張奐(字:然明) ちょうかん

- 生没:102~181年 本貫:涼州敦厚郡淵泉県 官:護匈奴中郎将
- 「蒼天航路」で初めて登場したとき、おそらく多くの人間にとって「誰このジジイ」だったと思われるキャラクター。「後漢書」では立伝されるほどの英雄の一人であり、かつ後漢王朝に致命傷を与えたA級戦犯でもある。
- 後漢王朝末期に活躍した猛将。しばしば来寇する西方異民族への備えとして涼州に駐留し、幾度となく勝利を収めた。同じく西方の名将といわれた皇甫規(威明)・段煨(紀明)とあわせて、「涼州三明」と称えられている。ちなみに、曹操の祖父・曹騰の故吏(被推薦人)でもあり、曹家の勢力圏内にあった。
- 武勇ばかりでなく名文家であり、また書の達人でもあった。
- しかし、長く辺境にいて中央情勢には疎かった。建寧元年(曹操、このとき12歳)、「第一次党錮の禁」の巻き返しを図る清流派筆頭の陳藩らが、宦官撲滅のクーデターを起こした。ところがたまたま洛陽にいた張奐は宦官たちにあっさり騙され、軍団を率いてクーデター部隊と対峙。これを崩壊させてしまったのだ。
- 「知らなかった」では済まされない。これが長い「第二次党錮の禁」の幕開けとなってしまうのである。
- 事件後、ようやく事実の真相を知った彼は激怒し、宦官がご褒美に次々とくれた九卿のイスを蹴り、隠遁。その後も宦官を弾劾する文書を都に送り続けたのだが、こんどはこれが引き金となって「第二次党錮の禁」が起こり、清流派官僚は壊滅的打撃を被った。
- この時の後漢王朝の人的被害は致命傷に近い。これから約20年後に袁紹・袁術兄弟が宦官大虐殺を敢行するまで、中国1億の人民は宦官による圧政・暴政の生き地獄を味わい続けることになる。意図してではないにせよ、この張奐こそが、後漢王朝の衰亡を早めた張本人なのかもしれない。
- 張奐は第二次党錮の禁に連座して流刑にあう。それでも生涯、千人に及ぶ壮士を飼い、書を書き上げ、隠然たる影響力を有していたようだ。この間、西方の実力者・董卓がその声明を慕い、兄に莫大な贈り物を持たせて面会を求めているが、これを受けなかったという。
- 結局、光和四年、この配所で失意のうちに老死。享年七八歳。
- ちなみに曹操、このとき二七歳。議郎として政務の末席に参画し、まさに陳蕃についての資料を収集している真っ最中であった。
- 或いはこの時、曹操は張奐に面会しているかもしれない。曹操が異例の直奏を行って天下を驚かすのはこの翌年のことである……。
蒼天張奐
- しかし「蒼天航路」の張奐老人は無為に死なず! 孔農の配所で細々と生き続けていたところ、張奐は二十歳という若すぎる洛陽北部尉・曹操孟徳の来訪を受ける。(曹操の党錮調査の時期が七年ほど前にズレてる)
- 「何故おまえは生きている!」という曹操の第一声が、第二次党錮の禁以後の張奐の屈託を吹き飛ばしたに違いない。張奐は当時の詳細な証言と、秘蔵していた陳藩直筆の上奏文書を曹操に託した。
- 蒼天では、宦官に騙された張奐は自ら二本の斧を投じて陳藩を殺害したことになっている。陳番は、ただ宦官の悪政を皇帝に直訴しようとしていただけだったのだ。曹操らが辞した後、張奐は無造作に自殺しかけるが、曹操に制され、以後の武人としての人生を曹操の元でまっとうすることになった。
