1章「開幕」
1.ウィル・キャラダインと呪われし怪物姫
夜闇の下に、影が二つ。
「オオ……ウオオオオオッ!!」
「おっと……手荒い出迎えだね」
転移門をくぐり抜けた勇者ウィルが目にしたのは、殺意ふりまく異形の怪物であった。
殺杉ジェイソン──その名を知る者は、既にここにはいない。
名もなき怪物はウィルの姿を認めると、両腕を掲げて威嚇、咆哮する。
「グゴオオオオッ!!!ニンゲン、コロスッ!!!」
隆々と浮き上がる赤黒い筋肉。
一歩を踏み出せば、地にひびを生み出す理外の怪力。
その膂力、蛮族帝国ベルベルフォネで出逢ったゴリラト族の英雄にも劣らぬだろう。
五トンにも及ぶ禍々しい質量が、道を遮る全てを破壊して、ウィルに向かって突進を開始する。
……道を遮る全て。
その中に、映像部のスタッフが置き忘れた、道具セットがあった。
無論、踏み砕く。
終末的改造により強化された悪魔繊維体に覆われた足裏は、ガラスだろうが金属だろうが、構わず踏み砕くのだ。
踏み砕く。
その中に、予備のエナジードリンクが入っていた。
六本セット売りで480円。
一本使って、いま残りは五本。
「オオッグギョギョアアアアアッ!??!」
「え」
単純量にして、先程受けた五倍もの特攻毒だ。
怪物はいっそう悲惨な断末魔をあげ、その場に倒れ伏した。
「な……何だったんだ、いったい……」
そういった事情を知らないウィルとしては、困惑の色を隠せなかった。
いきなり怪物が襲ってきたかと思えば、勝手に苦しみ倒れたのだから。
一応、死んだふりか罠の可能性も疑ったが。
怪物はカエルのようにひっくり返り、太い手足をビクビクと痙攣させていた。
真っ赤な肌は、次第に土気色へと変わっていく。
ウィルは構えを解かず、一応の警戒を続けながら接近した。
「……しかし、どうしたものか」
ゆっくりと顔を覗き込み、呟く。
「麻上アリサ……人間だよな、"彼女"」
ウィル・キャラダインは勇者であり、世界に愛されている。
それゆえに、彼が視界に捉えた生物の元には、対象の名を記した光のラベルが現れる。
これはウィル自身の見識によるものではない。
知恵の女神の加護が、知るはずのない事実を「知っていた」と書き換えているのだ。
本来の彼であれば、敵の持つ能力や、身に纏っている魔力量を数値化したステータスさえ見ることができたのだが。
いま見えているのは、名前だけだ。
異界まで来たことで、加護が弱まっているらしい。
目の前の怪物に付けられたそれは、「麻上アリサ」とあった。
妻であるアリスをはじめ、少なからずこの世界の人間と交流があったウィルには。
それがおそらく人間の、女性の名であるだろう事が想像できる。
(単に、この怪物にそういう名が付けられていたという可能性も、否定はできないだろうが……)
同時に、ウィルは自身の過去の英雄譚の一つを思い返していた。
ラムダート王国の姫が、魔族の呪いによって大鬼に変えられた一件だ。
彼女は呪いによって理性と人格を抑え込まれ、望まぬまま自らの故郷を破壊させられていた。
目の前のアリサという女性(推定)も、あれと同じように──邪なる者の呪術によって、魔物へと姿を変じてしまっているのだとしたら。
「……通じるだろうか。あの時と同じ方法が」
ウィルは怪物のそばに膝をついて、魔術詠唱を始める。
「──《陽光の精霊よ、我が指を照らせ》」
闇深きグラウンドの中心に、白い明かりが灯された。
解呪の魔法、その初期呪文。
光はふらふらと蛍のように、ウィルの元へ落ちて来て、掌に収まった。
彼は両手で椀を作り、水のように柔らかな"解呪の魔法"の光を口に含むと。
──目の前の怪物に、接吻した。
水音と共に、怪物の喉に解呪の光が流し込まれていく。
勇者ウィル・キャラダインの名誉のために断っておくが、これは"向こうの世界"における、歴とした魔術儀式の一つである。
通説、術者本人からの口移しは、治癒系の魔術の効果を1~2割程度高めると言われている。これは王立聖魔法教会の基礎研修でも教えられている”正しい”知識だ。
無論、戦闘の最中に使えるような手段ではないし、練達した魔術しにとっては、余計な手間である事も少なくないのだが。
現在の、最下級の魔術しか使えないウィルにとって、至って妥当な選択であると言えた。
付け加えると、ウィルの世界において、接吻に特別な愛情表現の意味はない。
唇を触れてから、十数秒。
ボン、と何かが破裂するような音がして。
怪物の全身から、もくもくと白い煙が湧き立った。
(成功したか……?)
ウィルの目論見通り、麻上アリサにかけられた呪いが解かれた──のではない。
そもそも、彼女は呪われていた訳ではないし。
「……ん」
ただ、自分の"役"に没入しすぎていただけの彼女は、口元を覆うぬるやかな感触、あるいは乙女として大切な何かがくすぐられている直感によって、正気を取り戻した。
「……んん???」
……つまり、夢から覚めると、アリサは見知らぬ美青年に接吻を受けていた状況。
そんな都合も知らず。
彼は唇を離すと、にこやかな笑みを向けてくる。
「ああ、良かった、気が付いたみたいだ……具合はどうだろう、アリサさん」
──アリサは答えられない。現状の認識に、脳が追い付いていない。
平時の笑顔も忘れ、すっかり固まってしまっている。
……人差し指を、そっと口元に押し当てる。ほのかに暖かい。
(え、ええと……待って、待って)
目の前の青年はいたく鈍感なことに、どこかまだ具合でも悪いのだろうかと、アリサの顔を覗き込む。
日本人離れした碧い瞳、金髪。彫刻のように整った顔立ち。
何より、青く光を放つ金属鎧と、背に負った大剣。
その現実離れした装い、唇に残る感触から──役者・麻上アリサは、現在に至るまでの物語を組み立てた。
(き、キス……そう、キスシーンなのね、これは!何の撮影だったか、不覚にも忘れてしまったけれど──!)
そう思う事になった。
周囲にカメラマンがいない事実にも、役を忘れてしまった焦燥のために気が回らない。
あるいは、今のが初めて経験する"演技ではないキス"だったからかもしれないが。
けっして「キスをされたのは自分ではなく、ヒロインという役なのだ」と思い込む事で、精神的ショックから逃避しようとしている訳ではないのだ。
たぶん。
(衣装からして、目の前のこの人はきっと勇者、私がヒロイン……どういう文脈のキスシーンなのかは分からないけど、この人の表情から察するに──)
「その……君は、呪いに掛けられていたみたいなんだ。そのせいで、怪物の姿に。でも、きっともう大丈夫」
(そ、そうそう、それ!!怪物の呪い!!!)
(カエルの王様の男女逆バージョンに、剣と魔法のファンタジー的なのを混ぜたような、なんかそういうやつ!!!)
完璧に事情を把握したアリサの衣装が、華やかな白いドレスへと変化する。髪はウェーブがかったブロンドに。
「ああ……そうだったのですね。助けて下さって、ありがとうございます」
肌は陶器のように白く、声は小鳥の囀りのように心地良く。
麻上アリサは没入する。"理想のファンタジー物のヒロイン"へと。
「私は東の国のグレース姫、悪しき魔女の呪術で怪物へと変えられていました」
目の前の少女の唐突な変貌。ウィルは当惑の表情を浮かべた。
「え……えっと、"アリサ"じゃないのかい?」
主演俳優からの指摘!しまった!覚え間違い!
