夏侯淵(字:妙才) かこうえん

- 生没:?~219年 本貫:豫州沛国県 官:征西将軍
- 曹操の従弟のひとり。あるいは又従弟か。おまけに曹操の妻(どの子だろ?)の妹を娶っている。孫策・周瑜みたいなもんですな。
- 若い頃、曹操が故国沛県で県令相手になんかやらかして指名手配されたとき(何やったんだ…)、その身代わりになって逮捕されたことがある。後、曹操が機転を利かして救出したらしいが、このエピソードの詳細は記録になく、歴史作家たちの創作活動に生彩を与えるであろう。
- また、時期は定かでないが、兗・豫州が飢饉に見舞われたとき、夏侯淵は自分の幼子の命と引き替えに、死んだ弟の娘を救ったという。これまた後の張飛夫人あたりと絡めて、色々創作のタネになりそうな話である。
- さておき、彼は速戦を得手とする疾風なんちゃらに比すべき猛将であったらしい。「典軍校尉夏侯淵 三日五百(里) 六日一千(里)」という囃し歌が軍中で流行ったというから凄い。
- もちろん彼が屈指の騎手ゆえに軍団が早く動けた、という訳ではない。斥候の手配、行軍計画や補給拠点の確保など、要は軍団の高速移動に必要な事務処理能力に際だって優れていたのであろう。事実、官渡の決戦の際、彼は徐州~豫州にかけての兵站ラインを維持する補給司令部を宰領しており、同じく後方総司令官である夏侯惇とともに、ガッチリと前線をサポートしていた。
- ちなみに彼が典軍校尉に任じられたのは官渡から赤壁の間のことで、当時は徐州近辺の反乱制圧に奔走していたようだ。なお「典軍校尉」は、曹操が西園八校尉に任じられたときの官位。
- 彼の前半生の戦歴を見る限り、大戦で軍主力として働くと言うより、東へ西へ、北へ南へ、次々と勃発する反乱勢力を鎮圧して回る任が多い。もちろん反乱勢力といっても、難地の険に拠った郡レベル州レベルの大規模なものばかりで、ヘタすると劉備一党などよりもよほど強大な勢力である。そのため、「夏侯淵軍」という独立軍団ではなく、任地にあわせて徐晃や朱霊といった有力な武将を複数率い、全ての戦闘で勝利を収めていた。名選手というより名監督タイプかも。
- それだけ軍政に長け、軍歴を重ねながらも、「思慮が足りん」「もっと臆病になれ」と曹操にたびたびお説教をうけており、今ひとつキャラが掴めねえ(; ・`д・´)
- 赤壁後は西の備えとして長安方面に赴任し、司、雍、涼三州の軍事および政治の悉くを総監した。文字通り、曹操の「分身」というべき存在であったろう。
- 西に駐留すること六年余。まだ曹操の威風に従わない韓遂ら関中の軍閥や、涼州の異民族を相手に連戦連勝し、魏の西辺境区を踏み固めた。漢中要塞奪取後は、そのまま対蜀方面総責任者として漢中の南鄭を居城とし、益州入りした劉備と対峙する。
- 西暦二一九年正月に行われた漢中西郊の定軍山の戦闘では、自ら前線に立って奮闘。しかし、劉備の猛攻に崩れ始めた張郃隊を救うため、自隊の半数を割いて寄越した瞬間、その空隙を敵将黄忠に衝かれ(他説では、逆茂木の修復作業の最中に襲撃されたとも)、討ち取られた。曹操の覇業を支えた宿将中、戦場で討ち取られた将帥は彼と張郃のみである。
- 諡して慇侯。長子夏侯衡が爵位を継いだ。次子夏侯覇は、後に司馬氏の専横に反発して蜀に亡命する。
- その夏侯覇を迎えるための創話くさくもあるが、実は蜀の猛将・張飛の妻は夏侯淵の娘(ないし姪)であったとされる。張飛の娘二人は皇帝劉禅に嫁いでいるので、夏侯淵は曹操、劉備どちらにとっても縁戚にあたる。…というわけで、夏侯覇は蜀漢王朝の外戚として累進し、車騎将軍という軍部のナンバー3にまで昇る(「三国演義」ではその後戦死)。
蒼天夏侯淵
- 史実では曹操より歳下っぽいが、蒼天では「四天王」全員が曹操より年上。幼い阿瞞に屈強のイトコたちが付き従うという少年編のスタンスがそのままシフトしている。
- 若い頃からクールな美丈夫として描かれており、熱血一本の惇兄ィと対照的である。
- 「危機にあっても自在に心が動く」「天下一の弓」と評されている。そういえばいつの間にか、夏侯淵=弓将というイメージが定着しているな…。三国無双あたりからかしら。とにかくいぶし銀の匂いをプンプンさせている。常に冷静で知的、細い髭と流し目がステキ。