- 曹操の私臣集団の宿老格というくらいの位地なんだろ~けど、そのわりに曹操のシンパである皇叔の身辺を警護したり、各地の情報を収集したりと、自ら飛びまわっていたような。思えば荀彧少年を曹操に引き合わせたのも彼でしたなあ。
- 黄巾の乱勃発後は、部将としてその本領を発揮。かつて数万という西方軍団の総帥であった彼が、一騎都尉のそのまた部下として「老いたる熱血」を発揮したのだから、黄巾の農民たちにはたまったものではないだろう。
- 死に場所を探すという意味も、あったかもしれない。張奐は長社方面の渠帥、張曼成(本当はこの方面司令は波才なんだが…)に一騎打ちを挑む。が、寄る年波には勝てず、次々と深手を負わされる。わずかに遅れて駆けつけた夏侯惇が張曼成を討ち果たすが、張奐はすでに致命傷を受けていた。
- 「願わくば曹公の世を一目見たかった」と呟くと、夏侯惇の腕の中で激動の生涯を閉じる。夏侯惇は張曼成の屍骸を崖のへ擲ち、「漢帝国 曹孟徳の将・張奐、張曼成を討ち取ったり」と全戦場に怒号する。すべてを察した曹操も、馬上から張奐の霊へむけて剣を捧げた。後漢王朝最後の武人の最期、というべきシーンでした。
- ところで、曹操が「彼らに次いで上手かった」と引き合いに出される草書の達人張芝・張昶の兄弟は、実は張奐の長男次男です。さらに、漢王朝に叛逆(つうかカッとなって上司を殺害)して韓遂に討伐された武威郡太守の張猛は、三男坊でありましたとさ。
- できれば韓遂の回想シーンとかで、張奐そっくりの姿で出演して欲しかったよ張猛…。ちなみに彼の敗亡は韓遂・馬超連合と曹操が潼関で衝突する、たった一年前の話だったり。
趙姫 ちょうき
- 生没:? 本貫:? 官:?
- 曹操の側妾の一人、趙姫と思われるんだが……。楽陵王曹茂とやらの母親。
- 曹操は少なくとも十三人の女を妻とし、二五人の男子をもうけている。趙姫は、たまたま男子を産んだがために「三国志」に「趙姫生楽陵王茂」と七文字のスペースを貰い、歴史に永遠の名を刻んだ。
- ちなみに曹茂は傲慢で鼻持ちならぬ性情であったといい、曹操や兄・曹丕にいたく嫌われていたらしい。
- 蒼天では、初登場いきなりオールヌードを披露してくれる。官渡戦線から抜け出して許都へ戻ってきた曹操に後ろから抱きつく、ちょっとワガママっぽい美少女。しかも全裸。
- 「じゃあ、このまま一緒に官渡へ戻ろうか。兵卒たちが喜ぶ」さすが曹操、あしらい方も見事!
張繡 ちょうしゅう

- 生没:?~207年 本貫:涼州武威郡祖県 官:破羌将軍
- 董卓軍(牛輔軍)の四大将のひとり張斉の甥。若い頃から武名を知られ、韓遂ジジイの謀反に呼応した賊将を斬って上司の仇を討つなど、涼州でも優秀な将校だったようだ。
- 董卓敗亡後、張斉に従って荊州へ侵攻するが、流れ矢で張済は戦死する。急遽軍団を引継ぐが、意外にも劉表と和睦し、そのまま劉表の客将兼防波堤として南陽郡の一部を支配する。言ってしまえば後の劉備の前任みたいなもの。
- が、曹操の侵攻に遭い、あっさり投降。しかし占領後の曹操のあまりの傍若無人っぷりにマギ切れしたため、曹操に敵認定されてしまい、一触即発のムードに。そこで賈詡の献策に従って占領軍本営を急襲し、曹操の長子曹昂、甥の曹安民、親衛隊長の典韋を討ち取るなど、すさまじい戦果を挙げる
- その後も劉表の防波堤として曹操とたびたび戦うが、曹操と袁紹の対立が激化すると、弱小な曹操の陣営に参入して天下を驚かす。まあ賈詡が勝手に決めたことだけど。
