負け犬の遠吠え ◆Ok1sMSayUQ
「……またかよ」
それを見つけてからたっぷり数秒が経過し、搾り出すようにして吐き出された一言も、虚空に紛れて消えてゆく。
木々の隙間から差し込む陽光は既に赤光と化し、緑がかっていた森は赤茶けた色へと変じていた。
じきにその色もなくなり、やがて夜には墨を溶かした色が支配する漆黒の森へと変貌するのだろう。
自然が織り成す闇。動物達の身を隠し、守る闇だが、それはここに転がっている死体の存在も闇に紛れさせてしまう。
まるで最初から、なかったことにされたかのように。
藤巻と、《死んだ世界戦線》ではそう呼ばれていた男が、ギリと拳を握る。
目の前の少女は、既に息絶えていた。
死因は一目瞭然で、胸を鋭利な刃物で一突きにされた結果、心臓を破壊され即死したのだろうと考えられる。
恐らくは、理解する暇もなかったのだろう。
強張ってもおらず、静かに閉じられた瞳と緩く閉じられた口元を見るだけならば、彼女は眠っているのではないかとさえ思える。
さらさらと涼しげに揺れる短いツーテールも、胸元以外が綺麗で汚れなど見えない衣服も、
まだ彼女が生きていると錯覚させるには十分過ぎた。
けれども、触れてみれば分かる。氷のように冷たく、固くブヨブヨとしたゴムの手触りは、人間の肌のものではなかった。
いや正確には、生きている、人間の肌ではなかったのだ。
生命維持が行えなくなった結果、体の機能の全てが停滞し、機能という機能を失ってモノと成り果てた人間の末期――
《死んだ世界戦線》にいたときには感じえることさえなかった、人間の生々しい死体の姿だった。
「なんでだよっ!」
拳を振り上げ、しかし振り下ろす場所を見つけられずに、藤巻はやり場なく絶叫を吹き散らすだけだった。
この少女は仲間でも、まして知り合いだったわけでもない。
それでも、死んでいる、という事実に腹を立てずにはいられなかった。
恐らくは自分よりも年下でしかないであろう少女の死体を目の当たりにして、
身体の奥底から湧き上がってくる怒りを抑えきることなど到底不可能だったのだ。
否応なく、藤巻に先刻の光景を……自身の目の前で生命を空に散らせた幼い少女の姿を思い出してしまうからだった。
もしあの時、離れてさえいなければ。或いは、一緒に連れて行ってあげていたら。
取り返しがつくはずもないのに、時間は巻き戻せるはずがないのに、考えてしまうのだ。
昔のことなんて、金輪際忘れようと決めていたのに。
後悔が決意の蓋をこじ開け、その中身を無理矢理に引っ張り出してくる。
思い出したくもない昔。封印したはずの昔が、きらりと光って自分を突き刺してくる……
うつむけていた顔を上げ、思い出すなと自らに念じようとしたときだった。ふと空気が揺れたのを、肌が感じ取っていた。
は、と一切の意識を消し去り、藤巻は身体が動かすがままに横に飛び転がっていた。
直後、空を切る音がそれまで背中があった部分を通過していた。
独特のヒヤリとした感覚。風に紛れて乗ってくる、人の脂の匂い――!
「てめぇかっ!」
転がった勢いを殺さず、立ち上がった藤巻は襲撃者の方向へと振り向いた。
眼前で刀を、それも曲がりくねった刀身が特徴の刀を振り向いていたのは、初老の男だった。
顔中に刻まれた皺、白髪と蓄えられた髭は相応の年月を経たものには違いなかったが、
身体全体を見れば老人という印象はあっという間に吹き飛んだ。
血管を浮き立たせながらも、指の一本一本が丸太のように太く、そこから延びる腕はまさに大木と表現するのが相応しい。
筋肉の塊とも言えるが、余分なものは一切なく、実戦を経て鍛え上げられた本物の肉体だということが直感できる。
戦という戦を戦い抜き、己を極限にまで昇華せしめた、武そのものを表現するかのような肉体だった。
右目につけている眼帯は、恐らくは戦いの中で受けた傷なのだろう。それさえも強さの証拠に思えた。
「ほう、よく避けた」
髭が動き、しわがれていながらも生気の一切を失っていない声が発され、刀が下げられる。
細められた目はただの小僧ではないと認めているようにも見えたが、受け止めるつもりは毛頭なかった。
「てめぇが、やったのかよ」
無言のまま、老人は答えようとはしない。
それこそが返事であるかのような態度である一方、はぐらかすような態度にも思え、
中途半端さを感じ取った藤巻は、いつもは心の奥底に閉じ込めていた怒りを以って応じていた。
「てめぇが殺したのかよ! あのガキを!」
ねめつけ、一喝しても老人は微動だにしなかった。
相変わらずの無言。言い訳こそしないが、どのように受け取られようが構わないという、大人特有の狡さが滲み出ていた。
またぞろ腹の底が冷えてゆくのを感じていた藤巻は、自身が空手であることも忘れ、老人を睨みつけながら近寄る。
名前も知らぬ年下の少女の死。菜々子という幼い少女の死。おめおめと生きている自分。身勝手でしかない大人。
それらが渾然一体となり、煮え滾る熱を沸騰させ、絶叫という水蒸気となって発した。
「アンタがプロだってのは分かるさ。上等じゃねぇ人生を送ってきたんだってのも分かる。
俺みたいな小僧なんかにゃ分からねえ重みってのもあるんだろうよ。けどよ、それがどうした?
