合理を突き詰めた構え。

格闘者であればその構え一つで美濃蒼海のMMA経験を看破しただろう。
だが美濃蒼海は看破されても構わないと開き直っていた。
何を習得したか看破されても問題ないからこその総合格闘技(MMA)だ。

そして、油断せず構えをとった美濃蒼海の判断はこの上もなく正しかった。
愛子の魔人能力『二つの愛ざしの純情な感情(ヒトヨヒトミデヒトメボレ)』は視たい、視られたいという精神から発生した魔人能力で汗や涙などと一緒にまなこ粒子という特殊フェロモンを分泌する。そのフェロモンが視線を物理化する。

要するに全身全霊で歌い、踊り、ファンサをした愛子はフェロモン全開。
スクール水着は汗でしっとりと滑らかな光沢を帯び、吐息は熱く、頬に張り付く濡れ髪は淫靡であった。
既に戦闘の準備万端、テンションもフェロモンも共に最高潮に仕上がった状態。

勿論、ただただ視られたいという承認欲求、露出狂気質もライブの要因であったけどね!!

「ああぁぁ~~!視られてる!!!熱い愛ざしが、視線が貫いてりゅう!」

軽く痙攣。
視線誘導標 愛子、本日三度目の性的絶頂である。

ビクンビクンと打ち震える狂人に一瞬気おされながらも、美濃蒼海は踏み込んだ。


【SLOT1: 左ストレート→タックル】


お遊び無し。
美濃蒼海は『空の繋ぎ手(ザッピング・アーツ)』の必勝パターンを叩き込む。

空の繋ぎ手(ザッピング・アーツ)』は一つの身体動作から別の動作へと瞬時に切り替える能力。早い話が、一つの技からどんな技にでもコンボを発生させることが出来る能力である。

磨き上げた渾身の左ストレートを撒き餌に理屈を凌駕するタックルへの繋ぎ。
何か強烈な身体強化能力や防御能力でもなければ防ぎようのない一手であった。

美濃蒼海は慢心せず。
然して自信をもって放った『空の繋ぎ手(ザッピング・アーツ)』の黄金パターン。


その黄金パターンを、愛子はあっさりと防いだ。


何も特別なことはしていない。
左ストレートをバックステップで躱した後、即座にステップを重ねてタックルも躱しただけである。通常であれば左ストレートを躱した時点で攻勢に転じようとする。しかし愛子は異次元の繋ぎが行われたタックルに完璧に対処して見せた。

「!!???」

なんでもないことのように黄金パターンを躱してみせた愛子の絶技に内心驚愕をするが、顔には出さぬよう努める美濃蒼海。汗がマスクの中で一筋垂れた。


(こいつは油断できねぇ相手だ…!)



■■■



何故、視線誘導標 愛子は美濃蒼海の黄金パターンに対処ができたか。
それは当然『二つの愛ざしの純情な感情(ヒトヨヒトミデヒトメボレ)』によるものだ。愛子のフェロモンの範疇では、視線は物理化される。

美濃蒼海が愛子のどこに視線を向けているかは丸分かりであった。
視線が痛いほどに…と言うか本当に少し刺さって痛かったくらいに美濃蒼海は足に視線を集中させていた。
レスリング上級者はタックルを決める際、相手の重心の位置を把握するために足をよく見るという。美濃蒼海も同様の理由で足に視線を集中させていた。
故に彼の本命が下半身を攻めることにあるのは明白であったため愛子は対処ができたのだ。

美濃蒼海は『鴉天狗』として嘴のようなアイマスクをしている。
それは視線がどこを向いているか分からぬようするための道具であり、だからこそ美濃蒼海は視線にフェイントを混ぜなかったのであるが、愛子の能力の前では悪手であった。

黄金パターンを躱されて精神的に少し動揺した美濃蒼海の隙を、愛子は容赦なく突いた。

「ファンの熱い視線は好物だけど…お触りはNG────!!」


ビキ…ビキビキビキ!


