五年前、希望崎学園の生徒の一人が行方不明になる事件があった。
少女の名は、田中有栖といった。
異世界への召喚。あり得ざる交錯。
空間に生じた歪みは、大きな亀裂となって、未来を蝕む。
あるはずのなかった可能性が生まれ、時間の経過と共に、傷跡は開いていく。
即ち、因果の結び目、特異点の発生である。
この地を観測していた存在は、運命の分岐点と化したこの学園に、一人の「天使」を遣わすことを決めた。
その「天使」は――
■ choice of fate ■
A.地上を観測する上位存在であった。
+
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正史ルート『聖夜に響け、第七の喇叭』 |
そう。
この地を観測していたのは、人々が『天使』と呼んでいた超越存在であった。
彼らはこの分岐を『癒すべき傷』とみなし、使徒を派遣した。
その『天使』は人の姿をとり、学園へと潜り込む。
彼女の名は、ヘブライ語で『予見の天使』――ヌメルといった。
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⇒ B.恋の矢を生み出す力を持つだけの、ただの少年だった。
――Now Loading.
――不正な選択を、受理しました。
これより語るは、第七の正史たり得なかった物語。
始まる前に終わってしまった、剪定された可能性の分岐である。
偽史ルート『二挺拳銃と砂糖菓子の弾丸』
Chapter0 自由恋愛の守り手
礼拝堂で、老女が祈りを捧げていた。
通称『シスター』あるいは『緑玉の君』。
自由恋愛防衛機構『緑玉の盾』の設立者にして、代表でもある。
近代において花開いた、自由恋愛という文化。
それを、社会制度、権力構造、魔人能力といった天敵から偏執的に守護してきた、あるいは守り切れず敗北し続けてきた。
老女はそんな狂人であった。
背後に控えていた修道服の少女が、老女に「希望崎学園『ラブマゲドン』計画」と書かれた紙束を差し出した。老女はしばしそれを精査する。
「歪んだ愛もまた、愛。しかしそれを、力を背景に広く強制するのなら、それは、自由恋愛の敵と言わざるをえないでしょう」
「では?」
「『ラブマゲドン』を、ランクS恋愛災厄に認定。ガーディアンの派遣を」
「人選は」
「――九尾人を」
「『異端の守護者』を?」
「あの子の力が、迷える子羊たちに必要です」
老女は慈愛深い笑みを浮かべる。
年若き修道女は、それ以上異を唱えることはなかった。
老女が、最適解を違えることはない。
自由恋愛という概念こそ、彼女が生涯を賭けて愛しぬいた、永遠の恋人にして伴侶なのだから。
♡ ♡ ♡
婚礼の行列が、夜の街道を進んでいた。
祝いの道行きであるはずだか、先導する馬上の青年、笛を吹き鳴らす中年の婦人、飾り立てた花嫁、黒服の護衛たち、誰一人として笑顔の者はいない。
死地へと向かう行軍、あるいは葬列のような歩みだった。
とある地を支配する権力者への嫁入り。
裏では暴力機構との繋がりも取り沙汰されているその家へ、娘を半ば供物として差し出すことは、彼女の育った集落にとって、生き残るための唯一の選択肢だった。
花嫁の少女は馬車の中で、地平線の彼方の街の灯りが少しずつ近づくのを眺めていた。
あの光の中に踏み込んだ瞬間、彼女の人生は焼き尽くされる。
嫁入りを求めた男が、少女を愛しているわけではないことを、彼女は知っている。十六番目の妻。十六番目の供物。数年、慰み者にされて、壊されるか、捨てられる。
でも、どうしようもない。
自分が逃げれば、里は焼かれる。
そうすれば、幼馴染の青年までも、殺される。
一度くらい、アイツに馬駆けで勝ちたかったな、と。
唐突な連想を、少女は自嘲した。
先頭を行く馬上の幼馴染の表情は、少女からは伺い知ることはできない。
苦しんでいるのだろうか。
それとも、別のことを考えているのだろうか。
少女の思索を、誰何の声が現実へと引き戻した。
「貴様、所属は! 何が目的だ!」
行列を、何者かが邪魔しているらしい。
一行を護衛する黒服の男たちは、婿側が派遣した武闘派だ。
命知らずにもほどがある。
少女は馬車の中から、闖入者の姿を見た。
「所属は、『緑玉の盾』。目的は――自由恋愛の保護」
緑色のフードつきマントに身を包んだ、華奢な少年だった。
婿側の街に敵対する組織の鉄砲玉? が、『緑玉の盾』? そんな名前は聞いたことがない。自由恋愛の保護? 一体何を言っている?
黒服たちが、拳銃を構える。
その瞬間。
「――『キューピットの武器庫』」
自らの胸に軽く触れたかと思うと、少年の姿が消えた。
黒服たちの発砲音。
だが、少年の悲鳴は聞こえない。弾は、当たっていない。
緑色の軌跡が時折、闇の中で閃く。
そのたびに、一人ずつ黒服が倒れていく。
最後の護衛が倒れたところで、緑マントの少年は、いつの間にか手にしていた細身の短剣を、血振りするように振った。
とたんに、倒れていた黒服たちが、のろのろと起き出す。
殺しそこねた?
少女の疑問は、黒服たちの言動によって、さらに別の意味で混迷を深める。
「スタイリッシュムーブの美少年……いい」
「目隠れ暗殺者尊い……」
「ついてるとかついてないとかどうでもいい……シュレディンガーの男の娘……」
まるで黒服たちが全員、恋に落ちた思春期の子どもめいて、緑マント少年に熱視線を送り出したのである。
護衛任務を放棄し、まるで少年への敵意を失ったかのようだった。
緑フードは、そんな黒服たちを一瞥もせず、まっすぐに少女へと歩み寄った。
「あなた何者? 何のためにこんなこと?」
「僕の所属は、『緑玉の盾』。目的は――自由恋愛の保護」
鈴のような声。天使みたいだと、少女は思った。
緑フードの少年は、懐からメモを一枚取り出した。
「この場所に、ヘリが待機している。席は二人分だ」
「信じていいの?」
「信じるなら、アンタの自由な恋愛感情を」
「……ありがと、天使サマ」
少女は、飾り立てられたスカートを破り捨て、馬車の金具を外して、裸馬にまたがった。
そして、先頭で目を白黒させていた幼馴染の横へと並ぶ。
「ほら、行くわよ」
「どこへ」
「馬駆けよ。今日は負けないんだから」
「はあ?」
そして、夜明けの草原を、二頭の馬が駆けていく。
「あの男、殺すつもりだったでしょ」
「まあな」
「死ぬ気だった?」
「俺、馬鹿だから。それしか思いつかなくて。でも、おまえもだろ?」
「私も、馬鹿だから」
「知ってる」
「腹立つ」
緑玉めいた朝露が、その道行きを祝福していた。
「……生きるわよ」
「ああ」
♡ ♡ ♡
翌日、権力をかさに十名以上の少女を妻にした後、殺害してきた男の自殺が確認された。
男は、十五人目の妻を殺害した直後、自らがいかに妻を心から愛していたか、彼女のいない世界で自らが生きる意味がないかを遺書として書き綴り、命を絶ったという。
前日までの言動との不一致から、暗殺の偽装工作との説も出たが、筆跡は間違いなく男のものであり、事件の真相は不明のままである。
♡ ♡ ♡
「九尾人。力の使い方は任せます。『キューピットの武器庫』なら、『ラブマゲドン』の戦況を容易く操作することができるでしょう。彼らのルールで勝利するだけなら、あなたの力はおよそ無敵です。が」
「僕の所属は、『緑玉の盾』。目的は――自由恋愛の保護」
「よろしい。この『ラブマゲドン』の歪みがどこにあるのか。そして、あなたがその『キューピットの武器』で撃ち抜くべきは何か。その判断を信じていますよ」
Chapter1 乞い願う者 キャラダイン
魔力臨界。
六次元ベクトルからの時空境界面の侵食、融解。
耳障りな音を立てて何もない空間が歪み、捩じれる。
莫大な魔力の奔流が世界律を書き換えていく。
男は荒くなる息を整えながら、弾けそうになる魔力の手綱を握る。
紡がれる術式は、並行世界への転移。
魔法が日常として存在するこの世界においてすら、師団級の人員による並列詠唱と、数十年に渡る魔法陣構築を要する大魔術である。
だが、男は、”絶対勇者”ウィル・キャラダインはただ一人でそれを為した。
仮に「世界を救ったモノ」である彼があらゆるツテを使えば、大国の魔術師団の協力を得ることも可能であったろう。
けれど、彼はそれを良しとしなかった。
なぜなら、これは世界を救う魔術ではない。
単に、一人の女性のため、そして、自分のワガママのための旅路だ。
そんなものに、他者を巻き込むことはできない。
それが、”絶対勇者”である彼の矜持であったのだ。
代償は大きい。
おそらく彼は、世界を救った絶大な力のほとんどを失うだろう。
けれど、それでも、彼はこの旅路を選んだ。
自らの内に見つからぬものを知るために。
世界を包む概念境界が綻び、人一人が通れるほどの穴が開いた。
時間と空間、世界律の乱れた亜空に、ウィルは踏み出した。
情報の奔流が、彼の個としての輪郭を噛み砕こうと襲い掛かる。
鍛え上げた魔力が。剣技が。経験が。一歩ごとに削ぎ落とされていく。
目指す世界は、「愛の試練」の起こる場所。
そして、彼の妻が生まれ育った地。
断片的な視覚的情報が、彼の脳に突き刺さる。
それは、これから彼が見るであろう未来の記憶。
巫女の啓示めいて、乱れた時系列の残滓を垣間見る界渡りの副作用だ。
――たとえば、愛の名の下に噛み合った、奇妙な歯車。双方向の誤解の絆。
――たとえば、のみこみきれぬ過去で繋がる傷痕。孤独の孵化。
――たとえば、形象化した概念としてしか人を見られぬ賢しき者。その不器用な交わり。
――たとえば、一つの純情の形。人ならざるものしか人と認識できぬ、狂気の苦悩。
――たとえば、つつましく心優しきものたちの、熾火のような仄かな想い。
――たとえば、なににも遮られぬ跳躍。見たことのない相手に燃やす、空を越える執念。
――たとえばゆらぐ大樹の心。天使の矢によって抉りだされる、心臓の響き。
――たとえば、ずっと背負い続けてきた重き業を■■に変える、砂糖菓子の弾丸。
そのどれもが、彼の知る、太陽のような愛とは違う、いびつで、激しい想いだった。
それらの想念の渦の中で、一つの魂を、ウィルは知覚した。
「愛の試練」の中に、かすかに瞬く魄動の明滅。
それはさながら、磨かれざる原石のようだった。
内に輝きはありながら、それを覆うように、重い淀みが幾重にも魂を包んでいる。
呪詛。負の想念。悔悟。あるいは、――自罰。
ウィルは迷うことなく、その魂へと手を伸ばす。
ウィル・キャラダインは、勇者であるがゆえに。
亜空を越境。
地球。日本。希望崎学園。
地名と思しき断片情報を、降り立った土地の残留思念から取得。
異界物理法則に、身体組成を適応させる。
魔力認知から、通常の光学認知へと視覚が切り替わり、目の前にいる相手をとらえた。
巨大な建物の門とおぼしき場所に立っていたのは、漆黒の脚絆と細身の縦襟衣の上に、裾の短いフードつきマントを羽織った、中性的な少年だった。
彼こそが緑玉の魂の持ち主であると、ウィルは即座に理解する。
「……何者だ」
忽然と現れたウィルに、青年は即座に身構える。
よい反応だ、とウィルは感心した。多くの戦場を駆けた兵士の挙動である。
武器は持っていない。であれば、魔法使いか、武式修兵か。あるいは、魔武練士である可能性も否定できない。
「驚かせてすまない。私は決して怪しいものではない」
敵意がないことを伝えるため、ウィルは両手を天に掲げ、片足で立った。
魔術印を組んでいないことを示し、また、武式の基本型もとれぬ状態。
ウィルの世界における友愛のポーズであった。
「……グリコ?」
ウィルの誠意が伝わったのか、毒気が抜かれたように、少年は構えを解いた。
自動翻訳の術式が機能しなかったが、グリコ、とは、この世界の挨拶であろう。
新たな土地を訪れたなら、現地の言葉で挨拶をするのが一番。
それが世界を救う旅で身に着けた、勇者ウィル・キャラダインの処世術だった。
「ああ、グリコ。私の名はウィル・キャラダイン。この世界に愛を学びにきた異邦人だ。緑玉の少年よ。唐突な提案だが、私でよければ君の、手助けをしたいのだ」
「っ!? 僕の……目的を、知っているのか?」
「いや、全然」
「……は?」
恋愛を知りたいと願う者、”絶対勇者”ウィル・キャラダイン。
恋愛を守るという任を負った少年、”緑玉の盾”天使九尾人。
かくて、二人は出会う。
希望崎学園で『ラブマゲドン』が幕を開ける、2か月前のことであった。
Chapter2 アンシンメトリー・ギア・ワークス
「永遠の愛を誓います」
「誓うわ!」
「失格」
「一生君を守る!」
「私も、死ぬまで二人、一緒にいるわ」
「失格」
「I Love you」
「日本語でOK」
「失格」
♡ ♡ ♡
「おおおおおお、不幸だあああああ!!」
希望崎学園の構内に、青年の叫びが響き渡る。
170cmオーバーのがっしりとした体格の青年が短距離のスプリンターめいて疾走する様は、普段ならば目を引く光景なのだろう。
しかし、生徒会主導の恋愛バトルロイヤルイベント『ラブマゲドン』が開催されて数日。
この程度の異常は、誰も驚くほどのものではなくなっていた。
「んー? 今度のラブ誘発イベントはなんだ? また、ラブトライアスロン? それとも、ラブ二人三脚マラソン?」
「いやー、あれ、調布だろ。イベントじゃなくね?」
「あー、浩一かあ。なら、いつものことだな」
「そうそう。それより、次ば誰にアタックする? さすがにそろそろ相手見つけないとヤベーし。告白してもノーリスクなんだから、とりあえず下手なテッポーって奴だよな」
生暖かい目で真昼の逃走劇をスルーする生徒たちを横目に、当の本人、調布浩一は、改めて叫んだ。
「不幸だああああああああああ!!!!」
浩一は、魔人と呼ばれる異能者である。
自らの精神性に起因する超常現象を引き起こす者。
希望崎学園には、力の大小はあれ、こうした異能者が多く集められている。
浩一の能力は、『アンラッキーワルツ』。
周囲で起きる他人の不幸を肩代わりしてしまう、コントロール不能の能力だ。
とある後輩から、「学園で最も甘い能力だな。具体的には6リンゴくらい」と評されたこともある、全く浩一本人の幸せには寄与しない異能である。
その能力が、今まさに、浩一の逃走の原因だった。
ギャリギャリギャリギャリギャリ!!
彼の背後から迫りくるのは、耳障りな金属摩擦音!
学園には似つかわしくないチェーンソー駆動音である!
「ウギャギゲゲーー!! チェチェチェ、チェェェェンソォォォ!」
そして、身の毛もよだつ人外めいた奇声!
浩一は息を切らせながら、追跡者を一瞥する。
ガタイはいい方だと自負している浩一よりも二回り以上の巨体。
その全身にはバランスの悪い筋肉が不自然に扇動し、その全身には痛々しい手術痕が走っている。頭髪は皆無で、頭部は赤ペンキをぶちまけたような血まみれ。
まるで、C級スプラッタにでも出てくるような殺人鬼だった。
「お、オ、OH! ハッピィィィ! ネガチブ!!! チェェェェェェン! ソォォォォォォ!! ェェェェェェェェェェェェッジ!!!!」
「あれ面白いよね! けど、アンタみたいな殺人鬼の口から聞きたくなかったなあ!」
ぶうん、と風を斬る音が浩一の背中に叩きつけられる。
後ろのチェーンソー魔人が手の得物を振るったのだろう。
一瞬で切り倒された大樹が浩一の方へと倒れてくる!
