*沙機*
控室。
一人の男が、選手のグローブベルトを締めていた。
「なあ、沙機」
男が言う。
名は、スティール愛甲。
かつてはMMA元世界スーパーウェルター級3位の選手。年老いた今は、愛甲ジムの会長を務めている。
「ありふれたことを言うが……お前は最強だ」
「……」
選手は、沙機。
ただ静かに座る。
「俺が保証する、間違いねえ。胸を張って良い」
「……」
「お前の強さは、あの腕でも脚でもねぇ」
「……」
「本当は、どれだけ泥臭くとも、勝ちを拾いにいく姿だ」
「……」
「俺ぁそこに惚れてんだよ」
沙機は、少し目を伏せてから、何か言いかけた。
だが、愛甲の顔を見上げたとき、そこにあった表情を見て、言葉を飲み込んだ。
憧れ。
羨望。
救済。
全ての格闘家にとって、彼女はそれである。
沙機は、代わりにほんの少し笑った。
「安心して」
そうして、言葉を紡ぐ。
「私を誰だと思ってるの?」
そこにいるのは、不敵な笑みを湛えた、自信に満ちた戦士。
日本女子格闘技界にかつて君臨した、先駆者。
伝説の、再来。
「私は沙機よ」
*ヒミコ*
控室前。
スタッフが腕時計で時間を確認する。
「ヒミコ選手。そろそろ……」
ドアをノックする。
返事はない。
「ヒミコ選手?開けますよ?」
スタッフは、扉を開けた。
そして、見た。
その光景を。
「ヒミコ……選……手……」
目の前で繰り広げられる、異常な光景。
スタッフは、一瞬理解が追いつかなかった。
一拍置いて、あまりの凄惨さにへたり込む。
「あ、スタッフさんですね!ご苦労様です」
しばらくして、スタッフの存在に気付いたヒミコが駆け寄る。
スタッフは、辛うじて言葉を絞り出す。
「ヒ、ヒミコ選手。まもなく試合時刻ですので、所定の転送ポイントに……」
「はーい!すぐ向かいます」
あっという間に、ヒミコは部屋を出て行ってしまった。
誰もいなくなった控え室で、ようやくスタッフは叫んだ。
「うっうわあああああ!!!!」
*実況席*
今より行われるのは。
女子魔人格闘技の裏試合。
片方は過去から蘇った女子格闘技界の伝説。
片方は今を生きる闘食同源の新人選手。
磁界のデスマシーン、沙機!
しあわせ料理人、ヒミコ!
老若男女お立ち会い!
魔人闘技会、いよいよ試合……開始です!
*ヒミコ*
がたん、がたん。
ベルトコンベアが軋む。
ごうん、ごうん。
遠くでプレス機が重低音を響かせる。
試合開始と同時にヒミコが転送されたのは、なんの変哲もない、機械工場だった。
鼻を突くのは、古びた工業油の匂い。
見上げれば、ギザギザと波打つのこぎり屋根の天窓から、幾条もの白い太陽光が漏れ出ている。その光を縫うように、油煙で黒く煤けた鉄骨トラス梁が蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
頭上のH型鋼材に取り付けられた黄色い巨大クレーンは呼吸を止めるかのように停止している。
「ここは……工場ですか?」
およそ試合場には似つかわしくない光景に、ヒミコは周囲を警戒する。
無機質なコンクリートブロックの壁には、機械油の斑点が黒いシミとなって無数にこびりつく。片隅に掲げられた「安全第一」のトタン看板が、錆びついて斜めに傾いていた。
「これ、まだ動くかも」
待ち人は見えない。
視界を遮るのは、複雑に入り組んだベルトコンベアとプレス機の影。電源スイッチは押しボタン式。どこか奥の方から稼働音は聞こえるものの、目の前の機械群は沈黙し、露出した配電盤からパチパチと火花を散らすのみだ。
足元に目を落とす。オイルが薄く引き伸ばされたコンクリートの床は、天窓の光を鈍く反射し、スケートリンクのような滑らかさで足元を脅かしていた。
が、しあわせ料理人(バトルジャンキー)ヒミコが行き着いた思考はシンプル。
「油通しはバッチリ……!火加減も十分……!この場所では、楽しい料理が出来そうですね」
鉄と油の臭いを、極上のスパイス香のように深く吸い込む。
生粋の料理人(バトルジャンキー)である少女にとって、あらゆる場所は料理(たたかう)ための厨房(リング)でしかない。
