車胄 しゃちゅう
- 生没:?~199年 本貫:? 官:徐州刺史
- 呂布の死後、徐州の軍政を曹操に委ねられた男。
- 事跡は殆ど記録されていない。だが徐州はただでさえ難治の地であるうえに、袁紹勢力と隣接している最重要地点のひとつ。そこを委任されている以上、軍政両般にそうとう有能であったものと思われる。「三国演義」等の一部テキストでは、なぜか「もとの車騎将軍」という肩書きまで。
- しかしながら、袁術討伐にかこつけてやってきた劉備に急襲され、奮戦むなしく殺害される。
- 「蒼天航路」でも、曹操の命を受けて堂々劉備を待ちかまえ、あっさり返り討ちにあってる。
朱霊(字:文博) しゅれい
- 生没:? 本貫:冀州清河郡 官:後将軍
- もともと袁紹の部将。曹操の徐州復讐戦に援軍として派遣されてきたのだが(当時の曹操は袁紹の部下みたいなもん)、曹操陣営の居心地がよかったのか、そのまま部隊ごととらばーゆ。派遣主袁紹の怒り狂う様が目に浮かぶ。
- 袁紹の部将時代、公孫瓚の部下によって家族を人質に取られたことがあるが、構わず攻撃を続け、一族を皆失っている。思い切った陣替えが可能なのも、ひとつに身一つであったからでしょう。
- その後は曹操の部下として順当に活躍。冀州制圧後は冀州兵を預かっているが、このときは人心掌握に失敗したらしく、反乱を起こされている。その後、関中や漢中など、西部方面で転戦している。
- 時期は不明だが、曹操は朱霊を悪く思い、その将兵を取り上げたことがある。このとき朱霊軍の暴発を防ぐため、軍の接収は冷厳な筆頭大将于禁が直々に行ったという。ここまで曹操に気を遣わしているのだから、配下に人望があったのだろう。以後、于禁の部将となったようだが、すくなくとも于禁投降の際は荊州に居なかったようだ。
- 曹丕の代で後将軍にまで昇った。諡は威侯。生前、名声は張遼や楽進ら魏の五将軍に次ぐものだったというから、三国中に名を轟かすクラスの武臣だったはずだが、なぜか立伝されず、後世ザコ部将扱いされるようになってしまった。
蒼天朱霊
- 蒼天では、何というかこう、無表情のナマズのような大将として登場。史実通り袁術討伐の部隊を率い、劉備とともに派遣される。
- 「こんながっちんがっちんに律儀な奴ァは見たことねえ」と劉備がぼやいている。たしかに、上官が愛妾とお愉しみの最中、「お取り込みのところ失礼いたします」と業務連絡を入れてくるのは普通の神経ではない。
- 袁術憤死の報を受け、劉備と別れて許都へ戻る。「花の一輪でも供えにゃならん恩人が、下に眠っている」という劉備のことばを聞き、無言で軍をひるがえす姿は、「おお、意外にイイ奴だ」と好感をうけるが、あるいは劉備謀反の兆しを感じ取り、報告へ戻ったのかもしれない。
- どちらにしてもお目付役としては失格。こいつがしっかりしてたら、上の人(車胄)は長生きできたのに。許都帰還後、さぞや郭嘉たちに苛められて…「軍を没収された」ってのは、この時のことかも。きっと、よってたかって……。
- このずっと後、関中の韓遂・馬超討伐戦に徐晃の副将として登場。徐晃が討ち取った張横の死体が見つからず、似たような生首を掻き集めて徐晃を辟易させていた。
- おまけに、首級の代わりに耳を削ぎ取って天子へ献上する話の段では、「殺してから耳を削ぎますか、耳を削いでから殺しますか」と質問しかけて、曹操をもドン引きさせている。曹操曰く「あの味の悪い物言いには全然慣れんな…」
- 一応の曹操評としては「軍才は上々」「残忍を好む性質も問題というほどではない」ということらしいが、生理的に受け付けないタイプなのだろうか。
荀彧(字:文若) じゅんいく

- 生没:163~212年 本貫:豫州潁川郡潁陰県 官:尚書令
- 曹操の覇業をささえた第一の臣たり、漢の功臣張良にも比せられる賢者。
- もともと荀氏は清流の名門であり、分家本家含めて、代々多くの名士・賢臣を輩出してきたが、その子弟たちのなかでもずば抜けていたのがこの荀彧。
