魏_カ行2
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gukko
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楽進(字:文謙) がくしん

- 生没:?~218年 本貫:冀州陽平郡衛国県 官:右将軍
- 曹操の誇る五将軍のひとり。とにかくハンマーで城壁を突き崩すような豪快な用兵で知られ、こと突進力においては最強の猛将であったという。特に黎明期の曹操軍団中にあっては、敵城一番乗りだの○○軍をうち破りこれを斬っただのいう記述で埋め尽くされ、絵に描いたような「切り込み隊長」であったさまが伺える。
- の、はずなのに、演義のザコ武将イメージがあまりにも強く、これまで様々なメディアでロクな扱いを受けたことのない不幸な人。目立つセリフが無い分、于禁より可哀想な存在かも。
- 「蒼天航路」でようやく人がましく扱われ、霊あれば地下で哭いているでしょうなあ。
- もともと若き曹操の帳下吏、要するに書記か秘書のような就職だったらしい。が、しばらくコキ使っているうちに楽進の将器を感じたのか、曹操は彼を郷里に戻らせ兵を募集させている。兵力不足の頃だろうから、曹操も見所のある若者を方々に派遣して、募兵を繰り返していたのだろう。
- ちなみに、彼の郷里衛国県と、曹操が二十三歳の時に県令を勤めた頓丘県とは隣同士。曹操とのつながりは、案外若い頃からあったかも…と想像するとおもしろい。
- 楽進は、小柄だが全身バネのような体躯をしており(いますよね、こういうヤツ)、戦場では必ず真ッ先に突進し、日本で云う「一番槍」の名誉を飾っていた。「曹操軍団の切り込み頭」。楽進は、ただその看板を背負って遮二無二突進し続けるだけで、軍の最高幹部たる身分を手にいれた。いわば最前線で叩き上げた修羅の将だったわである。
- 官渡戦に前後して、楽進は李典とペアで方面軍を任される事になる。李典は二十代と若いが、思慮深いが決断力にも富み、楽進をよく補佐したと思われる。曹操はこの黄金コンビを好んで使い、度々功績を挙げた(高幹征伐には失敗してたけど)。
- 赤壁決戦以後5年間、荊州の守護神として荊州の拠点・襄陽に駐留し、関羽・孫権軍と対峙。たびたび国境紛争レベルの戦闘があったらしい。劉備入蜀に前後した会戦では、僚将文聘と合力して関羽軍を撃破し、その勢力を大きく削るなど、地味に忙しい日々を送っていたようだ。
- その後、孫権討伐(濡須の戦)に参加し、そのまま合肥城の李典・張遼軍と合流し、対呉戦線の主翼となる。いわゆる「遼来々」の突撃があった戦闘は、この2年後。
- 右将軍という中央軍の元帥にまで昇るも、いよいよ漢中要塞を巡って劉備との戦闘が激化する西暦218年、逝去。諡して威侯。子の楽綝が跡を継いだ。
蒼天楽進
- 「蒼天航路」では、おそらく史実よりだいぶ遅れて、袁術戦と張繍戦のあいだに登場する。練兵の視察にきた曹操が、満身傷だらけの一兵卒にふと目を留め、一言問答を仕掛けた。それが楽進だった(このシーン、格好いいですねっ)。曹操は無造作に彼を抜擢し、荀攸とペアでOJT(職場で慣れろ)コースに放り込む。
- 無口(というよりぶっきらぼう)で、退くとか敵の攻撃を避けるとかいう概念が頭から無く、「敵の伏兵があるぞ!」「行ってみよう」というケタの外れた将帥。荀攸としても、教えがいがあったと思われる。
- 呂布戦や官渡決戦でシブく活躍するが、大したセリフなし。官途で全員が兵卒に格下げされた際、一番兵卒になりきっていたのは夏侯惇だったという曹操評だが、楽進は兵卒姿があまりに自然すぎてモブと見分けが付かなかった。
- 長坂では、仁王立ちの張飛のもとへトコトコと単騎歩み寄り、大いに目立つ。ただの一撃で馬上から打ち落とされたとはいえ、しぶとく生きぬいたのはたいしたもの。さすがに張飛の武威に怯んだのか、このときはじめて「退いた」姿を見せており、諸将を驚愕させた。
- 烏林戦では、「襄陽支軍」つまり荊州後方司令官の位置にいたようだが、他の諸将とともに前線で孤軍奮闘する荀攸のもとへ駆けつける。そして最初の篝火を灯して、全軍へ気焔を吐いた。思えば彼の将軍としてのスタートは荀攸と二人三脚であり、人一倍、荀攸との紐帯は強かったのではなかろうか。
- 印象的なシーンだったが、烏林の火攻の際にはいなくなっていた。すぐに職場に戻ったのだろう。
- そして「蒼天航路」は、楽進に戦場での死に華を与える。
- 赤壁から7年後の合肥の戦闘で、張遼に従い孫権軍を大破するものの、その追撃戦で敵将凌統と激突。
- 若さの差もあるだろうが、蒼天武力値では、どうやら張遼>>>>(超えられない壁)>>>>呉の将軍>楽進だったようで、凌統相手に満身創痍の深手浅手を追った挙げ句、腹部を槍で貫かれるという重傷を負わされた。それでも槍を離さず、ひたすら凌統に頭突きをかましていた姿は壮烈と言うよりない。
- 戦後、後送され療養していたようだが、不運にもさらに流行病に罹り、それが元で身罷った。