そのとき。
ガシャリ、ガシャリ。
床に散らばった金属片を踏む音が鳴る。
ベルトコンベアやプレス機を挟んだ向こうに、人の気配がした。
距離は、機械類を挟んで数メートル程度離れている。
「そちらにいるんですね」
対戦相手の存在を確信したヒミコが、姿を確認するべく一歩踏み出す。コンクリート床に散らばった工具類を踏み、ザラついた清涼音が鳴る。
ベルトコンベアとプレス機を挟んで、距離は約4m。
およそ、格闘家の間合いとは言えない。
お互いに姿は視認できない。
プレス機の隙間から、人影がチラリと見えた。
その瞬間、
両者の能力が同時に発動した。
—Eat it!—
お椀。
それは、突如として目の前に提供された蓋つきのお椀だった。
「これは?」
目の前には、ライトグレーのノースリーブパーカーに濃紺のスパッツを履いた女性。
マッシュボブの茶髪、黒のオープンフィンガーグローブ。佇まいにはある種の静謐さすらある。
「さあ、開けてご覧なさい」
誘われるがまま、ヒミコはお椀の蓋を開ける。
魚臭の少ない、上品な香り。
まず頭に飛び込んできたのは、そんな印象だった。
つづいて、透明感のある液体が目の前に現れる。
みつば、豆苗、麩。
極限まで研ぎ澄まされた出汁だった。
「離れた距離からいきなりお吸い物を!?この配膳は一体!?」
「ものの試しよ。まずはお吸い物を召し上がって」
ヒミコはお椀を持ち上げ、一口含む。
その瞬間、口の中に広がったのものは。
一切の雑味がない、引き算の美学!
「う、うすい!」
「お吸い物の基本は合わせ出汁。マグロ出汁に昆布出汁を合わせたの」
「ただのマグロ出汁じゃない!この透明感、すっきりとした旨み……!」
ヒミコの言葉に、目の前の女性はニヤリと笑う。
「マグロ節血合い抜き薄削出汁よ」
「ま、マグロ節血合い抜き薄削出汁!」
まさに、構成の宇宙。
そこには、必要なものだけが存在していた。
極限まで研ぎ澄ました出汁だけが到達できる、お吸い物の到達点。
無駄のない火入れ。椀だねの下処理。
高貴かつ最短距離。
「あ、貴方はまさか……」
「私は……沙機!」
ヒミコの脳が揺れた。
—Beat it!—
ジャブ力み抜き打ち出し。
ヒミコの脳が揺れた。
初撃不意打ち。
魔人能力を交えた戦闘はしばしばお互いの常識を覆す。
まずあり得ないのは距離。
プレス機を挟んだ約4mの距離からの打撃。
相手のジャブは性格無比にヒミコの顔面を打ち抜いた。
その飛距離の異様さもさることながらヒミコを驚かせたのは、研ぎ澄まされた正確さ。一朝一夕で放てる精度ではない。
4mという空間を機械のように認識できる一握りの天才が、なおも努力を重ねて放てる一撃。
まさしく高貴かつ最短距離。
だが。
「貴方は……沙機!!」
それよりも衝撃だったのは、対戦相手そのもの。
「伝説の格闘家がなぜここに!?」
ヒミコは叫ぶ。
間違いなく、沙機だった。
今のジャブ力み抜き打ち出しも。
4mの距離から手を打ち出した能力も。
料理の中で邂逅した姿も。
全てが、沙機。
「間に合ったみたいね……」
プレス機の向こうから静かな声が聞こえる。
姿はいまだ見えない。
「貴方の回避が」
「!!」
測られている。
「インパクトの瞬間、ほんの少しだけ仰け反った……?反応速度が速い。ジャブも芯まで当たらなかった。そもそもおそらく貴方も戦闘系魔人。そう、タフなのね……!」
反応速度、危機察知能力、防御選択、戦闘への覚悟。すべて見られている。
これは問いかけだ。
【沙機】。
女子魔人格闘技界草創期における草分け英雄。
その技術は、四十年先を行っていたと言われる、超ロングレンジの技巧派。
当然、バトルジャンキーであるヒミコも、動画で見て知っている。
「貴方はどこまでやれる?次は当ててみせる」
「っ……!次は避けてみせますよ!」
*観客席*
「沙機だ!!!」
「おい嘘だろ沙機だ!!」
「磁界のデスマシーンがなぜここに!?」
沙機の登場に、観客である魔人闘技会会員たちはザワついた。