- 後に曹操に「道理を好み、無駄を憎悪している」と評されるなど、これまでの「三国志」「三国演義」などに見られる粗野な猛将というイメージとは一線を画している。むしろシステマチックな用兵思想を持つ怜悧な軍人として描かれ、実際、敵兵=進軍の障害物、敵将=名を知るのも煩わしい存在、程度に割り切って戦争をしていたようだ。
- 許褚いわく「あの人は狼だよ。強くてはやいけど、みんなの中で一番自分をわきまえている」
- 許田の狩り場では、関羽を相手に生死を賭けた勝負を繰り広げ、引き分けている。「やるじゃねえか、あの夏侯淵ってやつ」とは劉備の評。
- 赤壁まで特に目立つシーンはないが、廬江の叛将雷緒を討伐するあたりから、曹操から思考を切り離した「将帥・夏侯淵」としての存在感を増してゆく。はじめて「無駄」と向き合い、戦争を「政治の延長」と見、敵の将兵に「人間」を見るようになったようだ。曹操いわく「おいおい淵、気前が良すぎるぞ」
- 自ら望んで東方揚州の鎮撫を行った後、今度は北方并州の太原に商曜を討ち、さらに西方の馬超・韓遂討伐に従軍して、さらにそのまま遙か涼州まで西征し、羌族・韓遂連合軍にとどめを刺している。
- 徐晃が感心したように、夏侯淵は曹操領の外縁部を転々と移動。戦闘と行軍が連続する半生だったようだ。この間どうやら「鬼将軍」という異名がついたらしく、曹操は羌族の首領を恫喝するとき、この名を用いていたらしい。
- 長い西征を終えたかと思うと、今度は曹操・夏侯惇率いる漢中制圧の軍と合流する。夏侯惇が迷子になったあげく陽平関の敵要塞を自潰させている間、別同軍を率いて周辺諸郡の制圧をしていたようだ。
- 夏侯淵はそのまま漢中に駐留し、最後の任務となる対劉備軍団の総司令に就く。このとき任地漢中へ向かう夏侯淵と、魏国に帰還する曹操・夏侯惇軍は一瞬だけすれ違ったらしい。陣頭、迷子将軍の件でひとしきり夏侯惇をからかった後、ふたりはあわただしく別れを告げる。
- 夏侯惇が投げてよこした酒筒は、魏公国で醸した新酒だった。二人は鄴都での再会を約すと、それぞれの進路へ向かった…(´;ω;`)
- それから二年後の西暦219年、劉備軍による漢中侵攻がいよいよ本格的になり、劉備自ら漢中近郊まで軍を進めてくる。
- その前年から、中間地点である巴を巡って大規模な国境紛争があったが、張郃軍が張飛軍に粉砕されるなど、前哨戦から夏侯淵軍はかなり後手に回っていたようだ。長安方面から曹洪・曹休ら救援軍を得たものの、敵軍師・法正の陽動策により戦力を次々と寸断され、局地では大勝をおさめながら、要衝陽平関を失うなど全体ではいよいよ敗色濃厚な戦況となった。
- しかし夏侯淵は曹操の本軍を待たず、劉備軍との決戦を続行。定軍山の食糧基地正面で劉備を待ちかまえ、それに応じた劉備もせっかくの法正の策をぶち壊して単騎で突出。馬上会談に応じる。
- 劉備は最初、当然ながら夏侯淵を格下と見、彼の振る舞いを不遜と喝破した。が、互いに刃も見せず去る間際、夏侯淵がすでに「将軍以上」のものであったことに思いを致して、とうとう気づいた。「まさか曹操!てめえの家来からばかすか“王”を生もうってんじゃ…」
- が、直後に法正の密命を受けていた黄忠が、空気を神スルーしつつ出現。夏侯淵の不意を衝いてすさまじい斬撃を…と思ったけど一刀で馬ごと斬り捨てられる。あらら。
- 劉備軍の停戦違約を受け、劉備殺害を即断した夏侯淵は、黄忠を斬り捨てた後、すぐさま反撃に転じる。迫る若い勇将魏延も同じく馬首ごと切り倒し、殺到する劉備軍を蹴散らし、逆茂木の火花で張飛を躱し、ついには劉備の面前まで辿り着く。が、剣を振りかぶった姿勢のまま、諸葛亮の指揮する弩兵隊の一斉射撃を浴びる。
- 全身を貫かれながらも振り下ろした剣は、劉備に弾かれ取り落とし、落馬。力尽きる。劉備は「退路をかなぐり捨てる奴は王じゃねえ」としつつも「だがこの男は確かに届いてきやがった」と満面に汗を吹き出していた。
- なおも立ち上がろうとするも、追いすがった魏延に背後から一撃を加えられる。これが致命傷であったろうが、夏侯淵は恍惚の中に、まだ見ぬ魏国の銅雀台を仰ぎ見ていたようだ。幼き日の阿瞞や若き仲間達の姿、一段一段登るたびに近づいてくる乱世の終わりと彼らの信じた夢、そして鄴で再会するはずの四天王達と交わす酒杯――と、夏侯淵が最後に見る夢は、またしてもKY黄忠によって袈裟懸けにブツ斬られた。即死であろう。
