ぽとり、ぽとり、ぽとり。
水音。
定期的に、小さく、無機質な響き。
茫洋とした意識に、ただメトロノームの様な正確さでそれが聞こえてくる。
視界には薄膜。
ぼんやりと、おぼろげな白い輪郭が見え隠れしている。
――― 被験者の諸君。
その曖昧な輪郭の世界に、暴君の如く威厳を持って、声が入り込んでくる。
あまりにもろい意識の境界を突き破るそれは、こちらのことなど構うことなく言を連ねる。
――― 今、諸君等に注入されているのは、 "変異型
T-ウィルス" と、その効果を遅らせる抗ウィルス剤の入った "
アンプル" だ。
声の響きは圧倒的。
だが、その声音はあくまで理性的で、また、機械的だった。
――― 諸君等はこれから実験に参加して貰うわけだが、その際支給される "アンプル" に注意して貰いたい。
実験…アンプル…ウィルス…?
言葉の意味は知っているが、それが何を意味しているかは分からない。
いや、分かっているように思うが、そこに意識が届いていかない。
霧深い窓の外に、確実に存在しているはずの何かに、手が届かないのだ。
――― 君たちの右腕に、信号式のキーがつけられた腕時計を着けておく。この信号で、ここにある ………
白い影が、何かを手にして掲げた…様に思えた。
――― …特殊合金の黒い箱を開ける。全ての箱は異なる信号に対応しているから、他人の箱は開けられない。
この箱の中にあるアンプルを、必ず6時間毎に注射してもらう。
そうしなければ、 "変異型T-ウィルス" は諸君の体内で急激な成長を遂げ ―――
急に鮮明になった視界の中で、何かがはじけた。
赤黒く、どろりとした飛沫が、目の前の膜………いや、透明な板状の小窓に降り注ぎ、垂れる。
――― このようになる。
そこで不意に、自分の今の状況が分かる。
まるで棺のような白いケースの中で、斜めに寝かされている。
顔の前の部分にだけ、30cm四方ほどの小窓が取り付けてある。
両手両足は固定され、まるで動けない。
首筋に管のついた針が刺され、液体 (ウィルスとアンプル?) が注ぎ込まれている。
そして、目の前の小窓の向こうに…かつて人であった物体があった。
パニックを起こし、とにかくこの場から離れたいと両手両足を懸命に動かす…事は、かなわなかった。
だらりと弛緩した身体は、たとえ拘束されていなくともまともに動かせなかっただろう。
それから、次第に意識が遠くなっていく。
――― 目が覚めたら、時計を確認する様に。
実験の終了は48時間後。
今打っている"変異型T-ウィルス" が活動を開始するのはおよそ6時間後。
そして君たちが目覚めるのも6時間後。
つまり、目が覚めてから約6時間の内にアンプルを打つ必要がある。
念のために言って置くが、一度に大量のアンプルを打っても、効果は変わらない。
体内に注入してから6時間だけ、抗ウィルス作用がある。
くれぐれも、無くしたり打ち忘れたりしないよう ―――。
この白い棺桶の中に取り付けてあるスピーカーから聞こえる声が、次第に小さく、か細く、そして終いには聞き取れぬほどのものとなり…同時に、意識も又、ホワイトアウトした。
――― 健闘を祈る。
音が、僅かに聞こえる。
空気が揺らぐ音。火の燃える音。風の音。何かの動く音。うめき声。
覚醒は急速で、速やかなものだった。
僅かに頭痛がするが、意識ははっきりしている。
上体を起こすと、棺桶が開き、簡素な医療用の台に乗せられた状態。
血管に刺された管を外し、辺りを見回す。
空。すがすがしいほどに晴れやかな青空が、壁に定間隔で取り付けられた窓から見える。
吹き抜けの広いホールだ。
赤い絨毯が敷かれ、重厚な扉が四方にあり、真ん中には階段。
なかなかに豪華な館の佇まい。
眉根をしかめて、身体を見る。
両手の手首に拘束の跡がかすかに残っているが、既に自由だ。
右の手首には腕時計状のシルバー。
見ると、数個のボタンと、アナログ式の時計盤と針に方位表示。そしてデジタルタイマー。
思い出すのは、あのときの機械的な言葉。
「6時間の内に、1本のアンプルを打たなければ死ぬ」