中には立ち上がって拍手をする者までいる。
いったいなぜ。
死んでなかったのか。
若い頃のままの姿だ。
というかなんだ対戦相手の能力は。
だが、スティール愛甲の驚愕は、優越感が混ざりこそすれ、そんな会員たちの一喜一憂とは方向性において一線を画していた。
「沙機が初手不意打ち!?馬鹿な!沙機から仕掛けたのか!?」
「愛甲……!これはリング上の試合じゃない。しかも対戦相手の能力は未知数。沙機が仕掛けたのは、測るためだ!」
スティール愛甲と、その横に座る老紳士は当惑を露わにする。老紳士の名は神威。MMA元世界スーパーウェルター級チャンピオンで、スティール愛甲とは永遠のライバルだ。
「地の利と、対戦相手を、測ったのか……?だが、なんだ相手の能力は」
「ああ、沙機がお吸い物を!?なんだあの対戦相手は」
「4mはなれた距離からなんて正確なお吸い物だ!」
二人は、観客に混じって口々に叫ぶ。
歓声は、やがて一つの声へと収束した。
「「「なんだあの対戦相手は!?」」」
会員たちの注目は沙機の対戦相手に移る。沙機にお吸い物を打たせた能力は、厄介というより変な能力だ。
「幻術……ではないな。おそらくは認識そのものへの作用、あるいは世界観の転換か?」
神威の分析に愛甲は頷く。
「この試合、相手は沙機の"懐に飛び込みたい"はず」
沙機の手足は分離する。手は5m、足は7m。
合わせて最大12mという規格外の間合い。
間合いの広さと攻撃力を兼ね備えた最強の武器術と呼ばれる薙刀道でさえ2m。なおかつプロ格闘家として最高点にいる沙機は、武器術より遥かに精細に格闘術を繰り広げられる。
間違いなく、異能格闘技の一つの到達点。
「変な能力だ。そして、変な能力とは得てして厄介な能力となる!」
「羽ばたいてこい沙機……!俺が最高の引退試合を演出してやる」
*沙機*
沙機は、眼が良い。
最大12mという異様な攻撃範囲を扱うため、彼女は常日頃より反射神経と視力に気を遣っていた。
そんな彼女の眼が、捉えた。
「笑った……」
プレス機を挟んだその向こう。
額に拳を当てた、対戦相手が笑った。
「すごく美味しい料理ですね!味にブレがない!!」
額から流血。
白いコック帽に、白いコックコート。黒いコックシューズ。
その場にいるのは、料理人の少女。
「流石は、沙機です!」
「……ええ。私は沙機よ」
(面白い能力!)
奇想天外の能力に晒された直後にもかかわらず、沙機は冷静だった。
元々、相手の能力が攻撃型ではないということもあるのだろう。
だが、高速ジャブで相手の力量を図るつもりが、まさか自分がお吸い物を出すことになるとは考えもしなかった。
ここは試合会場のような平坦な地形ではない。
視界を遮る遮蔽物が多い。
ここに、相手の能力が加わる。
(情報量……!情報量が多い)
沙機の能力は、格闘という枠組みで最も効果を発揮する。
だが、今回は。
むしろ情報の洪水の中で、利を得る。
それが、沙機の勝機。
「次はどんな料理を見せてくれるんですか!?」
「じゃあ、こんなのはどう!?」
こちらの”攻撃圏”に飛び込む。
それが、相手の勝機。
沙機が、左手の肘から先を射出する。同時に、敵が動いた。
プレス機を挟んだ沙機は追うように、相手の少女が平行移動する。
そのまま、スライディングするように少女がしゃがんだ。
プレス機という垣根に沈み、料理人の姿が消える。
射出した左手が空を切った。
(見えない)
沙機の能力『セパレート・マグネジョイント』は手足の関節部を分離する能力。
手足は自動追尾ではない。磁力めいた引力斥力で滞空コントロールをしているだけ。
視界が遮られることは攻撃ができなくなる。
(対応力が高い!それにこの地形。やはりリングのようにはいかない)
「追いかけっこは得意!?」
沙機もまた、姿の見えぬ料理人の影を追うようにプレス機のラインを平行移動する。
姿は見えない。
が、音は聞こえる。
レンチ、鉄板、ボルト、金具。
コンクリート床に散乱する工具類を押しのけながら、対戦相手がプレス機を迂回してこちらに迫ろうとする意図はくみ取れる!!