- 黄忠は夏侯淵の首を獲ろうとするが、劉備はそれをとどめ、どころか両断した躯を縫合したうえで軽舟に乗せて、曹操へ返還したようだ。「ここに漢中の王の遺骸を返還する」と送辞を付けている。
夏侯惇(字:元譲) かこうとん

生没:?~二二〇年 本貫:豫州沛国県 官:大将軍
- 曹操の本当の従兄弟といわれる。曹操の実父曹嵩(夏侯嵩)の、兄の息子。もともと謹直な少年で、士大夫の子弟らしく師について学問を修めていたが、往来で師を侮辱する輩が居たため、これを斬り殺した。それが十四の頃。人々はこの少年の意外な剛直苛烈を奇としたという。
- 曹操の旗揚げの時から、部将として従軍。数々の戦闘に参加したようだが、詳しい戦績の記録はない。が、腹心中の腹心であったことは間違いなく、本拠地の東郡太守代行に任じられるなど、すでにナンバー2として重きをなしていたらしい。
- 曹操の徐州侵攻作戦時は、荀彧・程昱らと留守番をしていたが、呂布・張邈による兗州乗っ取り事件に遭い、別城にいた曹操の家族を守るために出撃。しかし運悪く呂布の本隊と遭遇してしまい、入れ違いに濮陽城を奪われ、彼自身、敵の偽降計に騙されて捕虜になってしまうという醜態をさらした。このときは幕僚らが「将軍を巻き添えにするけどスミマセン」と泣き叫びながら突撃してきたので、呂布軍の方がビビって夏侯惇を解放してしまったので事なきを得たが、このまま殺されていたら、後世の評価は180度以上逆転していたものと思われる。
- この後、徐州で呂布軍に攻撃された劉備を救援するべく一軍を与えらるが、劉備軍ともども敵将「陥陣営」高順に撃ち破られる。おまけに流れ矢で左目を負傷。「三国演義」などでは「父母より頂いた物を、もったいなや!」と叫びながら、ズルリと引きずり出した眼球を食べてしまうが、繋がったままの血管とか視神経とかどうなったんだろうと想像するだけでああああああああ!
- 当時は基本的に「曹将軍」とか「夏侯将軍」のように姓+呼称で人を呼ぶことが多いので、夏侯惇・夏侯淵ペアなどの呼び分けは多少ややこしかったのだろう。で、ちょうど夏侯惇が隻眼となったので、軍中、必要に応じて惇の方は「盲夏侯」将軍と呼ばれるようになってしまい、内心穏やかでなかったようだ。己の顔を見るたび、鏡を叩き落とすほどナーバスになっていたようだから笑い事ではない。当時、外見上のハンディキャップ、特に肉体の欠損に対する蔑視は、今日と比較にならないであろうから、強烈なコンプレックスを持っても不思議ではない。
- それでも、曹操の文字通り分身として働き、主に後方総司令に任じられる事が多かった。官渡決戦の時も、彼は荀彧とともに許都の留守府司令官という地味かつ最重要の役職を受け持っている。
- しかしながら、曹操不在の許都近辺で盛んにゲリラ活動を行う劉表の部将(というか劉備)を追い回し、南陽の博望で伏兵に囲まれ散々に撃ち破られている。あらら。
- 戦さの手腕はともかくとして、曹操が生涯で最も信頼した分身であったことには間違いなし。夏侯淵が曹操の剣として各地を飛び回ったとすれば、夏侯惇は鎧として本営を護りきったといえる。
- 曹・孫痛み分けとなった217年の濡須口での戦闘の後、夏侯惇は揚州方面の総司令官に任じられ、二六軍という桁外れの大軍団を預かることとなる。数字通りならば、おそらく劉備・孫権勢力の全軍を結集しても、夏侯惇軍ひとつに及ばなかったはずだ。
- 「三国演義」での粗暴な猛将というイメージに反し、史伝を見る限り、彼は士卒に優しく、土木工事の時は自ら土を担いで手伝うという篤実な性質だったようだ。それでいて、夜は先生を呼んで学問に専念。謹直だった少年時代の名残りが感じられる。
- 曹操は、夏侯惇にだけは魏公国の官位を与えず、漢王朝の重鎮として遇したといわれる。当然魏公国の官位を得た瞬間、夏侯惇は魏公曹操にとっての「臣下」となるのだが、曹操の方がこれを嫌ったらしい。この「不臣の礼」と呼ばれる処遇は、結局夏侯惇の方から辞退されている。
- 曹操と同じ西暦220年、彼の後を追うように逝去。魏王朝における初代大将軍に任じられたばかりであった。諡して忠侯。子の夏侯充が跡を継いだ。
蒼天夏侯惇