- 青年時代、当代の名士にして豪傑、政治活動家の何顒から「君は王佐の才だ」と評された事から、後世、彼の代名詞が定まった。
- もともと袁紹の賓客だったのに、求めて栄華を棄て、当時駆け出し中であった曹操に臣従する。このときまだ三十になるかどうかという若さである。
- 以後、曹操が重大な岐路に立たされるたびに、神懸かり的なまでに的確な助言を与え、その覇業を支えた。
- また、曹操に一流の人材を推挙しまくった。いわゆる渡邊節でいう「名士ネットワーク」を駆使し、当時第一級の知識人・学者・官人たちが、続々と招聘に応じて参集。曹操のブレーン集団のほとんどが、荀彧が掌握する清流ネットワークによる紹介であった。もっとも、彼らは後に官僚貴族とよばれる不可侵のエリート集団を形成するに至り、王権でも手が出せないほどの存在になってしまうが。
- 曹操にとっては、荀彧自身の傑出した能力に加え、その官界全域に轟く名声・人脈も含め、「王佐の才」というべき存在であっただろう。
- 「軍師」という表現が目立つが、実際に戦場で采配を振るうことはまれであった。政府中枢にあって、政戦両略の対極を見渡した大戦略を立案・進言するか、出征中の曹操に代わって朝廷・内閣を切り盛りする「宰相タイプ」だったようだ。
- 尚書令になったことから、曹操は常に「令君」「荀令君」と言って彼を敬った。日本語的表現だと、終生敬語を使っていたレベルかもしれない。
- しかしながら、曹操の魏公就任に激しく反対し、その忌避を買ったと言われる。清流の儒者として漢室に忠義立てをした為か、生来のパートナー曹操の汚点となる暴走を看過し得なかった為かは、諸評の分かれるところ。
- 最も欲しかった荀彧の支持を得られず、気に病んだ曹操が、堪りかねて荀彧に「空の箱」を送りつけたとされる。
- 荀彧は主の意を酌み毒を仰ぐ。享年、四九。諡して、敬侯。単なる病死とする伝もあるが、空箱事件のほうが浸透している。
- 子らは父に似て人傑が多かったが、不思議と夭折が多い。それでも、遺った子孫は清流派の筋目として栄爵を全うし、次の王朝、そのまた次の王朝、と曹家なぞ跡形も無くなった時代でも、なお影響力を振るった。
蒼天荀彧
- みなさん、覚えておいでですか。かの「天才少年」荀文若を…。「あなたの軍師になりに参りましたっ!」
- 曹操が故国の県に隠棲していた時代からの登場。曹操の屋敷へアポ無しで来訪した押し掛け軍師で、ちょうど訪れた張奐に屋敷に入れて貰ったという。このときは、幼くして才気煥発な、いかにも天才少年然とした姿で描かれていた。…もっとも、このときすでに二十歳くらいの青年のハズなんだが、細かいことは気にしない(゚ε゚)
- 曹操の私臣に収まったのち、実際のところ、軍師と言うより弟子のような形だった。実地で曹操流の兵法を叩き込まれつつ、戦場では戦線を監督していたようだ。隊列を乱した劉備一党(と対応に出た夏侯惇)を叱りつけたりしている。
- このとき、野軍の大将に過ぎない自称皇族・劉備の大ボラを受け、なんだかカルチャーショックを覚えたようだ。曹操にその点を指摘され、ぐうの音も出なかった。
- 黄巾の乱後、見聞を拡げるため中国全土を独りで旅する事になる。
- 今思い出したのけど、あのときに出逢った西域の人たち(影の軍団)は、どうなったんだろ?
- で、ズルリと十皮ほどムけて戻ってくる。「あらゆるものを見聞し頭の中に天下を収めて、しかもそれらをすっかり忘れて戻って参りましたあーッ!!」
- 「ええっ、コイツ荀彧か?」と愕然とした方々も多いと思われる。「遠目に見てもお前そのものだ!よくぞ最高の状態で戻ってきた!」って、おいアンタ。
- 「蒼天航路」のキャラ破壊っぷりでは、なにかと変態紳士・諸葛亮が槍玉に挙げられるが、そもそもこの荀彧だって相当…。
- 以後、曹操の傍をコマリスのようにチョコチョコついてまわり、「まほろばの軍師」というタイトルの回も。今まほろばってぐぐったら、「住み心地のよい所」という意味らしい。ん?