「そこ!」
手の射程は凡そ5m、足の射程は凡そ7m。分離点は間接部位に依存し、射程以上は伸ばせない。
だが、初撃不意打ちの右手は未だ滞空させていた。
相手が平行移動して迂回するなら。
薙ぐ動きで払いのける!!
—Eat it!—
棒棒鶏。
新鮮な食材の中に混ざるエスニックな香りが食欲を刺激する。
茹でた鶏むね肉にレタスとトマト。
そして、ピリ辛ゴマダレ。
「四川料理とは……」
沙機は、その料理を見て当惑する。
そして、目の前の料理人を見る。
「これ……」
「どうぞ、召し上がってください」
「あなたが作ったの?」
少女は、不敵に笑う。
沙機は、その棒棒鶏を一口含んだ。
「五香粉……!陳皮や桂皮の代用にしたのね……!」
「ありあわせの食材で作ってみました」
「エスニックだけど、日本人にも食べやすい……。!」
—Beat it!—
鈍痛。
鉄の塊を殴ってしまったような。
「ッ」
痛み。
想定外。
当惑。
錯綜する情報を、沙機は極めて冷静に処理する。
(反撃を受けた!こちらから攻撃したつもりが!?)
沙機は自らの迂闊さを理解した。
相手の姿が見えていないが、相手には自分の右手は見えている!
すなわち、滞空する右手に、打撃を加えられた。
その証左に。
床に転がる鉄パイプを棒高跳びのように垂直に突き立て、こちらに飛び込む対戦相手の姿が見える!!
(なるほど、私が殴ったのは、敵ではなく鉄パイプ!)
先ほどの棒棒鶏は、自らが鉄パイプを殴らされたゆえであると確信する。
「環境利用闘法!」
「懐に飛び込ませていただきまぁす!」
沙機は、むしろ笑った。
—Eat it!—
牛タン赤ワイン煮込み。
クローブの量は抑えめに。
「バランスが……!」
料理人が当惑する。
とっさの料理にしては、あまりにも繊細なバランスの上に成り立つ料理であるが故。
空中戦で振る舞うにしては、あまりにも。
プロフェッショナル。
「味のコク、肉の程よい柔らかさ。どれをとっても一級品」
「まだまだ」
「……ッ!」
「私はこんなものじゃない。どんどんかかって来て!」
—Beat it!—
鉄パイプを棒術に見立て棒棒鶏を振る舞ったはずの少女が、沙機の懐に飛び込む前に吹き飛んだ。
工場内に設置されたプレス機のラインは、沙機にとって「一足で跨げる程度の障害物」でしかない。
左足を射出しながら踏み込み、飛んだ。
残る右足で相手の肩を突いた。
そのまま、プレス機ラインのベルトコンベア上、相手に向かい合うように着地する。
「まだまだ」
「……ッ!」
「私はこんなものじゃない。どんどんかかって来て」
両者ともにベルトコンベア上に着地。
総計12mという異常射程の前に、一足一刀の間合いは適用されない。
沙機は、改めて考える。
これは、いかに攻撃圏を制するかの勝負だ。
*観客席*
観客席は、混乱と歓喜の渦に包まれていた。
その声は二つ。
「あの沙機は本物」
伝説の異種格闘技試合、プロレス・ビビアンコングとの一戦を髣髴とさせる大立ち回り。
そしてもう一つ。
「あの少女もまた、本物」
正体不明の新人ファイターだが、環境を利用した闘いそのものへのこだわりは、むしろベテラン以上。
「おいおい愛甲よ。これはひょっとするとお前の目論見以上かもしれんぞ」
神威が、嬉しそうにかつてのライバルに声をかける。
「あの娘はいったい何者だ?踏んでいる場数が、明らかに多すぎる」
「ああ。そしてタフすぎる」
愛甲もまた、実に嬉しそうに試合の趨勢を見守る。
「いったい誰が、あんな逸材を連れてきた?」
「お隣、よろしいかな」
その時、半裸の老人が二人の横に座った。
二人は、その姿に身を見覚えがあった。
「あ……!味帝(あじみかど)様!」
愛甲は、突然現れた大物に驚きをあらわにする。
僭称皇帝・味帝(あじみかど)。料理界の生きる不敬罪と呼ばれる重鎮だ。
「料理界の生きる不敬罪と呼ばれる男がなぜここに……!」
「私も魔人闘技会の会員とやらになってみたくてね。それより、あの子のいびつな経験値の秘密を知りたくはないかな?」