- 「蒼天航路」では少年時代からの登場。夏侯淵らと同じく、阿瞞より十近い年長として描かれている。従弟たちを中心にしたチームのヘッドで、惇兄ィとして慕われていた。チーム名は不明。
- そして李烈率いる「爆裂団」(懐かしいっ)なる巨大チームと対立していた。なんでも、夏侯惇が斬り殺した「師を侮辱した輩」が、爆裂団の一員だったらしい。それにしても爆裂団頭目の李烈なる人物、放っておけば後々、各地から群がり出た無数のプチ群雄の一人にでもなっていたかもしれない。乱世において、しばしばこういった「悪少年」と呼ばれる侠客予備軍あがりの風雲児が、徒党を組んで県レベルの武装勢力を組織し、官軍に討伐されたり英雄に帰順して歴史の表舞台に立ったりしているのだ。
- その李烈上将戦死後、爆裂団をまるごと部下にしたようだ。曹操が「大上将」と呼ばれているところを見ると、夏侯惇が「上将」なのだろう。曹操はその一部を連れて洛陽へ戻っているが、夏侯惇らは故郷の譙で相変わらず切った張ったを続けていたようだ。曹嵩の葬儀の席に、後の四天王達と参列している。
- 黄巾の乱のおり、騎都尉として武官デビュー(といっても大佐クラスの高級将校だが)した曹操に付き従い、出陣している。爆裂団や張奐も含め、曹操の私兵集団としての従軍であろうが、官軍や義勇兵を指揮したり、事実上一軍の将として活躍している。このとき張飛の馬を殴り倒すなど、豪腕ぶりを披露した。
- 早く「隻眼の鬼将軍」というイメージを定着させるためだろう。董卓戦、徐栄軍の突進と無謀な正面衝突をした際、あきらかに被弾角度90度で、甲冑をも射抜く矢の直撃を受けた。
- だが瞼の力と眼底の頑張りだけで脳への損傷を防いだらしい。引き抜いた眼球をゴクリと飲み込むのは「三国演義」と同じ。激高したときは血が噴き出したり、たまに小石が入り込んでカラカラいったりと、眼窩の奥はしばらく大変なことになっていたようだ。
- 以後、数々の戦で隻眼の鬼将軍っぷりを発揮し、「蒼天航路」では多くの戦で、曹操の傍らにあった。相対的に比較できる根拠はないが、おそらく曹操軍の中でも最強クラスの豪勇だったと思われる。
- 「気焔万丈 夏侯惇軍の精鋭に告ぐ!」が檄を飛ばす際の決めゼリフらしく、後に偽夏侯惇(殷署)も使用している。
- 官渡では、留守司令官どころか、他の将軍と同じく兵卒に降格されている。「兵卒の夏侯惇です、よろしく」。以後、その舎のリーダー格として、歩兵の中で頑張っていたようだ。おそらく史伝通り、戦闘だけでなく土木作業や雑事なんかもやっていたのだろう。
- 曹操曰く、「ここまで兵卒になりきり、兵卒と溶けこみ、兵卒を理解したのはお前だけだ」たしかに「同僚」の兵卒山隆と友誼らしきものを育てたりと、夏侯惇にはこういう泥臭さが似合う、兄ィ的な魅力がある。
- 荊州制圧後、長坂の追撃戦で、劉備と流民集団の最後尾と接触。最後衛を護る張飛に挑むが、ただただ純粋な武力の前には刃が立たず、また荀攸が軍を動かしたため水を差された。その後も民草を背に負った張飛の武の「べらぼうな清らかさ」と、民草のしたたかな強靱さに攻めるタイミングを逸してしまい、追いついた曹操に「見事な敵をめでてやるのはいい。だが、ありがたがってどうするんだ」と呆れられる。
- 赤壁の際は、長江下りをする曹操の代理として、荊州本城を押さえていたのであろう。孤軍奮闘する荀攸の元へ駆け付けることもできなかったようだ。
- その後、濡須口の戦いや漢中の張魯討伐に参加。ちなみに西暦217年時点での愛馬の名は「飛焔」だったらしい。女を愛するように溺愛していたようだ。
- 漢中制圧の際は、曹操の命で先行した部隊を連れ戻しに許褚と出かけ、道に迷ったあげく張魯陣に辿り着いてしまい、恐慌状態になった敵軍を尻目に、そのまま関を奪った。まるでギャグのような話だが、れっきとした実話である。曹操や夏侯淵は「迷子の鬼将軍」と何度もからかっている。
- 後、荊州の曹仁救援に赴くが、関羽と戦う前に孫権の荊州奪取が成功し、関羽は敗死。合肥へ引き上げる。これが彼にとって最後の軍旅となった。「蒼天航路」では曹操より年上に描かれているため、この時点で既に70を越す老将だったはずである。
- 曹操曰く「勝利の後には必ず遅れ、敗北の後には必ず真っ先に駆けつける男」また、「おそろしく むさい母親」。壮大に常識を踏み外す悪ガキ曹操を、いつも叱りつける役割は、確かに保護者そのものだったのだろう。
