プロローグ

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プロローグ


東京某所、WL本社ビル58階・取締役室。
七葉樹落葉は一面ガラス張りの壁越しに広がる星空のような夜景と、眼下に聳える
巨大な円形闘技場を見下ろしていた。その眉間には14歳という年齢にそぐわない、
鹿爪らしい皺が刻まれている。少女は固く組んでいた両腕を解き、首元に下がった
懐中時計の鎖を掴むと、黒いレースとフリルに沈んだ真鍮が擦れて控えめな音を立てた。
ビジネス用ダークスーツの原型を止めない程に装飾を施したゴスロリ風ドレスは、
落葉の心を守る戦闘服であり、また亡き両親を偲ぶ為の喪服であった。
年季の入った黄銅の懐中時計は父の形見である。黒ずんだ上蓋を開け、時刻を確かめる。
午後7時59分。落葉自らが毎日手入れをしているこの時計は、1秒の狂いも無く
正確に針を回し続けている。
短針が微かな音を立てて8の字を指した瞬間、樫材の重厚なドアがノックされた。

「……入りなさい」

一拍の間を置き、努めて低く抑えた声で応答する。
黒衣に威厳を纏わせ、少女の眼光が刀の如き鋭さを露にした。

「失礼致します」

落葉の声色とは対照的に、何の気負いも感じられない口調である。
物音一つ立てずに入室した女は、毛足の長い絨毯を静々と踏み、少女と対面した。
涼しげな目元の中心にはどことなく胡乱な暗銀色の瞳。形の良い口の端を曲げた薄笑み。
ぴったりとしたレディースーツがスタイルと姿勢の良さを際立たせている。
落葉は後ろに組んだ手の力を僅かに強めた。
その女――目高機関のエージェント、銘刈耀は静かに口を開いた。

「早速ですが本日の経過をご報告させて頂きます。
 まず試合場の準備は概ね完了、転送術式も正常に作動しています。
 参加選手の招待も順調に進んでおります」

事務的な口調とは裏腹に、銘刈の表情はどこか隠し事を楽しむ子供のような
喜色が浮かんでいた。慇懃無礼を絵に描いたようなこの女の常であるが、
その顔はいつも落葉を苛立たせる。

「人員は?」
「現在エントリーしている選手数の3倍を想定して動いています。
 宿泊、交通、通訳、及び治療班……全て恙無く」
「そう」

落葉は短く答えて銘刈の微笑から視線を外し、ガラスの壁に向き直った。

「何か問題は?」
「強いて申し上げるなら、好戦的な選手同士の小競り合いが頻発しています。
 ですが……」
「それで死ぬようなら、所詮そこまでの器よ」
「左様でございますね」

銘刈は半月状に眼を細め、恭しく答えた。
落葉の冷酷な物言いは経営者としての思考が如実に現れている。
大会前のつまらぬ喧嘩で命を落とす様な輩が試合場に立つ資格は無い。
少女の険しい視線は廃墟じみた風情のコロッセオに落とされたままだ。

「なるべく選手間の顔を合わせないように配慮して、
 死人が出たら適当に治療して帰しなさい。他には?」
「そうですね、個人的な質問が一つ」
「……何?」

落葉が怪訝な表情を向けた。
銘刈の表情や声の調子は、最初に出会った頃から今に至るまで全く変わらない。

「お嬢様は何故、大会の運営を引き受けたのですか?」
「…………、お前に答える必要があるのか?」

少女の声が一層低く、くぐもって響いた。
殆ど怨嗟の念と言える殺気を込めて銘刈を睨みつける。
長身の女は謎めいた笑みを浮かべたまま、黒衣の少女を泰然と見下ろしていた。









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「これはチャンスよ」

数ヶ月前。
黒檀の執務机に目高機関からの指令書を投げ、落葉はきっぱりと言った。
傍らには彼女の秘書、森田一郎が直立不動の姿勢で待機している。

「世界中の強者を集めて、真のナンバー1を決める大会……復興なんて建前を
 使ってるけど、本当の目的が目高の戦力増強である事は疑い様が無いわ。
 あのパンデミックの首謀者もまだ見つかってないし、焦りがあるようね」

森田は腕を組み直して小さく首肯した。世界中に蔓延したウィルスが
1人の魔人によって産み出されたという事実は、目高機関を始めとする
高位の権力者達にとっては既に常識である。
それはつまり、いつ何時新たなウィルスがばら撒かれるかも解らないという
事実を指し示していた。
世界の均衡を計る目高機関にとって、目下これ程の脅威は無いだろう。

「大会に参加出来るのは選りすぐりの猛者達だけ……これを利用しない手は無いわ。
 目高に先んじて選手とコンタクトを取り、こちら側に引き込む。
 銘刈を、あの女狐を出し抜いて、目高とやり合えるだけの戦力を確保する」

