カタン、と小気味良い音が響く。
チェック模様の盤の上。騎士が王の前へ躍り出た。
背後を城壁に鎖された彼には、もはや逃げる道はない。
"彼女"は王の頭をひとつまみ、静かに息を吐くと──花の笑顔を浮かべた。
「ふふ……私の負けですわ」
「その割に、随分と嬉しそうだ」
「ええ、楽しかったものですから」
僕の前にいる時、彼女はいつもこうして笑顔を浮かべている。
最も、僕の前にいない時の彼女を見た事はないのだけれど。
いや、"見た事はない"と断言すればそれは不正確か。
僕には記憶がない。
ここで目覚めて以来、ずっと傍を離れない少女は、もしかすると古い知己なのかもしれなかった。
あるいは、その甲斐甲斐しさを見れば、恋人や許嫁といった言葉も思い浮かぶ。
「君と僕は、どういう関係だったんだ?」
当然、こういう問いを投げかけた事はあった。
果たして彼女は、「今はまだ、お答えできません」と静かに首を振るばかり。
その答えに全く不満がないわけではなかったが、その時の彼女の笑顔が少し物寂しそうだったので、僕は追及することをやめた。
……何より、不安もあった。
僕には今、何もない。だからこそ、思い出したいと思う。自分が"何者でもないという恐怖"。
しかしそれは同時に、ある日突然"何者かになってしまうという不安"と表裏にある。
前に進むこと。外の世界に出ていくこと。自分自身を確定させること。
それには膨大なエネルギーが必要だ。
目を覚ましてから一ヶ月。僕はまだ、この病院棟の外へ出た事が一度もない。
彼女もまた、それを勧めることはしなかった。
僕の世界は、どこまでも停滞していた。
「もう一戦、致しましょうか?」
「……いや、今日はもういいかな」
「そうですね、もう日も沈む頃ですし。お夕飯にしましょう」
彼女は一つずつ丁寧に駒を摘み、ケースの中に仕舞っていく。
纏めて掌に掬った方が、効率が良いだろうに。彼女はいつもこのやり方を選んでいた。
僕はそれを眺めながらふと、今日の朝見た悪夢の事を思い出す。
「ねえ。このゲームで取られたコマは"死ぬ"んだよな」
突然、こうも物騒な言葉を耳にしたからか、彼女は少し驚いたような表情になったが。
片付けていた手を止めて、すぐにまた笑顔に戻った。
「まあ、そのように解釈するのは自然ですわね。戦争を模した遊戯、ですから」
「……僕は、今こうして、"打つ"側にいるけれど」
静かに紡ぐ、暗い微睡みの話。
何も持っていない僕が彼女に語り聞かせられることは、もとより夢の話くらいしかないのだ。
だからこの唐突な仮定の話も、「そういう文脈」と伝わった事だろう。
どんな荒唐無稽な幻の話だって、彼女はいつも興味深そうに聞いて、答えを返してくれた。
「ある朝、僕はいつものように寝返りを打って……転がった先が、戦場なんだ」
「周りは騒々しく、足元にはチェック柄の盤面が広がっている」
「手足は真っ黒に塗られていて、陶器のように冷たくて」
「そうして僕は、歩兵になっていたんだ。盤上を這い回る歩兵に」
……その先がどうなったのか、僕には分からない。
目を覚ました僕はひどい寝汗をかいていて、窓の外はちょうど朝焼けの差す頃だった。
温水に濡らしたタオルで頬を拭いても、身を包むような悪寒は晴れなかった。
ありもしない妄想だ。そんな事は、分かっている。
だけどなぜか、その恐怖は現実感を持って肌に張り付いていた。
「あら、まるでフランツ・カフカの『変身』みたいですわね」
「何だい、それは」
「百年ほど昔の小説です。ある日、目が覚めたら蟲になってしまっていたという──今度、本棚に入れておきましょうか」
病室の隅に置かれた真白いラックは、僕の暇潰しのためにと彼女が持ってきた小説で埋まっている。
その大半は男が女を好くだの、好かないだの、そういう色恋を扱ったやつで、つまらなくはないのだが、いまいち僕にはその良さが分からなかった。
棋譜や歴史書を眺めている方が性に合っている。あまり口には出さないけれど。
「そういう、誰かが書いた物語の上の話というより、君の考えを聞いてみたい」
「君は、そういう想像をした事はないか?ある日いきなり、自分の日常が終わって」
「安全な場所から──高みから、落っこちたら」
少なくとも今、この部屋の中は安全だ。危険はなく、凍えない程度の温もりと、退屈で死なない程度の娯楽がある。
不自由といえば、週に何度か医師先生の診察を受けなくてはならない程度のこと。
この部屋の他に行く場所など知らないのだから、縛られているという感覚もない。
「好きな場所に行っていい」と言われても、逆に困ってしまうだろう。
「ありますわよ」
彼女ははっきりと答えた。
意外と納得の両方があった。彼女は僕よりもずっと、この世界についてよく知っているから。
「私は昔、一人では何もできない小娘でした」