「くっそ死ぬ! 絶対死ぬ! 何がラブイベントだよ『ラブマゲドン』だよ! なんで恋愛促進更生イベにこんなジェノサイダーが混じってるんだよ! 天文学的確率だよ! 不幸で片づけられるレベル越えてるだろ!!」
ぎりぎりのところで幹の巨大質量を側転回避し、浩一は頭を抱えた。
この事態は、彼の能力『アンラッキーワルツ』と『ラブマゲドン』が引き起こした、不幸の相乗効果によるものだ。
『ラブマゲドン』のルールはシンプル。
- 構内で恋人を見つけ、互いに真の恋愛感情を抱くことができれば、解放される。
- 恋人ができても、偽物の恋だと認定されれば、ペナルティとして不幸が降りかかる。
この後者のペナルティが、望むと望まざるとに関わらず、『アンラッキーワルツ』によって、浩一一人の身に全て降りかかっているのだ。
最初のうちは、バナナの皮を踏んづける、空から降ってきた鳥の糞が頭にかかる、という程度だった。
それが、日を追うにつれ、三階の教室から落ちてきた花瓶が直撃しそうになる、魔人能力の流れ弾が頬を掠める、最近女子生徒を中心に被害が続出している下着ドロボウの疑いをかけられるなど、次々エスカレートしていき、そして、とうとう、今日、通りすがりのチェーンソーを持った殺人鬼に追いかけられるはめになったのである。
「なんか急に不幸レベル上がったよなあ! 誰だこんな超ド級の不幸押し付けられるようなひどい告白した奴っ! 付き合う相手は選べよなあ!!」
浩一の運動神経は、一般人と比べて優れた身体能力を誇る魔人の中にあって、平均以上である。プロの戦闘魔人ほどではないが、数々の不幸に唐突に襲われ続ける人生が、卓越した危機回避能力としぶとさ、そして身のこなしを育てたのだ。
だが、追跡してくるチェーンソー殺人鬼も、その筋肉異形にふさわしい膂力で障害物を切り払い、一目散に浩一を追跡し続けてくる。
「逃ゲレヌゾウ 伐採! チェーンソー! 万歳!」
「韻踏むなああああ!」
ツッコミを決めつつ、曲がり角でドリフトめいた鋭角ターンを決めたその瞬間。
「わぶう!?」
「きゃっ」
浩一はなにやら柔らかいものに衝突し、包み込まれるように倒れ込んだ。
何が起きた? 理解できない。だが、間違いない事実として、背後からはチェーンソージェノサイダーが追いかけてきている。立ち上がらなければ。
慌てて体を起こそうと突いた手のひらに伝わる、もにゅっとした感触。
「んぁ……っ」
「……な、なにこ……いや。数日前の俺ならばそういうところだが、こう連続すれば事態はわかるぞ……わかりたくなかったけどわかってしまうぞ……」
深呼吸を一つ。気持ちを落ち着けて目を開き、状況を確認する。
浩一の手が押し付けられているのは、間違いなく、女学生のおっぱいであった。
その持ち主はというと、掛け値なしの美少女である。
どことなく潤んだ垂れ気味の瞳。ショートボブの艶やかな巻き毛。すっと通った高い鼻筋。ぷるんと柔らかそうな、潤った唇。
「……うああああああごめんなさい! 本当偶然ですんで下心とかありませんでしたので! でもその、触ってしまったのは事実なので心より謝罪を」
「人類皆伐採ィィィィィィ!!!」
「最後まで謝らせてくれええええ!」
チュイイイイイイン! ドゴォォォォォォォ!!!
背後でワックスの効いた廊下を曲がり切れず壁にチェーンソーチャージをぶちかますチェーンソー殺人鬼!
その巨大質量突撃に巻き込まれ、通りすがりの学生が吹き飛ばされる!
「鎌瀬ェェェェ!?」
「犬士郎が吹っ飛んだぞ!? ついでに着流しの兄ちゃんも巻き込まれた!」
「チェーンソーがどてっばらに叩き込まれたんだが!?」
「あ、鎌瀬の奴無傷」
「マジか。よっぽどタフな能力者が近くにいたんだな……助かったなあ」
「とりあえず保健室連れてけー」
あまりにも対応が迅速!
さすが、魔人能力による事故が日常茶飯事の希望崎学園である!
「ああクソ、お詫びは後で! 君も逃げるんだ! ここはヤバい!」
「そ、その……足が……」
「っ。悪い。くじいたか……クソ。失礼!」
浩一は、壁にめりこんだ腕を引き抜こうとする殺人鬼を一瞥する。
やむを得ず、目の前の少女をお姫様抱っこで抱え上げると、浩一は一目散に走り出した。
桃のような甘い香りが鼻をくすぐるが、浩一はそれをラッキーと思うことなどできなかった。彼の「他人の不幸を肩代わりする」魔人能力は、常に発動し続けている。
つまり、ここで、この少女と出会うことは、間違いなく、彼にとっては「アンラッキー」のはずなのである。
おそらくは、彼が彼女を助けざるを得ないことで、逃走の足手まといになるからだろう。
けれど、彼の中で、少女を見捨てるという選択肢はなかった。
そんなことができるような人間だったら、彼には「他人の不幸を肩代わりする」なんていう能力が芽生えているはずがないのだから。
「巻き込んで悪い。俺は三年の調布。君は?」
「あ……その、私、は。朱場。朱場永斗……。助けてくれてありがとう、調布くん」
腕の中で縮こまるように身じろぎをした朱場の表情に、浩一は思わずどきりとする。
頬を染めて上目遣いでこちらを見る様子は、まるで、自分に好意を持ってくれたかのように浩一に思わせるのに十分なものだった。
だが、ぶるんぶるんと浩一は首を振るう。
そんなはずはない。
なぜなら、浩一は今、不幸に襲われ続けているのである。
だから、偶然ラブコメのような出会いをしたこんな美少女から好意を寄せられるなんて、そんな幸運はあり得ない。
そう。この出会いが、致命的な不幸の呼び水になるのでない限り、そんなことは、『アンラッキーワルツ』が許さないはずなのだ。
だが、浩一は二つの誤解をしていた。
一つは、間違いなく、彼の腕の中の美少女、朱場永斗@鬱(一見アレだが、キラキラネームではなく、戸籍法第107条の2に基づき、SNSで使っていた名前で本名を改名した、間違いなく戸籍上の名前である!)は、調布浩一に惚れていたということ。
はっきりいって、一目惚れである。
元より、朱場は凄まじい惚れっぽさを誇る少女であり、また、彼女のタイプは「あらゆる危害に耐えうるタフな男」であった。チェーンソー殺人鬼から自分を抱えてなお逃げ続けている姿は、まさに彼女のストライクゾーンど真ん中をピンポイントでぶち抜いたのである。
ついでにいえば、響き渡るチェーンソーのメロディと殺人鬼のデスボイスにより心拍数が跳ね上がり、吊り橋効果が発生したのも、朱場の恋愛脳を加速させたのかもしれない。
そして、もう一つ。
彼女に惚れられることは、調布にとって「明確な不幸」であることだった。
朱場永斗@鬱。
彼女もまた、魔人能力者である。
その能力は『ヘイストスピーチ』。
対象「阿」の発する言語情報を圧縮し、対象「吽」の脳内に直接流し込む異能である。
この概要だけを読めば、単なる平和的なテレパシー能力と思えるかもしれない。
だが、朱場の能力は、あまりにもその情報圧縮力、転送速度が高速過ぎた。
人の脳が一度に処理することができる情報量には限度がある。
脳の処理量の過負荷に対しては、通常人体構造上、感覚器と脳とを連絡する神経系の機能をブロックすることで朦朧、あるいは気絶状態を作り出すセーフティがかかるものだが、朱場の『ヘイストスピーチ』によってもたらされる情報は、感覚器官経由ではなく、直接脳内の神経パルスによる信号が強制反応させられることによる伝達である。
即ち、人体の通常の防衛機構で、そのオーバーフロウに対処できない。
すると、どうなるか。
頭が爆発して死ぬ。
朱場が初めてこの能力を発現したのは、人生初の、想い人への告白のときだった。
彼女は、三日三晩に渡り考え続けた愛の言葉をコンマ数秒で全て愛する少年の脳へと注ぎ込み、そして、完膚なきまでに破壊し尽くしたのだ。
現行の刑法において、魔人能力者の能力発現時の殺人罪は、問われない。
彼女はただ、罰なき罪と、敗れた初恋を抱えながら、考えた。
(魔人……その中でも、特別に強靭な魔人だったら、私の愛の言葉を受け止めてくれるかもしれない)
このとき、初恋の少年の脳幹爆破を目の当たりにしながら、なおその考えに行きつくことができたのは、彼女の強さであり、同時に、凄惨な光景に触れた故の狂気だったのだろう。
とにかく。
朱場永斗に惚れられるということは即ち、この、精神的ブラウザクラッシャーとでもいうべき『ヘイストスピーチ』によって愛を語られるのと同義であり、それは、タフではあるものの、特別魔人能力で脳の強靭さを引き上げているわけではない浩一にとっては、死に等しいのだ。
だが、浩一はそんなことには気づかない。
魔人能力からしてリンゴ6個分ほどに甘いと評された彼は、人を疑うことのない好青年なのである。
というか、並の高校生なら、道でぶつかっておっぱい揉んだ女の子が一目ぼれしてきたら、それが危険だなんて思わない。思ったとしても抗えるはずがない。
男子高校生だからね。しょうがないね。
そんなわけで、浩一は本人すらあずかり知らぬところで、前門の脳幹爆破美少女、後門のチェーンソー殺人鬼という絶体絶命の状況に追い込まれていたのだ。
あまりにも不幸。あまりにも不運。
それこそが、彼の能力『アンラッキーワルツ』。
繰り返す不幸の連鎖を引き寄せ、肩代わりする、流し雛めいた献身の力だった。
(調布先輩。聞いたことがあるわ。魔人能力が我欲じゃなくて人助けのために発現したお人よしの好青年だって。しかも、不幸な目にあってもそれを本来受けるはずだった人を恨まずに笑ってすませるとか最高じゃない素敵すぎるこんな人が魔人になっていいのかしらあああしかもそんな人と恋愛漫画みたいに曲がり角でぶつかって運命的な出会いをするとか間違いないこの人が私の赤い糸なのね赤い実弾けて今私の心はTNT換算で22トン級の衝撃に打ち震えているわこの想い全てを貴方にぶつけて受け止めてもらいたいでもいつかみたいに耐えきれなかったらいいえ永斗いけないわ恋愛はやらずに後悔するよりやって後悔すべきものだもの恋は速攻瞬獄殺で親に会ったら親殺し仏に会えど 仏契りよ!)
なんてことを想っていても、浩一には、腕の中の可憐な美少女が恐怖におびえながらも自分を頼って熱い視線を送っているようにしか見えないのだから、悲しいかな、人の外見による第一印象というのは強いのである。
「とにかく、あのチェーンソー野郎を撒く! そしたら下ろすから、もうちょい我慢してくれ、朱場さんっ」
おお、浩一よ! 全く下心がない善意だからこそ、ここでそのハーレム系鈍感ヒーロームーブは逆効果! その誠実な対応が、彼自身を脳爆発地獄への十三階段を上らせていることに、浩一は気づかない!
実際、背後からなおも迫るチェーンソー音によって追い詰められた彼にそんなことを予想せよというのはあまりにも酷である。つまりこれはどう考えても不可避!
不幸と踊ってしまったと言うほかない!
当然の如く朱場の恋愛ボルテージは急上昇のストップ高!
もはや朱場の脳内フィルターでは調布の表情に少女漫画めいた点描トーンがキラキラしている! これぞ運命!
湧き上がる想いの丈全てを伝えるべく、彼女は魔人能力の発動を用意する。
定義。
阿=朱場永斗@鬱
吽=調布浩一
「あの、調布先輩。その、こんなときにアレなんですが。いや、こんなときだからこそなんですが」
「? あ、どっか痛い? 悪い。乱暴に掴んでた?」
「そ、そうじゃなくて、痛いのは胸というか」
「……ああああ、そ、その、本当ごめん! あのわしづかみは本当に偶然の事故だけど怒られても仕方ないよな」
「ふふ。……調布先輩、お人よしすぎです。だから、私はそんなあなたが……」
『ヘイストスピーチ』、発ど――
「天誅してぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
どごぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!
瞬間。
怒号が、周囲の大気をびりびりと震わせた。
チェーンソー殺人鬼の金属摩擦音、そして、意味不明の殺人鬼デスボイスを、ただの一喝で駆逐する、圧倒的な声量。
調布はおろか、チェーンソー殺人鬼すら、足を止めて、その声の主を振り返った。
振り返って、しまった。
「……ああああああ、天誅してぇぇぇぇ。めっちゃ天誅してぇ」
そこに立っていたのは、瓦礫の中からゆらりと身を起こす、細身の男だった。
ぼさぼさの蓬髪に、薄汚れた着流し。
まるで、時代劇の中から飛び出してきたような、素浪人めいた姿。
その手にあるのは刀ではなく、コーヒーのペットボトルと、アイスのカップだった。
「拙者マジ月に一度のハーゲンタイムに勤しんでいたのでござるよ。わかる? ハーゲンタイム。消費税込みで449円のスペシャリテでござるよ? 大魔王の名を冠するにふさわしいハーゲン様でござるよ? 精神集中して全身全霊無我の境地で味わうべきその至高のスイーツタイムを、あろうことか! 貴様は! チェーンソーとその小汚い筋肉で! 邪魔しやがってよおおおおおおおおおおおお!!」
びりびりと皮膚からすら感じ取れる威圧感。
その言動は全く理解できないが、この場にいる誰もが一瞬で理解した。
このエセ素浪人。
目の前のチェーンソー殺人鬼と同等か、それ以上のヤバイ奴である。
「え? 狂人こわ……」
一瞬、チェーンソー殺人鬼の言動が素に戻る。
と、瞬間、筋肉ダルマの殺人鬼の姿がぶれ、その中に、小柄な女学生の姿が現れ……
「あれ? 女の子……?」
「ッ……私……俺ハァ、殺杉ジャック……貴様ラ人類ハァ、俺ノチェーンソーニAmazon熱帯雨林メイテ皆伐サレンダヨォォォォォ!!」
「あ、そういう名前だったのねあんた。って、また姿が……!」
再び殺人鬼は元のおぞましい姿を取り戻す!
否、その筋肉はさらにその威容を増し、もはや外付けアタッチメントのチェーンソーがついた肉団子といった様子に変身し、素浪人に向き直った!
もはや、先ほどまであれほど追いかけまわしていた調布はすでに意識の外!
それほどまでに、素浪人の狂気はこの場全てを支配していた。
ジュイイイイイン!!!
チェーンソー殺人鬼、殺杉ジャックの得物が最大出力で回転! 火花を散らし、振り上げられる!
これぞ真っ向唐竹割! 神をも一刀のもとに殺さんという気迫のこもったチェーンソー斬撃が、唐突に出現したスイーツタイム素浪人を襲う!
「天さあ。あいつ誅す? 誅しちゃうよ? いいよね?」
――いいよお。
そんな軽い返事を、周囲の人間は聞いたような気がした。
狂気の、伝播である。
ドゴォォォォォォォ!!!!
チェーンソー斬! 巻き起こる土煙!
床までめり込んでぎょりぎょりと回転する鉄の刃!
だが、そこには、真っ二つになった素浪人の遺体はない!
「拙者は、ちょんまげ抜刀斎」
そう口にする素浪人は、殺杉ジャックの肩の上に立っていた。
転移としか認識できないほどの高速回避であった。
「いや、あんたちょんまげでもないし、刀も持ってないよね!」
ちょんまげ抜刀斎は、浩一の適切なツッコミを黙殺する。狂人!
そして手にしたコーヒーペットとアイスを、殺杉ジャックの頭にぶちまける!
「冥途の土産にくれてやるでござるよ」
「ギョギョアアアアァァァァァァア!!!???」
殺杉は全身から大量の蒸気を噴出させ、叫びながら膝を突く!
実は、殺杉の弱点は、水に多量の糖分とカフェインを溶かした液体を弱点としている!
そして今、ちょんまげ抜刀斎がスイーツタイムを邪魔された腹いせにぶちまけたコーヒーと高級アイスが反応し、見事に殺杉ジャックの弱点を的確に突いたのである!
当然ちょんまげ抜刀斎はそんなことを意図していない! 完全な狂人の所業が、虚構の殺人鬼を打ち砕いたのである!
「もしかしてお主、甘味嫌い? せっかくの拙者の施しを……許さん。マジ誅決定」
身勝手!
「抜刀斎。天誅なら刀が必要だな?」
「お、そうでござるな」
「なら、これを」
「おお! 気が利くでござるな通りすがりの人! よし。それじゃあ改めて」
唐突に現れたフードの生徒から、♡型の意匠の鍔の刀を受け取ると、狂人素浪人は抜刀の構えから一閃!
「天誅!!」
チュピン。
殺人鬼肉団子の首と思しき部分がすっぱり両断!