その重みってやつでガキ殺していい理屈なんてあんのかよ! 大人の癖にガキ殺してんじゃねぇよ!」
一気に懐まで飛び込んだ藤巻は、拳にありったけの力を込めて老人の横面を殴り飛ばす。
全力を以って殴り倒すつもりだったその一撃は、しかし頬にめり込みはしたものの、
身体どころか表情ひとつ動かさせることもなかった。直立不動の姿勢のまま、老人は拳を軽く受け止めていたのだ。
「……んだよ……!」
拳を引き、再度深く溜めてから同じ箇所にもう一撃。
それも老人にとっては肌を撫でる風でしかない。眉一つ動かさず藤巻の拳を受け止めていた。
反撃もせず、無抵抗のまま殴られ続けているにも関わらず傷の一切も与えられない。
それどころか殴った藤巻の手の甲が赤く腫れ上がる始末で、実力どうこうではない絶対的な差を思い知らされるだけだった。
これが大人と子供か。現実を認められず喚き散らす自分と、現実に従える大人との差だということか。
そうなのだろう、と藤巻は心のどこかで納得を覚えていた。
対処が出来ていないのも事実なら、守れる手の内にありながら守ることもできなかった力のなさも事実。
おかしいと思いながらもその実いつもの日常にどこかで縋り、甘えていようとした己はどこまでいっても力のないガキなのだろう。
けれども、だからといって自分達の為してきたこと全てが間違っているのか?
大人のすることは全て正しくて、自分達子供のすることは全てが間違っているのか?
少々反抗的だからといって蔑み、勝手を押し付けてきた大人の、どこに正しさがあるというのだ?
「認められるか……俺は認めねぇぞ、そんなの」
殴り過ぎて痺れかかっている拳に再度力を通し、ぐっと握り締めて藤巻は老人を睨んだ。
「何もかもを分かったフリしやがって、自分達だけで事を進めやがって……てめえらの匙加減でしか人を見ようとしねえ」
老人の姿に、昔、生きていた頃に虐待を続けてきた親の姿が重なる。
気に入らなければ事あるごとに殴り、叩き、泣こうものなら冬だろうが構わず外に放り出す残酷な親の姿だ。
無論想像がつかなかったわけではない。成績は芳しくもなければこれといって秀でている部分もない。
特徴はといえば目つきの悪さくらいしか上がらない一人息子に、エリートで優秀だった父母はさぞ落胆したのだろう。
だから修正しようとした。これは間違っている。本当の姿ではない。
このうだつの上がらない息子を私達が再教育してやるのだ、と。
そこには大人の都合しかなかった。自らを正しいと妄信する大人の身勝手しかなかった。
誰も助けてはくれなかった。核家族で、とりたてて周囲とも交流していなかった藤巻家に介入しようとする輩はいなかった。
寂しく、辛く、惨めなだけの毎日だった。
他の幸せな家族が羨ましかった。
青春を送っている他人が羨ましかった。
けれどもその幸せを、誰もが分けてくれない。
こんな人生に、誰がした?