役者としての凡ミスに羞恥を覚えながらもしかし、監督の停止号令があるまでは、アリサは全力の演技を続けるのだ!
「し、失礼……呪いのせいで、記憶が混濁していたようです。私は、アリサ」
「あ、ああ……私はウィル・キャラダインだ。よろしく、アリサ姫」
「ウィル様……ああ、なんと、美しくも勇ましい響き!」
アリサはその名前の響きをしかと胸の内で噛み締め、感動に震える。
変わった人だなぁ、とウィルは思った。
「うん、ありがとう。それで……もしよかったら、少し手伝ってほしいんだけど」
この世界にまだ慣れないウィルは、文化や習俗に関するガイド役を求めていた。
あるいは、彼のまだ知らない■というものについて、何か聞くことができるかもしれない。
「ええ、もちろん!」
そんな事情はつゆと知らないアリサだが、快く承諾の返事をする。
立ち上がって、ドレスに付いた砂を払うと、ウィルに向かって手を差し伸べた。
「共に行きましょう、ウィル様。かの聖地に向かい、ハルマゲドンを終わらせるのです!」
「えっと……それって、"ラブマゲドン"の事でいいのかな?」
ああああ、しまった!またしても訂正!
「そ、そうでした、また記憶が……はい、"ラブマゲドン"でございますね」
「うん。私はこの"ラブマゲドン"で、"あるもの"について知りたいんだ」
「それではこのアリサ、微力ながらウィル様にお力添えを致しましょう」
こうして、輝ける勇者と姫君の二人組は、希望崎学園の校庭より旅立った。
麻上アリサの熱演は、まだ続く。
2.根鳥マオは何を失い、何を得たか
「俺達、愛し合ってます!」
根鳥マオは加藤春香の手を取ると、高らかに宣言した。
「わ、私も……先輩のこと、愛してます!」
少女もまた、頬を赤らめながら、愛の言葉を繰り返す。
真実の愛を誓えばすぐに出られるという、この催し。
最初に聞いたとき、何という事はないな、と彼は思った。
(俺と俺の周囲の関係は、こんなにも愛に満ちている)
(真実の愛?もちろん、この愛は真実だろ)
(まあ打算はあるけど……それは別に、相手を愛していないって訳じゃない。全然、違う)
(俺は心の底から、皆を大切に思ってる。真実さ)
特にこの加藤とは、たった半年ながら、かなり深い付き合いになる。
入学式で迷子になっていたのを見つけて、案内してやって以来の縁だ。
彼女は俺を慕って弓道部に入り、何かあるとすぐに俺を頼ってくれる。
俺としても、彼女の事は特別に気にかけて、可愛がっていたつもりだ。
部活の先輩として、教えられることは何でも教えてやったし、デートも五回はした。
いや、六回だったっけ。今度の正月休みには、一緒にイルミネーションを見に行く約束もしてる。
(これで愛し合ってないってのは、嘘だろ)
「……浅いな」
「え?」
その宣言を聞き届けた木下は、厳かに一言。
「あまりにも浅い。見るがいい、これが、貴様らの愛の"底"だ」
「お、おいおい……俺達が、愛し合ってないって言うのかよ?ちょっと会長、冗談キツイぜ?」
木下は答えない。困惑する二人を置いて、立ち去っていく。
「ちょっと、待って待って!何かの間違いでしょ、もう一回……」
追いすがろうとする木下の隣で、加藤の携帯が電子音を鳴らす。
「……?」
一通のメッセージ。差出人の名前は、不明。
その件名を目にした根鳥は、今度こそ顔色の青ざめる心地がした。
『根鳥マオの秘密について』
翌日の夕方。
根鳥マオは、希望崎学園の敷地の端にある、人気のない森の中を彷徨っていた。
(……もう、誰にも会いたくない)
その一心で、ひたすら人のいない方向に歩いていた。
生徒会が配布しているという、食糧の配給も受け取っていない。
配給所に行けばまた、知り合いに見つかる事になるだろう。
それは、嫌だ。
飢えが近づく。最後に口にしたのは、ポケットの中に入っていたガムの残りだ。
空腹を紛らわすためにずっと噛んでいたが、いつの間にか、溶けて消えてしまっていた。
(どうして、こんな事に──)
『根鳥マオの秘密について』
そう題されたメッセージには、彼が秘密にしていた魔人能力、「宇宙ヒモ理論」の内容が明かされていた。
『根鳥マオの魔人能力は、他人からの好感度に応じて、見返りを受け取る事のできる能力だ』
『彼はこの能力を使うため、周囲の人間から好かれるように立ちまわっている』
そういった内容が、いくらかの悪意を交えて説明されていた。
「先輩、これって……」
「ち、違う……違うんだよ加藤ちゃん、それは」
その内容を読み終えた加藤が、こちらを見る。
動揺する根鳥は、視線を合わせる事ができなかった。
「……今朝、先輩に500円、貸しましたよね」
「そ、そうだね」
「先週も、食堂で財布を忘れたからって、五百円」
「う、うん。あれは助かったよ」
「前のデートの時も、後でまとめて清算するから建て替えといてって、結局私が払ったままになってるのが二千円」
「あ……そ、そうだった、そうだった。何か大事な事、忘れてる気がしてたんだよね。すぐ払うから……」
「前の前のデートの時も、その前も」
「あ、ああ……うん、うん、ちょっと落ち着こうか?」
「いいえ。答えてください、先輩」
静かな怒気を孕んだ加藤の言葉に、根鳥は気圧されてしまっていた。
「ずっと私に、魔人能力を使っていたんですか?」
「…………や、それは」
「私から……お金を借りるために。仲良くなったんですか?」
「私に優しくしてくれたのも……全部、お金の為だったんですか?」
「いや……えっと」
根鳥マオは言葉に詰まった。
知られてしまった以上、確信を抱かれた以上、認めてしまった方が良い。
素直に謝って、許しを乞う方が、きっと傷は浅い。
知識としてそう理解していても、この時、彼は。
どうしても、自分の本性を告白する勇気を持てなかった。
「──そ、そんな訳ないじゃん?」
「ほら、そもそも、そこに書いてある事が本当の事かどうか──」
結果として、その答えは、彼女を最も失望させるものだった。
「最低ですね」
そう告げる加藤春香の瞳は冷たく、軽薄な嘘を突き刺す。
その冷気にあてられた根鳥は、もはや声をかけることもできない。
「あ、ああ……」
静かな慟哭。
初めて経験する。
胸の内側が、抉り取られるような思い。
事実、根鳥マオの言葉に偽りはなかった。
好きだったのだ。愛していたのだ。
見返りを求め、打算の上に築かれたその関係は。
決して「真実」には届かず、「純粋」を欠いていた。
……それでも、その感情は、彼の心臓の一部だった。
好きな人が離れていく。
愛する人に見捨てられる。
全ての人間に対して、近すぎず、離れすぎずという関係を築いてきた男にとって。
それは初めての経験だった。
初めて知る、痛みだった。
その後、分かった事として。
件のメッセージは、加藤春香だけに送られたのではなかった。
根鳥が親しくしている友人、後輩、元恋人にまで、彼の能力の事は知れ渡ってしまっている。