- 曹操に帰属後は、政治的効果もあり、いわば別格の客将としてVIP待遇を受けていたようである。ちなみに官渡戦役終結時点の封地は2000戸と、他の重鎮に比べてもケタ外れに多い。また彼の娘は曹操の息子の一人に嫁いでいるので、曹家にとっては姻戚にもあたる。
- …のだが、烏丸遠征の陣中で没す。郭嘉と同じく慣れぬ風土による病没かもしれないが、一説によると曹丕に兄・曹昂殺害を咎められ、前途に絶望して自殺したとも。う~わ。
- ただこの自殺説については、文面を見る限り曹丕が陰険だったというより、張繍が無神経だったようだ。何度も面会を求められ、たまりかねて「兄上を殺したのによく何度も来られますな!」とブチ切れたっぽい。ちなみに宛城の戦いは曹丕も少年ながら参加し、自ら馬を駆って張繍軍の重囲をかいくぐっている。とても賓客として遇する心地にはなれなかっただろう。
- 諡して定侯。子の張泉が跡を継ぐが、後に処刑された。
蒼天張繍
- でっぷりと固太りした、パッとしない中年武将として登場。
- まあ、蒼天ではあくまで賈詡の付録(実際もそんなもんだったと思うけど)として描かれています。
- 亡き叔父の妻雛氏に道ならぬ恋をしていたらしい。どこからどう見ても釣り合いがとれん。所詮叶わぬ恋でありましょう。
- 最初は賈詡に利用されるだけ利用され、用事が済んだらポイされるような存在に見えたのだが、「あの無邪気な覇気こそ、最も好ましいもの」と、あの賈詡が目を細めて微笑んでいるところを見ると、野心や損得勘定を抜きにしたところでは、このふたりはけっこう好カップルだったらしい。
- 実際、曹操に降伏した際、自らの首を晒してまで賈詡の助命を乞うたのは張繍であり、官渡のおりでも、他の軍師団と険悪になるや必死でフォローに回ったのも張繍。なんだかんだで面倒見のよい親分だったようだ。
- しかしながら、新野から逃げ去る劉備を追撃するため前線へ出た瞬間、趙雲の槍にあっさり串刺しにされてしまう。
- この後の賈詡の放心ぶりをみると、この元主従の絆は想像以上に強く、張繍自身の将器の程もうかがえる。合掌。
張泉 ちょうせん
- 生没:?~219年
- 張繍の子。「蒼天航路」では張繍そっくりの顔に成長していた。
- 魏諷のクーデターに参加しており、曹丕を弾劾しつつ姿を現すが、他の同志達ともどもその場で射殺される。
- 朝服を纏っており、文官なのか武官なのか解らない。。
趙翠湍 ちょうずいたん
- 生没:? 本貫:? 官:?
- 曹操の側妾の一人?
- 豊満だがなんとも暗い目の女として登場。パッとしないその外見とは裏腹に、我が子を曹操の跡継ぎにしようと野望を燃やしているようだ。曹家の女棟梁たる卞氏に対し、彼女の野心がどれほど通用するのか、また曹家にどのような波乱がまきおこるのか。
- 前項の趙姫と同一人物だというオチでもない限り、趙姓で曹操の男児を産んだ女性は(記録上)いない。つまり、彼女も結局は野心を抱いたまま老い朽ちゆく一群像として終わるのか……。
張遼(字:文遠) ちょうりょう

- 生没:169~222年 本貫:州雁門郡馬邑県 官:征東将軍
- 言わずとしれた曹操軍団唯一の騎将。魏の五将のひとりに数えられ、武勇は曹仁に次ぐ(!?)とまで絶賛された。