- 曹操臨終のきわ、合肥に戻っているはずの夏侯惇は曹操の元へ姿を現す。道中、沛の長老(亀)を見掛け、予感を覚えたのだろう。昼夜兼行で駆けつけたに違いなく、冠も頂かず、甲冑を付けたままであった。
- 例によって毒づき合いながら酒を酌み交わし、末娘を嫁に呉れと云われては怒鳴りつけ、卞夫人の奏楽に聞き惚れ、いつものように笑いかけた先で、曹操は眠るように世を去っていた。
華歆(字:子魚) かきん
- 生没:157~231年 本貫:冀州平原郡高唐県 官:太尉
- 魏王朝が誇る名宰相のひとり。曹操より二つ年下。己の剛腕で政府を切り盛りするのではなく、人望と徳行によって官界を指導教育してゆくタイプだったようだ。伝説の賢相・晏子に比せられるレベル。
- …が、彼の何が気にくわなかったのか、羅貫中のにフルスイングでバッシングされ、『三国志演義』においては、董卓か華歆かというくらいの極悪非道冷酷人間になっている(ノ∀`)。伏完による曹操暗殺計画が露見したときは、自ら宮中に乗り込み、伏皇后を壁から引きずり出して捕らえる。曹操の死後、劉協を脅迫して帝位を曹丕に譲らせた他、曹丕の弟たちを誅するよう進言したり、自分にとっての危険分子である司馬懿を追い落としたりと、やりたい放題。
- ちなみにトンデモ三国志の横綱『反三国志』では、馬超たちに捕らえられた挙げ句、死なない程度に遠火で炙られ、生きたまま腿肉から順に喰われてゆくという、リアルタイムな食物連鎖の底辺っぷりを発揮する。
- 当時からして超一流の人傑だったはずだが、世語などでは妙に1.5流めいたエピソードが多い。
- たとえば目の前にお金が落ちていたとして、華歆歆はチラ見してスルーするという潔癖な人物なのだが、同門の管寧という男は、そもそもお金の存在自体を無視する奇人じみた清貧教徒であったため、かえってマイナス評価となっている。他にもこれと似たようなエピソードが二、三あり、後世、管寧>>>>(超えられない壁)>>>>華歆という図式が確立してしまっている。
- 当時の冀州刺史王芬から政府転覆計画(若き日の許攸らが発案したアレ)をうち明けられるが、やはり誘いを受けていた曹操と全く同じ理由で参加を断る。知者は同じ道を歩む、というところか、資料の混同か。――それ以前に、この調子でみんなに声をかけていた王芬の短慮が問われるが。
- 後に大将軍何進によって中央官界に招かれるが、董卓の出現にビビって逃亡。
- ちょうどこのあたりのエピソードで有名なのが「行き倒れ、助けたからには最後まで」事件。読んで字の如くの事件で、コレによって彼の名声はますます高まり、それに反比例して中途半端に恩情をかけた王朗の評価が下がった。。
- 後、荊州南陽まで逃げ延び、袁術の下で知謀を空回りさせていたところ、長安政府が人気取りのために派遣してきた慰撫団に出会い、コレに参加。しばらくは偉いさんたちと一緒に天下を行脚する。
- 程なくして荊南の豫章で混乱が発生し(孔明の叔父・諸葛玄が巻き込まれて死亡)、急遽それを鎮めるために豫章太守に任じられる。…が、この当時少なくとも豫章太守が三人(諸葛亮の叔父・朱儁の息子・華歆)いたことになり、余計に事態は混乱。
- 一年後くらいに( おそらくは劉繇の後押しを受け)ようやく豫章入りするが、今度は孫策軍の侵攻を受ける。さすがに野戦で勝ち目無しと見て、降伏。
- 孫策は師弟の礼をもって華歆を迎え、以後、賓客として遇されることになる。
- 華歆は、独特の威儀と静かな迫力を湛えていたようだ。当時江南では、彼の崩れぬさまを「華独座」と呼び慣わしていた。酒好きだが微塵も酔態を見せなかったという。
- 孫策の死後、曹操は華歆をゲットするべく天子に奏して詔勅まで用意して貰い、孫権に「彼をよこせ」と要請。孫権はむろん断るが、当の本人が行きたがったため、やむなく手放す羽目に。そして二度と戻ってくることはなかった(一緒に行った張絋は戻ってきたのに…)。
- ちなみに、孫権討伐の軍師をのうのうとやっていたりする。孫盛が彼を毛嫌いする所以かも。
- 曹操陣営に帰参して後の華歆は、驚くべき早さで出世し、あっという間に荀彧に追いつき、曹丕の代には司徒、曹叡の代には太尉と、三公を歴任する。