そして、彼に近しい相手ほど、その身に覚えがある。
言われてみれば、あいつには随分と貸しがあるな、と。
気づかれないように、不自然にならないように、隠してきたもの。
その痕跡は、外からの指摘によって見直され、浮かび上がった。
「なあ、根鳥。こういう噂を聞いたんだけど──」
「え、お前って魔人だったの?なあ、俺にも能力使った?」
(──やめてくれ)
「そういえば、この前の千円、まだ返してもらってなかったよね」
「おい根鳥、加藤ちゃん泣かしたってマジかよ?」
(嫌だ、やめてくれ。そんな目で、俺を見ないでくれ)
……実際のところ。
噂を信じて憤る者が、三割。
残りはむしろ同情的な者、あるいは単に事実を確認したいだけの者だ。
しかし今の根鳥には、その全てが同じに見えた。
加藤春香に向けられた、冷ややかな視線。
落胆。失望。侮蔑。批難。
あの色が、脳裏に張り付いて忘れられない。
元来、その魔人能力を抜きにしても、根鳥マオには人たらしの才能があった。
幼少期からこの方、人間関係に苦労らしい苦労を覚えた事はない。
周囲にはいつも、彼を慕う人が集まっていた。
気が合わない相手とは、不和が起こらないように自然な距離を置いていた。
それらはもちろん、彼の日常における努力と心遣いによるものだったのだが。
熟練しているようで、していなかった。
人との繋がりの、"痛み"の側面を知らなかった。
その結果が、逃避。
スマホも捨てて、森の中に逃げ込む。
打算はなく、何の解決にも繋がらない、破滅的な衝動だった。
(ああ……何やってるんだろうな……クソっ)
闇雲に歩き続けてきたが、飢えも疲労も、そろそろ限界に近い。
足を止めて、近くの幹に寄り掛かるように、ふらふらと座り込む。
冬の風が頬を刺す。冷え込んだ地面に尻が触れて、思わずくしゃみが出た。
……乾いた唇から、ぽつぽつと恨み言が漏れ出す。
「こうなったのも……全部、木下の訳のわからない思いつきのせいだ……」
「真実……真実ってなんだよ……お前らが勝手に、決めていいことかよ……」
「お前らが何もしなけりゃ、俺も……皆も、そこそこに幸せだったんじゃねえか」
「何が……何がいけなかったんだよ、クソっ……」
……静かな慟哭。怒り。
もっとも、その声はどこにも届かない。
ぐ、と拳を握りしめると、指先が土を引っ掻いて、硬いものに触れた。
どんぐりだった。
拾い上げて、じっと見つめる。
(ああ……もうずっと、何も食べてないな)
飢えて死ぬよりは、マシだと思った。
堅い表皮に歯を立てて、齧る。
「苦ッ……」
「いや、そりゃそうだろ……」
根鳥が思わず顔をしかめて、吐き出すと同時。
後ろから、呆れたような女の声がした。
「え……?」
そこに立っていたのは、制服の上から法被を着重ねた、長身の少女。
よく見れば左腕はなく、顔は一部が火傷の跡らしきもので赤く変色していた。
名を、糸遊兼雲という。
人気のない森でばったり出会う事があれば、少なからず人は驚くだろう容貌だ。
しかし、根鳥は「知り合いじゃない」という一点にむしろ安堵を覚えていた。
「君は……何をやっているんだ、こんな場所で」
「……何でもいいだろ。放っておいてくれよ」
「いや、普通に考えて放っておけないだろ……」
森の中で一人、悲壮な表情を浮かべて、どんぐりを齧っている男。
大抵の人の反応としては、「関わりたくない」と「放っておけない」に分かれる事だろう。どちらかといえば前者が多いと思われるが、兼雲は後者だった。
更に言うと、彼女の目的はラブマゲドンの被害をなるべく抑え、収束させる事である。
想い叶わぬ絶望から、自暴自棄になるような生徒を救う事も、彼女の勤めの一つであった。
……作戦の大目的に差し支えない限り、であるが。
そういう訳で、兼雲は目の前の不審者に対して、なるべく優しく接することにした。
「ほら、何があったのさ。私で良ければ、聞くよ?」
「……話したく、ない」
話せる訳がない、と思った。
魔人能力を使って、皆を利用していたなんて。
それを知られてしまったから、もう皆と会いたくないだなんて。
「ああ、もう……」
ふと。
膝を抱えて座り込んでいた根鳥の背中に、温かいものが被さった。
「じゃあ、話さなくてもいいけどさ。今もう、十二月よ。ラブマゲドンの最中だってのに、風邪でもこじらせたら大変でしょうが」
「あ、ありがとう……」
「お礼はいいから、ちゃんと返しなさいよ、それ」
法被を脱いだ少女は、少し寒そうに膝を震わせながら、肩掛け鞄からビニール袋を取り出し、根鳥の顔の前に突き出した。
されるがままに受け取り、中身を確認する。
菓子パンとおにぎりが入っていた。
「木の実なんて食べるのも論外、お腹こわしたら以下略!食料なら毎朝9時から食堂で配ってるから、ちゃんと取りに行って食べること!」
「うん……ありがとう」
「お礼はいいってば。ちゃんと食べるまで、私ここで見てるからね」
かじかむ指先で包装を開き、パンを口にする。
何という事はない市販の菓子パンだったが、感じたことのない甘味が広がった。
味覚とは相対性だ。
一日以上も何も食べていないのに加えて、先程までどんぐりを味わっていた舌である。
気づけば、脇目もふらずにがっついていた。
あまりにも情けない根鳥の姿が、兼雲のお節介を加速させる。
隣に座り込んで、魔法瓶の水筒から注いだ緑茶を手渡した。
「ほら、飲みなよ。あんまり急いで食べると、むせるよ」
片手で受け取ると、パンで渇いた口の中を潤した。
緑茶の熱が喉を渡り、身体の芯に染み通っていく。
「……美味しい」
白い息を吐きながら、声を漏らす。
気づけば、彼の眦は濡れていた。
「そう、よかったよ」
いきなり涙を流し始めた目の前の男を、不思議に思わない訳でもなかったが。
その理由を問うのも無粋と思った兼雲は、ただ黙って見ていることにした。
「ありがとう……ありがとう」
根鳥にとっては、何度となく口にした。唇に馴染んだ言葉。
いつも口にしているそれは、彼にとって呪文のようなものだった。
何かを与えられた時に、贈り返すもの。
あるいは、円滑な関係のための潤滑剤。
そういった、彼が人間関係を築くにあたって無意識のうちに使いこなしている方程式の、内側に組み込まれている言葉だった。
だから、この時が初めてだったかもしれない。
目の前の相手に感謝を届けたいと、その一心で放たれて。
彼の「ありがとう」という言葉が、完全に純粋な意味を持ったのは。
3.泉崎ここねには大樹の陰が必要である
四階某所、トイレの個室内部。
外からはノック音が聞こえてきている。
(……何も聞いてない。何も)
泉崎ここねはヘッドホンの音量を上げて、来訪者に対して無言の拒絶を示していた。
無論、扉越しの相手には見えるはずもないのだが。
しばらくシカトを決めていれば、勝手に観念して出ていくだろうと考える。
いわゆる最低の籠城戦だ。
(……いや、あれ?)