*ヒミコ*
工場内に設置された古いプレス機と、それに併設されたベルトコンベア。
その長さは、凡そ200M超。
幅は人が一人立って足りるくらい。
—Eat it!—
スズキの和風冷製サラダ。
「なんて手の込んだ下処理!わさび醤油が魚の風味に合う!」
—Beat it!—
ジャブ。
「ぐっ」
—Eat it!—
湯豆腐。
「白ネギを……!ここまで活かすとは!!」
—Beat it!—
裏拳。
「がッ」
—Eat it!—
卵焼き。
「触感と密度が違う!?どうすればここまでの卵焼きを!?」
—Beat it!—
前蹴り。
「ああっ!?」
ベルトコンベア上の殴り合いは、沙機の独壇場だった。
引くことも、進むこともままならない。
まさに、怪物。
「近づけない」
(避けることすら精一杯)
沙機の歩幅は、実のところ足の分離射程限界7mにとどまらない。
射出と同時に地面を踏み込むことで、斥力磁場を利用した跳躍ができる。
それを成立させるのは、沙機自身が培った微細な身体感覚バランスだろう。
一歩下がれば、五歩詰められ、一歩踏み出せば、五歩詰められる。
ヒミコは、目の前の怪物が、映像で見た本物に相違ないことを改めて確認した。
「夢見たいですよ……こんな繊細な料理を、こんなにも」
「ありがとう。あなたも相当タフね。胃袋に限界はこない?」
正道で、勝ち目はない。
料理は心。
ならば、全霊を以てもてなす。
邪道(スパイス)を含めての、真の正道(素材の良さ)。
ヒミコが蹴りを繰り出す。コンベア上に散乱した工具、六角レンチが弾け飛ぶ。
沙機は容易に避ける。
と、同時に沙機はバックステップ。
—Eat it!—
強火の鉄板の上で油が爆ぜる。
包丁を鉄板上に嶺打ちするたび、蒸気とともに肉汁があふれ出す。
「鉄板グリル!!?」
—Beat it!—
「踵落とし!!?」
バックステップと同時の、踵落とし。
ヒミコは頭上で両手を交差させ、沙機の右足を受け止める。
重い。
これまでの比ではない程に、一撃が重い。
だが。予測可能な攻撃。
(なんて贅沢!)
ヒミコは、映像で見た動きを思い出す。
世紀の一戦。沙機 vsビビアンコングとの異種試合。
身長10mの規格外を屠った、一連の動作。
(来る!)
ヒミコは、頭上からの一撃をしのぐ為、両腕を頭上で交差させている。
ゆえに。
沙機の次の一撃は、がら空きの顔面に対して、となる。
(予測できる!)
沙機が構えた瞬間。
ヒミコが、レシーブの要領で先の右足を跳ね飛ばす。
『ビーーーーーーーー!』
警告音が鳴る。
続いて、コンベア横に取り付けられた配管の割れ目から蒸気が噴く。
両者の間に古びた工業用油の入り混じった黒い水蒸気が立ち込める。
輸液ポンプから油が漏れだし、コンクリートの床に滴り落ちる。
そして。
ベルトコンベアが動き出した。
「賭けですが、うまく動いてくれました」
「六角レンチ、もしかして私に当てるためじゃなくて、後ろの起動ボタンに当てるため?」
「はい!コンベアはあなたの背中方向に動きます!」
「そう、器用ね」
コンベアが動く。
起動したラインは沙機を後方へ追い流す。
ヒミコは、一足先にコンベアから跳躍。コンクリートの床の区画に着地した。
ヒミコは考える。
コンベアの起動タイミングが早すぎた。だが、調理行程に修正はない。
来る。
(やはり、来る)
沙機の必殺技。
コンベアは動き、両者の距離は遠ざかる。
距離約5.5m。
足刀のみが届く範囲。
その瞬間、ヒミコは前方へと駆けた。
距離約5m。
そして、拳が飛んだ。
—Eat it!—
極上のサーロインステーキ。
西洋わさびを添えて。
「シンプルに……美味すぎる!!!」
—Beat it!—
沙機の必殺技。
それは、シンプルな突き。
ヒミコは、わざと踏み込んだ。
沙機は、即迎撃した。
ギリギリで避けたつもりだったが、頬を掠った。
さらに、ヒミコは距離を詰める。
約4m。
今なら、拳を掴める!!
