「セーニャ、お前……っ、……!」
カミュの開いた瞳孔はただ一点、セーニャの青白い顔に注がれていた。
端正な顔立ちは面影を感じさせないほどにやつれ、宝石のように無垢な瞳は今やもう虚ろに溶けている。真っ直ぐに立っていることも難しいのか、幽鬼の如くゆらりゆらりと揺らめいていた。
「うふ、うふふふ…………あは、あははははは!!」
なのに、当のセーニャは笑顔だった。
場違いなほどに明るい声色は余計にアンバランスさを加速させる。何か言わなければ、と。浮かんでは消えゆく言葉を手探りで求めながらカミュは口を開く。
「……っ、…………!」
出ない。
言葉が、出ない。
セーニャは一体この十二時間でどんな目に遭ってきたのだろう。
たった半日。されどカミュにとってその半日は、今まで生きてきた中でもっとも長く感じたと言ってもいい。
彼女がその時間をどうやって過ごしてきたのかなんてわからない。しかし、生きているだけで儲けものだという考えが消し去るほどの惨状がそこに広がっている。それを前にしたらカミュの浮かぶ言葉はどれも陳腐に思えてしまって、喉の奥で消えていく。
「カミュさまあはははは、うふ、一緒に壊す壊す壊す壊す殺す」
「くっ……! カミュさん、あぶない!」
「っ……!?」
そうして考えあぐねている内にセーニャは漆黒の槍で線を描く。躊躇いのない袈裟は先ほどまでカミュのいた空間を切り裂いた。
9Sが彼の身体を引っ張らなければ致命傷は免れなかっただろう。カミュの知るセーニャのものよりもずっと疾く、鋭く、そしてなによりも──恐ろしい。
「あははははは! あは、あはははははッ!!」
「セーニャ……っ! 一体、どうしちまったんだよ……!」
セーニャの槍撃を扇子で捌きながらもカミュは反撃に移せない。それは彼女の攻撃を防ぐので手一杯だから、というわけではない。そもそもとして彼女を傷つけるという選択肢が湧かないのだ。
鳴り渡る不快な金属音が二度、三度。たまらず9Sが介入しようとするもカミュがそれを片手で制す。
肉体へのダメージを鑑みても白兵戦でカミュが遅れをとる可能性は低い。しかしこのまま競り合いを続ければ、なによりもセーニャ自身の身体が危ない。
多少痛い目に遭わせてでもセーニャを止めなければ──そう決意し何度目かもわからない一閃を弾き飛ばした瞬間、
『みんなお疲れ、色々と頑張ってるみたいだねぇ。これより
第二回放送をはじめるよ』
まずい。完全に頭から抜けていた。
ただでさえ
第一回放送を聞き流しているのだから同じ失態は犯せない。しかしセーニャが放送に無関心な以上そちらに気を取られてしまえば一瞬で血の生け花の完成だ。
「ナインズ! 手ぇ貸してくれ!」
「あ……、はい!!」
救援を頼まれた9Sは一筋の矢の如くセーニャの持つ槍に剣戟を浴びせる。不意打ちということもあり、彼女の手に大きな痺れを抱かせた。
願わくば武装解除まで狙っていたのだが贅沢は言えない。無視できないほどの隙は生じただけで成果としては十分だ。しかしカミュがセーニャを傷つけることを良しとしていない以上9Sは下手な追撃ができない。
ゆえにここは三歩引く。カミュにセーニャを任せる代わりに自分は放送に意識を割かなければ。幸いカミュの実力があれば今のセーニャを組み伏せることは容易だろう。
──シルビア
そんな9Sの計算は無機質な音と共に崩れ去った。
「は……っ、……?」
放送の全てを頭に入れているわけではない。しかしここで名前を呼ばれるということがどういうことなのか、カミュは理解している。理解してしまった。
およそ死ぬはずがないと考えていた存在が、ただの一言で死を告げられる。その事実は例え歴戦の戦士であろうと無視出来ない。
一手。たった一手の遅れを生じさせる。
けれどその一手は、あまりにも致命的だった。
「あははは!! あは、あははは!!」
「ぐっ……!?」
上昇した膂力から繰り出される最速の刺突がカミュを穿たんと迫る。回避など間に合うはずもなく必勝扇子で受けるが、本来盾の用途ではないそれはあっさりと弾き飛ばされた。
無手となったカミュに抵抗手段はない。9Sが助けに入ろうと疾駆する姿が横目に映るが、今はセーニャのターンだ。