- が、どれほど栄達しても諸生時代と変わらぬ生活を貫き通した。献上された女奴隷たちに教育を施し、きちんと嫁に出してやったというエピソードもある。「潔癖だが偏狭ではなかった」という評が、何となく彼の人物を現しているような気がします。
- 231年、諸葛亮の北伐騒ぎのさなか(第4次)、74歳で逝去。諡は敬公。子の華表が跡を継いだ。
蒼天華歆
- 蒼天での登場は遅く、荊州陥落後の文官軍師ブレインストーミング時から。曹操が一目で「主戦論代表」と見抜く。
- なんとも眠たそうな顔をした初老の風貌に似合わず、堂々と速戦論を展開。タコ人間杜襲と舌を競わせていた。
- 孫家の内情を知るものとして、「今の間に叩かないと手が付けられなくなる」という主張であった。
- そのわりに孫権の躍進を伝え聞き「どうも私の覚えている(頼りない)姿と一致しない」と首を傾げているシーンがあり、孫権の器を見抜くほどの目は持っていなかったようだ。
賈詡(字:文和) かく

- 生没:147~223年 本貫:涼州武威郡姑臧県 官:太尉
- 三国時代におけるジョセフ・フーシュ。あるいは藤堂泉州。三度主君を変えながら、その智略によって重用され続け、しかも天寿を全うできたという変節の天才。しかも乱世の英雄曹操を生死の境に追いつめたこともある鬼謀の人。ちなみに曹操より八つ歳上。
- 若い頃、涼州の異民族の捕虜になったことがあるが、口先一つで彼らを騙し、自分ひとりだけ助かったというエピソードが。昔からそうだったのね……。とにかく、一筋縄ではいかない油断ならないヤツだったらしい。
- 最初は地元の董卓軍団に就職し、軍団ナンバー2であった董卓の女婿牛輔に仕えた。ところが董卓の死の混乱の中、牛輔まで殺害され軍団は空中分解。残りの李傕ら四幹部は動揺して「もう田舎に帰ろう…」と言い出す始末。それを叱咤したのが他ならぬ賈詡でした。
- …そう。呂布を逐い王允を殺し貂蝉を殺し、さらなる天下大乱を招いた張本人はコイツだったのだ!!-その後、四幹部のひとり張済の軍を引き継いだ張繍に引き抜かれ、彼の軍師として活躍する。曹操を窮地に陥れ、彼の長子曹昂や猛将典韋を討ったのも、すべて彼の計略。
- しかしながら袁紹と曹操の対立が激化すると、独断で曹操への帰順をきめ、張繍を慌てさせた。
- 曹操に仕えて後、たびたび献策し、強敵韓遂・馬超を敗走させるなど、相変わらずの鬼謀を発揮するが、曹操の死と前後して引退。以後、門を閉じ廷臣たちとの交流を避けた。彼一流の保身術ですな。
- 享年77歳。諡して粛侯。
蒼天賈詡
- 蒼天での賈詡、カッコよすぎ。なんか、いつも猛禽(鷲か、鳶か?)を片腕に止まらせて、ニヒルに笑うダークサイド。「曹操は自らの才に飽きている」ってセリフが印象的。
- のわりに、作中で最も絶叫するシーンの多いキャラでもあり、泣いたり笑ったり怒ったりと、とにかく最後まで曹操の身辺にあって、ひたすら振り回されつづける役割を負った。ある意味読者の代理的な存在であったと言えなくもない。
- が、登場初期においては「天下を奪うには三人を殺すだけでよい」とうそぶく野心家。おそらく奇術師めいた天下奪りのプランが、既に胸中にあったのだろう。張繍をマリオネットのように操り、曹操を誘殺する罠を設定し、たびたびその生命を脅かす鬼謀ぶりを発揮する。
- が、時勢の流れを読み、袁紹との大戦を前に曹操に降伏。以後、そのブレーン集団に名を連ねることとなる。彼らとは一歩ひいて斜に構えていて、他の軍師グループとは仲が悪い…。蒼天では、彼らより一等上の描かれ方をしており不満に思う人も多かったと思われる(特に荀彧・郭嘉ファン)。でも、「極めつけの死地にはやはりおまえだ!」と烏巣襲撃チームに指名された賈詡も気の毒かも。
- で、その烏巣では曹操とともに上を下への大逃走劇を演じる。そのハチャメチャな戦さのなかで、(曹操殿、この賈詡を殿の臣下としてお認めいただけますか!)と胸中に叫ぶあたり、どうしても外様意識が抜けきらなかったのだろうか。
- 作中、突進してきた猛将淳于瓊を抜き打ちに斬り捨てるという意外なシーンが。
- かくのごとく残忍で、狡猾で、鉄鋼ワイヤーのような神経を持つと思われていた彼だが、長坂から赤壁にかけては、意外に脆い一面を剥き出しにすることもあった。