「主人の命令が、私にとっての全てでした」
「私には望みもなく、欲望もなく……ただ、命じられた事を為すだけの存在でした」
「主人、というと……君は、結婚していたのかい」
「いえ、いえ!」
彼女はにわかに頬を染め、ぶんぶんと手を振って否定した。
「……父親です」
「そうなの」
それは僕の知る「父親」のあり方とかなり違っているように聞こえたが、それ以上は訊ねない事にした。
興味はあったけど、彼女がいま伝えたいのは別事のように思えたからだ。
「彼は……私にとっての全てでした。さながら、私という駒の指し手です」
「私が彼の言う通りにするのは、私という存在の、定義そのもの」
「ですから──彼がいなくなった時、私は途方に暮れました」
彼女は笑みを消して、窓の外を見上げた。既に日は落ちて、墨色に染まる空が広がっていた。
昔を思い返すとき、人間は目線を上げるらしい。この前読んだ本に書いてあった事だ。
彼女は今、自分自身の過去を見ている。
「言われるままに生きるとは、楽な事です。少なくとも、かつての私にとってはそうでした」
「決断のための苦悩も、前に進むための気力も、そこには必要ありませんから」
「その手綱がいきなり宙に消えたのです。まさしく、"落っこちた"心地でしたよ」
彼女の言葉は、今の僕が抱いている不安を正しく示していた。
僕は、どのように生きていいか分からない。前に進む気力もなければ、過去と向き合う意志もない。
ただ漠然と、全てを保留したまま生存を続けている。
……本気で食い下がる意思を見せれば、彼女だって僕の過去について教えてくれるかもしれないのに。
「……君は、それから、どうしたんだ。どうやって、自分の意思で、自分のために生きられるようになったんだ」
「それは……」
彼女は僕の方に向き直って、少し困ったような笑みを浮かべた。
「……夢を、見たのです。とても眩しい、太陽の夢を」
「私の心は、その輝きに囚われてしまいました。何としてもあの光を手にしたいと、懸命に手を伸ばしました」
「私も、あのように……多くの人の上に立ち、輝き照らす存在になりたいと」
少女は努力を重ねた。名家の当主として、相応しい人間になろうと。
学問を修め、武芸を身に着け、齢十五にして、亡き父に代わり一族を束ねる身となった。
それでもなお、高みへと手を伸ばした。どこまでも、高く、遠く──。
……そうして、彼女は気づいてしまう事になった。
自分が焦がれ、崇敬していた者の真実を。
「……さりとて、夢は夢。現に非ざる幻──この手で触れれば、掻き消えてしまうのです」
「虚像に過ぎないと、分かってしまったのです」
「ですから、私は……」
彼女の言葉は少しづつ震え出して、今にも弾けてしまいそうだった。
僕は迷った。彼女の過去に向けて、何と言葉を返せばいいのか分からなかったのだ。
ただ、彼女のために何かをしなければならないと思って──気が付けば、右手が頬に触れていた。
「あ」
声を漏らしたのは、どちらだったか。指先がほんのりと熱を帯びて、温かい。
彼女の瞳はぱちりと見開かれ、面はほのかに朱に染まっていた。
「……ごめん」
どうして手を伸ばしたのか、自分でもよく分からない。
彼女と目が合い、具合が悪くなって、僕は謝罪の言葉と共に手を引いた。
……いや、引こうとした。その手首を、彼女はぐいと掴んだ。
カタン、と乾いた音がした。机の上にあった駒の一つが、転がって床に落ちたらしい。
そうして僕たちは、言葉もなく見つめ合っていた。彼女の眦には、いつしか涙粒が浮かんでいた。
「すみません……どうかしばらく、このまま」
僕には涙の理由が分からなかったけど、黙って頷いた。
こういう時、あの本棚にあった恋愛小説の意味が分かれば、何か気の利いた事でも言えたのだろうか。
彼女はやはり、僕の恋人だったのだろうか。
……僕はいつか、記憶と向き合えるだろうか。
果たして、私の恋は、初めから叶うべくもありませんでした。
貴方は本当に、私などを見てはいなかった。いえ──
射るべき貴方の恋心は、最初から何処にもなかった。
貴方は恋をしない。誰かに愛を抱く事はないと。
木下礼慈の「能力」は、私の夢を醒まし、逃れ得ぬ真実を突きつけました。
……ですから、罪滅ぼしなどと言うつもりはありません。
ましてや、恋ではありません。
恨まれてしまっても、構いません。
これは全て、私の自己満足。
いつか貰ったものを返したいという、私のエゴです。
かつての私と同じ──全てを失って、空っぽになってしまった貴方に。
私は、何かを与えられるでしょうか。
「人間」である事を受け入れられず、心を壊してしまった貴方が。
いつか全てを思い出した時、幸福に生きられるように。
貴方が正しく「人間」としていられるように。
私の撒いた愛は、実るでしょうか。