エメラルドグリーンに煌く海の上に白い軌跡を残して奔る船がある。その船の甲板にいたフィーク・ディプスは、風で乱れる己の髪を押さえながらどこまでも広がる海を眺めていた。
まだ皐月を迎えたばかりだというのに、自身を撫ぜる風は夏のような暖かさを帯びている。本当にここは自分達が住んでいるところとは違うのだな、と感心せざるをえなかった。
そうして飽きることなく甲板にいると、やがて港町が見えてくる。
南国のリゾートとして名高いローイア諸島四国のひとつ、ナノウリスマの港町である。
大きな入道雲が浮かぶ青い空と茂る緑を背景に、眩しいほどに真っ白な建物に色とりどりの天幕や船が並ぶその光景はとても美しかった。





「よっ、と・・・」


大人一人がぎりぎりで抱えきれる大きさの木箱を船から降ろして、ディプスはあたりを見渡した。
真上ではカモメたちが飛び交っている。眩しく降り注ぐ陽光を手で軽く遮りながらそれを見上げて、前に視線を戻すと、建物が作る陰の下では猫たちが戯れていた。空を飛ぶカモメたちと同じように、漁師から魚を分けてもらうのだろうか。
そうぼんやりと考えながらその更に隣りに目をやると、影に溶け込むようにして黒い短髪の青年がいて、人懐こい笑みを浮かべてこちらに手を振ってきた。
それに手を振り返すと、黒髪の青年はこちらに駆け寄ってくる。


「ごめん、待たせちゃった?」

「いんや、今ちょうど船から降りたところだから、大丈夫だ」


なら良かった、と安堵の笑みを浮かべてから、青年はディプスの持つ木箱に視線をうつす。


「重くない?」

「なぁに、鍛えてるからこんくらい平気だ」

「そっか。じゃあ街の外にオーシャンがいるから、そこまで歩こう。持ち運ぶの疲れたら替わるから、すぐに言ってくれな」

「サンキュな、シャドー」


シャドー、と呼ばれた黒髪の青年は、また人懐こい笑みを浮かべてから、いこう、と先を促し一緒に歩き始めた。










街の外に出てから、明るいアクアマリンの体躯をした龍・・・オーシャンの背中に乗せてもらって、目的地へと向かう。そこは港町から外れた小高い丘の上にある比較的大きな建物だった。そこはかつて旅籠が営まれていた場所で、広い中庭や庭園、沢や四阿まである。そしてその旅籠はシャドーたちの住まい・・・否、彼らの主の住まいだった。
オーシャンが体重を感じさせない動きで、その中庭に降りる。手入れが行き届いている綺麗な庭だった。
その庭の隅で水遣りをしていた人物は、彼らの到着を確認するとこちらに会釈してきた。美しい金の髪に琥珀の瞳の優男だ。主と呼ぶに相応しい相貌を持っていたが、実は彼もここの主に仕えてる一人・・・いわば家政夫に過ぎない。名をムヴァという。
ディプス送迎の仕事を終えたオーシャンとシャドーに木箱を預け礼を言いつつ、ディプスとムヴァはそこで軽く話し始める。


「遠かったでしょう。お疲れ様です」

「ああ、でも飽きなかったぞ。暑いけど、ローイアは景色が綺麗だから」

「ふふ、そうでしょう」

「・・・ああ、今日は世話になるから、木箱に入れてウチの村の野菜を持ってきたんだ。もらってくれ。・・・まぁ、ちょっと張り切りすぎて量詰め込んじまったけど」


それを聞いたムヴァはおや、とやや驚いたように僅かに目を見開いた。


「こちらはキッチンをお貸しするだけなのに、ありがとうございます。それにその許可を下さったのはテト様とジュニア様ですし」

「ん、そうだな。二人にも礼を言わねぇと」


今日ディプスがここに訪れた理由はそれだった。ここはもと旅籠だったというだけあって、厨房には一般家庭にはない珍しい設備や調理器材が整っている。それらを使って料理してみたいという彼の願いを、旅籠の主・・・達は快く承諾してくれたのだ。
しかしテトとジュニアは現在出かけてしまっているらしい。この旅籠の居候たちを連れて街へ遊びにいってるとのことだ。
さて、とそれを話し終えたムヴァは空になった如雨露を片手に言う。


「私はこれを片付けてまいりますので、どうぞお先にお入りください。他のお二人ももう来てますよ」

「そっか、サンキュな!」


そう言って手を軽くあげ、旅籠に向かってディプスは走り出した。
先ほどムヴァが言っていた言葉から推測できるように、実は今日キッチンを使わせてもらうのはディプスだけではない。
玄関とロビーを過ぎ、上階へ続く階段を横切って真っ直ぐに進んでから左へ少し曲がると、そこが食堂だ。更にそこを奥に進むと、この旅籠のキッチンがある。
目的のキッチンへ入るとそこには、エプロンとバンダナをきっちり身につけて、既に準備万端の二人の少年少女がいた。一方は明るい金髪の少年で、もう一方は栗色のはねっ毛の少女だ。