- とにかく自然気儘というか融通無碍というか、一言で「可愛い」軍師ぶりを発揮する。キメゼリフは「あいやーッ!」。天子に謁した際は、緊張の余り口が利けなくなるなど、名門の棟梁のわりに官爵の似合わぬ風もあった。
- 軍師としては呂布に「この敵はいやな奴だ」と言わしめ(負けたけど)、曹操に「お前は戦に弱い!」と一喝されるも、偽帝・袁術の大軍団を迎撃する指揮を任され、見事最小限の被害で敵軍を瓦解せしめた。
- 官渡や赤壁等の大戦では、史伝どおり許の都にあって、曹操の代理を務めていた。官渡の留守番では、偵察に訪れた孫策の軍師・周瑜と出会い、「王佐の才」についての問答を行っている。
- 物語も終盤に差し掛かるにつれ、これまでの飄々としたキャラっぷりから一転、楚々たる名士としての一面が強調されてくる。
- そして曹操の布告する「求賢令」に対する反発、董昭による曹操の魏公推薦の件のあたりから、曹操…というより曹操を取り巻く群像との間に決定的な亀裂が生じている。魏という公国が出来ると言うことは、すなわち漢の公臣か曹操の私臣か、これまで曖昧にしていたラインを、各自が選択しなければならない事態であった。
- こあたり荀彧の懊悩は、かつて「脳内の王」をカラカラ明るく語っていた荀彧と同じ人物かというほどに痛々しい。諸臣の欲と時代の熱に押し上げられて、みるみる高くへ昇ってゆく曹操の姿は、荀彧が抱いていた脳内の王とは懸け離れたものだったに違いない。
- ここで一度曹操と会い、久々に酒を酌み交わして「曹操は曹操でしかない」という明快な結論に達したのも束の間、必ず訪れる「曹操の次代」への焦燥により、心労が一挙にピークに達してしまう。
- 華佗が一目で看て取ったように、以前から荀彧は心臓を煩っていたらしい。この頃から荀彧の描かれるコマには「ドクン」と心音が書かれる事が増えていた。気が激すると脈拍が急激に乱れて蹌踉めくなど、かなり危険な状態である。華佗の弟子がこっそりと荀彧に手渡した薬は、2粒で丸一日半意識が飛ぶほどの劇薬であった。
- 行軍にも追いつけなくなった荀彧は、結局、寿春で療養することになる。どのみち、回復は殆ど期待できない状況だったのだろう。連絡役として残っていた荀攸が、病状を曹操へ伝えているが、「俺が荀彧にしてやれることは何かないのか」と曹操は歯軋りしている。このとき曹操は、以前荀彧と、また雪合戦をしようと約束したことを思い出していた。
- 一方の荀彧は、なまじ安臥している分色々考えてしまうらしく、精神的にますます追いつめられていく。曹操の臣か漢の臣か、決められないなら、いっそ体を分けてしまえば…と喉元に鋭い破片を突き刺すほどに惑乱している(薬の副作用かも)。
- そしてこのとき、前線の曹操から食盒(弁当箱)が届けられた。中身は、ぐしゃぐしゃに丸められた白紙だった。空の食盒に、白紙。荀彧は曹操の「真意」を汲み取り、とうとう心の糸が切れてしまった。
- 「眠ろう。もう眠ってやり過ごそう。長く、出来るだけ長く」目の前の丸薬を掻き集めながら呟くと、荀彧はその全てを一気に嚥下した。
- 最期に荀彧は雪景色を見る。白紙の意味にも、このとき思い至ったにちがいない。「なぁんだ」と、己の早合点に苦笑したいたのかもしれない。「ははッ 荀彧は荀彧でしかないって、こういうことか」と、曹操が贈ってくれた雪玉の中でカラリと笑い、物語から退場した。
荀攸(字:公達) じゅんゆう

- 生没:157~214年 本貫:豫州潁川郡潁陰県 官:中軍師
- 荀彧の族子(甥っ子)…なんだが、実は彼の方が六つも年上。甥とはいっても、荀彧の祖父が、荀攸の曾祖父と兄弟だった、という程度。
- 彼もまた、「放浪の軍師」をやっていた経験がある。何進大将軍の招聘に応じて中央入りし、次いで董卓に仕える。で、董卓の暗殺を画策するが露見し、投獄される。しかしながら、獄吏どもに金帛を掴ませて身の安全を確保し、董卓横死後、平然と獄を出る。で、長安の混乱を予見して、自ら望んで益州の蜀郡太守に赴任するのだが、道中の交通が遮断されているため、荊州で待機。後、ぶらぶらと蜀漢の地を放浪した様子。これが三十代半ばくらい。
