魔人闘技会運営が買い取った無人島、通称【断頭島】
東西およそ2㎞弱、南西およそ3㎞、面積およそ5㎢程の島で、最大標高は中央部付近の【斧岳】の278mとなっている。
つい十数年前までは、この海域を荒らしまわっていた魔人海賊団がこの島を拠点に活動をしていたが、その後海賊団は海上保安庁によって掃討され、現在は新たな土地所有者の下、魔人同士の決闘場へと生まれ変わっていた。
□9:30・戦闘開始
「この戦場は……島?」
島の中央、【斧岳】中腹の高台の上に五月雨 珊瑚は転送されていた。
眼下に広がる景色を観察する。島の大部分を占める雑木林と西側に僅かに頭が見える集落跡、沿岸部は西側の平坦な砂浜と、南東側の岩礁地帯が混在している。
(この地形なら、敵の進行ルートは限られてきそうですね)
島の東側は起伏が激しく、緑も濃い。遭遇戦には不向きな地形だ。対して西側は緩やかな傾斜で集落跡というランドマークもあり、恐らく敵もそちらを目指してくるだろう。
(敵は岩堂 一心。所謂喧嘩スタイルの近接タイプ。過去の大会に参戦経験もある復帰勢。このレギュレーションでの戦闘経験値では向こうに分があるでしょう……)
『猟犬』五月雨 珊瑚は極めて高い情報収集能力を持った隠密である。
通常、魔人闘技会における対戦相手と戦場は選手本人に通知されない。
初めての戦場、初めての対戦相手同士で戦う場合が多く、対戦の噛み合わせ次第では一方的な展開も稀ではない。一芸特化や初見殺しが比較的通りやすい環境といえるだろう。
これはエンタメとして魔人能力者の個性を際立たせると同時に、運や対応力も強さの内という闘技会の理念が反映された結果なのである。
しかし珊瑚はそんなランダム要素を極力排除する方向に動き出していた。
珊瑚は独自のルートで入手したクラッキングツールや情報収集端末を駆使し、事前に魔人闘技会の運営サーバーに侵入、本戦のマッチアップリストを入手していた。無論敵の能力や戦闘ログも解析済み。邪道ではあるが闘技会の理念に照らし合わせれば、この情報収集能力も間違いなく彼女の強さの一つである。
(とにかく転送位置が良かった。ここから真っすぐに集落の方へ行けますね)
向こうの転送位置はまだ不明だが、相手より早くあの集落跡に辿り着ければ簡単なトラップを仕込むことができるかもしれない。携行を許された装備はワイヤー、煙玉、苦無2本。後は現地調達で何とかするしかない。
とにかく敵は一発の破壊力が桁違いの相手。いかに『スタン』で自己の能力を底上げしたとしても、まともにぶつかればこちらの不利は明白だ。
珊瑚は軽やかな身のこなしで高台から飛び降り、集落跡の方向へと走り出す。ツインテールの黒髪がひらりと翻る。
(冬……貴方の輝かしい未来の扉は、私が必ず開いて見せますから……!)
——彼女の栄光の為ならば、私は幾らでもその手を血に染めて見せましょう。
揺るぎない決意が、『猟犬』の瞳に殺意の火を灯す。研ぎ澄まされた牙はまだ見ぬ獲物に狙いを定めていた。
同時刻、一心は島の北西、通称【骨の入江】と呼ばれる沿岸部へと転送されていた。
「……無人島か。あんま得意なステージじゃねーんだよな」
一心は過去二度ほどこのステージで戦っているのだが、いずれも勝利を収めている。だが、ある理由によってどうにも苦手意識があるのだ。
「まあ、今回で流石に三回目。何とかならぁな」
入り江の先からは雑木林が広がり、山側へと延びている。過去の対戦ではこの島のどこかに集落の跡があったと記憶している。雑木林の方をよく観察すると、右手の遠方に古びた建物の頭が見える。
「おお、あれだあれ。まずはあそこを目指してみっか」
見通しの悪い雑木林、まだ見ぬ強者。ここから先はいかなる油断も許されない。だが一心はこの緊張感に心を躍らせていた。
闘技会の参加資格を剝奪されてから復帰するまでの間、胸の内に秘めた闘志は衰えるどころか激しさを増す一方だった。戦えない日々の中、蓄積されてゆくフラストレーション。
平穏な日常に適応しようと、千波のオジキの会社で必死に働いたが、終ぞ満たされることは無かった。
しばらくして、鋼鉄製の義手を作れる義肢装具士が見つかった時、これでまた戦えるんだという喜びが全身を駆け巡った。
つくづく自分が戦闘中毒者だと思い知らされた数か月間だった。
(……そうだ、この空気感よ。オレが居るべき場所はここしかねぇ!)