- 「魏王、何時か戦地にて」「待つ!もう喋るな!」曹操が子供のように叫ぶシーンが印象的(´;ω;`)
環霖明 かんりんめい
- 生没:? 本貫:徐州彭城国 官:夫人
- 曹操の第五夫人。美少女。卞夫人のお付きみたいな形で登場。霖明という名はオリジナルだと思われる。
- 彼女自身はこれといって伝のない人だが、その息子は一部のコアな魏派にとって特別の意味をもつ。すなわち、絵本にもなっているスーパー麒麟児・曹倉舒(沖)。
- 早世の天才児として蒼天映えしそうな曹沖だったが、とうとう登場せず。嗚呼、倉舒さえ生きていれば!……かえって後継問題でややこしくなってたりして。
- 他にも二人息子がいるが、末子の曹宇はまあまあの人物で。二代明帝の寵愛も厚かったが、後事を託されたときこれを固辞し、大将軍の官を棄てる結果となった。彼の失脚が、後の司馬氏専横のきっかけになる。
- ちなみにこの曹宇の息子が、魏王朝最後の皇帝曹奐である。
許褚(字:仲康) きょちょ

- 生没:? 本貫:沛国譙県 官:武衛将軍
- 曹操の忠実なるボディーガード。人間離れした腕力と魁偉な風貌で恐れられる一方、常にぼぉーっとしている性情を愛されもした。名付けて、「虎痴」。すごくいい名前だと思う。
- 実は曹操と同郷である。身の丈184cm、ウエスト120cmという奥行きのある体型が記録されている。
- 伝に拠れば、彼はこれでも一方の旗頭として汝南に割拠し、傘下数千家にも及んだというから、ちょっとした独立勢力の頭目でもあったわけだ。
- あるとき、同じような自治勢力(というか黄巾の残党)に襲撃され、砦を包囲されたことがあった。許褚は、彼らに対してなんと投石で抵抗。百発百中で、しかも命中すると頭蓋が粉砕されるという凄まじい威力であったらしい。で、結局兵糧攻めにあい、許褚は抗戦をあきらめ、賊に牛馬などを貢いだ。ところが、この貢ぎ物の牛が許のもとへ戻ってきたため、彼はこれを片腕で引きずって返しに行った。その光景を目の当たりにした賊たちは、次の日その地から居なくなったという。
- 曹操が汝南一帯を勢力下におさめたとき、一族郎党を率いて帰順。以後、曹操に侍立する事になった。ちなみに許褚の仲間たちも親衛隊として召し抱えられ、後に実兄の許定をはじめ将軍になった者数十名、高級将校に引き上げられる者数百名に及んだという。なんだか梁山泊めいた猛者どもの巣窟を想像してしまう。
- 許褚の勤務態度は謹厳そのもの。親睦を深めようと座に誘ってくれた曹仁を無視し、曹操に褒められたエピソードは有名。他にも、休暇中に胸騒ぎを覚えて曹操の元に駆けつけ、挙動不審な曹操の寵臣徐他(袁紹の刺客説が有力)を打ち殺すという話も残されている。
- 常に曹操の隣に侍立していたというわけではなさそうだ。張繍征伐の戦では先鋒の将として、後の馬超戦でも一軍の将として自ら剣闘し、首級を挙げている。
- その馬超戦において、曹操軍は緒戦で木っ端みじんに粉砕されるほどの大敗北を喫し、丞相曹操が単騎で敵軍の中を逃げ回るほどの信じがたい事態となった。許褚は曹操にぴったりと寄り添い、超人的な活躍で主を守り通した。曹洪といい典韋といい、この許褚といい、曹操は絶体絶命のたびに、こういう部下の忠勤により命を拾っている。
- 結構長生きし、曹叡の代に没す。壮侯と諡され、子の許儀が跡を継ぐが、橋の整備が不完全だったという心底どうでもよい理由で鍾会に処刑された。
蒼天許褚
- 許褚÷(力+忠+信)=可憐な洟垂れくーにゃん。
- 蒼天では、なんと第三話「怪童来々」からの登場(オープニングにも出てたけど)。故郷の譙で山賊に襲われ絶体絶命の阿瞞の前に、図体のでかい小坊主(?)として「まってくんろーー」と出現。前述の通りこの譙の出自であるため、おそらくこの近くの仏寺に生まれ育ったのだろう。怪力で少年阿瞞を救い、住職さんの許しを得て、以後曹操に扈従する…はずだったのに、爆裂団頭目の李烈のドタマをかち割った後は登場せず。
- 少々興味深いのは、このシーンの仏寺。当時、浮屠の教えは伝来間もないこともあり、異国の外来宗教といったポジションだったようだ。むろんこのくだりは「蒼天航路」の創作だろうが、曹操と仏教徒許褚とは、なかなか珍しい取り合わせであった。
- ずっと後、こんどは黒山賊の頭目の一人として再登場し、濮陽城の救援にきていた曹操と再会。一目散に逃げだすが追い掛けられ、「億で数える民を喰わせる事を考えるなら、ふたたびこの曹操に仕えろ! 以後の生涯、ずっとだ!」の一言で帰還する。この時点でちゃんと妻子がいたようだ。
- 曹操の身辺を警護する役は典韋が担っていたためか、しばらくは一軍の将として活躍していたようだ。宛城の敗戦時にも姿を見せず、荀彧らと別方面に居たものと思われる。
- 袁術征伐戦では、荀彧のスピーカーとして活躍……じゃなくて、突進してきた袁術四将軍をわずか2コマで全滅させる。「んあ?」
- さらに袁紹軍との延津戦では、敵将文醜ごと河の堤を粉砕してしまう凄まじい怪力を披露した。