力を失った殺人鬼は、どう、と床へ倒れ伏した。
「うむ。清々しい! 甘いモノを無駄にする奴は誅されて当然でござるな!」
さわやかに笑う素浪人に、いや、あからさまにアイスを無駄にしたのはアンタだよな、というツッコミを浩一は入れられなかった。だってこわいし。
混沌を極めた状況に、しばし微妙な間があった後。
その沈黙を破ったのは、
「あ、あの!」
浩一の腕から抜け出し、足を引きずる少女。
朱場永斗@鬱だった。
「危ないところを助けてくださってありがとうございます!」
彼女の潤んだ熱っぽい瞳はもう、浩一を見ていない。
彼女の視界の中心にいるのは、蓬髪の素浪人、ちょんまげ抜刀斎、ただ一人。
彼女の愛する人、愛していい男は、彼女の言葉を受け止めることのできる強靭な者。
つまり、チェーンソー殺人鬼から逃げ回ることしかできなかった浩一より、殺人鬼を一刀のもとに斬り伏せたちょんまげ抜刀斎こそが、彼女の理想にふさわしいのだ。
「礼には及ばんでござるよ。拙者、天の命じるままに奸賊を誅しただけでござる」
定義。
阿=朱場永斗@鬱
吽=ちょんまげ抜刀斎
「あの。あたし、あなたのことが――」
――『ヘイストスピーチ』、発動。
「――好きです!」
それは、死を告げる愛の告白。
朱場の妄想が限界まで高まった愛の言葉、その圧倒的な情報量が、相手の事情など斟酌せず、無防備なちょんまげ抜刀斎の脳幹に叩き込まれる。
防ぐ術はない。音ならば耳を、匂いなら鼻を塞げばいい。
だが、直接神経を焼く圧倒的な情報を遮断することはできない。
ゆえに必殺。故に不可避。
もはや、個々の意味すら認識できない情報量を脳に流し込まれながら、ゼロコンマ秒の中で引きのばされた感覚の中、ちょんまげ抜刀斎は、
(あ、マジ天の声聞こえた)
完全に事態を誤解していた。
そもそも、ちょんまげ抜刀斎は、サムライでも何でもない。
思い込みが強いだけの狂人であり、その狂気により魔人能力を手にしてしまった殺人鬼だ。
その能力は『天誅』。
自らの行為が天の意志の代弁であるという思い込みにより、自らの身体能力を際限なく強化する、シンプルにしてはた迷惑な異能だ。
だが、ちょんまげ抜刀斎には、一つだけ、狂人なりの不安があった。
彼は天の代弁者でありながら、直接天の声を聞いたことがなかったのである。
だからこれまで、ちょんまげ抜刀斎は「天が自分に罰を下さないということは、自分は天の代弁者として正しいことをしているのだ」と解釈していた。
黙認、という形でしか、天の意志を確かめられなかったのである。
まあ、そもそも彼の行動を肯定する天なんていうのが狂気の妄想なのだから、何も語り掛けてくるはずがないのだが。
とにかく、そんな彼は今、『ヘイストスピーチ』によって叩きつけられる情報の暴力、朱場永斗@鬱の愛のささやきを、天誅という善行を重ねた上で辿り着いた次のステージだと理解したのだ。
(ついに天は拙者に語り掛けてくれたのでごさるな!)
魔人能力は、思い込みの具象化、妄想による世界の塗り替え行為である。
ここで、ちょんまげ抜刀斎の『天誅』は、彼の誤解に基づいて発動した。
即ち。
(拙者は天に認められたのだから、その声を理解できないはずがない)
『天誅』は、天に代わって誅罰を行うために身体能力を際限なく増強する能力。
その対象は、筋肉、反射神経だけではない。
そう。脳――情報処理能力とて、例外ではない。
かくて、魔人能力『天誅』で強化された脳が、魔人能力『ヘイストスピーチ』による情報処理飽和爆撃を――凌駕する!!!
(ああ、天は、この女を愛せよと仰るのでござるな)
(ああ、この人は、死なずに、私の愛を受け止めてくれた)
かくて、二人の狂人の想いは、完全な誤解を前提として、噛み合った。
1秒が経過。
二人は見つめあい、そして、どちらからともなく熱い抱擁を交わした。
「――ふむ。貴様ら。その想いが真実であると、確かめる勇気はあるか?」
二人のそばに、いつの間にか、大樹のような男が佇んでいた。
男の名は木下礼慈。
この『ラブマゲドン』の仕掛け人にして、判定役である。
ちょんまげ抜刀斎と朱場永斗@鬱は、どちらともなく木下に向き直ると、繋いだ手を掲げて頷いた。
「それが天命ならば」
「これが運命だから」
――たとえば、愛の名の下に噛み合った、奇妙な歯車。双方向の誤解の絆。
「――よろしい。俺の魔人能力『レジェンダリー木下』は、その愛を真実と判定した。汝ら、健やかなるときも、病めるときも、共に在らん事を。そして、二人の未来に祝福を」
まるで、結婚式の聖職者めいて、礼慈は宣言した。
「以後、帰宅と、学園の敷地内外の自由な出入りを許可する。が、『ラブマゲドン』終了時点での逗留は避けるように。ぬめちゃんの愛は、孤独なものにのみ与えられるべきだからな」
そして、祝福を受けた狂気の男女は、新たな明日に向けて、学園の校門へと向かった。
♡ ♡ ♡
「……え? 何これ?」
そして、完全に展開に取り残されたのが、浩一だった。
さっきまでいい感じだった女の子が、突然でてきた狂人とラブラブになり、そして、自分を追いかけていた殺人鬼が倒れ伏している。
浩一の戦略としては、悪い事態ではない。
自分が不幸を肩代わりしている間に、がんがんカップル成立してもらい、そして、最後に残った誰かと脱出したい、が彼の目論見だったからだ。
だが、せっかくいい感じになった女の子が、自分なんて目もくれずに去っていったのは、なんというか、それなりに傷つく体験であった。
「……命拾いしたな、調布浩一」
そんなしょんぼりハートを抱えた浩一に声をかけてきたのは、制服の上からフードつきパーカーを羽織った見慣れぬ生徒だった。
見覚えがある。先ほど、ちょんまげ抜刀斎に刀を貸した、通りすがりの少年だ。
「どういうことだ?」
「……死んだら恋はできない、ということだ」
かぶったフードと前髪からのぞいた視線の鋭さに、浩一は一歩後ずさる。
希望崎学園には、数多くの修羅場をくぐりぬけた戦闘魔人も多い。
『アンラッキーワルツ』に引き寄せた不運によって、そういった連中と、浩一は何度か事を構えるはめになったこともある。
だが、この少年の目は、そんな連中と同等か、それ以上の威圧感を放っていた。
こんな生徒が、希望崎にいただろうか。
少なくとも、3年の浩一が知らないということは、低学年か、あるいは、転校してきて間もない生徒なのか。
「……彼女を保護してやれ。この事態で、放置はできないだろう」
フードの生徒が指さした先には、栗毛の女学生が倒れていた。
つい先ほどまで、そこには、殺杉ジャック……チェーンソー殺人鬼肉団子が倒れていたはずなのに、だ。
「え? えええええ!? なんだこれ!?」
「映像部一年、麻上アリサの『ハイ・トレース』。役に没入したとき、その役そのものに肉体と精神が変容してしまう、役者魂が昇華した魔人能力。その暴走だ」
「さっき、斬られてたよな? けがは!?」
「『キューピットの武器庫』で具象化した刀は、体を傷つけない。『人の愛』を賦活するだけだ。殺杉ジャックの設定生命力と傷口の具合からすれば、ちょっとした友愛を感じる程度だ。それでも倒れたのは「殺された演技」を完璧にこなしてしまったからだろう」
淡々と答えるフードの生徒。
浩一は殺杉ジャックであった少女……麻上アリサを背負うと、フード生徒に尋ねた。
「あんた、何者だ?」
「天使九尾人。通りすがりの自由恋愛の守り手だ。調布浩一。この学校にいる皆のよき恋のために、アンタの力を、貸してほしい」
「おう、わかった」
即答する浩一に、フードの少年……九尾人の目が驚いたように見開かれる。
「……いいのか? 怪しいとか思わないのか?」
「怪しいのか?」
「いや……いい」
あまりに素直! もしも彼が幼女であったならば、悪い大人にそそのかされ、ハイエースでダンケダンケされてしまわないかと親御さんは心配で夜も眠れぬ生活を送っていたことだろう。
しかし、それも当然である。彼、調布浩一は、他人の不幸に心を痛め、それによって世界の法則を書き換えてしまうほどの善人。
理由もなく人を疑ったり怪しんだりしない性根の青年なのである。
「で、俺は何をすればいい?」
「……助かる。なら、まずはそのへんを歩き回って、このグリコ勇者のレベル上げだ」
しかし、そんな好青年である浩一も、いつの間にかフードの生徒、九尾人の背後に立っていた二人の男を見て、「あ、ちょっとヤバイやつに引っかかっちゃったかな」と少しだけ後悔した。
「うむ、グリコである。青年よ。いたいけな女性を暴漢から守る心意気、見事だ」
そこには、一粒で300mな某お菓子のパッケージめいてバンザイ+片足立ちをした無駄に声と顔のいい金髪の西洋人と、
「……ふん、吾輩だけでは不足ということか、同胞よ」
上半身半裸+全身に女性用パンティーの刺青をいれまくった、痩せぎすの東洋人がいた。
「……変態だあああああ!?」
調布浩一。彼を襲う不幸は、終わらない。
Chapter3 10秒間で消えない気持ち
ラブマゲドン開始からかれこれ三時間、泉崎ここねは女子便所に閉じこもっていた。急な腹痛や下痢に見舞われたわけでもない。生理でもない。
「最悪最悪最悪………ッ!」
開始から少しして、生徒会長を探して校内を歩き回っていた時だ。立て続けに五人の名前も顔も知らない男に告白された。
イベントに乗じて誰でもいいから声をかけて回っているのか、それとも前から彼女に気があったのか。
結果として、五人の、人であったものが、校舎の中で倒れ伏した。
便器の水を流す。
もはや色すらついていない吐寫物を、何度も何度も、流し続ける。
こんなはずではなかった。
ただ、『ラブマゲドン』という狂ったイベントを始めた生徒会長に拒絶の言葉を三度浴びせる。
それだけで、泉崎ここねの魔人能力『論理否定』は、全てを終わらせるはずだった。
この個室の外は、狂気が渦巻く地獄だ。
「……もういっそ、逃走して狙撃された方が楽になれるのかな、私」
泉崎ここねは笑った。
そんな独り言を呟いた自分自身に笑った。
何を馬鹿なことを。
泉崎ここねにそんな度胸は、あるわけがない。
ないからこそ、彼女は、魔人になったのだ。
こん、こん、と。
控えめに、個室も扉が叩かれた。
びくり、とここねは体を震わせる。
ここなら、安全だと思っていたのに。
ここなら、誰も襲ってこないと考えていたのに。
息を殺す。
静かに。嵐をやり過ごすように。
それでも、扉の向こうの人物は、立ち去らなかった。
何か、ヘッドホンごしに、くぐもった声が聞こえた。
ここねは拒絶するように、聴きなれたミュージックリストから椎名林檎を選択、再生ボタンを押す。
ボリュームは最大に。
泉崎ここねは、何も聞かない。
泉崎ここねは、何も聞いていない。
それでも。
扉の向こうの人物は、こう口にした。
「大丈夫。泉崎さん。ボクは、キミに恋したりしないから」
♡ ♡ ♡
「情報を整理しようか。今、『ラブマゲドン』を取り巻く勢力は、大きく分けて四つだ」
「まず一つ目は、『ラブマゲドン』を運営する、生徒会一派。主な構成員は、生徒会長の木下礼慈。彼の副官である、滑川ぬめ子。そして、彼らが有する最強の抑止力、スナイパーあたる。その他、生徒会役員23名。彼らが、この学園のライフラインも押さえている。単純に高い戦闘能力を持つ木下、問答無用の洗脳能力を持つと推察される滑川、そして、規格外の狙撃能力を持つ、あたる。事実上、この学園最強の勢力だ」
「二つ目は、『ラブマゲドン』を穏健に終わらせようとする、理事長一派。主な構成員は、先のハルマゲドン終結の功労者、糸遊兼雲。それに、最近は弓道部の根鳥マオが協力しているという話だ。主だった魔人は少ないけれど、人手はそこそこ多い。それに、糸遊は『人の縁を操る』魔人能力者だ。集団心理をコントロールして望む筋書きを描くこともお手の物だろうね」
「三つ目は、――ボクたちだ。目的は、一刻も早く、このバカげた地獄を終わらせること。そのためには、あらゆる手段を使う。構成員は、キミ、泉崎ここねと、ボク、平河玲。たった二人だけど、学園のあらゆる情報を集められるボクと、相手の能力によらず、相手を無力化できるキミの能力なら、目的達成の目は十分にあると思う」
ホワイトボードに四つの丸を描く生徒の姿を、ここねはぼんやりと眺めていた。
黒のニット帽に口元を隠すマフラー、そして、手袋に、学園指定の男子用の制服。
切れ長の目元だけが、この生徒が外に見せる容姿だった。
男なのか、女なのか、それすら不明。
声も中性的で、声変わり前の少年のようにも、ハスキーな少女のようにも聞こえる。
平河玲。そう名乗るこの生徒が、あのはじまりの日、ここねを個室から連れ出した相手だった。
ここねはよく知らないが、どうやら学園では有能な情報屋として有名らしい。
「……四つ目は?」
「四つ目は、正直、あまり情報が得られていないんだ。中心人物は、天使九尾人という生徒だそうだ。様々な生徒に声をかけて回り、協力者を増やしているらしい。けど、目的がよくわからない。「自由恋愛を守る」とか言っているけれど、『恋愛感情を操る』魔人能力者を中心とした勢力らしい」
「ひどい矛盾」
「そうだね。ボクもそう思う。その能力が本物なら、ボクたちにとって、天使は、滑川や木下と同じ、人に恋愛を強要する、許されざる敵だろうね」
ボクたち、と玲は言った。
けれど、ここねは、玲をまだ、仲間だとは認めていない。
ここねが玲の話をおとなしく聞いているのは、玲をいつでも殺すことができるからだ。
玲自身も、そのことを認識している。
そもそも、この「命を賭けた同盟」は、玲の方からここねに提案してきたものだからだ。
♡ ♡ ♡
はじまりの日、ドアの向こうから聞こえてきた声に、ここねは深呼吸をすると、ゆっくりと立ち上がった。
便器を背に、真っすぐに前を見据え、個室のドアを開ける。
黒のニット帽にマフラー、長袖長ズボンの男子用制服。
そこに立っていたのは、たれ目がちで大きな瞳だけを露わにした、あからさまな不審人物だった。
喉に込め上げる酸味を押し殺しながら、ここねは口を開いた。
「来ないで」
泉崎ここねの魔人能力『論理否定』は、言葉を媒介にして、対象の思考能力を奪う攻撃的な異能である。
ここねが直視し、拒絶の念とともに口にしたネガティブな言葉を聞いた対象は、思考能力が著しく低下する。
一度で正常な理論的思考が不可能となり、二度で言語野の機能が停止、三度で、脳の高次機能がほぼ麻痺する。その末路は、植物人間めいた廃人化である。
短時間のうちに三度の『論理否定』を受けた者の脳機能が回復したことは、これまで一度としてない。これは、ここね自身が望んだとしても治せない、不可逆のダメージだ。
まさに、三言必殺。
しかし、
「ボクに、キミの能力は効かない」
ニット帽の生徒は、身じろぎ一つせず、繰り返した。
「――来ないでッ!!」
二度目の『論理否定』。
これで、相手は言語の使用が不可能となるはず。だが。
「安心して。キミはわかっているはずだ。ボクはキミを傷つけない」
なおも、謎の生徒は言葉を続ける。
なんで。どうして。
世の中の人間は全て、自分の言葉三つで、死んでしまうのに。
取り返しのつかないことになってしまうのに。
「安心して。ボクはキミを怖がらない」
なのに、どうして。
どうして、殺したくなかったヒトは、廃人になったのに。
こうして、わけのわからないヒトが、全く影響を受けないのか。
『論理否定』が効果がない以上、泉崎ここねは、ただのか弱い少女に過ぎない。
「……私を、どうするの」
「キミと、同盟を結びたいんだ」
「無理」
「うん、そうだろうね」
あっさりと、黒ニット帽の生徒はうなずいた。
「だから、キミに、これを渡そう」
そして、親指大の小さな装置を、ここねに投げ渡す。
それは、護身用のブザーめいた、小さなスイッチだった。
「これは?」
「ボクを殺せるようになるスイッチだよ」
「……っ!?」
「ボクはキミを信用させる言葉を持たない。だから、代わりに、命を預ける。信頼してくれなくてもいい。ただ、いつでも切り捨てられる駒としてでいいから、どうか、ボクと互いに利用しあう関係になってほしいんだ」
♡ ♡ ♡
玲に『論理否定』が効かない理由は単純だった。
イヤホンで最大音量で音楽を流し、ここねの声が聞こえないようにしていたのである。
否定の言葉が聴こえなければ、『論理否定』は効果を発揮しない。あまりにも単純な対策だった。
だが、それは、ここねの能力を事前に理解していなければ取れない対抗手段であり、情報屋としての玲の有能さの証拠でもある。
では、なぜ耳が聞こえない状態で、玲はここねと会話できていたのか?