しかし、ここねには一つ、気にかかる事があった。
背筋に怖気が走る。最低に気持ち悪い想像が脳裏を過ったのだ。
どうにもその確認をせずにはいられなくなり、一転してヘッドホンの音量を下げることにした。
扉の向こう側から、声が聞こえる。
今にもかすれて消えそうな、苦悶を抱えた声。
「あの、すみません……あと、どのくらいでしょうか……」
そして、ここねは確信する。
ああ、これは間違いなく──。
「男じゃねぇか!!!!!!!」
思わずその場で叫んでしまった。
(いや、だって、もう、とにかく最低だ。それ以外に言いようがない)
(どうして恋愛がしたくて女子トイレに入って個室をノックするという結論になったのか)
(地獄に落ちるべきだ。自分の行いを百万回考え直す地獄に)
果たしてそんな異次元脳を持つ相手に私の能力が通用するかは怪しい物だとここねは考えるが、だからといって思考の猶予などない。
立て板に水、ありったけの否定の言葉が私の口から溢れ出してくる。
「論理否定」は本来、面と向かった相手に使う能力だ。
扉越しの相手にぶつけた場合、能力の影響は多少、減衰される。
ので、まあ、思わずありったけの罵詈雑言をぶつけてしまったけれど。
取り返しのつかない廃人にまでは、なっていないだろう。うん、多分。
やがて彼女の息が切れる頃には、扉の向こう側は静かになっていた。
(消えてくれたかな。潰れた虫みたいに死んでそのままだったら、嫌だけど)
(ああ、想像しただけで、吐き気が)
泉崎ここねは、まだ気づかない。
過度なストレスから起きた、ケアレスミス。
自分が今いる場所が、女子トイレではなく、男子トイレであるという事に。
十分後、男子トイレからは真っ青な顔色の泉崎ここねが這い出て来た。
中身の空になった腹部を押さえて、今にも死にそうな目をしている。
むしろ、死ぬつもりであった。
(死のう。今すぐ死のう。そうしよう)
強烈な羞恥心は自己嫌悪、ひいては世界からの逃避衝動。
少女は、廊下の窓枠に手をかけた。
鍵を開き、手すりの上によじ登る。
ここは四階。下を覗き込めば、気の遠くなりそうな距離に地面が見えている。
あと一歩を踏み出せば、数秒かぎりの走馬燈に光が灯るだろう。
(後は、少しだけ痛いのを我慢すれば)
(それで、全部終わり。腐臭に満ちたこの世界も、そう、全部──)
ここねは無言のまま、重力の向かう先を見つめる。
冬の風が吹いて、頬を撫でていった。
小さなくしゃみが出る。
「……ああ、馬鹿らし」
鼻先をさすりながら、ここねは自嘲した。
どれほどの時間があったとしても、自分には決して、ここから先の一歩を踏み出すことができないだろう。
そう、悟ってしまった。
(どうしようもない。やはり、あたしは、生き汚い)
(こんな世界、生きるのをやめた方が楽になるって、分かってるけど)
(だからって、自分を可愛がらずにはいられない)
静かに溜息を吐きながら、泉崎ここねは手すりから身を降ろす。
いや──降ろそうとした瞬間、靴紐を踏んだ。いつの間にか、解けていたらしい。
平衡を喪失した上半身は、翻って外側へ。
ここねの身体は、図らずもその"最後の一歩"を踏み出してしまった。
「──え」
浮遊感が全身を包み、背筋が凍り付く。
走馬燈に、明かりが灯った。
(嘘、やだ──)
果たして、それが本心だった。
そんな事、やる前に分かった事だと言うのに。
神様というやつはどうも、身を以て理解させたがる性分らしい。
「──≪風の精霊よ、我が声を運べ≫」
刹那、ここねの耳に届いたのは、耳慣れない異国の言葉だった。
勢いよく吹き付けた突風が、今にも死へ放り出される少女の背中を押し戻す。
カラン、と廊下に金属音が響いた。
その正体は、全速で駆け出した勇者の取り落とした聖剣である。
ウィル・キャラダインは勇者であるゆえに。
今にも終わりへと落ちていく少女の手を、迷わず掴む。
方や、青く輝く金属鎧に身を包み、大剣を携える青年。
方や、純白のドレスを纏い、黄金の羽飾りが付いた錫杖を手にする少女。
ここねを助けた二人組は、こう名乗った。
「私は勇者、ウィル・キャラダインだ」
「私はアサガミアの姫、アリサです」
(別ベクトルで頭湧いてるの来たな……)
それが率直な感想だった。
もっとも、恋愛狂いの連中に比べれば、ある程度は論理的に話が通じるぶん、ちょっとだけマシだったかもしれない。
別に変人だからって、命を助けられた恩を軽んじる訳でもなし。
何か頼み事があると言われれば、話くらいは聞く気にもなる。
「私は、"あるもの"について探している」
勇者ウィルは切り出した。
「その名前が何なのかは、私にも、アリサにも分からないのだが……」
「どうやらそれは、"人を愛するのに大切なもの"であるらしく。もし、ご存知ないでしょうか」
(……何を言ってるんだ、このコスプレバカップル共は)
ここねは素直にそう思ったが、一応は命の恩人の前なので、最低限の社会性が機能した。
まあ、深く関わりたくないという気持ちが働いたとも言えるが。
「知らない」とただ一言、答える。
二人は少し落胆した様子だったが、知った事ではない。
(とにかく、妙な質問にもきちんと答えてやったんだし)
(これで貸し借りは一つずつ、差し引きはチャラだ)
とりあえずここねの中では、そういう事になった。
「そうか……失礼、答えてくれて、ありがとう」
ウィル・キャラダインは深々と礼をした。
ここねの方はそれに対する応答もなく、翻って立ち去る。
その背後から、二人の会話が聞こえてくる。
ヘッドホンの音量を上げるという選択肢は、たまたま頭の中から消えていた。おそらくは混乱ゆえに。
「しかし、どうしましょうか、アリサ」
「そうですね……ああ、もしかすると」
ぽん、とアリサは掌を打った。見事な相槌のSEは「ハイ・トレース」の作用である。
そうと知らないここねは疑問符を抱いたが、すぐに吹き消した。
思うに、真面目にあの連中を理解しようとするのは間違いだ。
「あるいは、このラブマゲドンを主催しているという……賢者キノシタス様ならば」
「賢者キノシタス?」
「ええ、彼は人々の愛の真贋を見定め、祝福や裁きを下すそうなのです」
「つまり、愛について深い見識を持っているということか。……訊ねてみれば、何か分かるかもしれないね」
(キノシタスって、木下の事でいいんだよな……?)