- 最初は同郷の丁原に仕えていた。ところが先輩の呂布がこれを斬って董卓に任官してしまったので、それについていって董卓に任官。ところが先輩の呂布がこれを斬って放浪してしまったので、それについていって放浪。主体性が問われるところだが、それだけ呂布個人に懐いていた…と言えなくもない。
- どんなに呂布が困窮していてもしぶとく附いていった根性は見事だが、さすがに対曹操戦では身の危険を悟り、包囲される前に降伏。呂布、高順、陳宮らが次々斬られてゆくのを、どのような心境で見ていたのだろう。このとき、まだ29歳という若さである。
- 曹操に仕えてからは、騎兵軍団の長として活躍。特に塞外遠征作戦では陣頭に立って突撃し、烏丸民族の指導者頓の部隊を潰走させるという奇功を立てる。
- 赤壁の後、対呉方面軍の守護神として合肥に駐留し、南方へ睨みをきかせる。10万の呉軍をわずか500騎で潰走させ、「泣く子も黙る」と畏怖されたのは、この時期。
- これからわずか7年後に、劉備よりも一年早く病死。五三歳という若さであった。ちなみに張遼恐怖症にかかっていた孫権は、病んだ張遼の存在をも極端に恐れ、部下を戒めていたという。
- なにかと魏陣営に辛い「三国演義」でも、関羽との親交や、知勇に秀でたエピソードなどから人気を集め、光栄シリーズでも武力90台、知力70台以上の名将として描かれることが多く、彼を麾下に納めると俄然テンションが上がる。
蒼天張遼
- 蒼天では高順と同格の騎馬軍団長で、非常にクールで素敵なカンジに描かれている。虎牢関での呂布との一騎打ちを見て以来、関羽のファンだったらしい。同じ青龍刀で勝負を挑み、一歩もひかぬ実力を見せた。
- 史伝では実際関羽との交流は後々にも続き、「義によれば関羽はわが兄弟、曹公はわが親」と二人のあいだで板挟みになるほどだっというが、蒼天では残念ながらカット。
- 呂布敗亡のとき夏侯惇軍に敗れ、捕虜に。曹操の前に曳き出されるが、その「武」に対する飽くなき追求心を気に入られ、生かされた。以後、騎馬軍団を率いて曹操軍主力におさまる。
- 白馬の戦いでは関羽とペアを組んで出撃し、関羽の「稲妻」に対し「瀑布」の用兵とたたえられた(イメージで言えば逆なんだが)。
- さすがに、部将全員が一兵卒に落とされた時は、馬鹿馬鹿しく思ったのか、甲冑を脱ごうともせず周囲を「威圧しまくって」いたらしい。たしかに張遼に兵卒スタイルは似合わんなあ~。
- 袁家滅亡後、万里の長城をこえて塞外の烏丸討伐に従軍。軍師郭嘉とともに騎兵のみを率いて先行し、頓率いる数倍の敵軍に突入、これを打ち破った。
- 長坂では張飛に挑もうとして、夏侯惇に制止される。「俺の裁量でお前は出せんよ」といわれるところを見ると、すでに相当の地歩を固めていたようだ。
- 赤壁では、郭嘉のアイデアによる烏丸騎兵の乗船作戦を指揮していたようだ。つまり配下の騎兵共々あの火攻めに巻き込まれている可能性は高い。
- その後、合肥で対呉戦線の一翼を担うに及び、作品後期におけるラスボスの風格を帯びはじめる。
- 合肥での一直線の単身突撃、その続きの追撃、さらに悠然たる撤退など、東呉の猛将たちを子供扱いにする(どころか眼中に置いてすらない)までの桁外れぶりは、呂布や関羽のような「伝説レベル」といっていいだろう。
- …が、甘寧一味に名馬を根こそぎ強奪されたときは、珍しくマジ切れしていた。その頃から、病は重篤であったようだが、2年後の樊城救援作戦では、再び元気な姿を見せている。