檻から放たれた隻腕の怪物が歓喜に打ち震える。逸る気持ちを抑え、死角からの奇襲を警戒しながら彼は緑生い茂る雑木林へと入っていった。
□11:10・戦闘開始より1時間40分
「……これでよし、と」
珊瑚が雑木林に囲まれた集落跡に到達したのは10:10。そこから1時間かけて、簡易的なワイヤートラップを仕込むことが出来た。倉庫から錆びた農具やスコップが見つかったのは僥倖だった。今やこの集落跡は獲物を絡め捕る忍者の結界と化している。
後は敵を待ち伏せるだけ。島の大きさ、地形等を考慮して珊瑚は恐らくここから6時間以内の勝負となる可能性が高いと踏んでいた。
(時間が許せば落とし穴等の罠も仕込むのですが……決着は24時間以内というルールですし)
それに加えいつ敵が姿を現してもおかしくない状況だ。今はあらかじめ張って置いた鳴子の音が聞こえる物陰で待機し、戦いに備え体力を温存しておこう。
——しかし物事とはこういうときほど思い通りにいかないものである。
彼女は知らなかった。対戦相手が想像以上のアホの子であったことに。
□14:40・戦闘開始より5時間10分
「クソっ!! また海岸沿いに出ちまった! 今回もこのパターンかよ!」
集落跡へと向かっていたのにいつの間にか別の海岸沿いに出てきてしまう。そんな事をかれこれ4回ほどやっていた。
「まずあそこの岩を左に曲がって……次の切り株を右……どう考えても海岸に出るはずねぇのによぉ……」
一心がこのステージに苦手意識を持っている【ある理由】とは、この方向音痴のことであった。
無人島ステージは外周8キロ程と他ステージよりエリアが広め。更に見通しが悪い雑木林エリアが島の面積の大半を占めている。
進行方向を「右に何回、左に何回曲がったか」で判断している一心にとっては単なる雑木林も迷いの森。現在地が分からなくなり仕方なく地面の傾斜に従って登っていこうとすると何だかどんどん明後日の方角に連れていかれるような感覚を覚える。
こんな調子で疑心暗鬼のままさまよい歩いていると、いつの間にか海岸に出てしまうという有様だった。
「……飯にすっか。運良く食材は確保出来たしな」
腹が減っては戦はできぬ。一心は道中で遭遇し、撲殺したぐりずりー君(どこにでもいるありふれた人食い熊。結構強い)の肉を焼くために火おこしの準備を始めた。過去2回の無人島経験で彼のサバイバル技能はある程度磨かれていたのである。
□17:00・戦闘開始より7時間30分
日が暮れる頃になっても鳴子に反応なし。これは少し拙い事態かもしれない。
敵は真っ向勝負が信条の直情型と分析していた。故に集落跡に向かって迷いなく進撃してくると思っていたのだが……
(もしかして……午前中の作業を見られていました?)
罠の設置は鳴子を仕掛けた上で辺りの状況を確認しながら慎重に行なってはいた。
しかし死角の多い雑木林で物陰から作業を盗み見られていないかと言われると、何とも言えない。
(仮に作業を見られていたならば、ここには近付いて来ないでしょう。いや……?)
ここで珊瑚はもう一つの可能性に思い至る。一心の戦闘ログで少しだけ違和感を覚えた点。過去2戦、無人島ステージにおいての戦闘時間がいずれも15時間を超えていたというデータである。
初戦に至っては制限時間ギリギリの決着だったはずだ。
一撃必殺クラスの拳を持っている一心が10数時間ずっと殴り合っていたとは考えにくい。ならば、最初の遭遇までに時間がかかってしまったと考えるのが自然、つまり——
(もしかして敵は……道に迷っているのでは……!?)