それは、玲がここねの唇を読んでいたからにほかならない。
読唇術は、平河玲の商売道具ともいえる特技の一つだった。
「じゃあ、まず、何をするの?」
「まずは、ボクたちの勝利条件を決めよう」
「……簡潔にして。ボタン」
「元気が出たみたいで何より。攻撃性が他人に向くのはいい兆候だ」
かちり、と、ここねは手にしたボタンを押す。
1秒。2秒。3秒。
「わかった。からかってすまない。いや、半分は本心からだったんだけど」
「で?」
ボタンから指を離して、ここねは玲に言葉の先を促した。
「ボクたちの勝利条件は、「木下玲慈と滑川ぬめ子を同時に無力化すること」だ」
「片方ずつじゃだめなの?」
「ダメだね。キミの能力は強力だけど、防ぎようはある。ボクのイヤホンみたいにね。だから、対策を考える暇を与えずに、続けて二人を倒す必要があるんだ。」
それはここねにも納得できる理屈だった。
「だから、『ラブマゲドン』の核となっている二人を、まとめて無力化する」
「スナイパーあたるは?」
「アレは、『論理否定』では対抗できない。……でも、対抗手段はある。そっちは任せてほしい」
玲の口調はいつも淡々としている。
性別も、感情もわからない、透明な声。
自分とは正反対だ、とここねは思った。
「私は何をすればいい?」
「待っていてほしい。キミに活躍してもらう時まで」
「そう」
女の子らしい甘ったるい響き。
そんな自分の声音が、ここねは嫌いだった。
こんな声は、もっと、男に媚びたい娘に備わるべきだと思う。
半径3m。それ以上、玲はここねに近づかなかった。
近づけば、即座にここねは手元のボタンを押すからだ。
ここねが、玲を殺せるようになるボタン。
それは、玲の耳元で大音量の音楽を響かせるイヤホンの機能を停止するスイッチだ。
10秒ボタンを押し続けると、玲のイヤホンは音楽を流さなくなる。
それは即ち、『論理否定』から玲の身を守るものがなくなるのと同義だ。
泉崎 ここねは、いつでも平河 玲を殺すことができる。
それが、ここねが玲と安心して会話するための、安全弁になっていた。
「ところで、泉崎さん。これを」
玲は、ここねの前に、一揃いの服を差し出した。
男ものの制服と、マフラー、そして黒の二ット帽。
どれも、玲が身に着けているものと同じものだった。
「きちんとクリーニングしている新品だから、安心してほしい。これなら、キミの容姿で気の迷いを起こす馬鹿も減るだろうからね。鉢かつぎ姫って、知ってる?」
「……むかつく」
1秒。2秒。3秒。4秒。
「謝る。無神経だった。でも、本当にこの服自体は、役に立つと思う。キミが望まなくても、キミは男どもから見れば魅力的すぎるよ」
5秒、6秒。
そこまでで、ここねの怒りは収まった。ボタンから指を離す。
玲曰く、人の衝動的な怒りの感情は、3秒前後で収まるものらしい。
『それ以上殺意が持続するならば、それは衝動ではなく、それ以上の理由がある。
10秒経過してなお、泉崎ここねが平河玲を不要と思うなら、キミはボクを容赦なく殺すべきなんだと思う。もちろん、そうならないようにボクは努力するけれど』
そんなことを、玲はここねに口にした。
いつ殺されてもおかしくないのに、まるで、平然と言葉を交わす。
その神経が、ここねには理解できなかった。
ただ一つわかるのは、平河玲が、泉崎ここねの目的の役に立つということだけ。
今はそれだけが事実だった。
「それじゃあ、ボクはまた情報収集だ。鍵かけて、その服を着ておいて」
そう言い残して、玲は立ち去った。
ここねは、とりあえず、机の上に置かれたマフラーを首に巻く。
そこからは、柑橘の香水の匂いがした。
♡ ♡ ♡
「木下礼慈は、恋愛関係が成立したと思われる場所に忽然と現れる。おそらくこれは、生徒会役員の魔人能力によるものと思われる」
「だったら、成立しそうな男女の近くで待ち伏せすれば襲撃できる?」
「木下はね。問題は、滑川だ。彼女については、『ラブマゲドン』開始以降、目撃証言がほとんどない。出没の法則性も見いだせない。これを見つけ出して、木下と滑川が同時に現れる状態を作り出し、同時に『論理否定』を叩き込む。これがボクらのゴールだね。泉崎さん、何か質問はある?」
「あなた、男? それとも女?」
自分の口をついて出てきた言葉に、一番驚いたのは、ここね自身だった。
他人に興味はない。他人に期待しない。
一人、自分のペースを崩さず、誰にも干渉せず、干渉されず、植物のように枯れて逝きたい。それが、泉崎ここねのあり方のはずだったのに。
いや、違う。
これは、自衛のための質問だ。
男だったら、いつ豹変するかわからない。
10秒ボタンの効果についてはヘッドホンを借りて試してみたからブラフということはないだろうが、それでも、確認するに越したことはない。だから、これは合理的な質問だ。
そう、ここねは自分に言い聞かせた。
卵の殻は今日もまだ、自分をきちんと覆っている、と。
「生物学的には、男だよ」
しばし言葉を選ぶように逡巡した後、玲は口にした。
「生物学的「には」?」
「……ちょっと込み入った事情があるんだ。暇なら話すけれど、どうする?」
「聞かせて。信用するか、判断材料」
「それじゃあ、きちんと話さないとね」
ここねは、玲がマフラーの向こうで、初めて笑ったような気がした。
「昔々あるところに、見栄っ張りの女の子がいました」
「女の子は、いつも理想の自分を演じて嘘ばかりついていました。途中でばれて恥をかけば、その悪い癖は治ったのでしょう。けれど、女の子は下手に頭がよくて、中学くらいまで、嘘で痛い目を見ることがありませんでした」
「女の子には、幼馴染の男の子がいました。素直で、正直者。彼女とは正反対の性格です。二人は仲がよかったですが、小学校高学年くらいから、なぜか疎遠になってしまいました」
「女の子は、自分の嘘が、彼にばれたから、嫌われたのだろうと、漠然と思いました。けれど、それを他人にばらすことのない彼に、感謝もしていました」
「中学になり、周りが性に目覚め始める頃。おませな女子の間で、経験人数がどうの、という話が話題になるようになりました。当然、見栄っ張りな女の子のこと、経験豊富だと嘘をつき、周囲からの特別な視線を集めました」
「そんなある日。幼馴染の男の子が、女の子に詰め寄りました。ぼろぼろと泣きながら」
「自分は女の子のことが好きだったと。けれど、自分が女の子を性的な目で見てしまうのが嫌で、距離をとったのだと。けれど、それなのに、女の子が見も知らぬ男と情を交わすようなことをしているなら、自分は馬鹿みたいだったと。女の子を机に押し倒し、脈絡も、理屈も通らない身勝手なことを訴えました。女の子の胸は締め付けられました。豹変した男の子への恐怖と同時に、ままらない後悔に」
「そして、こうも思ったのです。もしも、自分が、男だったら。そうしたら、幼馴染はこんな想いをしなかったに違いない」
「女の子は、見栄っ張りで、嘘つきでした。困ったときに女の子が頼るのは、いつだって嘘でした」
「だから、女の子は、口にしてしまったのです。
――『ボク、男の子だよ』、と」
「それは、世界を塗り替える、神様だって真っ青になるような嘘。女の子が手にしてしまった、嘘を本当にする異能」
「かくて、かつての女の子は、一人の友達と生来の性別を失い、素敵な超能力と新たな性別とを手に入れたのでした。おしまい」
冗談めかして、玲は締めくくった。
ここねは、理解した。
見えないはずのマフラーの向こう、玲が笑っていると、ここねがわかった理由。
それは、自分がいつも浮かべているのと同じ、自嘲の笑みだったからだ。
自分を許せなくて、けれど、それを罰することもできない臆病者の笑い。
「性別、戻せないの?」
「無理だね。何度か試してみたけど。一般的に魔人能力は、最初の一回は桁違いの出力で発揮される。後から上書きはできないみたいだ」
どんな表情を浮かべればいいのかわからず、ここねは、口元を隠すように、玲からの借り物のマフラーを巻いた。
しみついた柑橘の香水の残り香。
そこに、ここねは、いつか少女だった頃の玲の姿を垣間見た気がした。
「だから、ボクは生物学的には男だ。この体になって、数年間。男の体ではあるけれど、男に襲われる恐怖も知っている。キミの懸念だって、想像くらいはできるつもりだ」
「信用しろって?」
「だから、そのボタンだよ」
「私のために、こんなものまで作ったんだ?」
「元々は、自分の力が暴発しないようにって作った、安全装置。ボクの能力は、怒りに任せたら、取り返しのつかないことを起こすから」
そう口にした玲の声は、いつもの平坦なものではなく、どこか感傷的だった。
「覚醒したばかりの頃は、音声を媒介にした暗示や催眠の類だと思い込んでたから。結局、意味はなかったんだけどね」
「……そう」
それきり黙った二人の間。
玲のイヤホンから音漏れする椎名林檎だけが、騒がしかった。
♡ ♡ ♡
倒れ伏す男。
嗄れた喉。
ただ、やめてほしいと訴えただけ。
衝動のままに、声を出しただけ。
それなのに。
どうして、こんな、取り返しのつかないことに、なってしまったのか。
♡ ♡ ♡
ざらついた、硝子に爪を立てるような夢を見た。
玲が確保した鍵付きの教室の寝袋で、ここねは最悪の目覚めを迎えた。
手元のペットボトルから水を口に含むと、ここねは酸性の唾液を洗い流す。
寝起きはいつも、喉が痛い。
夢見のせいで空っぽの胃から、胃液がせりあがっているからだ。
夢に見たのは、初めて『論理否定』が発動した日のこと。
初恋の人に裏切られ、恋愛なんてこんなもの、と現実を突きつけられた夜のことだった。
泉崎ここねは、殺人者である。
生命活動は停止させていないが、『論理否定』の犠牲者の精神機能が癒えた事例はない。
だから、もう、まともな生き方など、望むべくもない。
誰にも構わず、誰にも構われず、ただ、朽ちていきたい。
そのはずだった。
それなのに、ここ数日のここねは、玲との会話を、期待するようになっていた。
それが、ここねには苛立たしかった。
脆いペットボトルを捻り、ごみ箱に投げ捨てる。
背後で、ドアが開く音がした。
「今日は早いのね」
振り向かずに呟いたここね。
それに応えたのは、
「――人嫌いという話で興味を持ってはみたが。まだ、半端者か」
見知らぬ男だった。
ここねの鼓動の速度が一気に跳ね上がる。
ただの男ではない。
長身痩躯、半裸、そして、剥き出しの上半身に刻まれた刺青……否。
皮膚に、女性用下着を埋め込んだ、異形。
「ならば、用は一つ。その下着……貰い受ける」
音もなく、下着男が歩み寄る。
ここねが声を出せば、それで終わる。
たった三言。
ここねの『論理否定』は、それだけで、相手の精神を殺すことができる。
それなのに、喉が、脳の命令を否定する。
声が出ない。
喉元が恐怖で締め付けられる。
理由がわからない。意味がわからない。
男の姿に、いつかの、あの教師の姿が重なる。
半裸でこちらに迫るやせぎすの体躯。
こちらを、ヒトとして見ていない、そんな目。
「……ぁ ぁぁぁぁ」
ここねを襲っているのは二つの恐怖だ。
心的外傷に根差す、襲われる側としての恐怖。
そして、容易く、相手を破壊してしまう恐怖。
泉崎ここねは、殺人者である。
だが、泉崎ここねは、殺人鬼ではなかった。
その力を生んだのは、素直な少女の幼い世界律。
よき子どもでなければならないと、相手に拒絶の言葉を発することへの恐れが、その重さが、思いつく限り最大の重さである、人の命と釣り合ってしまっただけのこと。
そんな、少女のいびつな精神性が生んだのが、泉崎ここねの魔人能力、『論理否定』。
だから、彼女は、最強に近い攻撃能力を持ちながら、戦闘者たりえない。
なぜなら。
彼女の精神性は、子どものまま。人を傷つけることで、自分が傷ついてしまうから。
あと、三歩で、男の手が届く。
二歩。
そこで、ここねの心の天秤が傾いた。
力への恐怖を、男への恐怖が凌駕する。
ああ、また、容易くこの言葉は人を傷つける。
そしてその重さが、泉崎ここねの心にのしかかる。
あの日の、力を失ったあの教師の体の重みのように。
せりあがる嘔吐感を抑え込み、ここねは口を開いた。
「――消え――」
瞬間、割り込んできた人影に、ここねの口元が塞がれた。
同時に、下着男の体が不自然に宙を回転し、どう、と床に叩きつけられる。
「――嶽内大名より、ボクの方が強い」
黒ニット帽に、口元を覆うマフラー。
ここねの『論理否定』の発動を止め、下着男を投げ飛ばし、腕を固めて地面に押し付けたのは、平河 玲だった。
「嶽内大名。彼女に手を出すなら、キミの情報は、ボクの商品になるよ」
「騎士サマの登場か。これは分が悪い……が」
瞬間、下着男こと、性魔人、嶽内大名の手が霞む。
それは、意識の間隙、知覚の死角を縫うように動き、玲の関節技を振りほどいた。
玲とここねは知るよしもない。
それは、男の絶技の応用。
あるゆる性技をたゆまぬ套路で道にまで昇華した武性技、六淫流。
本来は卑劣にも女体を弄ぶための技巧を、男は純粋な体術として行使したのである。
「退かせてもらおう。が、泉崎ここね。お前は、ソコの男より、吾輩よりの異端者だろう」
いつの間にか、男の手には、飾り気のないジャストウェストの白いショーツがあった。
ここねの着替え用の下着である。
地を蹴り、玲から距離を取ると、大名は隙のない動きでショーツを皺ひとつなく折り畳み、クリアパックに収納した。体軸のぶれなど微塵もない達人の動きであり、また、まごうことなき変態の所作であった。
間合いは一足一拳。
玲はここねをかばうように大名へと向き直る。
「評判通りなら、キミの用事はこれで終わりじゃないのかな?」
玲の言葉を無視し、下着男は、ここねへと言葉を投げかけた。
「泉崎ここね。お前は吾輩の同類。殻で世界を隔てる者。他人と協力する方が異常だろう」
どろりとした瞳。人に期待しない、世界を諦めたような目。
そこに、ここねは、どこか、能力に覚醒した直後、鏡に映った自分を思い出した。
「何を……言いたいの?」
「パンティー吊るしは嘘を吐く。特に、ソコの元パンティー吊るしは特別だ。神様だって騙してみせる、悪魔も真っ青なペテン師だろう」
「……黙れ」
珍しく、玲が語気を荒げた。
「平河玲。魔人能力は『流言私語』。嘘を現実に塗り替える、事象改変能力者だ。さあ、思い出せ、泉崎ここね。此奴と出会ったとき、何を言われた? その言葉に、お前は、認識を、塗り替えられてはいないか? 警戒するといい。後悔するといい。火を通された卵は孵らない。お前もまた、吾輩と同じ、愛知らぬ固着した異常者である」
「黙れ……ッ!」
ドンッ。
凄まじい脚力で床を蹴り、玲の姿が霞む。
一瞬で間合いを詰め、そのままに繰り出される掌打を受け、大名の体が吹き飛んだ。
「……ああ、そうだな。平河玲は、嶽内大名より強い。そう、一瞬でも吾輩が信じてしまった以上、貴様の嘘は、正しく世界のルールを書き換える。ただの高校生が、六淫流急胎道師範代の吾輩をも凌駕する。見たか、泉崎ここね。これが、この、元パンティー吊るしの、本性だ。全てを自分の思うように操作し、相手にそれを悟られない」
追撃の拳撃二連を手の甲のフェザータッチでいなし、蹴打をローアングル撮影めいた屈みこみで回避、大名はぎりぎりのところで玲の猛攻をしのぐが、魔人能力で規定された『強弱の格付け』は覆せない。
態勢を崩した大名の頬に、玲の拳が振り下ろされる、そのとき。
大名が、笑った。
「――『パンタローネの抱擁』」
「!?」
玲が、突如として、地面に膝を突く。
まるで目に見えない何かに、腰を掴まれたかのように。
「なんだ、お前まだ、パンティー吊るしのつもりだったのか。……未練だな」
「……ッ」
「ならば、お前の姫君もいずれ迎えに行くとしよう。……さらばだ」
その一瞬の意識の間隙を縫って、大名は部屋から飛び出した。
部屋が再び静けさを取り戻す。
玲が振り向くと、そこには、壁沿いまで下がり、距離を取った、ここねがいた。
「『安心して。キミはわかっているはずだ。ボクはキミを傷つけない』」
ここねは、ゆっくりと、口にした。
それは、初めて玲とここねが出会ったとき、玲が口にした言葉。
「私は、その言葉に、心を書き換えられたってこと?」
ここねの声は、震えていた。
