I know it ◆Ok1sMSayUQ
アムルリネウルカ・クーヤは、黙々と言葉も発さないまま歩き続けている。
その背中を追って歩いている自分もまた、黙ってついていっている。
柊勝平は幾度目かも分からないため息をついていた。
先程の緊迫し、一触即発だった状況から開放され心が緩んだからというのがひとつ。
クーヤについてゆくと明言はしたものの、今の自分を整理しきれていないからというのがひとつだった。
自分達は、既に死んでいる。
日向なる男の発した『死後の世界』とやらが、今になって確かな言葉となり、勝平の中に溶け、染み込んでいた。
『ここ』はある意味で、全てが終わってしまった場所である。
『ここ』は心の整理をつけ、思い残すことがなくなるよう好き勝手ができる場所である。
『ここ』に留まっているのは、未練を恨みとして残し、理不尽な人生を与えてきた神への報復を目論む連中である。
日向の言葉を要約するとそんなところだった。
どこにいるかも分からない神様を探し、復讐を行うためだけに日々を死に続けている。
馬鹿馬鹿しいと吐き捨てたくなるような日向達の主張だったが、理不尽と、報復という言葉が勝平の心に反響していた。
真実がどうあれ、日向という男も、野田という男も決して幸福とは言えない人生を送ってきたのだろう。
そうでなければ「何が分かる」と激情を撒き散らした野田の様子はありえなかったし、
野田の行いに眉ひとつ動かさなかった日向の尋常ならざる姿も頷けはする。
勝平もそんな人生を送ってきた。
全国区を目指せるほどの陸上選手でありながら、骨肉種という病に阻まれ、夢の全てを断ち切られてきた人生。
まだ惨めだったこれまでを見返すこともできないまま、終わってしまうだけだった人生。
勝平は色白な肌に生まれ、容姿も中性さを残しながら育った。
子供のころから、どちらかというと女に近かった容姿だったと覚えている。
だから、虐められた経験もないではなかった。
男女。そんな言葉を始めとして、スカートがお似合いだの、お人形遊びでもしていろ、などとからかわれるのは日常茶飯事だった。
同年代の女の子は同情の視線を寄越してくれたものだったが、そんな自分が気に入らなかった。
男なのに。男子からはからかわれ、女子からは同情の眼差しを送られている。
弱虫と見做され、誰からも下に見られている気がして、勝平は男女と揶揄される自身を嫌い、スポーツに没頭するようになった。
スポーツで男達をリードしていれば、バカにされることはない。子供心にそう考え、周囲をリードして回るようになった。
そうして、周囲を見返す日々が始まった。勝負事には常に勝つように務め、ケンカだってすることもあった。
誰かに負けてしまうことが、下に見られることが許せなかった。
一度敗北者になってしまえば、また惨めな気分になる。昔に戻るのは嫌だった。
しかし全ての競技に勝ち続けることができたのは小学生までだった。
中学校ともなれば様々な分野に、様々なアスリートがいた。
野球。テニス。バスケ。水泳。どれもこれもに勝てないことを知った。知ってしまった。
悔しかったが、それが一人の人間の限界だった。しかし同時に、一つの競技には一つの奥深さが潜んでいることも分かった。
その競技を本気でやっている人間にしか分からない喜びや達成感がある。
部活動に熱中している他人を見て、勝平はそれを感じ取っていた。
その他大勢の視線なんて関係ない、同じ種目で戦う好敵手との中だけにある理解や共感があることを。
見下しも見下されもしない、喜びのための勝利を追い求めることに、勝平は惹かれた。
この世界の中にいれば、惨めな自分を感じずに済むのではないかという希望があった。
性別や見た目で物事を判断しない、容姿にコンプレックスを抱かなくともいい人生を始められるのではないかという予感があった。