“何か”が愛子に集まっていく。
それはこの戦いを見つめる会員たちの視線、視線、視線!!
何十何百という物理化された熱い(・ ・)視線を、愛子は束ねて連ねて鷲掴みにした。

“見せ場”を作るために初手は相手に任せたが、『空の繋ぎ手(ザッピング・アーツ)』の異様な繋ぎを見た愛子は、遊び無しで美濃蒼海を屠ることに決めたのだ。


「『二つの愛ざしの純情な感情(ヒトヨヒトミデヒトメボレ)』…『オプティック(ラブ)スト』!!」


(マズい…!)


大量の視線を集めた、巨大なライトセイバーのごとき熱線の一振り。


【SLOT2: 右ステップ→左ステップ】


能力による異次元の身体さばきで、美濃蒼海は必殺の熱線を何とか躱した。
そうして、振り返りもせずに一気に逃げていった。
単純火力では自身に分が悪いと判断したのである。


「もう~!塩試合じゃ視線が集まらないじゃない…だったらさ!ぜんぶまとめてぶっ壊せるような…派手なやり方にすればいいよねぇ!!」


敢えて大げさに、注目を浴びるような身振りをする愛子。
観客である会員たちは彼女が何かをすることに期待をして視線を集めた。

その視線を束ね、愛子はアーマーとする。

「『二つの愛ざしの純情な感情(ヒトヨヒトミデヒトメボレ)』…『愛アン♡愛いでん(アイアンメイデン)』!!」

見えないが実体化した視線を強固で強大な鎧として、愛子は進軍を始めた。



一方美濃蒼海…


「…!なんだあの能力!?」

息を荒くしながら、美濃蒼海は住宅街の民家の一つに飛び込んでいた。
それはどこまでも平凡な民家であり、つい先ほどまで住人がいたかのような空気感があった。

表は表に、裏は裏に。を信条とする美濃蒼海にとって、裏での戦いをこのような民家に持ち込むことは少し居心地が悪かったが、頭を軽く振って切り替える。

だが、考える時間は与えぬと言わんばかりの破壊音が住宅街を震わせた。
愛アン♡愛いでん(アイアンメイデン)』を着込んだ愛子が民家を手当たり次第に破壊し始めたのだ。

轟音、爆音、破壊音。

派手な蹂躙は会員たちの視線を集め、より『愛アン♡愛いでん(アイアンメイデン)』は強固になっていった。

「ッチ!手に負えないぞありゃあ。なんだあの暴走は…」

破壊音で事態を把握した美濃蒼海は静かに、遠目から愛子を観察し、対策をしようとした。

だが、“観察”という行為は愛子には悪手である。
必死で愛子の戦力を探ろうとする熱い視線が、居場所を教えてしまった。


「刺さる!刺さるわ!あなたの視線!みぃつけたぁ!」


愛子は猛然と美濃蒼海に襲い掛かる。
視線を大量に集めた『愛アン♡愛いでん(アイアンメイデン)』の暴走は、徒手空拳を基本とする美濃蒼海には手に余る相手であった。

【SLOT2: 右ステップ→左ステップ】
左ステップ
右ステップ
【SLOT2: 右ステップ→左ステップ】

能力の発動と未発動を織り交ぜ、なんとか嵐のごとき猛攻から身を隠す。
幸いにして強大すぎる『愛アン♡愛いでん(アイアンメイデン)』は住宅街の入り組んだ小道では速度が出ず、美濃蒼海は何とか二度目の逃走に成功した。


「~~だぁ!畜生が!なんだよあの暴走機関車みたいな!」

愚痴を吐き出しながらも必死に息を整え、頭脳をフル回転させる。
実態のつかめない謎のアーマー?熱線?も気になったが、何より一番気になったのはこちらの居場所を瞬時に把握したことだ。美濃蒼海は素人ではない。
細心の注意を払って観察したはずが、観察した瞬間に(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)索敵されてしまった。

その違和感に、美濃蒼海はこれまでの愛子の言動を回想する。

『ああぁぁ~~!視られてる!!!熱い愛ざしが、視線が貫いてりゅう!』
『ファンの熱い視線は好物だけど…お触りはNG────!!』
『刺さる!刺さるわ!あなたの視線!みぃつけたぁ!』

愛子は承認欲求の塊の視線ジャンキーであり、何かを秘匿することを苦手とする。
常に自分をさらけ出し、衆人環視の場に身を置きたい露出狂だ。

その性癖が災いしたか。


「…視線…か?」


愛子の能力の一端を掴んだ美濃蒼海は、民家から対策物をひとつ手にして駆けだした。


■■■


ハイド&シークを決め込んだ美濃蒼海に愛子は苛ついていた。
このままダラダラとした展開が続いたら、視聴者に飽きられてしまう!