- いま一度関羽との戦いを望んでいたが、とうとう叶わなかった。関羽敗死の報を受け、合肥へ引き返すさなか夏侯惇は、張遼の岩石のような掌を見て褒めている。
- 張遼が亡くなるのは、これから約3年後のことである。
程昱(字:仲徳) ていいく

- 生没:141~220年 本貫:兗州東郡東阿県 官:衛尉卿
- 本名は程立。曹操より14歳年上。「泰山に登り両腕で太陽を捧げる」という奇夢を度々見るので荀彧に話したところ、それが曹操に伝播。結局、曹操が昱という名をつけてくれたという。案外かわいらしいエピソード。
- 曹操のブレーン集団のひとりという印象が強い人物だが、実際は隆々たる偉躯に立派な甲冑を纏った、武官系の参謀将校であった可能性もある。意外な話だが、身の丈は約190センチと伝わっており、184センチの許褚よりも高い(蒼天では「ひょろ長い老人」として描写されているが)。
- 「三国演義」では何かとダーティーな活躍が多く、ほとんど嫌われ役専門だった。実際、協調性に欠けるワンマンタイプであったらしい。
- もともと鬼謀の人として名高く、各国からの招聘を断り続けていたが、ある日ぶらりと曹操の元に訪れ、仕官。周囲の人々を驚かせる。
- 兗州が呂布に襲撃されたときは、夏侯惇や荀彧とともに本拠地を死守。曹操が戻ってくるまで持ちこたえた。ちなみに「昱」の名を与えられたのは、この時。
- 劉備の離反や南征作戦の困難さを予見するなど、軍師らしい活躍もするのだが、袁紹の大軍団に接近されたときなど、「かえって目立つから」と増援を断り、結果として部下の命を救うという桁外れの剛胆さも兼ね備える。郭嘉たちと違い、振威将軍だの奮武将軍だの、バリバリの野戦司令官号を持つのも納得。
- 魏王国設立後、九卿の一人(衛尉卿)に列せられるが、子供の喧嘩のような理由で同僚と張り合い、免官。二代目曹丕が再び衛尉に叙し、今度は三公に任じようとするが、その直前に没す。
- 「充足を知る者は恥辱を受けず」という名ゼリフを残して引退したもいい、あるいはこの頃、黄老思想に凝っていたのかも。齢八〇という驚異的な長寿者であった。
- 諡して粛侯。車騎将軍の号まで追贈された。子の程武が跡を継いだ。
- …ところで。この程は生前、恐るべき事をやってのけている。あるとき曹操軍の糧食が尽きたと聞いた彼は、よりにもよって我が故郷を襲撃して三日分の食料を略奪した、という。その食料とは……人肉……。
- この逸話を上げている「世語」の作者は、「三公になれなくて当然」と吐き捨てている。むろん事実無根のホラ話の可能性もあるが…
蒼天程昱
- 蒼天では、優秀な軍師ではあるものの、どうにも底意地の悪いジイさん的存在。いわゆる「驚き要員」「解説要員」に回ることが多く、声高に常識論を叫んでは曹操や賈詡に論破される、というパターンが多い。程昱ファン(いるのか?)にとっては歯がゆい状況であったに違いない。
- さて先述の通り、ヒョロ長い体躯と手足が印象的な初老の人として登場。ちょうど徐州大虐殺が行われる直前の話で、このとき52歳。
- 後に「人生の最大の見せ場」と自ら述懐している対呂布戦の指揮はカットされてる…。が、合肥での回想内に、防戦の指揮を執る傍ら、石に昱の文字を刻んでいるシーンがある。
- 対袁術戦では、大凧に募兵布告を大書する役に抜擢される。どうやら「見た者を和ませる」類の悪筆(?)だったらしいが、本人は「解る者には解るのだ」とルンルン気分だった。珍しい。