予感に従って、勝平は陸上という道を選ぶことに決めた。
理由は簡単なもので、走るのが一番得意だったからという理由に過ぎない。
それでも、勝平の感じた通り、アスリートの中の世界は自分を『陸上選手の柊勝平』と認めてくれる人がたくさんいた。
誰よりも早ければ尊敬もされる。感情を共有し、仲間と練習に明け暮れるのも悪くはないと思った。
自分は、自分でいられる。そのことが何よりも嬉しかった。
男女であった、惨めな自分なんて感じなくても良かった。
もう見下すだけの人生を送る必要もなかった。見返すためだけの努力をすることもしなくてよかった。
走り続けてさえいれば、自分は惨めな何者かではなかった。
だが、理不尽にも、神様とやらが勝平の全てを奪っていった。
病気。それも性質の悪い病気で、勝平は陸上選手としての生命を絶たれた。走れなくなったのだ。
冗談かと思ったものだった。新しく始まった人生を、ようやく楽しいと思い始めた人生を、唐突に奪われたのだ。
なぜ。どうして。病室で思ったのはそんなことで、次第に、昔感じていた悔しさが湧き上がってくるのを感じた。
陸上をやっていたときに感じる悔しさではなく、再び惨めな人生に落ちてしまったことへの、憎悪とも呼ぶべき感情だ。
おまけに、自分の余命は残り少ないらしかった。救いといえば救いではあった。
周囲に哀れまれる人生は送らずに済むらしいのだから。
とはいえ、それで陸上を失った勝平の心が満たされるものではなかった。壊れた人生の器を直せるものなどどこにもない。
僅かに残った部分に、絶望という名前の液体が注がれているだけの状態に過ぎなかった。
残った人生を、馬鹿にされ続けるだけの人生をどう使うかくらいしか、勝平に考えられることはなかった。
勝平は病院を抜け出した。哀れむ視線を送られるだけなら、いっそ自由になってしまえばいい。
誰の目もなくていい。かわいそうだと言われ、見下される余生だけは送りたくなかった。
そして、今はここにいる。
死んでしまったのかは分からないし、生きているのかどうかも分からない。
勝平は動かし続けている足を見た。
痛みもなければ、これといった異常も感じられない。むしろこのまま、どこにだって走り出せそうなくらい調子は良さそうだった。
好き勝手ができる場所。日向の言葉をもう一度思い出した頭が、魅力的じゃないかと言っていた。
そう。日向の言葉を聞いた瞬間、ここならまた、昔の自分に戻れるんじゃないかと思ってしまっていたのだ。
陸上をやっていたころの、誰もが自分を認めていてくれていたころの自分に。
柊勝平という男を男として認識してくれた、あの時代に。
抱きかけた妄想を、しかし「くだらない」と一蹴してくれた少女がいた。
それは目の前を歩き続ける、クーヤだ。
困惑し、澱み、都合のいい夢物語に身を浸そうとした自分ごと、狂っていると言い捨てた。
正論ではあった。反論しようもないことではあったのは、確かだ。
けれども正しいことがいつでもまかり通り、説き伏せることができるわけではない。
正しいなと思い、夢から醒めた気分になった一方で、じゃあ正しさが何になるんだという反発心も生まれていた。
それが自分を救ってくれるのか。惨めでなくしてくれるのか。
生まれた瞬間から見下され、馬鹿にされることを強いられてきた自分とは違い、クーヤは生まれも育ちも高貴な貴族の出だ。
何不自由なく育ち、苦労さえしてこなかったであろう彼女に、一体何が分かるのか。
分かるもんかと反論しようとした矢先、「何が分かるんだよ!」と先に言ったのは野田だった。
ある意味で勝平自身の代弁。同じく理不尽という泥を啜ってきた人間の怒りを、しかしクーヤは風と受け流す。
分かりたくもない。まだ生きている自分には分かってたまるかと。
言葉だけ見れば、それは世間知らずのお姫様の言葉でしかなかった。