- 長坂の追撃戦では、旧主張繍が討ち取られた後、彼らしからぬ動揺を見せ、それに気づき自ら愕然としていた。長いこと女房役を勤めてきただけあって、彼も自覚しないうちに、あの無邪気で頼りない張繍にどこかで依存していた面があったのだろう。
- さらに赤壁の手前の「長江下り」では、有るはずのない孫権の攻撃(※おそらく諸葛亮のトリック)に動転したか、絶対的な窮地に陥り、自らの知謀に絶望した挙げ句、全軍に降伏を命じてしまう。「郭嘉…郭嘉よ…」と、まさかの郭嘉コールに驚いた読者も多いはず。
- が、幸か不幸か(?)敵将黄蓋は「白旗に気付かず」攻撃を続行。降った端から射殺されてゆくに及び、賈詡は思考停止に逃げる……かと思いきや、無意識のうちに逃げ延びる策を練り続ける。許褚の活躍、瀕死の曹操とともに死地を逃れた賈詡は、水中で発案したという「暗黒の策」を実行に移した。
- で、そもそもこの「暗黒の策」とは…?
- 「蒼天孔明のキャラ」と「赤壁のオチ」の中間に位置する「暗黒の策」。
- 策自体は、要するに敵味方へ「曹操死す」という情報を流して「曹操の居ない天下」を局地的に幻出し、敵方首脳の動揺を誘うというものであったが、いまひとつメリットがわかんにゃい。敵主将を討ち取ったことで呉軍の士気は上がるだろうし、味方の士気は地の底まで落ちる。
- 実際、蒼天周瑜は賈詡らが考えているより数段上の位置にいる人物だったようで、彼が翻弄されていた期間はわずかなものであった(曹操生還の報で見せた動揺を見る限り、確実にダメージは蓄積していたようだけど)。味方にしても、荀攸の堅固無比な指揮統率がなければとうの昔に崩壊していてもおかしくはない。
- が、曹操の生還によって「暗黒の策」は全容さえ明らかにされぬままに中断。烏林での総指揮は、ふたたび曹操が執るようになる。
- 直後、敵将・黄蓋より内通の書状が届くが、呆れたことに真っ先にそれを信じたのは賈詡であった。さすがに偽降の可能性も考慮に入れていたが、まだ自分の暗黒の策にハマっていたらしい。
- そんなこんなで、結局赤壁の要塞は、黄蓋の火攻なぞどうでもいいようなナゾの天変地異によって、地殻ごと爆発・炎上。曹操軍は総崩れとなる。…結局、暗黒の策って何だったんだ…。
- 蒼天の赤壁は、賈詡に始まり賈詡に終わった。残されたのは、魏軍数万の遺棄死体と、烏林・赤壁の焼け跡と、作品の行方を見失ったガチ史系ファンと、「そもそも賈詡はいつからハゲてたんだろう」というどうでもいい疑問だけであった。
- 赤壁の一件後も、特に変わらず曹操の身辺で知謀を発揮し、特に西方平定では総参謀を務める。これは彼が涼・雍の地勢人脈に詳しいから――ではなく、単に「未知の戦場はワクワクするだろう!?」という曹操の子供じみた遊びの誘いのようなものであった。
- 馬超の想像以上の武勇に、一時ギリギリきわどいシーンもあったものの、戦況はおおむね賈詡の描いたとおりに進行し、賈詡が予告した通りの結末をたどった。
- 関中平定後、こんどは対劉備戦線でも軍師として活躍するが、蜀の新軍師・法正に序盤で先手先手を打たれ、そのフォローに追われているあいだに、漢中戦役が終了してしまい、彼にしてみれば不本意な戦であっただろう。
郭嘉(字:奉孝) かくか

- 生没:170(?)~207年(?) 本貫:豫州潁川郡陽県 官:司空府軍祭酒
- 誰が何と言おうと、この人が曹操の筆頭軍師である! と心の底から叫ぶ人も少なくない。演義でのイメージは半ば神がかった薄命の天才軍師であり、「嗚呼、奉孝さえ生きていれば」と歯ぎしりする魏派のうめき声が。
- なれどどうしてどうして、蒼天では見事に「その他大勢」と化し、かろうじて「ふんぞり返って偉そうに喚く」事でキャラを立ててました。このままひっそり死んじゃったらどうしようかと、本気で心配しました。
- 若い頃、ごく一部の識者から麒麟児と目されていたが、本人は知らぬ風でアウトローを決め込んでいたみたい。ぶらりと放浪し各地の豪傑や賢者たちと交流していたというから、なんか流離いの軍師徐庶を彷彿とさせる。ちなみに女好きの伊達男説も存在し、事実、その不品行を清流名士の陳羣に咎められている(蒼天では程昱)。
- 最初袁紹に仕えようとしたが、後に荀彧の推挙で曹操に鞍替えする。それにしても郭嘉の前任軍師である戯志才って、どんなヤツだったんでしょうねえ?