けれど、唇を読むだけの玲に、そのことはわからなかった。
玲は、しばらく言葉を発さなかった。
「答えなさい」
ボタンを見せつけ、ここねは促した。
「……そうだね」
ここねは目を閉じると、手にしたボタンを押した。
1秒。2秒。
「嘘でしょ?」
3秒、4秒、5秒。
返事はない。
ただ、玲のイヤホンから、聞き覚えのあるメロディーが音漏れをしていた。
「なんで? 嘘って言ってよ」
6秒、7秒。
「ごめん」
「いまさら!!」
8秒、9秒。
ここねの指は、ボタンから離れなかった。
怒りもあった。衝動もあった。
けれど、それは、5秒ほどで収まっていた。
だから、その後もなおボタンを押し続けたのは、別の感情からだった。
――10秒。
玲のイヤホンから、音漏れが、消えた。
静寂の中で、ここねの鼓動だけがやけに大きく跳ねていた。
玲は、動かなかった。
逃げる様子も、言葉を発して、『流言私語』を行使する様子もなかった。
それが、ここねには余計に苛立たしかった。
「――消えて」
嶽内大名にはあれほどためらった『論理否定』。
それが、今は、当然のように行使できた。
膝をついていた玲の瞳から、意志の光が喪失する。
糸の切れた人形のように床へと吸い込まれる。
「……ここ……」
「――『パンタローネの抱擁』」
玲は、奇妙な姿勢で体勢を崩すと、仰向けに倒れた。
頭部が床にぶつかった瞬間の、鈍い激突音が痛々しかった。
「――消えて」
『論理否定』は繰り返し行使することでその効果を強める。
一度で判断能力を奪い、
二度で思考能力を奪い、
三度で精神活動を停止させる。
三度の『論理否定』を受けた被害者が回復した事例は、ない。
「――私の前から、消え去って!」
倒れ伏す玲。
嗄れた喉。
感情のままに、声を出しただけだった、あのときとは違う。
泉崎ここねは、明確に、自分の意志で、相手の生を否定した。
初めて、無抵抗の相手を蹂躙した。
どうして、こんな、取り返しのつかないことに、なってしまったのか。
「……ぁ」
鼓動が、大きくここねの聴覚を支配する。
うるさい。脳を圧迫するような頭痛。
その場に座りこみ、ここねは端末を操作、ミュージックプレイリストを選択する。
「……ぁぁぁぁぁ」
最大音量で、ヘッドフォンから前奏が響く。
それでも、鼓動の音が、鼓膜からしみついて離れない。
目の前には、辛うじて呼吸のため、胸を上下させているだけの、平河玲。
「あああああああああああああああああ!!!!」
ヘッドフォンを地面に叩きつけ、ここねは叫んだ。
わからない。
どうして、こうなったのか。
泉崎ここねは、一人で生きると決めていた。
その邪魔をする生徒会長を殺すつもりだった。
それなのに、平河玲が、近づいてきた。
いつでも殺せるから、役に立つからと、ここねは玲を許容した。
それだけの、関係だったはずなのに。
どうして、自分は、こんなに、傷ついているのか。
人に期待しないと決めた。
人を求めないと決めた。
それなのに。なんで、玲に裏切られていたと知って、そのことを許せなかったのか。
その答えは明確で、けれど、その答えは、ここねがこれまでの生で積み上げた論理を、真向から否定するものだった。
だから、その強い情動を、怒りと錯覚し、『論理否定』を行使してしまったのだ。
「平河、玲」
ぽつり、と、名前を呟く。
なんて、愚か。
あの日とは真逆だ。
廃人にしてから、その気持ちが幻だと気づいたいつかの日。
廃人にしてから、この気持ちが重かったと知った今日の日。
結局、泉崎ここねは、いつだって取り返しのつかない失敗を繰り返す。
泉崎ここねは、この、会って間もない少年とも少女ともつかぬ相手を……
「――ふむ。貴様ら。その想いが真実であると、確かめる勇気はあるか?」
二人のそばに、いつの間にか、大樹のような男が佇んでいた。
男の名は木下礼慈。
この『ラブマゲドン』の仕掛け人にして、判定役である。
あれほど殺したいと思っていた相手を、ここねは、一瞥すらしなかった。
視線を玲に向けたまま、ここねは礼慈に尋ねた。
「……あなたに認められれば、二人の恋人は幸運になる?」
「そうだ」
「玲は、助かる?」
「保証はできない」
「……この気持ちは、絶対に、恋じゃない。多分、愛でもない」
「ほう」
「けど。私は、玲に助かってほしい」
とつとつと呟くここねの言葉を、木下礼慈は黙って聞いていた。
「お願い。私は、もう、恋なんてできないけど。玲はきっと、できるから。嘘つきのくせに、本当に大事な嘘はつけないとか。いいやつだから。変なとこで。だから……」
それは、どこまでも理屈に合わない言動だった。
平河 玲を廃人にしたのは、ここねだ。
身勝手で、支離滅裂なと、とりとめのない訴え。
「……だから、こいつの……玲の恋愛を、未来の、幸せを、祝福してよ……!」
口にしながら、ここねにはわかっていた。
これは子どものわがままで、世界を動かすことなんてできない願い。
だって、自分の言葉は、 否定することしかできないのだから。
沈黙。
やがて、木下礼慈は、頷いた。
「――よろしい。俺の魔人能力『レジェンダリー木下』は、その愛を真実と判定した。汝ら、健やかなるときも、病めるときも、共に在らん事を。そして、二人の未来に祝福を」
結婚式の聖職者めいて、木下は宣言した。
「……ぇ?」
あまりにもあっさりとした承認に、ここねはぼんやりと、木下を見上げた。
「以後、帰宅と、学園の敷地内外の自由な出入りを許可する。が、『ラブマゲドン』終了時点での逗留は避けるように。ぬめちゃんの愛は、孤独なものにのみ与えられるべきだからな」
「どう……して?」
木下は何も答えぬまま、その姿は虚空にかき消えていった。
残された言葉の意味することを改めて理解し、ここねは慌てて玲へと這いよる。
息は、ある。けれどそれだけでは、廃人化からの回復を意味しない。
口元と頬を隠していたマフラーをほどく。
少女と見まごうばかりの整ったが露わになる。
その白い頬を、ここねは二度、軽くたたいた。
「……ぁ」
びくり、と震える肩。
そして、玲のまぶたが開き、瞳孔が、焦点を結ぶ。
「いた……ぃ」
意味のある呟き。
それは即ち、『論理否定』が「一度しか効いていなかった」ということだ。
なぜ? ここねは確かに『論理否定』を三度行使した。
どんな幸運で、それを、回避できたというのか。
ここねは思考をやめた。
いい、事実は単純だ。
玲は、一度しか『論理否定』を受けていない。
ならば、半日もすれば、思考能力は回復するだろう。
「……ごめん……なさい」
「こえ……きれい……はじめて……きいた」
「ばか」
玲の頭を抱えるようにして、ここねは声を震わせた。
きっとこれは、恋でも愛でもない。
それはきっと、間違いではない。
それでも。
全く人に期待しないという、泉崎ここねの殻には、確かにひびが入れられた。
――たとえば、のみこみきれぬ過去で繋がる傷痕。孤独の孵化。
「うそ……ごめん」
「うん」
「ぼく……こわくて」
「うん」
「なかよく……なろ」
「うん」
夕暮れの校舎に、つたない言葉が交わされる。
言葉一つで、世界を変えてしまう嘘つきと。
言葉一つで、人を殺せてしまう殺人者との。
どこまでも無防備な言葉が、言葉本来の役目を帯びて、交わされていく――。
♡ ♡ ♡
「嶽内大名。回収は、索敵の範囲で、危害は加えるなという約束だったはずだ」
「ふ。……吾輩としたことが、パンティー吊るしに見つかるようなヘマをするとはな」
ここねと玲とが寄り添う部屋に背を向けた下着変態男、嶽内大名。
その異形に、少年が声をかけた。
フードつきパーカーの男子生徒、天使九尾人。大名の同盟者だ。
「一度目の『論理否定』の直後。『パンタローネの抱擁』を、平河玲に使ったな」
九尾人の指摘は正しい。
『パンタローネの抱擁』は、大名に許された魔人能力。
女性の下着に干渉し、意志を持たせて操る異能である。
大名は、ここねが玲に対し、最初に『論理否定』を行使した瞬間、この能力で玲のズボンの中の下着に干渉、体勢を崩させた。
『論理否定』の効果で正常な判断能力を失っていた玲は受け身もとれず、『幸運にも』後頭部をもろに床に打ち付け、気絶。
結果として、二度目以降の『論理否定』を受けなかった。
否定の言葉が聴こえなければ、あの能力は効果を及ぼさないからである。
「で、どうするね? あくまで吾輩と同胞は対等な協力関係だ。強制される謂れはない」
九尾人は首を横に振る。
「……責めてはいない。むしろ逆だ。僕には、あの二人の自由恋愛を支える手段が思いつかなかった。アンタの能力でそれができるだなんて、思ってもみなかった」
「貴様の能力を使えばいいだろう。そのための力だろう?」
「僕の能力は、『自由な恋愛を破壊する』ものだ。だから、本質的には敵にしか使ってはいけない。そう思っていたが……」
九尾人は、大名に手を差し伸べる。
フードの青年は、この異形の変態を、全くためらうことなく協力者として扱っていた。
「アンタを見て、少し希望が持てた。僕の能力も、誰かの恋のために使えるかもしれない」
「勘違いするなよ。吾輩、パンティー吊りにかける情はない。ただ、陰気な顔をしたパンティー吊りじゃあ、パンティーが可哀そうだろうが」
「ああ。アンタはそれでいい」
そう言って、九尾人は大名と握手を交わした。
握りかわした手のひらに光がともる。
やがてその輝きは具象化し、小さな一本の針となった。
♡型のあしらわれた、一本のマチ針だった。
「……『キューピットの武器庫』か」
「これが、アンタの『キューピットの武器』。これに傷つけられた相手は、傷の深さに応じてアンタに愛を抱く」
「いいのか?」
「アンタを信じて、アンタに預ける。嶽内大名は、これを悪用したりはしないだろう」
もしも、警視庁捜査一課魔人犯罪対策室所属の人間がこの場に出くわしたのならば、あらゆる周囲の被害を顧みず、大名に『キューピットの武器』が渡されることを阻止しようとしたことだろう。
大名は、公安によってA級危険猥雑者としてマークされる、危険人物である。
そんな男に「傷つけた相手を惚れさせる」武器を与えるなど、どう考えても正気の沙汰ではない。
「ウィル・キャラダインと、調布浩一……同柄パンティーは惹かれあうということか」
「……どうして僕の周りには会話の通じない奴ばかり集まるんだろうな」
「類友という奴であろう」
ズボンのポケットからソーイングセットを取り出すと、大名は受け取った針を収納した。
パンティーにこそ人格を認め、パンティーをこそ愛する彼にとって、ソーイングセットは救急箱、あるいは常備薬に等しい。
九尾人から手渡された『キューピットの武器』は、まさに彼にぴったりの形状だった。
「行動方針は変わらずでいいのだな、同胞よ」
「ああ。滑川ぬめ子のパンティーの捜索および懐柔。そして、滑川の経歴の解明だ」
「承知した。吉報を、待っていろ」
Chapter4 あなたの片腕になれたなら
「悪い。貧乏くじを引かせたな。おまえなら、勝ち馬に乗ることだってできたろうに」
「あなたの片腕になれれば十分です」
「そいつは俺に過ぎた腕だ。とっておけよ、糸遊。いつか自分が、人の輪に入れる日のために。『人に手が二本備わっているのは、自分と、大切な誰かを守るため』だ」
「詩的ですね」
「オードリー・ヘップバーンだ」
「映画、お好きなのですか」
「似合わないか?」
「ええ、全然」
それは、血と硝煙に塗り潰されることが約束された、一時の安息。
糸遊兼雲が、まだ、自分の手に掴めるものがあると、信じていた頃の記憶だった。
♡ ♡ ♡
会議机を囲むように、三人の女子生徒が深刻な表情で座っていた。
「被害状況の報告を。ハナレさん」
残る二人に話を振ったのは、隻腕が目立つ最年長の女子生徒。
切れ長の瞳とほっそりとした顎、怜悧な顔立ちと右頬に広がる火傷が目を引く。
希望崎学園三年、 糸遊兼雲。
この学園において、理事長のエージェントとして活動する魔人生徒である。
「ええ。私(わたくし)は、2枚。朝起きたときにはなくなっていました」
答えたのは、錦糸のように艶やかな髪の、長身の少女だった。
糸遊も同年代の中では背の高い方だが、彼女はそれを上回る。
すらりと伸びた手足は、深窓の令嬢めいた物腰とは裏腹に鍛え抜かれている。
牧田ハナレ。国内有数の複合企業体、牧田グループの一人娘だ。
「グラムさん」
最後の一人は、どこからどう見ても小学生にしか見えない、瓶底眼鏡とだぼだぼの白衣の幼女(外見)。
甘之川グラム。こう見えて、学園の二年生であり、また、天才の名をほしいままにする科学者でもある。
「風呂上りにやられた。着替え用ではなく、脱いだ方を持っていかれた。間違いなく変態の犯行だな。糸遊先輩もやられたのか?」
学園でも有名な才媛三人は今、共通の困難に対して、一致団結しようとしていた。
「不覚を取ったわ。調査のために外出しているうちに、鞄を荒らされたみたい。……着替え用、全て、奪われました」
即ち、下着泥棒である。
三人の少女たちが冷ややかな視線を一点に向ける。
その先には、体育用マットに簀巻きにされた、男子生徒。
「三人とも、せっかくの美しい顔が、そんな表情じゃ台無しだぜ? 牧田ちゃんには天真爛漫な微笑みが似合うし、甘之川さんは自信たっぷりにドヤってるのが最高だし、……あ、糸遊センパイはァ、これはこれでアリかも」
希望崎学園二年で最も有名な男子生徒、「チャラofチャラ」「存在の耐えきれないほどの軽さ」「ザシキワラシばりにいつの間にかそこにいる」根鳥マオであった。
「セリフがいちいち長い!」
その無駄にさわやかな笑顔を、糸遊は蹴り転がした。
「あ。パイセン意外とすごいの履いて……」
「継続的な回転運動が男子高校生の記憶野に与える影響実験とかに興味はありませんか、甘之川さん」
「んー、今の研究対象は、味覚と栄養摂取が体に与える影響だから、私」
「なるほど」
「やばいやばいやばい! ちょっと足元固定してコンパスみたいに永遠に回転できるようにするとかちょっと工夫しすぎじゃね? でちゃうでちゃうさっき食べたやきそばパンがレインボーでポロロッカしちゃう! サーセン! マジサーセン! パパっと 削除っとくンで! ストップ・ザ・イトーパイセン!」
「あらあら、根鳥先輩、すごい。回転しながら糸遊先輩から目を離されないのですね」
「そりゃあもちろん! 美しいレディと話すのに目を合わせないなんて俺の流儀に反すうぼあ! 黒い! いつの間にイトーパイセン黒ぱんつ……っていうか視界が真っ黒!」
手早く根鳥に目隠しをすると、糸遊兼雲は盛大に溜息をついた。
根鳥マオが糸遊に近づき出したのは、ラブマゲドン開始から数日ほどしてからだ。
最初は三人の「計画」が発覚し、生徒会が間諜として差し向けてきたのだと糸遊は考えた。根鳥は生徒会メンバーとそれなりに懇意だったからだ。
だが、「情報屋」平河玲によれば、ラブマゲドン開始後、マオは生徒会と接触していないとのこと。
さらに言えば、根鳥マオはおおよそあらゆる生徒に対してこの軽薄な態度で親しげに話しかけているだけで、特別生徒会とのパイプがあるわけでもないとのことだった。
であれば、なぜ、こんな男が寄ってきたのか。
それがわからないことが、糸遊をいら立たせていた。
「……見損ないました。何か目論見があって付きまとってきていると思ったら、こんなことのためとは」
「誤解だってば! そりゃあ俺だって健全な高校生だし? パイセンたちみたいな美人のぱんつには興味あるけど、盗もうなんて思わないって! プレゼントがほしいのに包装紙だけ万引きとか卍ナイしょ? 俺はただ、パイセンとお知り合いになりたかっただけ!」
「嘘おっしゃい。私なんかに近づいても、あなたにメリットはないでしょう」
「そういうこと言っちゃう? パイセン、ホント、自分のことはわかってねェンだからさ。今、この学園の中心にいるのは、パイセンだって、俺知ってるぜ?」
糸遊は、反射的に手にした鞄を強く握った。
鞄の中には、一冊の本がある。
『万蕃儿縁起大系・手引足抜繙自在鉄之帖』
糸遊が魔人能力で具象化した、綴葉装である。
この冊子がある限り、マオの言う通り、この学園で起きる出来事の筋書きは、ほぼ糸遊の掌中にあるといっても過言ではない。
(やはり……こいつ、私の能力を知っている?)