- その後も、とかく引き立て役に終始し、郭嘉からは「地形と兵の数だけで語る軍師」と面罵されたりと、パッとしない。「三国演義」では、袁紹の大軍団を完全に殲滅した「十面埋伏の計」を提案した人物とされているが、それもなし。
- いっつも曹操に睨まれているダメ軍師な印象ばかり目立っているが、逆に言えばそれだけ曹操に直言する回数が多いのだろう。実際、官渡決戦のおりには、軍師達(賈詡以外)がまとめた最終案を一同代表して報告している。最年長ということもあって、幕僚の主席に座していたのかもしれない。
- 赤壁の後、曹操の供として揚州入り。既に80も近い老爺でありながら、帯甲騎行しているのだから、驚異的な頑健さである。
- この頃から、なにやら感傷的になっていた。劉曄はじめ、温恢、蒋済ら次世代の躍進を目の当たりにし、ひるがえって己の生涯を顧みたとき、確たる武勲として語れるものが殆ど無いということに焦慮し、暗然としていたようだ。
- だが、自らが曹操の傍らで負ってきた役割を捉え直し、また自分が名を刻んだ石が、次の劉馥、その次の温恢へと受け継がれている姿を見て、「我、ここに充足を知る」と吹っ切れ、引退を決意した。
丁美湖 ていみこ
- 生没:? 本貫:? 官:夫人
- 曹操の最初の正夫人。子供はなかったが、早世した側妾・劉氏の曹昂(男児)と、清河公主(女児)を自分の子として育てていた。
- 性情はけたたましいほどに狷介であったらしく、第二夫人たる卞氏や他の妻妾たちに辛く当たっていたらしい。正しき正夫人の姿であるといえよう。
- 張繍戦での曹昂戦死の報を聞くや、狂人のように喚きちらし、ひたすらに曹操を責めまくった。あまりにもそれが執こいため、曹操は堪りかねて彼女を実家に戻す。
- しばらく後、曹操は自ら彼女の里に出向いて「車を待たしてある。一緒に乗って帰ろう」と話し掛けるが、丁夫人、無言で機を織り続ける。その後ろ姿に向かって曹操「……まだ許してくれないか」乾いた機の音のみが室内を流れる。曹操、後ずさりして戸に立ち「じゃあ、本当に、お別れだ」。……
- こんな生々しい話を史書に載せるな:(;゙゚'ω゚'):
- 丁氏は、その後再婚することなく生涯を独身で過ごしたようだ。彼女の心情はいかなるものだったのだろう……。
- ただ曹操の知らぬところで、元第二夫人の卞夫人は彼女を招待してお茶していたらしい。
- 曹操は死ぬ間際、急に弱気になったのか「あの世で子修(曹昂)に母の居場所を訊かれたら、どう答えればよいのだろう」と呟いたという。
蒼天丁夫人
- 言うまでもないが、美湖という名は「蒼天航路」から。初登場は卞氏と同じく曹騰の葬儀のシーン。曹操とは許嫁だったみたいで、「二十歳を待たずお側に置いていただきますから!」「う~~む」。
- 曹操の評すところの「洛陽一のじゃじゃ馬」。「優しくするとつけ上がり、厳しくするとヘソを曲げてすねる」。ちなみにこの評、曹操が後に呂布を美女に例えたときのモノに相通じる。「優しく抱き止めてやらなければとめようがない」、と。…あるいは曹操の理想とする女性は、この丁美湖だったかも~。
- 曹昂の戦死の後、「曹操孟徳には人として欠けるところがあります!」「お別れです!さようなら!」と自分から里へ帰る。「ごめん…」と肩に掛けられた曹操の手を払いのけて!「迎えに行くぞ」という声を言下に断って!