もう間もなく日も暮れる。こちらの罠が看破されているのか単に迷子となっているのか。どの道確かめる必要はありそうだ。
後者ならばこちらから動き、このフィールドへ誘き寄せるのも手かも知れない。
鉢合わせのリスクはあるが、忍者の得意分野である夜戦のアドバンテージを活かさぬ手はない。珊瑚はそう判断し、一心を探すべく動き出した。
□18:20・戦闘開始より8時間50分
「クッソ……暗くなると現在地がますます分かんねぇな」
既に雑木林の中は暗闇に覆われ、凹凸の激しい足元も相まって下手に動くと危険な時間帯。ほぼ歩き通しで流石の一心も疲労の色が隠せなくなる。
「ハア……ちょいと休憩だ」
手ごろな岩に腰掛け、呼吸を整える。
葉擦れの音と鳥の鳴き声が心地よい。だが、その音の隙間を縫って、何かが歩く音の気配を感じる。
(またあの熊か……? 疲れてんのによぉ……)
どこから来る? 右か、左か。一心は耳を澄ませ、音の方向を探る。
足音が次第に近づくにつれ、音の輪郭がはっきりとしてくる。
(微かな衣擦れの音……なんだよ、本命登場じゃねぇか)
足音の主は周囲を警戒してか、慎重に歩を進めている。足を止め、木々のざわめきに耳を澄ませているような現在の状況でなければその気配にすら気付けなかっただろう。
方向は後方左側。敵側がこちらに気付いていない今なら木の裏に潜み奇襲が可能なシチュエーション。だが一心は腰を上げ、駆け足で足音の方へと進んでいった。
「よう! そこのお前! ワンチャン会えないかと思って冷や冷やしたぜ!」
「!!」
左側の茂みから勢いよく現れた大男に珊瑚はぎょっとする。懸念していた鉢合わせパターンだが、敵は奇襲を選択せずバカ正直に姿を現してきた。
「……随分豪胆に登場しましたね。奇襲とかは考えなかったんですか?」
「は? そんな狡い真似すっかよ。バカにすんな」
「それは失礼いたしました」
珊瑚が苦無を両手に構える。上手くここを切り抜けて、集落跡へと誘導しなければならない。
「へえ、俺と真っ向勝負する気か? 見た感じ喧嘩が得意そうじゃ無さそうだけどな」
「ええ、喧嘩は苦手ですよ。でも——」
『スタン』が乗った強い踏み込みは、目で追えぬほどの異常な瞬発力を生み出す。
一心との距離を一瞬で詰め、すれ違いざまに首元目掛け刃を振るう!
「——殺すのは、得意です」
「うおっと!」
それは本来防御も間に合わぬ致死の刃であった。しかし一心は『虚仮の一心』によって引き上げた右腕を強引に滑り込ませる!
散る火花。義手と苦無が擦れ合う金属音。軌道をそれた刃が一心の肩口を浅く切り裂く。
「あっぶな! やるじゃねーか!」
敵の思わぬ速さに一心は警戒感を強める。だが珊瑚は一心を一瞥し、そのままこの場から離脱する。
「おい! 逃げる気かよ!」
一心は慌てて珊瑚の後ろを追いかける。珊瑚のプラン通りの展開だ。
(やはり道に迷っていただけのようですね。ならば優しくエスコートして差し上げます)
珊瑚は一心を撒かぬようつかず離れず、集落跡の方へと誘い込む。途中から一心もそれに気づき始めたが、それが相手を追わない理由にはならない。
(にゃろう……例の廃墟でオレを迎え撃つつもりか?)
上等だ。何か企んでいるという事は、真っ向勝負は避けたいという意識の表れ。あれだけの身体能力を持ちながら搦手で行くというのなら、オレはその舐めた戦術を正面から噛み砕くだけだ。
一心がそんな風に考えながら追跡を続けていると、突如視界が開かれ複数の朽ちた建物が姿を現す。
その中心で珊瑚がようこそと言わんばかりに一心を待ち構えていた。
「ここであなたを仕留めます。覚悟してください」
「やれるもんならやってみな、嬢ちゃん」
□18:50・戦闘開始より9時間20分
一心が珊瑚に向かって駆け出す。すると足元で何かが引っかかる感覚を覚えた。
(ワイヤー!?)
鋭い風切り音と共に草刈り鎌が左方より飛来する。一心はこの視界の悪い宵闇にも関わらず、鋼鉄の義手で草刈り鎌を難なく弾き落とした!