たまたま「ラブマゲドン」という名の行事を主催している木下っぽい名前の人間が、近くに複数人いるなどという偶然は、あり得ないだろう。
あり得ないよな……?この二人の言動の奇抜さを見ていると、なんか断言しづらくなってくるが。
(いや、ないだろ……ないよな、うん。だとしたら)
泉崎ここねは考える。
(あたしは、こいつらに付いていった方がいいかもしれない)
どの道、彼女はこの場を立ち去って、木下を探し出すつもりだった。
「論理否定」を用いて主催にしてジャッジ役である彼の頭脳を破壊し、「ラブマゲドン」そのものを成立しえない状況に持ち込む。
それこそが、泉崎ここねの当初の目的だ。
これから道中で脳の腐った男子どもに迫られる可能性を考えると、絶対にボディーガード役はいた方が良い。
目の前の二人は何らかの電波にあてられているが、人柄はまだ善良な部類だ。
幸いと、この二人は既に出来上がっているようだから、その情欲がこちらに向かう危険も、まずないだろう。
足を止めて、そういう判断を下す。
「けっして、人として好きなタイプじゃないけれど」と心の中で付け加えながら。
泉崎ここねにとって、世界は不快に満ちている。
好ましくない選択肢の中から、比較的マシな方を選んでいく。
文句の泡を吹きながら、選んだ道を進む。
人生とは大体にして、そういうものだ。
死にたくないから歩いていくのだ。
「待って。やっぱり私も、一緒に行く」
案の定、二人はここねの頼みを快く引き受けた。
図らずも、勇者一行は呪言の魔女を仲間に加えた。
4.平河玲は諸事情あって花となる
朱場永斗@鬱。
平河玲が初めてそのツイッターアカウント名を見たのは、ラブマゲドンが始まった翌日の事だった。
要件は至って平凡な、恋愛情報に関する取引。
「三年の田中くんのことが気になるので、彼について教えてほしい」とか、そういう。
必然、このイベントが始まってから、似たような依頼はいくつも寄せられていた。
平河自身は、ラブマゲドンを止めなければならないと思っている。
実際、このイベントに反感を抱いている生徒は少なくないが。
無暗な反抗に実りはない。
本格的な行動を起こすにはまだ、手段も情報も足りない。
しかし……少なくとも、「真実の愛」を認められた生徒たちが無事に帰還しているのは事実のようである。
初日で三組が「宣言」を成功させ、本土へ戻った。
一方で、二十五組が失敗したようだったが。
「ラブマゲドン」がどういう計画であれ。
少なくとも現時点で、「真実の愛を手に入れ、学園を脱出する」行為を止める理由はない、と平河は考えていた。
問題は題目ではなく、実現するための手段であり──「愛を教える」という名目のもと教頭や木下に行われた、何らかの洗脳行為である。
期限までに脱出できなかった人間に対して、おそらくは同じ事が行われるのだ。
最悪の事態を考えれば、逃げられる人間は逃げた方がいい。
生徒会の指示で学園に「残らされた」参加者は百八人──自主的に残った人間を加えると、もう少し増えるだろうが。
どの道、彼らの全員が真っ当に脱出を果たすことは現実的に不可能だ。
全員が滑川の「愛」を逃れるためには、いずれにしても生徒会と敵対する必要がある。
とはいえ、別にやる事は普段の情報屋稼業と変わらない。
依頼者から軽くヒアリングをして、「想い人」に関して必要そうな情報を売ってやる。
それも大抵は、平河が作成している生徒情報のデータベースに載っている情報で事が足りる。
運が良ければ、調査に時間を取られる必要もない。
まあ、とにかく──今回も、そういう仕事だと思っていた。
思っていたのだが。
『──彼はね、初めてこの島に来た時、道に迷っていた私を助けてくれたの。自分もこんなイベントがあって巻き込まれて大変だろうに知らない人を助けてあげる心の余裕があるってこと。それで冷静で、大人っぽくて、そういうところ素敵だなって。気づいたらすっごく見つめちゃってた、ふふ。あ、見つめるって言っても、彼の方が背が高いんだけどね。三十センチ差くらいかな。身長差カップルっていいよね、いや、まだカップルじゃないんだけどね。それでもほら、女子としてはやっぱり大きい人に撫でたりしてもらうのとか憧れあるんだよ。彼の手、けっこうごつごつして大きかったの。多分スポーツとかやってるんだよね、野球かなぁ、それとも剣道とかかな。ハンドボール部もあったよね、ここ。直接聞きたかったけど、あの時はちょっとテンパってたから──』
(え、何)
急に送りつけられた長文に、平河は眼を丸くした。
単に「どの程度まで知っていて、何について知りたいのか」を確認しようとしたつもりだったのに、気がつくとお惚気メッセージの奔流に襲われていたのだ。
どう対応したものか迷ったが、客は客である。過去にもコミュニケーションに難がある依頼者がいなかった訳じゃない。
何より、情報屋は信頼されてこその仕事だ。何とか上手く対応しなくては──。
『なるほど。とても好きなんだな、彼のことが』
とりあえず、相槌を打った。何でもいいから返答しなくては、具合が悪いと思った。
無論、それで終わりになるはずがない。
『──そう、そう思う?そんなつもりないんだけどな、言われてみるとやっぱり、これって恋かもしれない。好きな人について話し始めると、ずっと語っちゃうんだよね私。あの人はどう思ってるのかな、私のこと。実はこっそり数えてたんだけど、私が見つめてる間、まばたきの頻度が普段の1.2倍くらいになってて、やっぱりこれって心拍数も上がってるって事だったのかな?どきどきしてたのかな?いや、でも、自意識過剰かも──』
『彼が君をどう思っているか、調べればいいのか?』
『あっ、そうだね、それは気になるかなやっぱり。勝手に調べる感じになっちゃうけど、でも気になるんだから仕方ないよね。そういうの許せない人なんだったら、相性が悪かったって事だし……ああ、でもどうしよう、もし両思いだったとしたら、相手の告白を待ったほうがいいのかな。私、自分から行ったことしかないからかな、その辺の感覚がちょっとよく分からないんだよね。男だから自分から行かなきゃ、みたいな考え方もあるんだろうなって気はするんだけど──』
『恋愛に対するスタンスと傾向も』
『あー、そんな事までいけるの?あー、すっごく助かるかも、やっぱり相手の恋愛に対する考え方?哲学?ってある程度付き合ってみないと知りようがない部分もあるっていうかさー、やっぱり友達として見せる側面と恋人として見せる側面って別物じゃない?私はそう思うんだよね、やあ私はまだちゃんと恋人と付き合った事はないんだけどさ、経験として──』
終始、こんな調子であった。
平河は二時間以上にわたるメッセージの奔流に何とか受け答えを返しつつ、何とか欲しがっていそうな情報をまとめて渡してやった。
『ありがとう!上手く行ったらまた、紹介するね!』
『幸運を』
何とかそういう方向に持っていき、依頼を終わらせることができた。
非常に疲れた。手間賃として、いつもより何倍か掛けで料金を請求する事にした。
渡した情報もその分多いので、文句はないだろう。
幸いと、こっちの交渉は驚くほどスムーズに済んだ。
(あの子の告白、上手く行くといいな……)
そう思った。
半分は純粋な共感から、残りの半分は「もう同じような仕事受けたくない」という思いから。
──数時間後。
奇妙な依頼者の素性について調べていた平河玲は、真実を知った。
希望崎学園、一階食堂前廊下。
午前九時を前にして、ここには長蛇の列が形成されている。
無暗と人目に付く場所に出るのは、平河にとってあまり好ましくない事態だ。
そうは言っても、外部との流通が大きく制限されている現状、この配給を受け取らない訳にもいかない。
「ラブマゲドン」の開始にあたって、希望崎学園の台所を担う調理業者は退避させられた。
かわりに設置されたのが、生徒会役員による「給食委員会」だ。
実際のところ、彼らは調理を行わない。
どこからか調達しているらしい、コンビニで売っているようなおにぎりやサンドイッチ、ペットボトルの飲料。
緑色の生徒会腕章を付けたスタッフが、それらを順番に手渡している。
平河が調査したところ、この食糧の出所は生徒会が管理する建物の一つだ。
元は森林管理業者が使用していた設備のようだが、数年前に退去している。現在の生徒会内では「食糧庫」と呼ばれているらしい。
(そこに大量の備蓄を貯めこんでいる──というのは、半分まで正しい)
同時に、あそこの食糧は何らかの手段で「外」から仕入れられている。
パッケージ裏の賞味期限を確認すれば、すぐに分かる事だ。
(具体的な方法について、いくつか予想は立てられるが……)