—Eat it!—
極厚切りラムチョップのハーブグリル。
「メインディッシュが一品だけだと思った?」
「に、肉の連撃……ローズマリーとタイム!!!これが欲しかった!!」
—Beat it!—
ヒミコが吹き飛んだ。
ゴロゴロと床を転がり、壁面に激突する。
「直撃を……避けた」
驚いたのは沙機。
「5m……!」
ヒミコは、理解する。
射程測定。
拳の飛距離は約5m。
足はおそらくそれ以上。
「沙機さん……」
ヒミコは不敵に笑う。
「今から、伝説を料理させていただきます」
すべての具材がそろった。
ここから、ヒミコの料理が始まる。
*観客席*
「今、当たりに行ったか?」
熱狂する観客席の只中で、神威は呟いた。
「攻撃圏だ」
愛甲は語る。
「沙機の能力は、磁力のような独自の力場によって手足を射出する」
「つまり、そもそも踏み込みの概念がないのか」
「それだけじゃない。引力斥力で推進する手足は、むしろ飛距離が増すほどに威力を加速させる」
すなわち。
沙機の攻撃は、射程圏ギリギリが最も強い。
「あの少女は、それを確かめに行ったんだ」
「だが、やはり何者だ?そんな測定、実行するには危険すぎる。なにより、初心者臭い少女が、ああもベテランのような対応力を見せている理由がわからん」
二人は、僭称皇帝・味帝(あじみかど)を見る。
味帝(あじみかど)は、不敵な笑みを浮かべた。
「儂もそのことが気になってな。あの少女と契約している会員を探そうとしたが、見つからなかった」
「そうなのか」
「だが、今回の試合直前に彼女を呼びに行ったスタッフは見つかったよ」
味帝(あじみかど)は得意げに説明をする。
「スタッフが言っていたよ。あの少女、試合直前におかゆと炭酸抜きコーラ、そしてハンバーガーを口にしていたそうだ」
「そうなのか」
「ただのおかゆと炭酸抜きコーラ、そしてただのハンバーガーではない。これが何を意味するか分かるかね」
「いや」
おかゆと炭酸抜きコーラは、格闘技の試合前に取る食事としてはベストなチョイスだ。
だが、それだけではない。
「考えても見てくれたまえ。彼女は全ての攻撃を食事に変換しているのだよ。その逆もあり得るとは思わないかね?」
「あっ!」
「そう、食事自体はごく普通だ。しかし、彼女は一日三食、つねに激闘を繰り広げながら栄養を補給している!!!」
「!!!」
ヒミコは、しあわせ料理人(バトルジャンキー)だ。
それは、彼女が最低でも一日三回の戦いを経験することを意味する。
「そう考えれば、彼女のいびつな経験値にも説明がつく。実戦経験の乏しさのわりに、彼女は闘いを知りすぎているのだ!!あの少女と契約している会員が誰なのか、とても気になるね……」
味帝(あじみかど)は、思慮深げな表情で呟いた。
*沙機*
料理人が逃げる。
油液、工具をまき散らし、コンクリート床を駆け抜ける。
配管を壊し、蒸気を噴出させながら、駆ける。
沙機は、追う。
当然追う。
(視界の情報量が多い!)
ここで、沙機は初めて、本気での移動を試みた。
脚射出。
床を蹴った。
瞬間。
沙機の姿が、プレス機三台分、横へ滑った。
料理人から、あえて離れる。
料理人の戦慄する顔を、沙機はなおも捉えていた。
速さゆえにではない。
「位置が分からない!」
叫ぶ声が聞こえる。
重心
軌道
インパクト
バランス感覚。
沙機は、生まれながらにそれらの天才である。
過去の試合の記憶は、沙機に刻まれている。
だから、出来る。
飛んだ。
床を踏むと同時に、沙機は跳躍した。
その踏み込みは、純粋に高さを求めたものであり、沙機の肉体は10メートルはあろうかという遥か頭上、蜘蛛の巣のように組まれた鉄骨トラスへと到達する。
そのまま、鉄骨伝いに、天井に吊り下げられた巨大クレーンを掴む。
情報をいったん整理し、俯瞰視点で見下ろすため。
次の瞬間、ガラスと金属がけたたましくぶつかる音が鳴った。
眼下を見下ろすと、料理人が鉄パイプをプレス機にぶつけて打ち鳴らしている。
まるで、「自分はここにいるぞと言わんばかりに」
(思考をする暇を与えないつもり?)