- 曹操孟徳の妻として、曹昂子修の母親として、シンとした強い何かを感じさせる一幕でした。
典韋 てんい

- 生没:?~197年 本貫州陳留郡己吾県: 官:校尉
- 曹操の親衛隊長として有名。人間離れした戦闘能力で知られ、二本の手戟(あるいはフタマタの大戟か)を愛用したという。戦場に出れば彼ひとりでかるく数十人を打ち殺したというから、ほとんど化け物である。
- もともと故郷の市をぶらつく任侠の徒であったらしい。数百の乾分を持つ大親分の屋敷へ単身で討ち入ったなど、いかにも彼らしいエピソードが残されている。
- 張邈の募兵に応じ、一義勇兵として風雲に乗じる。ちなみに、誰も持ち上げることのできなかった牙門旗を片手でひょいと掲げて周囲の度肝を抜いたというエピソードは、この兵卒時代。後に、夏侯惇の下に属す。
- 呂布との戦いで曹操の目に留まった典韋は、即座に都尉に立てられ、常に先鋒をたまわった。ますます武功抜群で鳴らし、曹操は彼を気に入って校尉に任じた。
- それ以後、曹操を生涯の主と定めたのか、昼間は忠犬の如く曹操の傍らに侍立し、夜は曹操の天幕の側で寝泊まりした。「帷下の壮士に典君あり、一双戟八十斤を提ぐ」と歌われた。
- たいへんな大食漢で、常に二人分喰わねば足らなかった。曹操がたまに会食に誘ったりすると、左右から次々酒を注がせ、給仕を数人増やさねばたちまち膳が空になったといい、曹操はこのケダモノじみた健啖ぶりを見るのが何よりも嬉しかったらしい。
- 曹操は古今に類を見ない名将だが、実は敗れる時はおっそろしく危険な敗れ方をしており、いつも敵の重囲を単騎で逃げ回るという目に遭っている。その度に、許や典韋らボディーガード、時には曹洪、曹昴、曹安民といった親族武将が、文字どおり命懸けの超人的活躍をして戦場から救い出している。実際のところ曹操ほど部下に面倒をかける将帥はいないのだ。
- そういうわけで、前線に出過ぎる曹操を警護する人間は、死亡率がきわめて高い。
- 曹操は、降伏した張繍の居城・宛に居座り、その叔母である雛氏の閨に入浸っていた。典韋は主君の側を離れるわけにゆかず、当然、軍団主力から離れて曹操の身辺を警護していた。そこへ、張繍軍が急襲してきたのである。曹操はわずかな手勢をかき集めて迎撃したが、一撃で粉砕された。
- 曹操が落ちる間の時間稼ぎを、典韋は任された。典韋とわずか十数名の兵士たちは、数百倍という敵を相手に信じられない程の激戦を繰り広げ、とうとう正面の張繍軍を押し返したという。しかし別路から侵入した敵に包囲され、典韋以下全員が戦死。
- いよいよ死を覚悟した典韋は、戟を振り回し怒号しながら敵の槍襖に突入。数人を撃ち殺し、なお大声で罵りながら息絶えたという。おそらくは四方八方から矛を突き立てられる壮絶な戦死であったに違いない。
- 曹操は脱出に成功したが、彼の長子と甥は助からなかった。そのためだろう、曹操は典韋を祭りはしたけれども、死後位階を追贈したりはしなかった。あるいは記載漏れか。
- 子の典満が跡を継いだ。
蒼天典韋
- なぜツノが!? 蒼天航路では、夏侯惇が募兵旅団を率いていたときに見つけ、スカウトしたらしい(「三国演義」では虎狩りだったが)。
- バカでかい牙門旗を片手で掲げるという有名なエピソードを映像化(?)しているが、旗を受け取った許褚(実際の許褚の参入はこの数年後と思われる)とそのまま力比べにおよび、賭博も行われていたようだ。結局、曹操が予想したとおり許褚が勝ったのだろうか?
- 張繍の降伏のとき、曹操の傍らで大戟を手に「酒を注いでまわれ」と文字通り鬼のような形相で命じているが、正史には酒を注いで回ったのは曹操自身だったという記述もある。ちなみに典韋は大斧を持って曹操について回り、一人一人に斧を振りかざして威嚇していたというから、参加した人々は生きた心地がしなかったに違いない。
- で、曹操の籠もる鄒氏の屋敷の警護に当たる。ある意味モビルスーツのような動作で双戟を定期的に持ち替え、何人たりとも近づかせない構え。さすがに食事は摂るらしく「本来人に見せるものではござらぬが」と礼儀正しくオニギリを頬張る。用を足すときだけは、わずかに場を外れ部下に門を護らせていた。
- しかしこのときの食事は、「胡車児」が仕込んだ毒入りであった。常人なら即死しているような猛毒に犯されつつも、典韋は双戟を拡げて最後の護りにつく。次々と打ち掛かってくる敵忍者を、かすれる目でバサバサ斬りまくり、最後は「胡車児」に討ち取られる。
- その「胡車児」を抱き殺すや、「曹操殿!典韋・これにして・失礼・仕る」と叫び、立ったまま壮絶な大往生を遂げた。