予想はあくまで予想でしかないし、それが分かった所で、食糧庫の警備は厳重だ。
今はまだ、手を出す段階にないと考える。
平河がそんな思索をしていると、列の前方から騒がしい声が聞こえて来た。
「お前みたいな奴に、貴重な食糧を分けてやれねえよ。なあ、オイ」
「え……別に、誰でも受け取っていいって、聞いたんだけど……」
「ああ!?誰から聞いたんだ、言ってみろよ?」
「え、えっ……」
(……三年の柏葉か)
すぐキレる事で有名な、学年の厄介者だ。
今回もどうせ、たまたま足を踏んづけたとか、その程度の理由なのだろう。
それでどうやら、女子生徒に「列を抜けろ」と因縁を付けているらしい。
(……面倒な事になったな)
木下がいればすぐ止めに入っただろうが、すぐには望めそうにもない。
他の生徒会役員も、自分が次の標的にされたくはないのだろう。見て見ぬ振りをしている。
(管理役としては、随分と頼りない事だ)
内心で毒づきながら、平河はポケットからサングラスを取り出した。
深々と被ったニット帽。マフラーにの中には変声機が仕込んである。
情報屋たるもの、無暗と自分に関する情報を与えない。それが平河の美学だった。
露骨な不審者として周囲の注目を浴びてしまうが、素顔を知られるよりはマシである。
「おい、そこまでにしておけ」
「あ?」
突然呼びかけてくる電子音声に、柏葉は間の抜けた声をあげた。
「お前たちの事情はどうでもいいが、列を滞らせるな。迷惑だ」
「何だお前……!?変な声しやがって、顔見せろや!」
目の前に詰めてくる大男に対して、平河は開いたスマートフォンの画面を突きつけた。
それを目にした柏葉の表情が、さっと青ざめる。
液晶画面には、「通話中 木下礼慈」という表示。
今はこそ滑川の手で「更生」したと言うが──かつては非魔人ながら学園最強を誇った彼の名に、恐れを抱かぬ者はいない。
「このやり取りは、今も木下に聞こえている」
「非行生徒の更生のための企画で、さらに非行を働く者がいれば。彼はどうするだろうな」
「っ……!」
足を止めて、押し黙る柏葉。
「どうだ。お前も、今すぐここから逃げた方が賢明だと思うだろう」
ここまで状況を誘導した上に「流言私語」で揺さぶれば、訳もない。
柏葉は慌てて駆け出し、人波を掻き分けて去っていった。
(……上手く行ったか)
実際のところ、平河が電話をかけていたのは、自分の持つ予備の電話番号に対してだ。
その登録名を一時的に「木下礼慈」に変更していただけのこと。
もしも見破られていれば、本当に連絡する事も考えたが。できれば取りたくない手だった。
面倒な取り調べを受ける羽目になれば、平河にとっても不都合な事だからだ。
手早く事態を収束させ、食糧を確保し、情報収集に時間を当てる。そのための判断。
──しかしながら、その望みは叶わなかった。
「あの……ありがとうね、助かったよ!」
とっとと列に戻ろうとした平河に、助けられた少女が声をかけてきた。
ショートボブの紫髪に、目元のクマを化粧で隠している。
可愛いと言えば可愛いのだが──それは、毒を持つ花だ。
(──まずい)
先ほどまでは、柏葉の巨体の陰になって、よく見えていなかったのだが。
平河玲は、その姿を知っていた。
本名、朱場永斗@鬱。現実世界における通り名を速見桃。
埼玉県中学校男子生徒連続不審死事件の「原因」。
「犯人」という表現を使わないのは、ひとえに現在の法では彼女を裁けなかったゆえに。
「ああ……気にしなくていい」
なるべく動揺を隠して、平河は彼女の言葉を受け取った。
……彼女は確かに人を「死なせた」が、悪意あっての事ではない。
溢れる恋心のその先で、彼女の魔人能力を暴走させてしまった結果だ。
下手に感情を煽らない限り、平河自身にその毒が向かう事はない。
ゆえに、平河は無難な応対を心掛けた。
「ほんと、助かったよー。あの人、学園の関係者じゃないなら配給を受け取っちゃダメだろーって言ってきて」
少女はしれっと平河の隣に付けて、話しかけてくる。
「ああ……君は、学外の人間なのか」
「そうなの、中学生。エイトって呼んで?」
「エイトさんか、よろしく」
「……ねえ、何でそんな機械で喋ってるの」
マフラーの変声機の事だろう。
事実を答えるなら、平河玲は、「他人に自分の事をあまり知られたくない」と思っている。
見られたくない。聞かれたくない。興味を持たれたくない。
特に理由がある訳ではないが。平河自身が持って生まれた、生理的な欲求だった。
後は、単純に変声機を使うのが楽しい。
「……あんまり、自分の声が好きじゃないんだよ」
事実を知られたくないゆえに、また適当な嘘を吐いた。
「そうなんだ。じゃあ、その顔も?」
「まあ、そんなところだ」
──次の瞬間、平河玲は廊下の壁に背を付けていた。
「──え」
目の前には、少女の瞳。
彼女の右手は、平河の肩の上に置かれていた。
左手でサングラスを外し、口元を覆うマフラーを下げる。
この間、僅かに一秒。
抵抗らしい抵抗もできないまま、平河は素顔を晒してしまった。
……平河玲も知らなかったこと。
エイトの魔人能力そのものは戦闘向きではないが、およそ彼女は真性の「天才」であった。
その頭脳は、常人が抱えれば死に至るほどの情報を、いとも容易く処理する。
彼女が見ている世界の時間は、我々の知る世界よりも、数倍遅い。
「綺麗な顔だと思うよ。うん、ほんとに」
「は……離れて、くれないか」
互いの息のかかるような距離。
エイトはサングラスを平河に掛け直して、退いた。
「声も綺麗だし。もっと自信持っていいんじゃない?」
「……わ、分かったから」
平河は、必死に動揺を押し殺していた。
殺人的恋愛者に、至近距離で素顔を見られたこと。
あんな至近距離で他人と目が合ったのが、数年ぶりであること。
その他いろいろな感情が散らばって、ぐちゃぐちゃになっていた。
今すぐ逃げ出したい衝動もあったが、どうせそんな事をしても逃げ切れないからと言い聞かせ、何とか堪えている。
「……女の子、だったんだね?」
息を潜めた声音。
一応は、他人の秘密を明かしたという自覚があるらしい。
「……だったら、何」
「ううん。男の子だったら、惚れちゃってたかもって」
そう言って、にこやかに微笑んだ。
ぞっと冷え込んだ首筋をさすって、平河は再びマフラーを持ち上げる。
恐怖と同時に、微かな安堵もあった。少なくとも、やはり自分に彼女の恋が向かう事はないらしい。
元より同性を好く事はないと知ってはいたが、同時に「非常に惚れっぽい」という話もあったのだ。
図らずも彼女を助けてしまった事で、性別の垣根を越えてくる可能性。ゼロとは言い切れなかった。
一応、彼女について調べた時に、「流言私語」で「情報過多で死に至るなんて、ある訳がない」と自分自身に言い聞かせてはいたのだが。
それがどこまで効果を発揮するものか、平河自身には「結果」を見るまで分からない。確認は、まさしく命懸けになる。
「ねえ。名前、教えてくれない?」
咄嗟に、適当な名前を考えた。
命の危険はないにしろ、「平河玲」として顔を知られる事は、やはり望ましくない。
「え……江戸川だ。江戸川花」
「よろしくね、花ちゃん」
こうして、平河玲の悩み事が一つ増えた。
5.甘之川グラムは事物に客観的な評価を下す
不幸を吸い寄せる男の、ラブマゲドンに対する戦略。
他の皆をなるべく早くくっつけて、自分に降りかかる不幸を減らす。
恋愛に対する自信がないとはいえ、我先にと脱出を考えるのではなく、他人を優先するあたりに、彼の人の好さが表れていると言えよう。
……ただ、それはそれとして。
人生は、そうそう計画した通りには運ばないものである。
彼の場合は特に。
調布浩一、今日の不幸。
まず、食堂で貰ったおにぎりの賞味期限が切れていた。
腹を下してしまい、近くのトイレに駆け込む。
右から順番に、修理中。修理中。鍵がかかって、修理中。
今から他のトイレにたどり着いても、そこで「不幸」が降ってきたら、また同じような状況になるだろう。
ならば確実に一人が出てくるのを待った方が賢明だろうと、浩一は考えた。
そうして十分が経過し、二十分が過ぎた。
扉に動きはない。
括約筋の限界を感じ始めた彼は、気が進まないながら扉をノックする。
相手のそういった時間を邪魔することは不本意だが、当方にも譲れないものがあるのだ。許してほしい。
(…………返事がない)
二度、三度とノックする。
「すみませーん」
もう一度ノック。
「……あの、すみませーん……あと、どのくらいでしょうか……?」
次の瞬間、扉の内側から少女の叫び声が上がった。
(え、えっ……なんで、女の子ッ!?)