「まさかこれで終わりじゃねぇよな?」
「当然」
今度は珊瑚が自ら仕掛けた手元のワイヤーを苦無で切断する。建物同士を結ぶロープに吊るされた三本の鉞が、振り子の軌道を描き一心へと襲い掛かる。
「洒落臭ぇんだよッ!!」
一心は深く沈み込み重い凶刃を躱す。勢いそのままに珊瑚に向かうが、カウンター気味に投げ放った苦無が一心の眼前に迫る!
——『虚仮の一心』!
一心はきりもみ回転のように体を捻り気合いで苦無を回避する。今のタイミングは危なかった。
一心の背筋に冷たいものが走る。
「バカ正直な突貫は通らねぇとでも言いたげだな? おい」
「もう一度試してみますか?」
珊瑚はそう言うと、再び後退し一心との距離を取る。
「また追いかけっこか!? コラ!!」
「貴方と『ケンカ』はしたくありませんので」
珊瑚が後退した先には大小様々な廃墟群が立ち並んでいた。
珊瑚はその中でも一番大きな家屋の中に入ってゆく。一心もその後を追って家屋の中に入ってゆくが、その足元に野球ボール大の何かが落ちてきた。
「何だこりゃ……うわっ!!」
ボールの中から勢いよく煙が噴き出す。瞬く間に視界がふさがれ、室内に白煙が充満する!
「てめっ……ゴホッ! 室内で煙玉なんて……無茶苦茶しやがって!」
一心は煙から逃れようと後退するが、もがいた腕にワイヤーが引っかかる。するとガタリという物音と共に天井から錆びた農具の数々が降り注いできた。
「ぐっ!! てめぇ!!」
義手で咄嗟に農具を打ち払うが、その全てを躱すことは叶わず、錆びた鍬や鋤の刃が一心の肩や背に刺さる。熱感を伴う痛みが走り、ぐっと歯を食いしばる。
それでも何とか入口の扉に手をかけ、そのまま外に出ようとするが、家屋の屋根の上では珊瑚が既にスコップを投げ槍のように構え、出てきたところを串刺しにしようと狙いを定めていた。
(この一投で貴方の心臓、もらい受けます……!)
集中力を高め、敵の飛び出しに備える。だが——
突如室内から大きな破壊音が鳴り響き、下のフロアから建物が倒壊していく! 珊瑚は揺れる足場から素早く飛び降り、後ろを振り返る。土埃を上げ瞬く間に瓦礫と化した建物を背景に、隻腕の大男が仁王立ちしていた。
「中での追撃が無かったからな。出てきたところを狙ってくるとみて建物ごと破壊させてもらったぜ」
一心は『虚仮の一心』で高めた膂力を以て、家屋中央の朽ちかけた大黒柱を破壊し、建物を内側から崩壊させた。瞬時に外へ飛び出せるかどうかは賭けであったが、脚力も同様に無理矢理動かして間一髪脱出することに成功したのである。
無論限界を超えた肉体の連続行使で、一心の筋繊維は悲鳴を上げていたのだが。
「……貴方正気ですか? あの視界の中で、こんな力業を試みようとするなんて」
「はぁ? 仕掛けてきたのはてめぇだろうが。俺は勝つために最善を尽くしてんだよ!」
「……っ! 私だって……!」
気圧されるな。忍びの結界は確実に敵の生命力を削り取っている。追い詰められているのは向こうの方なのだ。
たとえどんなに相手の圧が強くとも、私には冬への揺るがぬ想いと言う無限の力がある。
狂気じみた一心の戦意に珊瑚は一瞬気圧されかけたが、想い人への気持ちを糧に再び奮起し、手に持ったスコップを構える。
「はあぁぁぁっ!!」
珊瑚はまるで木の枝を振り回すかのように、片手で軽々とスコップを操り攻撃を仕掛ける。
その一つ一つが『スタン』で増強された致命の一撃なのだが、一心はそれらを鋼鉄の右腕で的確に弾いていく。
「いいね。やっぱり嬢ちゃん、『ケンカ』のセンスあるじゃねーか!」
「……まさかコレが本気だとは、思ってませんよね?」
「何だと!?」
珊瑚は更にもう一段階、攻撃のギアを上げる!