業を煮やした愛子は、フェロモンを全開で街中に撒くことにした。
派手な戦い方をする愛子に視聴者の視線は集まっているが、当然いくつかの視線は対戦相手であるあのカラスマスクにも向かっているだろう。

ならば、チャフのごとくフェロモンをまき散らせば、カラスマスクに対しての視聴者の視線が可視化できるだろうと考えたのだ。


だが、愛子がその考えを実行に移す前に、愛子に対して熱い視線が刺さっていた。
間違いなく、こちらを打倒しようともくろむ戦意のこもった熱い視線だ。

愛子はその視線に向かい全力で駆けた。
その視線は、彼女が最初にライブを行った神社のスペース、納屋の中から届いていた。

うっすら扉の空いた納屋。視線の方向に向かって愛子は『愛アン♡愛いでん(アイアンメイデン)』の拳を振るった。

ぐしゃりと肉が砕け、血の噴き出る音がするはずだった。
しかし聞こえてきたのは、「ガシャン」という金属音であった。


そこにあったのは鏡。


美濃蒼海は視線を反射させ、位置を誤認させていたのだ。
偽りの視線である鏡を攻撃した愛子は無防備。

そこに思惑が当たった美濃蒼海が大声で叫びながら襲い掛かる。


「この!『鴉天狗』が!討ち取ったり!!」


視聴者全員に響くような派手な宣言。
視聴者の視線が美濃蒼海に集まり、必然的に愛子に対しての視線が弱まる。

愛アン♡愛いでん(アイアンメイデン)』の装甲はあっという間に薄くなり、美濃蒼海渾身の飛び蹴りの前に砕け散った。

そうして無防備になった愛子の背後から、美濃蒼海は渾身の左ストレートを繰り出そうとした。その一撃は愛子の後頭部を撃ち抜き、意識を容易く吹き飛ばすはずだった。


ゾブリ


愛子自身の物理化した視線が、美濃蒼海の胸元に突き刺さっていた。
ここ一番で鏡を逆に利用したのは愛子だった。
割れた鏡の破片を利用して、この世で最も強固な視線の一つである、自身の視線を突き刺したのだ。

反射というクッションを経たためか即死には至らなかったが、左ストレートを中断させるには十二分。血反吐を吐き、呻く美濃蒼海に愛子は振り向き追撃を試みた。

鏡の反射による意識外の攻撃に戸惑いながらも美濃蒼海は切り替えた。
目前に迫る愛子に対して改めて左ストレートを見舞う。

(視線に気を付けて…!あいつの視線の直線距離にさえいなければなんとかなる!近接戦闘なら俺の土俵だ!)

そう信じて打ち抜こうとした美濃蒼海の左ストレートを待っていたのは…
愛子による左ストレートであった。

愛子は、向かい合う近接戦でタネの割れた『二つの愛ざしの純情な感情(ヒトヨヒトミデヒトメボレ)』による視線攻撃は有効になりえないと判断した。

ならば、この強靭な相手の虚をつく一撃を。
そう考えた愛子は、鏡越しにしっかりと見た美濃蒼海の左ストレートを模倣したのだ。

勿論本家のストレートに比べれば未熟なものだ。
しかし
  • 愛子の近接戦という予想外の一手
  • 愛子の視線を警戒しながらの不十分な状態での左ストレート
  • 二つの愛ざしの純情な感情(ヒトヨヒトミデヒトメボレ)』による負傷
全てが噛み合い、勝負の天秤は愛子に傾いた。