決まっている。
神様とやらだ。
藤巻が《死んだ世界戦線》に入隊した理由が、それだった。
大人への復讐。こんな惨めな人生を送らされる羽目になった神への復讐。
絶対者を気取ろうとする『神』の存在は、かつて自分を虐待していた大人の具現だった。
「俺達にだって考えてることくらいあんだよ。俺達だって人間なんだよ……分かるか?」
――そう、だから菜々子にこんなに肩入れしていたのかもしれない。
どこにでもありそうな、仲の良い兄と妹という関係。
些細な幸せを与え合う、人として当たり前の行為が出来る関係。
不出来で、とりえのない自分にだってそれなりのことは出来るのだと、
神に知らしめてやりたかったのかもしれない。
愚図な子供だって、決して無力なんかではないことを……
「ガキってのはな……アンタら大人が考えた『正しいこと』とやらを押し付けられんのがな、一番大ッ嫌いなんだよ!」
骨が折れ、肉が弾け飛ぼうが構わない勢いで藤巻は殴ろうとしたが、その一撃だけは、届くことはなかった。
老人の振り上げた腕が、藤巻の拳を遮り受け止めていたのだった。
頬の感触よりも更に固い、岩のような筋肉の感触。
じんとした痛みが走り、顔を歪めた藤巻だったが、引き下がるわけにはいかなかった。
引いてしまえばそれは敗北でしかない。大人が結局正しいのだという口実を与えるだけでしかない。
故に戦う。何度だって戦う。たとえ子供の論理でしかなくても、大人なんかに――
「……大人が、皆そうだと思うな、小僧」
腹の底から発されたのだと思える、重くしわがれた声が藤巻の思考をなくさせた。
目にも留まらぬ速さで腕を取るや否や、有無を言わさぬ万力を以って身体が宙に持ち上げられる。
片腕での一本背負い投げだ、と認識した瞬間には、既に身体が地面へと叩きつけられていた。
臓腑が圧迫され、肉体の全てが命令を遮断した。ビクビクと痙攣するばかりの藤巻を見下ろし、老人が睨んでいた。
「殺すなら殺せよ……ちくしょう」
「そんなに大人が嫌いか」
「当たり前だ……! いつもいつも、勝手に……!」
戦線に入隊してから、それだけはすまいとしていた涙が、溢れてくる。
この期に及んで口答えしかできない自分の無力さが、菜々子に対する申し訳のなさが涙となったのだった。
「みっともないだろ、めそめそするガキなんて……」
「いや」
短く告げ、老人のごつごつとした手が差し出される。
その行為の意味が分からず、しかし嗚咽でロクに言い返せないまま、呆然と藤巻は見つめた。
「泣きもしない奴は、某も好かん」
「へ……それがしなんて、サムライかよ」
「立つなら立て。……大人とて、それほど一辺倒ではない」
「んだよ……殺さねぇなら、俺が殺すぞ」
「やれるものなら、いつでもやってみろ」
ニヤと意地悪く笑んだ顔に、藤巻は目を潰してみるかという気勢を削がれていた。
何を考えているのか。大人の考えることを信用するなといつもの自分が言っていたが、
だからといってここで引き下がるのもそれはそれで負けだと反論する自分もいて、
藤巻はとりあえず後者に従うことにした。
大人が、皆そうだと思うな。
あの時の声が脳裏に残り、異様な印象を植え付けていたのだった。
自らの使命を捨て切れないながらも、そこだけは自分の意志を貫き通したといった、
大人でありながら大人であることにどこかで苦悩している人間の声。
ただ感じただけに過ぎなかったが、あの声色はただならぬものであったのも確かではあった。
「……ついてくだけだからな」
「ついてきてみろ、小僧」
む、と少し感情を刺激された藤巻は乱暴に老人の手を取り、勢い良く跳ね起きた。
「はっは、威勢がいい」
「るせぇ、小僧じゃねぇ、藤巻っつーんだよ!」
「フジマキ……少々冴えぬ名だな」
「クソジジイ……」
「がなるな。ゲンジマルと申す。呼びたい名で呼んでも構わんがな」
ジジイと呼ばれるのも想定の内、という言葉にまたもや気勢を削がれた藤巻は内心で毒づくしかできなかった。
殺してみろと言ってのけ、その上で自らの目的を遂行し続けようとするのだから完敗という他ない。
恐らくは殺しは止めないだろうし、反抗されることも承知で自分を生かしている。
何故、何のために、何の目的があってこの大人が自分を生かしたのかは皆目分からない。
分からない、が……この男から逃げたくないという気持ちは、確かだった。
【時間:1日目午後5時30分ごろ】
【場所:E-7】
藤巻
【持ち物:
防弾性割烹着頭巾付き、手鏡、水・食料一日分】
【状況:健康。このジジイの正体を見極めてやる】
ゲンジマル
【持ち物:ショーテル、水・食料一日分、立川郁美の支給品(まだ未確認)】
【状況:健康】
最終更新:2011年09月09日 02:27