重い感情の強さをそのまま力に変換する『スタン』は、彼女の想いによって更なる力を引き出していた。
対して一心は筋繊維の断裂によって、身体が言うことを聞かない状態だ。『虚仮の一心』でそこを補強しても、元の疲労を誤魔化す事はできず、益々傷が増えていく。
(ちっ、分かっちゃいたが、長くは持たねーな……)
もはや一撃で勝負を決めるしかない。一心は『全力』で拳を振るうタイミングを見計らう!
しかし珊瑚もその程度の心理状態は読めている。逆にわざとその拳を使わせ、一撃限りの義手を破壊する事が出来れば彼女の勝利は揺るぎないものとなる。
珊瑚はスコップを振るいながら、近くの巨木の方へと移動する。そして止めを刺そうと言わんばかりにスコップを両手に持ち替え大きくそれを振り下ろす!
「っらあ!」
一心が義手でそれを受け止めると、スコップの柄がバキリと音を立て、軸の先端から折れてしまう。
「しまっ……!」
だがこれは珊瑚の計画の内。一心は彼女の演技に偽りの勝機を見出す!
「勝負を焦ったな、嬢ちゃん!」
珊瑚は咄嗟に後退し、スコップを打ち捨て大木を背に苦無を構える。しかし一心は既に全力の拳を叩き込むモーションに移っていた。
「逃すかあッ!!」
戦艦の巨砲を彷彿させる鋼の拳。
『虚仮の一心』の筋肉操作による凄まじい踏み込みにより、2人の距離が一瞬で詰まる!
(速……!!)
珊瑚の眼前に迫る圧倒的な死の閃光。コンマ1秒の分水嶺、これを避けねば即時粉砕!
人の反射速度すら追いつけぬ『スタン』の全力を以って、約束された死からの回避運動を試みる!
——間に合え!!
その閃光の先に見えたのは、冬の寂しそうな笑顔だった。
夜の無人島に一際響き渡る轟音! ミサイルが着弾したかのような破壊の衝撃が、朽ちた家屋に伝播する!
——その爆心地では、右肘から先が吹き飛んだ隻腕の男と。
——膝をつき、唖然とした表情で男を見つめる少女と。
——その背後で、幹の一部と根を残して真っ二つに破壊された巨木が横たわっていた。
「チッ、外したか……」
全て珊瑚のプラン通りに事は運んでいた。
敵は鋼鉄の義手を失い、蓄積されたダメージも軽くはない。
肉体限界を超えた能力行使でスタミナも尽きかけ、肩で息をしている。
ここからの逆転の目は、限りなくゼロに近い。だが——
(運が良かっただけだ……あの拳が少しでも掠めていれば……私の首から上は消し飛んでいた……)
珊瑚の脳裏に、拭い去れぬ恐怖が宿る。
命を賭した博打に打ち勝った高揚感など微塵も無かった。
今すぐここから逃げ出したいとさえ思った。
「まあいい。続きをやろうぜ」
何故なら、これほどの苦境に立たされながらも相手の戦意が全く衰えていないからだ。
(私は、見誤っていました……!)
真に恐るべきは、あの鋼鉄の義手などではなかった。
戦いを愛し、暴力を愛し、立ちはだかる相手に対して決して容赦をしないこの狂気こそ彼の最大の武器であったのだ。
だが、それでも勝利を掴むには、この怪物の息の根を止めないといけない。
頭では理解っている。理解っているのだが……
膝が震え、立ち上がることが出来ない。
右手に残った、たった一つの苦無の何と心細いことか。
怯えの色が移った珊瑚の目を見て、一心は眉を顰める。
「何だ嬢ちゃん、今更ビビってんのか?」
「なっ……!」
「やる気がなくなったなら降りろよ。オレは『ケンカ』しに来てんだよ」
「ここで降りるわけにはいきません……! 貴方とは、背負っているものが違うんです」
そう、冬のためにも、ここで止まるわけにはいかないのだ。
「……嬢ちゃん、もしかしておめぇ、【誰か】のために戦ってんのか?」
「……それがどうしたんですか?」
「んだよ、ずっと思いつめたような表情してたのは、そういう事かよ」
一心はそう言うと、軽くため息をつく。その見透かしたような表情が珊瑚の神経をいらだたせる。
「いや、オレは相手の事情なんぞどうでもいいタイプだがな。そういうの、あんま良くねぇと思うぞ」
この男は何を言っている? 珊瑚の表情が更に曇る。
「【誰か】のためにって思いが強すぎれば、死ぬほど痛い目を見たときや、報われなかった時にその【誰か】のせいにしちまうことだってある。嬢ちゃんはそうならない自信があるのか?」
「!!」
ふざけるな! と反論したいが声が出せない。
自分自身で決めた事とはいえ、これだけしんどい思いをしているのに、仲間はそのことを何一つ知らないという事実。
怖い。私が冬を責め立てる未来があるかも知れない。一瞬でも想像してしまったが故に、この男の言うことを一蹴することが出来なかった。
「『ケンカ』ってのは、なるべく自分のエゴのためにやった方がいいんだよ。所詮痛い想いや苦しい想いをするのは自分一人なんだからよ」
「余計な……お世話です……!」
絞り出すように声を上げる。これが精一杯だった。
「そうだな。今は『ケンカ』の途中だ。後は拳で語ろうぜ」
そう言うと一心は、片腕のファイティングポーズをとる。
「貴方の戯言を否定するには、そうするしかないようですね」
珊瑚も苦無を懐に仕舞い、徒手空拳の構えを見せる。
「っしゃオラァァァァァァ!!」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
両者同時に踏み出し、お互いの顔面に拳を打ち込む!!