ゴギャ!という鈍い音とともに、愛子の左ストレートが『鴉天狗』美濃蒼海の顔面に突き刺さった。
相手の土俵で上回って見せるというあまりにも強烈な一撃に、視聴者は熱狂し、愛子に視線を注いだ。



「~~!!これ!!これよ!!私を視てくる、新しくて新鮮な視線!たまらないわ!!」




カウンター気味に顔面に決まった左ストレート。
美濃蒼海の世界が揺れる。
脳髄が激しくシェイクされ、全身から力が抜ける。

混濁し混ざり合った意識が、ひとつの問いを思い出させていた。



「結局、あんたは何故戦うんだい?」




別に愛とかそんな大仰なものではない。
哀れみなんて高尚なものではない。
責任感なんて似合わないものでもない。

美濃蒼海が、小谷伊吹とその道場のために戦うのは────



■■■


────しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。
人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。


美濃蒼海は牧師である。
だが、神の奇跡だとか、万人を照らす愛だとか、そう言ったものを特に信じてはいなかった。

偉大な方が教訓として残してくれたものを忘れずに生きていけば、少しでも堂々と生きていける気がする。その程度のものだった。
その程度ではあったが、大切な物ではあると思っていた。
だから神の教えを説いたし、実際に彼の援助と教えを受けた身寄りのない子供たちは清く正しく育っていた。

「だけど神様よぉ、流石に現代にそぐわない教えってのもあるよなぁ」

美濃蒼海は、神の教えのいくつかには無理があると思っていた。
別に神を侮っているわけではない。何千年も経てばどんな有用な教えも古くなる部分は存在するし、それは致し方ないものと思っていた。

特に【汝の敵を愛せよ】に関しては全くもって無理難題であると思っていた。
表も裏も合わせると、美濃蒼海は、『鴉天狗』は、何十何百と戦ってきた。
当たり前だが、敵を愛したことなどない。
敵に愛されたこともない。

別にそれで構わないと思っていた。
神は偉大でその教えも偉大ではあるが、その教えの全てが正しいわけではない。

敵を愛するなんて綺麗ごとは無理だし、
互いに不満があっても赦しあうことは難しいし、
労苦に幸せを見出すものなどごく一握りだし、
求めても与えられるかは別問題だと思っていた。

現代においては廃れた(・ ・ ・)輝きだとすら思い始めていた。
そう思い始めていた時から、彼の纏う空気は少し冷たくなっていた。
美濃蒼海の見る世界は少しずつ濁っていった。
そしてその冷たさに、濁りに気が付きすらしていなかった。

だからこそ。
あの日。
薄汚れたリングで少年を庇った少女は。
美濃蒼海に、『鴉天狗』に道場の価値を貶められた少女が。

■■■
「アンタの言う武ってなぁ何だ?」

「武とは人を活かすもの。どんな理由があろうと……」

「……本当はこんな場所で傷ついていい人など、誰もいないのです」

「俺もか?」

「……私も、貴方も」
■■■


眼前の美濃蒼海()を赦したとき。
眼前の美濃蒼海()を赦し、それどころか【傷つくべき存在ではない】と愛を示してくれたとき。

美濃蒼海の脳髄に晴れやかな風が吹いた。
身を纏っていた冷たさが、暖かなものに変わった。
少し濁っていたかのような景色が晴れた。

…信じていいのだと、思わせてくれた!

美濃蒼海は牧師である。
だが、神の奇跡だとか、万人を照らす愛だとか、そう言ったものを特に信じてはいなかった。我々を今まさに見つめている超常の存在がこの世を守っているなんてありえないと思っていた。
だがそれでも。
神が示した教えが、この世界に確かにあって、それで世界が良くなっているのなら。



神の御手を煩わせるまでもない。
この世界は既に神の愛が守っている。



美濃蒼海が小谷伊吹のために戦うのは────ただ感謝のため。



【互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい】
【あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそが神の賜物である】
【求めよ、さすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。
門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう】