消えろ、出ていけ、飛んでくる罵詈雑言。
その一言を聞くごとに、浩一は強烈な頭痛に襲われた。思考に靄がかかっていく。
夢の中に、無理やり意識を押し込められていくような感覚。
(だ、駄目だ……これは、まずい)
一撃ずつ削られ、しぼんんでいく感覚と共に、浩一は最後の意地を振り絞ってトイレを出る。
そこで一度、彼の記憶は途切れた。
調布浩一が正気を取り戻すと、生垣の中に立っていた。
ちくちくと足を突く感触。目の前には道路と船着き場が見えた。
そう、ここは本土へと続く港。
希望崎島の最北端。
「……ッおおおおお!あっぶねえええ!」
叫び声と共に、浩一は生垣から足を抜く。
うっかりあと数歩も踏み出していれば、不正退場。
「スナイパーあたる」の光の矢で、塵に変えられてしまっていたところだ。
早まる心臓を押さえながら、周囲を見渡す。
赤レンガに舗装された歩道、脇には梅の樹が植えられている。卒業生が寄贈した物らしい。
春頃にはデートスポットとして人気が出る区画だが、この冬場にはただただ寂しい景色となる。
当然、わざわざ訪れる人影もない。
「戻るか……道なりに行けば大丈夫だよな、多分」
本能的に、不幸の渦巻く場所から逃げようとしてしまっていたのだろうか。
我ながら、らしくもないなと思った。
調布浩一の人生は、身に降りかかる不運との付き合いだ。
腐らず、前を向き、最善を尽くしていれば、その不運を打ち消すほどの幸運を引き寄せる……とまでは、行かないが。
それなりに良いこともあるし、感謝だってされる。
そう、信じている。
「……君が、調布浩一だな」
突然、後ろから声をかけられた。
振り向くと、制服の上から白衣を羽織った、小柄な女子生徒が立っていた。
突如吹いてきた突風に、スカートを大きく翻したまま。
──白、だった。
「うわあああッ!?」
「なぁーーーーーっ!?」
浩一は鍛えられた反射行動によって両目を覆い、反転する。僅か0.2秒の反応速度。
それはそれとして、その一瞬はしっかりと目に焼き付いてしまったけれど。
「ご、ごめん!忘れる!忘れるから!」
浩一はなまじ正直な人柄なので、「見てない」とは言えなかった。
まあ、忘れようと思って忘れられるものでもないのだが。
「あ、ああ……失礼。もう、大丈夫だ」
少女は恥じらいを押し殺し、努めて冷静に振舞おうとする。
浩一は少女の方に向き直ると、改めて頭を下げた。
「す、すみませんでした!」
「いや、構わない……私は、君の能力については、把握しているからな。自身では制御が効かないという事も」
「え?」
突風で傾いた瓶底眼鏡をくいと戻しながら、少女は続けた。
「"アンラッキーワルツ"、それは周囲の不幸を引き寄せる能力」
「この"ラブマゲドン"において、"不幸"が女子に嫌われるという方向に作用するのは、なるほど納得できる話だ。だが──」
びし、と指先を浩一に突きつけて、宣言する。
「納得さえしてしまえば、何も問題はない。君の身に起こる不運な偶然は、君自身の責によるものではない!」
「よって、私が君に対する評価を下げる事もないのだ!ゆえに、安心したまえ」
「あ、うん……ありがとう。安心するよ」
少女の言葉を聞いて、浩一は微笑みを返した。
「良い人だな、君は」
「ッ……!?」
突然、少女の眼がカッと見開いた。
胸を押さえ、膝を折ってその場にしゃがみ込む。
「え、え?大丈夫!?」
「だ、大丈夫だ……!介抱は、必要ない!」
「そう……なの?息も荒くなってるみたいだけど……」
駆け寄ろうとした浩一を、少女は静止した。
「ち、ちょっとした、持病のようなものだ……何、こいつを飲めば、すぐに治る……!」
冷や汗をかきながら、胸ポケットから白い丸薬を取り出し、口にする。
思わず口元が痙攣するような苦みが、口いっぱいに広がった。
これこそが、この二か月間、自身の内なる恋心と向き合い続けた果てに生まれた、恋愛症状を抑制する特効薬!
名付けて「ハピネスキラー」!
一口含めばたちまち、生のコーヒー豆の数倍の苦さを発揮する特性エキスが舌を蹂躙!
理不尽な多幸感に蕩けそうになる頭脳を、力づくで理性の世界へと連れ戻してくれるぞ!
「……失礼、見苦しい所を見せてしまったな」
一つ深呼吸をして、少女は再び立ち上がる。
「いや、気にしてないよ……本当に大丈夫?」
「ああ、もう心配ない……改めて自己紹介させてもらおう」
「私の名は、甘之川グラム。ここに来たのは、君個人に用があっての事だ」
「俺に?」
「そう、君だ。調布浩一」
びし、と人差し指を突き付けて、甘之川は宣言する。
この動作が彼女の癖であるらしかった。
「私は、君という人間について知りたい」
──パチン、と。
世界のどこかで、何かが弾ける音がした。
……甘之川の頬が、たちまち紅潮していく。
勇ましく突き立てられた人差し指は、彼女の背中に回っていった。
様々な形式の不運に対して抜群の見識を誇る浩一は、数秒のうちに。
「彼女のブラのホックが外れた」のだと理解した。
「あ……ご、ごめん!ほんとに、ごめん!」
「ひ、必要ない……!君が、謝る道理は、ないッ!」
甘之川グラムは理性的な判断を好む。
いかに自分が羞恥に苛まれようとも、調布浩一に何の悪意も過失もない以上、彼を責める道理はないと判断できる。
否、できなければならない。
そういった自身のスタンスをこそ、甘之川は「愛して」いた。
両手で白衣とスカートを押さえながら、二つ目の「ハピネスキラー」を噛み潰す。
予定していた用途とは違うが、要は平常心を取り戻すための薬だ。問題ない。
……本当に、ちゃんと平常心を取り戻せているのかは別として。
「何か、まさしく"苦虫を噛み潰した"って感じの表情になってるけど……」
「いや、少し考え事をしていただけだ……"考える人"を知っているだろう。ニューロンが活性化していると、得てして人はそういう表情になったりする」
「そうなんだ……俺にはよく分からないけど、甘之川さんは賢いんだな」
──この時、調布浩一は気づいた。
「甘之川さんは賢いな」と言った瞬間、目の前の少女の表情が、にわかに明るくなった事を。
彼は素直であり、善良な男である。
先ほどから羞恥やら苦悶やらに責めを受けているらしいこの少女。
少しでも自分の言葉で喜んで貰えるなら、そうしたいものだと思った。
「そういえば……全校集会でも、何回か表彰されてたっけ」
「……!ま、まあな!これでも私は、天才と呼ばれる身だ!トップカンファレンスに招待されて発表したり、賞を取った事もある!」
「え、それすごいな……もうプロの研究者って事?テレビや新聞にも出たりしてるの?」
「はっはっは、もちろん、出た事がある!」
「マジかよ!すげー!」
「ふふふふ……実はその時の動画なら、ここに記録してある。見てみるかい?」
「え、見る見る。賞を取った研究って、どんなやつなの?」
「よし、では動画を見ながら解説してあげよう──」
(し、しまったああああああ!!!)
「えっ……?あ、甘之川さん!?」
一時間後。
微生物の発生させる電気エネルギーについて熱い講義を振るっていた甘之川グラムは、本来の使命が置いてけぼりになっている事を、突如として思い出した。
相手がいきなり頭を抱えて座り込んだ状況に、浩一も困惑を隠せない。
また何か自分のせいで不運に巻き込んでしまったのではないかと心配さえしている。
「違う、違うんだ……君は悪くない。これは全て、私の落ち度だ」
「そ、そうなの……?」
そうなのだ。
最初に宣言した通り、甘之川グラムの目的は、調布浩一という人間の内面を知ること。
何かの間違いで自分が一目惚れをしてしまった相手が、本当に異性のパートナーとして相応しいか、客観的な尺度から見極めることなのだ。
その為に、パーソナリティ診断用100の設問を自作し、頭の中に叩きこんで来たというのに!