相討ちとなったその拳は、尚もとどまることを知らず壮絶な乱打戦へと展開する!!
強く、より強く。
一心の気合いが込められた『虚仮の一心』の一撃は、珊瑚のあばらに罅を入れる。
速く。より速く。
珊瑚の想いが乗った『スタン』の一撃は、一心の奥歯をへし折り吹き飛ばす。
共に防御を忘れた拳の叩きつけ合い。いつ果てることもなく続く大喧嘩。それは決して相容れぬ両者の、エゴの通し合いであった。そして——
「悪ぃな。オレの得意な土俵で負けるわけにはいかんのよ」
「全く、貴方の『ケンカ』に付き合ってしまったのが運の尽きでしたか……」
一心の気合いが乗った左ストレートが、珊瑚の意識を遮断した。
□19:30・戦闘開始より10時間。決着——
□
レグルス。
スピカ。
アークトゥルス。
シリウス。
四つの綺羅星で飾られた花束を、あなたに。
珊瑚の敗北により、フェスの話は白紙となったが、黒沢は引き続き『猟犬』との契約を継続することとなった。
彼との契約が切れぬ限り、妨害行為を働いた大手事務所もおいそれと手は出せないだろう。あとは彼に頼らず、自分たち自身の力で這い上がってゆくのだ。
再出発となってしばらく経った時、とある握手会で、珊瑚の目の前に一人の男が現れた。
「よぉ、この前のライブ、滅茶苦茶良かったぜ」
「貴方……!」
鋼鉄の義手を纏った大男。岩堂一心がそこに居た。
「……一体何しに来たんですか?」
「握手会っつったら、握手しに来たに決まってんだろ。惚れ、ちゃんとグッズも買ってるし」
珊瑚は大きなため息をつき、なけなしの愛想を一心に振りまく。
「コレカラモリシアンサスヲヨロシクオネガイシマス(ハァト」
「凄ぇな。アイドルの塩対応コンテストがあったらダントツで優勝じゃねぇか」
「うっさいです。握手したらサッサと消えてください」
そういって珊瑚は一心の鋼鉄の義手を握りしめ、『スタン』でその指を粉砕した。
「ハハ、ますます気に入ったぜ。また『ケンカ』しような!」
「二度としません。御免です」
そんな珊瑚の様子を見て、冬が声を掛ける。
「あの人は誰ですか? 初めて見た顔だけど……」
「ただの知り合いですよ」
「ええ? そんな風には見えなかったよ? なんか妙に親しげでしたし……」
「そんなことないです。本当にただの知り合いで」
「でも珊瑚があんなにも素の自分をさらけ出すなんて。ひょっとして少し気になってるとか?」
待って。そのような誤解は本当に止めてほしい。
「何やなんや? 何だか面白そうな話の予感がするんやが?」
「スピカも聞きたい! 隠し事はいけないぞぉ~!」
「だから!! 本当に違うんだってば!!」
私の想い人は冬だけなんです!! そうも言えずに珊瑚は誤解を解くのに迷走するのであった。
最終更新:2026年05月25日 19:57