「ディプスがビリだよ!」


別に競争をしていたわけではないが、まるでそれに勝ったかのようににんまりと笑みを浮かべたのは少女の方・・・ユキだ。その様子に隣りでツルギは微笑ましそうに苦笑を浮かべている。
ごめんな、とディプスもそれに笑い返して、用意されていたエプロンとバンダナを着ける。近くにはシャドーとオーシャンに預けた木箱がおいてあった。ちゃんと運んでくれたのだ。


「二人とも、何でここまで来たんだ?おれは船」

「あたし転移魔法」

「ボクはテトさんの召喚獣の背に乗せてもらって・・・ヤイバがここまでの交通手段を安全であるようにと聞かなくて」

「そっかぁ、まぁ、ヤイバも心配だろうからそうなるよな」


そんな他愛ない会話を続けていると、先ほどの片付けを終えたムヴァが彼らと同じようにエプロンとバンダナをしてキッチンに入ってきて、彼らにキッチンの設備や器具の置き場所などの説明をしていく。


「調味料や食材はお好きに使ってくださって構いません。分からないことがあったら、その都度聞いてくださいね。私はユキさんについていますから」

「『ムサカ』を一緒に作るんだー!」


得意げにいうユキだったが、聞いたことのない料理名にツルギとディプスは首を傾げる。出来てからのお楽しみですよ、とムヴァが微笑してディプスが持ってきた野菜を早速料理に使おうと吟味し始めた。





「・・・でさ、船でローイアに近づくにつれて海が透明になってってさ、イルカが船の隣で跳ねたりして、おれ感動しちまった。そういうの、写真とか絵だけだと思ってたし」


器用にスケッパーを使ってバターをきりながら話すディプスは、目を輝かせてその感想を述べていた。同じようにしてツルギもこれまた器用にローイアのフルーツを美しい形にカットしながら相槌をうち話している。


「羨ましいです。そういうのは船で来るからこそ見れる絶景でしょうからね」

「そうそう!それなんだよなー、今度ツルギも船でこいよ。道中の護衛ならおれが責任もってやるからさ」

「ありがとうございます。考えておきますね」


ツルギがそう微笑んで答えていると、離れたところ・・・コンロの前で作業をしていたユキとムヴァの声が聞こえる。


「ユキさん、ナスを下ろしてください」

「ででで、でもまだ火通ってないかもしれないし念のためもう少し!」

「あ、焦げてますよ」

「わあああああっ!! ・・・・って焦げてないじゃん!!」

「そのまま揚げ続けていたら焦げていましたもので。 さ、キッチンペーパーの上において余分な油をとりましょう」

「はーい・・・」


初めての料理に戸惑いまくりのユキと、それを上手に扱うムヴァの声が聞こえてきて、ツルギとディプスは顔を見合わせてこっそり笑った。
時刻は昼前。今日はみんなで作ったものがそのまま昼食になる。


「失敗しなきゃいいですね」

「なぁに、その為のムヴァだろう」


それもそうですね、とツルギは笑い返した。





今日は天気がとても良いということで、昼食はテラス席でとることにした。
深めの耐熱皿にオリーブオイルで揚げたナスと、茹でたスライスジャガイモ、それにミートソースとペシャメルソースを交互に重ねて、一番上に贅沢にチーズをたくさんかけてオーブンで焼いたもの。それが『ムサカ』の正体だった。
ムヴァの指導があったとはいえ納得のいく出来映えのそれにユキは胸を張る。
そこにディプスが旅籠にある大きなオーブン窯で焼いたシンプルなバターブレッドと、ツルギが作ったデザートのフルーツタルトが並ぶ。飲み物はムヴァ特製のリモネードだ。
美しい風景に囲まれ、それらを食べながら談笑する雰囲気はとても居心地が良かった。

優しくそよぐ風は、青々と萌える草花を撫ぜ、透明感のある滄海を行き、青空に浮かぶ雲を運ぶ。
船から見たときとはまた違う風景だが、それでも美しく調和のとれたものであるにかわりない。しかしそれだけでは物足りない気がして、ディプスはその景色を何とか違う言葉に例えようとしたが、うまくいかなかった。


(兄ちゃんだったらどんな風に書くかな・・・)


今頃愛娘と妻と団欒の一時を過ごしている作家の兄だったら、この美しい風景を適切な言葉にできるのだろうか。
ミントを浮かべたリモネードを一口含み、ふと思った。 





最終更新:2012年03月27日 18:57