振り翳された漆色の凶器がカミュの頭をかち割らんと迫る。避ける術がないと悟ったカミュは無駄だと知りながらも両腕を交差させて攻撃に備えた。
──ベロニカ。
ピタリ、と。死神の鎌が止まる。
心などとうに壊れているはずなのに。シルビアの名が呼ばれても動揺の欠片すら見せないほどに冷えきっていたのに。
セーニャの顔からは笑みが消えていた。
「セーニャ、お前」
ベロニカが死んだ。
突き付けられた事実がカミュを深い悲しみに陥れるよりも先に。心を無くしたはずの操り人形は理解してしまった。
「泣いてんのか」
十二時間ずっと偽り続けていた笑顔という仮面は崩壊し、ジェノバ細胞、Gウイルス、黒の倨傲がもたらした譫妄によりとうに飲み込まれたはずの自我が顔をだす。
運命に踊らされ、弄ばれ続けた少女はこの時初めて────姉の死に涙を流す、本来の年相応な少女の顔を見せた。
「おね、え……さま…………っ」
「…………セーニャ、」
言いたいことは沢山ある。
聞きたいことはそれよりもある。
けれど今は、泣かせてやろう。彼女が凶行に走らなければならなかった理由はその後に聞けばいい。
まだ放送は続いている。顔を手で覆い崩れ落ちるセーニャにもはや危険性はないと判断したカミュは背を向け、気怠げな男の声に耳を澄ませながら必勝扇子を拾い上げた。
「……?」
その時、ふと9Sの姿が目に映った。
ゴーグルが外れたせいで西洋人形じみた端麗な顔立ちが目立つ。けれどその伏せられた瞳は、彼を知って間もないカミュにも違和感を抱かせた。
見覚えがある。
そう、それはまるでさっきまでのセーニャのような────
「思い、出した…………」
え? というカミュの疑問の声よりも早く、9Sは頭を抱える。
頭痛が、割れるほどの頭痛がする。それの原因は波のように押し寄せるモノクロ色の記憶。今までずっと求めていた空っぽの箱の中身。
カラン、と虚しい音を立てて勇者の剣が落ちた。彼を気遣って伸ばされたカミュの手は他ならぬ機械人形(アンドロイド)に拒まれる。
少年の姿をした人形の耳には、さきほど告げられた名前が木霊していた。
──ヨルハ二号B型
「────ああぁぁぁぁああああぁぁッッ!!!!」
咆哮。
髪を掻き毟る両手はすぐに力なく垂れ、力の入らない両腕を独楽のようにぶんぶんと振り回す。それはまるで駄々をこねる子供のようで、理解の追いつかないカミュは数瞬呆気にとられ──余計な思考を振り払い9Sの両肩を掴みかかった。
「おいしっかりしろナインズ!! どうしたんだよ!?」
「あ゛ぁ゛ぁ゛……ッ!! 2Bっ!! 僕は、……僕は…………っ! いったい、……何を、していたんだッ!?」
「2B? もしかして、さっきの放送で……」
なんとなく察しはついていた。
セーニャがそうであったように、知り合いの名前を呼ばれて冷静でいられる者はそういない。カミュがこうして落ち着いていられるのも、自分以上に取り乱している存在が目の前にいたから相対的にそうならざるを得なかっただけだ。
けれど、見た目以上に落ち着いた印象を受けていた9Sがここまで取り乱すとは予想出来なかった。カミュは自分の思い至らなさに歯噛みする。
こうして自分が取り押さえてなければ敵味方関係なく傷つけかねない勢いだ。それほどまでに突然突きつけられる死という現実は大きい。
(いや──ナインズだけじゃねぇ! ハンターのおっさんや美希は!?)
カミュの悪い予感は当たった。
入口側の扉が残響を立てて開く。視線を向けるとそこにはハンターに縋り泣く美希の姿があった。
かける言葉の見当たらないハンターはただ黙って彼女の背を摩り、ちらりとカミュと視線をぶつける。次いで咽び泣くセーニャ、地を殴りつけ暴れる9Sの姿を一瞥して重い唇を開いた。
「カミュ殿、これは……」
「…………ああ」
三者三様、しかし思いは一つ。
悲しみを抱えた人形(マリオネット)を前に、男達は険しく眉間を寄せることしか出来なかった。
「うそっ、うそなの……雪歩、貴音……っ」
「おねえ、さま……おねえさま、おねえさま……っ!! もう、置いて、いかないで…………」
「2Bッ!! ああぁ……ッ! ごめん、ごめんなさい……!!」
命とは。
命とは、こんな風に奪われていいものなのか?