それらの質問を自然な会話の流れに落とし込めるよう、1000以上の会話パターンをシミュレートして来たというのに!!
(一つも!聞けてない!!活かせてない!!!)
(めちゃくちゃ!!楽しく!!話し込んでしまった!!!)
甘之川グラムは自分の知識を披露する事が好きである。それも、賢いと褒められれば猶更だ。
何なら半分くらいは、それが理由で研究をしている節がある(残りの半分は、理性的な活動を好むから)。
その性格が、すっかり裏目に出てしまった。
調布浩一は、とっても聞き上手だったのだ。
「い、いや……まだだ。まだ……」
甘之川グラムは諦めない。彼との会話を終える前に気づけたのだから、まだ勝機はある。
(この理性、一度は敗北を喫した……しかし、我々は学習し、進歩する生き物だ)
(二度目はないと思え……!)
「甘之川さん……」
もはや誰に向かって言っているのかもよく分からないモノローグだったが。
何やら鬼気迫る迫力に、浩一も思わず息を呑んだ。
追加で二つの「ハピネスキラー」。
口元を拭いながら、甘之川は浩一に向き直る。
「本題に、戻ろうか。私は──」
甘之川が話を切り出そうとした時、彼女の足元に何かが落ちて来た。
二人の視線が下に向けられる。
そこにあったのは、一枚の白い布切れ。
──甘之川の下着だった。
「パンタロォォォォォネッ!!!!」
「ぬわぁぁあああああ!???!?」
ずれ落ちたパンティと、突如奇声と共に現れた異形の変態。
先ほどから繰り返し発生している心的疲労に加え、常識外のハプニングが二つ同時に発生したことで、甘之川の思考はフリーズした。
──対して、調布浩一の反応は早かった。
生垣から蛇の如く飛び出し、奇怪な紋様の刻まれた腕を、今にも甘之川の足首へ伸ばさんとする怪人。
その間に割って入り、手練を防ぐ。
「ほう……やるじゃあないか、少年よ」
怪人は浩一に賛辞を贈ると、華麗な後方転回を決めて距離を取った。
「クソッ、変態め……通報してやる!」
「はっはっは、果たして今この学園に、警察が来てくれるかな。あるいは……仮に来れたとして、何分後になるかね?」
「変態の癖に知恵が回る!厄介!!」
「はっはっはっ、褒め言葉と受け取っておこう」
高笑いをする怪人は、己の胸の内から布切れをしゅるりと取り出し、指先に挟む。
いや──あれはただの布切れではない。女性物の、パンティ。
上半身に浮かび上がった紋様、まさか、あれらは全て──。
「きっ、気持ち悪ッ……!え、なんで!?なんでそこまでする!?分からない!俺、男子だけど分からないよ!!?」
「理解を得られずとも結構。私の最大の理解者は常にパンティーだ……同時に、最大の武器でもある」
変態パンティ男は、不敵に微笑んだ。
その指先で、二枚の布が高速の回転運動を始める。
「先ほど君が止めたのは、素手の攻撃だったね。では、今度はどうかな……?」
「クソッ、何だってんだ……!」
調布浩一は考える。
目の前の男は変態。運動能力は、おそらく自分よりも高い。
戦闘経験──自分よりはある、と考えた方が良いだろう。
目的──女物のパンティに執着する変態だ。
ならば、彼の取るべき行動は。
(──俺は最悪、捕まっても酷い目には合わない。甘之川さんを、逃がさないと)
浩一は拳を握りしめて変態を見据え、背後の少女に声をかける。
「甘之川さん!こいつは俺が何とかするから、逃げてくれ!奴の狙いは君だ!」
「はっ……す、すまない!少し混乱していた!」
甘之川は正気を取り戻し、ずれ落ちた自身の下着を履き直す。
「ふふ……ふっふっふっふ!」
怪人は奇怪な笑い声を上げながら、突進を開始。
パンティを如何に武器とするのか、浩一には予想できなかったが──何でもいい、とにかく身体を張って止めるのだ。
(これ以上、甘之川さんを酷い目に遭わせてなるものか……!)
突然の変態の襲来。それすらも、彼の引き寄せた"不運"であるのかどうか。
調布浩一には分からないが、この際、結果はどうでもいい。
不運は君のせいではないと。安心してくれ、と。
そう言ってくれる理解者が、どれほど得難い存在であるか。
彼は理解している。ゆえに、彼女のために戦う。
そうして、浩一が決意を固めた──次の瞬間。
彼の背中に、柔らかいものが触れた。
それが何であるか、考える暇もなく、
「走れ、逃げろ!全速力だっ!」
「え!?わ、分かった!」
唐突な命令だったが、浩一は彼女の声に従う事に決めた。
(まだ、出逢ったばかりだけど)
(甘之川さんは、賢い。賢いから、俺よりも適切な判断ができるんだろう)
果たして、その判断は正しかった。
「林檎の重さと月の甘さ!」
「ムッ!?」
地を蹴った浩一の姿は、怪人が繰り出すパンティよりも疾く、消えた。
現在の二人の体重は、合わせて500グラムにも満たない。
浩一の健脚は、何時になく軽々と、持ち主を運ぶ。
「ふ……惜しいな、逃げられてしまったか。甘みと理性の芳香が交わる、素晴らしいパンティだったのだが」
遠くに消える背中を見つめながら、怪人は呟いた。
さて、二人は無事にこの変態から逃げ切る事ができた。
……逃げ切ることができたのは、良いのだが。
「あ、甘之川さっ……これ、どうやって止まっ……!」
「ま、待て、落ち着け!いま少しずつ質量を戻していく!一気にやると事故に繋がるからな、まずはグラウンドに出て減速を──っ」
突然、綿の様に軽くなった体重。
全速力の加速。
初めて体験する世界。
調布浩一に、その制御は叶わなかった。
ターンに失敗し、校舎の壁に激突。
「ぎゃーっ!!!」
「なぁーっ!!!」
二人仲良く、無様を晒す事となった。
「っ……痛っつつ……だ、大丈夫か……?」
ぶつけた右肩をさすりながら、甘之川は訊ねる。
訊ねたところで、ふと──太腿の間に、暖かい感触を覚えた。
視線を落とし、そして気づく。
ちょうど自分が、浩一の顔に、跨るような、恰好に、なって──
「あ、あっ……ああああ……!」
「ご、ごめんっ……!マジで、ほんとに、すみません……!許して!」
すぐさま飛び退いた甘之川、頬を紅潮させて後ずさる。
方や浩一、自由になると即座に土下座を決めてみせる。
「アンラッキーワルツ」の作用があるかもしれない……とはいえ、直接的には自分がうまく止まれなかった事が原因だ。
「い、いや……謝る、必要はない……だ、大丈夫……大丈夫だ……!」
冷静になれ、心の中で何度もそう言い聞かせる甘之川だが、その声はいつになく上ずっていた。
「ハピネスキラー」を手に取ろうとするものの、指先が震え、溢してしまう。
「き、君は悪くない……客観的に、俯瞰して、これは、そう、能力の、せいで……!」
──ダメだった。それ以上は、もう。
甘之川グラムの理性は、この日二度目の敗北を喫した。
気が付くと、走り出していた。逃げ出していた。
もしかすると、この日。
甘之川グラムは、彼女の人生において最も痛烈に、自分自身を嫌いになった。