だが勝平には――いや、彼女を少しでも知悉している者なら、間違いなく分かるであろう、別の意図が見えていた。
死んでいることを否定したわけではない。別種の生き物だと見る目でもない。
思考の停止を、考えることさえやめてしまうのを心底嫌った言葉だった。
一度でも泥に身を浸していなければ分からない、苦渋を味わった人間の叫びだった。
無理だと思うから、無理になってみせる。クーヤはあの時と同じ目をしていた。
今度こそ、勝平は本当に夢から醒めた気分になった。冷たい水を容赦なく浴びせられたような感覚。
分かっていないのは、自分の方だったのではないか。
クーヤという少女のことを、自分は何も知らない。
どんな生まれで、どんな育ち方をしてきたのか、自分は何も知らない。
それなのにクーヤという人を否定できる権利を……どうして持ち合わせていると言えるのだろう。
何も知らないことだらけじゃないか。
当たり前だ。知ってもいない、知られてもいない人間が理解できるわけがない。
理解してくれるはずもない。自分達はまだ努力さえしていない。
勝平は忘れていたことを思い出した。
惨めなことから逃れようとしたとき。嫌なことを追い払うためにいつも真っ先にやってきたことは、努力じゃないか、と。
だから勝平は去りゆくクーヤの背を追っていた。陸上を始め、まだ早かった先輩選手の後を追うように。
勘違いであったとしても、ボクは知りたい。
あの子の送ってきた人生がどんなものであったのかを、知ってみたい。
ボクは、ボク達のような人間は、本当に惨めでしかないのかを、確かめてみたいから……!
そう決意し、一通りの会話を交わしてはみたものの、まだクーヤの背中は遠くに感じていた。
知ってみたいとは考えたものの、どんな風にして聞き出せばいいのか分からないし、
自分のことを話したとしても今は同情しか返ってこないように感じていた。
目的は定まっているのに、その過程が見えてこないもどかしさ。
ゴールは分かっているのに、どのコースを走ればいいのかも分からない歯がゆさといったところだ。
今の自分を整理しきれていないとは、伝える術を持っていないということだった。
案外人間は自らを言葉にできないものだと毒にも薬にもならない教訓を覚えながら、勝平はクーヤの背中を目で追う。
せめて人間観察でもしてみようかと思ったのだった。
今まで気にもしていなかったが、クーヤの背筋はいつでもぴしっと伸びており、
歩き方はモデルを想起させるような、軸のぶれない歩き方だ。教え込まれたのだと分かる。
陸上のフォームにしろ、美しい立ち振る舞いは自然体では不可能だ。
常に意識して、体に染み込ませていなければ出来ようはずがない。
それだけでも、クーヤが形だけでしかない貴族出の人間ではないことは見て取れる。
作法や格式を学び、実践してきた本物の良家の人間なのだろう。
衣装にしてもそうだ。所々に飾られた金箔入りの白コートはどこか軍人然としていて、
彼女の言う『戦国時代』を象徴しているかのようにも感じられる。
だから服装と立ち振る舞いとが相まって、体だけを見れば威風堂々とした大将であるのだが、
肝心の顔つきはどこにでもいるような可愛らしい少女のものであるので、いささか威厳に欠ける。
背伸びしているだけとも感じられなくもない。しかも言葉遣いはやたらと尊大であるのに喜怒哀楽はコロコロ変わるものだから、
尚更子供の背伸びという感覚を強く受けてしまうのだ。
もっとも、クーヤの年齢さえ知らない勝平は本当に年下なのかも分からなかったが……
(それにしても全然喋らないし、なんかピリピリしてるな……仕方のないことなのかな)
喋っていたときこそ冷静沈着で、水を打つような声だったクーヤだが、内心穏やかではないのかもしれない。
ここには百二十人もの人間がいる。野田のように考える人間はまだいて、殺し合いを続けているのかもしれない。