様々な手順や制約はあるが、糸遊の能力は、「対人関係の方向性を制御する」ものだ。
交友関係が広い根鳥マオであれば、通常の対人関係が「ある方向性に向けて」コントロールされていることに気づく可能性はあるかもしれない。
だが、そこから、糸遊に辿り着くことなどできるだろうか。
少なくとも、ただの高校生、軽薄で有名な男に、可能だとは思えなかった。
「それよりさーパイセン、目隠しプレイとかレベル高くない? 俺もっと、パイセンの綺麗な顔みたいなー。ねー、いいじゃんかー、むすっとしててもいいからー。むしろそれもまたいいからー」
「うっさい静かにしなさい下着ドロ」
「ひどい! 冤罪! 困ったときのスペイン宗教裁判!」
「あらあら、根鳥先輩、ネタが古いですわね」
「うむ。私にもわかるぞ。大人だからな」
「グラムちゃんもすごいですね、えらいえらい」
「だーかーらー牧田嬢! 私の方が先輩だと何度言えば!」
「ああ、つい妹のようで。失礼しました」
マオの目隠しを確認し、糸遊は綴葉装を開いた。
そこには、生真面目なほど整った字体で、根鳥マオの名が書かれていた。
その横には、三年の男子生徒、調布浩一と麻上アリサの名が連なっている。
糸遊の能力、『万蕃儿縁起大系・手引足抜繙自在鉄之帖』は、特定の手順を踏んだ後、この綴葉装の同じページに名前を書いた人間の関係性をコントロールすることができる。
周囲の不幸を引き寄せつつ、カップルの成立を応援するお人よし、浩一。
広い交友関係と機転で、場を収める能力に長けた、マオ。
当意即妙の演技力と、汎用性の広い魔人能力で二人の男子生徒に対応できない事態に対処できる、麻上アリサ。
糸遊の筋書きでは、この三人が『ラブマゲドン』をひっかきまわし、生徒会の注目を引いてくれるはずだった。
その間に、ラブマゲドンの解体を目指す計画が、どうして、こんなことになってしまったのか。
『万蕃儿縁起大系・手引足抜繙自在鉄之帖』は因果の方向を誘導する能力だ。
名前を書いた相手を洗脳し、思い通りに操作するような能力ではない。
そのことが今は、ひどく歯がゆかった。
「だあああああ、ハナレさんもグラムさんももうちょっと真剣になってください! この閉鎖空間で下着ドロとか許されざるですよ!」
「ああ、糸遊嬢。そのことだが」
「なんですか!」
ツッコミ熱さめやらぬ糸遊を制すると、牧田ハナレはだぼだぼの白衣の裾を、ドアの方へと向けた。
「現在進行形で、下着ドロ真実が発覚している最中なのだが」
「ぇ」
足の下に、簀巻き目隠し状態のマオがいることを確認した上で、ハナレの手が指す方向へと視線を移し、糸遊は絶句する。
そこでは、三着のパンティーが、ドアを開け、部屋から脱走しようとしていた。
脳が理解を拒む。
パンツが? 歩いている? クロッチとゴム部分を器用に動かして?
糸遊は一度強く目を閉じた。
そんなはずはない。精神疲労が生み出したたわいない幻覚だ。
疲れているのだろう。
目を開けば、そこには正しく世界を認識する視界が――
糸遊、開眼。
――パンツ、大行進、なう。
「なんなのよこれえええええええ!!!!」
糸遊は絶叫した。
「事実だぞ。現実逃避よくない」
「糸遊先輩は真面目ですから……認めたくない現実もあるのでしょうね」
「みんな冷静過ぎない!? パンツよ? ウォーキングパンツ! なんで!?」
「え? なに? 何が起きてるの? 教えてプリーズ!」
「そりゃあ、魔人能力だろう。エロ魔人能力は初めてか?」
「割とポピュラーだと思いますが」
「なんですかその、「希望崎は初めてか? 力抜けよ」みたいな言動! 私、この中で最年長ですけど!?」
「ああ、なんかすごく面白いことになってる気がする! けど! 目隠し放置プレイでなにもわかんない! この孤独感、なんか目覚めそう!」
「目覚めるなー!!」
叫びながら、糸遊はパンツを追って廊下へ出た。
そこには、まるで、通勤ラッシュ時のJR中野駅めいた密度でひしめくパンツパンツパンツパンツ! 色とりどり、素材様々、形状万別のパンツの流れが形成されていた!
その流れに足を取られ、転倒しかけた糸遊の手を支えたのは、マオだった。
「っと。危ないぜ、パイセン」
「!? いつの間に!」
「疑いは晴れたわけだ。解放したっていいだろう」
「グラムさん! ……っ。仕方ありません!」
「……犯人は、あそこみたいですね」
ハナレの見つめる先、パンツの濁流の先では、細身の男が疾走していた。
ハーメルンの笛吹きめいてパンツを引き連れる半裸青年男性。
どこからどう見ても変態ですありがとうございます。
「どうする? 糸遊嬢」
「どうするも何も! 放っておけないでしょあんなの!」
「ふふ、さすが。糸遊先輩は、上に立つ者の素質がありますわね」
「それを世間では『甘い』というんだろうが。今はそれが好都合だ」
グラムは白衣の裾を腕まくりすると、糸遊、ハナレ、マオにそれぞれ一度軽く触れた。
「――『林檎の重さと月の甘さ』」
とたんに、三人の脚をすくおうとするパンツの勢いが弱まる。
否、パンツの流れに抵抗する、三人の体重が、増加したのだ。
甘之川グラムの魔人能力は、半径2m以内の対象の『甘さ』と『重さ』を置換する。
その効果を行使することでグラムは三人の精神的な甘さの一部を自重へと転化、パンツ濁流に抵抗できる重さを確保したのである。
「さあ、あとは動けるメンバーに任せるぞ」
「ふふ、グラムちゃん、お手柄ですわ」
「だからいいこいいこするな! 私は年上だ!」
「じゃれてないで! 追いますよ!」
「イエスマム!」
「あんたには言ってない!」
パンツの流れに邪魔されながら、四人は半裸パンツ魔人を追跡する。
他にも、パンツ泥棒の被害に遭って追跡している女子生徒たち、パンツのおこぼれにあずかろうとつかみ取りに挑戦しようとする男子生徒、不幸にも曲がり角で唐突なパンツ濁流に飲み込まれて溺れかける調布浩一などもいたが、次々と追跡劇からは脱落していく。
「埒が明かない……っ」
「糸遊先輩、私、『跳んで』も?」
ハナレの提案に、糸遊は逡巡する。
牧田ハナレの能力は、糸遊にとって『ラブマゲドン』解体の切り札だ。
あまり目立つ使い方をされて、生徒会にマークされるわけにはいかない。
(ああもう、なんでこうなるのよ!)
糸遊の台本通りであれば、『根鳥マオ、調布浩一、麻上アリサ』の三人が生徒会の注意を引きつけ、その間に準備を整えた『糸遊兼雲、牧田ハナレ、甘之川グラム』がスナイパーあたるを排除。
校外へと脱出する生徒をコントロールするために乗り出した木下と滑川を、『平河玲、泉崎ここね』が無力化する算段だった。
それが今、根鳥はなぜかそばで軽薄な笑みを浮かべているし、糸遊はこんな目立つ追跡劇のど真ん中に飛び込んでしまった。
おまけに、頼みの綱だった平河と泉崎は、まさかのカップル成立で校外へ脱出してしまっている。
これ以上、不確定要素は増やせない。
「……目立たないようにね」
「ええ、おまかせください!」
それでも、一生徒として、この広域下着ハーメルンの笛吹き男を、放置もできない。
これが、糸遊の結論だった。
「――牧田の名は、『真鍛』に通ずる」
普段とは一転、抑えた声で、ハナレが呟く。
それは、彼女が、人生のロールプレイを切り替える、儀式だ。
深窓の令嬢から、もう一つの側面へと、ハナレの心身がスイッチする。
おもむろに、ハナレの長身が掻き消えた。
牧田ハナレの魔人能力は、『エターナル・フライ・アウェイ』。
ただ単純に、高速で上方向へと跳躍するだけの異能である。
その最高速度たるや、秒速300m。
ならば、ハナレは今、パンツの濁流を避けるために真上へ跳んだのか?
否。断じて、否である。
『エターナル・フライ・アウェイ』は、あくまで「上方向へ高速で移動する」能力。
そう。移動方向は、「真上」とは定義されていないのだ。
つまり、垂直方向だけでなく、水平方向へのベクトルの修正も可能。
そう。牧田ハナレは、上方向0.5m、前方向30mに移動するようベクトルを修正して、高速跳躍を行使したのである。
真上ではない以上、速度は大幅に減衰しているが、それでも人の目に留まるスピードではない。まさに神速。
跳躍である以上、パンツ濁流のペナルティも受けず、一直線に半裸ハーメルンのパンツ吹きへと迫る――
その能力を知る糸遊も、グラムも、そして何より、ハナレ本人すら、半裸男の拿捕を確信した。
だからこそ、目の前の光景に対する理解が遅れた。
「砥石よ宿りて――神剣を為せ」
ハナレが跳躍とともに繰り出した跳び膝蹴りは、突如割って入った金髪の男が手にしたモップによって真正面から受け止められていた。
「馬鹿な……あの速度に、どうやって反応する!?」
「『1ターンの間、対象が受けるはずの攻撃を無効化する』。そういうスキルだからだそうだ。反応できるか、できないか、なんていう世界律には縛られない。コイツは、そういうものらしい」
「……ッ!? きみ……は」
ハナレを跳ねのける、まるで漫画の中から出てきたかのような偉丈夫。
その後ろから現れたのは、小柄なフードの生徒だった。
レベルアップがギリギリ間に合ったな。調布のエンカウント率に感謝だ」
「……九尾人殿。本当に、全力で向かって問題ないのだな?」
「ああ。ハルマゲドン終結の立役者、糸遊 兼雲に、学園一の天才、甘之川グラム。そして、牧田ハナレの動きは、見ての通り。今のアンタ相手でも、うっかり死んだりはしない」
「安心した。ならば――」
金髪男の朗々としたよく響く美声が廊下に響く。
「グリコ! お嬢さん方。少しばかり、このウィル・キャラダインにお付き合い願おう!」
糸遊たちがウィルと名乗る美形西洋人の一粒三百メートルの謎の構えにあっけにとられる中、半裸下着男とパンツポロロッカは遠ざかっていく。
「……ッ、あんたが天使九尾人ね! なんで、あんな下着ドロをかばうのよ!」
「自由恋愛の守護に必要だからだ」
「どういう意味「あー、もしもし? うん、オレオレ。根鳥。ちょっとさー、借りたいものがあるんだけどさー。え? 今取り込み中? いやあ、大したことじゃないから頼むよ。俺とキミの仲じゃんよ」うっさい黙れ!」
「なんかすごい装丁の本で殴られた! 超痛い! それ大事な本じゃないの? 乱暴に扱っていいの?」
「いいの! これは絶対壊れたりしないようになってるの! そういう能力なの!」
『万蕃儿縁起大系・手引足抜繙自在鉄之帖』の角でマオの後頭部にツッコミを叩き込むと、糸遊は九尾人を睨みつけた。一見すると、目立つところのない少年だ。
だが、その隙の無い姿勢と、周囲を伺う視線の動かし方から、先のハルマゲドンの強豪とも遜色ない強者であると、糸遊は判断した。
「……糸遊兼雲、手を引いてくれないか? 『ラブマゲドン』に対して、僕らのスタンスは同じだ」
「あんな下着ドロをこの校内で泳がす時点で、交渉の余地はないわ」
「それが、アンタの、この学園への愛か」
♡ ♡ ♡
「俺は、この学園を愛している」
「また恥ずかしいことを」
「恥ずかしいものか。ろくでなしも多いが、俺たち魔人をただの人として認めて、日常生活が送れる場だ。外の世界を知るほど、この平穏は得難いと思うぞ」
「……ハルマゲドンが起きる場所でも?」
「ハルマゲドンが起こる場所でもだ。だって、そうだろう。そんな場所でなければ、俺もお前も適当な機関で戦略兵器扱いだ。こうやって呑気に話せなどしなかったろうさ」
「……また、恥ずかしいことを」
「はっはっはっ。確かに今のは恥ずかしいなあ!」
所在なく右手で前髪をいじった、そんな記憶。
♡ ♡ ♡
益体もない追憶を、糸遊は振り払う。
「――ハナレさん。やっちゃって」
「承りました♪」
その呼びかけをゴングにして、ハナレが跳ねた。
軽い拳撃で金髪のモップ男、ウィル・キャラダインとの間合いを詰め、モップによる防御を掻い潜るようにして渾身のアッパー。
「蹴打武式か! ……身体強化術式なしに、この速度!?」
一歩後退したウィルの側頭部を刈り取るように、回し蹴りを繰り出す。
剣道三倍段、という俗語がある。
武器を持った相手に無手で拮抗するには、圧倒的な技量が必要だ、という意味である。
金髪の男、ウィル・キャラダインのモップ捌きは鮮やかだ。棒や剣の達人と言っても差し支えない技量を見せている。
だが、牧田ハナレの体捌きは、ウィルの武技に確かに拮抗していた。
「西洋剣術ですか? でも。――温いですわ」
「女性と侮ったが私の落ち度か」
「貴方の前に立つ女は、最強に手を伸ばす『真鍛』の精華と心得なさい」
牧田ハナレは、ただの資産家の令嬢ではない。
牧田家の家名は『真鍛』を由来に負う。この一族に生まれたものは、齢十にして定めた能力を真に鍛え抜くことに人生の大半を捧げる。
知性であれ肉体であれ美貌であれ、一を鍛えれば万事に通ずる。
その執念めいた信念が、牧田グループを数代で国内有数の事業体としたのだ。
そんな中で、彼女が「鍛」に選んだのが、武術。
立ち技において世界最強と名高い、タイ式決闘術であった。
『エターナル・フライ・アウェイ』の小規模行使による高速フットワークを組み合わせ、ハナレの蹴撃はウィルの武器、モップを宙に弾き飛ばした。
とっさにウィルは空いた手で印を組んで守りの魔法を行使しようと試み――
「大気よ、凝りて―― ッ!?」
「……『甘い』よ。さっきから、牧田嬢をいかに傷つけず無力化しようかって考えている。動きでわかる」
突如ウィルの全身を圧倒的な重力が襲った。
為すすべもなく、金髪の勇者は頭を垂れるように膝をつく。
それを見届け、甘之川グラムはわざとらしく肩をすくめた。
「優しい人ほど無力化しやすいだなんて、全く、因果な能力だね、私」
謎の能力を秘めたウィルに対し、ハナレの体術では搦め手で逆転される可能性がある。
そのため、糸遊はグラムに指示し、ハナレの長身を死角にウィルに近寄らせて、『林檎の重さと月の甘さ』で拘束させたのだ。
「……ウィル・キャラダインと、嶽内大名、二人とも同時に追い詰めるとはな」
「?」
糸遊は、フードの生徒、天使の言葉に違和感を覚えた。
たしかに今、糸遊たちは、天使の仲間、ウィル・キャラダインを退けた。
だが、もう一人、大名……話の流れから察するに、おそらくは先ほどの逃げた半裸パンツ男のことだろう……については、むしろ、ここでの足止めのせいで逃げられてしまったはずではないのか。
「やってくれたな。――根鳥マオ」
意外な名前に、糸遊は思わず、隣にいた口笛を吹くチャラ夫を見た。
「ほら? 宇宙の全てはギブ&テイクで成り立ってるだろ? で、俺のギブ……愛ってば無限だからさー。当然、テイクだって、無限大ってわけさ」
通話状態のスマホをもてあそび、マオは軽薄にうそぶく。
「もう敷地のはじまで追い詰めたってさ。前には俺のオトモダチ、後ろに下がれば敷地外でスナイパーあたるの狙撃。何を企んでるか知らないが、おしまいだぜ、フードボーイ?」
「……そうかな?」
「糸遊嬢! 牧田嬢! 窓の外!!」
グラムが叫ぶ。
窓の外では、曇間を裂くようにして、一条の光の柱が天から降り注いでいた。
「――グラムさん!」
「計ってる!」
あの巨大な光条は、衛星軌道上から希望崎学園を監視している準『広域破壊級』魔人能力者、スナイパーあたるの魔人能力、『光陰矢の如し』によるものだ。
ラブマゲドン開始時、木下礼慈はこう告げた。
『ラブマゲドン開催中に、許可なく学園敷地外に出た者は、スナイパーあたるの『光陰矢の如し』に撃ちぬかれて死ぬ。ただし、突き飛ばされたり、うっかり歩きスマホだったり、意図せざる理由で数歩敷地から出てしまうこともあるだろう。そのために、最低でも10秒の猶予を与える。空から光の柱が降り注いで来たら、10秒以内に学園に戻るように』