心臓に氷を打ち込まれたように悪寒が走る。
見回して、ウエストポーチとディバッグを見る。
ポーチを開くと、中に黒くてメタリックな小箱。10㎝×20㎝ほどのそれはまるで継ぎ目がないかに固く閉じている。
同じく中にあった手帳を手に取り、中を見ると、「
ルール」 と 「取扱方法」が書かれていた。
この小箱は、腕時計の電子キーに対応していて、押し当ててボタンを押すことで開く。
耐震耐熱対衝撃構造の箱の中にあるアンプルは、一方をただ身体に押し当てて押すだけで、体内に抗ウィルス剤を注入するという。
箱の一面に、ナンバーが彫り込まれていた。
再び腕時計を見ると、やはり同じナンバーが彫り込まれている。
説明書の記述を信じ、ナンバー同士を向き合わせて、横のボタンを押す。
カシュ、という様な気の抜けた音と共に、箱が開いた。
外側から3センチほど間隔の開いた内枠に、赤いベルベットが張り合わされ、一本一本小分けに並べられたうす茶色の容器。
抗ウィルス剤の入ったアンプル。
ひとまず、それがあること安堵し、息を吐いて右から左へと視線を流してから。
再び、息をのんだ。
3本。
中にあるアンプルは3本。
7本分のスペースがあるのに、空きがある。
実験は48時間で、今から6時間分は既に打たれている。
4本足りない。
この3本を定時に打ったとしても、18時間分しかない。
だから、24時間後には、必ず ―――。
叫び声が辺りにこだました。
手帳に書かれていたルール… "但し書き"。
この実験は、48時間後に終了する。
それまではこの閉鎖された "実験場" の中で何をしても良い。
逃げ出す? 問題外だ。抗ウィルス剤が打てなくなれば待つのは死のみ。
ただ呆然と過ごす? それも問題外だ。手持ちの抗ウィルス剤は1日分しかない。
だから、「何をしても良い」。
そこから、この実験の本質に至る道筋は簡単だ。
簡単で…吐き気を催す。
デイバッグの中にある様々な備品。
水や、軍用の物と思われる6食分の携帯レーションの他にあるもの。
武器、だ。
"但し書き"は続ける。
実験場内では何をやっても良い。
被験者同士のトラブルには一切関知しない。
いくつかの場所に、"あるいは" 抗ウィルス剤を含めた追加備品が隠してある"かもしれない"。
かつて"被験者だった者"の幾人かは、抗ウィルス剤を持っている "かもしれない"。
実験場内でアンプルを探し出す ――― あるいは、"奪う"。
それ以外には、24時間後にも生き続けているという可能性は、無い。
私は ――― どうするべきなのか?
手に握られたこれは、死をもたらす物。
ウェストポーチの中にあるのは、命を長らえるための物。
手帳の中にあったもう一つの情報 ――― 被験者一覧。
この実験に参加している全員のリスト。
そこにある、見知った名前…。
路地の影で、壁に寄りかかるようにして気配を伺っている。
ごくありふれた街並み ――― の様に見えるこの舞台 ――― は、まるで映画のセットのように生活感がない。
音はする。しかし、生活音ではない。
それでも、耳を澄ます。
足音。
規則正しくはなく、足取りは鈍い。まるで大怪我を負ったかのようなそれ。
鼓動が早くなる。
どうする?
怪我をしているのか?
だとしたら何故?
既に誰かに襲われたのか ――― 誰かを襲ったのか?
手の中のそれを確認する。
これで、自分は誰かを殺すのか?
何故? 生き延びるため?
何故? ウィルスの増殖を抑えるため?
何故? そもそも何故自分はこんな実験になど参加している?
ずきずきとこめかみが痛む。
記憶がはっきりとしない。思い出せない。
血流が流れ込み、意識が落ち着かない。
呼吸は速く、浅く、身体が震えてくる。
足音は近くなる。
呼吸が速くなる。
握る。
手の中の塊。
それを強く確かめ、そして。
そこにいたのは ―――。
(※これは企画スレの段階で出たOP試案2種類のうちボツになった方です。
そんなワケで本編とは一切関係在りません)
最終更新:2010年07月03日 18:37