落葉は力強く拳を握り締めた。その眼には5年前のあの日、核攻撃によって両親を
失った理不尽な運命と、七葉の遺産を狙うハイエナのような資産家達、そして
己の首に手綱を巻いた目高機関に対する憤怒が赤々と燃えていた。

「わたしは仇を討たなければならない。
 死肉に群がる地蟲の如く父様の資産を喰い荒らした恥知らずどもを踏み潰す。
 漁夫の利を得たつもりでいる目高を内部から支配し、わたしに首輪を付けた事を
 心の底から後悔させてやる。そして、父様と母様を焼き殺した連中に応報する。
 必ず、どんな事をしてでも、その罪の深さを思い知らせてやる」

落葉は決断的に言い放った。自らに、森田に、亡き両親に誓うように。

「その為には森田、あなたの力が要る。あなたの政治力が、判断力が、暴力が要る。
 お願い、どうかわたしを助けて。わたしが奴等の全てを支配するか」

少女は黒い瞳を爛と光らせ、秘書の三白眼を真っ直ぐに見つめた。

「わたしの全てが滅ぼされるまで」

その声に世界有数の財閥を束ねる七葉の長としての威厳は無く、
ただ14歳の少女の哀願が籠められていた。
沈黙を守っていた森田は、静かに口を開いた。

「お嬢様がそう仰られるのなら、わたしが反対する理由はありません。
 我が身に何かあらば娘を援けてくれと、貴女の亡き父上は私に命じました」

淡々としながらも力強い口調だった。落葉はゆっくりと目を瞑り、開いた。
前七葉樹代表の死が伝わると同時に、あらゆる勢力に先んじて落葉の元に
駆けつけたのは森田だった。爾来彼は身を粉にして落葉に尽力している。
地獄の最中に放り込まれた少女が生き残れたのは、偏に彼の功績である。

「…………ありがとう」

落葉は暫くぶりに、心からの微笑を浮かべた。










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「目高の狗であるお前に、答える必要があるのか?
 わたしは目高の駒で、傀儡だ。その答えをわざわざお前に語る必要は無い」
「左様でございますね」

思わず舌打ちが漏れた。あからさまに無礼な物言いであるにも拘らず、
嫌味や皮肉の欠片さえ感じさせない相槌はいっそ感心したくなる程だ。
この女はどんな挑発でも落葉が堪えねばならない事を知っている。
自覚している通り、落葉は目高の駒だからだ。七葉を統率する立場にあるとは言え、
駒の代わりは作れば良い。落葉は『取り敢えず』で七葉を任されているに過ぎない。
室内の空気が急激に乾燥し、身動ぎ一つで破裂しそうな緊張感が充満する。

危うい均衡に割って入ったのは、軽いノックの音だった。

「……入りなさい」

分厚い扉の影から現れたのは、トレンチコートを着込んだ長身の男だった。
厚着の上からでも見て取れるがっしりと筋肉質な体躯。
落葉のそれより遥かに鋭く冷たい視線が、銘刈の後姿を射抜いた。

「それでは、私の報告は以上でございます」

計ったようなタイミングで、銘刈が何事も無かったかのように話を切り上げた。
落葉は眉間に皺を寄せたまま鼻から息を吐いて言った。

「ご苦労。下がって良いわ」

銘刈は深々と一礼し、その場で反転して、今入室してきた男――森田一郎の姿を認めた。
一瞬、胡乱な瞳と冷徹な視線が交錯する。挨拶代わりの笑みが黙殺されると、銘刈は
残念そうなジェスチャーで僅かに肩を竦め、ドアノブに手をかけた。

「それから」

不意に落葉が射竦める様な低音を浴びせた。

「わたしをお嬢様と呼ぶな」
「……これは、失礼を致しました」

銘刈は茶化すでもなく、慇懃に一礼して部屋を去った。
両親の死を間近で目撃して以来灰色と化した髪を解きながら、落葉はぐったりと机に  
もたれかかった。精神力によって抑えていた汗が一気に吹き出て、
額に前髪が張り付いた。森田が素早く傍に寄る。

「大丈夫……大丈夫よ。ちょっと疲れただけだから」

落葉は片手を振って無理矢理に笑顔を作った。
交渉に関しては妖魔の如き手管を持つ銘刈耀と相対するという仕事は、
未だ発展途上の落葉にとって並々ならぬ負担であった。

「今日は……もう寝る……寝室に……連れて……」

言葉の途中で、少女は事切れるかのように眠りに落ちた。
前のめりに倒れ掛かった落葉を抱きとめた森田は、同年代の平均と比べても
一際小さな彼女の体の軽さに驚きを禁じえなかった。
彼は敬虔な宗教者めいて伏目になり、落葉の前髪をそっとかき上げた。
無防備に寝息を立てる少女の顔は、先程銘刈とやり合っていた際の表情とは
似ても似つかぬ程安らかで、森田はそのギャップに戸惑いつつも、
微かに口角を綻ばせるのだった。