猶予は最低、10秒。
ならば、実際には、スナイパーあたるが警告の光条を放射してから能力を行使するまで、何秒を要するのか。それが、糸遊の作戦……『砂糖菓子の弾丸計画』には必要不可欠な情報だった。
どうにかして、誰かが一度外に出て、猶予時間を確認する必要がある。
だが、危険だ。命を懸けた実験になる。誰が、どこまで、確かめるのか。
そんな検討をしている中、今、目の前で、まさに望んでいた光の柱が降り注いでいる。
おそらくは、パンツの群れを引き連れた、半裸壮年男性に向けて。
「天使九尾人……まさか、『光陰矢の如し』を撃たせるために、あの変態を?」
「半分正解、半分外れだ」
フードの少年は、静かに言葉を続ける。
「嶽内大名は、撃ちぬかれたりしない。それは僕の目的に反する」
光の矢が、少しずつ、収束していく。
巨大であったそれが、引き絞られるように、柱はやがて、針のような細さになり――
ふと。空に溶けるように消えた。
人一人を、殺すような、そんなエネルギーを放つことなく。
「ぁ、れ?」
「――猶予時間11秒を確認! これなら「間に合う」目が出てきたぞ!」
「『光陰矢の如し』は、発動したの?」
「いや」
「なぜ!?」
「嶽内大名の『真実の愛』が生徒会長に認められたからだろう」
「誰と!?」
「パンティーだろう」
しれっと九尾人は断言した。
糸遊は頭が痛くなるのを感じながら、状況を改めて整理する。
パンツを連れた半裸壮年男性は、マオの呼びかけに応えた生徒たちに追い詰められ、校外へ逃亡した。
それを、スナイパーあたるが確認し、光の柱で警告。
11秒経過した時点で、半裸壮年男性は生徒会長、木下礼慈に対して、パンツとの愛を誓い、それが「真実の愛」と認められたことで、スナイパーあたるの標的から逃れた……。
「なんじゃそれええええ!? それ愛!? 真実の愛ってなに!? パンツ相手でいいの? ただの変態じゃなくて?」
「それが、この『ラブマゲドン』の歪みだ。このイベントは事実上、木下礼慈と滑川ぬめ子の定義する主観的な『愛』を、参加者全員に強制するものでしかない」
九尾人が口にしたのは、以前から糸遊も懸念していたことだった。
参加者全員の愛の定義を均一化する、大規模な洗脳儀式。
それこそが、この『ラブマゲドン』の本質なのではないか、と。
『ラブマゲドン』のクリア条件である、『真実の愛』の判定は、木下礼慈の魔人能力『レジェンダリー木下』によって為される。
そして、魔人能力とは、個人の妄想を現実に強要する異能である。
つまり、『真実の愛』の判定は、礼慈の主観によって行われるのだ。
そして、期間内に『真実の愛』を得られなかったものは、滑川ぬめ子によって強制的に『真実の愛』を叩き込まれる。この手段については不明だが、木下礼慈の変貌ぶりを鑑みるに、洗脳か、それに準ずるものであると類推される。
つまり、元から木下・滑川の『真実の愛』に該当する感覚の持ち主は解放され、そうでないものはまとめてマインドコントロールの対象となる。
結果として、参加者は全員、木下・滑川と同様の恋愛価値観を持つことになるのだ。
理事長からの依頼という理由もあるが、この危うさこそ、糸遊が本格的に『ラブマゲドン』解体を目指した理由でもある。
だが、その強要される価値観が、「パンツとの愛も認める」ようなものだとは、糸遊の想定の範囲をはるかに超えていた。
「……天使、あなたがあの変態を泳がせたのは、「『光陰矢の如し』の猶予時間の確認」と、「『レジェンダリー木下』のがばがばさを、私にに認識させるため」ってことね」
「ああ。その上で、糸遊兼雲。もう一度、提案だ」
「この学園を……自由恋愛を守るため、僕らに手を貸してもらいたい」
♡ ♡ ♡
結局パンツ盗難犯は捕まえられぬまま、糸遊たちは拠点の教室に戻ることになった。
ハナレとグラムは生徒会の購買部からパンツの替えの配給を受けに行き、部屋にはマオと糸遊だけが残される。
「で、よかったんスか? パイセン。あんな怪しいやつと手を組んで」
「しょうがないでしょ。せっかく脱出できた平河君と泉崎さんを巻き込むわけにもいかないし。会長たちを止められる手段があるっていうなら、乗るしかない」
出がけに牧田が淹れた玉露は、先ほどまでの諍いで荒れた心を少し落ち着けてくれた。
湯飲みから立ち上る湯気ごしに、糸遊はマオの軽薄な笑顔を見る。
ただのチャラ男だと思っていた。
だが、あの場で最も冷静に事態を把握していたのは、この男だった気がする。
「根鳥くん」
「お、パイセンが初めて俺の苗字呼んでくれた! 好感度アップの予感!? オッシャはい、あなたの根鳥! 根鳥! 根鳥マオですYO!」
「調子に乗るな! ……じゃなくて。なんで、根鳥くんは、私に付きまとってくるわけ?」
軽口で返そうとするマオは、糸遊の鋭い視線に気づき、表情を引き締めた。
「最初は、『ラブマゲドン』から脱出するためのペアになれればなあって。ほら、パイセン、義理堅そうだし? 貸しをきっちり作れば、期間限定の彼女にくらいならなってもらえるかなあって。……けど、その方法じゃ、生徒会長の判定はパスできそうにないし、それで様子見てたら、なんか、パイセンを助けるしか、俺、イベントクリアできねーなってわかったんで。打算ですよ、打算。世界は等価交換ギブアンドテイク。それが俺のザユーノメイなんで」
「だから、セリフが長い。……気持ちいいくらいぶちまけたわね」
「そういうことだから、パイセンは俺をこきつかってくれりゃあいいですよ。『パイセンの力』と俺の人脈を組み合わせれば、学園の生徒なら大抵のことは聞いてもらえるし? ……あ、やべ。それだと事件が解決したあとの借り返すの俺だ! 超めんどい!」
わざとらしく机に突っ伏すマオ。
笑わせようとしてくれているのだろう。人の機微にうとい自分にもわかるということは、こういう気遣いは不器用なのだろうなと、糸遊は思った。
「馬鹿みたい。完全に、貧乏くじじゃない」
「いいの。だって俺、この学園を愛してるからね! ラブ&キメ顔ダブルピース!」
「照れ隠しが透けて見えるわよ」
「マジ!? ……ま、そんなわけだから、パイセンは俺を適当に使ってくれりゃあいいのよ。俺は、パイセンの片腕になれれば、今は満足だからさ」
――あなたの片腕になれれば十分です。
いつかの記憶が去来する。
自分に芽生えた力を持て余して、大きな血と暴力のうねりの中で、それでも人を信じようとした日のことを。
「……そこまでしなくていいわ。私にそんな資格はないし。とっておきなさい、根鳥くん。『人に手が二本備わってるのは、自分と、大切な誰かを守るため』なんだから」
「……はいはい、ヘップバーン女史の名言ね。んじゃ、他人に手を伸ばしてばっかいるパイセンの身は、俺が守ってやりますよ」
「ばか」
反射的に右手で前髪を弄ろうとして……糸遊は当然のように、失ってしまった腕のことを実感した。
追憶と、そして、ちくりと痛む感傷と。
ほんの少し、糸遊の鼓動が早く跳ねた。
と。
「――ふむ。貴様ら。その想いが真実であると、確かめる勇気はあるか?」
忽然と、向かい合う二人の間の椅子に、いつの間にか、大樹のような男が座っていた。
しかも、いつ淹れたものか、自前の湯飲みでお茶まで飲んでいる。
男の名は木下礼慈。
この『ラブマゲドン』の仕掛け人にして、判定役である。
「なんで……ッ!?」
思わず体を強張らせて身構える糸遊に対し、マオはさして驚いた様子もなしに、木下に話しかけた。
「やっぱりな。生徒会長。アンタは、どういう手段かは知らないが、「カップルが成立しそうな状況」を感知して、転移してる。内面の感知が正確にできるんであれば、告白の失敗はありえないから、考えられるのは、バイタルってトコ? おおかた心拍数とか発汗量あたりを感じ取る能力者と転移能力者をそれぞれ味方につけて、あたりをつけてるって感じとみたけど。違うかい?」
いつのマオの長セリフ。
だが、まくしたてられる言葉の勢いより、その内容に、糸遊の思考は追い付けなかった。
やっぱり?
マオは、礼慈が現れる条件を予測していた?
というか、その理屈だと、たった今、糸遊とマオの間に「カップルが成立しそうな」バイタルが観測されたということにならないだろうか?
「え? え?」
「根鳥。貴様、頭が回る男だったのだな」
「能ある鷹は加藤鷹ってね。レディを傷つけないために、爪は手入れしとくもんだろ」
「ちょっと待ちなさい! その判定ガバじゃないの? 私、全然ドキドキとかしてないし! 汗も……そう、暖房が効いて暑いだけだし!」
「まあ、概ねその通りだ。『真実の愛』が成立したならば、それを育むためにも一刻も早く解放されたいだろうと思ってな。無粋ではあるが、このように俺自ら出向くことにしている」
「……仕事熱心なことで」
「スルーするな馬鹿ー!!」
糸遊の抗議の声を完全にスルーし、男たちは立ち上がった。
「根鳥マオ。おまえには何度か世話になったこともある。だからこそ、『真実の愛』から一番遠そうなおまえに、それらしき兆候が表れたのは、俺としても嬉しいぞ」
礼慈はごつごつとした節くれだった手を、マオの肩に置いた。
それは、心底友人を祝福するような様子に、糸遊には見えた。
だが、それに対するマオの視線は冷ややかだった。
「会長。何を感知してワープしたのか知らないけど。それ、『真実の愛』じゃないぜ? だって、パイセンと俺の間に、『真実の愛』なんて、生まれるはずがないもんな」
糸遊は額から机に突っ伏した。湯飲みに立っていた茶柱が揺れる。
うっかりときめきめいたものを感じてしまった自分に対し、糸遊は自己嫌悪で泣きそうになった。
「どういうことよう! いや、別に悔しくなんてないし、こんな片手火傷ケロイド状女が惚れた腫れたとか無理とか自覚してるし、だけどそんなに断言することないじゃない!」
「おい。根鳥、いいのか。彼女、泣いているぞ?」
「あ、そういうことじゃなくて! 悪ィパイセン! あー、その。俺はパイセンをそれなりに愛してる。パイセンだって、俺を、有用だ、くらいには好意的に思ってくれてるだろうさ。でも、それがどれだけ進んでも、この関係は、会長、アンタの認める『真実の愛』にはならないっていうことだよ」
マオの言葉に、木下は首を傾げた。
これまで、『愛』の名の下に、常に堂々とした姿勢を崩さなかった生徒会長が、初めて、戸惑いの表情を見せた瞬間だった。
「平河のやつから、『ラブマゲドン』で告白が成立したケースについて、全部教えてもらったよ。でもって、さっきのパンツ変態のことで、確信した。会長。アンタの言う『真実の愛』ってのは。自分と相手の境目がぐちゃぐちゃに溶け合っちまうような、そんな愛のことだけだ」
「それが……どうした? それが愛ではないと、おまえは言うのか?」
「いや、それも愛なんじゃね? けど、それじゃあ、俺やパイセンの気持ちは対象外になっちまうんだ「それだけが愛じゃない」って話だよ」
木下は、黙ってマオの言葉を聞いていた。
糸遊にとっては意外な光景だった。
理事長から話を聞く限り、木下礼慈は、滑川ぬめ子に篭絡され、狂気のままにこのイベントを運営しているのだと思っていた。
だが、この様子はどうだ。
木下 礼慈は、交渉可能な相手なのか? であれば、対応手段は広がる。
穏便にこのイベントを終わらせるという選択肢まで視野に入ってくる。
糸遊はこれまで立ててきた計画の前提を組み替えながら、二人のやりとりを見守った。
「魔人能力は個人の内的世界観の象徴だ。パイセンは、常に世界を俯瞰してる。世の中の人間全部が、薄皮隔てた向こう側、本の中の登場人物みたいに見えてるんだろう。俺は、自分以外の世の中の人間全部が、ギブアンドテイクの取引相手に見える。困ったときはお互いサマの人類皆フレンド、って奴だ。自分以外の全てから距離をとるパイセンと、自分以外全てが取引相手に見える俺。それじゃあ、どこまでいっても、相手と溶け合えない。そんな姿勢の中で生まれた好意を、アンタの『レジェンダリー木下』は、『真実の愛』とは認めない」
マオの言葉は、どこまでも客観的な分析で、全てが他人事のようだった。
誰とも親しく、ひょぅきんに振舞うちゃら男の仮面の裏側に、ぞっとするような冷たく固いものが覗いたような気がして、糸遊はそれをどこか寂しいと感じた。
むしろ、狂気のままに死人上等の恋愛イベントを開いている礼慈の方にこそ、人間味を覚えるほどだった。
「……そんなことは、ない」
絞り出すように、言葉を選ぶように、木下は呟く。
「俺ですら、『真実の愛』に目覚めたんだ。みんな……当然、目覚めることができるに決まっている……そう。それで、全てが幸せに……ぬめちゃんと……みんなで……」
声を震わせる木下の幹のように太い腹を、マオは軽く拳で小突いた。
まるで、気のおけない友人にそうするように。
そして、きっと根鳥マオが、万人にそうするように。
それはきっと、自分以外の全てが損得勘定取引の相手に見えてしまう彼だからこその、残酷で優しい友愛だ。
「いいよ、その戸惑いはホームワークってことで。帰りな、生徒会長」
「判定は、不要なのだな」
「ああ。俺やパイセンは、きっと、そういうのなしで、幸せになれるよ」
「……俺は、『ラブマゲドン』を諦めない。参加したみんなを、幸せに……」
最後に、それだけ言い残し、木下は霧のように部屋から消え去った。
「……幻滅した? 万人を等しく愛し、万人が等しくどうでもいい。自分だけが世界の真央。誰にも懐かない猫。うちのジジイもよく名前をつけたと思うよ」
誰にでも優しく、誰とでも親しくなり、だからこそ、誰をも特別に見ることができない。
この宇宙で他人と己とを繋ぐのは、ギブアンドテイクという、今にも切れそうな細いヒモだけ。
それが、軽薄を具現化したような青年、根鳥マオの世界を構築する理論なのだろう。
なんて心細い世界律。これが、笑顔の仮面で彼が隠していた、空っぽの心性。
その剥き出しの根底に触れたからこそ、糸遊は不用意に感想を言うことなんて、できなかった。
――たとえば、形象化した概念としてしか人を見られぬ賢しき者。その不器用な交わり。
「うん。少し、驚いた。根鳥くん、頭よかったんだ」
「そこ!?」
だから、糸遊はマオのコンプレックスに、敢えて触れずに茶化した。
「あと、生徒会長に優しいのもびっくりだった」
「だって、他人だろ? 俺にとって、他人はみんな、取引相手だ」
「違うでしょ」
「え?」
「トモダチじゃないわ。少なくとも私とは。さっき言ったじゃない」
そして、できる限りの笑顔を作る。
この火傷で汚れた顔が、それでも、彼を安心させられることを願って。
「君は、私の相棒だって」
Chapter5 三角形の愛の輪郭
嶽内大名は、草むらに身を潜めると、ポケットから1枚のスポーツ用下着を取り出した。
昼に巻き起こした『パンタローネの抱擁』によるハーメルンの笛吹きめいた大量のパンティー泥棒は全て、この、たった一枚のパンティーを手にいれるために起こしたものだ。
即ち、滑川ぬめ子の、パンティーである。
大名の『パンタローネの抱擁』は、半径30m内のパンティーに意志を与え、操作する。
即ち、滑川ぬめ子がどこに隠れていようとも、学校の敷地内をくまなく練り歩き、能力を発動させ続ければ、いつかは、彼女のパンティーを手に入れることができるというわけだ。
(無理やり連れてきてすまない。どうか、君のパンティー吊るしについて、教えてもらえないか?)