- 当代随一の謀臣として曹操に度々献策し、ことごとくを的中させる。通史として「三国志」を知っている我々からすればピンとこないかもしれないが、郭嘉の時勢眼はほとんど予言の域にあったと言ってよく、孫策が「匹夫の手に掛かる」ことまで予想している。
- 結局は郭嘉の予言したシナリオ通りに歴史は回転し、曹操は広大な河北を抑えることが叶う。それを見届けるように、郭嘉は38年という若すぎる生涯を閉じる。
- 諡して貞侯。子の郭亦(←蒼天で夫人が抱いていた赤ちゃんかな)が跡を継いだ。
- 曹操は郭嘉を次世代政権の導き手と目していたようで、ブレーン集団の中で最年少だった彼の死をことのほか嘆いた(ちなみにこの時点で荀彧45歳、荀攸51歳、曹操53歳、賈詡61歳、程昱67歳。)。
- 彼の死からわずか1年後、赤壁の戦に敗退した曹操は「郭嘉が生きておれば…」と悲嘆したことは有名。
蒼天郭嘉
- 蒼天では、袁紹に招かれたところから登場。さんざん袁紹を侮辱したあげく、殺されそうになるや「董卓の下に名を残しますぞ!」と逆に恐喝し、飄飄と去ってゆく……。とにかく印象的な瞳でした。
- 次に、荀彧の推挙という形で曹操の元へ出現。が、早々に要らんことを言って獄へブチ込まれる。
- 獄中の悪態ついでに曹操の天下取りを論じたてるなど、言いたいことを言えれば自分の身命などどうでもよいらしい。
- 正式に登用された後は、兗州奪還戦などで活躍。「(二万に)五百で勝つ軍師はおまえだ!」と曹操に指名される。
- しかしながらその後、荀攸や賈詡の登場により本来の凄味がなくなり、ついには「腰巾着」呼ばわりまで……。
- このままフェードアウトするのかと思いきや、曹操の北伐行に従軍するあたりから、異様なオーラを発するようになる。
- 他の軍師たちが、そろそろ国家の重鎮として戦場から遠ざかる中、ただひとり「純粋軍師」として戦場に在り続けた(この表現って、呂布の「純一戦士」と対極なのだろうか)。政治や党閥の動きなどにはいっさい目をくれず、ただひたすら戦場での知的活動に耽溺する……。晩年の郭嘉は、確かに呂布に似た「哀しさ」がありました。
- 彼にとって最後の戦闘となる烏丸討伐戦では、張遼とともに快速の騎馬軍団を率いて暴れ回り、その「目」で烏丸王頓を視認。王の用兵を完膚無きまでに撃ち破った。しかしながら、この頃すでに、彼の貌には明らかな死相が浮かんでいた(曹操が視線を逸らし「……しばらくこの地に居座るぞ」と呟いた場面で、はっとした人も多いハズ)。それでもなお、遼東公孫氏の帰順と袁兄弟の自滅を予測するなど、謀臣としての活動は休みを知らない。
- そればかりか、郭嘉は烏丸民族と張遼を無期限に貸してくれと曹操に頼んでいる。彼が政治を考えるとき、その思考は一臣下の域を軽く超越し、王の領域にまで達したのでしょう。「俺の臣下から王が誕生するのだ」と曹操ははしゃぐが、郭嘉の容態は日に日に悪くなってゆく。
- やがて立つこともできないほどに体力を失った郭嘉は、曹操や仲間たちの見守るなか、最後の吐血をし、息を引き取った。死のその瞬間まで、「純粋軍師」郭嘉は次なる南征に用いるべき秘計を案じていたらしい。