目が合った。
次の瞬間。思考をする余地もなく、沙機は天井のクレーンから跳躍。
料理人の背後へと着地した。
横に並んだプレス機ラインとの隣。
油と工具の散乱したコンクリート床の上で、二人は再度邂逅した。
距離は約5m。
ジャブ。
避ける。
ロー。
軽くいなす。
(私の動きに……対応している!?)
ストレート。
避ける。
ミドル。
避ける。
(距離をつかまれている……!)
裏拳。
払われる。
(陳腐な表現だけど……戦いながら成長している!)
「沙機さん」
「良い……!」
料理人は、笑う。
沙機も、笑う。
「勝つつもりで、来て」
「殺すつもりで、行きます」
距離は約5m。
先ほどの、ベルトコンベア上での応酬の再演。
「死なないでください」
「貴方もね」
コンベアは、まだ動いている。
沙機放ったのは、渾身のストレート。
必ず殺すと書いて、必殺の技。
その腕を、料理人は掴んだ。
(コンベア上の応酬の再演だ)
沙機が予想した料理人の策は、コンベアを用いた『腕の引っ張り』。
コンベアはいまだ動いている。
先ほど、料理人が、やろうとしたのはそれ。
今、狙っているのもそれ。
沙機の腕を、料理人が掴んだ。
*実況席*
なんだこれは……
あり得ない……
*観客席*
その日、魔人闘技会の会員たちは。
あり得ない光景を見た。
衝撃に絶句した観客たちの沈黙が、一瞬で観客席を飲み込んだ。
*ヒミコ*
沙機の腕を掴んだヒミコは、その腕を抱えるように『後ろに倒れた』。
距離約5m。
ただし、先ほどまでの乱闘により、床面は油液にまみれていた。
ベルトコンベアはブラフ。
ヒミコは腕を抱え倒れつつ、油で滑りながら、沙機から一気に距離を取った。
ごく単純なヒミコの策が功を奏した。
次の瞬間、あり得ないことが起こった。
沙機のセパレート・マグネジョイント。手の分離限界は約5m。
空間そのものを切りはなしたそれは、射程距離以上は伸びない。
あり得ないことが起こった。
伝説の女王、沙機が、『転んだ』。
それは、人類史上誰も目にしたことのない、天変地異だった。
事故だった。
名もなき新人が。
伝説を、崩した。
「あっ」
ヒミコは、腕ひしぎの体勢で床面を滑走する。
沙機は、咄嗟に足を踏み出し、自分自身の肉体を射出する。
むしろそうせざるを得ない。転んだとき、両足はヒミコとは必ず逆方向を向く。
ヒミコに追いつくために、自分自身を射出せざるを得ない。
超一流であるがゆえに。
(ここまでは予想通り)
腕を引っ張れば崩せることも予想通り。
本体を射出して、崩れを攻撃に転換することも予想通り。
ヒミコは滑りながら、腕を脇に挟み、腰をひねり、全体重を乗せる。
逆方向に負荷のかかった沙機の関節が、ぐしゃりと嫌な音を立てた。
—Eat it!—
「筑前煮カレーの中華風です」
「そう……ガラムマサラに五香粉をあわせたのね。でも、微細なバランスは崩れやすいはず」
「隠し味は、からし酢味噌です。酢味噌のまろやかな辛みは、スパイスの調和を生み出すんです」
—Beat it!—
「があああああああああ!!!!!!!!」
解放骨折の痛みで、沙機は床面を滑走しながら叫んだ。
だが、混乱する状況下で、それでも沙機は慣性を利用してヒミコに突っ込んでくる。
沙機は情報量の増大についていけない。
ヒミコは工場の壁面に到達すると、体全体を少し横に捻った。
そのまま、沙機が猛烈な勢いで突っ込んでくる。
そう、突っ込んでくる。
—Eat it!—
アクアパッツァ。
「これ……私の?」
近くには、誰もいない。
「あの子はどこ?」
—Beat it!—
事故が起こった。
高速で突っ込む沙機の頭部と、ヒミコの抱えた沙機の腕が正面衝突した。
「ああああああ!!!!???????があああああ」
右手の指は全損。
混乱の極致に沙機の視界は揺れ、三半規管は壊れ、思考は停止した。
*観客席*
「沙機いいいいいいいいいいいい」
スティール愛甲は叫んだ。
「お前は最強だ!!!お前の強さは、泥臭さだ!!!!!」
スティール愛甲は叫んだ。
「勝て!!!!沙機!!!!!」
スティール愛甲は叫んだ。
*沙機*