カミュもハンターも性善説を信じているわけではない。けれどその問いには断じて否と言える。
生命を尊重する狩人であるとか、一度妹を失った過去があるからだとか、そんな経歴は関係ない。彼らの心根に宿る正義感は、目を背けたくなるような悲劇を前に震怒となって燃え上がった。
「────てめぇだけは許さねぇ、ウルノーガァ!!!!」
カミュの宣言が美術館に響く。
後にそれを彩るのは少年少女の灰色の悲嘆だけだった。
◾︎
本当はわかっていた。
自分が矛盾しているなんて、最初からわかっていた。
怨敵であるウルノーガが願いを叶えてくれるなんて、そんなもの甘言に過ぎないなんて……少し考えれば当然のことだ。
もしもこれが自分ではなくイレブンやカミュだったら間違いを犯さずに済んだだろう。事実、カミュは仲間と共に打倒ウルノーガを志していた。
少し違えば自分もそこにいたのだろうか。
いいや、そんな事を思うのは許されない。だってその道を選んだのは自分なのだから。
自分が人殺しの道を選んだ理由はなんだ?
この槍が呪われていたから?
セフィロスにジェノバ細胞を埋め込まれたから?
ウィリアムにGウイルスを植え付けられたから?
いいや、それらは後付けに過ぎない。覚悟に似た殺意を後押しさせただけだ。
ならば、本当の理由は。
ウルノーガの言うことが嘘だと理解していた上で殺し合いに乗った理由は。
ただひとつ──ほんの僅かでも〝姉〟に出会える可能性があったから。二度と出会うことの許されない家族に会いたかったからだ。
(けれど、もう…………本当に、出会えないのですね…………)
もしも名簿が最初に配られていたのならセーニャもまた違う道を選んでいただろう。本来ならば黒の倨傲の破壊欲に囚われていたとしてもベロニカの名前を見れば我に返ったはずなのだ。
けれど、レオンの命を奪ったことでそれもできなかった。
レオンを殺した自分が今更殺し合いを否定するなんて許されない。そんなことをしたらレオンの死が無駄になる。元来心優しいセーニャだからこそそんな風に死生観が歪んでしまったのだ。
戻れた場面はいくつもあったのに。
何度も何度も拒み続けて、気がついたらもう取り返しのつかないところまで来てしまっていた。
もう戻れない。戻ることなんて許されない。
心身共にカミュたちの知る〝セーニャ〟ではなくなってしまったのだから。こうしている今だってふつふつと破壊衝動に駆られている。忌々しき細胞とウイルスがカミュたちを殺せと叫んでいる。
ああ、もうダメだ。
少しでも自我がある内に、離れないと。
この場所にいては勘違いしてしまう。自分も光に戻れるのでは、なんて──そんなこと、あるはずがないのに。
カミュたちがなにかを言っている。
とりあえず落ち着けだとか、大丈夫だとか、前向きな言葉。どうやら今は自分に向けられているわけではないようだ。
優しい彼らのことだ、自分を気遣うのも時間の問題だろう。今のうちにここを去らなければ。
ふらりと踵を返す。
瞬間、その足は止められることになった。
「…………ぁ、……か、…………ひゅ」
汗が噴き出す。
血の流れが速まる。
潤いを求める喉からは枯れた息が漏れる。
本能が、細胞が、けたたましく警鐘を鳴らす。
どうやらそれは自分だけではないらしい。
後ろで上がっていた嗚咽や恐慌がぴたりと止んでいる。まるでその瞬間だけ時が止まっているようだった。
「嘆くことはない」
詩人の如く美しく、耳触りの良い声色。
けれどそれは獣の唸りよりも恐怖を煽り、怪物の叫喚よりも重圧を乗せる。
艶やかな銀の長髪を靡かせて、無駄を削ぎ落とした華奢な肉体はある種の神々しさを持つ。対してその細腕に似つかわしくない巨大な鉄剣を携える様は不相応であるはずなのに、〝それ〟から発せられる膨大な覇気が違和感を持つことを許さない。
「お前たちの苦しみは、私が受け持とう」
逆光を背に受ける〝それ〟を一言で表すならば〝神〟という表現が一番しっくりくる。
しかし決して崇め奉られる存在ではない。森羅万象総てを灼き尽くす破壊神。
その神の名を、セーニャはよく知っている。
「────セフィ、ロス…………!!」
最終更新:2024年10月20日 23:32