大名は紳士的に、心の声でパンティーに語り掛けた。
反応はない。たいていのパンティーは、ただのモノとして扱われてきた経緯から、大名の紳士的な待遇にすぐ心を開く。だが、滑川のパンティーは、主人への忠誠か、それとも別の理由からか、頑なに大名に心を開こうとしなかった。
(……すまない。こんな手を使うのは本意ではないのだが……)
溜息を一つ。
大名は、ポケットからフィルムケースを取り出した。
その中には、♡のあしらわれたマチ針。
これこそ、魔人、天使九尾人の魔人能力『キューピットの武器庫』によって生み出された、嶽内大名の魅力を具象した武具。
これによって傷つけられたものは、その傷の深さに応じ、嶽内大名に愛を抱く。
魅力の強さや質により、さまざまな武器の形を取り、魅力的であるほど、使いやすい得物となる『キューピットの武器庫』。それがマチ針の形を取ったということは、ひとえに大名の人としての魅力がアレであるからにほかならない。
だが、それを大名は気にしない。
この武器は、ヒトに対する武器ではない。
パンティーに対するものであれば、十分だからだ。
むしろ、マチ針という形状は、彼にとってうってつけのものだった。
――たとえば、一つの純情の形。人ならざるものしか人と認識できぬ、狂気の苦悩。
彼は、パンティーしか愛せない異常者だ。
一時はそれに悩み、自らがヒトであることを証明するために、ヒトの女に興味を持てないかと六淫流の門を叩いたが、それでも結局、生来の嗜好は変わらなかった。
いつか、少年ジャンプに、パンティーに欲情するヒーローを見つけたとき、彼の心は踊った。
しかし、それはすぐに落胆へと変わった。
彼は、パンティーそのものではなく、女性を愛し、パンティー越しに透けてみえる、その女性の名残にこそ、欲情していたのだ。
変態の名を冠したそのヒーローは、女をパンティー吊るしとしか認識できず、パンティーしか愛せない大名には共感できぬ、人を愛せる「正しすぎる」存在だったのだ。
変態性を共有できぬ孤独に、大名は悩み続けた。
だが、そんなときに、『ラブマゲドン』で、大名は、認められた。
『――パンティーに恋をする。それもまた、自由な恋愛だろう』
自由恋愛の守り手を自称する少年、天使九尾人は、そう言った。
あっけないほどの受容。「ああ、君は巨乳好きなんだね? 僕は違うけど」とばかりの当然の反応に、大名は、気が付けば滂沱の涙を流していた。
最初は、自分をいいように使うためのおためごかしだとも疑った。
だが、
『大丈夫。『レジェンダリー木下』は、アンタの恋を『真実の愛』と認めるさ』
天使の言葉は、本当だった。
彼の、二十年間悩み続けてきたパンティーへの純情は、この『ラブマゲドン』で認められたのである。
まるで、霧の中から抜け出したような気持ちだった。
故に、嶽内 大名はいつにない誠実さで、九尾人との同盟に力を尽くす。
(……すまない。本当なら、時間をかけて愛情を育むべきだけれど。吾輩には、吾輩の恋愛を肯定してくれた人のために、滑川ぬめ子の情報が必要なんだ)
マチ針を向けられた手の中のパンティーが、緊張で強張るのを、大名は感じた。
罪悪感を振り払うように、彼は針で、その柔らかな布地を貫く。
滑川ぬめ子のパンティー。
彼女が、この『ラブマゲドン』で唯一、『キューピットの武器庫』で恋愛感情を植え付けられた存在となった。
Chapter6 きみは天使なんかじゃない
待ち合わせ場所である校庭のベンチに腰かけ、甘之川グラムは校舎に掲げられた大時計を見上げた。
落ち合う時間までは30分ほどの猶予がある。どうやら、少しばかり早く着すぎてしまったようだ。まあ、遅れるよりはいい。天才はいつも、凡夫より未来に生きるものである。
そして、時間を無駄に費やすことがないのもまた、天才の義務だ。
グラムはたくさんのノートが詰まった愛用の鞄を開ける。
このノート一冊一冊が、まったく異なる分野における彼女の研究の記録。この冊数こそが即ち、万能の天才たる彼女の知性の象徴なのだ。
まあ、あんまり片づけるのが得意じゃない整理できない女の子の野暮ったい手提げにも見えなくもなかったが、それは凡夫の視点でしかない。ないったらないのだ。
(うむ。まずは、基本情報の整理からだな。論理と観察の積層の上に真理はある。いつもの研究と同じはずだぞ、私よ)
グラムは、研究ノートを読み返す。
希望崎最高の知性が最高のコンディションで稼働するように、グラムは午前中に焼いておいたクッキーをかじりながらノートをめくる。
それは、天才が一心不乱に思索にふける姿であるが、凡夫からみればちんまい眼鏡白衣女子が、屋外で一人おやつタイムにいそしんでいるようにしか見えない。真実とはいつも難解なものである。
彼女が目を通しているのは、およそ二か月半前から毎日のようにつけている、『変数Lに関する考察』ノートであった。
グラムが校門で一人の少年(「要因A」と呼称する。以下同じ)を見かけ、そして、非日常的な心因反応……状況から『一目ぼれ』であると仮定する……をしてから、己の内に生じた生理的心理的変容について記した記録である。
要因Aに『一目ぼれ』したグラムに起きた心因反応の第一段階は、『闘争と逃走』反応だった。
ヒトが野生動物だった時代にプログラミングされた、危険に対する興奮反射。動悸と発汗、体温の上昇と瞳孔の拡張。
攻撃にも退避にも有効な活性状態に身体を組み替えるものである。
生命活動における精神的社会的活動の比重が高まった現代の人類には、ときに不適切な情動の初期反応。ここまではまあ、グラムにも理解可能な範囲であった。
第二段階は、『不随意的な想起』反応だった。
意識していないにも関わらず、要因Aの、遠くを眺めるような、陰のある表情が、何の脈絡もなく思い起こされるのである。
思考活動をこそ重んじるグラムにとって、これは非常に厄介なノイズであった。
しかも、想起のたびに『闘争と逃走』反応も併発するから、手に負えない。
そのたびにグラムは愛用のハッカキャンディーを口にするはめになった。『ラブマゲドン』で入手も困難になったので、そろそろ残りが心もとない。由々しき問題だ。
第三段階が『不合理な好意のインフレーション』反応だった。
要因Aとグラムに個人的な親交はなかった。
会話もしたことがなく、人となりも不明。
それにも関わらず、日に日に、グラムの中で要因Aに対する想像上の人格が形成され、それに対する好意が膨らんでいったのである。
これこそが、グラムが許せない「不合理」の極みであった。
自分という知性に対する失望、と言い換えてもいい。
幼い頃から、グラムは自らの知性と理性によって生きてきた。
ほかの子どもたちのように、感情を持て余して泣くのは無駄だと思っていたし、理屈の通らないわがままは口にしなかった。
たとえ競争の場で自らの能力が認められて嬉しいときにも、代わりに選に漏れて悲しむものがいる場であればことさらに誇ることはしなかったし、怒りだって、相手を萎縮させるだけと判断すれば噛み殺してきた。
感情とは、人が動物であった時代の名残。
現代のヒトには不要な、心のしっぽである。
そう、考えてきた。
それなのに、たった一度見ただけの相手に想いを募らせ、あまつさえ『あいつとならどこまで行ってもいい』とまで考えてしまったのだ。
これが、大脳新皮質の本能への敗北と言わずに、何と言おう。
ともあれ、そういった経緯で、グラムは『ラブマゲドン』に参加した。
その目的は、『理性的な恋愛』だ。
思考と研鑽の徒である天才研究者、甘之川グラムは、断じて『一目ぼれ』などに屈してはならない。
だからこそ、あえて『一目ぼれ』の相手を避け、冷静に論理的に自らのパートナーとしてふさわしい相手を見定め、親交を含めようと計画していたのである。
『グラムが敬意を払えること』
『グラムに敬意を払うこと』
『グラムと同じくらい理性的であること』
最低でも、この程度の条件はクリアできる相手でなければ、検討に値しない。
細かく言うならば、齢が近かったり男性であったり清潔感があったり美形だったりお金に汚くなかったりした方がいいが、この3つをクリアしていれば、パートナー候補としての検討には値する。
そんな行動指針を定め、さあ相手を見つけようと意気込んだ、そんな最中に。
「……甘之川グラム。手間を取らせてすまない」
「ひゃぃっ!?」
何の因果か、グラムは、自分が戦うべき『一目ぼれ』の要因A……天使九尾人と協力しないといけないことになったのである。
グラムは、ばんっ、とノートを閉じ、皺になるのも気にせずに鞄へとシュート!
「……待たせたか?」
「い、いや! 全然っ! 今来たところだぞ!」
鼓動が跳ねる。
九尾人が近づくだけで全身が強張る。頬が熱い。
そんなグラムの反応に全く気付く様子もなく、九尾人はグラムの隣に腰かけた。
九尾人とグラムは、糸遊兼雲の指示で、この『ラブマゲドン』解体の具体的手順を計画立案する役割を負っている。
グラムが主に、スナイパーあたるによる軟禁状態の打破を。
そして、九尾人が、12月25日に起きるという、滑川ぬめ子による『強制的な愛の嚮導』を阻止する方法を、検討しているのである。
この二つの手段は、どちらが欠けてもいけない。だからこうして、定期的に情報交換にいそしんでいるのである。
決して他意はないし、いつにもましてグラムが身だしなみに気を使っているように見えるのも、錯覚にすぎない。
眼鏡がいつもの瓶底ではなく、リムレスなのも、たまたまだ。そのはずだ。
「『砂糖菓子の弾丸計画』の進捗は?」
「11秒を前提に再計算をした。ポイントは、ウィル氏の身体強化術式の効力だな。調布氏との、「レベル上げ」? のおかげで効果は上がっているが……一週間で期待値まで引き上げるのは難しい。あと一人、発射台となる強化系の魔人がほしいところだ」
「わかった。心当たりを当たる。要求されるスペックに関する資料を用意してほしい」
「承知した」
世間話も何もない、要件を簡潔にまとめた会話。
全く好ましい、とグラムは思った。
対人関係を円滑に進めるための雑談の必要性をグラムは無視しないが、少なくとも今、九尾人とグラムは、友人ではなく、目的を同じくする同志である。ならば、極めて理性的なこの関係性こそが、
そこまで考えて、グラムは気づく。
九尾人はもしかして、パートナーの条件、『グラムと同じくらい理性的であること』を満たしてしまっているのではないか? そして、『グラムが敬意を払えること』『グラムに敬意を払うこと』にすら合致しているのではあるまいか。
(いや、落ち着け私。そうとは限らん。『一目ぼれ』によるひいき目補正でそう見えているだけの可能性だってある。むしろその可能性が高い。だから止まれ私の心臓! いや、止まったら死ぬ! ほどほどに黙れ!)
「と、ところで、天使氏の方はどうなのだ?」
「滑川の居場所は掴めた。……が、12月24日まで、手出しはできないようだ」
「籠城か」
「計画の要だからな」
この『ラブマゲドン』で厄介なのが「最終日である12月24日までに恋人ができなかった者には、滑川 ぬめ子により、強制的に愛を刻み込まれる」ということだ。
これさえなければ、『ラブマゲドン』はただの平和的なお見合いイベントでしかない。
だからこそ生徒会は滑川への攻撃を最大限に警戒しているし、逆に、九尾人や糸遊らの反ラブマゲドン派は、滑川の無力化を最優先項目としている。
「滑川の『ぬめぬめん』は、単なる粘液操作の能力ではないこともわかった。奴の操作する粘液は、物質というより『摩擦を消す』という概念の具象らしい。それに呑まれた対象は、彼我の人格境界の摩擦を失い、文字通り同一化する。まあ、一つに溶け合うことも愛の形と言えなくもないが。やはり、自由恋愛保護の観点からは、捨て置けない」
「……概念・精神操作系の魔人か。しかし、よくそんなことまで探れたな」
「嶽内大名がやってくれた。他にも、色々彼女の経歴も判明した」
「あの変態が!?」
「アイツは嗜好が独特だが、義侠の徒だぞ」
「そ、そうか……」
パンツの群れを従えて廊下を疾走していった半裸青年男性の姿を思い出し、グラムは頭を捻る。
この九尾人という少年は、どこか人と感性がずれているところがあるように思う。
それが、グラムには妙に危なっかしく感じられた。
(……いかんいかん! ストップ・ザ・保護欲! ひいき目補正禁止!)
「それで、具体的にどうする気だ。糸遊嬢は、泉崎ここねの『論理否定』での廃人化も辞さない計画だったが」
「……それは」
そこで初めて、九尾人は言い淀んだ。
「最初は、『キューピットの武器』で魅了して、無力化するつもりだった。それが最も効率がいいと」
少年は両の手を広げ、確かめるように一度、強く握りしめた。
「僕の能力は、他人に恋愛を強要する不可逆の能力だ。滑川の『ぬめぬめん』と同じ、自由恋愛を壊すものだ。だから、許されざる罪人、敵と断じる相手にだけ使うようにしてきた。少なくとも『緑玉の君』はそうであるように、僕に任務を割り振ってくれた」
九尾人の遠くを見るような目に、グラムの胸が疼く。
グラムと同じくらい童顔のこの少年は、たまにこうして、陰のある表情を見せる。
「けれど、木下と滑川は、倒すべき敵なのか。僕の能力を使っていい相手なのか。少し、わからなくなった」
木下がただの狂人ではない可能性については、グラムも糸遊から伝えられている。
そして、九尾人は大名から滑川についての詳しい経歴を聞いたという。
「天使氏は、甘いな」
「……ああ。未熟だ。『緑玉の君』なら、迷いなく正しい判断を下すだろう」
グラムはおもむろにおやつのクッキーを摘まみ上げ、九尾人の口に放り込んだ。
少しだけ指に感じた唇の感触にどきりとする。
「甘いのは、悪いことか? 否。甘さは脳のエネルギーだ。私は甘さを愛する。それは、世界における存在の重さに通ずると言ってもいい」
ぽかんとした様子でグラムを見つめ、しばらくクッキーを咀嚼すると、九尾人はゆっくりとそれを飲み込んだ。
「……甘之川」
「空腹は自己評価を下げる。自分を蔑むと世界は霞む。私は自分自身に毎日、「私は天才だ」と言い聞かせている。だから、世界はすばらしいし私は才色兼備だし、私の思考は冴えている。時として失敗はするが、それは成功に向けた試行錯誤だ」
グラムはぴょん、と勢いをつけてベンチから立ち上がると、声を弾ませた。
「だから、天使氏。悩むときには糖分を摂取しろ。今度からは二人分クッキーを持ってくるからな!」
そう言って、天才少女は小走りにその場を立ち去った。
♡ ♡ ♡
「……出てきたらどうだ」
一人でベンチに腰かけたまま、九尾人は虚空の一点を凝視した。
すると、その空間が歪み、金髪の美形青年が姿を現す。
「グリコ。天使殿。『眼差しに、帳を』が見破られるとは。まだレベルが足りなかったかな」
「どこから見ていた」
「「待った?」「今来たところ」からだ」
「……最初からか」
あっさりと口にするウィル・キャラダイン。九尾人は大きくため息をついた。
「よい娘だ。才知に長け、情も深い」
「ああ。彼女にこそ、幸せな恋愛があればいいと思う」
「他人事かい」
「どういう意味だ」
「自分が幸せになることが許せないのかい」
「……っ」
九尾人の顔色が変わった。
ウィル・キャラダインは勇者である。
かつてある世界を救い、そしてその過程で、多くの人々の小さな悩みも解決してきた。
だからこそ、他人の悲哀の兆しには敏感だ。
「魔人能力というのは、個人が世界をどうとらえるか、という心性に由来するものらしい。ならば、恋愛を「武器」と認識し、恋愛を他者に強制する能力が萌芽するような君の過去がどんなものか、想像はできる。『緑玉の盾』に所属する以前の、過去の君に人生を狂わされた者は数多いのだろう」
界渡りの最中、亜空で初めて九尾人の魂に触れたとき、ウィルは九尾人に勇者の輝きと、それを覆う自責の念を見た。
「だからといって。君が、誰かを救わなければならないなんて理屈は、ない。倫理や道義はあるかもしれないが、君がそうしたいと思わないのなら、そうしなくてもいいのだ」
苔むした原石を磨くように、ウィルは言葉を紡ぐ。
それは、かつて自分が世界を救う天啓を受けたときに感じた懊悩と似ていたから。
「他人から望まれた使命、世界から与えられた天命、己の内に生まれた宿命。その全てが揃ったものを、運命という」
ウィルはこの世界に来て、持てる力のほぼ全てを一度失った。
だが、その経験は、記憶は、世界の救い手のままである。
なれば、目の前で悩める少年に手を差し伸べずして、何が勇者であるか。
「君は天使なんかじゃない。使命だけで戦うのは悲しい。天命だけで戦うのは狂おしい。君はどうしたい。どうしろ、ではなく。どうすべき、ではなく。それを重んじてもいいのだ。運命は、そこから見つかるものだよ。友よ」
数分ほど、九尾人は黙ったままだった。
ウィルは何も言わず、待った。
日が傾き、カラスの鳴き声が響き渡るころ、少年はゆっくりと立ち上がった。
「……目が覚めた。僕は、木下と滑川を、『キューピットの武器』で、撃つ」
「グリコ。それが君の決断ならば、私はそれを助けよう」
かくて、かつての勇者と、勇者にならんとする少年は聖夜に向けて動き出す。
決戦まで、あと6日のことであった。