痛みと混乱の中で、沙機は確かに愛甲の言葉を聞いた。
だがそれは、混濁する記憶が勝手に齎した、試合前の一幕だったかもしれない。
『どれだけ泥臭くとも』
『勝ちを拾いにいく姿だ』
だけど本当は。
飲み込んだ言葉がある。
「私は……」
沙機は、確かに呟いた。
「私はちゃんと、沙機をやれてる?」
目と目の合う極至近距離で、床に転がりながら、料理人は確かに沙機の問いに答えた。
「はい!あなたは間違いなく沙機です!」
二人は、もつれながらかろうじて立ち上がる。
「優しいのね」
「そう言っていただけると、光栄です!」
「名前は?」
「ヒミコです!」
片腕は壊れ。視界も揺れる。
それでも、立つ。
向かい合うのは料理人(かくとうか)ヒミコ。
相手にとって不足なし。
構え、立ち向かう。
持ち込まれたのは、至近距離の武芸。
首相撲。
沙機の強みは、まだ完全には死んでいない。
沙機に、投げ、極めは通用しない。
それは、手足の関節を分離できる特有の能力のため。
至近距離でも、沙機は変わらず最強。
—Eat it!—
チョコアイス。
「随分と……甘いのね」
「はい!でも」
「でも?」
「この味は、あまり味わったことがないのでは?」
「確かにね……」
—Beat it!—
肘うち。
ヒミコの肘が、沙機の額を切り裂いた。
沙機は手足の分離という特殊能力故、関節を用いた技術全般に強い。
加えて、遠距離での圧倒的有利。
それは、キャリアに比して密着状態での修羅場経験値が少ないことを露呈させた。
(とっさの判断で、肘うちという選択肢が出てこなかった……?)
沙機は、自分自身に当惑する。
その隙を、ヒミコは逃さなかった。
—Eat it!—
握り飯。
「味の決め手は?」
「塩……ですよ!」
—Beat it!—
ヒミコが見せたのは。
柔道、『ブラッディ・キャサリン』の。
肩車。
「毒……ですよ!」
沙機を持ち上げたヒミコが、掌底に仕込んだ毒針を沙機の首に突きながら持ち上げる。
一瞬の硬直。体が動かない。
「死なないでくださいね」
そのまま、コンクリートの床に、沙機の頭部が叩きつけられた。
動かない。
伝説が、後頭部から血を流して動かない。
ヒミコが、静かに息を整え、残身する。
「ごちそうさまでした!」
その声は、廃工場の中で大きく響き渡った。
*実況席*
決着!!!
決着です!!!!
勝者、しあわせ料理人(バトルジャンキー)、ヒミコ!!!!!!
*観客席*
伝説の轟沈に、観客席は悲喜こもごもの歓声に包まれた。
ある者は興奮し。
ある者は悦び。
ある者は泣き。
そして、スティール愛甲は笑っていた。
「伝説の終わりだと……?馬鹿言っちゃいけねえ」
「おい、愛甲……?」
神威が止めるのも聞こえない様子で、フラフラと観客席を後にする。
「これは、始まりなんだ」
廊下を歩きながら、フラフラと控室へ向かう。
「そうさ。始まりだ」
「……」
スマートフォンが鳴っている。
「新たなる伝説の始まりなんだ。そうだろ?」
「……」
「『伝説の再来、沙機のリベンジ伝説』!これから新しい伝説が始まるんだよなあ?」
「……」
「だからよ。俺ぁまだあの世にはいけねぇよ」
「……」
スマートフォンが鳴っている。
そして、控室の扉に手をかける。
そこには、沙機がいた。
「申し訳ありません、愛甲。負けてしまいました」
愛甲は、スマートフォンを放り出して沙機に駆け寄った。
*ヒミコ*
試合会場である廃工場から戻ったヒミコは、控室前で半裸の老人と出会った。
「サイン……書いていただけるかな」
「ええ!喜んで」
半裸の老人の胸に油性マジックでサインをする。
「オジサン誰です?」
「私は味帝(あじみかど)。味の皇帝を僭称する、しがない罪人さ」
「んー、よくわかりません」
「じゃあ、君のファン第一号ということでどうかな?」
「それなら喜んで!」
その時、ヒミコのと契約している会員が駆けつけた。
「ダメだよヒミコくん。変な人と話をしちゃ」
「お近づきのしるしに、この大福でもどうかな」
「では遠慮なく」
—Eat it!—
—This is it!—
最終更新:2026年05月25日 19:42