現実さえ分かっていない人間。現実を見ようともしない人間に、彼女の心は苛立っているのだろうか。
声をかけるべきだろうかと思い、勝平はかけるべき言葉を探し始めようとした、その時だった。
ぐーっ。
いや、正確にはきゅううう、というような音だったかもしれない。
とにもかくにも、それは可愛らしい音だった。
そして音源は、勝平の目の前の……
「腹が減ったとは思わんか」
くるり、と。
唐突にクーヤが振り向いて言っていた。
「そうか。そうであろう。やはり腹が減っては戦は出来ぬというからな。
だがここで無闇に手持ちの兵糧を浪費してはならん。戦場においても兵站の確保や十分な食料の輸送は重要であるからして……」
「クーヤちゃん、お腹空いたの?」
ピキッ、と。
もっともらしいことを並べ立てていたクーヤの表情が固まる。
「余は問題はない。なに戦場では悪天候で数日、いやひどい時には数ヶ月も輸送が滞ることもある。多少の絶食など余は慣れて」
ぐーーーーーっ。
再び場が凍りつく。
特にクーヤの顔は瞬間冷凍保存されていた。
得意げな顔が眩しい。
「……」
「……」
ああ、と勝平は納得していた。
「もしかして、さっきまで黙ってたのってお腹が空いてたのを我慢」
「やかましい!」
勝平の顔にデイパックが投げつけられた。
へぶっ、と情けない声を上げて顔面でデイパックを受け止めたため、勝平の推理は遮断された。
つまりは当たっていたということだった。
デイパックを引き剥がすと、クーヤはひどく赤面していた。
キッ、と悔しそうに勝平の目を睨んでいる。
あーかわいいなーなんて感想が口から零れそうになったが、
言ってしまうともっとクーヤが怒り出す気がしたのでギリギリのところで理性が歯止めを利かせた。
代わりに、もっともらしい言葉で応じる。
「い、いや、別にお腹が空くのは人間として当たり前だしさ、別に恥でもなんでもないよ」
「う……そ、それは、そうなのだが」
「旅の恥は掻き捨てって言うし、気にしなくっていいよ。ボクは気にしない」
さっきと言っていることが矛盾しているような気がした勝平だったが、「そ、そうか?」とクーヤは納得しかけているので、
このまま話を通すことにした。
「いやボクもさ、実はお腹が空いてたんだよね。うんそうだ、どこかで取り合えず食欲を満たそう。
色々さ、考えなくっちゃいけないこともあるけど……でも、こういうことも大事だって思うんだよね」
後半は、半ば自分に言っているような気がしていた。
そうだ。いきなり大切なことを知るのは、双方にとって重いだけだ。
だったら少しずつ知っていけばいい。今であれば、好きな食べ物は何なのか。
どんな食生活だったのか。それ以外にも食事の中で訊けることはいくらだってある。
「この先に街もあるし、そこでなんか食べよう。ボクさ、実は色々なところを放浪してて美味しいものとかも知ってるんだ。
任せてよ。えーっと……おぅるお? だっけ? の期待は裏切らないからさ」
「……ふむ。任せて、いいのだな?」
話を進める間に、クーヤはいつもの微笑を取り戻していた。
照れたり怒ったりする顔も可愛いが、ささやかな花のような笑顔もいい。
そんなことを考えている自分は女好きの素質があるのかもしれないと冗談のように思いながら、
勝平は「ご命令を」と恭しく頭を下げた。
「では、アムルリネウルカ・クーヤが命じる。そなたに兵糧調達を任せよう。よしなに」
どこか穏やかな響き。少しは信頼されているのかもしれない、と勝平は思った。
そして……任せる、という言葉が期待されているようで、嬉しかった。
はっ、と、割と本気の殊勝な返礼をして、勝平は街路の先にある町を見据えたのだった。
【時間:1日目午後5時00分ごろ】
【場所:G-4】
クーヤ
【持ち物:ハクオロの鉄扇、水・食料一日分】
【状況:軽傷】
最終更新:2011年09月09日 00:35