- 許に天子を迎えた曹操が、荀彧の薦めで彼を招聘する。以後、尚書として中央に参画する事になるが、荀彧と異なり戦場で采配を揮うことの方が多かった。荀彧が謀臣あるいは行政官という立場であるのに対し、荀攸は文字通りの「軍師」だったようだ。
- 実際、対袁紹戦では序盤から陽動作戦を立案・指揮し、袁紹軍の先鋒・顔良と第二陣の文醜を、それぞれ鮮やかに各個撃破している。翻って官渡城塞の防戦を指揮しながら、袁紹軍の補給線を徹底的に引っ掻き回し、降将許攸の持ち込んだ策を賈詡とともに支持し、烏巣攻撃を成功させた。
- 曹操評によると「外愚内智、外怯内勇、外弱内強」と、外見と内面のギャップを褒め、息子の曹丕に対しても「荀攸を見習うこと」と訓戒している。自らの才知をひけらかすタイプの息子に対し、荀攸の慎み深さを報奨し、戒めとしているのだろう。
- 荀彧の次席として中軍師に昇進し、魏国建国後、尚書令として官界のトップに昇る。そのころ、天下を鎮めるための「十二の秘計」を練ったらしいが、孫権討伐に従軍した際、病にかかり遠征先で没す。
- 享年五八。諡は荀彧と同じく敬侯。次子荀適が跡を継いだ。
- 荀攸の「秘計」を託されたのは、僚友の鍾繇であったが、彼もまた記述を纏めている間に逝去したため、ついに十二策が世に出ることはなかった。
- 「三国演義」では、曹操の魏王就位に反対し、荀彧とおなじく曹操の不興を買い、それが為に悶死する描写がある。
蒼天荀攸
- 天子を奉戴し、着々と地盤を固めつつある曹操によって招聘される。書簡を渡され喜色を浮かべる荀彧に、「お前と似ても似付かぬ気骨の士だ」と曹操。
- さて現れたのは、ソラマメのようにのっぺりしたカンジでの男で、史伝通り「外愚・外怯・外弱」であるらしかった。だが袁術を破り意気軒昂な年下の叔父・荀彧に対し、「代わりに袁紹の声望が高まりました」とチクリ。
- そののっぺりした表情のまま曹操幕下の軍議に加わり、諸将の優秀さに驚嘆しつつも、内心、岡目八目に彼らを評価。皆が曹操の才幹に寄り掛かっている事に気付き、危うさを覚えている。
- 対呂布戦では民を巻き込む水攻めを進言したり、淡々と拷問の指揮をとったりと、外見に似ずなかなか冷淡。
- 賈詡が登場するあたりから、軍師としてはだいたい程昱と同じくらいの立ち位置に落ち着き、このまま驚き要員、解説要員に転落してゆくのかと思いきや、対文醜戦では意外な特技を披露。
- なんと、彼の特殊能力は「コピー」だった! 音声模写だけでなく、その思考回路まで完全にコピー。彼ひとりから他の軍師全員の意見が聞けるという便利な汎用軍師ぶりを披露した。ちなみに曹操に進言する際なども、あらかじめ曹操の思考をエミュレートして、なるべくそれを修正せず、自然な形で進言していたという凄いのかセコいのかわからない人だったようだ。
- が、以後はコピー機能の描写なし。ざんねん…。
- 長坂では張飛の武を読み誤るなどいいとこナシだが、赤壁の緒戦で烏林に漂着してからは、「曹操行方不明」の報に崩壊寸前の軍をただ一人で纏めあげ、「ガッチガッチ」の陣を固めて呉軍と対峙した。
- なぜか水戦の理を体得していたらしい。陸戦の陣形を応用しつつ、荀攸一流の水上要塞を築き上げ、敵の吾粲から「短期間でこのような陣が布けるのは天下にひとりかふたりだけ」とまで絶賛されている。
- 赤壁の後、特にこれといった登場はないが、董昭の魏公推戴運動には賛同しており、荀彧との立場の違いを見せた。
- 「三国演義」とは異なり、曹操と対立することなく、荀彧の死から2年後、病に没した。
- 葬儀の席では、どちらかといえば何晏と司馬懿が目立ってしまい、ちょいと本人の陰が薄い(´・ω・`)