あるかもしれないと。
今や廃れたと思っていた輝きがあるかもしれないと。

いるかもしれないと。
そんな生き方をした上で、眩しく進むことが出来る人がいるかもしれないと。

そう思わせてくれたことへの感謝のため。

親愛が
勇気が
希望が

そんなものが、やはり世界には正しくあるかもしれないと信じさせてくれたことへの感謝のため。


そして何より…


「────そんな奴らがよぉ…幸せにならなきゃ嘘だろうが!!!!」


愛ではなく。哀れみではなく。責任感ではなく。

ただ感謝と祈りのために美濃蒼海は吠えた。


■■■



どこにそんな力が残っていたのか。
死に体と思われた美濃蒼海は猛然と愛子に迫った。

だが、火照る身体と裏腹に愛子は冷静だった。
消えかけの蝋燭の最後の炎。
玉砕覚悟の突貫に過ぎないと見極め、視線を集め、防御を固めた。

無策に突っ込んでくる美濃蒼海にこの視線の防御を崩す術はない。
愛子はそう確信していた。


その確信を、振り絞る叫びが打ち破る!



「ッしい!」





『鴉天狗』美濃蒼海は、自身の象徴たるアイマスクを脱ぎ捨てた。
大袈裟に、仰々しく、天高く放り投げた。


闘技会の視聴者たちは数多の格闘技を見てきた目の肥えた数寄者だ。
勿論地下MMAの常連である『鴉天狗』のことは試合前から知っていた。

正体不明の黒烏。
確かな技量で表の格闘技者を振るい落とす裏の番人。

そんな『鴉天狗』の素顔がむき出しになっている!

愛子に集まっていた視線は、『鴉天狗』の素顔に全て奪われた。
視線の防御はあっという間に消え失せた。
こうなってしまっては愛子はただの小娘。
歴戦のMMAファイターの一撃の前に散るのみである。
そう視聴者は確信した。


その確信を、今度は愛子が覆す!


愛子に迫りゆく美濃蒼海の首が奇妙に曲がり、明後日の方向を向いた。
愛子は今まで自身に向けられた視線を物理化して干渉していた。
だが、愛子が干渉できるのは自身の視線だけではない。

他人の視線を物理的に掴み、曲げることも出来るのだ。

美濃蒼海の視線を鷲掴みにし、無理やり曲げることにより美濃蒼海は愛子とは全く別の方向に頭を向けた。あまりにも隙だらけの姿。


その丸裸の下顎に向かい、愛子は再び左ストレートを放った。



この上もない、完璧なタイミングであった。
先程のリプレイかのような、狙いすました美しい左ストレート。
『鴉天狗』、美濃蒼海のお株を奪う一撃。

アイドルとしての鍛錬。
美味しく(・ ・ ・ ・)見られることへの執着。
その結実の左ストレートが、無防備な美濃蒼海に突き刺さる!


────そのはずであった。
盤面は覆る!二度ならず三度までも!


────ぐるうりと、世界が暗転する。
────愛子の世界が、暗黒に包まれる。




【SLOT3: 左ストレート→目を思い切り強く閉じ続ける】




『鴉天狗』美濃蒼海の真骨頂はカウンター。
あれほどに綺麗に決まった左ストレートの成功体験を、視線ジャンキーの愛子は忘れられないとだろう読んでSLOT3に仕込んでいたのだ。『空の繋ぎ手(ザッピング・アーツ)』は隠し玉として、相手にも適用できる。

能力を相手に適用できることを隠していたのは、愛子だけではなかった!

完璧なタイミングで発動された『空の繋ぎ手(ザッピング・アーツ)』。
愛子の両の目はぎゅっと音が出るくらいに強く閉じられた。

視ること視られることを何よりも大切にしていた愛子は、強く目を閉じるという未体験の事象に大いに混乱をした。そしてその混乱は、百戦錬磨のMMAファイターの前ではあまりにも致命的な隙であった。

強烈な左フックが、愛子の下顎に叩き込まれる。
ゴギン、という嫌な音とともに愛子の意識が揺れる。

美濃蒼海はこの化け物のようなアイドルに対して油断をせず追撃をした。
視線から逃れるようにバックを取り、両の腕を捻り上げて肘関節と肩関節を同時に砕いた。

ぐわんぐわんと揺れる世界。
猛烈な痛みが走る両腕。

だが、愛子にとってはそんなこと(・ ・ ・ ・ ・)どうでもよかった。
それよりももっと大切なことがあった。

(私…負ける?負けちゃう??…そんなこと(・ ・ ・ ・ ・)はどうでもいいけど…このままじゃ…しょっぱい負け方になっちゃう!!!!)

勝ち負けはどうでもよかった。
愛子という承認欲求の化け物にとっては、視線をいかに集めるかこそが重要であった。

(もう勝ち目はないけど…このあとどう負けちゃう??この人堅実だから…締め技で落とされる??嫌!嫌嫌嫌!負けるなら派手に!ド派手に!!)

そんな愛子の耳元で、美濃蒼海は静かに呟いた。


「ド派手にいくぜ…備えろよ?」


それは不合理な選択ではあったが…ここまで死闘を繰り広げた闘士に対しての敬意であった。美濃蒼海はいまだ強く目を閉じる愛子の右腕を強引に掴んだままぶん回して反転をさせた。そのまま勢いを殺すことなく、丸太のような太い二の腕を愛子の喉元に叩き込んだ。


レインメーカー


【カネの雨を降らせる男】
オカダ・カズチカの二つ名がそのままつけられた、プロレス界に燦然と輝くフィニッシュブローである。

猛烈な勢いで迫りくる死神の鎌の気配を感じながら、愛子は小さく笑った。
そして叫んだ。


「この…この視線誘導標 愛子がぁああああ!!!??」


この上なくド派手な断末魔とともに、フィニッシュブローをまともに喰らった愛子は空中で一回転してアスファルトに突き刺さった。大股開きで意識を飛ばしたその姿に、会員たちの視線は全て注がれた。

最後にビクビクと震えていたのが、肉体の反射か性的絶頂かは誰にも判別がつかなかった。




戦場:住宅街
勝者:美濃蒼海




■■■





祝福の鐘が教会に響く。
純白の衣装に身を包み、道場関係の皆から祝福されるのは、長浜伊吹とその幼馴染である長浜彦根。

二人はどこまでも幸せそうに笑っていた。
その世界はただひたすらに美しく暖かなものであった。

その美しき式に、黄色のチューリップが名無しで届いた。
美濃蒼海がアンダーグラウンドと契約していた一束だ。
その花束とは別に、巨漢の牧師、美濃蒼海は参列していた。

彼には珍しく酷く緊張した面持ちであった。
まもなく祝福される二人が教会から出てくる。
フラワーシャワーで出迎えようと皆が花を抱える列の最後尾に彼はいた。

彼は首元に『鴉天狗』のマスクをぶら下げていた。
魔人闘技会で素顔を晒した以上、いつか巡り巡って自身の正体が伊吹に届くかもしれない。
そう考えた彼は自ら正体を明かすことにしたのだ。

あの日、彦根を打倒したのは自分であると。
道場の債権を背負っていたのは自分であると。
…そして、その債権の切っ掛けとなった…伊吹の父を討ち果たしたのは自分であると。

漆黒の鴉のマスクは、物言わずとも雄弁に語っていた。

この鴉のマスクを見て、伊吹夫妻がどう思うか、美濃蒼海には全く判断が付かなかった。
罵倒するだろうか。失望するだろうか。軽蔑するだろうか。

どうなったとて、彼に弁解の余地はなかった。
それでも、もし、許されるのならば。許されていいのならば。

美濃蒼海は天に祈った。
ただひたすらに天に祈った。

その祈りを打ち破るかのように重厚な音を立てて教会の扉は開いた。
祝福されるべき二人と美濃蒼海の目が合う。

二人はすぐに美濃蒼海がぶら下げた鴉のマスクに気が付いた。

────そうして、二人の表情は…





















「やっぱり、あんたはそこまで器が小さくはなかったな!」


半泣きで美濃蒼海は天に叫んだ。


────神はいる。美濃蒼海はそう思った。





HAPPYEND



最終更新:2026年05月25日 19:35